『街道をゆく 1 湖西のみち、甲州街道、長州路 ほか』 司馬遼太郎

読破できるかな


街道をゆく 1 湖西のみち、甲州街道、長州路 ほか街道をゆく 1 湖西のみち、甲州街道、長州路 ほか
(2014/08/07)
司馬遼太郎

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いわずとしれた司馬遼太郎の紀行集。1971年週刊朝日誌上に連載を開始し、1996年の急逝により『濃尾参州記』で絶筆となった
文庫では43巻朝日ビジュアルシリーズでは60巻でそれぞれ構成が違い(ビジュアル版では長州路が第10巻)、実家に置いてあるのも文庫・ビジュアル版が入り乱れているので、全部を網羅できるか自信はないが、手に入る分の読破を目指します

最初から言い訳しておくと、文庫版は感想が書きにくい
雑誌の連載順にまとめているので地域がバラバラなのだ。一巻を開いてみると、「湖西の道」(滋賀県)、竹内街道(奈良県)、甲州街道(東京都)、葛城みち(奈良県)、長州路(山口県・島根県)、とこの通り
そして、本文も純粋な紀行文でなく、小説における閑話休題、いきなりタクシーの運転手が入り込むノリが続き、話が飛びます飛びます。「ここの風景を本来、描写すべきだが、書かない」(ええっ)とか、かなりフリーダムである
旅の目的が「日本人の原型を探すであり、歴史小説家としての想像力が勝ってしまうのだろう。とはいうものの、同行者や道々で知り合った人たちの生の声がぞんぶんに拾われていて、取材旅行の様子が偲ばれる


<湖西の道>

記念すべき第1回目は滋賀県の「湖西の道」。滋賀県の古名、「近江」の響きにロマンがあったかららしい
近江の由来は、「近淡海」(ちかあわうみ)で、古代人にとって“琵琶湖”は「近くにある淡水の海」だったのだ(ちなみに、遠江は“浜名湖”)
かつて湖西地方は「楽浪(さざなみ)の志賀」と呼ばれたことから、朝鮮半島の地名「楽浪」との関わりを想像する
楽浪古墳は朝鮮式で、大津市には新羅神社という古い社がある。古朝鮮の新羅は、中国の北斉の属国となったさいに、「楽浪郡公新羅王」をもらっていて、楽浪=新羅といえるのだ
石垣構築の職人集団「穴太衆」に関しても、石造の技術から渡来人の出自を連想する

朽木谷の道編では、朝倉征伐における織田信長の退却を取り上げる
浅井長政の裏切りにあった信長は、少数の側近とともに京都へ通じる朽木谷を通らざるえなかった。推奨したのが主君殺しで有名な松永久秀で、もっとも信長を殺せるチャンスで柄にもなく善人面したところに、彼の衰運をみる


<竹内街道>

二十代の日本語学者ロジャー・メイチンとともに、奈良の旅へ。地名の由来を語り合うが、相手の博識さに司馬も黙さざるえない(苦笑)。石上(いそうえ)神社」の「いそ」は、海岸の磯を連想させ、奈良盆地にはそうした岸を由来とする地名が多いことから、古代の奈良はかなりの沼沢地と推測される
石上神社は本来、森だけだったが、白河上皇の時代に拝殿ができ、明治になって本殿が建てられてしまった。しかし、古代の信仰からすると、森のみが正しいそうだ
石上の森には、崇神天皇が周辺の民から武器を取り上げて納めさせた武器庫があり、大和支配の中心としたそうで、明治七年に言い伝えどおりに掘り起こしてみると、数々の武具、宝物が出土したという

その後は、日本最古の神社と呼ばれる三輪山
もともと大和地方での信仰の中心地であり、ここを支配した出雲族も島根由来ではなく大和が中心だった。出雲系のミワ族は、「大物主命」(おおものぬしのみこと)を主神として崇め、海石榴市(つばいち)で市場を営んでいた
そこへ九州から天照を崇める天孫一族が入ってきて、崇神天皇の代に大和地方を軍事的に制圧する。疫病の際に、帝が自身の皇女を巫女に使ったところ、白髪になって事が収まらず、帝はミワ一族を探し出して祭主としたという
竹内越では、司馬自身の親戚が住んでいたとあって、思い出話に。出征が近くなったときに、ぷらぷらと出かけていたら、赤いセーターの女性に見惚れたという。昭和十八年はまだ、こんな服装が許されていたのだ

ロジャー・メイチン氏は、日本の学界に定着できず、母国イギリスで翻訳業や非常勤講師をされていたそうだ。2002年に心臓発作で亡くなられた。59歳
くわしくはこちらの記事で→http://d.hatena.ne.jp/onigashima/20121029/1372511960


江戸時代を見た英国人―日本及び日本人は彼らの目にどう映ったか (二十一世紀図書館 (0033))江戸時代を見た英国人―日本及び日本人は彼らの目にどう映ったか (二十一世紀図書館 (0033))
(1984/01)
ろじゃめいちん

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<甲州街道>

大田道灌のエピソードから『更級日記』を引用し、騎射の技術をもつ坂東武者を突然変異的であるとして、大陸からの渡来人と結びつける。朝鮮半島のおいて高句麗の台頭から新羅の統一の過程で、百済人二千が東国へ「居く」という記録があるそうだ
家康が関東に入るさい、八王子が要衝として八王子千人同心」という特殊な直臣集団が生んだ。同心ゆえ三十人俵二人扶持という低収入だったが、屯田兵として凌いだ
それでも、武士としての意気が高く、農民出身の新撰組を馬鹿にして誰一人入隊せず、旗本に取り立てられて甲府へ向かう際は嘲笑していたという
その八王子では、熱烈な慶喜ファンである女性二人と知り合う。そのうちの一人、河合重子さんは慶喜を研究するために東京女子大学に入り、空襲警報が鳴り響くなか、古本屋へ出かけたという。しかし、そんな彼女は学者でもなく教師でもなく、履物屋の女主人を営んでいる

(そういう人を生む土壌が文明というものかもしれない)
ということを、大げさでなく思った。大げさにいえば日本にもそのような、つまりいかなる名利にもつながらない精神活動を生涯持続するという人が出てきているということにおどろき、こういう精神を生んだものが江戸文明であるとすれば、江戸の深味というものは存外なものかもしれない(p123)




<葛城みち>

悲しい葛城族の物語である
五世紀半ばに、雄略天皇は皇位継承権を持つ兄たちをことごとく殺し、先帝の重臣・葛城円を一族ごと成敗した。『日本書紀』にすら、この帝は「大悪天皇」と罵られている
この葛城氏は、ミワ一族と同様に天孫一族より前に奈良で勢力を張っていて、その神様が「葛城の一事主命。雄略帝が狩猟していると、その神は帝の格好をして出てきたので、葛城から叩きだし土佐(高知県)に配流したという。そして、そのお話のとおりに高知には、一言主の神社が現存しているそうだ
それから300年後の天平時代、弓削道鏡に運動した人により葛城山へ一言主が戻ったとか

さて葛城山には、鴨一族という謎の民族がいた
彼らは葛城の衰退ともに諸国へ流れ、京都では鴨川、上賀茂、下鴨と名を残し、役行者の開祖である役小角(えんのおづぬ)、『方丈記』の作者・鴨長明を輩出した
役小角は葛城の信仰に対し「神々の時代は終わった」と、新興の仏教に傾倒し雑多の仙術で神々をこき使ったという。先の一言主も昼も夜も働かされてしまった
あまりのことに一言主は時の天皇に頼んで、役小角を伊豆へ流したという逸話がある
背景には、大陸伝来のきらびやかな仏教文化の前に、古代の神々が飲み込まれてしまう社会変化があって、神々は仏の弟子として「菩薩」を授かることで生き延びていく
明治の廃仏毀釈のみならず、古代の神仏習合も国策だったのである


<長州路>

小説の影響か、「司馬ナニガシが長州にくれば殺す」と友人に知らされた司馬(苦笑)。そこから幕末の志士を生んだ気風をイメージしていく
戦国時代は律儀と言われた毛利家が、幕末では「長州人は怜悧で、信用できない」と評される。他の雄藩では、薩摩にしろ、土佐にしろ、会津にしろ、純朴で突き進んでいく印象だが、長州だけは例外なのだ
その答えを、長州藩の経営を見る。長州藩は関ヶ原の敗北で、領国を約4分の1に減らされてしまう。藩主が大名を辞めたいと願い出るほどの窮状を、貿易と塩田で乗り越える
江戸時代、沿岸伝いでも太平洋は難所が多かった。大坂→下関→蝦夷・奥州の日本海ルートが主流であり、北前船」はかならず長州に泊まる
「北前船」の発着港でもある三田尻には、日本有数の塩田が広がっていて、この二つをもって長州は実質100万石という富強を誇った
この農業に寄らない経済こそが、長州の都会っぽさ、怜悧さを生んだと推測している。そしてそれ以前の支配者、大内氏の気風にその淵源を見る

大河に関連づけていうと、当地の吉田松陰に対する敬慕は一段違う。明治の志士でも「先生」とつけるのは、松陰のみである
吉田稔麿にも触れていて、池田屋で沖田総司に切られたことのみが知られる彼の、短い生涯を紹介している
稔麿の生家は松陰に近く、もともと松下村塾に寺子屋のように通っていた。松下村塾はもともと玉木文之進の私塾であり、稔麿の少年時代は松陰の外叔、久保五郎左衛門が面倒を見ていた
12歳に家庭の事情でやめ、16歳のときに松陰が野山獄から出されたことで入門する。翌年、江戸へ行くまでの10ヶ月が松陰に学んだ実時間だった
松陰の評価はその識見を高杉晋作に似ると高く、高等の人物とした。江戸では旗本の家に住み込んで重用され、長州きっての幕府通として活躍が期待されていた
その稔麿の長州人らしからぬ死に様こそが、悪名たかき長州の信をかろうじてつなぎ、革命を成就させたとする


あっ、長く書き過ぎた。次からはちゃんと要約します(たぶん)


次巻 『街道をゆく2 韓のくに紀行』
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