『物語論で読む村上春樹と宮崎駿 ――構造しかない日本』 大塚英志

宮崎アニメはご無沙汰なので、語りにくい

物語論で読む村上春樹と宮崎駿  ――構造しかない日本 (角川oneテーマ21)物語論で読む村上春樹と宮崎駿 ――構造しかない日本 (角川oneテーマ21)
(2009/07/10)
大塚 英志

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村上春樹の小説と宮崎駿のアニメは同じ物語文法が元になっている!?ジョセフ・キャンベルの神話論を引きつつ、両者の作品を解剖する
著者は『物語消費論』『彼女たちの連合赤軍』など、70年代から80年代以降の高度消費社会へ移る年代論に定評があって、同じ課題を持つ村上春樹に対して鋭い批判を投げかける
本書はスター・ウォーズ(以下SW)に影響を与えたジョセフ・キャンベルを踏まえて、物語の構成論から批判的に読み解いていく内容である
そこでは両作者が訴えたい内容よりも、主人公の成熟が重視され、ビルドゥングスロマンの形式がとられたのになぜ主人公が大人にならないのかが問題視される
驚くのは、戦後民主主義を標榜する著者が、戦後民主主義の申し子ともいえる村上春樹、そして宮崎駿へ徹底的に食って掛かることだ
それは過剰人気に冷水を浴びせる域を越えていて、むしろ戦後民主主義の墓堀人である

本書で光るのは、『羊をめぐる冒険』がジョセフ・キャンベルの神話論に準拠したことの証明だ。なるほど、まるで習作ようにキレイに当てはまる
ジョセフ・キャンベルはユング心理学の系譜に位置する神話学者で、日本におけるユング心理学の第一人者・河合隼雄と村上春樹の関係を考えれば、まず間違いないだろう
著者は主人公がSWの物語構成、ビルドゥングスロマンの物語が取られているにも関わらず、結末で成熟を保留することに注目する
『カフカの少年』では“父殺し”という汚れ仕事をナカタさんに任せて、擬似的な母親や姉とセックスして終わり、『ねじまき鳥クロニクル』では象徴界でバットで影を殺しつつも、現実には妻が綿谷ノボルを殺している
男のビルドゥングロマンが不発に終わる一方、女のビルドゥングスロマンが成功するのも特徴的で、『スプートニクの恋人』ではそれが主題となり、“僕”は見守ることしかできない
著者は主人公に主体性を持たせない村上春樹の小説が、大人になれない大人たちが駆け込んだオウム真理教と同種ではないか、と突きつける。彼の物語ではオウムを克服できないと

この点では、すこし村上春樹を弁護したくなった
まず成熟とは、大人になるとはなんだということだ。日本人にとって近代人になることは、欧米化を意味していた
欧米化は向こうの宗教観、伝統から育ったものなので、とうぜん日本の実態とはずれてくる。クロフネが来る前には日本人なりの大人像があったのだ
近代国家、近代企業を営む上で近代人としての習熟が求められるのもさることながら、過剰に適応することは日本人の心を蝕んだ
そして、過剰に欧米列強を目指した結果、無残に敗北した歴史を持っている
戦後はその反省から、近代人を演じつつも欧米化を保留して対応した。他国の軍隊に安全保障を委ねるなど国民国家の観点からありえないことだが、“夷をもって夷を制す”というアジア的戦略としては間違っていない
これがいわゆる戦後日本の正体であり、戦後民主主義だといえる
実生活において社会的、産業的要請から来る大人像に安易に乗ることは、日本の稚気を忘れない大人像からすると“つまらない奴”になることなのである。ビルドゥングスロマンを保留することがいわば倫理的な態度とすらいえるのだ
むしろ問題は日本伝統の大人像、フーテンの寅さんや『釣り馬鹿日誌』の浜ちゃんのような慈父・慈母的な存在がフィクションの世界に現れないことではないだろうか

本書で奇妙なのは戦後民主主義を自認する著者が、戦後民主主義の価値観を脅かすところだろう
宮崎駿の母性肥大にしろ、村上春樹の成熟保留しろ、平和を満喫してきた日本を象徴するものである。それらが世界に流布したのは物語構造でゆえであり、今の日本サブカルチャーには「構造しかない」とまで言う
シンプルな物語がマスカルチャーの鉄則だが、果たして流通しやすい構造だけでそこまで流行るものだろうか
村上春樹に関しては現代の死病、精神病への癒しがテーマとしてあり、それが先進国において社会問題であるからこそ、ノーベル賞候補にもなった
クールジャパン戦略に氷水を浴びせたい心情は分かるが、村上春樹については過小評価が過ぎる
また著者が成熟保留の根拠として使う「移行対象」は、イギリスの心理学者ドナルド・ウッズ・ウィニコットによって提唱されたもので、その成熟先は欧米の大人である
河合隼雄ら日本の心理学者たちは欧米よりも優しい日本の物語にヒントを求めたが、著者の引用先は欧米のガチ大人路線であり、それを日本に求めることは戦後民主主義と相容れないはずだ
本書は作家へのリスペクトが薄いこと、作家と作品の関係に集中して作品と読者の関係に触れないことなど、評論として偏りは見られるものの、素朴な欧米近代主義者からの批評としては的を射ている
自著の紹介が多く読みづらいが、考える触媒としての「大塚イデオロギー」は今も刺激的である
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『風立ちぬ』 堀辰雄

宮崎アニメも観たいんだけど、金ないんだわ

風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)
(1951/01/29)
堀 辰雄

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節子と“私”がサナトリウムで暮らした日々を綴る堀辰雄の代表作
“私”を視点とする小説ながら、『美しい村』とずいぶん毛並みが違った
主人公が節子通り過ぎる時間、世界に移っているのだ。“私”の自意識は後退して、節子が直面する死とそれによって見出された世界の美しさが全面に出ている
「自然なんぞが本当に美しくと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけだ」。かつて節子に語った言葉を彼女から突きつけられ、“私”は自然に美を感じられたのは死にいく節子と共にいたからだと悟った

各編によって小説の形態も変わった
「序曲」「春」「風立ちぬ」“私”がほぼ視点キャラで、自意識を吐いてにも節子へすぐに焦点がいく
そして、「冬」「死のかげの谷」では各文章の最後に日付が入る手記調となり、私小説に近い形式になる
ただし、その手記の“私”は絶えず節子の存在を意識し、「死のかげの谷」に至っては彼女が不在にも関わらず、傍らに節子がいるよう風景に触れていく
最愛の人の生と死に立会い、“私”という個人が一人で成り立っているわけではないことを知るのだ

『風立ちぬ』は昭和十一年(1936年)十月から書き始められ、最後の章「死のかげの谷」が昭和十二年(1937年)十二月軽井沢の川端康成宅で書き終えている
時代的には1937年8月に盧溝橋事件が起こり、日中戦争が始まっているが、節子のモデルとなった女性が1935年に亡くなっていることから、戦間期の文学と言っていいだろう
宮崎駿監督の『風立ちぬ』でも、ヒロイン菜穂子は戦争が本格化する前に死に、話の大半は片がつくという
映画を観ていないこともさることながら、戦間期における文学の在り様を知らないので、話の膨らましようがないのだが(苦笑)、方々で聞く感想を聞くとあまり宮崎作品と直接結びつけて読む必要はないと感じた
ただ宮崎監督が戦間期をどう解釈しているかには興味があるので、映画は映画でなんらかの形で見ておきたいと思う


関連記事 『美しい村』
     【BD】『風立ちぬ』

フィルムコミック 風立ちぬ(上) (アニメージュコミックス) (アニメージュコミックススペシャル)フィルムコミック 風立ちぬ(上) (アニメージュコミックス) (アニメージュコミックススペシャル)
(2013/08/31)
アニメージュ編集部

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『美しい村』 堀辰雄

青空文庫でも読めますが

風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)
(1951/01/29)
堀 辰雄

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『風立ちぬ』を別枠で扱いたいので、記事を分けることにした
本作は軽井沢を訪れた若い小説家と少女との出会いを描いた私小説的作品
いや、驚いた。赤裸々ともいえるロリコン告白なのである
小説家として美しい光景を目に焼き付けていた“私”は、同じく風景を写生する少女を見て惹かれる。“私”は以前にも同じ年頃の少女と付き合ったことがあったらしく、苦い思い出を持っている
ロリコンの“私”にとって脅威なのは、以前の私を知る元少女たちに出くわすことである。狙いの少女を連れつつも、不自然なほど一目を避けて行動する
ラストにはついに元少女の人妻に見つかって……自意識過剰が痛々しく腹を抱える展開である(苦笑)
解説によると、この『美しい村』は堀辰雄にとって転機になった作品で、それまで少女や風景を「将棋の駒」のように扱っていたのが、次作の『風立ちぬ』で実体験を経て変貌していくそうだ
美しい日常を書くはずが、一人の少女の出現で作品の中身まで現在進行形で変わってしまう。超然とした“私”が一介のキャラクターとして右往左往する。それが本作の醍醐味だ

作品のBGMとして流れるのはバッハの遁走曲(フーガ)であり、その構図はハルキ作品との関わりを考えしまう
バッハを演奏するのは外国人で、戦前の軽井沢は多くの外国人が過ごすリゾートだ。そもそも軽井沢を避暑地にしたのは、カナダ人の宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーで、その後西武財閥などの資本が入って日本三大外国人避暑地と呼ばれるまでになった
今上天皇と美智子皇后が知り合ったことでも有名で、ビートルズ解散後のジョン・レノンが毎年利用していた
こうした避暑地には、転地療養に使われるサナトリウム(療養所)があって、堀辰雄自身も結核にかかって療養していたという
アニメやラノベが文学として語られる昨今である。その先達として本作も読まれるべきだろう


関連記事 『風立ちぬ』(小説)
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『峠』  中巻 司馬遼太郎

ついに家老となるが

峠 (中巻) (新潮文庫)峠 (中巻) (新潮文庫)
(2003/10)
司馬 遼太郎

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修行の旅から戻った継之助は、藩の重職につき藩政改革に努める。他藩に見られない遊郭の廃止にも着手し、賭博を根絶するため自らヤクザとも掛け合った。しかし、時代の風雲は彼の予想を上回るスピードで進み、長州征伐、大政奉還、そして鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争に巻き込まれる。継之助は持論である一藩による自立を目指すが…

上巻が修業時代なら、中巻は藩政改革がテーマだ
継之助は長岡藩七万石が主体的な立ち回りができるように富国強兵に勤しむ
小藩であり時代の緊迫からゆるゆる産業を立ち上げる暇はない。新式銃を買い揃えるための資金を捻出するため、取れるところが取っていく
作中に強調されるのは、遊郭や賭博といったアンダーワールド、地下経済を封じるところで、裏の蛇口を締めることで表経済のパイを増やし、税収増を狙っている
その藩政の在り方は、あたかも明治国家のミニチュアのようだ
こうした改革が可能だったのも、小藩でありかつ“常在戦場”の伝統があったればこそだろう

福地源一郎(桜痴)に続いて、継之助と対を成す人物が登場する。福沢諭吉である
福沢は堂々と開国を語る開明派で、認識そのものは継之助も変わらない
ただ継之助は長岡藩の存続を目的に考える人間で、福沢は形式的には幕臣だが「語学と扶持を取引している」だけという当時としては突き抜けた近代人
福沢は公儀政体、いわゆる諸侯会議の構想を近代を吸収しえない封建制と否定し、共和制がダメなら立憲制しかないと喝破する
それに対して継之助は長岡藩家老の立場から、封建制にこだわらずにいられない
組織に対する義理を切り離せないのが、テクノラートの宿命だろうか


次巻 『峠』 下巻
前巻 『峠』 上巻
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『ノルウェイの森』 下巻 村上春樹

「自分に同情するのは、下劣な人間だけだ」

ノルウェイの森 下 (講談社文庫)ノルウェイの森 下 (講談社文庫)
(2004/09/15)
村上 春樹

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僕と直子は京都の山奥にある療養所で再会する。直子はそこで元ピアノ教師のレイコとともに心の病を癒していた。僕は直子と文通しつつも、女子大生の緑と恋人未満の交際を続けていく。しかしある日、直子との文通を途絶え、緑からは関係をはっきりさせるように迫られて…

改めて読み直して、優等生的な文学だと気づいた
至近まで距離を詰めつつも最後の壁を壊せない、遠くに光る憧れのような直子への恋と、意図せざるうちに近づかれ、いつの間にやら抜き差しならぬ緑との恋。2種類の恋愛が絡み合う
直子への恋が観念的なほど遠く、星を見るような思慕の念だとすると、緑との恋は猥雑な世間の中で接近したゆえに起こった現実的な恋である
書物を通じて欧米から入ってきた恋愛観念と、現実の女性と通じて起こる下世話な恋の間に揺れる葛藤は、日本文学でよくテーマになってきたもので、それを1968年から1970年を舞台に堂々と書き上げたのが、この作品なのだ
売れ過ぎた作品は薄くて浅いものが多いが、この小説に関しては読み返すに値する名作だ

堀辰雄の文脈からすると、結核ならぬ精神病を現代の死に至る病としているのが特徴
いちど人間の魂が傷つくと、どんなに若くても死相を帯びて、命をすり減らしていく。『海辺のカフカ』『スプートニクの恋人』にもそうした描写があった
直子は姉とキヅキの死によって回復不能な傷を負い、最後は死者の声を聴くほど病んでしまう。それは僕との“恋愛”をもってしても癒すことができない
それは運命だというほど断定されないが、緑の指摘するように「肝心なところで自分の世界に閉じこもっている」せいかもしれない
精神病は普遍的なものである。療養所を出た僕は、世間の人間のほうが病気に思えるほどだ
精神病を自覚する者が“患者”になるに過ぎず、暗に社会が病んでいるとほのめかされている。永沢のように病んだ社会に過剰に適応できる者も、また病気だろう
社会に適応できない者が精神病と処理されているに過ぎないのだ
精神病を通じて病んだ社会を告発することは、フロイト以来の心理学の本懐である

「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちに潜んでいるのだ」
キヅキが死んだときの認識を“僕”は再確認し、死を意識した大人になる
それはひとつの成熟だが、到達点ではない。哀しみから学んだものは次の哀しみの免疫にはなれず、成熟は完了しない
小説のラストでは緑に「どこにいるの?」と聞かれ、“僕”はどこにいるか答えられない。居場所がない自覚することが大人になることなのだろうか
本作の主人公は、傍目には今でいうリア充である(苦笑)
しかし、彼のナンパは欠落を意識するがゆえの埋め合わせる行動であり、本当の意味で充実しているわけではない。欠落を補償するための性交は、AV、エロゲーによるオナニーと差はないだろう
人はみな完全には充足していない。完全なリア充など存在しないのだ
ほいほい女の子と付き合える主人公に移入できないという声も聞くが、作品のテーマそのものは多くの人びとに響くものである


前巻 『ノルウェイの森』 上巻

ノルウェイの森 [Blu-ray]ノルウェイの森 [Blu-ray]
(2011/10/26)
松山ケンイチ、菊地凛子 他

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五山の送り火を撮ったのだが・・・

京都人にとって、五山の送り火は外せない風物である
毎年、母親の実家に行って眺めている
せっかく最新のガラケー(苦笑)に買い換えたので、撮影してみたのだが

大文字
出町柳駅近くからの「大文字」

大文字02
↑写真のサイズを1Mにしてみたの図

キレイにとれるのだが、これ以上アップにできない。カメラ性能の限界であろうか
姉貴のスマフォではかなりアップにできるんだがなあ

気を取り直して、マンションの屋上に上り、他の山も撮影だ

舟形
「舟形」でござる

妙
「妙」

法
「法」はこれが限界

左大文字
かろうじて「左大文字」

「鳥居」はこのマンションからだと見えなんだ…orz
まあ、ひとつの場所からこれだけ見えたら上等やけどねえ

しかし、酷い画質である
来年か再来年になるか分かりませんが、スマフォを手に入れたらリベンジします
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『ノルウェイの森』 上巻 村上春樹

日本文学の集積

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)ノルウェイの森 上 (講談社文庫)
(2004/09/15)
村上 春樹

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37歳の僕は飛行機で流れる「ノルウェイの森」に、辛い記憶を呼び覚まされた。牙l区政時代の僕は、幼馴染のカップル、直子とキズキに知り合った。親友のような三人だったが、ある日キズキはなんの前触れもなく自殺してしまう。慰め合うように直子と寝たあと、直子もまた忽然と姿を消した。大学寮内の先輩と放蕩を重ねる僕のもとに、ある日直子の手紙が来る

近年、映画化もされた超有名作品。「はなきんデータランド」で毎週1位だったのが懐かしい
河合隼雄の対談「翻訳調の文体を獲得したものの、それだけではやっていけないのでリアリズムの文体に取り組んだ作品」と作者は語っていた。そのとおり、読みやすい自然主義的な文章になっている
キズキとの三角関係は夏目漱石、乾いた都会の風俗は三島由紀夫や石原慎太郎、山の奥の療養所は堀辰雄、と過去の文学を明確に引き継いでいる
本人の持ち味と違う方向への取り組みがあって、それが作品の間口を広げ、バカ売れにつながったのではないだろうか
もちろん形骸化した学生運動、仲間内でギターを弾くヒッピーぶり、階級を引き上げてくれるような文学や音楽の符牒などが大学生活の記憶を呼び戻したのも大きいだろうけど

大学生活については作者の実体験なのだろう、特に自然主義的な描写で貫かれている
時代を1968年から69年と明確に記され、大学寮では毎日国旗が掲揚され、国歌が流される。「大学闘争していたやつが、負けると単位を取りに授業に出る」など、生々しい逸話も取り上げられている
学生同士が過剰にコミットメントしていた時代に、僕はノンポリを貫き消費生活を営む。高学歴で外交官志望、理想的な女性を得ながらナンパにいそしむ永沢などは、その境地の向こうにいるエースだ。個人を生きるために関係を切り離していく
作者自身はデタッチメント時代の作品と位置づける。しかしながら、関係を絶って行く果てにコミットメントへの出口がすでに見えている
上巻の後半に登場する診療所は、世間から途絶したデタッチメントの極致でありながら、なかに住む人間は互いに励ましあって生きている
“患者”の一人であるレイコは善良な配偶者を得ても、あることをキッカケに入園している。作者いわく本作は恋愛小説だが、恋愛が万能でないことを前提とされているのだ

作品のタイトルはもちろん、ビートルズの「ノルウェーの森」
この曲から直子と過ごした森のイメージが広がり、“僕”の心を揺さぶる
しかし、歌の原題は「Norwegian Wood」ノルウェイ製の家具が正しい。高嶋忠夫の弟、バイオリニスト高嶋ちさ子の父である、高嶋弘之がイメージと営業的判断で意図的にこの邦題をつけたようだ
村上自身はこのことを把握しているようで、ジョージ・ハリソンの関係者から「Knowing she would」(=彼女がやらせてくれると知っていた)の言葉の語呂合わせ「Norwegian Wood」としたという説を聞いたそうだ
ならば、性描写が多いのも致し方なし


次巻 『ノルウェイの森』 下巻

関係記事 『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』

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【BD】『バス男』改め『ナポレオン・ダイナマイト』

バスはほとんど関係ない

バス男 [Blu-ray]バス男 [Blu-ray]
(2010/07/02)
不明

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高校生ナポレオン・ダイナマイト(=ジョン・ヘダー)は、空想癖が酷い変わり者。兄のキップ(=アーロン・ルーエル)はそれに輪をかけたネット廃人で、そこに心に傷を持つ叔父リコ(=ジョン・グリース)も加わり、彼を悩ませる。ある日、家に同じ学校の女子デビー(=ティナ・マジョリーノ)が写真の勧誘にやってきた。彼女が気になったナポレオンだったが、転校生のペドロ(=エフレン・ラミレッツ)に先を越されてしまって…

テレビの番組紹介で、てっきりそういう映画だと思ってました。サーセン
主人公ナポレオンは玩具コレクターで、虚言癖に近い空想家で、学校でいじめられっ子で、周囲を気にしない社会不適合者と、およそドラマの対象になりえないキャラクター
そして、舞台はアイダホの田舎町で、スクールバスが通る場所で牛を殺すおっさんがいる、現代の西部。これまた、ドラマには取り上げられない地方の光景である
ダメ男がテイクオフする映画は数あれど、これほどネガティヴな要素が結集したものはないだろう
ストーリーも中盤まで各自のぐうたらぶりを見せつけられ、やすやすと成功しない。目を覆うばかりにダメ男たちのせつない時間が流れていく
だからこそ、終盤の一発逆転が光る。これこそ、真の日常系

ナポレオンはいわゆる引きこもりではない
思い込みが強く自分の世界を築いているナルシストで、誰に肩を押されることなく何らかのアクションを起こし続ける。邦題の『バス男』が史上最悪の改題と言われる所以である
絶えずどこかへ前進する彼はダンスの世界にたどり着いたことで、ナルシズムを潰さず聴衆を沸かせる表現に昇華させた
他人の目を気にしすぎて何もできない日本のおたくとは対照的で、日米のマナーの違いなどで感情移入しづらいキャラクターではある
しかし、これだけヘボくてもアクション次第で突破できると、引っ込み思案な日本人に大事なメッセージを伝えてくれる
むしろ、電車男的なのは、32歳の兄キップの方だろう
毎日の数時間のチャットから謎の女ラフォンダ・ルーカス(=ションドレラ・エイヴリー)と知り合い、全てが好転する。登場時には悪い勧誘ではないか、と勘ぐったぐらいだ(苦笑)
主人公ではないので、このレベルの僥倖はありとは思うけど、出来すぎでしょ

アメリカの田舎が新鮮で見飽きることはなかった
地方には職もないし、あっても涙ぐましい低賃金。職がなければ自分でやると、個人個人が営業をやりだす
学費を稼ぎたい女子高生にしろ、金が必要な中年にしろ、訪問販売に出かける。『シザーハンズ』の冒頭でおばちゃんが近所でセールスするのを思い出した
アメリカならでは起業精神といえば聞こえはいいけども、貧困ゆえの苦肉の策なのだろう
ダンスパーティーでシンディ・ローパーの名曲「Time After Time」が流れるところは、80年代への郷愁を感じさせた
ハリウッド映画では両海岸が舞台になりやすく、内陸部は外国人にとって空白地帯である。もうひとつのアメリカを見せてくれた点でも貴重な映画だと思う


ナポレオン・ダイナマイト [Blu-ray]ナポレオン・ダイナマイト [Blu-ray]
(2013/10/02)
ジョン・ヘダー、ジョン・グリース 他

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Time After Time: the Cyndi Lauper CollectionTime After Time: the Cyndi Lauper Collection
(2010/12/14)
Cyndi Lauper

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『オウム帝国の正体』 一橋文哉

どこまでが事実でどこからが想像か

オウム帝国の正体 (新潮文庫)オウム帝国の正体 (新潮文庫)
(2002/10)
一橋 文哉

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未解決のオウム事件の裏には何があるのか。謎のジャーナリストが真相に挑む!
ネットではサブカルとの関連から語られがちなオウム教団を、本書は闇に流れる資金、組織、人間関係から犯罪組織として解剖していく。雑誌週刊誌に近いオーソドックスな視点をとる
ロシアンマフィアとロシア政府関係者、政治家に暴力団、北朝鮮と教団の周囲にはさまざまな組織との関係が指摘し、衝撃の真相にたどり着くが、問題はこれが事実かどうか(苦笑)
解説が指摘するように、肝心なところで公安関係者の証言が多く、ジャーナリストとしての「私」が登場するところはB級ミステリー小説である
一橋文哉の正体元毎日新聞記者・サンデー毎日副編集長の広野伊佐美で、毎日新聞本社のある「一ツ橋」の「ブン屋」に引っ掛けたといい、複数の記者によって執筆されているともいう
内容のわりに世間にまったく影響を与えていないところから、紙面に載せられないほどタブーであるいは不明確な情報をかき集め、事件の空白を想像した推理小説と考えるべきだろう

小説と書いたものの、推論としては妥当な線を行っている
ロシアで活動したいなら当地の政府関係者に心づけが必要だし、武器の購入や商業活動をするにはマフィアに挨拶しなきゃいけない。そのマフィアと接触するには、日本の暴力団の力を借りるほうが無難だ
本書の主人公は、ブローカーとしての暴力団といえるだろう
オウム教団が認可された頃、「宗教法人」「信教の自由」を盾に免税などの大きな特権があり、警察、マスコミにとってもタブーな存在だった
宗教法人の法人格は誰にとっても金のなる木であり、その取得には政治家、暴力団がブローカーとして関わった。宗教法人は政治家にとって票田と資金源となり、政治家のなかには複数の新興宗教の信徒になるものもいたという
暴力団は宗教法人の問題を解決する助っ人として暗躍し、それを種に法人の豊富な資金を食い物にしていた
本書では坂本弁護士一家殺害事件に関して、暴力団の指導があったとされ、容疑者が主張したリアリティのない証言(襲撃予定日に弁護士一家は旅行するはずだった、なぜか深夜に家の鍵が開いていた、等々)は暴力団の報復を恐れてものだとする
土地を買収するにも地上げしてもらう必要があり、洗脳のための覚醒剤の入手にも暴力団との関係が必要だった
こうした一件からオウム教団はヤクザの鴨になってしまい、その関係に悩んだ麻原が自爆的なハルマゲドンを起こした・・・最後の結論はともかくも、かなり真実に近づいているように思える

北朝鮮との関係はかなり錯綜している
オウムの対外的な責任者だった早川紀代秀は、北朝鮮に訪問していたことは報道されたが、その目的に関してはつまびらかにされていない
本書では、早川が手を染めていた兵器ビジネスから、ロシアで仕入れて、北朝鮮に卸していたというのみならず、教団が作ったサリンプラントに関して、北朝鮮が設計技術が提供された可能性を示唆する
北朝鮮からするとオウム教団を手なづければ、有事の際に米軍の拠点である日本を撹乱するゲリラになりうるのだ
(オウム教団の荒唐無稽なクーデター計画には、なぜか臨時政府の首班として北朝鮮とのつながりを持つ政治家たちの名前が並んでいた!?)
それに関連して取り上げられるのが統一教会で、1991年に文鮮明が訪朝してから国営ホテルを任されるなど急速に接近し、一時期オウムとも接触していたという
その後、信者の取り合いから敵対関係に入ったといい、本当のところは藪の中だが、海外ですれ違うような場所にいたのは事実のようだ
またオウムの大幹部、村井秀夫を刺した徐裕行は、犯行まで住んでいた家の所有者が中田清秀(元暴力団組長にして教団の武闘派)の出入りしていたクラブの女性経営者だった。そして、その女性の姉は北朝鮮のスパイ辛光洙と同居していたという!
拉致問題が顕在化しておらず、1990年には金丸訪朝団があって北朝鮮の開発が莫大な利権として考えられた時代である。国際問題への発展を防ぐために、警察の捜査が寸止めされたと十分考えられる
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『軍靴のバルツァー』 第5巻 中島三千恒

騎兵たちの挽歌

軍靴のバルツァー 5 (BUNCH COMICS)軍靴のバルツァー 5 (BUNCH COMICS)
(2013/07/09)
中島 三千恒

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第5巻は第二次ノルデントラーテ戦争の続き
パルツァー少佐は上陸したホルベック軍の先鋒を撃退するも、次の襲撃には耐えられないと判断し駐屯していた村から撤退。ホルベック軍の好戦的な騎兵隊長ハウプトマン・ニールセン大尉が追撃する
今回は重装騎兵と近代歩兵の対抗戦がテーマ
ホルベック軍の騎兵は伝統的な槍騎兵で、歩兵の方陣に対し強行突破をはかる
ナポレオン戦争後の銃器に対し無謀にも思えるが、バーゼルラント側が退却中で、実戦経験が薄く混成部隊である弱みがあり、これに指揮官の性格を加えればなくもない展開だ

ナポレオン時代に騎兵はすでに正面兵力には使われず、後方撹乱、陽動、追撃といった役割を負っていた
槍騎兵は銃兵の横列隊形に対して一時期復活したそうだが、それでも育成の手間、維持費を考えると歩兵との相討ちは本来避けたいところだ
本巻でも有刺鉄線ガトリング砲が決め手となって、騎兵は一蹴されてしまう(あっ、ネタバレだ)
パルツァーの「騎兵無用論」が凄惨な形で現実化し、塹壕と機関銃の第一次大戦を予感させる結末だ

ドラマ的には騎兵とともに古参の兵士たちが犠牲になって、戦場のロマンに寄り添う箇所が少し気になった
そこをパルツァーのいけすかん性格(笑)が、かろうじてロマンへの没入を妨げている
普通の作品なら脇役に水を差させるものだが、本作は主人公にやらせる。略奪への言及など、主役に進んで泥を被らせるのが、この作品の特徴
軍事テクノラートという死神のような職分に踏み込めてしまう彼だからこそ、華麗で悲惨な近代戦を語れるのだろう


次巻 『軍靴のバルツァー』 第6巻
前巻 『軍靴のパルツァー』 第4巻

コサックス ~戦争の大陸~ 日本語版 [ダウンロード]コサックス ~戦争の大陸~ 日本語版 [ダウンロード]
(2011/06/01)
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サイドバー背後固定表示サンプル

サイドバーの背後(下部)に固定表示して、スペースを有効活用できます。(ie6は非対応で固定されません。)

広告を固定表示させる場合、それぞれの規約に抵触しないようご注意ください。

テンプレートを編集すれば、この文章を消去できます。