『箱根の坂』 下巻 司馬遼太郎

81歳で戦場に出るスーパーじいちゃん


新装版 箱根の坂(下) (講談社文庫)
司馬 遼太郎
講談社
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時は流れ、最愛の妹・千萱は亡くなり、甥の今川氏親は立派な統治者となった。駿河にいる目的を半ば失った早雲は、自らの理想を広めるべく、ついに下克上に踏み切る。伊豆には、古河の関東公方に対抗する形で幕府から派遣された堀越公方・足利政知がいたが、その統治はただ家柄に笠に着るもの。さらに政知が長子・茶々丸に斬殺される事件によって、伊豆の統治は乱れて、時代の流れは早雲に吹き始めた

ようやく、教科書で出てくる早雲に追いついた
伊豆の地は、名目上は山内上杉家の統治下にあるものの、関東公方(古河公方)を牽制するために送られた堀越公方が実質的な統治者となっていた。といっても室町時代なので、国人たちの触れ頭ぐらいの緩い統治にすぎない
小説では堀越公方・足利政知が僧体の早雲を侮る描写があり、その子・茶々丸には矢を射掛けられる。ただただ身分が上位というだけで、百姓の旗頭である国人たちを顎で使い、当主の地位をめぐって血で血を洗う戦いを続ける
早雲は伊豆一国を一朝にして覆すが、それは堀越公方のお家騒動の結果であり、足利幕府の権力構造の自壊が招いたといえる
伊豆は鎌倉幕府を開いた源頼朝が流された蛭ヶ小島があり、当地の豪族・北条時政が平家打倒の兵を上げた。早雲はその末裔が住む韮山城に居を構えたことで、北条殿と仇名されることとなる

「旅の者」であるはずの早雲を、下克上へ動かしたものとはなんだろう
司馬が掲げるのは、『孟子』の思想である。多くの中国の書物が輸入される傍ら、「『孟子』を乗せる船は沈む」といわれるほど、日本では禁忌の思想だった
なぜならば、『孟子』は義を重んじ、殷を周が放伐したことから徳のない君主は打倒してもよいという革命思想をよしとしていたからだ。幕末の吉田松陰すら、「日本では朝廷に弓を引けない」と限定的にしか認めなかった
早雲の子、氏綱は、この『孟子』の考えを重視していて、跡を継ぐ氏康に対し“義”を重んじる考えを書置き=遺言として残したという。早雲は先んじて、日本に統治者としての道義=政治思想を持ち込んで、実践したのである
ただ下々の収穫を吸上げるだけの公方、守護といった武家貴族に、土着の百姓から成りあがった国人たちが反抗し、自らの国は自らで決めるという時代。将軍家に仕える伊勢家であればこそ、その権力構造の醜さを一番よく知っていたに違いない
早雲は地頭に徴税を任せたふんぞり返る守護大名と違い、百姓に直接の統治者として接し地頭を法に基づく村役人とする「領国制を敷いた。四公六民という安い年貢を設定しつつも、領内の隠れ田を許さない検地」も実施し近世への先鞭をつけた
領国経営については、今川氏親も早雲と同様の政策を実施し、晩年には有名な分国法『今川仮名目録』を制定している。「今川」という言葉が、江戸時代まで初頭の修身書と意味したと言い、氏親の里親である早雲が後世に残した影響は大きいのだ


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