なぜもっとも民主的と言われたワイマル共和国から、ヒトラーのような独裁者が出たのか。第一次大戦終結から30年代までの政治家、政治状況を分析する
積読から取り出してびっくり、初出が1963年で数十版も重ねている名著だったのだ
ワイマル共和国は第一次世界大戦を負けたドイツにおいて敷かれた民主主義の体制で、1919年に中部の都市ワイマルで憲法制定議会が開かれたことにちなんでいる
1.先進的な憲法と自立する国防軍
ワイマル憲法の特徴は、男女平等の普通選挙に基本的人権に国民の生活を守る権利=社会権を加えたことで、当時としては画期的な内容だった。同時に議会が機能停止に陥った際には、大統領が緊急令を出せる憲法第48条の「非常権」が存在し、30年代の経済と財政危機に際して乱発され、結果的にナチスの独裁を後押しする要素もあった
そうした先進的な憲法を持ちつつも、旧帝政の流れでプロイセン州が人口の四割を占めるという偏った連邦制が保たれ、10万人に減った国防軍が政府から半ば独立した地位を築くという歪な状態にあった
2.外圧による政治体制
第一次世界大戦の末期において、ドイツは戦争に疲弊した国民による社会革命が引き金になって敗戦を迎えた
政権についたのは社会主義=マルキシズムの影響の濃い社会民主党などであったが、帝政打倒までは考えない漸進志向、社会民主主義の立場を取っていた
しかし連合軍側の要求はドイツ帝政こそ戦争の原因であるとして、ホーエンツォレルン家の追放と徹底した民主化を求める。ドイツ側の政党と連合国の求める変革には大きな隔たりがあったのだ
講和条約の履行のために制定されたのがワイマル憲法であり、共産党など一部の極左を覗いて政党も国民も完全な民主化までは想定していなかった。上からどころか、外圧の要求による体制転換がワイマル体制の足腰の弱さであった
3.社会主義路線と民主主義の軽視
ワイマル共和国には過去、積極的に民主化を求めた政党はなく、政治課題はいかに社会主義を進めるかにあった。修正主義の社会民主党に対して、ロシア革命の影響を受けたドイツ共産党はラディカルな社会主義化を要求。その中でさらに過激なスパルタカス団などは、武装蜂起に及んだ
右翼は右翼で、反ベルリンのバイエルン政府を震源に、カップ一揆、ヒトラーのミュンヘン一揆が勃発。司法界は帝政の名残が深く、大甘の判決でヒトラーは政治的地位を高めることとなる
内政では、ワイマル憲法下における国民の権利から、失業保険が始まった。今となっては当然の社会保障も、制度設計上の限界は100万人どまり。1929年の大恐慌から400万人までに膨らむに至っては増税と財政赤字が余儀なくされ、シュトレーゼマン死後の求心力が低下した議会政治に、経済政策の大転換をする力はなかった
社会民主党に属し司法大臣もつとめた法学者ラートブルフは、「民主主義を社会主義への前段階ではなく、固有の価値だということを極力力説すべきであった」と自己批判している
本書では立派な憲法と政治の実態とのかい離を示しつつ、議会制民主主義が羽根をもがれていく過程を見事に活写している。戦前・戦後の日本とは事情が違うものの、大統領制に傾く内閣・行政府の在り方と議会の空洞化の結果が何を招くかの教訓となるだろう
*23’4/12 加筆修正