秀吉の晩年は外へは朝鮮出兵、内では建築熱に明け暮れた。伊右衛門(山内一豊)は、朝鮮行きこそ免れたが、普請を言い渡されて領民に負担を掛けざる得なかった。秀吉の死後、五大老の筆頭である徳川家康は、秀吉の遺言を無視する形で他大名と関係を深め、天下人への道を歩き出す。伊右衛門もその流れに乗って、上杉討伐へ駆り出される。そこへ石田三成の挙兵の報が。ここに生涯最大の決断を下す
第3巻は、秀吉の晩年から関ケ原の戦い前夜
秀吉の晩年は、自制できない老人として描かれ、人妻好きで有名な太閤の魔手は伊右衛門の妻・千代にも迫る。茶室で二人きりを気合でセクハラどまりにとどめるが(現代だと強制わいせつ!?)、同じく千代に懸想していた忍者・六平太は幻術をもってチョメチョメしてしまう(爆
これはいくら何でも大河で再現できない展開である(苦笑)
その後は女性主人公の大河らしく、秀吉の正室・寧々との交流が描かれる。秀吉の生前は若々しかった彼女が、出家して高台院となると老け込んでしまう。そして、家康に西の丸を譲って、大坂を出て行くのには、時の流れを感じる得ない
そして、上杉討伐で家康が留守をあけると、石田三成が挙兵して上方の情勢は緊迫。千代は細川ガラシャの死に衝撃を受けつつ、西軍の人質に取られまいと屋敷に薪を積み上げて籠城するのだった
第4巻は、関ケ原の戦いから土佐入府まで
東征中の伊右衛門は千代から密書を受け取って、西軍から書状を封を破らずに家康に届けて誠意を見せた
そして、小山会議では掛川の居城を東軍に解放する大勝負に出る。同じ東海道を治める堀尾忠氏の策を抜け駆けした形になったが、知恵を誇らぬがゆえに良策を素直に採用する‟鈍才”の良さがでた格好だ
この功績により、戦後は土佐24万石へ移封。千代と夢見た一国一城の主についた
ただし、ここからが大変。長曾我部は関ケ原で西軍についたものの、それは成り行き。まともに戦っていない分、敗戦と受け止められない
特に一領具足たちは兵農分離の流れから、武士から農民に落とされてしまうと猛反発。伊右衛門が土佐に入れないほどの騒動となってしまうのだ
さて、小説におけるここの描写が大問題。伊右衛門が土佐へ入って以降、反乱分子である一領具足たちを弾圧し、言うことを聞かない彼を千代が非難する場面が続く
そしてクライマックスが、種崎浜の相撲大会にかこつけて、力自慢の一領具足の指導者を集めての虐殺! 千代は伊右衛門が一国を預かる器でなかったばっかりに、「千代と伊右衛門の夢は土佐の領民を殺す結果に終わった」と嘆いて物語の幕が下りる。いわば、伊右衛門、山内一豊は千代が生涯をもって作り上げた作品であり、失敗であったというのだ。まさかまさかのバッドエンドである(苦笑)
そこには『竜馬がゆく』で語られた土佐藩士と長曾我部由来の郷士との階級対立へつながっていくという史観がある
しかし、種崎浜の相撲大会はあくまでフィクション。相撲大会へ見物に来た手配中の一領具足を捕まえた話はあるらしいが、一領具足を農民ではなく郷士とする試みは伊右衛門の代から始まっているようで、武断一辺倒ではなかった。これでは山内家が怒るのも無理はない
作中の一豊像は、ヒロイン(というか主人公)の千代をエラく見せるための演出であり、かなり差し引いて見るべきだろう
司馬小説らしからぬ講談よりなエピソードの採用や、おりんが完全にフェードアウトするなど忍者成分がさばけていない部分はあるものの、その時々の夫婦のやりとりには楽しませてもらった
女が前に出られない武家の世界。夫を出世させることで、夢を実現するという方向性は、武将の嫁を主役にする大河ドラマの典型だ
千代から見た伊右衛門の観察、平凡な夫を見る妻の辛辣な視線というのは、普通の男の作家が書けないものであり、実生活で感じるものがあったのだろうか(笑)
永井路子の解説によると、主人公に千代を選んだのは、草莽から立ち上がった人々を描きたかったからと本人から聞いたそうだ。秀吉の妻・寧々、前田利家の妻・おまつもこの層に入り、特に千代の夫・伊右衛門は農民が畑を耕すように、着実に出世の階段を上っていた。その姿は高度成長期のサラリーマンと重ねられるだろうし、中間管理職の苦労は今の世にも通じるものがあることだろう
前巻 『功名が辻』 第1巻・第2巻
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