『街道をゆく 2 韓のくに紀行』 司馬遼太郎

70年代の韓国


街道をゆく 2 韓のくに紀行 (朝日文庫)街道をゆく 2 韓のくに紀行 (朝日文庫)
(2008/08/07)
司馬 遼太郎

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第2巻はほぼ全編、韓国の旅
前巻から古代日本における百済人に注目しており、今回はそれのみならず半島南端の任那などの小国たちと北九州の同質性へ踏み込んでいく
日本人の多くと朝鮮人は、その言語の構造からモンゴル人やツングース系の満州族に源流があると仮定し、その共通点を見つけつつも、その歴史の歩みの分岐点をその国・組織の在り方から見出していく
それは政治倫理の激しさ=朱子学イデオロギー(司馬によると太平洋戦争敗戦の原因)へとつながっていく。しかし儒教社会→アジア的停滞という発想は、まがりなりにも韓国が経済成長に成功した今となっては、整合性がとれないかもしれない
初出が1971年であり、韓国はクーデターの朴正熙政権下。司馬の見た、桃源郷のような農村も、今では様変わりしていることだろう


<加羅の旅>

司馬が韓国を選んだ原因は、日本人の原型は朝鮮人に近いという理由だが、旅を手配する韓国人女性からは「つまりゴウヘイ(併合)しようというのですか」と言われてしまう。日朝同祖論は韓国併合に利用された過去があり、光復(独立)から間もない70年代には今以上に反日の傾向がきつかったのだ
旅も李氏朝鮮に朝貢していた対馬藩の大使館「倭館」へ行くつもりが、秀吉の朝鮮出兵の拠点となった「倭城」に案内されてしまう珍道中に。なぜかそこは動物園となった後、廃墟となっていた
釜山を通る際には、司馬が戦時中に戦車を率いながら迷子になってしまい、現地人に道を教えてもらう話も飛び出る

対馬は島が土地が貧しいため、農業だけではとても領民を養いきれなかった
そのため倭寇に転じ、李氏朝鮮へ朝貢することで米を賄った。江戸時代に幕府は対馬藩へ本土の飛び地を与えたものの、李氏朝鮮との関係は続き明治に到る
韓国の対馬返還論には、こういう元ネタがあるのだ(独立当初から返還論はあるらしい……)


<新羅の旅>

古代朝鮮の一国、駕洛国の開国神話が残る亀旨峰
天から降った金の卵から金首露王が生まれた伝説が残るこの山には、その王陵がある。司馬が訪れたときには、十数人の男が三跪九拝を繰り返しいた
金首露王は金海の金、この地域一帯の金姓の人間の祖先にあたり、王陵はその祖廟にあたるのだ。司馬は李朝500年の伝統が続いているような錯覚を覚える
千年以上前の先祖を自分に結び付ける感覚は日本人には縁遠く、いわゆる歴史認識問題の温度差にも通じるものがありそうだ
ちなみに新羅のシロは新羅語で黄金を指すので、司馬は新羅とツングース系の満州族のつながりを連想している

美術史に疎いと仏国寺を素通りし(!)、地図にもない「慕夏堂」を目指す
朝鮮出兵のときの降倭(降伏した日本人)・沙也可を主人公にした『慕夏堂記』という書があるのだ。沙也可は朝鮮国王から金忠善という名を授かり、朝鮮側の将として多いに戦い、日本の火縄銃の技術を伝えて、女真族との戦いにも活躍したという
その彼が隠棲した村が「慕夏堂」といわれるのだ
『慕夏堂記』自身は沙也可の子孫がそれを称揚するために書いたと言われ、その政治運動が功を奏したのか、異例にも村全体が両班(ヤンパン)に封じられたという
さて、「慕夏堂」=「友鹿堂」である老人に尋ねたところ

 彼女は沙也可とか金忠善将軍とかいうような名前を出し、この村がかつての日本武士の村であるというので、このイルボン・サラム(日本人)たちはやってきたのだ、という意味のことをいった。
 それに対し、老翁ははじめて口をひらいた。低い声であった。
「それはまちがっている」
 と、老翁はゆったりとしていた朝鮮語でいうのである。それはというのは、そういう関心の持ち方は――という意味であった。
こっちからも日本へ行っているだろう。日本からもこっちへ来ている。べつに興味をもつべきではない」
 と、にべもなくいったのである(p170)



<百済の旅>

まずは大邸のホテルで、異例の憤懣を吐く。フロントにマッサージ師を依頼したところ、相場の十倍以上の値段をふっかけられたのだ
フロントがマッサージ師のギャラを撥ねるのみならず、客にふっかけて浮いた金を懐に入れているという仕組みになっていて、これをアジア的構造と断定する
人間でなくシステムの問題として、こうした賄賂を生む慣習と儒教社会のシガラミが絡むと近代資本主義は興せないと展開したが、その後の経済発展は司馬の予測が外れたのが、韓国社会がそこから脱したのか

百済の史跡は新羅に滅ぼされたときに徹底的に破却され、しか残っていないという
旧百済出身者の恨みは深く、司馬が出会った研究者は百済への愛と新羅への憎悪を呆れるほどたぎらせてしまう
百済は魏晋南北朝時代の南朝に親しみ、特にその最後の王・義慈王はその六朝文化に耽溺したという(いちおう唐に朝貢もしていたようだ)
新羅高句麗を包囲するという唐の戦略に乗り、その強力な軍を持って百済を滅ぼす。新羅は名前すら中国名に変えるという思い切った恭順政策を採り、国王が名目的には唐の司令官の配下となる屈辱にも耐えて、唐の力を借りることができたのだ
百済研究者は「忌むべき事大主義の始まり」といってしまうが、新羅はその後、唐が完全支配に乗り出す動きには激しく抵抗し、独立を守り抜いている
半島という大陸の情勢に絶えず振り回される地勢で、統一国家を保つためには、「事大主義」もやもえない戦略だった

最後はなぜか日本の滋賀県
さて、義慈王の降伏後に百済復興させる動きがあり、武将・鬼室福信は日本からの先遣隊を受けて進撃した。しかし、内紛から担いでいた百済王子に殺され、白村江の戦いで日本の援軍は壊滅してしまう
鬼室福信の息子、鬼室集斯は多くの亡命者ともに日本へ逃れ、朝廷は「小錦下」(従五位下に相当)、「学識頭」(文部大臣兼大学総長)と与えた
その集斯は晩年、蒲生郡の小野へ隠棲していたのだ。江戸時代に儒教が一般化すると、儒者たちが集まり、文化六年(1809年)に当時の領主、宮津藩主・松平伯耆守が盛大な祭典を施したという

*蒲生氏郷で有名な蒲生は、「かも→がもう」と一巻でも取り上げられた鴨族」を祖先とするらしい。その証拠に神社も出雲系が大半だという


次回 『街道をゆく3 陸奥のみち、肥薩のみちほか』
前回 『街道をゆく1 湖西のみち、甲州街道、長州路ほか』
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