『応仁の乱』 呉座勇一

取り上げられないのは、不毛ゆえ?


応仁の乱 - 戦国時代を生んだ大乱 (中公新書)
呉座 勇一
中央公論新社
売り上げランキング: 466


11年の長きに渡って続いた応仁の乱とは、なんだったのか。奈良の興福寺門主の目から、激動の乱世を読み解く
毎月入れ替わる本屋の棚に置かれ続けていると思ったら、歴史関係では久々のベストセラーらしい
応仁の乱はいわずとしれた、室町幕府の権威を没落させ戦国時代の到来をもたらしたといわれる大乱である。その影響力の大きさのわりに主役級のスターが不在なせいか、ドラマなどで取り上げられることが少ない
本書では、同時代に貴重な日誌を残し続けた興福寺門主・経覚と尋尊を追いながら、マルクス主義の影響を受けた「下剋上」の史観を洗い直して、その実際のところを映し出す
将軍義政の判断ミス、山名宗全の管領・細川家への挑戦、戦国大名の先駆者・畠山義就、そして、長い戦乱にレジスタンスする山城の国一揆、様々な要因が乱を長引かせたのだ

あとがきによると、本書は第一次世界大戦に着想を得たといわれる
当事者の誰しもが大乱になるとは予想せず、短期決戦を目指して挫折し、かろうじての勝者すら消耗しきって没落の道を歩むのだ
軍事技術的には、矢倉」をはじめとする城塞技術の発達が長期化の原因となった。応仁の乱が始まると、守護大名は京都の屋敷に矢倉を巡らし周囲に濠を掘り始める。「矢倉」から放たれる弓矢の威力は絶大であり、攻める側もより高い矢倉、「井楼を立てたり、中国ばりの投石器で対抗したが、防衛の技術には追いつかず塹壕戦のような状況を作り出した
また、軽装の「足軽」が大量に動員されたことにより、軍隊の規模が大規模化。それを維持するために、寺院や公家などの荘園が荒らされることが日常化して、畿内一帯が荒廃した
大軍となったことで兵站の重要性が高まり、西軍は日本海側の航路と瀬戸内に通じる陸路を封鎖されることで解体を始めたのだ

応仁の乱の原因はなんだろう。本書によると、将軍継嗣の問題は、それほど決定的ではない
東軍の実力者・細川勝元も幼い義尚への中継ぎとしてなら、弟の義視の継承を認めていて、西軍の山名宗全も義視本人も同意はしていた。それが矛に収まらなかったのは義視の疑心暗鬼であり、後に義政の説得に応じてはいるのだ(ただ、義政の家系と義視の家系は応仁の乱後にも、将軍位を争うことになる)
ひとつには、西の実力者・山名宗全が仕掛けた既存の幕府体制への挑戦がある。畠山・斯波の管領家の継承に介入しなければ、乱の長期化はありえなかった
宗全の介入を弾みに畠山義就は、将軍の権威すらもろともしない‟戦国大名として自立。大名の地位は、幕府ではなく実力によって確保する前例を作る。乱はもはや将軍の尽力をもってしても、止まらなくなってしまう
室町幕府は内乱防止のために守護大名を京都に在住させる「守護在京制を取っていたが、越前の守護代・朝倉家が主君・斯波氏を追い出したように現地を任された守護代が力を持つようになり、領国の安定のために多くの守護大名が帰郷することが常態化していった。1493年の明応の政変を経て、戦国時代へ向かっていくのだ
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