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『洪思翊中将の処刑』 上巻 山本七平

知られざる大韓帝国の軍人から来る日本人論




洪思翊中将は、日本統治下の朝鮮出身者として、2人しかいない将官の一人(もう一人は大韓帝国の最後の皇太子、李垠中将)で、太平洋戦争後に戦犯の訴追を受けて処刑された人物
著者の山本七平は、戦争中に徴兵され、砲兵見習い士官としてルソン島の戦闘に参加していた
洪思翊中将も、満州時代の上司だった山本奉文大将に請われて、1944年南方総軍の兵站監に就任して、フィリピンに渡っており、著者にとっても無視できない存在だった
終戦近い南方総軍の兵站監は、ほぼ山下将軍の第14方面軍を支援する職務となっていたが、フィリピンの捕虜収容所の所長も兼ねていたことから、その責任をマニラ軍事法廷で問われることとなったのだ
上巻では、洪思翊中将の生い立ちと、軍事法廷の前半が取り上げられる


大韓帝国の忠臣

洪思翊大韓帝国時代韓国の陸軍武官学校に入学、明治42年皇帝・純宗の命により、日本の中央幼年学校に国費留学した
幼年学校を首席で卒業後、陸軍士官学校へ進むが、翌明治43年に韓国併合が行われる。衝撃を受けた留学生のなかには、抗日運動に身を投じる者が多くいたが、純宗の命に殉じて(朝鮮王族の支えるためにも)、将来の独立のために軍人としての研鑽に励むこととなる
息子の洪国善に対して、日本における朝鮮人の立場を、「イギリスにおけるアイルランド人のようなもの」と説明していた
本書では、日本の士官学校に残った朝鮮出身者のサークルについても触れられ、洪思翊はそのリーダー格として位置し、独立運動とは表向き一線を引きつつも、脱走兵の逃亡を助ける、活動家の家族を支援する、など、抗日活動との関係を保っていたという


覚悟のフィリピン赴任

1944年、もはや戦況の好転は臨むべくもなく、南方への赴任は生きて帰れぬ覚悟がいるものだった
当時、フィリピンや東南アジアへ、兵站関係、収容所関係の軍属募集が行われ、好条件が謳われたことから、多くの朝鮮人が現地に渡った
しかし戦況の悪化から、条件を反故にされたことから、インドネシアのスマランで暴動が起こった
これを重く見た陸軍は朝鮮出身の将官で、名望高い洪思翊中将を派遣して、人心掌握を図ろうとしたのだが、中将も同朋の苦境を救うべく引き受けたという


責任体系の違い

さて、後半は軍事裁判が始まるのだが、そこでは南方総軍の兵站監と捕虜収容所との関係が問題視される
そこで明るみになるのは、日本と欧米の「法文化」「責任と権利の関係」の違い
欧米ならば、トップダウンで上から下へ命令が通り、責任と権利が密着して機能するが、日本の場合は現場の判断や慣習が重んじられる
軍の法規集で書かれていることと、現場の運用が違うことは多々あり、そもそも法規集を頭に入れて判断することは少ない
組織図もリーダーがスタッフ(参謀、補佐役)の進言に基づいて行動し、現場の隊長(やその参謀)に広汎な裁量を認める

実際の裁判では、捕虜収容所の司令官にあたる洪思翊中将が、捕虜が派遣された部隊での強制労働や、米軍の攻撃で沈んだ輸送船で米軍捕虜が死んだ責任が問われた
日本軍は原則として、ある小隊が違う中隊へ派遣された場合、作戦関係については現地の中隊に従い、人事や環境については原隊の中隊長が権限を持つ
これは捕虜に関してもあてはまり、捕虜がどういう労働をするか、ジュネーブ条約に違反するか(日本は未加盟だが)は、現地の判断に任せられる

こうした事例は、欧米からは、非常に不透明な責任体系、「無責任体制」に映る
著者によれば、これは日本の社会に根ざした法文化であり、どちらが上でも下でもないが、下巻ではその隙を突かれて、戦犯としての処刑に向かうようだ
その一方で、この勝者が敗者を裁く法廷においてですら、弁護人が献身的に行動しており、裁判を成立させた上で裁かねば意味がないという、欧米の法文化の重厚さも感じさせられた


次巻 『洪思翊中将の処刑』 下巻

著者の戦争体験


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