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『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』 元木泰雄

源平合戦だけで語れない中世史



鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝を生み出した河内源氏は、いかに平安時代を渡り歩いたか。武士の保守本流の歴史を読み解く

大河ドラマのときに読んどきゃ良かった(苦笑)
河内源氏とは、清和天皇を源流とする源氏のなかでも、武門を代表する存在として源頼信を祖として河内国(現・大阪の一部)を根拠地とした一族
本書では清和天皇の孫にあたる源経基に、その子・満仲から源氏武者の発祥をたどり、平治の乱によって一度滅するまでの栄枯盛衰を取り上げる
強調されるのは、源氏が“武家の棟梁”と言われつつも、その力の源泉は朝廷ならびに摂関家とのつながりによるということ。河内源氏と言われるように、畿内を基盤とする“軍事貴族であり、親戚には摂関家のライバルとなったような権門もあり、国司の代わりに現地の問題を解決する受領」の地位をもつ四位・五位に位置していた
坂東武者とのつながりは、古くからあったものの、その代表者となるのは源頼朝からで、だからこそ革命的な存在といえる

清和源氏の祖である源経基は、平将門と藤原純友の乱に参加しながら功を挙げられず、皇族としての政治力で官位だけは確保した
武家としての基盤を築いたのは、その嫡子・満仲から。安和の変で、醍醐天皇の第十皇子である左大臣・源高明の失脚に加担し、摂関家と太いパイプを築き、武門の最高位である鎮守府将軍に上り詰めた
満仲の長男・頼光と三男・頼信は、摂関家の絶頂を築いた藤原道長の覇権に協力。頼光摂津国を根拠地に、東国への玄関口である美濃を抑えて、子孫に多田源氏、美濃源氏を残す。荒々しい頼信は、東国で平忠常の乱を平定して、源氏と関東の縁を築いた。この頼信が河内源氏の祖となる
面白いのは、その子の源頼義桓武平氏の嫡流である平直方から嫁をもらい、鎌倉の地とその郎党を引き継いだこと。この頃の平家は、土着した平家である平忠常の乱の鎮圧に失敗し、源氏と明暗を分けていた
後に頼朝が頼義の故事を踏まえた鎌倉入りも、元は桓武平氏から譲られた土地であり、武士の争いを源平合戦で見ていくと実態から離れていくのだ

高評価を受けた源頼義であっても、まだ坂東武者を動員できる立場にはなかった前九年の役には、安倍氏の抵抗に苦戦し、出羽の豪族・清原氏の大軍がなければ勝利できなかった
後三年の役での源頼家は、朝廷から私戦と見なされたことから、奥州藤原氏が成立したことを見守ることしかできず、絶大な名声を得ながらも官位は頭打ち状態となった。そして、頼家の嫡子・頼親は素行の悪さから都を追放され、後に反乱を起こして一気に河内源氏は没落
河内源氏は摂関家とのつながりが強かったため、白河法皇に始まる院政の時代に退けられた側面があり、頼親の子・為義の代に駆け上がる平家の嫡流・平忠盛(清盛の父)とは立場が逆転してしまう

為義の息子・義朝母が白河院の近臣であり、為義が摂関家を優先させたせいか、廃嫡同然で東国の安房国(現・千葉の一部)へ下向する
そこで源氏の貴種として見出され、豪族間の調整役として常総氏、三浦氏、千葉氏といった坂東武者に認められる。院と関係の深い熱田大宮司・藤原季範の娘と結婚して、検非違使の父・為義を超える「受領」就任を果たした
保元の乱では、摂関家の藤原忠実・頼長父子についた為義に対して、義朝は妻の実家のつながりから後白河天皇の旧院政派について、父と兄弟を処刑することになった
大きく貢献した義朝だったが、もともと高い官位をもつ平清盛との差は埋まらず、保元の乱の首謀者だった藤原信西も平家を重視してしまう

そこで平治の乱では、反信西派によるクーデターに乗り、藤原信頼が二条天皇と後白河上皇を確保して、義朝は播磨守頼朝は天皇の側近となる右兵衛佐と異例の出世をした
しかし、義朝は河内源氏を継ぎながらも、その勢力圏は東国。天皇と上皇が脱出すると、西国と畿内で動員できる平家に抵抗できず、義朝は落ち延びた先で討ち取られてしまう
同じ源氏でも、多田源氏の源頼政は以仁王に巻き込まれるまでは、平家政権下で生き延びたし、義朝の嫡子・頼朝熱田神宮という母の実家、上西門院(後白河天皇の姉、准母)の蔵人というつながりから生き延び、他の兄弟たちの多くも助命される
平治の乱は摂関家の内紛、私戦とみなされたことから、保元の乱ほど処分は厳しくなかったそうだ
本書は源氏、平家、天皇家、摂関家と複雑に入り乱れた血縁と人間関係を細かくたどって、公家対武家という二項対立、教科書的な史観を退け、時代が進むごとに分離し専門化していく構図を導き出している。また、皇族も武家も主がなくなると、その未亡人が廃嫡の権利まで握るという(北条政子が好例)、武家でも母系社会ならでは習俗が残るのも興味深かった


保元・平治の乱を題材 → 『後白河院』(井上靖)

前九年・後三年の役を題材 → 『炎立つ』(高橋克彦)



『せどりでガッチリ稼ぐ!』 フジップリン

「せどり」する側から見た世界




せどりというと、悪名高き「転売ヤー」のイメージもあるけども、本質は安く仕入れて高く売るという普通の商行為。本書はネットを利用しての「せどり」のノウハウを紹介する
扱うマーケットサービスは、AmazonメルカリAmazonは、単純に市場規模が最大であり、FBA(フルフィルメント by Amazon)という発送・梱包・アフターサービスまでを一括で引き受けてくれるサービスがある
最王手ゆえに、それをフォローするアプリも充実していて、バーコードを読めば市場でどれぐらいの値段で出回っているかが瞬時に分かり、その売れ行きすらもデータで確認できてしまう
お店でスマフォ片手に立ち止まっている人は、このためにアプリをいじっているのだ
メルカリAmazonで売れ残った物をさばく、サブの市場という位置づけなのだ
ノウハウばかりでなく、「せどり」をする側から見たネット市場が興味深い

本書における、「せどり」の主戦場はAmazon
Amazonで出品する場合、出品者は代表者名、住所、電話番号を明示しなければならず、出品ごとの手数料(大口なら月4900円、小口なら一品につき100円)、販売手数料FBAを利用する場合は配送手数料、在庫保管手数料が必要になる。もちろん、別個にAmazon倉庫への配送料はいる
ここでは、個人であっても法人であることが期待されていて、店舗名も購入者が安心できる名前が望ましいという。なので、本書ではどこかにある会社のような名前、支店であるように装うことを薦めている
つまり、Amazonの出品者はちゃんとした会社のように見えても、実は個人がバーチャルオフィスで電話番号を借りて運営している可能性があるのだ
一方のメルカリでは、素人が個人で行っているように思わることが大事。ユーザーもメリカリ自身も業者が大量に物品をやり取りすることを嫌っているのだ(検索順位で下位に回されてしまう!)
なので、品数を捌きたい場合も、一気に出品登録などはせず、欲しい人にメッセージとして添えるテクニックを紹介している
Amazonで仕入れた商品はAmazonで売れない決まりがあるので、それをさばくためにメルカリ、ヤフーオークション、楽天市場などを利用していく

*最近のメルカリでは、メルカリSHOPという枠に業者を誘導しているようである

著者いわく、「せどり」は簡単、しかし「楽ではない」という。これは仕組みは簡単だけど、やりきるのは忍耐がいるということ
中古ショップ、ディスカウントショップ、大手家電店、デパート、コンビニなどなどいろんな売り場が、仕入れ対象となりうるが、その特徴を知るために求められるのが、とにかくアプリを駆使した「検索である
場合によって、片っ端から「全頭検索」する必要もあり、それを店舗や他のお客さんと揉めないように行わねばならない
大量仕入れ、大量販売する大手は、在庫が消えることから、「せどり」を歓迎する向きがあるとはいえ、それも限度がある
また、出品してからも、競争は価格を巡って行われるので、こまめに値段の上げ下げをチェックしなければならない

ひとつ注意が必要なのは、本書では法律関係にあまり触れていないこと
少し調べただけでも、税金対策に税務署へ「開業届」をしておくことが大事だし、中古品を扱う場合は所管の警察署に「古物商許可」を受ける義務がある。個人でAmazonへ出品する場合、仕事上の電話番号を作るか、バーチャルオフィスを作って住所と電話番号を借りる必要がでてくることもあるだろう
メルカリはともかく、特にAmazonを利用する場合は、準備と固定費用がかかるのを覚悟するべきなのだ
まあ、そのあたりは著者のサイトでフォローされていると思われるが
本書はかなり具体的に、生々しいテクニックを紹介していて、ネットショップの実態、考え方がよく理解できる。そして、著者の意図ではないのだけども、「せどり」の発想をある方向に尖らせていくと、「転売ヤー」が生まれてしまうのも分かってしまった




『ベスト&ブライテスト』 下巻 デイヴィッド・ハルバースタム

前巻を読んだのが、4年以上前とか




ベトナムの泥沼化を招いた指導者層の決断を描くレポートの最終巻
タイトルからして反戦運動に話が移ると思いきや、続いてジョンソン政権の文官、軍人の動きを追うものだった。"賢者”たちの判断がテーマなのだ
ジョンソン政権はダラスの暗殺後に成立したこともあって、ケネディ政権の主要な閣僚、国防長官ロバート・マクナマラ、国務長官ディーン・ラスク、国務次官ジョージ・ポール、大統領補佐官ジョージ・バンディが留任し、引き続いてベトナム問題の解決に取り組んだ
下巻では、ケネディ時代から始まった軍事顧問団の派遣が、北ベトナムへの大規模な空爆と戦闘部隊の派兵へ拡大した責任を明らかにしていく

リンドン・ジョンソン大統領は、フランクリン・ルーズベルトら過去の大政治家たちを意識しており、公民権の拡大と貧困の撲滅を目指した「偉大な政治」をスローガンに掲げていた
ケネディから引き継いだ"賢者”たち、東部のエスタブリッシュメントたちとは違い、テキサスの田舎者というコンプレックス(実際には政治家の息子だが)を持っていて、閣僚と折り合いが良かったわけでもない
彼にとっての第一目標は、政治家としての事績を残すための「偉大な政治」の実現であり、ベトナム戦争は予算的にも脚を引っ張る存在といえた
しかし党内の保守派として、反共の姿勢を崩すわけにもいかず、あくまで戦争の予算規模を限定して、"サラミ”を薄く切るように介入の規模を徐々に拡大していくことにする
こうすることで、予算と議会のリソースを戦争にとられることなく、「偉大な政治」のための法案を通すことができた
が、これには膨大な軍事支出を議会へ隠すことを伴い、経済のインフレ要因となって国民生活に影響を及ぼすこととなった

北ベトナムへの空爆、いわゆる北爆の決断は、大規模な派兵をせずに相手に音を上げさせる、費用対効果から導き出された。そもそも空軍無敵論=ニュールックは、核兵器と空軍重視で軍縮を狙った政策から生まれている
しかし、北爆はさらなる北ベトナム軍の南下を呼び、さらなる戦闘部隊の投入を必要とした。ベトナム社会の高い出生率は年間10万人の兵士を新たに動員できて、結局は数十万規模の派兵で対抗せざる得なかった
その大軍の派兵でも現地のウェストモーランド将軍は5年以上の長期戦を予想していたが、ワシントンの政権は数年、次の大統領選挙までにメドをつけるつもりで決断していて、それぞれの観測に重大な齟齬が生じていた
どうして、こうなったのか?
著者は自身ですら1963年までそうだったと告白したうえで、アメリカが建国以来不敗であり、自らの力で不可能なことはないとする圧倒的な自信と傲慢さから来たとする
また“賢者”たちは頭は良くても、道義やモラルに乏しく、政権内に残るために保身を優先して必要な施策を曲げてしまう
人間として政治家として、何をしてはいけないか、それが欠けているから、皮算用で人の上に爆弾を落とせるのだ
当代、最高の頭脳と評された人々でも斯くの如し
今の日本でも、薄い“インテリ”は毎度メディアをにぎわせていて、下手すりゃ国政に影響を与えたりするので、騙されないように気をつけたいもんである


前巻 『ベスト&ブライテスト』 中巻

『日本解体 「真相箱」に見るアメリカの洗脳工作』 保阪正康

わりと正論



GHQはいかに日本人を情報操作しようとしたか。ラジオ宣伝番組から読み解くアメリカの洗脳工作

他の著書では護憲派よりに見えたけど……
ポツダム宣言受諾から占領軍の統治が始まっていた1945年12月9月に、眞相はかうだの番組が日本放送協会(現・NHK)から放送された。脚本を書いたのはGHQのスタッフで、満州事変以降の軍国主義の実態をドラマ仕立てで暴露するものだった
それに続いて始まったのが、眞相箱一般の日本人から質問に答えるという形式の番組だった。もちろん、質問も答えもGHQのスタッフか、その指示を受けた関係者が作成していた
その目的は、(アメリカから見た)太平洋戦争の要因となった軍国主義精神の排除に、新憲法の定着、反米感情の鎮静にある
"あの戦争”の責任を、一部の軍国主義者に求め、天皇の戦争責任を免責し、アメリカの高度な科学技術と物量には敵わないと思わせることだった
ラジオのテープは日本に残っていないが、本書は書物として残る「眞相箱」から統治下の情報工作を追及する

意外なことに、GHQの語る近代日本への評価は、司馬史観に近い
黒船来航から始まる明治維新から、日清・日露戦争までの国造りを褒め、それ以降の、特に満州事変以降の軍国主義化を批判する
連合国も植民地を持つ国が多いせいか、「帝国主義」や「侵略」に対する定義もぼかしていて、自分たちにブーメランが返ってこないように配慮している。手が込んでいるのは、「帝国主義」に関する質問に、アメリカからではなくイギリスの百科事典などから引用すること。後で突っ込まれないように、「それイギリスの意見だから」と言い逃れできるようにしているのだ
「侵略」に関しても、戦争末期のソ連の参戦が絡むので深く追及していない
太平洋戦争に対する評価では、個々の日本人兵士の勇敢さを湛えつつも、上層部が愚かだったことを強調。戦争の責任を一部の軍国主義者に求めて、天皇や国民を除外している。自分たちの思うとおり誘導するために、当時の日本人が受け入れられやすい史観を提供しているのだ
実際のところ、GHQの用意した史観は、保守派を含めて日本人の大半に受け入れられているように思える。こうした史観がすぐに浸透した背景には、戦中の大本営発表が現実とあまりに乖離して、欲していた情報をGHQから供給されたためなのだろう

GHQの史観は一見、かなり妥当に思えるのが巧妙で、多くを事実から引きながら、特定の結論へたどり着かせるために細部を曲げたり、噂としてエピソードを挟んだりする
最大の問題点は、民間人含む無差別爆撃、特に原爆投下についてで、アメリカでの論争を紹介しながらも、「戦争を早く終わらせるための止む得ない」と結論する。そして、一番の文明国であるアメリカが核爆弾を最初に手にしたことにより、世界の平和が保たれるという自己中心的な主張が展開されている
「これを戦争を避けるために使う」という考え方も、冷戦時代の核戦略に通じるものがあるのだ
著者の保阪正康は、半藤一利と絡みが多い人ながら、単独の著作だと護憲派の主張が強かったのだけど、本書では「押し付けられた歴史観でいいのか」と右派のような問題提起の仕方をしているのが面白い。これはただ親米の保守派はおろか、既存の護憲派をも脅かすものであり、場合によっては自らに襲いかかるブーメランになりかねない
他国や他人の意見ではなく、自分で"あの戦争”は、“あの時代”は何だったのか、と問いかけて、はじめて日本人の歴史観はもちうるし、それを踏まえて判断を下せる。著者自身の歴史観はともかく、このメッセージは普遍性があると思う
本書は「眞相箱」の作為を紐解くことで、プロパガンダの巧妙な手口に触れられ、歴史はある指向性をもって作れてしまう事実を教えてくれる




『漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972-2022』 池上彰 佐藤優

もはや左翼は絶滅!?



学生運動が衰退したなか、左翼政党は労働問題に存在価値を見出す。その衰退と今後の展望は

あさま山荘事件の72年から、2022年現在の状況まで
72年のあさま山荘事件の後でも、過激派のテロは続く。戦前から続く日本の帝国主義を清算するとして、東アジア反日武装戦線“狼”」が三菱重工などの旧財閥系企業に爆弾テロを仕掛けた
佐藤氏によると、彼らには体制を倒したあとに何かをする構想はなく、その体質はアナキズムや右翼に近いという。あさま山荘事件の坂口や赤軍派にも右翼くさいところがあり、理性より感情を重視するナショナリズムの時代へ向かっていたことをうかがわせる
また、ノンポリの学生を後押ししたのが、吉本隆明『共同幻想論』国家や宗教は確固としたものではなく、人々の幻想に支えられたものだとした。そのことは、マルクス主義にもあてはまり、国家ともに思想も相対化してしまった
吉本はノンセクト・ラジカル、セクトに所属しない左翼青年のカリスマとなったが、その信奉者の気質も国家の関与を嫌うアナキズムに近く、後の新自由主義の下地を作ったともいえそうだ
本巻は50年をざっくり語る内容だし、他の巻で触れられたことは省略されたりもしているので、最初の『真説』から読むことをおすすめする

その後のセクトや学生運動で唯一盛り上がったのは、成田国際空港を巡る三里塚闘争ぐらい。それも農民と左翼思想の相性が合わなくて、党派ごとに足並みがそろわず、自民党政権の切り崩しにあって分裂して取り込まれてしまう
一方で、70年代に社会党の影響のもとに、労働運動は盛り上がる
公務員にスト権はないとして、国鉄などの国営企業の労働者は悪条件、低賃金に甘んじていた。でありながら、国鉄で法を逸脱した運行が求められたことから、法律を遵守することで、実質的なストライキを行う「順法闘争が行われる
さらに1975年ILO(国際労働機関)の勧告をきっかけに、国営企業の労働者にスト権を付与する「スト権ストが唱えられる。当初は国民を支持を受けた「順法闘争」も、相次ぐ運休や遅延から利用者の反発を招き、上尾事件などの乗客による駅への暴動事件へも発展してしまう
その一方で、60年代は東京都知事に美濃部亮吉が当選するなど、各地で革新陣営の首長が生まれ、社会民主主義の機運がこれまでになく高まっていく

1970年、チリでは民選による初めての社会主義政権、アジェンデ政権が誕生して、国家規模でも社会民主主義の期待が高まった。しかし、アジェンデ政権は1973年にCIAの支援を受けたピノチェト将軍によるクーデターで崩壊、この一件が過激派の暴力革命論社会民主主義の衰退をもたらすこととなる
それでも、国鉄の国労を中心とする労働組合は左翼の牙城となったが、それに致命傷を与えたのが国鉄民営化
当時の首相・中曽根康弘社会主義革命の可能性を閉ざすために、莫大な赤字を口実に民営化を訴え、国民の支持をバックに断行した。革マル派の松崎明の影響が強い「国鉄動力車労働組合(動労本部)」は、労働者の待遇改善につながると民営化を後押しして「JR総連」となる一方、4万人の労働者がリストラされて社会党とのつながりは急激に弱まった。とはいえ、民営化への支持が集まったのも、「怠けるほど革命が近づく」とうそぶく国鉄の組合の堕落が原因でもあった
そして、自社さの村山内閣によりその命脈が断たれたのは、『真説』にもある通りだ

さて、現在の左翼運動はどうなっているのだろう
唯一の左翼政党であるはずの日本共産党は、戦術上の都合(?)とはいえ、選挙ポスターに富士山を載せ、北方領土問題に千島列島も加えて沖縄基地問題への関わりにも愛国路線を全面に出している。佐藤氏が問題にするのは、ロシアのウクライナ侵攻に対するリアクションで、国境を越える労働者(あるいはプロレタリアート)の連帯を訴えるべき左翼政党が、普遍的な“反戦”ではなくウクライナを一方的に支持するのは、もはや左翼でなくなった証拠とする
また2015年に集団安全保障への参加が問題になったさいに、話題となった学生グループ「SEALD'sも佐藤氏は辛口で自由に集まって解散したところから、新自由主義的な組織とする。上層部が名前を売ってキャリアの肥やしとし、運動に参加した学生の多くは日本共産党の民青が刈り込んだのみ
結局、右も左も今は思想がなくメディアを含めて、ただ新自由主義で、椅子取りゲームが続いているだけという

3部作(!)の総括をすると、基本は対談の体裁ながら佐藤優氏がしゃべり続け、池上彰氏がインタビューアーとして話を引き出し補足をするといった内容だった。佐藤氏の解釈で覆われているところが多いので、他の方のご意見も聞いて差し引いていく必要はあるだろう
そして、これから左翼が台頭するから、過去の歴史を整理したいという動機から始まった企画ながら、最終巻の結論がもはや左翼と呼べる勢力は日本共産党含めて、今の日本にはないということになってしまった(笑)
格差問題から左翼思想は注目されるけれど、実際にそれを引き受ける左翼勢力はない。そんな奇妙な状況に陥っているらしい
しかし、菜食主義の「ヴィーガニズム」、動物保護の「アニマルライツ」など環境保護団体が先鋭的になっている部分はあり、それらを進める組織が昔の左翼のような問題に陥る可能性はある。セクトが過激化しないために、左翼の黒歴史を教訓とすることが大事だろう


前巻 『激動 日本左翼史』

『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972』 池上彰 佐藤優

全共闘=民主主義ではない!?



なぜ、新左翼は過激な行動を取るようになったのか。衰退の要因を探る

本巻は60年安保の60年から、あさま山荘事件の72年まで。国民と連動していた60年安保から68年の全共闘を経て、新左翼のセクトは過激化し孤立を深めてしまう
60年安保闘争で大きな役目を演じたのが、共産主義者同盟(ブント)。日本共産党の指導を受ける「全学連(全日本学生自治会総連合)」から飛び出して1958年に結成された
1956年のスターリン批判とハンガリー事件から日本共産党は動揺しており、デモ・ストライキすら及び腰への不満からで、「マルクス・レーニン主義」を堅持しつつも革命は大衆運動からしか起こせないと、かなりルーズな組織だった
その中心人物が後に経済学者・青木昌彦で、姫岡玲治・名義で書いた論文が理論的支柱となる。主な結集者が、文学者・柄谷行人、安保闘争で死亡した樺美智子保守系の思想家・西部邁、政治評論家・森田実平岡正明
60年の時点では、ブントが全学連の主流派となり、共産党の民青は脇に追いやられ、「極左冒険主義」と足止めする立場となる
その一方で、スターリン批判からトロツキーを再評価する「日本トロツキスト聯盟」→「革命的共産主義同盟(革共同)」が生まれ、そこには後に核マル派の指導者となる黒田寛一、社会党への加入戦術をとる上田竜がいた
日本をブルジョア革命を達成していないとする講座派(日本共産党)と違い、日本をすでに先進国としていきなり社会主義革命を目指せるとする労農派という点で、社会党と新左翼は一致しており、党員の少ない社会党は安保闘争に新左翼を動員することができた
とはいえ、社会党は平和革命路線であり、自衛隊のような近代軍を火炎瓶闘争で勝とうというのは、ロマンにもほどがある。そこで日本で政権をとってワルシャワ条約機構に加盟する戦略を持っていた
もっとも労働組合出身の社会党議員たちは、自民党と国対で渡り合ううちに、3分の1を確保しての憲法改正阻止で満足してしまったようだが

60年安保闘争は結局、改正を阻止できず、革命の端緒も作れず、新左翼にとって敗北だった
学生の集まりだったブントはその後の方針を巡って解体し、以降は様々な団体が乱立していく
安田講堂へと続く大学闘争は、1965年の慶應義塾大学から始まった。学費の値上げ反対に米軍の研究費を受け取ったことが問題となり、早稲田大学でも値上げ反対の運動が起こる
そこで取られたのが「全学共闘会議」方式と言われるものので、単に学生自治会で行うと普通のノンポリ学生は過激な抗議活動を敬遠するので、“革命意識”の高いセクトの学生が連合して「共闘会議」が組織された。日大や東大でも共闘会議が組まれ、中心的存在となる
そこでは戦う意志のある学生が「前衛」として指導していくので、近代の代議制=多数決で決まらず、声が大きく拍手の数で決める1930年代の翼賛政治であり、全体主義に近い体質があったという
今では左翼とリベラルが同じもののように語られるが、本来のリベラルは自由主義であり、左翼は民主主義にすら拘泥しない党派が主流というのがポイントだ

本書では連合赤軍事件よりも、それに至るエスカレーションを細かく検討していく
各セクトが戦闘的になったのは、1967年10月に機動隊との衝突のなか、京大の学生が亡くなったことから。そこからヘルメットに角材(ゲバ棒)というスタイルが定着する
セクト間の大学の主導権を巡る内ゲバも深刻化し、それぞれが縄張りのキャンパスを持ち、違うセクトの人間が近づけば、バールで足を折って活動不能にする。佐藤氏は特に中核派について、左翼というより任侠団体、愚連隊の系譜ではという
そうした内ゲバの経験から、革命のために殺人を正当化する論理が生まれていく。1970年8月3日池袋駅の中核派のデモを通りかかった革マル派の学生が殺される事件があり、行動の中核に対して理論を重んじる革マル派は「革命的暴力論」を打ち出した
70年代でも安保や沖縄返還問題、成田国際空港建設を巡る三里塚闘争など世間の支持や同情を得られる部分はあったものの、その過激さからついていけないと見放される
いつしか、学生運動することが、社会からのドロップアウトにつながるような印象すら与えてしまったのだ
970年以降は中核派の警察やその家族を狙った殺人事件が多発し、関西では京大経済学部助手の滝田修京大のグラウンド内で軍事教練を行い、社会の中で一人で戦えるパルチザン育成を目指した
もはや、政治運動どころか、テロ組織へと化していく
関西で滝田の影響を受けた、関西ブントの塩見孝也や田宮高麿などは「共産主義同盟赤軍派」(赤軍派)を結成するが、大阪や東京の蜂起作戦に失敗し、海外に拠点を作るためによど号ハイジャック事件を起こす
一方で日本共産党の神奈川支部に所属して、除名された中国派のメンバー「日本共産党神奈川県委員会」(革命左派)を設立。毛沢東主義の集団なので、もともと武器の使用を厭わない
赤軍派は、反スターリンのトロツキストで本来は思想的に水と油。ただ、革命左派が赤軍派の資金を、赤軍派が革命左派の銃を欲しがるという打算が生んだ連合だった。そして、内ゲバも同志間の総括という一線を越えてしまい、新左翼へのシンパシーを葬ってしまった

フランスの5月革命が男女平等の進展など社会的な成果があったが、日本の新左翼運動ハイジャック事件から空港の警備が厳重になったこと、テルアビブ空港乱射事件が現代の自爆テロの魁となったこと、政治運動に対する意識が後退し“島耕作的なノンポリの出世主義者”を生み、ひいては新自由主義への下地を作ったこと、とマイナスか微妙な影響しか残していない
とはいえ、左翼の政治指導者やセクトの理論家、設立者たちは知的水準は高かった。にもかかわらず失敗した原因は、佐藤氏によると、左翼思想の根幹に問題があって、「始まりの地点で知的であったものが、どこかで思考停止になる地点がある」という。それはおそらく、人間観の問題で、「人間には理屈で割り切れないドロドロした部分があるのに、それを捨象して社会を構築できるとすること、その不完全さを理解できないことが左翼の弱さの根本」と指摘している
そして、なぜ内ゲバにまで至ってしまうのかというと、「閉ざされた空間、人間関係の中で同じ理論集団が議論していれば、より過激なことを言うやつが勝つに決まっている」(池上)
国家権力を相手にすると、あまりに存在が大きくて全体像が見えないので、権力そのものより、それに迎合する身内が敵に見えてしまう。左翼最初の内ゲバは戦前の共産党による「社民主要打撃論」(社会ファシズム論)で、先に異端を潰さないと革命は達成できないという方向で権力闘争に走ってしまう
佐藤氏はそれを克服するために、党内にダラ官(堕落した官僚)を許し、現実の風を吹かせる必要があるとする。現代の政治運動には官僚化が欠かせないとする。それが日本共産党が、唯一の左翼政党として生き残っている要因でもあるだろう
70年代に関東で壊滅した学生運動が、関西で健在だったのはそうした“ユルさ”からで、佐藤氏の母校・同志社大学ではブント的な学生同士の「子供の政治」を社会勉強として容認し、大人が子供を利用しようとする民青、中核派、そして統一教会から守ろうとする良識があった
本巻は両氏の実体験も深く関わって、手前味噌な部分はあるけれども、それだけに偏狭な世界観しか持たない集団が過激派に堕ちてしまう過程が捉え、その問題点を明らかにしている


次巻 『漂流 日本左翼史』
前巻 『真説 日本左翼史』



『真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945-1960』 池上彰 佐藤優

戦後左翼の総決算



なぜ日本の左翼は衰退したのか? 終戦直後からの日本共産党と社会党の動きを追う

本屋に3部作のように並んでいたので、衝動買いしてしまった
池上彰佐藤優という有名な論客の対談形式であり、時事ネタに絡んでいく両者へのイメージから広く浅くなりはしないかと思われたが、いい意味で裏切られた
“外務省のラスプーチン”と呼ばれた佐藤優氏は、実は高校から大学時代に社会党の青年部“日本社会主義青年同盟”(社青同)へ所属し、左翼の活動を見知っていたのだ
対談のテーマは戦後の民主化で興隆した日本共産党日本社会党で、自民党の長期政権が固まるまでの1960年までを中心に扱う
本書は対談の体だが、7割を佐藤氏がしゃべり、池上氏がそれを補足する形で進む。そもそも佐藤氏が持ち込んだ企画で、格差の問題から『人新世の「資本論」』などを中心にマルクスが再注目されているとして、左翼の復権を予想。今の共産主義が日本共産党の解釈を中心に流布していて、若者たちが取り込まれることを警戒してのことだ
社会主義は良くも悪くも様々な広がりを見せて、百家争鳴の時代があったのだ

戦前に思想犯として逮捕されていた日本共産党のメンバーは、連合軍の進駐を受けて解放される。徳田球一を書記長にして活動を再開するが、ソ連共産党の指導を受ける立場にも関わらず、「アメリカを中心とする連合軍を解放軍として歓迎する」と表明したのが、蹉跌の第一歩
当初はソ連も連合国であり、米ソの対立が予想できなかったためだが、1947年2.1ゼネラルストライキが計画された際に、共産党が中心に労働組合を牛耳るにも関わらず、“解放軍”の方針としてGHQの指示にしたがって中止してしまった
そのために、労働者への信用は地に落ち、代わって日本社会党が台頭する

そして、共産党転落で決定的だったのが朝鮮戦争を巡る内紛と武力闘争。旧軍の復活を恐れて再軍備反対と平和革命を唱えた日本共産党だったが、ソ連のコミンフォルムは戦争に備えてその平和革命路線を批判指導部の徳田球一や野坂参三らは“所感”を発表して反論したため「所感派」と呼ばれたのに対して、非主流派の宮本顕治や志賀義雄らはスターリンや毛沢東の批判を受け入れて「国際派」と呼ばれて、激しく対立する
1950年6月、GHQは占領軍と共産党員が人民広場(皇居前)で激しく衝突する事件を受けて、共産党の国会議員などの公職追放・政治活動の禁止(レッドパージ)を行い、逮捕状の出た徳田球一、野坂参三たちは中共に亡命した
結局、1951年に武力闘争路線が採択されたが、数々の事件は国民の不信を招き、1955年に武装闘争の放棄を決議した。この武力闘争を受けて政府は破壊活動防止法(破防法)の制定公安調査庁が立ち上げられている
ちなみに共産党の武力闘争方針は農村から都市を包囲するという、毛沢東の影響が濃い。後の連合赤軍の自滅も、これに続いたように思える

一方の日本社会党は、戦前の無産党に、労農派の共産主義者など非共産党系の社会主義が集結する政党として始まった
1947年に戦後初の左翼政権、片山連立内閣を実現するが、いろんな派を引き入れたゆえの内紛から、1年で瓦解する
その社会党のなかで一致したのは、「全面講和、中立堅持、軍事基地反対」「再軍備反対」を加えた「平和四原則」だったが、右派は朝鮮戦争を共産主義側が仕掛けたものとして、分裂する
日本社会党の特徴は、労働組合出身の国会議員社会主義協会の頭脳が理論を支えるという構造で、大学教授ばりの教養を持つ協会員は主義から労働者の地位に甘んじたという
青年部の党員に社会主義に対する幅広い書籍を読ませており、共産党の若者と論争しても負けたことがなかったという
そんな懐の広い社会党のもとには、マルクス・レーニン主義ではない、ローザ・ルクセンブルグに準拠するという新しい社会主義の模索が行われ、暴力的な新左翼へもつながってしまうのだった
しかし、その命脈が立たれるきっかけになったのは、ソ連の崩壊。社会民主主義を標榜しつつ、ソ連の資金が流れ込んでおり、東側の一党独裁政権とも友党関係だったのが明るみに。さらには、積年の敵だった自民党を組んで、首相まで出したことで長年の支持者はドッチラケになってしまったという
とはいえ、人士は民主党、今の立憲民主党になだれ込んで、母屋を乗っ取った感もあるが


とにかく佐藤氏は、日本共産党に手厳しい
宮本顕治が戦前の官憲に激しい拷問を受けて耐えたのは、リンチ事件の殺人罪で立件されていて、口を開けば死刑の危険があったからとか、「どんなものにもいいものと悪いものがある」という共産党的弁証法、西側の核はダメ、東側の核は平和目的とするなどを欺瞞と断定、「革命が平和的か暴力的かは“敵の出方”による」という「敵の出方」理論も暴力革命を完全に放棄していないということ。昔の論文や発言を後で見れないようにする秘密主義も、党と指導者の無謬性を守りたいからに他ならない
次巻のこうした批判の真意は明かされていて、別に今の日本共産党が暴力革命を準備していると言いたいわけではなく、過去を取り繕う欺瞞体質を批判しているのだ
まあ、ここまで容赦なく言ってしまえば、赤旗に呼ばれないのも当然のことだろう(笑)
もっともその上で、共産党や社会党を引っ張った指導者の有能さを認めていたりもする。なにぶん、まだ現代史の範囲であり、何が真実かは立場によってだいぶ変わってくるし、佐藤氏の話がどこまで裏のとれたものかは分からない。その点、留保が必要だろう
共産党に入党した讀売新聞社主筆・渡邉恒雄がマルキシズムに「倫理の欠如」を指摘したり、網野史観で有名な歴史家・網野善彦共産党の武力闘争(山村工作隊)に従事したとか、宮本顕治創価学会の池田大作と和解する対談で、宮本が箱の上で演説していた際に唯一立ち止まって聞いたのが池田だったとか、面白エピソードも盛り込まれたりと最初から最後まで、読ませる対談だった


次巻 『激動 日本左翼史』

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『日本ノンフィクション史』 武田徹

やはりあの人たちがエポック



日本のノンフィクションはいかに始まって確立され、変化していったのか。その歴史を展望しながら問題点と突破口を模索する

冒頭に2012年の講談社ノンフィクション賞を巡り起こった石井光太論争に焦点をあてる
そこで問われたのは、作品の本文と取材者や関係者の語学力の矛盾があったことから、本当に作者はその場で立ち会ったのか、事実なのかという信憑性の問題に発展した
ノンフィクションというジャンルは事実に即して書かれなければならないが、読者の気を惹くための省略、演出はどこまで認められるのか。ジャーナリズムと文学性は同居できるのか
それを整理せずに拡張していくと、上述のようにノンフィクションというジャンルそのものの信用にも関わってくる
かといって、無味乾燥な記録にとどまってしまうと、誰にも読まれず社会に影響を及ぼせない
その一線がどこなのか、どこで客観性が担保されるのかを短い歴史のなかで探るのが、本書のテーマである

著者はノンフィクション」という言葉そのものにこだわる。この言葉が定着した経緯にジャンルの本質が隠されているからだ
戦前では「ノン・フィクション」と「・」(中点)が入っており、イギリスで始まった、小説などのフィクションと区別して「非フィクション」を意味していた。そのために、エッセイ、紀行文、学術論文もろもろを幅広く含むこととなった
今、ノンフィクションとしてイメージされる取材から起こした記事は、フランス語の「ルポルタージュ」と言われた。しかし、このルポルタージュも取材者に文学者が入ったことから、"記録文学”など「文学」の呼称を含むようになり、資料性において問題視されるようになる
戦後において、戦中の体制翼賛への反省から、週刊誌やテレビ放送などにおいて、事実に基づく公正中立な報道が求められ、優れたドキュンタリーが出現するようになる
その中では取材者の匿名性が問題になったが、それは集団で方向性を決め制作していく現場の実情に沿ったものでもあり、最終的な責任は組織が負うという考え方と、取材者をはっきりさせて信憑性を高めるという2つの考え方が併存した

この「ノンフィクション」の言葉の定着において、「ノンフィクションクラブ」を結成した大宅壮一の役割は大きかった
しかし1970年に創設された大宅壮一ノンフィクション賞には、第2回にイザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』、第4回に鈴木明『“南京大虐殺”のまぼろし』が受賞するなど、同賞は従来の「ノン・フィクション」のような、フィクションでなければなんでもあり、という雑多なジャンルになってしまった
その流れを変えたのが、第10回の沢木耕太郎『テロルの決算』。浅沼稲次郎を刺殺した17歳の少年の心境を、まるで供述調書を見たかのように描いたのは、ノンフィクションというジャンルを確立した金字塔だった(その描写は後に産経新聞に載った調書と酷似しており、創作ではない)
ときに取材者が一人称で登場して証言を聞き、ときに三人称で「神の視点」で事件の動きを追い、犯行の瞬間を犯人の視点で捉える。膨大な取材と読者に訴える文章力・文学性を両立させた傑作となった
しかし三人称での描写は、取材源の秘匿というジャーナリストの鉄則を守れる一方で、外部からはどこから取材したのか判別できない問題がある
沢木耕太郎自身も、これ以後は三人称の文章を控え、スポーツや紀行文など自分を視点とする私小説ならぬ「私ノンフィクション」へと舵を切った。いわく、ノンフィクションとは事実そのものではなく、事実に基づく仮説に過ぎないのだから、読者もそう読んで欲しいとか
『テロルの決算』で完成したノンフィクションのスタイルは、本当にどういう取材や証言がとれたのか、信憑性を揺るがす可能性をも生んだのだ

それに対する処方箋として紹介されているのが、怪しい三人称ノンフィクションか、空間の限られる私ノンフィクションかという、硬直したジャンルを埋めるように生まれた田中康夫『なんとなく、クリスタル』、から現代のケータイ小説という文学のあり方。とくに『なんとなく、クリスタル』は、80年代の記号化していく都会を無視した文学者やジャーナリストが黙殺したものを活写したと著者は高く評価している
そして、宮台真司『制服少女たちの選択』などに始まる、アカデミック・ジャーナリズムの流れ。大衆への受けありきのジャーナリズムと、大衆に背を向けがちなアカデミズムがつながることで、客観性が担保されることに期待している
著者は科学史家カール・ポパーの科学に対する姿勢、反証可能性かどうかを重視していて、それは沢木耕太郎の言葉にも通じる
本書は戦前の「ノン・フィクション」時代から、「ノンフィクション」の興隆と問題を辿る力作。あえていうと最終章において、ノンフィクションの役割を果たした文学、アカデミズム・ノンフィクションに対して完全な礼賛となっていて、それまでの批評的な態度との落差がらしくなかったか
それでも、30万冊を越える大宅文庫から、フィクションもいつかは歴史の資料、ノンフィクションの列に加わるという視点など、目から鱗の通史だった


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『スペイン内戦 政治と人間の未完のドラマ』 川成洋

ゲーム三昧で読書がががが



スペイン内戦でなぜ、若者たちは戦場へ行ったのか。国際旅団の志と内戦の実態を描く

ゲーム分室でこっそり『HOI4』も始めたので
スペイン内戦1936年に軍部を中心とする保守派のクーデターから始まり、民主主義対ファシズムの前哨戦として知られる。本書は作家ヘミングウェイやジョージ・オーウェルなども参加した義勇兵の「国際旅団に特に焦点をあて、寄り添う形で内戦を展望していく
国際旅団はコミンテルンの「人民戦線、共産主義者だけでは手薄なので、違う理念の集団を包括する組織を受け皿に用意する戦略が大きく影響していて、様々な国の人々、アナーキスト・共産主義者(ソ連派・反スターリン派)・自由主義者が集められていた
著者が国際旅団に熱い視線を向けるのは、おそらく青春時代の学生運動と通じるものがあって、それぞれ違う志向をもつ者たちがひとつの目的のために団結し青春を捧げるという光景に既視感か羨望を感じるからだろう
しかし、国際旅団はその活躍が報われることはなく、悲惨な顛末をたどる

日本人として知って良かったのは、一人はジャック白井という、日本人唯一の義勇兵。北海道生まれの彼はアメリカに渡って、ニューヨークで料理人として生計を立てる。そして、共産主義のサークルに関わり、最初の義勇兵第一波でスペインへ渡った
しかし、ブルネテの戦い(1937年7月)で戦死。アメリカでは無口だったが、スペインでの彼は子供好きで戦友たちにも好印象だったようだ
そして、もう一人の日本人がスペイン公使付武官の守屋精爾中佐日本は1937年1月にスペイン共和国と断交し、フランコの叛乱軍を正式政府として承認。観戦武官から作戦武官に格上げした守屋は、ドイツが第二次大戦で得意戦法とした「電撃戦(ブリッツクリーク)を採用に関わり、叛乱軍の攻勢を成功させてオペラチーンデ・モリヤ(守屋作戦)と呼ばれたという
この戦果を讃えられて、日本は鹵獲されたソ連製兵器を無償で持ち帰れたとか。後の枢軸陣営入り、日独伊三国軍事同盟の布石がここで打たれていたのである

スペイン内戦で共和国を支援するのが、ソ連のみという情勢で、共産党が少数派にも関わらず主導権を握るという、歪な体制が内戦を不利にしていく。雑多な「国際旅団」を指揮したのは、ソ連赤軍の将校であり共産党の政治委員だった
イギリス、フランスは先進国同士の衝突を嫌ったことから、スペインへの他国の介入を防ぐ「不干渉委員会」で独伊の言いなり。当初は義勇兵を快く送り出したものの、注文がつくと国境を閉ざし、厳しいピレネー山脈を越えねばならなくなる
それでいて、独伊は委員会のことなど無視して、支援するのだから差はつくばかりだ。そもそもフランコの叛乱軍本隊海軍が共和国派であったから、モロッコからスペイン本土で渡れなかったのだが、独伊の航空輸送で本土の作戦を展開しえたのだ
素人の国際旅団は戦場で初めて銃をもつ状況で、健闘するも常に多大な戦傷者を出す。叛乱軍の攻勢を前に国外からの補充すらままならなくなると、「国際旅団」なのに現地の新兵が多くを占めるようになった
この実態をもって、1938年10月に国際旅団は解散となる。表向きは独伊の干渉を和らげる意味はあったが、実際にはソ連がドイツに接近する外交政策の転換があった
スペイン共和国と国際旅団は世界から見捨てられる形で終わったが、フランコ体制が終わり民主主義が根付いた今は、それが高い評価を受けている。初出の1992年にはまだ、内戦を戦った兵士たちが生きていて、華々しいパレードも行われたようだ
本書は純粋な研究書ではないし、共和派に肩入れして共産主義に甘い部分はあるのだが、「国際旅団」の立志伝として語り継ぐ役目を果たしている


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『敗者の日本史 治承・寿永の内乱と平氏』 元木泰雄

政治家としては後白河法皇が上



全盛を極めた平家はなぜ、滅んだか。通説を覆す、敗者から見た源平合戦の真実

負けに不思議の負けなし。負けた方からその原因を探る「敗者の日本史」シリーズの源平合戦の巻
本書では、平家が興隆する保元・平治の乱からその軍事体制に着目。その後の、後白河院政下の平氏政権鹿ケ谷事件をきっかけに成立する清盛独裁体制、源氏蜂起後と急変する情勢に、どう対応していったかを見ていく
また、平家内の血縁関係と後継者争いを取り上げていて、当初は一番手と目された長男・重盛だったが、継母・時子の娘・徳子(建礼門院)高倉天皇の皇子を生んだことで、時子の息子・宗盛が急浮上。平氏政権内で派閥と緊張が生まれだす
そして、平清盛の弟で、公家として独自路線を歩んだ頼盛の存在など、けっして一枚岩ではない平家一門の実態がうかがえる

平安時代における武家は、公家に従属する存在であり、五位以上の者が「貴族」と見なされて様々な特権を許され、所領を権門に寄進して、その家政のなかで行動していた。特に畿内(今の近畿圏)における、こうした武家を「京武者と呼ばれ、その地域内にしか影響力を持たなかった
平家もそうした存在のひとつであったが、反乱の討伐などを通じて、伊勢や伊賀の武士団と結びつき「家人とした。この伊勢・伊賀の「家人」こそが、平家の力の根源となる
保元・平治の乱において、清盛が優位に立てたのは、源氏が頼家以降に各地に分散していったのに対し、平家が父・忠盛の代までに伊勢平氏へ力を結集できたからだった
そして、それ以降は後白河法皇を中心とする朝廷の後ろ盾で、各地の武士を「かり武者」として動員し、主力の「家人」への後詰めとする体制で勢威を強めた

しかし、この盤石にも見えた体制が、源頼朝の挙兵によって覆されていく
頼朝は反乱軍という立場からスタートしたことで、現地の武士と朝廷の権威に寄らない関係を構築「所領安堵」と敵対者の所領を分配していく形で、頼朝に恩ある「家人」が急速に増えていった
対する平家は、鹿ケ谷事件から後白河法皇を幽閉したことで、「かり武者」を動員する力が低下し、関東の有事のために送り込んだ「家人」たちも、初動を抑えられなかったことで各個撃破された
その影響がモロに出たのが富士川の戦いで、先鋒であった地元の「家人」たちが壊滅したことで、「かり武者」だらけの追討軍に勝機はなかった
そして、京都を支える食糧源である北陸が木曽義仲に制圧されると、都を追われることとなる

「平家にあらずば、人にあらず」。そんな言葉と裏腹に、平清盛の力は絶対的ではなかった
皇室の実質的リーダー‟治天の君”である後白河法皇の政治力は強く、いわば二頭体制で平氏政権は安定していた。そのシンボルともいえる存在が清盛の長男・重盛で、平家の武門の中心として法皇の信任も厚かった
しかし重盛が病死し、後白河法皇が幽閉されると、事態は一変。法皇の所領の武家たちは頼朝に駆け込む、重盛に恩のある「家人」たちも源平の争いを静観
特に平家子飼いのはずの伊勢・伊賀の「家人」たちは、一の谷の合戦後に季節外れの反乱で鎮圧されるなど、その武力を源氏との決戦に生かせなかった
本書では軍事、政治判断、血縁・利害関係など多岐に渡って平家の敗因を分析し、結果論からではない具体的な原因を明らかにしてくれる。頼朝の斬新な新体制に朝廷の権威に頼る体制が陳腐化したこと、清盛死後に平家を束ね切る指導者がおらず、各派閥に力が分散したことが大きかったようだ

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