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『菜の花の沖』 第3巻 司馬遼太郎

あとがきには、についての長い蘊蓄!
“灘”は本来、船乗りが船を入れる場所のない難所で、“◯◯灘”という言い方をするが、兵庫の“灘”はそれと関係ないという話。もともと「灘目」などと呼ばれ区別されていたが、いつしか取れてしまったようで




千五百石船の辰悦丸を得た嘉兵衛は、念願の蝦夷地へと船出する。蝦夷を治める松前藩は、秀吉以来の特権を楯にアイヌ人との交流一切を取り仕切り、その物産を諸国と取引することで繁栄していた。しかし、その裏側では松前藩の商人と手代たちがアイヌ人を収奪し、動物のように扱っているのだった。嘉兵衛はその松前藩を探索する幕臣・高橋三平と出会って……

第3巻で、ついに蝦夷地が舞台に!
当時最大級の和船・辰悦丸を手にしたことで、嘉兵衛は兵庫のみならず、大坂などの各地で一流の廻船商人として知られるようになる
その名声を脅威に感じた兵庫の北風家は、“高田屋”への扱いを変え、嘉兵衛は自立への道を歩むことに
そして“北前船”の北端である蝦夷地へとたどり着いた嘉兵衛は、その土地の広大さに純朴なアイヌ人、横暴な松前商人とそれに憤る幕臣と、本土と違う原則で動く天地を知ったことで、商人を越えた高みを意識していく


松前藩と悪名高き「場所請負制」

松前藩蠣崎(かきざき)氏の時代、1593年豊臣秀吉により蝦夷地と松前を安堵され、松前氏に改姓した徳川の時代にも、その地位がそのまま引き継がれた
蝦夷地では米が取れないので大名ではなく、交代寄合(旗本)として扱われたが、1719年に1万石の大名として扱われるようになった
藩の財政はアイヌとの交易に支えられ、家康の黒印状には「夷人に対し非分申しかくる者、堅く停止の事。」アイヌ人の移動の自由が認められていた
しかし、18世紀初めから、城下の商人が交易を請け負う「場所請負制が広まり、松前商人の手代たちは“場所”の主としてアイヌ人たちを奴隷のように使役する
そうした実態を隠すため、松前藩は幕府や東北諸藩の密偵の潜入を嫌い、海からの関所である沖の口役所では厳しい詮議が行われた。作中でも嘉兵衛は、罪人扱いされてしまう


蝦夷地の幕府直営

そんな蝦夷地でも、ロシアが沿海州へ進出したことで風雲急を告げた
田沼意次の時代から蝦夷地開発が検討され、その失脚で一時立ち消えたものの、1798年老中・戸田氏教大規模な蝦夷調査を命じて、蝦夷探索のベテランである最上徳内などを送り込んだ
1799年には蝦夷の大半を7年間の期限で取り上げて、松前藩に代わりの領地を与えている
そうした探索の幕臣と接した嘉兵衛は、箱館(後の函館)を拠点に選んで、北前航路ではなく、蝦夷地への新航路探索にのめり込む
世話になった北風荘右衛門にも、惜しげなく蝦夷地の地図を授け、商売人というより航海者としての役割を担う
サトニラさんの隠居で、高田屋の看板も堂々と掲げられるようになったが、ただの廻船商人では落ち着かないのだ


次巻 『菜の花の沖』 第4巻
前巻 『菜の花の沖』 第2巻





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