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『刀伊の入寇』 関幸彦

盆前後は、コロナやら何やらで更新が空いてしまった
ぼちぼち頑張ります



1019年、摂関政治の全盛期に起こった刀伊の入寇。それが日本にもたらした影響を探る

教科書のなかで、ひっそりと書かれているだけの刀伊の入寇
日本古代・中世で数少ない対外戦争である「刀伊の入寇」は、藤原道長が摂関政治を確立した時代に起こっており、その後の武家政治と年代が離れていることから、その位置づけが宙に浮いていた
本書は、刀伊(女真族)の侵略に対する王朝政府の対応に、律令国家による徴兵制度から、封建制における武士の動員への過渡段階を見出す。自立した武家への前身として“兵(つわもの)”と呼ばれる存在があったのだ
武士の“起こり”とされるのは、平将門・藤原純友の反乱(承平天慶の乱)とその鎮圧した武人たち。その中心になったのは、高位の貴族に仕える軍事貴族たちで、武装した配下ともに乱を鎮圧し、地方に土着化して有力者としての力を蓄えていく
「刀伊の入寇」に対しても、土着化した軍事貴族の末裔たちが大活躍するのだ


貞観の新羅海賊襲撃

「刀伊の入寇」の前段として語られるのが、貞観11年(869年)の新羅海賊の侵略「貞観の入寇
9世紀半ばの新羅王朝は疫病、天変地異から来る不作、そして地方の反乱と混迷を深めており、食料確保のために王朝も海賊行為を公認していた
俘囚鎮圧の経験があった対馬守の文屋善友がこれを迎撃しており、この時代においては律令国家の徴兵制度が機能したとされる
ただ文屋姓の武人が「刀伊の入寇」にも参加しており、中央からの武官が土着化した一例として解釈できるとか
この経験は平安朝の記憶に残り、「刀伊の入寇」に対しては、摂関政権では「貞観の入寇」を先例として対応が決められた
また、古代日本の主な対外戦争は、蝦夷討伐であり、降った俘囚たちへの活用(!)として、各地に兵士として配置されていたとか。これも、武士の起源のひとつに数えられそうだ

*wikiによると、そもそも兵(つわもの)という言葉には、王朝に逆らった者という悪いニュアンスがあり、王朝の側に立って鎮圧する者を”武士””武芸ノ士”と呼ばれていたとか。しかし、承平天慶の乱後には、武士の側もその残虐さから貴族に忌避され、武士=兵(つわもの)と同じ意味合いになってしまったという


東アジアの混乱と女真族の海賊行動

新羅の海賊行為が王朝末期の混乱、宗主国・唐の衰亡とか変わっていたように、「刀伊の入寇」も高麗王朝の混乱と関わっていた
女真族たちは友好関係だった渤海王朝契丹に滅ぼされており、交易相手を失った女真族は南に活路を見出すべく、海へ乗り出す
鬱陵島の于山国を滅ぼすと、それを拠点に朝鮮半島沿岸を荒らして、日本にもやってきた
新羅海賊の前例から、日本側は女真族を当初は高麗と同一視するところがあり、「刀伊」の名称も「東夷」に日本の文字を当てたものという
高麗側も女真族に反撃しており、日本側の疑いを解くために、捕えられた日本人の送還を行っている


道長との政争に敗れた男が対応

この侵略に対応したのは、藤原北家の藤原隆家。武官としてのキャリアを積んで若くして公卿に列していたが、関白となった父・道隆や叔父・道兼が亡くなると暗転
藤原道長が内覧・右大臣となり、花山院の袖を射抜く事件で失脚
復権後に眼病の治療も兼ねて、中国に近い太宰府を任地とする太宰権師となっていた。天下の「さがな者」(荒くれ者)として有名であり、“殺人→穢れ、不信心”と都人から忌避されるとはいえ、公家と武家がまだ分離されていない象徴といえる存在だった
女真族は、対馬・壱岐を荒らしてその住民数百人を拉致し、北九州各地に上陸するが、この隆家と大蔵種材らに指揮された土着の「住人」、“兵”たちによって撃退される
女真族の略奪対象は“人間”であり、背景には大陸の“奴婢市場があった。なるべく健常な者を船に乗せるため、その都度、選別して老衰者を海に落とすなど酸鼻を極める現実があった


本書では東アジアの情勢から俯瞰した視点で、各国で律令国家が形骸化して封建制度へと移る時代性を踏まえて、「刀伊の入寇」と“兵”の台頭が読み解かれている
教科書で単語だけしか知らない出来事に、このようなドラマが詰まっているとは思わなかった。歴史の空白を埋めてくれる良書であります




『新説 家康と三方原合戦』 平山優

大河ドラマの筋は関係なしに



なぜ、家康は倍する武田軍に戦うことになったのか? 三方原の戦いまでの経緯、背景から解き明かす

大河ドラマ『どうする家康』歴史考証した著者による、三方ヶ原の分析
三方原の戦いとは、1573年に遠江・三河へ侵攻した武田信玄徳川家康が仕掛けた合戦
なぜ、東海道一の弓取りとも言われた家康が、数のうえでは無謀な戦いを挑んだか、フィクションでは「家康、若気の至り」で済まされることが多い
本書はその背景を桶狭間後の独立から、家康と信玄の関係をたどり、浜松城を中心とした地勢から、家康が出撃せずにいられなかった事情を探っていく
一般に流布する俗説が、実は『信長公記』『甲陽軍鑑』『三河物語』にもなく、家康が先走ったわけではなかったのだ


遺恨は「駿河侵攻」から

家康と信玄の因縁は、1568年の駿河侵攻から始まる
武田家では、東美濃の遠山氏の問題から織田家との婚姻関係が模索されるが、信玄の嫡男・義信は、これを今川家との関係破棄につながるものとして反発。1565年クーデターを企てて、幽閉される
これに対して、今川氏真は先手を打って「塩止め」で応じて、実質的な敵対関係に入った
1568年12月信玄駿河へ侵攻を開始。この時点で家康と緩やかな分割協定が結ばれていたとされ、今川家の領主たちが続々と調略されるなど順調であったが、北条家が決然と今川側に立ったことで一変。一時は撤退を余儀なくされる
それに対して、家康は順調に遠江の諸城を落とし、氏真のいる掛川城を囲む状況。信玄の苦境に対して、遠江に侵入した武田方の撤兵を要求する一方、協定で禁じられていたとされる氏真と和睦したことは、格下に見ていた信玄の怒りを買ったという
家康と信玄の間に立っていた織田信長は、畿内にかかりきりのことから、信玄との対立を恐れていたが、対立の目は今川領をわけあった時点で生まれていたのだ


浜松城の弱点

その後、焼き討ちにあった比叡山の座主を受け入れたこと、大坂本願寺から救援要請を受けて、三河や尾張の一向宗の支援が期待できることから、遠江・三河への侵攻を決意。1572年10月に兵を出発させる
これに対して、家康もこまめに兵を繰り出して牽制、二俣城を包囲する動きに対しては自ら威力偵察に出ており、一言坂の戦いで厳しい退却戦を味わっている
相手が大軍で野戦が厳しいことは体験済みだった。まして、従属していた遠江の国人たちも離反し、二俣城陥落後は浜松城に孤立しかねない状況が生まれていた

さて、そんな鎧袖一触されそうな武田軍の後を追ったのは、浜松城の弱点を突かれたから。浜名湖の水運を期待して、曳馬城を拡張する形で生まれた浜松城は、同じ浜名湖に面する堀江城、宇津山城兵站を依存していた
信玄は三河へ行くと見せて、堀尾城に寄せる動きを見せていたのだ
数千の主力がこもる浜松城を兵糧攻めされてはたまらず、武田水軍が三河湾をうかがう状況ではまさに撤退する隙間もない
家康はどこかで仕掛けなければならない状況に、追い込まれていた
ちなみに、軍議の場所『三河物語』にも、俗説の浜松城ではなく、出陣してからとされており、かなり差し迫った時点での選択だった

堀江城は、合戦の翌日から武田軍の攻撃を受けたが、悪天候から中止。陸上の補給路を断つべく、野田城攻略に矛先を変えている


著者によると、三方原の戦いは戦国時代の大きな転換点になったという
信玄の勝利は、足利義昭を動揺させ、都落ちまで考えさせた。その醜態に信長は17か条の異見書を送り、それに激怒した義昭とその家中は離反を決意する
信長追討令の時期については諸説あるが、ここにおいて信長と義昭ははっきりと断交したのだ
ここから大坂本願寺が開城する1580年まで続く、元亀天正の争乱の起点となる戦いであり、信玄の死は早くも織田・徳川連合に流れをもたらせたのだ
本書では浜名湖が塩水が入る汽水湖となった明応地震(1498年)未だ定まらぬ合戦の場所までを丹念に検討し、史料のみならず、その地勢から来る“三方原の戦い”をあぶり出している




『東洋の発見』 岩村忍

著者はリットン調査団にも同行し、戦後はシルクロード・ブームの立役者になったとか



歴史学に西洋、東洋という区分けは有効なのか。ユーラシアの東西の交流をたどる

タイトルが気になったので、実家の本棚から
初出が1976年と管理人が生まれる前で、講談社学術文庫というレーベルの割に、真面目ながらエッセイのような柔らかい文体で書かれている
ページ数も121項と軽くまとめられていて、世界史を詳しく知らない人を意識してか、専門用語もかなり控えめであり、今で言えば歴史系ユーチューバーぐらいの分かりやすい
かといって、内容が薄いわけではなく、古代四大文明から前漢の武帝、ローマ帝国時代から模索される東西の交流を取り上げ、モンゴル帝国の衝撃、その崩壊から大航海時代への進展、現在にいたる欧米中心のアジア観を産んだ帝国主義時代を取り上げていく
現在の歴史学は欧米の優越した時代において生まれたもので、それをそのままアジアに適応すると実態から離れていくのだ


東西ヨーロッパの境はモンゴル帝国

完全に一般向けなので、とくに注で論拠は示されないし、部分的には今の研究から外れているものもあるが、いろいろ発見も多い
まず、ヨーロッパにおける西欧と東欧という区分け。これはモンゴル帝国が襲来した際に、一時的にであれ征服された地域で分かれる
チンギス・ハーンの孫バトゥは、1240年の遠征ハンガリー、ポーランド、ルーマニアのトランシルヴァニア地方まで占拠した。その西端はドイツにも至り、くしくも冷戦時代の勢力分布図に近い
バトゥの子孫はロシア諸侯を完全に服従させ、「タタールの軛」と呼ばれる長期の支配体制を続けたために、ロシアはヨーロッパとは見なされなくなったという
ソ連もモンゴル→ロシアの後継と見なされ、西側・東側という分け方は、モンゴル帝国に端を発するのだ
こうした歴史観がロシアのウクライナ侵攻にも関わる、伝統的な対立を生み出しているともいえる


東西をつないだパックス・モンゴリカ

このモンゴル帝国の影響力は大きく、そこにはマルコ・ポーロをはじめとする多くの商人、宣教師が訪れており、ヨーロッパ遠征で連れられた捕虜たちはハーンの奴隷となった。ハンの玉座を作ったフランス人の職人もいたという
著者は東西の交流を阻んでいたのは、中間にいる多くの国々であり、東西にまたがる帝国が現れたとき、どんな形であれ人の移動は行われた
しかしモンゴル帝国が消えると、そうした交流は失われ、ヨーロッパにおけるアジアの知識も喪失。陸路で行けないかわり、海路での通行が模索され、大航海時代に至る


古代・中世・近代の区分は欧米限定

欧米発の歴史学において、古代、中世、近代の3つの区分に分けられる
ローマ・ギリシアの「古代」キリスト教により知識が封印された“暗黒”の「中世」ルネサンスや市民革命を経て現代につながる「近代」で、著者はヨーロッパにおいては妥当とする

しかし、アジアにあてはめるのには限界がある
日本にはヨーロッパのような封建制があったのであまり問題にしないが、中国では秦漢時代から皇帝独裁体制が理想とされてきて、どこか古代で中世か明快に分けられない
インドでは「カースト」(元はポルトガル語)が古代から続いているし、中近東ではイスラム教を契機に古代・中世を分けられそうだが、近代をどう扱うのかが課題
そもそもヨーロッパと対置して、広大なそれ以外の地域を“アジア”と設定し、ひとつのものとして考えることに無理があるというのが、著者の結論だ




『新宗教の風土』 小沢浩

オウムはでてきません



新興宗教にはどういう魅力があるのか? 浄土真宗の強い富山県で、伝統的な信仰と新宗教の受容の関係を探る

親戚に新興宗教の信徒が多いせいか、亡父が実家の本棚に置いていた
初出が1997年オウムサリン事件の後だが、元になったフィールドワークが1993年に『富山県大百科事典』のための取材となっており、オウムについては一切触れていない
著者は宗教社会学の立場から、宗教団体とその信者を取材しつつも、合理主義の立場から非合理を斬るのではなく、信じる者の立場からなぜ信仰を必要とされるのかを追いかけている
学問上で幕末以降にできた宗教を「新宗教」戦後に生まれた新興宗教「新・新宗教」と分けられるが、本書は地方の伝統的な宗教に加え、新興宗教の流入した時期や役割も違うので、そうした分類に囚われない
学者として各宗教とは距離を置くものの、新興宗教がどういう役割を果たしているのか、その地域の歴史・伝統との関わりからもアプローチしている


1.人間性を高める救い

新宗教に入る1つのケースとして、まずA宗の富山支部長が紹介されている(原文は実名)
東京へ画家になるために出るが、画壇の現実に幻滅して夢破れ、最初の旦那と結婚し広島へ。荒れた家庭で生まれた子供も障害者と、精神的に疲れた彼女は新興宗教を転々とするが、さらに水商売に第二の結婚と離婚を経験することに
それでも、彼女が違う宗教へ移っていけたのは、救いというものは、常に人間性の高まりをともなうものだ」という宗教観があったからだ
最後に出会ったのがA宗で、家族に伴う苦難を「霊障」「色情の因縁」という視点から整理でき、立ち直れたという。著者はA宗の「霊障」うんぬんには同調しないものの、支部長にもたらされた救いに宗教の役割を感じる


2.利他行為を生む「あなんたん」

2つ目に取り上げられるのは、北アルプス剱岳の麓にある「あなんたん(穴の谷)。そこには万病に効くという霊水が伝えられている
いちおう、ゲルマニウムを多く含むとして健康のために持ち帰る人が多く、管理組合では有料のポリタンクを売るだけで、無料で並んで持ち帰れる
弘法大師からの仏縁とされるが、穴の谷の霊水が有名になったのは、実は戦後
岡本弘真尼という行者が穴の谷に6年間籠もり、1962年に亡くなったのだが、親交のあった売薬業者(富山の薬売り!)の塩原氏に、「洞窟の水は万病に効く徳水だから、多くの人に広めてほしい」と言い残した
塩原氏は弘真尼の遺言を忠実に守り、霊水の効果を説いて回った。そのうち、実際に医者がさじを投げた患者が治る事例があり、全国に広まったという
著者はこうした“奇跡“に対して距離を置くが、弘真尼や塩原氏の困った人を放っておけない性科学が見放した人への“癒やし”にこそ、惹きつける理由があり、肉親の健康を思って水を運ぶ人々の姿に「現代のオアシスを見る


3.真宗の異端事件「頓成の異安心」

真宗王国とも言われる富山の宗教事情として、江戸時代天保年間に始まる異端事件「頓成(とんじょう)の“異安心(異端)”を取り上げる
浄土真宗には、二種深信」という教えがあり、自らの罪業が深く決して救われることがないと信じる「機の深信と、そうしたときに初めて阿弥陀様が必ず救って下さると信じる「法の深信があり、分かち難いものとして機法一如と言う
頓成能登(現・石川県)の長光寺の次男として生まれ、北陸の門徒の支持を受けていたが、時代を減るごとに教えが曖昧になっていた本山と対立して失脚する
江戸時代の詮議ではどこが悪いか不明なようだが、明治になってからの頓成の法話によると、死んだ後の救いのこだわる本山に対して、現世で苦しむ門徒へ救いのメッセージを送っていることが強調されている
著者はそこに伝統的な仏教が「あの世専門」になっていて、現世の問題を軽視していることを、その現世の問題に新興宗教が救いをもたらしていることを見る
逆に新興宗教の側は、葬式などの「あの世」の問題には深掘りしないところが多く、式は既存の仏教に任せるところが多い


4.頓成以降の2つの流れ

そうした頓成の問題意識は富山に生まれた新興宗教「浄土真宗親鸞会」「御手南会に引き継がれている。「親鸞会」はラディカルな原理主義を掲げつつ、現世での功徳と来世への救いをつなげる
「御手南会」は教祖を弥勒菩薩の生まれ変わりとしつつも、真宗王国の裏で引き継がれてきた「秘事法門」と呼ばれる民間信仰を包括して引き受けていく
多くの新興宗教そのルーツを「欧米から入った雑多な思想」を取り入れたものに過ぎないとしながら、この2つの団体は、江戸時代からの民衆の願いを背負っているとする


本書は死に瀕した人が「阿彌陀仏」を見たと感動しながら事切れるなど、なかなかハードな場面も取り上げられていて、短くまとめられた新書なのに重かった
「生きてて感じる空虚さ」「誰もがいつかは直面する死」の問題は現代人にとっても避けられず、宗教の果たすべき役割は厳然としてある
そして、そうした隙を突いてカルト宗教が忍び寄るケースもあり、それが健全か否かは追い込められた当事者に判別できるものではなく、A宗の富山支部長のように上手く行き着ける人ばかりではない
人間、いつ危機に直面するか分からないものだし、心の備えはしておきたいものであります




『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』 元木泰雄

源平合戦だけで語れない中世史



鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝を生み出した河内源氏は、いかに平安時代を渡り歩いたか。武士の保守本流の歴史を読み解く

大河ドラマのときに読んどきゃ良かった(苦笑)
河内源氏とは、清和天皇を源流とする源氏のなかでも、武門を代表する存在として源頼信を祖として河内国(現・大阪の一部)を根拠地とした一族
本書では清和天皇の孫にあたる源経基に、その子・満仲から源氏武者の発祥をたどり、平治の乱によって一度滅するまでの栄枯盛衰を取り上げる
強調されるのは、源氏が“武家の棟梁”と言われつつも、その力の源泉は朝廷ならびに摂関家とのつながりによるということ。河内源氏と言われるように、畿内を基盤とする“軍事貴族であり、親戚には摂関家のライバルとなったような権門もあり、国司の代わりに現地の問題を解決する受領」の地位をもつ四位・五位に位置していた
坂東武者とのつながりは、古くからあったものの、その代表者となるのは源頼朝からで、だからこそ革命的な存在といえる


1.皇族発の軍事貴族


清和源氏の祖である源経基は、平将門と藤原純友の乱に参加しながら功を挙げられず、皇族としての政治力で官位だけは確保した
武家としての基盤を築いたのは、その嫡子・満仲から。安和の変で、醍醐天皇の第十皇子である左大臣・源高明の失脚に加担し、摂関家と太いパイプを築き、武門の最高位である鎮守府将軍に上り詰めた
満仲の長男・頼光と三男・頼信は、摂関家の絶頂を築いた藤原道長の覇権に協力。頼光摂津国を根拠地に、東国への玄関口である美濃を抑えて、子孫に多田源氏、美濃源氏を残す。荒々しい頼信は、東国で平忠常の乱を平定して、源氏と関東の縁を築いた。この頼信が河内源氏の祖となる
面白いのは、その子の源頼義桓武平氏の嫡流である平直方から嫁をもらい、鎌倉の地とその郎党を引き継いだこと。この頃の平家は、土着した平家である平忠常の乱の鎮圧に失敗し、源氏と明暗を分けていた
後に頼朝が頼義の故事を踏まえた鎌倉入りも、元は桓武平氏から譲られた土地であり、武士の争いを源平合戦で見ていくと実態から離れていくのだ


2.奥州十二年合戦と頼家の蹉跌

高評価を受けた源頼義であっても、まだ坂東武者を動員できる立場にはなかった前九年の役には、安倍氏の抵抗に苦戦し、出羽の豪族・清原氏の大軍がなければ勝利できなかった
後三年の役での源頼家は、朝廷から私戦と見なされたことから、奥州藤原氏が成立したことを見守ることしかできず、絶大な名声を得ながらも官位は頭打ち状態となった。そして、頼家の嫡子・頼親は素行の悪さから都を追放され、後に反乱を起こして一気に河内源氏は没落
河内源氏は摂関家とのつながりが強かったため、白河法皇に始まる院政の時代に退けられた側面があり、頼親の子・為義の代に駆け上がる平家の嫡流・平忠盛(清盛の父)とは立場が逆転してしまう


3.保元の乱と親子の相克

為義の息子・義朝母が白河院の近臣であり、為義が摂関家を優先させたせいか、廃嫡同然で東国の安房国(現・千葉の一部)へ下向する
そこで源氏の貴種として見出され、豪族間の調整役として常総氏、三浦氏、千葉氏といった坂東武者に認められる。院と関係の深い熱田大宮司・藤原季範の娘と結婚して、検非違使の父・為義を超える「受領」就任を果たした
保元の乱では、摂関家の藤原忠実・頼長父子についた為義に対して、義朝は妻の実家のつながりから後白河天皇の旧院政派について、父と兄弟を処刑することになった
大きく貢献した義朝だったが、もともと高い官位をもつ平清盛との差は埋まらず、保元の乱の首謀者だった藤原信西も平家を重視してしまう


4.平治の乱と頼朝の流刑

そこで平治の乱では、反信西派によるクーデターに乗り、藤原信頼が二条天皇と後白河上皇を確保して、義朝は播磨守頼朝は天皇の側近となる右兵衛佐と異例の出世をした
しかし、義朝は河内源氏を継ぎながらも、その勢力圏は東国。天皇と上皇が脱出すると、西国と畿内で動員できる平家に抵抗できず、義朝は落ち延びた先で討ち取られてしまう
同じ源氏でも、多田源氏の源頼政は以仁王に巻き込まれるまでは、平家政権下で生き延びたし、義朝の嫡子・頼朝熱田神宮という母の実家、上西門院(後白河天皇の姉、准母)の蔵人というつながりから生き延び、他の兄弟たちの多くも助命される
平治の乱は摂関家の内紛、私戦とみなされたことから、保元の乱ほど処分は厳しくなかったそうだ


本書は源氏、平家、天皇家、摂関家と複雑に入り乱れた血縁と人間関係を細かくたどって、公家対武家という二項対立、教科書的な史観を退け、時代が進むごとに分離し専門化していく構図を導き出している。また、皇族も武家も主がなくなると、その未亡人が廃嫡の権利まで握るという(北条政子が好例)、武家でも母系社会ならでは習俗が残るのも興味深かった


*23’4/5 加筆修正

保元・平治の乱を題材 → 『後白河院』(井上靖)

前九年・後三年の役を題材 → 『炎立つ』(高橋克彦)



『せどりでガッチリ稼ぐ!』 フジップリン

「せどり」する側から見た世界




せどりというと、悪名高き「転売ヤー」のイメージもあるけども、本質は安く仕入れて高く売るという普通の商行為。本書はネットを利用しての「せどり」のノウハウを紹介する
扱うマーケットサービスは、AmazonメルカリAmazonは、単純に市場規模が最大であり、FBA(フルフィルメント by Amazon)という発送・梱包・アフターサービスまでを一括で引き受けてくれるサービスがある
最王手ゆえに、それをフォローするアプリも充実していて、バーコードを読めば市場でどれぐらいの値段で出回っているかが瞬時に分かり、その売れ行きすらもデータで確認できてしまう
お店でスマフォ片手に立ち止まっている人は、このためにアプリをいじっているのだ
メルカリAmazonで売れ残った物をさばく、サブの市場という位置づけなのだ
ノウハウばかりでなく、「せどり」をする側から見たネット市場が興味深い


1.メインはAmazon、サブでメルカリ

本書における、「せどり」の主戦場はAmazon
Amazonで出品する場合、出品者は代表者名、住所、電話番号を明示しなければならず、出品ごとの手数料(大口なら月4900円、小口なら一品につき100円)、販売手数料FBAを利用する場合は配送手数料、在庫保管手数料が必要になる。もちろん、別個にAmazon倉庫への配送料はいる
ここでは、個人であっても法人であることが期待されていて、店舗名も購入者が安心できる名前が望ましいという。なので、本書ではどこかにある会社のような名前、支店であるように装うことを薦めている
つまり、Amazonの出品者はちゃんとした会社のように見えても、実は個人がバーチャルオフィスで電話番号を借りて運営している可能性があるのだ

一方のメルカリでは、素人が個人で行っているように思わることが大事。ユーザーもメリカリ自身も業者が大量に物品をやり取りすることを嫌っているのだ(検索順位で下位に回されてしまう!)
なので、品数を捌きたい場合も、一気に出品登録などはせず、欲しい人にメッセージとして添えるテクニックを紹介している
Amazonで仕入れた商品はAmazonで売れない決まりがあるので、それをさばくためにメルカリ、ヤフーオークション、楽天市場などを利用していく

*最近のメルカリでは、メルカリSHOPという枠に業者を誘導しているようである


2.努力イコール検索

著者いわく、「せどり」は簡単、しかし「楽ではない」という。これは仕組みは簡単だけど、やりきるのは忍耐がいるということ
中古ショップ、ディスカウントショップ、大手家電店、デパート、コンビニなどなどいろんな売り場が、仕入れ対象となりうるが、その特徴を知るために求められるのが、とにかくアプリを駆使した「検索である
場合によって、片っ端から「全頭検索」する必要もあり、それを店舗や他のお客さんと揉めないように行わねばならない
大量仕入れ、大量販売する大手は、在庫が消えることから、「せどり」を歓迎する向きがあるとはいえ、それも限度がある
また、出品してからも、競争は価格を巡って行われるので、こまめに値段の上げ下げをチェックしなければならない


ひとつ注意が必要なのは、本書では法律関係にあまり触れていないこと
少し調べただけでも、税金対策に税務署へ「開業届」をしておくことが大事だし、中古品を扱う場合は所管の警察署に「古物商許可」を受ける義務がある。個人でAmazonへ出品する場合、仕事上の電話番号を作るか、バーチャルオフィスを作って住所と電話番号を借りる必要がでてくることもあるだろう
メルカリはともかく、特にAmazonを利用する場合は、準備と固定費用がかかるのを覚悟するべきなのだ
まあ、そのあたりは著者のサイトでフォローされていると思われるが
本書はかなり具体的に、生々しいテクニックを紹介していて、ネットショップの実態、考え方がよく理解できる。そして、著者の意図ではないのだけども、「せどり」の発想をある方向に尖らせていくと、「転売ヤー」が生まれてしまうのも分かってしまった


*23’4/5 加筆修正



『ベスト&ブライテスト』 下巻 デイヴィッド・ハルバースタム

前巻を読んだのが、4年以上前とか




ベトナムの泥沼化を招いた指導者層の決断を描くレポートの最終巻
タイトルからして反戦運動に話が移ると思いきや、続いてジョンソン政権の文官、軍人の動きを追うものだった。"賢者”たちの判断がテーマなのだ
ジョンソン政権はダラスの暗殺後に成立したこともあって、ケネディ政権の主要な閣僚、国防長官ロバート・マクナマラ、国務長官ディーン・ラスク、国務次官ジョージ・ポール、大統領補佐官ジョージ・バンディが留任し、引き続いてベトナム問題の解決に取り組んだ
下巻では、ケネディ時代から始まった軍事顧問団の派遣が、北ベトナムへの大規模な空爆と戦闘部隊の派兵へ拡大した責任を明らかにしていく


1.「偉大な社会」とベトナム介入の葛藤

リンドン・ジョンソン大統領は、フランクリン・ルーズベルトら過去の大政治家たちを意識しており、公民権の拡大と貧困の撲滅を目指した「偉大な社会」をスローガンに掲げていた
ケネディから引き継いだ"賢者”たち、東部のエスタブリッシュメントたちとは違い、テキサスの田舎者というコンプレックス(実際には政治家の息子だが)を持っていて、閣僚と折り合いが良かったわけでもない
彼にとっての第一目標は、政治家としての事績を残すための「偉大な社会」の実現であり、ベトナム戦争は予算的にも脚を引っ張る存在といえた
しかし党内の保守派として、反共の姿勢を崩すわけにもいかず、あくまで戦争の予算規模を限定して、"サラミ”を薄く切るように介入の規模を徐々に拡大していくことにする
こうすることで、予算と議会のリソースを戦争にとられることなく、「偉大な社会」のための法案を通すことができた
が、これには膨大な軍事支出を議会へ隠すことを伴い、経済のインフレ要因となって国民生活に影響を及ぼすこととなった


2.賢者たちに欠けたモラル

北ベトナムへの空爆、いわゆる北爆の決断は、大規模な派兵をせずに相手に音を上げさせる、費用対効果から導き出された。そもそも空軍無敵論=ニュールックは、核兵器と空軍重視で軍縮を狙った政策から生まれている
しかし、北爆はさらなる北ベトナム軍の南下を呼び、さらなる戦闘部隊の投入を必要とした。ベトナム社会の高い出生率は年間10万人の兵士を新たに動員できて、結局は数十万規模の派兵で対抗せざる得なかった
その大軍の派兵でも現地のウェストモーランド将軍は5年以上の長期戦を予想していたが、ワシントンの政権は数年、次の大統領選挙までにメドをつけるつもりで決断していて、それぞれの観測に重大な齟齬が生じていた
どうして、こうなったのか?
著者は自身ですら1963年までそうだったと告白したうえで、アメリカが建国以来不敗であり、自らの力で不可能なことはないとする圧倒的な自信と傲慢さから来たとする
また“賢者”たちは頭は良くても、道義やモラルに乏しく、政権内に残るために保身を優先して必要な施策を曲げてしまう
人間として政治家として、何をしてはいけないか、それが欠けているから、皮算用で人の上に爆弾を落とせるのだ
当代、最高の頭脳と評された人々でも斯くの如し
今の日本でも、薄い“インテリ”は毎度メディアをにぎわせていて、下手すりゃ国政に影響を与えたりするので、騙されないように気をつけたいもんである


*23’4/5 加筆修正


前巻 『ベスト&ブライテスト』 中巻

『日本解体 「真相箱」に見るアメリカの洗脳工作』 保阪正康

わりと正論



GHQはいかに日本人を情報操作しようとしたか。ラジオ宣伝番組から読み解くアメリカの洗脳工作

他の著書では護憲派よりに見えたけど……
ポツダム宣言受諾から占領軍の統治が始まっていた1945年12月9月に、眞相はかうだの番組が日本放送協会(現・NHK)から放送された。脚本を書いたのはGHQのスタッフで、満州事変以降の軍国主義の実態をドラマ仕立てで暴露するものだった
それに続いて始まったのが、眞相箱一般の日本人から質問に答えるという形式の番組だった。もちろん、質問も答えもGHQのスタッフか、その指示を受けた関係者が作成していた
その目的は、(アメリカから見た)太平洋戦争の要因となった軍国主義精神の排除に、新憲法の定着、反米感情の鎮静にある
"あの戦争”の責任を、一部の軍国主義者に求め、天皇の戦争責任を免責し、アメリカの高度な科学技術と物量には敵わないと思わせることだった
ラジオのテープは日本に残っていないが、本書は書物として残る「眞相箱」から統治下の情報工作を追及する


1.実は受け入れやすかったGHQ史観

意外なことに、GHQの語る近代日本への評価は、司馬史観に近い
黒船来航から始まる明治維新から、日清・日露戦争までの国造りを褒め、それ以降の、特に満州事変以降の軍国主義化を批判する
連合国も植民地を持つ国が多いせいか、「帝国主義」や「侵略」に対する定義もぼかしていて、自分たちにブーメランが返ってこないように配慮している。手が込んでいるのは、「帝国主義」に関する質問に、アメリカからではなくイギリスの百科事典などから引用すること。後で突っ込まれないように、「それイギリスの意見だから」と言い逃れできるようにしているのだ
「侵略」に関しても、戦争末期のソ連の参戦が絡むので深く追及していない
太平洋戦争に対する評価では、個々の日本人兵士の勇敢さを湛えつつも、上層部が愚かだったことを強調。戦争の責任を一部の軍国主義者に求めて、天皇や国民を除外している。自分たちの思うとおり誘導するために、当時の日本人が受け入れられやすい史観を提供しているのだ
実際のところ、GHQの用意した史観は、保守派を含めて日本人の大半に受け入れられているように思える。こうした史観がすぐに浸透した背景には、戦中の大本営発表が現実とあまりに乖離して、欲していた情報をGHQから供給されたためなのだろう


2.9割の真実と巧妙なプロパガンダ

GHQの史観は一見、かなり妥当に思えるのが巧妙で、多くを事実から引きながら、特定の結論へたどり着かせるために細部を曲げたり、噂としてエピソードを挟んだりする
最大の問題点は、民間人含む無差別爆撃、特に原爆投下についてで、アメリカでの論争を紹介しながらも、「戦争を早く終わらせるための止む得ない」と結論する。そして、一番の文明国であるアメリカが核爆弾を最初に手にしたことにより、世界の平和が保たれるという自己中心的な主張が展開されている
「これを戦争を避けるために使う」という考え方も、冷戦時代の核戦略に通じるものがあるのだ


著者の保阪正康は、半藤一利と絡みが多い人ながら、単独の著作だと護憲派の主張が強かったのだけど、本書では「押し付けられた歴史観でいいのか」と右派のような問題提起の仕方をしているのが面白い。これはただ親米の保守派はおろか、既存の護憲派をも脅かすものであり、場合によっては自らに襲いかかるブーメランになりかねない
他国や他人の意見ではなく、自分で"あの戦争”は、“あの時代”は何だったのか、と問いかけて、はじめて日本人の歴史観はもちうるし、それを踏まえて判断を下せる。著者自身の歴史観はともかく、このメッセージは普遍性があると思う
本書は「眞相箱」の作為を紐解くことで、プロパガンダの巧妙な手口に触れられ、歴史はある指向性をもって作れてしまう事実を教えてくれる


*23’4/5 加筆修正



『漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972-2022』 池上彰 佐藤優

もはや左翼は絶滅!?



学生運動が衰退したなか、左翼政党は労働問題に存在価値を見出す。その衰退と今後の展望は

あさま山荘事件の72年から、2022年現在の状況まで
72年のあさま山荘事件の後でも、過激派のテロは続く。戦前から続く日本の帝国主義を清算するとして、東アジア反日武装戦線“狼”」が三菱重工などの旧財閥系企業に爆弾テロを仕掛けた
佐藤氏によると、彼らには体制を倒したあとに何かをする構想はなく、その体質はアナキズムや右翼に近いという。あさま山荘事件の坂口や赤軍派にも右翼くさいところがあり、理性より感情を重視するナショナリズムの時代へ向かっていたことをうかがわせる
また、ノンポリの学生を後押ししたのが、吉本隆明『共同幻想論』国家や宗教は確固としたものではなく、人々の幻想に支えられたものだとした。そのことは、マルクス主義にもあてはまり、国家ともに思想も相対化してしまった
吉本はノンセクト・ラジカル、セクトに所属しない左翼青年のカリスマとなったが、その信奉者の気質も国家の関与を嫌うアナキズムに近く、後の新自由主義の下地を作ったともいえそうだ
本巻は50年をざっくり語る内容だし、他の巻で触れられたことは省略されたりもしているので、最初の『真説』から読むことをおすすめする


1.社会党による労働運動

その後のセクトや学生運動で唯一盛り上がったのは、成田国際空港を巡る三里塚闘争ぐらい。それも農民と左翼思想の相性が合わなくて、党派ごとに足並みがそろわず、自民党政権の切り崩しにあって分裂して取り込まれてしまう
一方で、70年代に社会党の影響のもとに、労働運動は盛り上がる
公務員にスト権はないとして、国鉄などの国営企業の労働者は悪条件、低賃金に甘んじていた。でありながら、国鉄で法を逸脱した運行が求められたことから、法律を遵守することで、実質的なストライキを行う「順法闘争が行われる
さらに1975年ILO(国際労働機関)の勧告をきっかけに、国営企業の労働者にスト権を付与する「スト権ストが唱えられる。当初は国民を支持を受けた「順法闘争」も、相次ぐ運休や遅延から利用者の反発を招き、上尾事件などの乗客による駅への暴動事件へも発展してしまう
その一方で、60年代は東京都知事に美濃部亮吉が当選するなど、各地で革新陣営の首長が生まれ、社会民主主義の機運がこれまでになく高まっていく


2.国鉄民営化による社会党の退潮

1970年、チリでは民選による初めての社会主義政権、アジェンデ政権が誕生して、国家規模でも社会民主主義の期待が高まった。しかし、アジェンデ政権は1973年にCIAの支援を受けたピノチェト将軍によるクーデターで崩壊、この一件が過激派の暴力革命論社会民主主義の衰退をもたらすこととなる
それでも、国鉄の国労を中心とする労働組合は左翼の牙城となったが、それに致命傷を与えたのが国鉄民営化
当時の首相・中曽根康弘社会主義革命の可能性を閉ざすために、莫大な赤字を口実に民営化を訴え、国民の支持をバックに断行した。革マル派の松崎明の影響が強い「国鉄動力車労働組合(動労本部)」は、労働者の待遇改善につながると民営化を後押しして「JR総連」となる一方、4万人の労働者がリストラされて社会党とのつながりは急激に弱まった。とはいえ、民営化への支持が集まったのも、「怠けるほど革命が近づく」とうそぶく国鉄の組合の堕落が原因でもあった
そして、自社さの村山内閣によりその命脈が断たれたのは、『真説』にもある通りだ


3.共産党の愛国路線とSEALD’sの新自由主義

さて、現在の左翼運動はどうなっているのだろう
唯一の左翼政党であるはずの日本共産党は、戦術上の都合(?)とはいえ、選挙ポスターに富士山を載せ、北方領土問題に千島列島も加えて沖縄基地問題への関わりにも愛国路線を全面に出している。佐藤氏が問題にするのは、ロシアのウクライナ侵攻に対するリアクションで、国境を越える労働者(あるいはプロレタリアート)の連帯を訴えるべき左翼政党が、普遍的な“反戦”ではなくウクライナを一方的に支持するのは、もはや左翼でなくなった証拠とする
また2015年に集団安全保障への参加が問題になったさいに、話題となった学生グループ「SEALD'sも佐藤氏は辛口で自由に集まって解散したところから、新自由主義的な組織とする。上層部が名前を売ってキャリアの肥やしとし、運動に参加した学生の多くは日本共産党の民青が刈り込んだのみ
結局、右も左も今は思想がなくメディアを含めて、ただ新自由主義で、椅子取りゲームが続いているだけという


3部作(!)の総括をすると、基本は対談の体裁ながら佐藤優氏がしゃべり続け、池上彰氏がインタビューアーとして話を引き出し補足をするといった内容だった。佐藤氏の解釈で覆われているところが多いので、他の方のご意見も聞いて差し引いていく必要はあるだろう
そして、これから左翼が台頭するから、過去の歴史を整理したいという動機から始まった企画ながら、最終巻の結論がもはや左翼と呼べる勢力は日本共産党含めて、今の日本にはないということになってしまった(笑)
格差問題から左翼思想は注目されるけれど、実際にそれを引き受ける左翼勢力はない。そんな奇妙な状況に陥っているらしい
しかし、菜食主義の「ヴィーガニズム」、動物保護の「アニマルライツ」など環境保護団体が先鋭的になっている部分はあり、それらを進める組織が昔の左翼のような問題に陥る可能性はある。セクトが過激化しないために、左翼の黒歴史を教訓とすることが大事だろう


*23’4/7 加筆修正

前巻 『激動 日本左翼史』

『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972』 池上彰 佐藤優

全共闘=民主主義ではない!?



なぜ、新左翼は過激な行動を取るようになったのか。衰退の要因を探る

本巻は60年安保の60年から、あさま山荘事件の72年まで。国民と連動していた60年安保から68年の全共闘を経て、新左翼のセクトは過激化し孤立を深めてしまう


1.60年安保闘争とブント

60年安保闘争で大きな役目を演じたのが、共産主義者同盟(ブント)。日本共産党の指導を受ける「全学連(全日本学生自治会総連合)」から飛び出して1958年に結成された
1956年のスターリン批判とハンガリー事件から日本共産党は動揺しており、デモ・ストライキすら及び腰への不満からで、「マルクス・レーニン主義」を堅持しつつも革命は大衆運動からしか起こせないと、かなりルーズな組織だった
その中心人物が後に経済学者・青木昌彦で、姫岡玲治・名義で書いた論文が理論的支柱となる。主な結集者が、文学者・柄谷行人、安保闘争で死亡した樺美智子保守系の思想家・西部邁、政治評論家・森田実平岡正明
60年の時点では、ブントが全学連の主流派となり、共産党の民青は脇に追いやられ、「極左冒険主義」と足止めする立場となる

その一方で、スターリン批判からトロツキーを再評価する「日本トロツキスト聯盟」→「革命的共産主義同盟(革共同)」が生まれ、そこには後に核マル派の指導者となる黒田寛一、社会党への加入戦術をとる上田竜がいた
日本をブルジョア革命を達成していないとする講座派(日本共産党)と違い、日本をすでに先進国としていきなり社会主義革命を目指せるとする労農派という点で、社会党と新左翼は一致しており、党員の少ない社会党は安保闘争に新左翼を動員することができた
とはいえ、社会党は平和革命路線であり、自衛隊のような近代軍を火炎瓶闘争で勝とうというのは、ロマンにもほどがある。そこで日本で政権をとってワルシャワ条約機構に加盟する戦略を持っていた
もっとも労働組合出身の社会党議員たちは、自民党と国対で渡り合ううちに、3分の1を確保しての憲法改正阻止で満足してしまったようだが


2.セクトと全共闘方式

60年安保闘争は結局、改正を阻止できず、革命の端緒も作れず、新左翼にとって敗北だった
学生の集まりだったブントはその後の方針を巡って解体し、以降は様々な団体が乱立していく
安田講堂へと続く大学闘争は、1965年の慶應義塾大学から始まった。学費の値上げ反対に米軍の研究費を受け取ったことが問題となり、早稲田大学でも値上げ反対の運動が起こる
そこで取られたのが「全学共闘会議」方式と言われるものので、単に学生自治会で行うと普通のノンポリ学生は過激な抗議活動を敬遠するので、“革命意識”の高いセクトの学生が連合して「共闘会議」が組織された。日大や東大でも共闘会議が組まれ、中心的存在となる
そこでは戦う意志のある学生が「前衛」として指導していくので、近代の代議制=多数決で決まらず、声が大きく拍手の数で決める1930年代の翼賛政治であり、全体主義に近い体質があったという
今では左翼とリベラルが同じもののように語られるが、本来のリベラルは自由主義であり、左翼は民主主義にすら拘泥しない党派が主流というのがポイントだ


3.セクトの内ゲバと武力闘争

本書では連合赤軍事件よりも、それに至るエスカレーションを細かく検討していく
各セクトが戦闘的になったのは、1967年10月に機動隊との衝突のなか、京大の学生が亡くなったことから。そこからヘルメットに角材(ゲバ棒)というスタイルが定着する
セクト間の大学の主導権を巡る内ゲバも深刻化し、それぞれが縄張りのキャンパスを持ち、違うセクトの人間が近づけば、バールで足を折って活動不能にする。佐藤氏は特に中核派について、左翼というより任侠団体、愚連隊の系譜ではという
そうした内ゲバの経験から、革命のために殺人を正当化する論理が生まれていく。1970年8月3日池袋駅の中核派のデモを通りかかった革マル派の学生が殺される事件があり、行動の中核に対して理論を重んじる革マル派は「革命的暴力論」を打ち出した
70年代でも安保や沖縄返還問題、成田国際空港建設を巡る三里塚闘争など世間の支持や同情を得られる部分はあったものの、その過激さからついていけないと見放される
いつしか、学生運動することが、社会からのドロップアウトにつながるような印象すら与えてしまったのだ

970年以降は中核派の警察やその家族を狙った殺人事件が多発し、関西では京大経済学部助手の滝田修京大のグラウンド内で軍事教練を行い、社会の中で一人で戦えるパルチザン育成を目指した
もはや、政治運動どころか、テロ組織へと化していく
関西で滝田の影響を受けた、関西ブントの塩見孝也や田宮高麿などは「共産主義同盟赤軍派」(赤軍派)を結成するが、大阪や東京の蜂起作戦に失敗し、海外に拠点を作るためによど号ハイジャック事件を起こす
一方で日本共産党の神奈川支部に所属して、除名された中国派のメンバー「日本共産党神奈川県委員会」(革命左派)を設立。毛沢東主義の集団なので、もともと武器の使用を厭わない
赤軍派は、反スターリンのトロツキストで本来は思想的に水と油。ただ、革命左派が赤軍派の資金を、赤軍派が革命左派の銃を欲しがるという打算が生んだ連合だった。そして、内ゲバも同志間の総括という一線を越えてしまい、新左翼へのシンパシーを葬ってしまった


4.新左翼運動の欠陥と左翼思想の限界

フランスの5月革命が男女平等の進展など社会的な成果があったが、日本の新左翼運動ハイジャック事件から空港の警備が厳重になったこと、テルアビブ空港乱射事件が現代の自爆テロの魁となったこと、政治運動に対する意識が後退し“島耕作的なノンポリの出世主義者”を生み、ひいては新自由主義への下地を作ったこと、とマイナスか微妙な影響しか残していない

とはいえ、左翼の政治指導者やセクトの理論家、設立者たちは知的水準は高かった。にもかかわらず失敗した原因は、佐藤氏によると、左翼思想の根幹に問題があって、「始まりの地点で知的であったものが、どこかで思考停止になる地点がある」という。それはおそらく、人間観の問題で、「人間には理屈で割り切れないドロドロした部分があるのに、それを捨象して社会を構築できるとすること、その不完全さを理解できないことが左翼の弱さの根本」と指摘している
そして、なぜ内ゲバにまで至ってしまうのかというと、「閉ざされた空間、人間関係の中で同じ理論集団が議論していれば、より過激なことを言うやつが勝つに決まっている」(池上)
国家権力を相手にすると、あまりに存在が大きくて全体像が見えないので、権力そのものより、それに迎合する身内が敵に見えてしまう。左翼最初の内ゲバは戦前の共産党による「社民主要打撃論」(社会ファシズム論)で、先に異端を潰さないと革命は達成できないという方向で権力闘争に走ってしまう


5.堕落のススメ

佐藤氏はそれを克服するために、党内にダラ官(堕落した官僚)を許し、現実の風を吹かせる必要があるとする。現代の政治運動には官僚化が欠かせない。それが日本共産党が、唯一の左翼政党として生き残っている要因でもあるだろう
70年代に関東で壊滅した学生運動が、関西で健在だったのはそうしたユルさからで、佐藤氏の母校・同志社大学ではブント的な学生同士の「子供の政治」を社会勉強として容認し、大人が子供を利用しようとする民青、中核派、そして統一教会から守ろうとする良識があった
本巻は両氏の実体験も深く関わって、手前味噌な部分はあるけれども、それだけに偏狭な世界観しか持たない集団が過激派に堕ちてしまう過程が捉え、その問題点を明らかにしている


*23’4/7 加筆修正

次巻 『漂流 日本左翼史』
前巻 『真説 日本左翼史』



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