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『菜の花の沖』 第1巻 司馬遼太郎

はみ出しもの、の成り上がり




18世紀末の淡路島津名郡都志の本村に生まれた嘉兵衛は、家が貧乏なことから、隣の新在家の問屋へ奉公に出た。しかし、地元の“若衆宿”に入らず、本村のに所属したことから、目をつけられてしまう
世間に嫌気がさした嘉兵衛は、新在家の網元の娘・おふさと結ばれた後、水主(船乗り)を目指して兵庫津(後の神戸)の叔父を訪ねるが……

北海道の箱館(現・函館)を開き、ゴローニン事件に巻き込まれた高田屋嘉兵衛の物語
司馬は少年時代に、ロシアから日本への使者レザノフを乗せ、世界一周の航海に出たクルーゼンシュテルンの回顧録を愛読しており、日本とロシアの異文化のぶつかり合い、人間の交流を描こうと心温めていたらしい
とはいえ、第1巻はロシアの“ロ”の字も出てこない。ドラクエ3でいうと、まだアリアハンだ(笑)
主人公の嘉兵衛は淡路国に生まれた青年であり、小柄ながらいかつい風貌から良くも悪くも目をつけられる異端児。奉公先の土地で因縁をつけられたことから、網元の娘に手をつけて飛び出し、兵庫津では淡路には見ない役人たちともめてしまう
海の上で船を操れるかどうかなのに、地上ではなぜ貴賎にうるさいのか
嘉兵衛からは、大阪人の司馬がのり移ったかのように、江戸の身分社会への怒りが表明される


淡路の風土と若衆宿

『街道をゆく』の「明石海峡と淡路みち」でも少し触れられていたが、淡路島は蜂須賀家の阿波藩のもと、元は野盗とも言われる家老の稲田氏が州本城代として統治していた
蜂須賀家の収奪の激しさと出自の卑しさから、武士を嫌う風土があったらしい
そんな淡路は低いながらも山々を挟んで、乾いた北部と温和な南部に分かれて気候が違い、嘉兵衛が新在家で“いじめ”られる原因にもつながっていくる
司馬が日本の古層としてこだわってきた「若衆宿に関しても、はみ出し者の嘉兵衛を通じて描かれ、昼の表社会は大人に従うが、“宿”に関わる風習に関しては大人を上回る力を持っていた
嘉兵衛が新在所の者に闇討ちされそうになったとき、新在所と本村の若者頭(若衆宿のリーダー)が話し合い、村から姿を消すように申し渡す
「若衆宿」には日本的な“いじめ“の力学が働く一方、慣習をもとに緩やかにまとめる“リーダー”を育てる場所でもあった


近世日本の航海技術

兵庫津へ出て以降に触れられていくのが、近世における日本の航海技術
戦国時代においては、海外渡航もさかんで西洋のように竜骨はないものの、中国のジャンク船に西洋風のマストを乗せた大船が外海へ繰り出していた
しかし、江戸時代に諸大名の密貿易と江戸の防衛を気にした徳川家康が、500石以上の大船を禁止。以後、古代の刳り船へ先祖返りし、和船は奇形ともいえる進化をとげる
高波を防ぎ、かつ積荷が多く積めるように両舷に高垣を作った菱垣船」(菱垣廻船)に、さらに積み込みの合理化をはかった樽廻船ができたことで、上方から江戸への航路が確立される
それまでは絶えず、岸が見える航路を通る沿岸航海にとどまり、長い日数を要していたのだ
こうした航海術の発達を促したのが、商品経済の発達とそれに対応して米を大坂で売ろうとする諸藩の対応であり、嘉兵衛の叔父・堺屋喜兵衛(サトニラさん)は鳥取藩の士分になったがために、ご奉公と経営の板挟みに苦しむ


1巻にして中身が濃い!
司馬の命日「菜の花忌」の由来となるだけあって、少年時代からの思いが込められ、歴史小説家としての集大成を意識されているかのようだった
それとなく、披露される日本語をめぐる蘊蓄がたまらず、「くだらない」が元は、上方から「くだる」の反義語「まとも」は風が船尾からまっすぐ吹いてくれて、帆を動かす必要のない状態「真艫」から。艫とは、船のうしろをさす
航海用語の「ヨーソロー」は「宜う候」から。舵を切ったあとにこういう言葉が出たときは「そのままでよろしく」ということなのだ
そんな豆知識を嫌味なく読ませる文章力は、晩年でも健在だ


次巻 『菜の花の沖』 第2巻

関連記事 『街道をゆく 7 甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか』


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