1972年のカンボジア。若手カメラマンの一ノ瀬泰造(=浅野忠信)は、アメリカが支援するロン・ノル政権と、ポル・ポト派との内戦を取材していた。危険な戦場でシャッターを切りまくる彼だが、居候している村では子供たちに大人気で、教師のロックルー(=ソン・ダラカチャン)とは大の親友だ
しかし、アンコール・ワットにこだわる泰造は、政府軍に国外退去を命じられ、ベトナムでは従軍取材中に、カメラマン仲間のティム・ヒル(=ロバート・スレイター)を失う。ティムの行きつけの店で、その恋人レ・ファン(=ボ・ソンフン)と知り合うが……
日本映画のイメージを覆す内容だった
同名の写真・書簡集を原作とする、戦場に散ったカメラマンを主役として映画なのだが、日本語が日本での場面しかない
そして、カンボジアやベトナムでは現地の言葉が貫かれ、英語も通信社かカメラマンの友人と話す時ぐらいだ。当たり前と言っては当たり前なのだが、興行の都合で言語は曲げられやすいものであり、ノンフィクションへのこだわりが感じられる
監督の五十嵐匠は、ベトナムで死んだカメラマン、沢田教一のドキュメント映画を撮っていて、その経験が生かされているようだ
まるで取材映像を観ているかのような、地味で堅実な演出の一方、戦場では人間の視点を反映して酔うほどに揺れるカメラワークありと、メリハリが効いている
『富野由悠季全仕事』で奥山和由プロデューサーが宣言したとおり、国際的に普遍性を持ち得た作品となっている
作中の一ノ瀬泰造は、自分のやりたいことを貫いていく自由人であり、それがゆえの危険と寂しさも描かれる
大事な友人がいても、好きな女性が見つかっても、ひとつのところに留まれない。戦場カメラマンは、腕前もさることながら、運とそれを拾う度胸で食べていく職業であり、知り合いの子供が死にかかっているときにも、シャッターを切らねばならない
それに対して作品では価値判断を下さない。戦争を伝えるためにカメラを手にし、戦争があるがゆえに名声と報酬を得られる。その矛盾は避けがたいことなのだ
泰造がアンコール・ワットにこだわり出したのは、通信社が示した1万ドルの報酬だが、それに違う意味を持たせたのは仲良くしていたチャンナの願い。「アンコール・ワットへ行って、両親を連れ戻して欲しい」と頼まれたから。幼い彼はまだ両親の死の意味が分からないのだ
アンコール・ワットはかつての王宮であり、上部座仏教の聖地で、カンボジアのナショナリズムと結びついていた。チャンナには願いを叶えてくれる存在に思えたのだろう
それを引き継いだ泰造はただ、ただ、アンコール・ワットを撮りたい。しかし、その願いは……
原作 『地雷を踏んだらサヨウナラ』
同監督の作品 【DVD】『長州ファイブ』
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