『松下政経塾とは何か』 出井康博

民主党がバラバラだった所以


松下政経塾とは何か (新潮新書)
出井 康博
新潮社
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多くの政治家を輩出する松下政経塾とは、何だったのか。松下幸之助の夢と塾生たちの現実を描く
松下政経塾とは、1978年に松下電器の創業者・松下幸之助が長期的視野に立った日本の変革を目指して、新時代の政治家を育成しようと始めた政治塾である。「松下」の名を冠するのは、吉田松陰の「松下村塾」を意識してのことでもあり、100億円とも言われる私財を投じて現代の志士を生み出そうとした
卒業メンバーには、自民党だと現防衛大臣の小野寺五典、逢沢一郎、松野博一など。元民主党には、元首相の野田佳彦、前原誠司、松原仁、樽床伸二、原口一博、山井和則、玄葉光一郎、福山哲郎、松沢成文、中田宏など、テレビで顔の知れた政治家たちがいる
民主党に出身者が偏るのは、そもそも「地盤、看板、カバン」を持たない若者を政界に送り出すのが塾の目的であり、現職の層が厚い自民党ではそもそも枠がなく、先輩議員のいる民主党の推薦を受けやすいからだ。良くも悪くも(だいたい悪いんだけど)、塾の在り様が民主党→民進党の性格に影響してくるのであった

松下幸之助は、早くから自民党政治に危機感を抱いていた。政治家たちは長期的展望に立たず目先の利益に目を配り、財政赤字を垂れ流していたからだ。当時は田中角栄の金権政治に反発して、新自由クラブが期待を集めていた
経営者としての感覚から赤字財政はありえないとして、幸之助は「水道哲学」に端を発する「無税国家」(高金利を生かした資産運用で財政をまかなう国家)を提唱して、自ら新党の結成を模索していた。それが頓挫したことから、しがらみのない政治家を輩出しようと松下政経塾を創設する
しかし、幸之助の「無税国家」が荒唐無稽なように、政経塾の中身に関しては「幕末の志士」を意識しただけの曖昧なものであり、90に近い高齢の幸之助は塾の経営には直接関われない
本来は長期的な視野に立った政治家の育成を目指していたはずなのに、塾の運営の都合から短期間で地方・国政選挙への立候補を求められることとなり、塾生は混乱し反発する
自民党に代わる保守政党を作るという目的はあったものの、具体的な中身は各員が共有できるわけでもなく、まとまって新党を立てるどころか散り散りバラバラに活動していく

政経塾のメンバーが国政に進出するきっかけは、細川護熙を党首とする「日本新党である。細川は1989年に亡くなった幸之助の遺志を受け継いで新党設立を決意し、1993年の衆院選で「新党ブーム」に乗って7名の当選者を出す。幸之助死去で存亡の危機にあった政経塾を救ったのだった
ここにマイク片手に駅前で立ち、清新さをアピールする政経塾の選挙手法が定着し、民主党→民進党と受け継がれていく。政経塾出身者はブームに乗って浮遊層を動かす「空中戦」に強いものの、投票率が低い時での組織力がものを言う「地上戦」に弱い。ただし、最初から地盤のないのを承知しているだけあって、一度や二度の落選でへこたれないタフさはある
ただ政経塾から、大きな組織を動かせる人材は生み出せなかったは事実。新党を作ったは小沢一郎など既成の大物政治家であった
塾生からも「新選組の総長止まり」という感想が出るように、塾生に受け継がれるのは短期間に選挙運動に強くなる政治技術であり、特に政治哲学が磨かれ共有されることはない
ただの政治技術なら雨後の筍ように作られている政治塾でできることであり、政経塾の役割はすでに終わっているのではないか、というのが著者の見解だ
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