『乾坤の夢』 中巻 津本陽

江戸は「の」の字型の都市開発で、100万人都市となった。ふむふむ

乾坤の夢〈中〉 (文春文庫)乾坤の夢〈中〉 (文春文庫)
(1999/12)
津本 陽

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関ヶ原の戦いは、東軍の勝利に終わった。しかし、いまだ毛利家3万の軍勢は健在で、輝元が秀頼を擁して大坂城に籠もればどう転ぶか分からない。家康は輝元に穏当な使者を送って開城させた上で、西軍の諸大名に厳しい処分を下していく。ただし豊臣家に対しては、征夷大将軍の宣下を受けつつも臣従の姿勢を続けるのだった

中巻は、関ヶ原の戦いから大坂の陣までの15年
冒頭は関ヶ原の掃討戦だが、まだ東軍の勝利が決していたわけではなかった。吉川広家が中立化した毛利の軍勢は好戦的な毛利秀元に率いられていて、秀元は大坂城と秀頼を頼みにもう一戦しようとする
しかし輝元は家康の低姿勢から、本領安堵の約束を信じ大坂城を開城してしまう。結果、怖いものがなくなった家康は、毛利家120万石を36万石に減封するのだ
さて、天下人としての地位を確立した家康は、関ヶ原前の質素倹約から打って変わって、諸大名に大普請を課す。徳川家の拠点となる伏見城、二条城、彦根城、名古屋城などの造営に、江戸城、駿府城、姫路城などを大規模改修した。駿府城の普請には、豊臣家にも賦課されて、家康は臣従の姿勢を見せつつも権力を既成事実化していくのだ
江戸城の改築から諸大名の人質と参勤により、江戸の開発も本格化、朱印船による海外貿易も重視して、従来のポルトガル、スペインからオランダ、イギリスへと傾斜していく
本巻は関ヶ原後の“戦間期”を掘り下げていて、徳川家内部の本多正信・正純父子と大久保忠隣・大久保長安の暗闘、豊臣家に対する謀略他、マイナーなエピソードも満載だ

なぜ家康は豊臣家滅亡に15年かけたのか
家康は関ヶ原の時点で57歳と、当時としては高齢であり、あまり時間はかけられないはずである
理由の一つは、豊臣恩顧の武将の存在加藤清正は九州の中心に位置していたし、豊臣家と姻戚関係にある福島正則も関ヶ原の勝利で広島49万石を有していた
家康自身も秀吉に後事を託された“大老”であり、遺言である秀頼と孫の千姫を婚姻を実現した手前、表立っての討伐には名分が立たない
家康の次男にして越前75万石をもつ秀康が、秀頼に肩入れしている状況はかなり頭が痛かっただろう
大坂の陣までの15年で、大名の代替わりが進んでいく。1607年にその秀康が早世し、1611年に浅野長政、加藤清正が、13年に池田輝政、14年に前田利長が死去する。福島正則は健在だったが、清正の死は大きかったろう
仮に自分が死んでも、秀忠は豊臣家に対してなんら義理立てする筋合いがないと考えてもいただろう(千姫はいるけど…)
家康もただ人の死を待っていたわけではない。方広寺大仏殿など豊臣家に様々な普請をさせ、膨大な遺産を消費させている。本巻では、実家に援助を頼んだ千姫に対し、「なんで秀吉の大仏に徳川の金を使わねばならぬのか」と自分で勧めておいて跳ね除ける、狸ぶり(笑)が描かれている


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