1857年(安政4年)11月、松本良順は、オランダからやってきたポンペ・ファン・メールデルフォールトを師事して、日本で初めてとなる西洋医学の講義を始めた
江戸では13代将軍・家定の治療を巡って、蘭学医・伊東玄朴が陰に陽に動き回り、奥医師の世界に蘭方医学が解禁される
その一方で、咸臨丸と教官カッテンディーケを迎えた長崎の海軍伝習所は、築地の軍艦操練所に吸収され、オランダ人教官は引き上げを余儀なくされた
長崎伝習所内にあるポンペの医学伝習所も岐路に立たされる
海軍教官のカッテンディーケ、軍医のポンペがやってきたことで、長崎の海軍伝習所は日本で最先端の教育機関となった
それまで蘭学医療は、西洋科学の体系を踏まえずに、本からの情報と医者の経験則によって行われていて、外科の技術も師匠から弟子へ伝えられるものだった
ポンペは医学に必要となる基礎的な学問、物理学、化学、解剖学、生物学、病理学までも一人で教え、オランダ語を把握できる松本良順とその受取である島倉伊之助が各藩の塾生に読み下す形で広めていった
医療から崩れる身分制度
ポンペの壁となったのは、江戸時代の身分制度。ポンペはオランダ国王の家臣ということで旗本直参の待遇であり、他の塾生もほとんどが士分である
そうした身分の人間が一般庶民を診ることは、社会制度の破壊を意味したのだ
しかし、良順や開明派の長崎奉行・岡部駿河守の尽力で、天然痘の予防となる種痘の実施に、コレラの治療に成果をあげ、日本で初めての西洋医学病院となる「小島養生所」(後の長崎大学医学部、長崎大学病院の源流)を建設するに至る。西洋医学の流入は、その社会の背景となる平等思想の浸透につながっていく
伊東玄朴による蘭学の地位向上
江戸では将軍の治療を巡り、思わぬ人物が頭角を現す。良順が医で金を稼いでいると、蛇蝎のごとく嫌った伊東玄朴である
伊東玄朴は佐賀藩に籍を置いていたが、思わぬところから将軍の生母・本寿院の耳に評判が入り、大老・井伊直弼に呼び出される。佐賀藩当主の正室は、第11代将軍・家斉の息女で、大奥に玄朴の評判を吹聴していたのだ
家定の死期を予見した玄朴は、井伊直弼の支持を得て、良順の父・良甫ら蘭学医の一団を奥医師へ引き入れたのだった
司馬によって、良順より精密に描写されるのが、主人公の一人、島倉伊之助
天性の記憶力とともに一向に身につかない世間知とのギャップに惹かれるのか、なんでその才能が恐れられつつ、最終的に集団から爪弾きにされるのかを執拗に描いていく
ただただ一直線に学問的関心のみで生きているせいで、ポンペの蔵書を勝手に持ち出してしまい、異邦人の彼にすら不信感をもたれてしまう
良順が「小島養生所」とポンペの講義に忙しく、まずます伊之助の面倒が見られなくなって、急変する世の中とともにどう転がっていくのかに注目だ
*2023’8/29 加筆修正
次巻 『胡蝶の夢』 第3巻
前巻 『胡蝶の夢』 第1巻