『谷干城』 小林和幸

ようやく体が秋に慣れてきた

谷干城―憂国の明治人 (中公新書)谷干城―憂国の明治人 (中公新書)
(2011/03)
小林 和幸

商品詳細を見る


西南戦争で熊本城を死守した将軍として有名な谷干城。議会が開かれた後、彼は貴族院議員として活動していた。戦後は「国粋主義者の親玉」と誤解された干城の実像に迫る
本書は幕末の志士時代、維新の軍人時代から触れているものの、後半の貴族院議員としての政治活動に重きが置かれている
前半の彼は「台湾出兵」にも同行した素朴な尊王攘夷思想の持ち主だったが、、洋行を経験してからは率先して議会政治家へ転身していく
彼にとって「勤王」と「議会政治」は両立できるものだった
「天皇制」を保っていくには、「世論を反映した政治」が必要であり、そのための機構が「議会」となる。天皇が内閣の輔弼を受けながら、その議決を承認することで政事を行なう
いわば、現代の日本までに連なる議会政治の根幹を築いた一人がこの谷干城だったのだ

干城は近代国家を支える“皇室の藩弊”として「華族」の育成に力を入れ(学習院院長にも就任)、未成熟で政争に傾倒しがちな民選の衆議院ではなく、貴族院から行政の歪みを正そうとした
目を惹くのは、「国防」としての軍艦建造にこだわる反面、日清・日露戦争などの外征に反対し続けたことだ
日本のような限られた国力の国が大国と戈を合わせるなど、正気の沙汰ではなく「名分」の欠いた戦争であるとし、貿易を通じた「殖産興業」で民力を養うことを主張した
もっとも世界はそこまで単純ではなく、日清戦争の賠償金で金本位制に参加し、日露戦争の戦果が不平等条約が解消したのであり、戦争と富国が両立してしまう時代であってしまった
しかし、一躍列強を押し上げた二度の外征という特効薬が、その後の日本を歪めたという事実がある
日露戦争後の軍拡に対する談話では

日本人は一般に馬鹿に見える、又狂気じみて居るようである。そうも我輩にはそう見えるが、世間では、また谷は頑固で、馬鹿であるなどと云ってるかも知れぬ。しかし何方が馬鹿であるか、狂気じみて居るかは、将来に於ける事実の審判を受けねば知れぬが、一度は必ずわかる時節が来るに相違いないから、刮目して見て居るがよいさ。(雑誌『太陽』からの孫引き。p220)

おっ、重すぎる・・・

さて、保守中道の良識派である谷干城が、なぜ戦後では「国粋主義の親玉」と誤解されるようになったのだろう
本書では今ひとつ触れられていないのだが、一つには戦前に国粋主義者に持ち上げられたこと。二つ目には、戦後の学会にマルキシズムの影響が強く、「天皇制」護持にこだわる干城に偏見があったことだろうか
また、朝鮮で親日政権が崩れ、国王夫婦がロシア側になびいた際、谷干城は穏便に関係を修復すべく、親友の三浦梧楼を朝鮮公使に推薦したことがある。しかし、三浦はこともあろうに閔妃を殺害し大院君を担ぎ出すクーデータを起こしてしまった(日本は国際的な非難を浴び、朝鮮外交から大きく後退した)
この三浦推薦が干城一生の不覚で、この一件から国粋主義者から賛美、戦後左翼から非難を浴びることになったと思われる
谷干城も伊藤博文も大陸進出の反対派なんですがねえ
なぜか「保守」といっても、ヨーロッパ譲りの思想であってしまう今の日本なのだが、干城の保守を引き継ぐ政治家が現れて欲しいものである
(この一行は、各記事の最後に固定表示するサンプルです。テンプレートを編集して削除もしくは非表示にしてください。)

コメント

コメントの投稿

非公開コメント


(この一行は、各ページ下部に固定表示するサンプルです。テンプレートを編集して削除もしくは非表示にしてください。)
カレンダー
09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -
カテゴリ
SF (25)
RSSリンクの表示
リンク
FC2 Blog Ranking
ランキング
アクセスアップ!?
検索フォーム
はてな
この日記のはてなブックマーク数
タグランキング

サイドバー背後固定表示サンプル

サイドバーの背後(下部)に固定表示して、スペースを有効活用できます。(ie6は非対応で固定されません。)

広告を固定表示させる場合、それぞれの規約に抵触しないようご注意ください。

テンプレートを編集すれば、この文章を消去できます。