【読書メモ】司馬遼太郎の軍隊論

『街道を行く』第6巻に気になる文章があったので、メモ代わりに書いておく
司馬の戦車隊が本土決戦に備えて関東に移ったとき、避難民が北上して道路に充満した場合どう対応するか、大本営の参謀に聞いたという話

 そういう私の質問に対し、大本営からきた人はちょっと戸惑ったようだったが、やがて、押し殺したような小さな声で――かれは温厚な表情の人で、決してサディストではなかったように思う――轢っ殺してゆけ、といった。このときの私の驚きとおびえと絶望感とそれに何もかもやめたくなるようなばからしさが、その後の自分自身の日常性まで変えてしまった。軍隊は住民を守るためにあるのではないか。(『街道をゆく 6』 p36)


司馬のエッセイで何度も書いた有名なエピソードで、作家としての出発点と紹介されることもある
ただし、保守系の論客が元軍人たちにあたったところ、そういう作戦や指導の存在は確認できなかったそうだ
それはともかくとして、このエグい話から、単に軍隊否定に終わらず、軍隊の本質にまで切り込んでいく。長くなるが、引用する
 

しかし、その後、自分の考えが誤まりであることに気づいた。軍隊というものは本来、つまり本質としても機能としても、自国の住民を守るものではない、ということである。軍隊は軍隊そのものを守る。この軍隊の本質と摂理というものは、古今東西の軍隊を通じ、ほとんど稀有の例外をのぞいてはすべての軍隊に通じるように思える。
 軍隊が守ろうとするのは抽象的な国家もしくはキリスト教のためといったより崇高なものであって、具体的な国民ではない。たとえ国民のためという名目を使用してもそれは抽象化された国民で、崇高目的が抽象的でなければ軍隊は成立しないのではないか。
 さらに軍隊行動(作戦行動)の相手は単一である。敵の軍隊でしかない。従ってその組織と行動の目的も単一で、敵軍隊に勝とうという以外にない。それ以外に軍隊の機能性もなく、さらにはそれ以外の思考法もあるべきはずがない。(p37)


これが軍隊の本性だろう
対テロ戦争でハイテク化した兵器を持つにも関わらず、民間人に多くの犠牲者が出てしまうのは、つまりこういうことなのだ。近代の軍隊は相手の軍を潰すために協力な火力を持つのであって、具体的な住民を守るようにはできていない
まして他国の住民を守るために、自軍の兵士の犠牲を強要する作戦はとれないのであって、選択肢として住民を犠牲にするように傾くのだ
安全保障の論議でも、軍隊を動かすとはいったいどういうことなのか、その原理原則をわきまえないと悲劇が繰り返されることだろう


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(2008/09/05)
司馬 遼太郎

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