寛政11年(1799年)、ロシアの南下を知った幕府は、松前藩から蝦夷地を上知し、直轄領とした。蝦夷地に派遣された幕臣・近藤重蔵に、嘉兵衛は千島列島の択捉島への航路開拓を求められる。普通の船での航海できねばならず、千石船ではなく百石級の図合舟で荒海に挑む。見事に択捉へとたどり着き、その漁場を開拓した嘉兵衛は、定御雇船頭に命じられ、幕政への関係を深めてしまうのだった
嘉兵衛の航海は続く。東蝦夷の果て、ついに千島列島にも及んだ
箱館を任された弟・金兵衛や、兵庫の主・北風荘右衛門には、役人との付き合いを厄介そうにみられるものの、嘉兵衛にとって最上徳内、近藤重蔵ら、草莽から立った幕臣たちとの厚情は断ち難い
また、蝦夷地の自然やアイヌの魅力に取り憑かれて、貧しい蝦夷地を豊かにすることを使命と考え始めていた
そして、択捉航路開拓後は、もはや商人の世界からはみ出して、幕府の蝦夷地経営と一蓮托生の関係になっていくのだ
荘右衛門には嫌味と警告を受けるが、それはより大きい世界に接してしまったとも言えた
ロシアと千島列島
まだロシア人は姿を現さないが、アイヌや千島、樺太との関連で触れられる
千島列島には、17世紀にオランダ人が接触し、18世紀には毛皮を求めて東進したロシア人が最北端の島、占守島に達っしている
しかし、島にやってきたロシア人はギリシア正教への改宗と過酷な毛皮税を課し、千島アイヌとの関係は最後まで悪いまま。幕府の役人が上陸すると、たちまち十字架を捨ててしまった
上陸は早かったが、ロシアの行政機関は及ばず、毛皮商人が立ち去ればそれっきりで、国家の統治といえる実態はなかったのだ
択捉島の地勢
千島列島のなかでも、島によってその環境は大きく異なる
特に択捉島はその大きさと漁場の多さのわりに、海の難所に囲まれた関係から、蝦夷地本土や他の島との関係も薄く、原始的な漁業に留まっていた
嘉兵衛は、千島アイヌに本土の漁具と漁法を伝えて、生活水準を底上げした。多くの漁場を開拓し、魚を米の肥料に換算すると、15万石の収入に及ぶとの試算が出されている
アイヌの人々は、外からの人間を「客人(まろうど)=神の使い」として扱うが、小説では嘉兵衛が生き神様のような扱いを受けている様が描かれていた
嘉兵衛による択捉島への航海はなかなか破天荒で、あえて霧のなかで出航し、潮を計算していったんはオホーツク海方面に向かう。ひとつ間違えば、日本に戻ってこれない決断だが、すべては嘉兵衛の計算のうちであり、航海者としての非凡さが描かれている
彼にくわえて、途中で失脚した最上徳内、文政の”三蔵”の1人、近藤重蔵に、日本全土を測量した伊能忠敬と、元町人、農民、下級武士が日本の前線を支える様は、幕藩体制の変質、崩壊を予感させる
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