『謎とき日本合戦史―日本人はどう戦ってきたか』 鈴木眞哉

明治の反乱士族だって火力重視(神風連を除く)

謎とき日本合戦史―日本人はどう戦ってきたか (講談社現代新書)謎とき日本合戦史―日本人はどう戦ってきたか (講談社現代新書)
(2001/09)
鈴木 眞哉

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日本に白兵戦の伝統はなかった!? 戦国武将の刀は首取用? 古代から近代まで日本人の戦い方を追う
本書は大河ドラマなどのメディアで展開される合戦=白兵戦のイメージは、実は明治四十二年(1909年)に改正された『歩兵操典』に端を発した幻想ではないか、と疑い、本当に日本人がしてきた合戦の実像を迫るものだ
各時代の合戦の検証は当時の報告書などを元にした実証的なもので、戦死者の死因のほとんどが弓矢などの飛び道具であり、白兵戦は例外的にしか起こらなかったことを指摘していく
そうした実際の合戦とは裏腹に、講談、特に江戸時代の軍記物は、合戦の描写に必ず鍔競り合い、刀傷による血みどろが描かれるようになり、庶民に合戦=白兵戦のイメージが定着したという
それでも江戸時代の軍学者は、戦闘が「遠戦」、飛び道具による射撃戦であることを伝えていた。白兵戦の伝統を捏造したのは、当時の欧米で流行していた戦術を受容した旧軍であり、日露戦争の誤解が日本刀への偏愛、火力を白兵で補う銃剣突撃へ向かわせた

日本にも騎馬武者が活躍した時代はあった
平安時代までは戦う者は、馬を自弁できる豪族に限られ、主兵装は弓。弓の名手が戦場の英雄となった
それを変えたのが、源氏に味方した坂東武者たちで、伝統を重視した騎馬武者中心の平家に対し、本来は戦わない身分の者たちも合戦に参加し数で相手を圧倒した。公家化して惰弱な平家に、勇猛な伝統を守った源氏という構図は講談の虚構だという
源平合戦で活躍したのは徒歩の弓兵であり、やはり「遠戦」で大勢は決した。数と数の戦いとなり、騎馬武者の割合は相対的に減っていく
室町時代も「足軽」に代表される徒歩弓兵の活躍は続き、武装に「槍」が加わったことで徐々に白兵戦の死者も増えていく。しかし、統計的には飛び道具の死者が多く、弓が主、槍が従の時代が続く
白兵戦の死者が増えたのは、武者の首を恩賞とする風習が広まったせいで、組み打ちからの首とりのため、「刀」が普及していく。戦術上の必要性ではなく、恩賞のために白兵戦の機会が増えたのだ
戦国時代に入ると、「遠戦」の死者に鉄砲の割合が多くなるが、本質的には「遠戦」の勝敗が合戦の勝敗となった

長篠の合戦では、信長が武田騎馬隊を鉄砲三千挺による三段撃ちで撃退したといわれる
しかし、実際には武田に騎馬隊はいなかったし、鉄砲が三千挺あったという記録はないという
戦国時代の軍隊に騎馬専門の部隊を組む余裕はなく、名馬と呼ばれる馬でも今で言うポニーレベルの馬格しかなかった
日本で騎馬隊が登場するのは、欧州から馬を輸入した明治後半以降だった
面白いのは、鉄砲の普及が天下統一のマイナス要因になったという指摘だ。鉄砲は攻城戦や待ち伏せなど防御側に有利に働き、信長が石山合戦を制するのに10年かかってしまった
となると、天下統一へのイノベーションは、鉄砲ではなく、付け城、街道整備などの土木技術の発達大軍を動員できる兵站、インフラの確立といったところになるだろうか
ちなみに武田の騎馬隊を信長が三段撃ちで撃退した逸話を普及させたのは、旧軍の軍史から。本書は平和主義を唱える戦後の教科書に、軍が生み出した俗説がまかりとおる事態を批判しつつ、非武装中立論者に残る“竹槍信仰”(!)など、戦争の実態を知らない人間の戦争論議に警鐘を鳴らしている
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