「天下統一」とは、どういうことなのか。秀吉、家康の対外政策を通して、その意味を問う
「天下統一」というと、秀吉が後北条氏を滅ぼした1590年(天正18年)と学校で教えられている
本書ではこの「天下統一」の定義を問いかけることで、いかなる紆余曲折を経て江戸時代の「天下泰平」にたどり着いたかを明らかにするものだ
「天下統一」とは、一人の君主が直接支配することではない。一つの権威に諸侯が従うこととするなら、源頼朝も前例に数えられるし、秀吉は1590年以前に北条の従属を勝ち得た時期があった
ここで問題なのは、「天下統一」と「天下泰平」の間。秀吉は諸侯を従えたが、一代限りの天下に終わった。いかにして天下人の地位を世襲していくのか
そのために何をもって諸侯を従えるのか。そこに、秀吉、家康の苦心があった
1.武家の支配原理“武威”と朝鮮出兵
秀吉は関白の地位を得て摂関家待遇となったが、あくまで武家である。その支配原理は武力が支配を正当化する「武威」
従属した諸侯には一見、寛容に領土を安堵するものの、検地を行って国力を割り出し、寺社や城の普請などを命じる。それに対して反抗する諸侯は、後北条氏のように武力で打倒する
著者はこの論理が「唐入り」、朝鮮出兵にも適用されたと考える
秀吉の「唐入り」は明の征服が目的ではなく、明から「日本国王」の地位を勝ち取ることと、李氏朝鮮を日本に従属させること
当時の東アジアではそれぞれ自国を中心にした華夷秩序をもっており、当時の日本は明は帝国として上位とするが、隣の朝鮮は下位の国とみていた。近代国家同士のように対等の国として見る国際慣習がなかったのだ
その立場を公式に認めさせるために、行われたのが秀吉の「唐入り」だという。国内での豊臣の地位を安泰とするためにも、「日本国王」=外国からの承認が欲しかったのである
朝鮮出兵=秀吉の外交感覚の欠如がもたらした侵略戦争と、単純にはいえないわけなのだ
2.“武威”外交を引き継ぐ家康
武力で相手を威圧し、従属したら「仁政」=寛容さを示すという「武威」中心の政治は、外交的にはハト派に見られる徳川家康にもあてはまる
家康は秀吉の死後に五大老筆頭として、対朝鮮、対明の講和交渉を仕切り、この時点で「天下人」として認められていたとする
対朝鮮では、相手が格下であるという前提を崩さず、朝鮮側から使者を派遣するべきとする。結局、伝統的に李朝と交易していた対馬の宗氏へ使者が来た際に、そのまま江戸には連れてきて、既成事実を作ってしまう
対明に対しては、勘合貿易の復帰あるいは民間の通商解禁を求めるが、はかばかしい結果は得られない
薩摩藩に関ケ原の敗戦を不問とする代わりに、琉球に圧力をかけさせて明との交易を求めるも、「武威」の外交が裏目に出てしまう。進展がでなければ、「ばはん」(=倭寇)の取り締まりを止める、つまり海賊行為に及ぶと脅したのに反発を招いたのだ
家康もまた武家の棟梁を継いだわけであり、国内にアピールするために武力による成果が欲しかったが、存命中に通商の復活はならなかった
とはいえ、大坂の陣で最大の抵抗勢力である豊臣家も滅亡。家康→秀忠→家光と最高権力者の世襲も達成されて、「日本国王」の必要性は薄くなっていく
むしろ、島原の乱など海外との交流が国内の混乱を招く懸念が出てきたため、西洋との交易をオランダに限るなど、国を閉ざす方向へ傾いていくのだった
本書は国内の統一運動と対外政策が密接に結びついていて、家康が武断政治を継続していたことを明らかにしている。東アジア諸国が、自国中心の華夷秩序で他国を位置づけてきたことなどは、今の外交関係にも通じる視点だと思う
*23’4/22 加筆修正
*天下統一シリーズもアルファーになって焼き回しの作品だらけだったが、日本一ソフトウェアの子会社が事業を継承。何か進展があるのかな?