![]() | 下天は夢か(三) (講談社文庫) (1992/07/01) 津本 陽 商品詳細を見る |
第3巻は浅井家の裏切りによる朝倉攻めの失敗に始まって、比叡山焼き討ち、三方ヶ原の戦い、室町幕府の滅亡、浅井・朝倉征伐、長島願証寺の根切りまで
足利義昭の使嗾による信長包囲網が絶頂の時期であり、比叡山延暦寺、一向宗などの宗教勢力との戦いが中心だ
上洛に成功したものの、本拠地の岐阜と京都の間にある近江国(現・滋賀県)は、絶えず浅井・朝倉に脅かされ、義昭と三好三人衆、松永久秀、そして石山本願寺と雑賀衆との連携で畿内もなかなか収まらない。そこに武田信玄の遠江、三河侵攻が始まるという苦境に立たされる
信玄の上洛は無理でも、家康の領土が切り取られれば、根源地といえる尾張と直に接することになり、織田家が空中分解する危険もあった
『信長の野望』だと、人材と領国の広さから最初から勝ちゲームのような形勢だが、この時期の信長は危ういバランスの上で成り立っていることが本作で良く分かる
仏教系の高校に通っていた身には、宗教勢力との血で血を洗う戦いに目が行かざる得ない。果たしていかなる背景があったのか
比叡山延暦寺に関しては、律令国家依頼の「王法・仏法」の伝統があり、白河上皇にして「賀茂川の水と双六の賽と荒法師だけはままならぬ」と言わしめたほどの権威を持ち続けていた
足利義教による焼き討ちを受けていたものの、戦国時代でも各領主の寄進によって一大政治勢力を為していて、朝倉家は有力なスポンサーだった
京都と近江の間にある比叡山は信長にとって、まさに目の上のたんこぶであり、浅井・朝倉を引き入れたことで、東西に伸びた領土を分断されそうになった
この事態に対して信長は、延暦寺の主流である山門派と対立する寺門派を取り込み、信徒の分断を図った上で、武力征伐に出る。寺門派は、園城寺(いわゆる三井寺)を本山とする天台宗で、山門派とは長年に渡る紛争を続けていて、園城寺を焼かれたこともあった
作者は信長の口から、浅井・朝倉を倒してから比叡山に穏便に対処することもできたかもしれないが、浅井・朝倉と積極的に手を組むなら焼き討ちもやむなしと言わせている
宗門を宗門で制する戦略は、信長は一向宗に対しても取っており、劣勢になっていた法華宗をもり立てて旗印を使うこともあったようだ
石山本願寺を本山とする一向宗は、国境を越えて農村を横断する形で信徒を増やし続けていた。戦国大名が国人勢力を排除し領土を一円化していく動きに対し、農村が直接統治されることへ抵抗するといった側面があったようだ
国内に門徒を抱えることは戦国大名にとって獅子心中の虫ともいえ、浅井・朝倉は本願寺の支持で領国の門徒を合戦に動員することができたが、同時に依存することにもなった
門徒とそれに釣るむ地侍の連合は強力であり、朝倉家が滅んだ後の越前には、国人が起こした一揆に、門徒が加賀の一向宗を巻き込んで、最初に蜂起した国人領主を殺し“百姓の国”にしてしまった
ラディカルな戦国大名である信長としては、農村を横断して楯突く一向宗などもっての他で、兵農分離に始まる武士と農民の階級分化の流れからも、武装する宗教勢力を認めるわけにはいかなかったのだろう
逆らう者への見せしめという考え方は分かるものの、門徒への「根切り」というジェノサイド、捕らえた敵を嬲るような振る舞いなど、信長の裁きには日本人離れした惨さがある。作者もイエズス会の異端審問を参考にしたとのでは、触れつつも、過酷な空間を生き過ぎて感覚が磨耗していく独裁者の姿を描いている
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