『観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』 亀田俊和

ベストセラー『応仁の乱』に続き、室町時代ブーム到来!?




北朝の優位が固まった後に、なぜ足利尊氏と直義の兄弟は争うこととなったのか。室町幕府の性質を定めた‟空白”の大乱を解明する
観応の擾乱とは、室町幕府を開いた足利尊氏実弟の直義足利家執事の高師直が政権内部の主導権を争った、1350年から1352年かけてのめまぐるしい内乱である
『太平記』のクライマックスともいえる出来事ながら、そのあまりに激しい展開から科学的な考証が進まず、講談的な解釈がまかり通ってきた
そこを作者は、幕府が武士たちの請願や恩賞をどのように解決してきたかを分析することで、内乱の裏にあった不満を明らかにしていく。政権の腰が定まらなかったのは、諸大名の要求に応えきれない組織の不備が原因であり、尊氏とその後継者・義詮は内乱に右往左往しながらも、それに対応した政治制度を整えていったのである

本書ではずいぶん整理して語られているのだが、そうしてなお、観応の擾乱はカオスである(苦笑)。尊氏から政務を任されていた直義が、執事を解任された高師直のクーデターを受けて出家するはめになるが、幕府が尊氏の実子ながら直義の養子となっていた直冬へ討伐の軍を発したところ、もぬけの京都から抜け出して挙兵して観応の擾乱は始まる
歴史ファンがとまどうのは、直義をはじめとして幕府の要人が簡単に南朝へ寝返ってしまうところだ
しかし、それは北朝=室町幕府という固定観念からあるからでもある。足利尊氏はそもそも後醍醐天皇の下での幕府を想定していて、その崩御に至るまでその気持ちは変わらなかった
最高指導者がこういう意識であるから、諸大名たちからしても転向のハードルは低く、北朝の既存の制度で救われない場合には南朝側に立って取り返すといったケースが多かったようだ
ただし、将軍の弟である直義が南朝に降りたのは、当時としても衝撃的であり、その前例は南北朝の乱を長引かせる要因ともなった
また高師直が将軍の住居を包囲した「御所巻は、大名が軍勢で御所を強訴する室町時代特有の政治現象の先例となる。江戸幕府の堅固さからは頼りなく思えてしまうものの、そうされてなおかつ傷がつかない「将軍=武家の棟梁」の特殊な権威・立場があってのことなのだろう

当初、政務を任されていた直義が高師直のクーデターを許した原因は、承久の乱以後に確立された鎌倉幕府の諸制度への固執にあった
鎌倉幕府では、争う当事者同士の意見を聞いての裁決、「理非糾明」が理想とされていた。しかし、この制度にはたとえ聞くまでもない事例にも時間をかけてしまう弊害があり、力の強い者が現状維持してしまうのが実態であった。たとえ、正しい裁決がなされても、訴えた者の「自力救済」が基本であったのだ。そして執事として直義と争った高師直も、政治思想的には同様であった
そこで、尊氏・義詮の父子は、見るに明らかな事例に対しては即決、判断のつかない事例には「理非糾明」と使い分け、裁決の結果を守護がなるべく救済する方向へと舵を切る。これにより、恩賞の空手形が少なくなり、幕府のもとに有力大名が集い政権を安定させたのである
乱以前、武家のシンボルとして「象徴化」していた尊氏の‟鮮やかな変身”が本書の山場であり、権威と権力を引き受ける理想的な将軍の姿が描かれる
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