ぶらりと、淀城跡公園

日曜に友人と競馬場へ行く約束をし、集合時間は7Rのパドックが始まる午後一時
少し早くついてしまったが、6Rから買うのも入れ込み過ぎというもの。ここは気分を落ち着けて馬券作戦を練ろうと、大スポと普段買わない競馬ブックを握り締め、淀城跡公園へ向かった
淀駅と京都競馬場が直通する大リニューアルを受け、付近の町並みもずいぶん変わっている。駅から競馬場までの道に、昭和風情溢れる飲食店、コーチ屋のおっさん、占い師等々がにぎわっていたもんだが、よく悪くもカジュアルになってしまった
それはさておいて、淀城跡公園

與杼神社

公園の前にあるのが、與杼神社「與杼」と書いて、「よど」と読む
秀吉が建てたわけではなくて、10世紀に桂川運送の守護神として建立された。というわけで、もともとは北のほうにあって、明治になって移されたようだ


淀城跡の石碑

さて淀城跡だが、どこの部分か分からないが石垣と堀の一角が遺されていて、それに囲まれた場所がそのまま公園になっている。どこの部分か明示してもらえると、雰囲気が出るのだけど…

唐人雁木跡

入り口には、唐人雁木跡」(?)の立て札が
唐人とは、中国人ではなく、李氏朝鮮から徳川将軍家へ送られた通信使のことで、淀川を遡った通信使一行がここで上陸したらしい
淀川は京都-大坂をつなぐ物流の大動脈であり、淀城はその要衝だったのである

大きなお堀

正直、公園内には見栄えのするものはなかったが、遺されたこの水掘は凄い。昔の伏見は各地の川が錯綜する湖沼地帯であり、淀城はそれを利用した中州の城だったのだ
淀城はもともと秀吉が淀君の産所として築城したもので、秀次の謀反で淀城主・木村重茲が連坐していったん廃城となるが、関ヶ原後に伏見城が廃されたことで再建され、松平定綱が淀藩六万石として移封された。その後、しばらく譜代の鉢植え大名が転々として、1723年に稲葉氏が入り、幕末まで城主を務める
要衝ながら戦火に巻き込まれなかった淀城だが、幕末において突如、存在感を示す。鳥羽・伏見の戦いで錦の御旗が掲げられたことをきっかけに、淀藩が劣勢になった幕府軍の入城を認めなかったのだ
この突然の裏切りは、幕府側の敗北を決定づけ、将軍・慶喜は江戸へ逃げて帰ってしまう
堅城のわりに籠城を経験したことはなかったが、歴史を動かしてしまった城なのである


でっ、冒頭に触れた淀遠征の結果はというと……察してくだされ(苦笑)
(この一行は、各記事の最後に固定表示するサンプルです。テンプレートを編集して削除もしくは非表示にしてください。)

コメント

コメントの投稿

非公開コメント


(この一行は、各ページ下部に固定表示するサンプルです。テンプレートを編集して削除もしくは非表示にしてください。)
カレンダー
06 | 2017/07 | 08
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 - - - - -
カテゴリ
SF (23)
RSSリンクの表示
リンク
FC2 Blog Ranking
ランキング
アクセスアップ!?
検索フォーム
はてな
この日記のはてなブックマーク数
タグランキング

サイドバー背後固定表示サンプル

サイドバーの背後(下部)に固定表示して、スペースを有効活用できます。(ie6は非対応で固定されません。)

広告を固定表示させる場合、それぞれの規約に抵触しないようご注意ください。

テンプレートを編集すれば、この文章を消去できます。