『明智光秀の乱 天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊』 小林正信

室町幕府の存在感


明智光秀の乱―天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊
小林 正信
里文出版
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明智光秀はなぜ信長に謀反を起こしたのか。そもそも明智光秀とは何者なのか。「本能寺の変」を「明智光秀の乱」と再定義し、中世から近世への転換点を洗いなおす
本書は、明智光秀の行動を室町幕府の再興を目指す「奉公衆という視点から読み解き、諸説入り乱れるその反乱を「最後の中世人」の抵抗と分析する
謎の多い光秀の前半生から、その嫡子・光慶に多くの仮説を持ち込んでいるものの、室町幕府の持っていたイデオロギーや枠組みがいかに戦国大名たちを拘束していたか、ワンマン体制に見える織田信長の政権が実に微妙なバランスの上で成り立っていたかを明らかにする
単純に下克上、実力主義と描かれがちな戦国時代は、実際は多くの前時代的しがらみに囚われていて旧習と新機軸が入り乱れていたのが織田政権だったのである

明智光秀とは、何者なのか
明智氏は美濃の守護職・土岐氏の一族といわれるが、本書によると光秀の時代に明智氏そのものは滅亡していて、その血を引く美濃の妻木氏三河の菅沼氏は改姓していた
明智光秀という名前が史料の上で登場するのは、1568年の賀茂社(賀茂神社)への安堵状からであり、それ以前の経歴は江戸時代に書かれた『明智軍記』などにあるだけであてにならない
もし単なる朝倉家の家臣だったら、足利将軍と織田信長のパイプ役にはなりえない。将軍に仕える奉公衆は、由緒正しい血縁集団でもあり、将軍の覚えで引き立てられる存在ではない
となると、明智光秀の出自は「奉公衆」の家柄でなければならない
そこで著者が白羽の矢を立てるのは、進士家である。進士家は鎌倉以来の足利家の家臣で、武家故実の「儀礼・式法」に伝承する名家だった
一族の進士晴舎足利義輝が暗殺された永禄の変(1565年)で戦死していて、その娘は将軍の側室・小侍従は義輝の子を妊娠しながらも殺されてしまった
ここで著者は大胆な推論を立てる。小侍従は実は生き延びていて、その子を同族の光秀が育て、義昭の次期将軍として養っていたというのだ。それが嫡子とされている明智光慶!
光秀は本能寺の変直後に、細川藤考への書状で「近江を平定したら退いて、あとの事は光慶と忠興(藤孝の子)に任せる」とあって、単なる嫡子に対する扱いとは違うという
……正直、著者の仮説は飛躍が過ぎるような気もして、明智姓は妻の実家・妻木氏の源流から取って、改名好きの信長が父・信秀の「秀」の字を与えたというのが妥当なような。細川家との婚姻関係を見ると、その出自が「奉公衆」なのは間違いないだろう
光秀の「光」は義輝の戒名からとすれば、義輝の遺志を継いで幕府中興を果たそうという固い決意も分かる

織田信長と将軍家のつながりは深い
足利義輝は打倒三好氏のために諸国の大名に上洛を呼びかけていて、上杉謙信の上洛が有名。今川義元は謙信をはばかって、上洛を一年ずらして桶狭間に倒れたという
桶狭間で一躍有名になった信長へも上洛の要請はあり、三好三人衆は先んじて義輝を討ったのが永禄の変。斉藤家との抗争から信長の上洛も遅れ、1568年にようやく義輝の弟・義昭を京入りさせられた
しかし、義昭は戦国大名に憧れたのか、室町将軍の立場を無視して側近に他人の土地を与えるなど、職権濫用に及ぶ。これを押し留めたのが織田信長であり、彼は既得権益を守ることで畿内の諸勢力を安定させ、諸国平定の大軍と大義名分を手に入れた
そうした畿内の諸勢力との調整役が明智光秀であり、複雑怪奇な上方の力関係を整理した。義昭はこうした信長・光秀の体制に反抗し出奔に及ぶが、光秀ら残留した「奉公衆」によって、幕府の機構は維持されることとなる
将軍が京都にいないことは「室町あるある」であり、イコール幕府滅亡とはいえないのだ

織田家はその根拠地・東海地方と光秀が統率する畿内(室町幕府)の二本立てで伸張するが、その支配領域が広がるうちに制度矛盾が露呈する
室町幕府は、畿内から西日本よりに支配領域があり、東国には鎌倉公方をおいてしばしば東西対立を繰り返していた。後醍醐帝の南朝対策のため、京都に根拠地を置かざる得なかったからだ
その支配領域に、足利義満が太政大臣となって日明貿易に乗り出したことからも、平氏政権に近い性質があった
そうした西日本重視で進んでいた信長だったが、東国の武田氏との戦いから東海地方の武士たちの声を無視できなくなる
信長政権の東担当、徳川家康は、足利家の仇敵・新田源氏の末裔を強調していた。その心は、室町幕府によらない新たな武家政権の希求である。信長政権内の徳川家の影響力は大きく、三方が原の戦いで織田軍が無気力な戦いに終始すると、徳川家内で反織田勢力が芽生え、嫡子信康が切腹する築山事件へと発展。著者は、信長が援軍に出た佐久間信盛を追放したのを、嫡子すら失った家康とその家臣団への懐柔だとする
「清須同盟」は信長が主で、家康が従といわれるが、それは別々の家の同盟と捉えるからで、そもそも同じ枠内とするなら徳川家は織田家一番の親藩なのだ
所領を広げて行くうちに室町幕府の枠組みに収まらなくなり、信長も右近衛大将、右大臣と、幕府の副将軍格から直接の支配者へ軸足をずらしていく
決定的だったのは、武田家を滅ぼして関東へも直に影響力をもったこと。滝川一益を関東管領とするなど、室町幕府とは別の武家政権への秩序作りが始まった
そのうえ現将軍・義昭を抱える毛利家との戦いに、「奉公衆」が差し向けられる展開は、光秀たちをさぞかし絶望させたことだろう

さて、本能寺の変によって何が生じたか
信長の新しい武家政権構想はその死によって消え、山崎の戦いで光秀が敗れたことで室町幕府は、その実質的運営者を無くし滅亡する。その間隙を突くように、朝廷中心の政治「公家一統」を目指す正親町天皇とその側近が、秀吉に関白太政大臣への道筋をつける。著者いわく、関東に家康を置く構想は信長の頃から視野にあったといわれるが、諸大名に官位を配るスタイルは平氏政権的である
信長の武家政権構想は、家康の江戸幕府として結実する。山崎の戦いで敗れた「奉公衆」の生き残りは、幕臣の名門・細川藤孝を頼り、武家故実に通じる細川家は家康の征夷大将軍就任に貢献した。足利義輝の子ともいう尾池義辰(著者によれば明智光慶!)を、忠利の代に引き取っている
また、将軍義輝が三好氏の本拠・阿波を脅かそうと長曽我部氏を動かした関係から、土佐にも流入。坂本竜馬の実家は明智左馬助(秀満)の子孫を称している(坂本姓は坂本城から)


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