『信長の大戦略 桶狭間の戦いと想定外の創出』 小林正信

目から鱗というレベルじゃない


信長の大戦略―桶狭間の戦いと想定外の創出(ディスロケーション)
小林 正信
里文出版
売り上げランキング: 833,926


桶狭間の戦いの裏には何があったのか。室町時代の政治環境から、戦いの真の意味を探り、誤解される信長の実像を明らかにする
著者は『明智光秀の乱』の人であり、本書も日本近世史を根底から問い直すものである
まず、桶狭間の戦いの通説、雷雨による小勢での奇襲に疑問を呈する。奇襲説の根拠は信頼度が高い太田牛一の『信長公記』に依存していて、著者は今川義元が討ち取られる場面だけが記されただけではないのかと推論するのだ
信長が“奇襲”に使ったとされる二千の手勢と家臣たちは馬廻り衆に過ぎず、仮にも尾張一国を制した大名として他にも軍勢がいたはず。むしろ堂々たる軍勢を用意して今川家を慌てさせ、長篠の戦いばりの総崩れから総大将を討ち取る完勝に到ったとする
著者は大学院出の研究者ではなく、金融関係を務めた市井の人であり、単に当時の資料を探るだけでなく、孫子からクラウゼヴィッツ、リデル・ハートまで古今に通じる「大戦略の原理原則を引いて、信長が世界的名将であることを実証していく
日本史に親しんだ人間にこそ、本書は「想定外の創出」(ディスロケーション)となる

桶狭間の戦いでの隠れたキーマンは、室町幕府第13代将軍・足利義輝である
室町時代は西国を京都御所の征夷大将軍が、関東を始めとする東国を同じ足利の一族の鎌倉公方が治める東西複合国家体制だった
本来なら源頼朝の前例から、鎌倉公方が征夷大将軍に座り、西の将軍は天皇の近衛兵を率いる「右近衛大将」とする予定だった。しかし、室町幕府は後醍醐帝による南朝という強敵を抱えていて、京都に重点を置いて征夷大将軍を置かざる得なかった
不満を抱える鎌倉公方に対して、お目付け役として関東管領が置かれたが、それでもなお鎌倉は反抗を繰り返し、室町幕府の弱みとなっていた
稀代の独裁者、6代将軍足利義教の時代には、足利直系の堀越公方が送り込まれたが、伊勢新九郎=北条早雲によって滅亡。勢力を伸ばす北条家は、鎌倉公方の直系である古河公方を担いで、関東支配の正統性を確保していた
足利義輝の代には、古河公方を盟主とする北条・今川・武田の三国同盟が成立し、“東の将軍”の勢力が関東甲信を席巻することとなった
後背の危険がゼロになった今川義元は、三国の軍勢を総動員できるようになり、足利の一族として“西の将軍”の地位を継承すべく上洛作戦を決行したのだ。上洛説にはその道程から疑問の声もあるが、義元の輿が将軍を意識したものであることから、著者は上洛を視野に入れたものとする

今川義元の挑戦に対して将軍・義輝は、まず上杉政虎(謙信)に上洛を促す。義輝の綸旨のより武田晴信との和平がなると、政虎は1559年に五千の兵で上洛し管領なみの待遇を受けた
これにより今川義元は上洛の延期を余儀なくされ、和睦した武田晴信を利敵行為として北条家とともに非難。晴信が剃髪して信玄となったのは、このときの侘びだという
著者によるとこの一年の時間稼ぎが大きかった
足利将軍が後ろ盾になることで、信長は美濃の斎藤義竜との和議、北近江の浅井家や六角家など周辺諸国との関係を改善、諸勢力からの後詰(援軍)を得て、尾張で迎撃できる態勢が整った
桶狭間の戦いは単なる戦国大名の勢力争いではなく、室町幕府の存亡をかけた歴史的決戦となったのだ
今川の軍勢は最低で二万五千以上の大軍だが、尾張一国でも一万以上は集まったろうし、津島に代表される経済力からさらなる募兵も可能だっただろう
信長は義元にとって「想定外」を積み重ね、勝算をもって戦いに臨んだ

今川家の泣き所は、大軍を養う補給、特に皮革関係だという。具足の間に挟む皮は消耗品であり、良質であれば機敏な動きがとれる
皮革の市場は仏教でのタブーに関わる動物の殺生が絡むことから、農民から差別される特殊な階層の民に委ねられ、一般の人間が踏み込めないアジール(聖域)を為していた
著者は若き信長が妙な風体で歩き回っていたのは、こうした界隈に踏み込んだからと想像し、そうした場所で築いた人脈として木下藤吉郎、後の豊臣秀吉を上げる
同じ木下の姓から実はれっきとした尾張の豪農だった説もあるが、ならばあえて羽柴姓を作るのは不自然。むしろ本来は侍になれない生まれだったからこそ、萩の中納言など珍妙な生まれを装う必要があったと考える
特にこれに突っ込みが入らなかったのは、天下人がそんな生まれではまずいし、ありえないという先入観が招いたと指摘する
秀吉が皮革を商って今川領内をスパイしていたとか、小説的想像力を感じるものの、たしかに六本指など秀吉には、農民出にしては不思議なエピソードが多い
信長が、秀吉ら皮革関係の「非人」たちから貴重な情報を得たことに対し、今川義元は足利義輝と織田信長の連携を舐めていた

桶狭間の戦いでは多くの家臣が討たれていて、義元本陣だけが奇襲されたのは説明がつかない
義元は出陣前に家督を氏真に譲っており、お家騒動こそ起きなかったものの、譜代の将の多くが討たれたことは戦国大名にとって致命的だった。家臣それぞれの家で代替わりが余儀なくされ、指導者として経験の薄い人間が繰り上がれば、軍勢を率いることなどできない
氏真は物理的に父親の仇討ちはできなかったし、名分的にも将軍家に真っ向から歯向かうことはできない。それどころか、氏真は翌年には室町幕府の相伴衆に列することとなり、屈服を余儀なくされたのだった
幕府転覆の陰謀に怒る義輝は上杉政虎に関東遠征を命じて、古河公方を摂関家の近衛前久に継せようとまでした。しかし上杉独自の公方候補がおり、氏康の粘り強い抵抗でこの構想は頓挫する
そうする内に、今川家の脅威に沈静化していた三好家との対立が激しくなり、幕府側は長慶に対する三度の暗殺未遂を起こして、三好一族・関係者に次々と変死者が出る異常事態に。信長の上洛が計画されると、松永久秀と三好三人衆が義輝方のテロ攻撃に対して強硬手段に出た。永禄8年(1565年)二条御所を強襲し、義輝やその母、主従全員が討ち死させたのだ。いわゆる永禄の変である
信長が義輝の遺志を継いで上洛するのは、この三年後のことである
『信長公記』から漏れていること、作戦の機密性が高いことなどから、本書でも桶狭間の戦いの全てが描ききれているわけではないが、そのフレームは斬新でかつ納得できるものだ


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