『ホムンクルス』 第15巻 山本英夫

いろんなものを積み残した一年でした。せめてこの漫画ぐらいは……


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ついに最終巻。「嘘」の祝祭クリスマスは、そこに入れないものに厳しい結末を用意した
前巻で娘との再会を決意したに見えたイタさんは、公園の木で首を吊ってしまった名越は出口を示してみせたが、そこに辿りつけるかは本人たち次第なのだ
公園ではホームレスたちが次々と追い出され名越の車にも駐禁の札が下げられていた。「どこに行けばいいんだ」と激高する彼に、謎の女「ななこ」(ななみ)が駆け込んでくる
「ななこ」は愛人のヤクザの裏金を持ち去っており、名越はその逃避行に巻き込まれていく

「ななこ」ブサイクな彼氏「さとし」に捨てられて、整形した過去があった。それは名越にとって元カノ「ななみ」と重なり、妊娠した彼女を捨てて整形して華やかな「嘘の世界」へ潜り込んだことを思い出す
境遇が重なったことで結ばれようとした二人だが、「ななこ」は名越の顔に不気味な“鬼”を思い浮かべるのだった
その鬼の正体とは、冒頭に伊藤学に指摘された自分を観てくれというエゴ。名越はホムンクルスを見えないという「ななこ」に対して、自分のようにトレパテーションの手術を受けるように求めた
そして、名越は手術を受けた彼女に、自分自身の姿を見出して体を交える自分を自分で犯すという、自らの尾を食べる蛇「ウロボロス」を想起させるような、自分だけの閉ざされたナルシストの世界に没入してしまうのだ
「ななこ」の側も整形後の自分と性交しており、破滅的な終幕へ突き進む
結局は人の心というものは、自分自身でイメージする他なく、他人は憶測でしか測れない。名越は観てもらうつもりが、彼女を自分と同化させただけであり、結局は自らの殻に閉じこもってしまったということなのだろう

正直、この破滅的な結末は納得できなかった(苦笑)
イタさんの自殺しかり、15巻になって、急に負の方向へ舵を切った感が否めなかった
名越は伊藤学がいて、ホームレス仲間がいて、孤立した存在ではない。このニューシネマ的なラストを目指すのなら、そう転がっていく布石がもう少し欲しかった
作品を総括すると、トレパテーションというオカルトめいた道具立てを交えつつも、人の心をホムンクルスという異形の怪物でイメージして「カウンセリング」していく、奇妙で不思議な人間ドラマという他ない。ときに相手の体をまさぐり、性交(!)にいたるという体当たり過ぎる手法ではあるものの、人の心の歪み=ホムンクルスを昇華したときには、何とも言えぬ感動があった
名越進の人生は、田舎から憧れの東京へ乗り込んでバブルを経験するという80~90年代初頭のものであり、土臭い地方から「嘘の都」という対比が今の若い人からするとずいぶん分かりにくいものだろう
その一方で、自分探し、「生の実感」を追求した結果、自慰的な世界に陥るという失敗例を示してくれたとも思う。ここまで来たら抜け出して欲しかったですが、ハア


前巻 『ホムンクルス』 第13巻・第14巻
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『勇魚』 上巻 C・W・ニコル

シリアスながら、アクションシーンもあって娯楽性も高い


勇魚(いさな)〈上巻〉
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C.W. ニコル
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幕末の紀州、太地の村鯨取りで知られていた。鯨を仕留める刃刺を継ぐと目された甚助は、アメリカの捕鯨船との遭遇に胸を躍らせるもつかの間、鮫に襲われて片腕を失ってしまう。外国船打ち払いの切り札として鯨取りに眼をつけていた、紀州藩士・松平定頼は、やさぐれる甚助に外国の鯨取りになる代わりに、個人的なスパイとなるように求められるが……

『風を見た少年』などで有名なC・W・ニコルの長編歴史小説
ジュブナイル向けの小説や自然に関するエッセイしか読んだことがなかったから、こんな本格小説を書いているとは知らなかった。昔のホーキンスのCMに出ていて、靴はホーキンスと決めているほどなのだが(苦笑)
主人公は紀州太地村に暮らす兄弟。たくましい刃刺の兄・甚助に、船を華やかに彩る絵師となる弟の三郎で、兄は松平定頼の密偵として江戸、琉球、上海と旅して、弟は村に残って度重なる災害から家族を守っていく
驚くべきはほとんどの場面が日本人の視点で描かれていて、なんら違和感がないことだ。1年間、太地村に住んで取材を重ねたといっても、これだけ当時の捕鯨の様子、日本人の価値観を捉えきる透徹した視線には恐れ入る
当然ながら、アメリカ、イギリスから見た日本人の在り様も、ややひいき気味ながらも語られていて、多面的、重層的に幕末日本を眺められる労作なのである

鎖国か通商開国か、佐幕か尊王か政局で語られる幕末維新を、捕鯨という日米の共通点から切りこんでいるのが新鮮だ
ペリーが浦賀にやってきたのは、直接的には捕鯨船の寄港地が欲しいから。当時のアメリカは工業化が始まり、機械の潤滑油や照明用のランプの需要が激増していた
アメリカの捕鯨は鯨油の採取専門であり、鯨油を抽出するために大量の薪木と水を必要となったのだ
アメリカ人が巨大な帆船とカッターで追いつめるのに比べ、太地村の鯨取りは組織力で仕留めにいく。勢子役の船が鯨を網へ誘導して動きを止めさせ、銛を投げ入れて生命力を削っていく
鯨は必死に逃げようとするので、トドメとして「鼻切り」をしなければならない。鯨の鼻とは潮を吹く噴気孔のことで、ここを傷つけると呼吸ができなくなるから一気に弱っていくのだ
この鼻切りはたいへん危険であり、銛を刺す「刃刺」の中でも最も名誉な役目である
日本人は鯨の各部位を使い切った。鯨肉はいうまでもなく、臓物も珍味で腸は「龍涎香」という高価な香料となる。髭や骨は手工芸品となった
そんな日米の捕鯨が血なまぐさくも大迫力で描かれるのが本作である。到底、映像化は不可能だろうが(苦笑)
片腕を失った甚助は定頼の密偵となることで、琉球、そして海外へ旅立っていく。欧米の文化にのめりこんだ甚助、攘夷主義者でありながら、松平定信の子息、次期将軍の紀州藩士という立場から井伊直弼に仕えるはめになる松平定頼、幼子の名誉のため兄の残した恋人と結婚した三郎がどうなっていくか。史実の流れは分かっても、物語の結末は読めない


次巻 『勇魚』 下巻
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『餃子の王将社長射殺事件』 一橋文哉

二週間も更新があいてしまった。時間が経つ早さに愕然とする


餃子の王将社長射殺事件
一橋 文哉
KADOKAWA/角川書店
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2013年12月19日。京都市山科区、本社前で四代目社長・大東隆行が射殺された。いったい犯人は……誰がなんの意図で……。事件の裏側と日本の闇社会の変化を探る

もろに地元で起こった事件なので、手に取ってみた。もう6年も経っていると思えない衝撃が残っている
未解決事件であり、本書は犯人像、その黒幕に鋭く迫っているものの、確定されるような真相が明かされるわけではない。作中に出てくる証言者も、取材源の秘匿がジャーナリストの義務であることを考えれば、かなりの脚色がなされているとみなすべきだろう
餃子の王将は今や、全国展開する一大チェーン、まさに中華料理の“王将”なのだが、最初は60年代の京都から始まった。当時は「珉珉」が同業の先駆者であり、その競合に勝つべく創業者の加藤朝雄と殺された大東隆行は、でかくこってりした餃子とユニークな無料キャンペーンを展開し拡大した
朝雄氏の死の一年後、三代目社長に息子の加藤潔が就任。当時はバブル冷めやらぬ時代、父親の遺訓を破り不動産業に手を出して、会社を傾かせる大規模な損失を出した
それを立て直すべく、“現場の鬼”大東隆行が四代目目社長につき、副業や不採算店舗を清算し、ハードな研修や信賞必罰の徹底で業績をV字回復!
その峻烈な経営による、長時間労働に多くの離職者、“絶叫”研修が問題視されていた矢先の射殺事件だった……というのが表の歴史である

外食チェーンが全国へ出店していく際に、問題になるのが土地の確保。チェーンの戦略にあった立地条件は必須である
そうした土地取引を為すのは不動産屋であり、その裏には暴力団関係者が関わってくる。本書ではキーマンとして、王将の全国展開には各地域の顔役に橋渡しをするU氏が登場する
U氏は創業者・加藤朝雄と同郷で、会社を傾かせたゴルフ場への異常融資に深く関わっていた。王将側が闇社会への仲介の労に応えるために、バブル崩壊で苦しむゴルフ場経営を助けた疑惑がある
こうしたトラブル対策の仲介者をもっていても、出店にともなうトラブルは起こる
2012年12月、石川県金沢市の繁華街、片町にある店舗で、ホストたちが乱痴気騒ぎを起こして、ネットに全裸の記念写真を流す事件があった
彼らはホストクラブの出店先の土地へ王将が先を越したことに激怒し、報復に及んだのだ。興味深いのは、彼らが半グレ集団『怒羅権』(ドラゴン)のメンバーであり、そのルーツはなんと中国残留孤児の2、3世だというのだ。この中国、満州への因縁が王将を取り巻く

王将の社長を射殺した凶器は、25口径の自動小銃
暴力団の殺し屋が使用するのは一発で仕留められる38口径を好むといわれ、実際に社長へは4発も発砲されている。4発を命中させる腕前はプロに違いないが、わざわざ殺しきれないリスクのある25口径を使ったのはなぜか
ヒントは銃弾にあって、それは加工され被害者が苦しんで死ぬように意識されていたというのだ。この手口は中国系マフィアが裏切り者の処刑する際の手口らしい
実際、関西国際空港には、事件当日に入国して日帰りで帰る不自然な女性がカメラに残っており、「女殺し屋説」を本書は推している
当時、王将は中国進出に挑戦しており、餃子発祥の土地、旧満州こと中国東北部へ展開をはかっていた。一説には創業者の朝雄氏が召集されて満州で憲兵をしていた時期があり、朝雄氏の悲願だったともいわれる
しかし他の外食チェーンが大規模展開する傍ら、大連を中心とした数店にとどまり、事件後の2016年に大連店も閉店していた
本書ではその理由として、出店の際にマフィアと仲介したコーディネーターとの物別れ、あるいは他のコーディネーターと頼むダブルブッキングの影響があげられいて、その報復が社長に及んだ説を紹介している
そして、終章で及ぶのは、暴対法を嫌って東南アジアへ拠点を移す暴力団の姿。上記の半グレ集団もここにつながってくる
彼らは中国系や地元マフィアと密接に組んで活動しており、朝雄氏がアジア人留学生を援助するための「加藤朝雄国際奨学財団」を利用して“犯罪者の人的交流”を進めていたともいう
真相はやぶの中だが、王将を食いものにしようと様々な集団がうごめいていたのだ
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『Gのレコンギスタ』の劇場版とテレビシリーズを見比べみた

イデオンも観なきゃなあ、と思いながらも、勢いで『Gのレコンギスタ』の1話から5話を観直してみた。劇場版になって何が変わったかを確認するためだ
最初に結論を申し上げると、「見やすい劇場版が出たから、分かりにくいTVシリーズさようなら」という単純な話ではないということである。TVシリーズにも劇場版にはない良さがあるのだ
管理人の記憶力の低下は著しく(もともと鳥頭)、混濁しているところもあるし、何度も見直す方には到底かなわないのだが、1話ずつ取り上げてみたい


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<第1話 謎のモビルスーツ>

冒頭、アメリカ軍のカーヒルキャピタル・ガードのデレンセンG-セルフを追うところは同じ。カーヒルはG-セルフを確保、デレンセンは脱出したパイロットのラライアを救出する。まさか、この二人が早期退場すると、誰が思うだろうか
劇場版では捕まったラライアが軌道エレベーターで地上で運ばれるシーンが追加されていた。テレビだとそのまま、ベルリたち候補生と宇宙に上がる場面で出てきており、一話ずつの尺に限りがある媒体の違いを感じさせる
あと、ベルリの説明的な台詞がいくつか省略されている


<第2話 G-セルフ起動>


劇場版への大きな変化は感じない。マニイの「女の力でぇ~」からアイーダの尻にノレドのパチンコがぶつけられるところまで、変える必要のない名編なのだろう
ただひとつ、カーヒルのグリモアがG-セルフに百裂拳(!)を加えるところでは、テレビだとコクピットのハッチが空いていた。劇場版だと閉じており、アイーダが背中を丸めて怯えるシーンが加わっており、ベルリの回想する場面にも再出する
グリモアはコクピット付近を殴っていたので、そのままだとアイーダは肉ミンチになってしまうからだろう(苦笑)


<第3話 モンテーロの圧力>

劇場版で省略された場面が多い回
冒頭では“自称天才”クリム・ニックメガ・ファウナで帰還するところから始まり、艦長ドニエルに叱られながらもアイーダ救援に出撃する。映画ではコクピットのトイレシーンからであり、彼がカリブ海からキャピタル・テリトリィに入るまでの光景もカットされている
「蚊とんぼ」発言から始まるモンテーロの戦闘に、ほのぼのとした風景で作品世界を楽しめる、TVシリーズならではの魅力が詰まった回である
デレンセンとケルベスが「I WANT YOU!」の垂れ幕を破って登場する場面では、非常事態なのにキャピタル・アーミーが式典の準備に明け暮れて、のほほんとしていた。アーミーの素人集団ぶりをよく表したエピソードだが、映画では割愛されていた

監督のインタビューで表明していた、脱走する前にG-セルフの顔をベルリが覗き込んだときに、目の奥のカメラレンズが光る演出が劇場版にはある
トイレつながりでいうと、回の最後にベルリがコクピットのトイレを使うところをクリムが観る場面で締められる。クリムのと“てんどん”になっているのだが、映画ではベルリが我慢できないと、G-セルフ側からの視点となっていた。たしかに、こちらのほうが分かりやすいことは分かりやすい


<第4話 カットシー乱舞>

この回はあまり多くの変化を感じない
デレンセンが海賊部隊との戦闘で部下を亡くして、涙を流す場面は劇場版になかった。これが第6話につながるのであり、第二部のことを考えると、残してもよかったかな


<第5話 敵はキャピタル・アーミー>

この回もあまり変化は感じない
劇場版を見たあとだと、テレビのワンシーンが気になった。ドニエル艦長に“姫の責任”を突き付けられたアイーダが、操舵手のステラにもたれかけるところ
テレビだとちょんちょんと、二回からだを近づけるだけで、二言三言話しただけに見えてしまうのだ。劇場版だとアイーダをステラがじっと受け止めるように、間が長い
まったく印象が違い、このあたりはスタッフ間の受け渡しが上手く行っていなかったと思われ、劇場版でそれが埋め合わせるのであれば、観る甲斐があるというものだ


映画で劇的に変わったのは、感想にも書いたけどドラマを見せる“間”だろう。制作環境の違い、あるいは反省から、余裕をもってキャラクターの動き、気持ちが表現されていて、テレビで頭で理解したものを心で感じられるようになった
作品がもともと持っていた力が理想的な形で解放されたように思える
その一方で、劇場版で筋を把握してからテレビシリーズを観ると、より作品の理解が深まり楽しめる部分もある。ベルリとアイーダが実は○○という伏線も、かなり細かく張られていたことが今回、確認できた
初見の人が先を見過ぎてしまうと、ほぼ同じ展開の劇場版を観る楽しみが薄くなるのではという懸念はあるものの(興行的に怖いところ!)、映画で進んだところまではテレビシリーズも観てもらえればと思う


関連記事 【映画】『ガンダム Gのレコンギスタ Ⅰ 行け!コア・ファイター』
     【配信】『Gのレコンギスタ』 第1話・第2話

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【映画】『ガンダム Gのレコンギスタ Ⅰ 行け!コア・ファイター』

いよいよ、この日がやってきた

002

Gレコ劇場版の京都での公開は、イオンシネマ京都桂川のみJR東海道線の桂川駅とつながったイオンモール桂川にあり、3階の奥にその映画場はある
上映時間の1時間前にチケットを購入すると、1日2度しか上映がないせいか、席が「残少」の表示が。入場のときには、めでたく「完売」となっていた
客層はマニアばかりかと思いきや、親子連れもある程度見かけた。親から子へガンダムというジャンルは、受け継がれているのだろうか


(画像はアマゾンアフィリエイトです)

さて、あらすじは富野監督が宣言していた通り、テレビ版のままである。アイーダが海賊としてキャピタルタワーにやってきて返り討ちに遭い囚われ、それを奪還に来た恋人のカーヒルは、G-セルフに乗った主人公ベルリに殺されてしまう
アイーダはキャピタルで軍隊を組織するクンパ・ルシータ大佐の謀略で、G-セルフに乗ってベルリたちと脱出。それを口実に、新しい軍隊キャピタル・アーミーが動き出し、その一員にベルリの先輩だったルイン・リーがマスクをかぶって加わるといった次第だ
時間はだいたい1時間30分で、内容的にはテレビ版の5話まで全五部作予定なので、つまりほとんどのエピソードは削られていないはずだ
もっとも管理人の記憶力はかなり怪しいので、テレビ版との比較はしづらいのだが(苦笑)

ともあれ記憶が怪しいと断った上での、劇場版の第一印象は人間と人間のドラマに重きが置かれているということだ
複雑な設定を限られた尺に消化するため、ジェットコースターのように流れたテレビ版に比べると、キャラクターが今どういった感情を抱いているのか、にまず焦点があてられていて、設定の理解はなんとなくでいいという断念が感じられた
笑ってしまったのは、カーヒルが襲撃に来た際にベルリがアイーダに会おうと囚われた塔へ向かう場面。ベルリは縦になったベッドにしがみつこいた彼女を助けようとするのだが、嫉妬したノレドはアイーダの尻にパチンコを当てて、ずり落としてしまう(笑)
テレビ版との細かい違いはともかく、ゆったりとこうした活劇、寸劇が楽しめた。ロボット物でなくとも思えるぐらいなのだ
ベルリがアメリアの海賊に連れ込まれて以降は、アイーダがカーヒルの死をどう乗り越えるかにドラマのテーマは移る。彼女は総司令の娘、“姫”として責務を求められ、裏では涙を流しながら活躍したベルリに礼を言う
共和制とおぼしきアメリアだが、汚れ仕事をしている海賊部隊に司令の娘がいることで、「自分たちが司令部に認められている」とモチベーションを保てている
彼の死をベルリのせいと甘えるのではなく、自分の未熟さと受け止めてリーダーとして目覚めていくきっかとなる場面であり、劇場版ではよりその辛さが感じられた

その一方で、説明的な台詞をキレ味よく放つ富野節は健在で、Gレコの世界観についてもより理解が深まった
アメリアがゴンドワン(欧州)と10年も大陸間戦争をしているのは、キャピタル・タワーを持つキャピタル・テリトリィが資源を独占管理しているからとアイーダは言う。ある程度文明が発達してエネルギー資源が必要になったかにも関わらず、管理されているから限られた資源の争奪戦をせざる得ないらしい
地球圏はその荒廃から環境を回復させるために、技術の進歩をとめたままにしていた。そのために広められたのがスコード教の教えであり、キャピタル・タワーは宇宙からフォトン・バッテリーを運ぶ軌道エレベーターとして神聖視されていた
アメリア側からするとそれは不当な支配であり、大陸間戦争の終結、“宇宙からの脅威”に対抗するためにも、タワーの占領が不可欠と考えているのだ
ただ第一部をみたところ、外目にはアメリアの海賊が一方的に襲ってきたとしか見えない。それを利用したキャピタル・アーミーの台頭にベルリは疑問を感じるものの、まだ判断はつきかねているといった状況だ
スコード教を素直に信じ、トワサンガをフォトン・バッテリーをくれる聖地と考えるベルリが、世界の現実を知ってどうするのか、キャピタル・ガード時代の教官、デレンセンとの関係はどうなるかが、第二部の見所となるだろう

ただひとつ、苦言を呈したくなったのは、オープニング、エンドロール、次回予告がいまいちなところ。テレビ版のときからオープニングは本編のつぎはぎと言われていたし、エンドロールはテレビのそれを中途半端に出てきて暗転したまま流れる箇所もあった。やはり予算は降りていないのだろうか
次回予告の映像も何に注目していいか、よくわからない(苦笑)。2月21日と予定が組まれたのは嬉しいけれど、主題歌がドリカム(予定)にとどまっていて、製作はともかくその周囲の環境に疑念を抱かざる得ないドタバタである
おっと、サブタイトルの「行け!コア・ファイター」だが、確かに山場に飛んで軽く戦闘していた(笑)。誰がどういう意図でこうつけたのか
まあ、大事なのは本編である。これは確かに面白いぞ!!


関連記事 【配信】『Gのレコンギスタ』 第1話・第2話
     『Gのレコンギスタ』の劇場版とテレビシリーズを見比べてみた

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