『鄧小平』 矢吹晋

僕が読んだのは現代新書版。文庫で再販されていたよう

トウ小平 (講談社学術文庫)トウ小平 (講談社学術文庫)
(2003/08)
矢吹 晋

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改革開放路線を決定づけた鄧小平とはいかなる人物か。三度の失脚を乗り越えた大政治家の人生と業績を追う
鄧小平四川省広安県出身で、小さいながらも客家系の地主階級の生まれ。明代から進士を代々だす名家の傍流で、父は地元軍閥の要人だった
五四運動に触発されてフランスに留学し、工場労働を経験しながら共産党に入る。フランスの中国共産党は当時は本土より人数が多く、周恩来ら多くの幹部が新中国の中枢に担った
帰国後、共産党員として活躍しはじめ、国共内戦の際には長江渡河作戦を成功させ、共産党の中国統一を決定づけている。事務能力に優れるだけでなく、将軍としても比類ない功績をあげた
その後、大躍進までは毛沢東に忠実な幹部として働くが、失政を目の当たりにした鄧小平は劉少奇に近づき失脚することになる
それでも実務能力、調整力の高さは明らかで、毛沢東としても火消し役として再登板させざる得なかった
本書は中越戦争に触れないなどやや鄧小平よりの立場ながら、その人となりと闘争の歴史を伝える

天安門事件のインパクトから、毛沢東ほどではないにしても皇帝ばりの独裁者と見られがちだ
しかし、本書で見る鄧小平は最盛期でも相対的な王者に留まっていて、改革開放を進める上で揚げ足を狙う保守派と必死の暗闘を続けていた
毛沢東の後継者である華国鋒を退け、改革派の胡耀邦と趙紫陽を擁して改革路線を突き進んだものの、東欧の革命に影響された学生がデモを起こし胡耀邦を斬らざるえなくなる
1985年に当時の日本首相、中曽根康弘が靖国参拝をとりやめたのは胡耀邦の地位を守るためだったというが、皮肉にも親日家であったことが指弾の対象にあがった
1989年に胡耀邦が急死すると、その追悼をきっかけに民主化デモがいっそう過激化する
著者のみるところ天安門事件の原因は、学生のデモを鄧小平が「動乱」と認識したことで、報道してしまったためにより学生を煽ることになった。このボタンの掛け違いが大きい
当時、ゴルバチョフが訪中し中ソ対立以来の関係正常化がはかられていて、天安門にも他国のマスコミがカメラを回していた
結果、天安門事件は大々的に報じられ国際的なバッシングに発展したが、著者は報道管制こみでも事件を過大視してもいけないという

この一件から改革派の趙紫陽も失脚し、鄧小平は保守派の受けのいい江沢民を後継者として抜擢することとなる
天安門事件の指導部に与えた衝撃は大きく、文革の反省から分権化、党内民主化を進めていた体制をトップに各方面の権限を集める形に変えざるえなかった
もっとも鄧小平自身は「白猫黒猫論」の実用重視の人間で、「貧困は社会主義ではない」とし、天安門事件前は一党独裁が中国向きと前置きしつつも「四半世紀後に普通選挙を実行できる」とも話していた
中国の民主主義と西洋とは違うという逃げは打てるものの、華国鋒から権力を奪うさいに党内の「民主化」をスローガンに使ったこともあり、体制を固定的なものとして見ないリアリストなのだ
著者は一党独裁がおのずと解消されるという楽観的な見通しをもっていて(1993年時点)、鄧小平の政策を社会主義の安楽死させるものと見る。現状をみれば、鄧小平が共産党政権を開発独裁化したことは間違いないだろう
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