『街道をゆく 4 郡上・白川街道、堺・紀州街道ほか』 司馬遼太郎

農協的ホテルに激怒!


街道をゆく 4 郡上・白川街道、堺・紀州街道ほか (朝日文庫)街道をゆく 4 郡上・白川街道、堺・紀州街道ほか (朝日文庫)
(2008/08/07)
司馬 遼太郎

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今回は畿内の「周辺」と、少し北陸へ
第1巻からつぶやかれてはいるのだけど、本巻では特に土地開発に対する怒りが吐露されている。作家として歴史の余韻に浸りたいのに、それを画一的な土建事業によって無機質な光景しか観ることができない
そこには単に地元の経済だけでなく、政治家と行政と業者の癒着が見え透いていて、俗悪な建物が建てられていく。後に社会主義ばりの土地公有化論をぶったのも、私欲で風土が荒らされるのを見過ごせなかったからだ
その発端を昭和30年代からと、高度成長期以前から射程に収めていて、怒りの根は深い
面白いのは、今やシャッター化した商店街こそ、「画一的」のシンボルとしているところ。自民党政権からマスコミまでが囃したてる地方創生、町おこしは、司馬が呪う昭和型開発にすぎないのだ


<洛北街道>

鞍馬街道から花背峠を越え、山国街道に曲がり、周山に抜ける
冒頭は謎の集団、スタスタ坊主の話から
江戸時代には山伏、伊勢の御師、高野の聖、虚無僧と様々な宗教人が往来したが、スタスタ坊主は上半身裸で腰にしめ縄と、現代では変態、当時でも異様な格好だった
山伏のばったもんにも思える風体ながら、実は鞍馬寺の手代で、伊勢の御師のように札を売り歩き、寺の財政を支えていた
話はそこから、山伏、僧兵に及ぶ。友人の山伏に火の玉を出せる男がいたとか、ほんまか

日本的悪玉の鳥羽上皇を連想しつつ、山国では長州藩士・河内山半吾の話題に。半吾は無名に終わった志士ながら、山国に潜入して住民をてなづけ、鳥羽・伏見の戦いの時には、「官軍・山国隊」を編成した。ただし、戦いには間に合わず、名を挙げられなかったようだ
山国には、光厳天皇の御陵があり、維新後に正統とされなくなった北朝の天皇を偲ぶ


<郡上・白川街道と越中街道>

岐阜からスタートとあって、『国盗り物語』の取材で目にした菜の花畑を回想。菜の花は戦国時代から灯火の油に使われ始め、司馬からすると優しい文明に映るのだろう
郡上八幡城では、築城した室町時代の武将・東常緑を取り上げる。東常緑は当代一流の風流人で、関東の千葉氏との姻戚から遠征していたとき、交流のあった武将・斉藤妙椿に城を奪われた
常緑はその口惜しさを歌にして、妙椿は感じ入って城を退去したという。「何がやりたかったんだ、コラ」と思うが、まだ戦国以前の暢気だった時代のエピソードである

白川谷では、迷い込んだ僧の伝承が残っていた
旅に疲れた僧は村に泊めてもらい、やがてそこの美しい娘と結婚するが、その厚遇にはオチがあった。村では一年に一回、山の主に生け贄を捧げなければならず、村では迷い込んだよそ者を選んでいたのだ
僧は一念発起して山の主といわれる山猿を徹底してこらしめ、悪習を払拭したという
後に白川谷へは浄土真宗が広まり、門徒の町となった。司馬は仏教が文明を運んだ事例として捉える
飛騨を抜けて越中こと、富山が終着駅。富山県は東西を呉東、呉西で把握していて、それぞれ関東と関西文化圏の分かれ目となっているとか


<丹波篠山街道>

本来は長岡京で建設途上の光景を思い浮かべる予定が、あまりに開発が進み地形そのものが変貌していた
怒りの路線変更で、京都を北へ上っていく
老の坂では明智光秀を思い起こしつつ、もう一人の“謀反人”大本教の出口王仁三郎につなげる。大本教の弾圧は、永田鉄山が刺殺された相沢事件と同年で、司馬の心に深く刻まれていた
出口王仁三郎が教団内で「天皇」に擬されているというイチャモンから、後の首相となる平沼騏一郎検事総監が断行した。平沼自身は官僚でありながら、右翼結社である国本社の総帥を務めていて、本人の「思想的正義」に端を発していた
もっとも出口はこの事件の後に、昭和維新の活動へ参加していくのだが

明智光秀の前例から、江戸幕府は京丹後を京都が窺える要所と認識し、亀岡城には譜代の大名を置き、藤堂高虎の縄張りの元、近世城郭に改築した
綾部に元海賊大名の九鬼氏を置くなど、近場にはおとなしい小大名を配置させている


<堺・紀州街道>

戦国時代の商人によって自立した街であり、大名を寄せ付けない武装から、ルイス・フロイスは「国家のごとき制度」と書き残している
堺商人は江戸の町人とは違い、大名よりも室町人としての誇りを持っており、対明貿易と五山の僧との交流から、禅宗に帰依していた。利休の茶道も禅の死生観に通じていて、武士がそれに惹かれたのも分かる話だ
信長に屈服し秀吉の大阪開発で経済の中心地ではなくなるが、秀吉本人は堺出身者をよく用い小西行長を大名にまで取り立てている

大阪ゆかりの人物として上田宗固を取り上げる
豊臣方の武将として戦功を上げ続ける一方で、一流の風流人でもあった。関ヶ原で西軍についた後、浅野幸長一万石の厚遇召抱えられる。同家の家臣たちは不信に思ったが、小柄をからかった者に刺殺の覚悟を見せ、一同恐れ入ったという。使いに来た宗固に、家康は親しみをもって声をかけたという逸話が残るほど名の知れた武将だった
その宗固は大阪の陣にも出陣し、大阪方の豪傑・塙団右衛門に一番槍をつける大功を立てている


<北国街道とその脇街道>

名は北国街道といっても、滋賀県から福井県への街道
かつて北陸地方には、東国の「蝦夷」に匹敵する「」という勢力が存在した。有乳山(あらちやま)近くに存在した「愛発(あちら)の関」は、大和朝廷との境目となっていた
日本書紀では応神天皇の五世の孫とされる継体天皇は、大和朝廷が後継者に困ったとき、武人である大伴氏と物部氏がむかい入れたという
司馬の推理では、この継体天皇は「越」の支配者であり、軍事上の都合から招かれたとする
当時、満州に高句麗が出現し、朝鮮半島を南下。百済が日本と関係が深い任那国などを侵食しはじめて、大和朝廷はこの地殻変動を憂慮していた。ゆえに距離を置いていた「越」の力を取り込むことによって、半ば自立していた九州の勢力に対抗し巻き返したという

蒸気汽船が現れるまで、太平洋岸は難所が多く安定した航路にはなりえなかった
そのため北前船」の日本海航路が盛んで、福井県の敦賀はその中心的な港だった
敦賀から琵琶湖は山越えながらそれほど遠くないので、陸路を経て琵琶湖の「湖港」も栄えて、近江の国は今以上に交通の要所となった
江戸幕府が四天王の井伊家を彦根に配置したのもそれゆえで、水戸の天狗党は京都に乱入しようとしてせき止められ、敦賀で処刑されている


次巻 『街道をゆく 5 モンゴル紀行』 
前巻 『街道をゆく 3 陸奥の道、肥薩の道ほか』
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