宇宙で採取されたMM菌は、アメリカの研究所で保存され生物兵器としての研究がすすめられたが、イギリスのスパイによって奪取。同国のグレゴール・カールスキイ教授によって改良されたものの、生物兵器としては強すぎる毒性と繁殖力を持っていた。しかしノイローゼになった教授の手から他国のスパイに渡り、アルプス山中で飛行機事故を起こしてしまう。拡散したMMは世界中に蔓延し、南極の一万人を残して人類の文明は崩壊する
小松左京二作目の長編小説で、初出は1964年
アメリカがベトナム戦争へ本格介入する直前であり、前々年にはキューバ危機が起こるなど冷戦たけなわの時代である
本作のアメリカは、超強硬派の前大統領シルヴァーランド大統領から政策転換し、穏健派のリチャードソン大統領のもとに核兵器廃絶の条約が準備されていて、冷戦が緩和に向かっている。冷戦で核兵器が向き合う状況に米ソ両方が慣れ、力の均衡による平和が続くかに見えた
そこへ生物兵器「MM-88」による絶望的なバイオハザードが世界各国に襲い掛かるという、まさに天国から地獄に落とすような展開。政治的には決着を見そうなところに、科学の落とし穴が待っていたのだ
科学の進化に追いつかない人間
小説で描かれるのは人の命を救うはずの医学の進歩が、人を殺す生物兵器の転用に利用され、人類を滅亡の淵にまで追い込む皮肉であり、中盤にフィンランドの学者が最後の講義で語るように、科学の進歩に対してそれを生かす哲学がまったく追いついていないのではないかという警鐘である
フクシマの後だと、人類は自らコントロールできない力を手にしているのではと、身に染みる作品だ
映画との違いは、思っていたよりもなかった
主人公格の地質学者・吉住は、日本の美人記者に思いをはせるがそれほど本気でもない(映画では多岐川裕美が元恋人の看護婦を演じた)。映画ではアメリカの子供からの通信を聞いて、南極基地の隊員・辰野が悶死するが、小説では吉住が南極が安全なことを秘匿するために辰野に応答を許さず、取っ組み合いの喧嘩となっている
小説には、絶望的状況に陥った人々の悲哀を描きつつも、一つの種の滅亡など地球にとって珍しいものではないという冷厳な視点がある。土屋教授が太平洋戦争を思い起こすように、作者の世代では住んでいる世界の滅亡を身近に感じるからだろうか
映画では深作欣二によって、そうした冷厳さが払拭され、死に瀕して発する情愛のほうに目が向けられていたようだ
人類は地球がくしゃみを吹き飛ぶ、地表を這う一生物にすぎない。そんな脆い存在にもかかわらず、その力を殺し合うことに使うのはなぜか
はたして作品が発表されてから、人類はどれだけ賢くなったのだろう
*23’6/28 加筆修正
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