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『中国共産党の経済政策』 柴田聡 長谷川貴弘

引き返せない依存関係


中国共産党の経済政策 (講談社現代新書)
柴田 聡 長谷川 貴弘
講談社
売り上げランキング: 448,663


中共の習近平政権が狙う経済戦略とは、いったいどんなものなのか。中国の日本大使館で勤務した著者二人が、その政策と経済可能性を探る
中国批判の漫画の次は、冷静に中国経済を分析した本を手にとってみた
作者は在中国日本大使館に四年間の長期に渡って勤務した財務官僚と、調査員として在籍した大学講師で、実際の中国当局との折衝や実地における調査、統計の分析から、日本にとっての中国経済の魅力が語られている。政治については、今の政治体制でいいのか、とかそういう政治の是非には切り込まず、あくまで将来の見通しや日本への影響に留まる
自分の仕事に関しては手前味噌な部分はあるものの、中国側の論理に飲み込まれておらず、日本の官僚として独特のお国柄にどう対応するか、実践的な姿勢である
出版が2012年と習近平の党総書記就任間もない時期であり、今では本書で期待されている李克強首相の辞任説が飛び交うとか、あての外れた部分はあるものの、マクロの分析は現代中国の本質を突いたものだ

中共の体制の特徴は、一党独裁による「経政一致。他の大国とは違い、“党”が政府に優越し、日本の内閣にあたる国務院の首相より党の総書記のほうが序列は上。人民解放軍は党の統率を受けるし、司法も党の影響下にある
そうした一元的支配の体制では、危機に応じて強いトップダウンの政策がとれる。2008年のリーマンショックに対しては、短い期間で四兆元という巨大な内需拡大政策をまとめあげ、国有企業を動員した証券市場の買い支え国有銀行への公的資金注入など、日本なら国会審議などで要する手間を飛ばして、党→政府の決定だけで実行できてしまう
危機に応じて強みを発揮する「経政一致」の体制も、政府の政策を中央銀行が掣肘できないことにもつながる。この内需拡大政策も古い生産設備を更新できないなど構造改革に遅れをもたらしたり、さらなる不動産バブルを生んで庶民から持ち家が遠くなるなど、ひとつのベクトルだけの政策は副作用も大きい

成長率が6%台に落ち着いてきた中国経済は、今後どうなっていくのか
一人っ子政策による少子高齢化の進展や、農村から都市への労働力の流入が一息ついてきたのは、確かに経済成長の足枷になる
外国からの投資や公共投資に集めて成長率を作る「粗放型経済」には限界があり、中国政府も「量」から「質」への転換を旗振りする。しかし依然として外国の大企業との合弁会社で輸出に依存する経済であり、ドコモにスマートフォンを供給する「華為」などの例外を除いて中国自前の世界企業を生み出せていない
政府が後押しした製造業はともかくも、極めて強い統制下にある金融・保険商品、首都・北京すら覆う大気汚染交通インフラの貧弱さから来る大渋滞など、庶民の生活に直結する民生分野においては、多くの問題が残っている。GDP世界第1位に迫る経済大国であると同時に、一人当たりのGDPはタイやジャマイカと同等という開発途上国の側面を持っているのだ

逆にそれだけ未成熟の部分が残ってなお成長し続けていることは、中国の発展の可能性を示すものでもあり、日本が入り込む余地の大きさを示すものでもある
また、地方の格差が巨大なのも大陸国家・中国の特徴であり、基本的なインフラが未整備な内陸部では、公共投資型経済も有用になる。多角的な視点で中国にフロンティアを探すことが、日本経済躍進の礎となる。両国のつながりはすでに、政治的な対立から他へ置き換えられないレベルに進んでしまっているのだ
著者が掲げる日本側の課題は、大使館と本土政府の温度差。欧米諸国は自国の大企業を後押ししているのに対して、日本は肩入れ批判を恐れてあまり相談に乗らず、他国に差をつけられている。内外一体となった支援が成否を分けるのである


チャイナ・インパクト
柴田 聡
中央公論新社
売り上げランキング: 329,653
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『不屈の棋士』 大川慎太郎

インタビューした時期は2015~2016年、第1回電王戦が始まる前。もちろん、スマフォ遠隔問題は一切出てこない


不屈の棋士 (講談社現代新書)
大川 慎太郎
講談社
売り上げランキング: 60,511


人間を凌駕するソフトの登場にプロ棋士たちは、どう立ち向かうのか。11人の棋士たちへのインタビュー
登場する棋士は羽生善治、渡辺明、勝又清和、西尾明、千田翔太、山崎隆之、村山慈明、森内俊之、糸谷哲郎、佐藤康光、行方尚史、とそのまま棋界の代表者といっていい錚々たる顔ぶれ。タイトルホルダー、ソフトを前向きに活用する者、電王戦経験者、ソフトを敬遠する者、とそれぞれと違った立場で電王戦の衝撃、ソフトの評価、棋界の将来を語っている
将棋界のど真ん中にいる人たちながら、その語り口はざっくばらんである。羽生こそ第一人者という立場から慎重であるものの、個人の感覚、考えについては信じられないほど率直に明かされる。プロ棋士はひとりひとりが個人事業主であり、勝ち負けに関してはきわめて合理主義者なのだ
著者は古くから将棋村にいる人ではない分、よく悪くも容赦なく答えを引き出していて、オブラートの少ない濃厚なインタビュー集にしている

将棋棋士はソフトの強さをどう評価しているのか
羽生三冠と佐藤九段は立場上(あるいは信条)から人間のトッププロを越えたとは言わないものの、ほとんどの棋士は認めている
「教授」こと勝又清和六段は、第2回将棋電王戦の三浦弘行‐GPS戦をひとつの決着戦と見る。ただし、人間のなかで羽生だけはレーティングで抜けた存在であるとして、その優劣を留保している
電王戦におけるプロ棋士側の勝利に関しても、永瀬拓矢六段を除き事前の研究によるものが大きいとする。特に斎藤慎太郎七段(当時五段)は普通に戦っているようで、穴熊を目指すことでソフトの人間側への評価関数を上げて暴れさせる、水平線効果を狙っていた。しかも自ら長考することで、相手に深読みさせるという高度な戦略をとっていた
「教授」は(まだ第1回の候補者が決まっていない段階だが)準タイトル戦の電王戦が第一期で、終わってもおかしくないと言い切っていた。くしくも今年、天彦名人が人間側の代表として登場したことで、電王戦は幕を閉じることとなる

ソフト開発者が研究を続け、ハードの性能が上がっていく限り、ソフトの力が人間を上回るのは必然だった。ソフトがプロ棋士に追いつき、追い越したとき、棋士はその現実にどう向き合っていくべきか。それはAIの向上と普及で、大きな社会変化にさらされるだるう一般人にも、無視できないテーマである
千田翔太五段、西尾明六段は終盤のみならず、序中盤の研究にもソフトを使用する。西尾六段の話では、チェスの世界では、グランドマスターがハンデをもらってソフトに挑戦する段階に達しており、ソフトによる研究は当たり前。世界戦の前に最新ソフトのアップグレードを相手に妨害される事案も発生しているという
もっとも、ソフト相手だけと指して、登りつめる人間はまだ出てきていないらしい
そのほかの棋士は意外なほどソフトを研究や対戦相手には活用していなかった。序盤がカオスで、中盤の評価値は利用しづらく、間違い合う人間同士の勝負ではあてにしづらいのだ。ただ、すでに奨励会員にはソフトの使用者が多く、とあるソフトを入手したことで大きく飛躍した成功者もいるので、時間の問題かもしれない
各棋士が警戒するのは、ソフトで考えることを節約してしまって、棋士としての“脳力”を落とすこと。高度なAIは人類にとって、禁断の果実なのか
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『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』 島田裕巳

タイトルは多少、偽りあり


浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか (幻冬舎新書)
島田 裕巳
幻冬舎
売り上げランキング: 38,849


普段は意識しないのに葬式になると、急に気になる自分の宗派。仏教の八大宗派が生まれた歴史を紹介する
著者はオウム事件のときに袋叩きにあった宗教学者である。そののオウム擁護はともかくも、本書では日本の仏教がどのように発展し、今ある宗派が生まれてきたかを分かりやすく解説している
新書一冊でそれぞれの教えの中身を語るには当然、限界があり、どちらかというと仏教の通史のような内容だ
聖徳太子から最澄・空海の時代まで、仏教は当時の中国王朝での流行に強い影響を受けていて、日本の仏教としての特徴が出るのは草木すら成仏するという「草木成仏を背景にもつ浄土教が広まってから。「草木成仏」の思想は、念仏や題目だけで救済されうるという浄土宗・浄土真宗、日蓮宗の在家重視の宗派が、中世の庶民へ広まっていった
また「草木成仏」の宗教観は、宗教の帰属意識を持たない無宗教につながっているとも

葬式のときに坊主を呼ぶ、「葬式仏教」という形式を作ったのは、どこの宗派か。それは意外にも、曹洞宗である。曹洞宗というと、臨済宗と並ぶ禅宗であり、鎌倉仏教のひとつと学校では習ったものだ
開祖とされる道元は、禅の修業にこだわって比叡山から迫害を受けたとされるが、中興の祖である瑩山紹瑾は、加持祈祷などの密教要素を取り入れ、現世利益への関心が高い武家を取り込んだ。さらに修行中になくなった雲水(修行僧)を弔う儀式を在家信者にもあてはめ、死後に出家させ戒名を授ける「葬式仏教を確立していく
仏教が日本人の死後の問題に関わるのは、浄土教信仰が広まってからだが、遺族による故人の供養へ乗り出したことにより、曹洞宗は全国的に広まっていく。いちはやく基盤を築いた曹洞宗は、全国のコンビニより多い寺院数を誇り、駒沢大学、東北福祉大学など数多くの大学や短大を開設しているのだ
こうした「葬式仏教」の形式は、ほかの宗派にも受け継がれ、教団を支える資金源となっていった

仏教系の学校に出ておきながら、本書からは今さら知る常識も多い
白河上皇の歌にも残る、比叡山延暦寺が権勢を誇ったのは有名だが、奈良時代からの歴史を誇る南都六宗もまた興福寺を中心に、大和国(現・奈良県)の荘園をほぼ所有していて、室町時代には守護も兼ねる宗教王国を為していたという
管理人が初詣に行く八坂神社=祇園社叡山の影響下であり、世界遺産の清水寺は興福寺の末寺と、「南都北嶺」と両者は並ぶ称される関係にあったのだ
織田信長が大仏を焼いた松永久秀を登用したのも、興福寺対策があったのかもしれない

新興宗教に関しては、創価学会と日蓮宗の関係が取り上げられている
本来、日蓮は法華経を重んじるという天台宗の方針をラディカルに守ることからスタートしていて、他の宗派に激しく論争をしかける「折伏」のイメージで知られるものの、徐々に密教的要素を取り込んで庶民へと浸透していく
近代になると田中智学皇国史観と日蓮信仰を合体させた「日蓮運動」を起こし、満州事変を起こす石原莞爾作家・宮沢賢治など多くの信奉者を生む。大東亜共栄圏のスローガンとなった八紘一宇も田中智学が提唱した
田中は天皇が法華信仰を持つことで「国立戒壇」が建立され、「広宣流布」が実現するとし、この発想は戦後の創価学会にも影響を与えたとする
創価学会は昭和30年に北海道・小樽で日蓮宗の僧と論戦し、当時の参謀室長・池田大作が日蓮宗が負けたというイメージを形成させた。このことから、日蓮宗と学会の関係は悪化する
それでも日蓮宗の一宗派・日蓮正宗とは、牧口常三郎が正宗の信仰を持つにいたった縁から、学会の会員がそのまま檀家になるという友好関係だった。しかし、莫大な資金が学会から正宗に流れ込む仕組みに学会側に不満が高まり、平成二年に独立し正宗側から破門されることとなる
著者は日蓮宗の在家に支えられた伝統から来るものとしつつも、新興宗教といえどまったく新しい信仰を説くわけにもいかず、既存の信仰世界を基盤せずにいられないことを示しているとする
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『徳川家康』 下巻 山本七平

最近、本の記事がめっきり少なくなった。分厚い本を読んではいるにしても……


徳川家康(下) (ちくま文庫)
山本 七平
筑摩書房
売り上げランキング: 691,460


山本七平による徳川家康の評伝。下巻は関ヶ原の敗戦処理から、大坂の陣まで
下巻でも上巻に引き続いて、講談のイメージに引きずられないゼロベースの考察が徹底されている
司馬遼太郎などが描いてきた関ヶ原以後に天下を意識して、いわゆる腹黒、「古狸」に豹変した説を一蹴。それまでの「律義者」「海道一の弓取り」という堂々たる武人としてのキャラクターを保ったまま、天下取りに望み成功したとする
政治家が成功するにはまず権力を握らねばならず、権力を握るために権力欲を持つのは必然。「古狸」イメージは、あくまで西国大名や上方の人間による偏向したものというのだ
もっとも、あまりに常識人過ぎて面白みに欠け、頼られる人間であっても親しまれる人間ではなかったのも確かで、この点において大河ドラマの扱われ方は正しいといわざる得ない
巻末には息子さんが山本七平の遺稿をまとめた経緯、樺太出身の作家・綱淵謙錠との刺激的な対談が盛り込まれ、いろいろ濃厚な一冊である

下巻では家康の外交能力が高く評価されている
著者はクリスチャンながら、家康とキリスト教の関係を客観的に扱っていて、幕府が禁教にしたのもスペインやポルトガルの姿勢を問題視する。すでに布教活動が植民地化の道具に使われていることを知りながらも、家康はキリスト教自身には寛容であり、貿易にも積極的だった
しかし家康は布教を許す見返りに、帆船による航海技術や鉱山開発のための技師派遣を求めたときに、スペイン側は拒否する。国力の源泉である先端技術を渡すことに抵抗があったのもさることながら、大半が非キリスト教徒の日本を格下扱いしたのだ
オランダのクルーとして日本に漂着したウィリアム・アダムスは、家康のために帆船を建造して見せ、その信認を得る。彼を通じて国際情勢をつかんだ家康は、キリスト教の伝道にこだわらない新教国オランダの方が、貿易の利を追いかけられると外交方針を転換していく
秀吉の朝鮮出兵で冷え込んだ対アジア関係では、第三次の出兵を偽装しながら朝鮮側から通信使を一方的に派遣させることで双方の顔を立てつつ、対明貿易の再開を探っている。島津に琉球へ侵攻させたのも、対明貿易のためだった
すでに明が滅亡間近でこうした動きは功を奏さなかったものの、諸外国に対する家康の細やかな対応は、日本史のなかでも抜きん出ている

大坂の陣に関しては、著者は淀君戦犯説を唱える。もうボロンチョである(苦笑)
家康が目指した国家は源頼朝を範にした公武を峻別した武家中心の社会であり、関ヶ原以後は豊臣家を一大名として傘下に収めようとしていた
信長に従い、次には信長の配下だった秀吉に従った家康にとって、その時代の強者に弱者が従うのは「常識」であり、なんら不思議な構想ではなかった。豊臣家の滅亡ありきで策謀を巡らせたというのは、家康嫌いの偏見だというのだ
家康にとって大坂の陣は望んだことではなかったが、大坂城の包囲をいわば「諸大名の忠誠試験」に用いた。冬の陣後も豊臣家を幕藩体制に組させようと、関東への移封を条件に出している
なぜ、大阪方は豊臣家が存続する条件を拒否したか。著者は大阪方に総大将がつとまる人材がおらず、集めた牢人たちの「世論」に支配されたとする。彼らは講和が成立してしまうと、行き場所がなくなってしまう。『真田丸』を思い出すと、苦笑せざる得ない皮肉な結論である
ここらへんは、軍部にかきたてられた「世論」によって対米戦に突入し、あわや本土決戦までやりかねなかった、かつての日本を意識していると思われる
もし、淀君が前田利家の妻・芳春院のように江戸へ人質へ出ていれば、著者の言うように豊臣家の滅亡は回避できただろうか。家康が存命中は守られただろうが、秀忠以降になるとけっこうな大名が潰されているので、丁半博打な気もする


前巻 『徳川家康』 上巻
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『徳川家康』 上巻 山本七平

けっこうガチな分析


徳川家康(上) (ちくま文庫)
山本 七平
筑摩書房
売り上げランキング: 638,559


江戸250年の泰平を築いた徳川家康とは、どういう人物だったのか? 日本人論で有名な山本七平が、戦国を終わらせた巨人に挑む
徳川家康江戸時代には「神君」と崇められた一方で、当時から「古狸」の評判も高かった。それをイザヤ・ベンダサンこと、山本七平が史料から追いかける。武田信玄の本も出してたりと、この人は戦国にも造詣が深い
まず最初に持ち出されるのが、“スーパーじいちゃん”としての先駆者「毛利元就である。数十年の月日をかけて中国から九州にまたがる大毛利を築いた彼を、著者は「不倒翁」と称え、武略においては信長、謀略においては家康を凌ぐ存在とさえ言う
家康は元就の影響を受けたとするものの(根拠はよく分からない…)、二段三段の凄まじい謀計をしかけた元就に比べると、事案の解決には三河の一向一揆など正面からの対決で制するものが多い
家康の本質は優れた武人なのであって、彼の保守性が戦国に堅実な秩序を生み出す一方で、その堅苦しさから嫌われる側面があった。声望はあるが、人望のあるタイプではなかったというのだ

家康の保守性を決定づけたのが、今川氏での人質生活だとする
「人質生活=みじめ」ではないとする著者の指摘は目から鱗。松平家では父・広忠からして今川で養われて家を継いだ前例があるのであって、戦乱で荒れる三河にいるよりも恵まれた状況にあったとする
実際、今川義元の師である太原雪斎の薫陶を受けて、将来の領主になるための高い教育を受けている
その今川家では、鎌倉以来の『貞永式目』を発展させた分国法『今川仮名目録が成立していて、家の相続を長子をもって原則とするなど近世的な法体系が整備されていた
努力しなくても長子が家を継げる相続法は、今川の武士団の弱体化を招いてしまうが、家康に法治の大切さを植えつけたとする

家康は長い人生において、自分より強者に逆らっていない
秀吉に関東移封を命じられたときも、進んで江戸へ移動し秀吉をかえって唖然とさせている。著者は、関東が北条によって制度が統一されている領土であり、旧武田の甲斐・信濃よりは治めやすいという計算があったとしている
とはいえ、命がけで広めた領国をとられるのは辛過ぎるわけで、屈辱を耐える強い意志をもった現実主義者なのだ
秀吉死後にいよいよ天下取りとなるが、関ヶ原の分析が面白い。西軍の敗戦の原因は三成に誰も従わない「指揮官不在」なことともに、上杉によって家康が東上できないと思い込んでいた点にあるとする
西軍のキーマンとして三成は限定的であり、安国寺恵瓊が毛利輝元を口説き落としたことで関ヶ原が天下分け目の戦いになった。家康視点からは、恵瓊こそが首謀者であり容赦なく処分している

毛利輝元が関ヶ原に総大将として出ていたらどうなったか、あるいは関ヶ原後に秀頼を擁して大坂城に立て篭もったらどうなったか、という著者の提示するIFは微妙な采配で歴史が動いたことを証明している
しかし、輝元は祖父・元就とはかけ離れた凡将であり、毛利家は領土のほとんどを剥奪され、吉川広家に約束された周防、長門の二国の大名になってしまうのであった
上巻では関ヶ原後の毛利家の始末まで。下巻は、島津家と朝鮮との国交回復から大坂の陣が取り上げられる


次巻 『徳川家康』 下巻
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『シャルリとは誰か?』 エマニュエル・トッド

レイシズムVSテロリズム


シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 ((文春新書))
エマニュエル トッド
文藝春秋
売り上げランキング: 8,943


2015年1月7日にパリで発生したシャルリー・エブド襲撃事件。その後に起こった「わたしはシャルリ」と掲げたデモには、いかなる意味があるのか。シャルリが行っていた風刺とそれに対するテロの社会的背景を読み解く
フランスのことなので、だいぶ読むのに時間がかかった… ただ、その社会分析は今の日本にも通ずるものがある
シャルリー・エプドについては、テロの被害者という側面で注目されていて、日本の報道でも「表現の自由」VS「テロリズム」という単純な図式で伝えられきた
本書では、シャルリー・エプドがそれまで行ってきたイスラム教への風刺画から、フランスの中産階級が抱くにいたった移民やムスリムへの恐怖を読み取る。さらには左翼陣営による「ライシテ=世俗主義」の立場からの差別主義まで見出すのだ

フランスの社会分析に関しては、かなり専門的なので管理人が把握するのは大変であるが(苦笑)、要所で著者がまとめてくれるので内容はおおよそ理解できる
フランスの近代社会は、フランス革命で生まれた「ライシテ=世俗主義」だけでなく、地方で根付いたカソリックの伝統との両輪で回ってきたという。フランス革命の「博愛」の源泉も、カソリックの「すべての人間は平等である」という原則に発している
しかし、事件を受けた「私はシャルリ」のデモを分析したところ、本来はカソリックの伝統を継いでいた地域から、その平等主義の残滓すらなくなっていたことが判明する
そうした最近になって世俗主義に染まった地域でこそ、宗教への警戒感が高まっていて、かつての反ユダヤ主義に連想させる反イスラムの声が上がっているというのだ
むしろ、早々と世俗主義に染まったパリ郊外では、外から人が流入する都市環境に慣れているからか、冷静さを保っている

なぜ「ライシテ=世俗主義」が差別主義を生んだのか?
それにはEUがドイツ主導の経済圏となり、ドイツ型の市場経済が形作られたことが経済の格差、特に若年層へ厳しい結果を招いたと著者の持論が展開される。若者に福祉国家の負担を押し付ける政策は、なかでも立場の悪いマグリブ(=北アフリカ)からの移民層を直撃し、路頭に迷った彼らをISに向かわせたとする
そうした政策を主導したのは、従来の「福祉国家」を維持したい中産階級=中年以上の年齢層であり、世俗主義=無神論の立場を楯にムスリムへの幻想ともいえる恐怖心を持つに到った
著者はこの世俗主義と差別主義=不平等原則が結びついた立場を「ネオ共和主義と名づけて、ナチスが生んだヴィシー政権の系譜につなげる

重要なのは、実際に移民たちのなかで閉鎖的なムスリム社会が醸成されているわけではないことである
移民たちはフランス社会へ適応しようと努力しており、むしろ適応するスピードが早すぎて、共同体が持てず無秩序(アノミー)な状態に陥っているのが問題だったりする。襲撃事件を起こしたグループがいたベルギーでは、逆に閉鎖的な移民社会が生まれていたが、フランスではまったく事情が違うのだ
著者はイスラム教の持つ女性への差別を問題としつつ、かつてのカソリックのように平等主義を持つことに着目。お互いが歩み寄ることで、良き影響をフランスへもたらすことに希望を託す
本書は襲撃事件からIS空爆につなげたオランド政権を、左翼の殻をかぶった差別主義と看破。実は、平等主義の原則を実は極右といわれる国民戦線(FN)の支持層のほうが保っていると驚愕の結論を導きだす
左が右より不平等によりおかしくなる転倒は日本でも起こっていて、在特会周辺が盛り上がったのも、共同体の喪失や格差問題にあったのではないかと思う
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『戦国の陣形』 乃至政彦

「陣形」なんて、なかった


戦国の陣形 (講談社現代新書)
乃至 政彦
講談社
売り上げランキング: 101,212


戦国時代の陣形とは、実際にはどういうものなのか。日本軍事史の空白に挑む
序章にある著者の動機が生々しい(笑)。大河ドラマや小説などで、細かい部分の歴史考証は改善されているが、なぜか合戦の場面だけは講談に留まっていることに対する怒りなのである
それに留まらず、研究の世界でも中世、近世の軍隊に関しての戦術、戦型は、あまり掘り下げられていないという。本書はそうした未踏の地を大胆に踏み込んでいこうとするものだ
話は古代にまで遡る。古代日本は韓三国の戦いに巻き込まれ、唐・新羅の連合軍に大敗を喫する。この事態に対して、唐との関係を改善しつつ、その軍制を学習して農村から徴兵した「軍隊」を作ろうとした
それに沿って唐の“軍法”が導入されるはずだったが、大陸との関係が安定し蝦夷との国内戦に力が注がれるようになると、それに応じた“健児”(こんでい)の制に変更され、陣形の概念は衰えてしまう

平安時代に生まれた健児は、地方ごとの豪族によって編成され、「武士」の前身ともいえる存在だった。豪族の私兵という性質上、組織だった「軍隊」足りえず、それぞれが自分の判断で行動する「軍勢に近かった
そうした傾向は室町時代にまで続くが、足軽の台頭などで軍隊が大規模化していくことで陣形の必要性が生まれていく
合戦ごとに即席の陣形が生まれては消えていくが、著者によると武田信玄によって規則だった「陣形を作る動きが生まれたという。最新の研究によると、偽書とまで言われた『甲陽軍鑑』は高坂昌信が著し始め、春日惣次郎が継ぎ、最後は小幡景憲が完成させたと証明されたそうだ
それによれば、武田信玄は山本勘助から、諸葛孔明の八陣をヒントにするように進言を受け、陣形を工夫し出したという
面白いのが、相手を包囲する陣形とされる「鶴翼」の陣が、V型ではなく八型として伝えられていることだ。最初から包囲殲滅を目的に構えては、相手にバレバレなのである

もっとも、武田信玄の「陣形」は普及しなかった
主流となった軍制はむしろ、その敵である村上義清や上杉謙信の「五段隊形」だった。五段隊形とは、旗(指揮官&旗本)、長柄槍、弓、騎馬、そして新兵器である鉄砲を加えた五つの兵種をそれぞれ集中して運用したものである
「陣形」を軍隊全体の配置とすれば、「隊形」はあくまで一部隊の「隊形。追い詰められた村上義清は、信玄本人のみを倒すことで打開しようと必殺の隊形を編み出し、塩田原(上田原)の戦いでは、実際に信玄を負傷させることに成功した
その村上義清の機転を上杉謙信はシステム化することで、最強の軍勢をつくり上げる。そして、それに対抗する武田や北条に、「五段隊形」の軍法が広まることとなったという
鉄砲というと織田家のイメージが強いが、すでに上杉、武田でも集中運用が始まっており、上杉には三段撃ちどころか六段撃ちの記録まであるらしい
川中島で上杉方が用いたと言われる「車懸の陣」は、別にそういう「陣形」だったわけではなく、あくまで部隊の運用法。戦国時代で組織的な「軍隊」がいない関係上、「陣形」の概念は普及せず、部隊個々の兵種別運用「隊形」が発達した
この軍勢による「隊形」は、朝鮮出兵という対外戦争でも有効だった

戦国時代において「陣形」など、ほとんど意味を持たなかったのに、後世に名が残ったのはなぜだろう
江戸時代初期において、小幡景憲の甲州流軍学山鹿素行の山鹿流兵法にも「鶴翼」「魚鱗」などの名前はなく、後期に講談的想像力で広まったものだった
まして、「鶴翼」の陣が包囲殲滅の陣形というのは、明治以後に西洋の近代戦術が入ったから。著者にいわせれば、関ヶ原の戦いをみてメッケルが「西軍の勝利」と評したのも眉唾という。残された参謀本部の図を見ても、外国人に理解するのは至難の技だからだ
そもそも関ヶ原の戦いで戦場が関が原になったのは、石田三成が小早川秀秋の裏切りが濃厚になった情勢から、大谷吉継の軍勢が孤立するのを恐れて大垣城から引いたためという。とすると、関ヶ原の戦いはハナから東軍の勝利が濃厚の状態で起こったことになる
本書が語る「五段隊形」では、騎馬専門の隊が存在していることになっている。小柄な日本馬が重装備の武士を乗せて動ける時間は限られているはずで、その点では本当に騎兵として運用されたかは疑問。ただそれ以外の部分では、鋭い推論が展開されていて、合戦のイメージが改まる新書である
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『歴史対談 徳川家康』 山岡宗八 桑田忠親

今年の大河のMVPは、内野聖陽


徳川家康―歴史対談 (1979年) (講談社文庫)
山岡 荘八 桑田 忠親
講談社
売り上げランキング: 455,840


家康はなぜ悪役になってしまうのか? 大長編『徳川家康』を書き上げた山岡宗八と歴史学者が英雄の実像に迫る
徳川家康というと、江戸260年の泰平を築いた天下人にも関わらず、関ヶ原から大坂の陣までで「古ダヌキ」のイメージが強い。今読んでる司馬作品『城塞』がまさにそうなのだけど、長生きしてしまうと晩年の印象が残ってしまい、それがゆえに誤解も大きい
本書では26巻にも及ぶ大著『徳川家康』を著した山岡宗八が、戦国時代と茶人が専門の歴史学者で大河ドラマの時代考証も手がけた桑田忠親と対談し、数々の逸話や史料から虚実をふるい落として、大政治家の実像を探っていく
初出が1979年とファーストガンダムのテレビ放映と同年。新左翼の事件が冷めやらぬ時代を反映して、山岡が「同じ革命でも、中国人は気が長いから成功したけど、日本人は短気だから連合赤軍のようになる」(笑)とぶちあげるなど、飛躍した比較や脱線もある。ただしそれもご愛嬌で、実利一辺倒に見える家康を様々な角度から論じて、その思想、哲学を導き出している

鉄の結束を誇った三河武士団だが、家康以前はそうでもなかった。なにしろ、祖父の清康、父の広忠は家臣に殺されているのだ
なぜがそれが家康のもとで団結するようになったかだが、対談では「家康(幼名・竹千代)が幼くして当主になったから、みんな可愛がったのでは」とやや苦しい推測がなされる
その説を補完するように浮上するのが、家康の母方の祖母・華陽院。最初は水野忠政に嫁いで、家康の母・於大の方を生んだ
しかし、そのあまりの美貌から、家康の祖父・松平清康に講和の条件に譲り渡されることとなる。清康は三河を統一し、三河に所領を持つ水野家を圧迫していた
清康の死後、華陽院は先妻の子・広忠と、忠政と自らとの娘である於大の方を婚姻させ、家康が今川家に人質されていたときには、付き添って養育に当たったという
今川義元から当主として育てる許可を取ったというから、とんでもない女性である
ちなみに、娘の於大の方関ヶ原前後に高台院(北政所)の元に通うなど、家康の覇権に協力していて、広忠との離縁後に嫁いだ久松家は、徳川の譜代として松平姓を賜っている

現実主義者の側面が強くて、いまいち分かりづらい家康の宗教観だが、山岡宗八は天台の加持祈祷や修験道、禅宗、「厭離穢土 欣求浄土」の旗印で有名な浄土宗と幅広い豊かな宗教心の持ち主と強調する
三河一向一揆では、講和に一揆側の物資や本領を没収しないことと、首謀者を殺さないことを条件とし、家来の帰参を寛容に認めたという
実際には一向宗の寺に改宗を進め、従わなければ破却したらしいが、ここで家康が宗教の強さと根の深さを思い知ったのは間違いない
本能寺の変後に信濃・甲斐の戦乱で荒れた寺社へ寄進し、旧武田家の遺臣たちをひきつけたりと、宗教勢力と対立するのではなく、巧みに政治利用していく
キリスト教の禁止と鎖国に関しては、秀吉と同じく人身売買や植民地化の恐れがあったのと、キリスト教内部の新旧対立が一因。家康の顧問となったウィリアム・アダムスが旧教陣営であるスペイン・ポルトガルの帝国主義を強調し、新教国であるオランダとの独占貿易へ導いたのだ
家康の代には、秀吉以上に朱印船が出されており、この時代に多くの日本人町が生まれている

興味深いのが、家康の天下国家に関する考え方。対談では天下をとってもそれをひとつの家系が独占するものとは考えず、それが藤原惺窩→林羅山の朱子学にひきつけられた理由だとする
江戸幕府では、将軍家に適任者がいなければ、尾張、紀伊の分家から後継者を出すこととなっており、その過程を「副将軍」である水戸家が差配する。実際には老中以下の合議制が発達して後継者がいまいちでもなんとかなり、血筋が絶えない限り、そういうことにはならないのだが、ともあれ血筋の濃さが将軍の正統性にはならないのだ。そこに天下を私物化しない、敬天の精神があるという
この精神は、徳川慶喜の大政奉還にも通じるといい、水戸学以前に家康がこうした考えに到っていたと山岡は推測する
徳川家康はこの朱子学と同時に、兵法指南役として柳生宗矩を登用。その全国各地に散らばる門人をスパイとして活用しつつ、石舟斎の「活人剣」=「ほんとうの強者は戦わずして勝つ」の精神を武士道のスタンダードにして、荒々しい戦国の気風から清く正しいサムライへ誘導しようとした
小説同様に家康を理想化していて、出版された年代から古い史料に基づいてしまうものの、講談のフィルターを剥がして時代を作った大巨人に迫る面白い対談だった


関連記事 『城塞』 上巻

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羽生さんが叡王になるとして、二番勝負で納得できるかというと


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人とコンピュータ将棋の戦いはいかなる過程を経てきたのか。コンピュータ将棋の黎明期から電王戦にいたるまで、ソフト開発者と将棋棋士の関わりを振り返る
初出が2014年6月で、第3回電王戦後。当然、最後の五対五の対抗戦である第4回電王戦、山崎叡王とPonanzaの二番勝負となった“第1期電王戦”はフォローされていない
それでも1960年代に始まったコンピュータ将棋と、それに対する将棋棋士の反応が辿られているのは貴重。1967年に11手詰みの詰め将棋を7、8秒で解くに到っており、当時の加藤一二三“八段”が早くも「アマ初段の腕前」と評価していた
1990年第1回コンピュータ将棋選手権が開かれる。「森田将棋」「柿木将棋」「永世名人」といまや懐かしい将棋ソフトに、第2回大会には電王戦にも出場したYSS(「AI将棋」)が登場している。市販にまで辿りつけば印税は入るものの、ほとんどの開発者はあくまで本業をこなした上で、余暇を割いて取り組んでいる。名利ではなく「楽しさ」「挑戦欲」が彼らを支えているのだ

本書は特に将棋界、開発者ともに敬意を払いつつも、著者が東大将棋部OBであることからか、Ponanzaの開発者・山本一成に紙数が割かれている
一軍半の将棋部員だった山本と嫁の詳細過ぎる馴れ初め(笑)、コンピュータ将棋大会での涙の敗北、勝ったら100万円の企画に結婚資金を割く、などの変人ぶりが書き綴られている
第2回電王戦のPVでは、子供に将棋を教える佐藤慎一四段に対して、ソフトの貸し出しを「やーです」と断る台詞を抜き取られ、ボンクラーズの伊藤氏ともにヒールの役割を背負わされたとチクリ。「勝ちたいです。もの凄く勝ちたいです」という台詞も、電王戦ではなくコンピュータ選手権に向けての発言だった
あの挑発的なPVは、かなり面白おかしく偏向させたものと見なすべきだろう

他にもいろんな、エピソードが拾われている第1回電王戦の時点で、電王戦は五年間に一局ずつ行うと決まっていて、次に登場するのは加古川青流戦を優勝した船江恒平四段(当時)と内定していたという
しかし、第1回電王戦が終わった後の打ち合わせの間に、一年に5局の団体戦になった
このサプライズは短い打ち合わせの間に出たものというより、ドワンゴの川上会長が電王戦の反響を見ての腹案だったのだろう
数少ない叡王戦に不参戦の棋士、橋本崇戴八段は、第2回電王戦に500万円の対局料で依頼されていた。A級棋士として出るなら、進退をかける戦いになり500万円では割りに合わないと拒否したという
第3回電王戦に関しては、「悲壮感がありませんでした」との感想を漏らしている
いまや、電王戦は叡王戦のための口実になっていて、人間が負けても本人以外衝撃を受けていない。タイトル戦ばりの7番勝負にするとか、決着戦はしっかりやってもらいたいものだ
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『真田幸村と真田十勇士』 山室竜也

『真田丸』での忍者は……寺島進の死に方が酷かった(笑)
藤井隆のみでは層が薄いので、長澤まさみも『天地人』に続いて忍者にしたほうが分かりやすかったような




なぜ、真田幸村は人気があるのか? どうして真田十勇士は生まれたのか? 大河ドラマの考証を務めた著者が、幸村と十勇士にまつわる逸話を紹介する
大河ドラマが大坂の陣に入る前にと、関連本を手にとってみた
著者は大河ドラマだと『新撰組!』『竜馬伝』『八重の桜』の考証に関わっていて、著作からも幕末が本来の得意分野らしい。三谷幸喜の映画『清須会議』にも携わったそうだが、『真田丸』には特に関係ない模様だ
本書はまず、第一章と第二章で史実の真田信繁(いわゆる幸村)の生涯を取り上げ、第三章で講談から生まれた真田十勇士を一人一人列伝式で語る二部構成となっている
信繁に関しては、幸村を名乗っている書簡を紹介したりと(その信憑性はともかく)史料に沿った分析をしており、「その性格は穏やか」と『真田丸』を裏づけするような逸話も取り上げている
その一方で、上杉家は石田三成と連動して兵を挙げたとか、徳川のプロパガンダを真に受けた、というか大河のノリそのままに話を進めたりしていて、歴史の真実よりも、大河ドラマを楽しむ視聴者を意識したゆるい本なのである

真田十勇士に関しては、その全員があくまで架空の存在であるとする
江戸時代初期に成立した『難波戦記』において、真田幸村の名が広まったが、そこにはすでに三好清海入道、三好為三入道、由利鎌之助、穴山小助、海野六郎兵衛、望月卯左衛門の6人が活躍していた
江戸後期の軍記物語『真田三代記』では、幸村が戦死せず秀頼を奉じて鹿児島に逃れるラストが描かれる
しかし、意外や意外十勇士の筆頭ともいうべき猿飛佐助、そして霧隠才蔵が書物に描かれるようになったのは、20世紀に入ってから。講談を文章化した立川文庫においては、単に幸村の付属物ではなく、主役とした作品すら刊行されるにいたった
十勇士は佐助を除いて(前期の作品において才蔵も)、幸村の影武者となって夏の陣で大暴れして討ち死にするも、専門の忍者なのは佐助と才蔵だけなのもイメージと違った
考証も立川文庫ではかなりいいかげんで、三好清海入道は出羽の領主であり、真田家の武将という(爆)。清海入道は90歳、弟の為三入道が80歳で大暴れとか、いくらなんでも……と思ったが、『真田太平記』じゃ、60歳のくのいちを追いかける80歳の忍者がいたなあ(苦笑)
ともあれ、この立川文庫を源泉に真田十勇士は語り継がれていき、日本のサブカルチャーに多大な影響を残すのである


関連記事 『真田太平記 (一) 天魔の夏』

真田丸 深読みセット(真田幸村と十勇士関係の著作5冊セット)
松永 義弘 井口 朝生 江宮 隆之 柴田 錬三郎 司馬 遼太郎
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