大杉事件を背負った甘粕正彦と、将来の総理を公言した岸信介は、満州に何を為し、歴史に何を残したのか。大正から満州国の建国、滅亡までを辿るノンフィクション
甘粕正彦と岸信介の割合は7:3ぐらいだった(苦笑)
政界入りを想定した岸はガードが固く、戦後に総理となり、90歳に亡くなるまで隠然とした力をもったことから、それほど痕跡を残さなかったのだろう
甘粕のほうは、無政府主義者の大杉夫妻とその甥を葬った甘粕事件(大杉事件)に、満州事変から始まる“甘粕機関“の活動、阿片密売、満州映画協会と、表と裏で仕切り続けたことから、多くの逸話が残されており、著者の力の入れ方が違うのだ
本作は関東大震災の混乱状態で起こった「大杉事件」に関して、甘粕自身が手を下していないと推定している
大杉栄は柔道の達人であり、小柄な甘粕が後ろから絞め殺したという供述は信ぴょう性が薄く、夫妻も死体はむごたらしく殴打されていて、複数人でリンチにあったとしか考えられない
公判で実行犯の1人とされた、森慶次郎曹長は憲兵司令部付であり、甘粕が命令できる立場にはなく、憲兵司令部やその上の上層部の関与が想像される
震災時には一般市民が朝鮮独立運動の余波から、数千人とも言われる朝鮮人虐殺事件を起こしており、それを使嗾したのは、社会主義者や無政府主義者だと警察や憲兵は見ていたようで、映画にもなった朴烈事件、亀戸事件を起こしている
1.事件後の甘粕
甘粕正彦は軍学校時代に負傷し退役を考えたが、上官だった東條英機に憲兵になることを勧められ、“事件”後は幼児殺しの反響から軍籍を剥奪され、一般の刑務所で3年の刑期を務める
著者は獄中記の文面から、殺人に(特に幼児殺し)には関わっていないこと、組織の都合で嵌められたことを読み取る。その一方で、任侠の徒や元社会主義者とも知り合いになり、“臭い飯”を食ったことで人間の機微に触れ、謀略家・行政家としてのセンスを磨くことになる
釈放後、妻とともにフランスへ旅立ち、満州事変の直前である1930年に奉天の関東軍特務機関で土肥原賢二大佐のもと、謀略の世界へ身を投じた。張作霖爆殺事件の河本大作を反面教師としつつも、満州の人脈を引き継ぐ
甘粕は本土では“テロリスト”の汚名を免れないものの、そうした過去が問題にならない満州の大きさに、取り込まれたという
満州事変後は清朝の“ラストエンペラー”溥儀の担ぎ出しに成功したことで、一挙に満州の警察トップにまで上り詰め、総務部次長の岸とともに満州国の裏と表を仕切る存在になっていく
2.満州国と阿片密売
満州国の産業化と関東軍の活動費のために、甘粕たちが手を染めたのは、阿片売買だった
1933年に関東軍は中華民国との戦争になりかねないリスクを負って、阿片の産地・熱河へ侵攻したのはそのためだった
販売ルートは3つあり、Aタイプはこの熱河の栽培農家などからの専売制。一般人は販売禁止として価格を高騰させ、日中戦争の際には中国全土に及び、甘粕は国民党へも利益供与していたという
Bルートは外国からの阿片を上海でさばく。これには特務機関のエージェントだった新聞記者・里見甫を甘粕がチェックする形で任されていた
ここでの莫大な利益が満州国、そして南アジアに展開する諜報機関の資金源となった
Cルートは、蒙彊地区(現・内蒙古自治区)を日本軍が買い上げ、中国人の売人にさばく。占領地域から阿片を集めて、そのまま中国人に売っており、国民党側の軍閥へも資金が流れるというズブズブの関係があったという
『満州アヘンスクワッド』にも出てくる青幇の首領・杜月笙と甘粕が接触していたことも触れられていて、ここらへんの事情が漫画のほうでどう描かれるか、楽しみである
3.岸信介と統制経済の実験
さて、岸信介。彼は第一次大戦、そして大戦後のドイツで行われた統制経済に興味を持ち、第一次産業しかない満州で、日本を支える重工業地域を作ろうとする
財閥を入れないという関東軍参謀の石原莞爾を丸め込み、日産コンツェルンの鮎川義介を引き込んで、関東軍参謀長・東條英機、大蔵官僚の国務院総務長官・星野直樹、満鉄総裁の松岡洋右と合わせて、「弐キ参スケ」と呼ばれた
しかし石原莞爾は「満州を第二の合衆国にする」と言いつつ、鮎川によるアメリカ資本の導入、大規模農業には反対し、日本からの開拓移民による小規模農業を勧めた。東北人の石原は経済の欧米化についていけず、結果的に満州引き上げの悲劇、大量の中国残留孤児を残してしまう
岸は満州で東條との関係を築き、甘粕とともにその政治運動を支援して、東條内閣では商工大臣を務める。経済発展のための統制経済はそのまま、軍国主義の高度国防国家論に転用され、太平洋戦争の総力戦体制を支えることとなる
4.満州の夢の末路
甘粕は1939年に満洲映画協会(満映)の理事長に就任し、「五族協和」の理想を実現すべく、女優の女給扱いの禁止、日満スタッフの給与引き上げ、ドイツの最新技術導入などで、戦後の東映の黄金期へとつながっていく
映画のプロパガンダ効果を認め、利益を謀略の資金源としたものの、史劇映画など芸術性の高い作品を求める文化人の側面も持っていた
とはいえ、岸の産業化、甘粕の「五族協和」の理想にしても、中国全土を対象にした阿片販売と引き換えにしたことは、許されるものではない
甘粕はソ連軍が首都・新京に迫るなか、敗戦直後に自殺。一方の岸はサイパンの防衛を巡り、東条首相と対立して倒閣運動を起こしたことで、A級戦犯を免れた
東京裁判において、なぜか阿片密売に関して追求されなかったが、それにはイギリスが持ち続けた阿片利権に対して、アメリカがはばかったからとされ、阿片王と呼ばれた里美甫も不起訴、無条件釈放となっている
本作はノンフィクションとされつつも、甘粕については小説のような描写がところどころあって、あとがきで著者が認めるように偏りは免れないが、光と影の両面を見事に捉えている。満州が語られるときの怪しさと魅力とはこういったことなのだ
甘粕と岸に関しては、東條英機を介してしか、つながりはない(苦笑)。岸信介の割合の少ないは少ないが、その不透明さが得体のしれぬ“妖怪”ぶりを感じさせられた
関連記事 『満州アヘンスクワッド』 第1巻・第2巻