第8巻は、和歌山南部(熊野)、大分、奈良(西吉野)、種子島と一見、脈絡がないようだが、ちょうど司馬は『翔ぶが如く』を連載中。西郷隆盛などの明治の元勲を生み出した「若衆組」の痕跡が、山間部には残っているのではないかと、探索していく
初出は1975年6月から1976年1月の『週刊朝日』
<熊野・古座街道>
白浜から下って、周参見川の河口から古座街道へ入っていく
京都から熊野大社へ参拝するルートには、白浜から熊野本宮へ山道を向かう「中辺路」、白浜から紀伊半島沿いに新宮までの「大辺路」に、「大辺路」が時化で荒れてるときのために途中で川沿いに渓谷に入る「古座街道」がある
古座川の渓谷は大きな岩壁が目立つ壮観なもので、山肌に生えた山藤が揺れる‟藤波”に、岩から注がれた湧き水による飛沫、須田画伯が板にたとえた‟一枚岩”と魅力的な光景が広がる
一方、古座の町には、戦前のままの理髪店がノスタルジイを誘う
熊野は淡路まで勢力を伸ばした安宅党の水軍がいたが、山間部だけに「古座街道」には直接かかわらない。古座川の人にとって、江戸時代に新宮が港として発達したことが大きく、江戸や上方への航路が生まれ、備長炭などの木炭が商品として売り出された
備長炭は600度の低温で安定した火力を生むため、日本料理に重宝した。元禄年間に備後屋長右衛門が江戸に売り出したのが、その名の由来ながら、土地に長らく伝えられた知恵を商品化しただけではと司馬は推測
<豊後・日田街道>
大分空港のある国東半島の先から、山奥にある日田を目指す
秀吉の妻ねねの兄、木下家定が残した城下町・日出(ひじ)を過ぎて、由布院を目指すと山は杉の木で覆われている。古代の木材はヒノキがメインであり、杉が用いられるのは、室町後半の数寄屋造りが流行ってからとか
由布院の「由布」は、木綿と書いて‟ゆふ”とも読ませる。‟もめん”はインド原産で明朝の中国へ伝わり、戦国期に日本へ渡来した。‟ゆふ”の方は、「木綿」の文字通り、木の皮から取り出した繊維で、防寒用に使われていたらしい
「院」は官設の倉庫を意味するから、現物の税金として集められた‟ゆふ”が湯布院に貯められ、大宰府まで運ばれたと考えられる
有名な由布院温泉は、「油屋ノ熊八」が始めたもので、熊八は全国巨掌大会などのイベントを実施し、別荘を築いてリゾート開発を進めた。地域を代表する名士のはずが、経歴はアメリカ帰りぐらいとしか分からない謎の人物だ
湯布院の奥にある玖珠町に入ると、盆地に田畑がきれいに広がっており、目的の日田の地名にもあるように古くから豊かな耕作地だった
玖珠町の「森」には、ツノムレ(角牟礼)という古代の城跡がある。九州にはムレ(牟礼)という地名が多く、どれも山城。もともとは朝鮮に由来する言葉であり、『日本書紀』では半島から来た渡来人の村を「イマキ(今来)」とし、斉明天皇は彼らが住む丘をムレに喩えた
そして天領だった日田を過ぎた後は、小石原(こいしばる)の高取家を訪れる。高取家は朝鮮出兵のおりに黒田家が陶工を捕らえて帰り、士分にして陶器を作らせた
司馬が訪れた際には、女性の高取静山が跡を継いでおり、朝鮮式に作られた初代・八山の墓を案内してもらう
八山は黒田家の被害者でもあるが、黒田家はその墓に協力し、静山も黒田家を旧当主として「オカミ」と呼ぶ。微妙な経緯もあるのだが、互いにリスペクトを忘れない関係なのだ
<大和丹生川(西吉野)街道>
「若衆組」の残像を求めて、果無山脈を挟んで熊野の反対側にある吉野を散策
吉野郡は奈良県の南半分を占め、その大半が山岳地帯。訪れた下市は、吉野中の材木が集められ、大和国中と交易してきた。取材当時は吉野杉による割り箸が作られており、今では「わりばしの発祥の地」と標榜している(現在、国内で流通する割り箸の99%は中国製)
ガイドの三輪昌子さんが生まれた唐戸では、竹パイプよる水道(!)が紹介される。近代的な水道が引かれる前に、谷川の水が垂れ流す形で各家庭に供給されていたのだ。もっとも、取材当時には、ほぼ普通の水道に置き換わっていたようだが
タイトルの「大和丹生川街道」は、実際にそういう街道があるわけではない。丹生川の支流に沿っているからで、丹生(にう)とは「水銀」を意味する。吉野は古くから水銀を産出し、丹生川上神社が三社もある
ただ全国各地に水銀を取る鉱山衆は存在したらしく、丹生の地名もまた日本に点在しているようだ
<種子島みち>
タイトルどおり、種子島を北から南へ縦断する
種子島というと鉄砲の伝来だが、当時の領主・種子島時堯のもとには紀伊(和歌山県)の根来寺の津田監物がいて、彼が根来へ火縄銃を持ち帰る
これは古くから、紀伊と種子島に交易路があったことを示し、九州鹿児島よりも、種子島のほうが上方文化の影響を受けていた
また種子島に特徴的なのは、米作に向いて二毛作ができること。そのために人々の気風も穏やかで、火縄銃を手にした薩摩の島津家に服することとなる
司馬が種子島の旅に誘ったのが、沈寿官(沈壽官)の14代目。日田街道の旅に出てきた高取家と同様、朝鮮出兵の際に島津家の捕虜となった陶芸職人の名跡である
当時の西之表市の市長・井元正流も先祖は小西行長に捕まり、関ケ原の後に島津家に拾われ、種子島の役人となったらしい。「先祖は戦友」という沈寿官氏に対し、「城内に住んでたから、あなたは家来筋」と返す井元氏のユーモアがなんともいえない
そして、旧領主である種子島家の当主であるアッキー様(!)。本名、種子島時哲(ときあき)の邸宅は敷地は広大ながら、慎ましい家。薩摩の威勢のいい兵児(へこ)どんが、そのまま老人になったような人柄で、そのノリに煽られて沈寿官氏も「妙円寺詣り」(関ケ原の退却にちなむ)を歌い出す
旅で探し求めていた「若衆組」の原風景をようやく見出したのであった
旅のテーマである「若衆組」に関しては、体験者の話はほぼ聞けていない。取材した人の年代から、地域に旧制中学校が出来ると同時に、その役割を奪われ解消したと考えられる
民俗学的には、「若衆組」は本来、「村の青年たちによる生殖のため」のものであり、夜這いなどの習俗をしきった。そのうちに、災害時の消防士のような役割を負うようになり、大人といえど抑えがたい独立した集団を為したらしい
司馬は「若衆組」を南方系の習慣を由来としつつも、日本独特のものともして、その後継に西南戦争を起こした鹿児島私学校、昭和初期の陸軍軍人社会、戦後の左翼過激派を想定している。平時には大人に従順でも、暴発するさいには大人が蓋を仕切れない。2.26事件の荒木貞夫のように、若者を泳がす異常性を「若衆組」から探ろうとしている
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前巻 『街道をゆく 7 甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみち ほか』 司馬遼太郎