『文学部唯野教授』 筒井康隆

アニメとかで、実際の作品より面白い記事ってあるよね


文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)
筒井 康隆
岩波書店
売り上げランキング: 95,227


唯野教授は、早治大学の文学部教授である傍ら、「野田耽二」のペンネームで密かに純文学を発表していた。さらにそれに留まらず、立智大学の非常勤講師として文学批評の講義を始めたが、そこで謎の女子大生・榎本加奈子と出会う。彼女に「野田耽二」であると見破られたのを皮切りに、出版社も芥兀賞候補に挙がったことから唯野を世間に売り出そうとして蠢動。唯野は学界での立場を守るために、悪戦苦闘する

小説であり、かつ文学批評の批評
小説は一章ごとに二つの部分に分かれる。作家と学者の二束のわらじをはく唯野教授が、閉鎖的な村社会の学界と商業主義の出版界の間に揺れる、ロマンスとしがらみに満ちた生活が描かれ、その後に非常勤講師として行う文学批評の歴史の講義が「長台詞」で下される
主人公である教授は人格者でもなく、見栄坊でひょうきんなお調子者。持ち前の処世術で学界の遊泳しつつ、自らの研究のために匿名で文学作品を発表している
そうした彼と変わった大学関係者たちから、それとなく学界の封建的な風土が語られ、本来もっとも開明的でなければならない世界の理想と現実の乖離がユーモアたっぷりに描かれる。なるほど、これなら、かつて大学闘争が吹き上がったのもわからぬでもない
教授の口から語られる文学批評の変遷には、本の感想を書き殴っている管理人にもグサリとくる内容で、なんで文学作品の批評が、いやいろんなジャンルの批評家たちがわざわざ難しい書き方をする理由を暴露してしまうのだ

唯野教授の講義は作者がかなり分かりやすく噛み砕いているものの、ある程度の固有名詞を知らないと頭に入りづらい。正直、管理人も頭がショートしかかっている
文学批評の歴史は、19世紀のイギリスに始まるらしい。というのも、それまでは小説家の絶対数が少なく、その地位も低かった。それでも大学に文学部が生まれたのは、台頭する中産階級に教養を植えつけようという狙いがあり、さらには共産主義対策に貧困層を啓蒙する狙いがあったという
初期の文学批評では前例がないことから、絵画などの美学理論をそのまま引いた「印象批評だった。作品から受けた個人の主観や直感を重んじる「印象批評」は、批評する側の持つ「伝統」や「常識」に縛られる。そして、個人の主観が根源なので、批評家に周囲を黙らせるほどの小林秀雄級の教養がなければ、世人を納得させられない
さすがに個人の主観で権威づけるのは無理があるので、政治・社会・歴史的文脈と関連づけようとする運動が「新批評(ニュークリティシズム)文学を人生のためになるものと位置づけて、社会的な問題や人間関係の是非を論じ始めた
文学が人生の教科書にまでしてしまうと、批評は一種の宗教・科学となる
「新批評」が持ち込んだ言葉は、「両価性」(アンビバレンツ)、「矛盾」(パラドックス)、『緊張』(テンション)で、主に詩の分析に力を発揮したらしい

フッサールとハイデガーの格闘が論じられた後に、徐々に現代の評論家が使いそうな言葉が増えてくる
第8講についに真打ち、ソシュールの構造言語学を元にした構造主義の登場である。「受容理論」で登場したノースロップ・フライ牧師は、文学の外部から主義主張を持ち込む批評家を批判する
批評はひとつの科学であり、芸術であるという信念のもと、『批評の解剖』を行う。それは文学批評には中心的な仮説として、あらゆる物語を五種類に分類してしまうものだった
そして、文学は五つの類型「神話→恋愛・冒険・伝奇→悲劇・叙事詩→喜劇・リアリズム→風刺・アイロニイ」に発達してきたと、文学批評の神話を創設してしまう
これには、「文学作品はすべての人間の願望のあらわれ」であるという仮定があり、なんだかユングの集合的無意識に近い
物語の構造分析への踏み台を作ったのが社会人類学者クロード・レヴィ・ストロースで、神話をいくつかの基本単位に分割し、その組み合わせで神話を成り立つとした。ロシア・フォルマリストのウラジミール・プロップは物語分類の魁で、『昔話の形態学』であらゆる魔法昔話を7つの行動領域、31の要素に分類してしまった(大塚英志の創作論の定番ですな)
「構造主義」は、このようにあらゆる文学を言語構造に似た構造を持っているとして、分析しなおした
この「構造主義」の問題はすべてを分類できるけど、メタ過ぎて文学の世界の味わいを説明できないこと。小説も六法全書もひとつの構造物に過ぎず、作家の個性も無視されてしまう。ソシュールの言語学からして、歴史を脇においているので、作品の時代背景など眼中に入らないのだ。結局、「構造主義」の批評は、「構想主義」の規則が引き立つだけではと唯野教授は語る

長くなったのでまとめると、文学に政治的文脈から独立した普遍的な法則を求める一派と、歴史・社会のつながりを重視する一派のせめぎ合いで、批評の歴史は揺れ動いている。歴史や社会背景にこだわり過ぎると批評家の政治運動になってしまい、ハイデガーのようにファシズムに突入することもあり、普遍的法則に傾き過ぎると、科学的合理主義に陥って無味乾燥の批評となる
最後の講儀で取り上げられるポスト構造主義では、そうした不毛を乗り越えようと、文学も批評も「エクリチュール(書き物)」という点で違いはないとする。その代表者であるジャック・デリダは、完成された体系、イデオロギーはすべてまやかしであるとし、「形而上学とみなした。とはいえ、文章というひとつの形式をとる以上、「形而上学」から逃れるものはデリダ本人含めてありえない
そこで、ひとつのイデオロギーと対立するもうひとつのイデオロギーと「二項対立」の状況を作らせ、正しさを証明しようとする余りにかえって行き詰ってしまう「アポリア(袋小路)」の部分を指弾することにした。これを「脱構築」(ディコンストラクション)と呼ぶ
唯野教授=作者も「ポスト構造主義」には好意的で、批評家の作品に対する特権的地位を潰す点でお気に召すのだろう
なぜ読みにくい文学批評が生まれるのか。それは「文学作品の意味を、まるで『もの』のように作品の中から取り出そうとしてきたから」(p188)とずいぶん昔から指摘され、そんなことではダメだと言われてきた。それでもなおかつ続くのは、「文学作品の意味を説明して欲しい」という根強い需要からであり、読者が科学合理主義から抜けられないからようだ


テクストの快楽
テクストの快楽
posted with amazlet at 16.07.01
ロラン・バルト
みすず書房
売り上げランキング: 114,555
(この一行は、各記事の最後に固定表示するサンプルです。テンプレートを編集して削除もしくは非表示にしてください。)

コメント

コメントの投稿

非公開コメント


(この一行は、各ページ下部に固定表示するサンプルです。テンプレートを編集して削除もしくは非表示にしてください。)
カレンダー
04 | 2017/05 | 06
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
カテゴリ
SF (22)
RSSリンクの表示
リンク
FC2 Blog Ranking
ランキング
アクセスアップ!?
検索フォーム
はてな
この日記のはてなブックマーク数
タグランキング

サイドバー背後固定表示サンプル

サイドバーの背後(下部)に固定表示して、スペースを有効活用できます。(ie6は非対応で固定されません。)

広告を固定表示させる場合、それぞれの規約に抵触しないようご注意ください。

テンプレートを編集すれば、この文章を消去できます。