『街道をゆく 3 陸奥のみち、肥薩のみちほか』 司馬遼太郎

北端から南端へ


街道をゆく 3 陸奥のみち、肥薩のみちほか (朝日文庫)街道をゆく 3 陸奥のみち、肥薩のみちほか (朝日文庫)
(2008/08/07)
司馬 遼太郎

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第三巻は、北は青森~岩手、南は熊本~鹿児島、そして自宅のある大坂・河内とバラバラだ
東京を中心に見ると、本州の北端である奥州と九州南部は<辺境>に見えてしまうが、九州のほうは大陸からの文化流入地であり、現地では周辺というコンプレックスは薄いらしい
それに比べ奥州のなかでも陸奥は、弥生時代に始まる水田文化に遅れをとり、かつ米作に向かない地勢ゆえに、後進地域にされてしまった
古代以来、日本を覆った弥生式水田文化」の価値観とそれに当てはまらない者への差別など、日本人の負の側面にも焦点があたる


<陸奥のみち>

八戸から久慈までの久慈街道を歩く
冒頭にフランス人が東北を肥沃な土地と見なし、「冷涼な本国と比べ神様は不公平だ」と嘆く逸話が引かれる。東北の農業は冷害に悩まされてきたが、それは熱帯産のコメにこだわったからであり、もし牧畜中心の開発がされれば大飢饉は防げたと夢想する
肉食を忌む仏教と全てをコメではかる江戸時代の体制が、東北の貧困の源ではないのか。明治政府も北海道に熱中して東北の開発を先延ばしにし、昭和維新へとつながっていく

陸奥の戦国大名、南部家は、元は甲州の出で、鎌倉時代に一族が遠征し八戸に上陸した。東北への太平洋航路が確立したのは江戸期であり、司馬は決死の航海と想像する(鎌倉幕府の奥州藤原遠征での功績とも伝えられるが、真偽は不明)
久慈には独自勢力がおり、南部家の支配に甘んじたのち、大浦為信が津軽平野へ遠征し平定。秀吉と繋がることで独立を果たした
南部家と津軽家の確執は明治にまで続き、津軽・弘前藩は青森県南部・盛岡藩は岩手県へとなるが、奥羽列藩同盟から官軍に寝返った弘前藩の青森県に、南部家発祥地である八戸が編入されることになる
廃藩置県において、戊辰戦争の論功行賞が反映され、薩長土肥はその居城が県庁所在地となり県名もそれに準じたのに対し、幕府方は県庁を居城とかけ離れた寒村に建てられた
そのほか、早過ぎた尊王家・高山彦九郎の飢饉取材、日本唯一の独自思想家にして農本共産主義者の安藤昌益にも話が及ぶ


<肥薩のみち>

熊本城から八代人吉を経て鹿児島県に入る
肥後は古来より地味豊かとされ、洪水に悩まされながらも、各地に小豪族が割拠できた。比較的強豪だった相良氏でも統一できず、最初に国ごと統治したのは秀吉に送り込まれた加藤清正その卓越した土木技術と豪傑ぶりをもって、肥後人の尊崇を集め、後に入った細川家は熊本のみに留まらず、江戸にも廟を築いて拝んだ
島津家からすれば、熊本城は中央政権の牙城であり、西南戦争で標的したのは本能ともいえた。田原坂では異例にも16日間の戦闘が続いた
司馬は田原坂でその銃撃戦を経験した女性に出会い、その凄まじさを聞く。乃木希典も旅順攻撃の際に、「田原坂の方が凄かった」とこぼしている

薩摩の国境では、江戸の密偵“薩摩飛脚”への抹殺浄土真宗の禁教「念仏停止」へ思いはせる
そうした閉鎖性の反面、薩人には、底抜けの寛容さがある
朝鮮出兵の際に連れてこられた陶工は、その技術から士分に取り立てられ、その陶磁器は「白薩摩」といわれる高級品として藩の財政を支えることとなった。司馬はその一家である沈寿官を訪ね、彼らに薩摩隼人の心意気を感じる
しかし西南戦争以来、鹿児島県民に薩摩隼人は消えたという。なぜか
一つには、薩摩では武士と農民の隔たりが大きく、しかも大勢の藩士を養うために農民は収奪され続けた。そのため農村に富農を生むような蓄積はなく、中間層が育たなかった
そのため隼人の気風は士族のみに留まり、その消滅とともに消え去った。ちょうど『翔ぶが如く』を執筆中にも関わらず、司馬は「薩摩隼人は人工物」と断じる


<河内みち>

北と南の次は、足元を固めたいのか自宅のある河内
近場に引っ越してきた女性に「とうとう河内まで落ちてきたとは、情けないやら悲しいやらで」と言われてしまうが、もともと河内は古代王朝の中心地だった場所であり、場末イメージは今東光の小説『悪名』(勝新主演で有名)によるものだそうだ
戦前には河内王朝の古墳に、楠木正成を輩出したことから、神聖な土地と見られていた
江戸時代には天領ゆえに年貢が安く、農村に資本が蓄積された。富農の一人、中甚兵衛大和川の氾濫に耐えかねて、治水工事をお上に進言。19歳に陳情を開始し、68歳に聞き届けられた。この執念を、司馬は楠木正成と比較する
河内はその名のとおり、酷い沼沢地であり、それを変えたのは農本主義の江戸幕府と、珍しく江戸時代を褒め称えている

平安末期の歌人、西行は、河内の弘川寺に生涯を終えた
西行は元武士、それも北面の武士というエリートであり、若くして教養人として知られたものの、23歳で出家して諸国を放浪した
司馬は知り合いの作家・富士正晴からのしつこい問いかけから、西行の墓を探しに山へ登る。やはり墓は弘川寺の近くにあり、なぜか巨大な円墳をなしていた
近くには、江戸時代に「今西行」と言われた似雲法師の墓がある。似雲は西行の大ファンでその生涯を完全コピーするように生き、同じ場所に葬られた
江戸時代に「梵字学」(サンスクリット)の研究し、今では世界的権威として評価される慈雲尊者の高貴寺にも訪問。西行とともに真言宗であり、河内は密教ゆかりの場所なのだ
(そういえば後醍醐天皇も真言立川流に接したというなあ)


次巻 『街道をゆく4 郡上・白川街道、堺・紀州街道ほか』
前巻 『街道をゆく2 韓のくに紀行』
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