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『満州裏史 甘粕正彦と岸信介が背負ったもの』 太田尚樹 

小澤征爾の父や森繁久彌も出てくる



大杉事件を背負った甘粕正彦と、将来の総理を公言した岸信介は、満州に何を為し、歴史に何を残したのか。大正から満州国の建国、滅亡までを辿るノンフィクション

甘粕正彦と岸信介の割合は7:3ぐらいだった(苦笑)
政界入りを想定したはガードが固く、戦後に総理となり、90歳に亡くなるまで隠然とした力をもったことから、それほど痕跡を残さなかったのだろう
甘粕のほうは、無政府主義者の大杉夫妻とその甥を葬った甘粕事件(大杉事件)に、満州事変から始まる“甘粕機関“の活動、阿片密売、満州映画協会と、表と裏で仕切り続けたことから、多くの逸話が残されており、著者の力の入れ方が違うのだ
本作は関東大震災の混乱状態で起こった「大杉事件」に関して、甘粕自身が手を下していないと推定している
大杉栄は柔道の達人であり、小柄な甘粕が後ろから絞め殺したという供述は信ぴょう性が薄く、夫妻も死体はむごたらしく殴打されていて、複数人でリンチにあったとしか考えられない
公判で実行犯の1人とされた、森慶次郎曹長憲兵司令部付であり、甘粕が命令できる立場にはなく憲兵司令部やその上の上層部の関与が想像される
震災時には一般市民が朝鮮独立運動の余波から、数千人とも言われる朝鮮人虐殺事件を起こしており、それを使嗾したのは、社会主義者や無政府主義者だと警察や憲兵は見ていたようで、映画にもなった朴烈事件、亀戸事件を起こしている


1.事件後の甘粕

甘粕正彦は軍学校時代に負傷し退役を考えたが、上官だった東條英機に憲兵になることを勧められ、“事件”後は幼児殺しの反響から軍籍を剥奪され、一般の刑務所で3年の刑期を務める
著者は獄中記の文面から、殺人に(特に幼児殺し)には関わっていないこと、組織の都合で嵌められたことを読み取る。その一方で、任侠の徒や元社会主義者とも知り合いになり、“臭い飯”を食ったことで人間の機微に触れ、謀略家・行政家としてのセンスを磨くことになる
釈放後、妻とともにフランスへ旅立ち、満州事変の直前である1930年奉天の関東軍特務機関土肥原賢二大佐のもと、謀略の世界へ身を投じた。張作霖爆殺事件の河本大作を反面教師としつつも、満州の人脈を引き継ぐ
甘粕は本土では“テロリスト”の汚名を免れないものの、そうした過去が問題にならない満州の大きさに、取り込まれたという
満州事変後は清朝の“ラストエンペラー”溥儀の担ぎ出しに成功したことで、一挙に満州の警察トップにまで上り詰め、総務部次長の岸とともに満州国の裏と表を仕切る存在になっていく


2.満州国と阿片密売

満州国の産業化と関東軍の活動費のために、甘粕たちが手を染めたのは、阿片売買だった
1933年に関東軍は中華民国との戦争になりかねないリスクを負って、阿片の産地・熱河へ侵攻したのはそのためだった
販売ルートは3つあり、Aタイプはこの熱河の栽培農家などからの専売制。一般人は販売禁止として価格を高騰させ、日中戦争の際には中国全土に及び、甘粕は国民党へも利益供与していたという
Bルートは外国からの阿片を上海でさばく。これには特務機関のエージェントだった新聞記者・里見甫を甘粕がチェックする形で任されていた
ここでの莫大な利益が満州国、そして南アジアに展開する諜報機関の資金源となった
Cルートは、蒙彊地区(現・内蒙古自治区)を日本軍が買い上げ、中国人の売人にさばく。占領地域から阿片を集めて、そのまま中国人に売っており、国民党側の軍閥へも資金が流れるというズブズブの関係があったという
『満州アヘンスクワッド』にも出てくる青幇の首領・杜月笙と甘粕が接触していたことも触れられていて、ここらへんの事情が漫画のほうでどう描かれるか、楽しみである


3.岸信介と統制経済の実験

さて、岸信介。彼は第一次大戦、そして大戦後のドイツで行われた統制経済に興味を持ち、第一次産業しかない満州で、日本を支える重工業地域を作ろうとする
財閥を入れないという関東軍参謀の石原莞爾を丸め込み、日産コンツェルンの鮎川義介を引き込んで、関東軍参謀長・東條英機、大蔵官僚の国務院総務長官・星野直樹、満鉄総裁の松岡洋右と合わせて、「弐キ参スケ」と呼ばれた
しかし石原莞爾は「満州を第二の合衆国にする」と言いつつ、鮎川によるアメリカ資本の導入、大規模農業には反対し、日本からの開拓移民による小規模農業を勧めた。東北人の石原は経済の欧米化についていけず、結果的に満州引き上げの悲劇、大量の中国残留孤児を残してしまう
岸は満州で東條との関係を築き、甘粕とともにその政治運動を支援して、東條内閣では商工大臣を務める。経済発展のための統制経済はそのまま、軍国主義の高度国防国家論に転用され、太平洋戦争の総力戦体制を支えることとなる


4.満州の夢の末路

甘粕は1939年に満洲映画協会(満映)の理事長に就任し、「五族協和」の理想を実現すべく、女優の女給扱いの禁止、日満スタッフの給与引き上げ、ドイツの最新技術導入などで、戦後の東映の黄金期へとつながっていく
映画のプロパガンダ効果を認め、利益を謀略の資金源としたものの、史劇映画など芸術性の高い作品を求める文化人の側面も持っていた
とはいえ、岸の産業化、甘粕の「五族協和」の理想にしても、中国全土を対象にした阿片販売と引き換えにしたことは、許されるものではない
甘粕はソ連軍が首都・新京に迫るなか、敗戦直後に自殺。一方のはサイパンの防衛を巡り、東条首相と対立して倒閣運動を起こしたことで、A級戦犯を免れた
東京裁判において、なぜか阿片密売に関して追求されなかったが、それにはイギリスが持ち続けた阿片利権に対して、アメリカがはばかったからとされ、阿片王と呼ばれた里美甫も不起訴、無条件釈放となっている


本作はノンフィクションとされつつも、甘粕については小説のような描写がところどころあって、あとがきで著者が認めるように偏りは免れないが、光と影の両面を見事に捉えている。満州が語られるときの怪しさと魅力とはこういったことなのだ
甘粕と岸に関しては、東條英機を介してしか、つながりはない(苦笑)。岸信介の割合の少ないは少ないが、その不透明さが得体のしれぬ“妖怪”ぶりを感じさせられた


関連記事 『満州アヘンスクワッド』 第1巻・第2巻



『姐さん「任侠」記』 石原まいこ

世間もヤクザもまだ景気のいい時代の話



愛した男が極道だった……元極妻が明かすヤクザの日常

回り回ってフィクションに見えてしまう内容だった
子供が幼稚園に通う際には、なるべく周囲に極妻だとバレないようにしていたが、抗争中の場合はそうもいかず、黒いリムジンで送り迎え。護衛の黒服が並ぶ様に、園長に「抗争中なので」と断りを入れる場面は、漫画でもないだろうという(笑)
宴会で盛り上がる極妻の会、子供の運動会で張り切り、UFOキャッチャーにはまる組員など、かなり人間臭く面白いエピソードが並ぶ
台湾のマフィアが日本のヤクザの影響か、グラサンの黒服で整列して出迎えるとか、映画のような光景がわりとあることに驚く

強調されるのは、組全体がファミリーだということ。マフィアが血縁、人種という血によるなら、日本のヤクザは組長を中心とした「家」であり、擬似的な親子関係を結ぶ
構成員はどんなに年を取っていても「若い衆と言われ、男性中心の社会ながら“姐さん”は組長に代わって私的な面倒は見る
ヤクザの出自は博徒、テキヤと言われるが、中世近世の「若衆宿」の性質も継いでいるように思える
初出の単行本が2010年で、子供の年齢から書かれている内容は90年代後半からゼロ年代と思しく、暴対法の後でもわりと古い秩序が生き残っていたのだ

著者によると、極道にも段階があるようで、組長、盛り場の顔役クラスになると汚い商売に直接手を出さない。構成員も覚醒剤には手を出すのはご法度だし、堅気、特に女性への暴力には著者も手厳しい
しかし、ヤクの売人からの上納金は組織に流れていて、周囲をヤクから守りつつ、世間の薬物汚染に加担しているという矛盾は残る
平和な日常が取り上げられる本書では、極妻を狙う詐欺、他の組織からの盗聴、抗争中の引きこもりなど、一般人なら感じることもない過酷な環境であり、著者は最後は消耗して夫との離婚に踏み切る
親子の仲といっても、ヤクザは基本が個人事業主であり、どこまでも面倒見てくれるわけでもない。自ら命を断つ構成員も少なくなく、社会にとっても本人にとっても良くない存在なのだが、代わりに半グレ集団や外国人グループが浮上するので、にんともかんとも

『ウィトゲンシュタイン家の人々 闘う家族』 アレグザンダー・ウォー

忘れにくい名前



偉大な哲学者と隻腕のピアニストを生み出したオーストリアの華麗なる一族とは? 19世紀から2つの世界大戦を乗り越えた血族の生き様を描く

身内から課題図書(!)のように渡されたので読んでみた
ウィトゲンシュタインというと、まず思い浮かべるのは思想家のルートヴィッヒ・ウィトゲンシュタイン。実際にその著書を読んだことはなくとも、その言葉の響きで覚えてしまう
しかし同時代では、2歳上の兄パウル・ウィトゲンシュタインのほうが世間では有名で、ルートヴィッヒの名声はケンブリッジ中心の論壇に限られたものだった
彼らの父母と他の兄弟姉妹との関係が描かれるのだが、中心となるのは隻腕のピアニストであるパウル。著者が音楽一家に生まれたのもあるだろうが、ルートヴィッヒは憂鬱で神経質な人間であり、短気ながら快活な彼のほうが主役として書きやすいのだろう
体裁は一族の伝記なので2人の姉についても触れているけれども、熱の入り方に違うのでパウルの伝記にしてくれたほうが読みやすかった

彼らの父カール・ウィトゲンシュタインは、お金持ちの娘と結婚し製鉄業で巨万の富を得た立志伝中の人で、数多くの別荘や農場を持ち、ロダン、クリムト(三女マルガレーテの肖像が有名)などの著名な芸術家を後援した
中でもメンデルスゾーン、マーラー、ブラームスらといった音楽家との交際は深く、それがパウルのピアニストとしての覚醒につながっていく
まったくお金に困らない家族だったが、外目に幸福な家庭とは言い難い。父カールが強権的に子供へ接し続け、母レオポルディーネもそれに逆らわず子供を守ろうとしなかったせいか、8人兄弟中3人の男子が自殺する悲劇に見舞われる
兄弟たちは父にならって我を張り続けて、人に妥協できない駄々っ子(!)だったが、唯一のコミュニケーションツールになったのが音楽だった

パウルが新進のピアニストとして成功するなか、第一次世界大戦が始まる
召集された彼は対ロシアのガリツィア戦線へ送られ、前線で優秀な働きをするも右手を負傷、切断することとなる。その後、ロシア軍の捕虜となり、過酷なシベリア生活ドストエフスキーが「死の家」に書いた収容所を体験、それでも左腕での演奏を続けるために練習を続けた
終戦とともに音楽の師で盲目だったヨーゼフ・ラボールに作曲した作品で演奏会を始め、両腕のある演奏家と遜色ない実力に一流のピアニストとしての名声を得る
製作中に揉めながらも、モーリス・ラヴェルリヒャルト・シュトラウスといった一線の音楽家の楽曲を演奏することができた

一方、ルートヴィッヒもまた対ロシア戦線へ志願兵として加わり、パウルが右腕を失ったことなどから絶望に陥り、トルストイによる聖書解説本を読みふけって危機を脱する
戦後書き上げた『論理哲学論考』において、その構成がトルストイの解説本と類似している箇所があるとか。この難解な作品はその後に多くのフォロワーを生むにいたるが、ここから彼のとった行動が凄まじい
もはや哲学の仕事をやり遂げたと考えた彼は、学者の世界を捨て去り、全財産を寄付して、普通の仕事につこうとするのだ。小学生の先生になったときには、どついた生徒が失神する事件を起こして職を追われている
ケンブリッジ大学では数少ない理解者であるバートランド・ラッセルやマクロ経済学を生んだケインズらと交際した

ルートヴィッヒの同じ高校に通っていたアドルフ・ヒトラーが巻き起こした情勢は、ウィトゲンシュタイン家を大きく揺さぶることとなる
1938年には、第一次大戦で小国となったオーストリアへ工作し、独墺合邦(アンシェルズ)に成功。概ねそれに反対していた一家は、新体制への迎合を迫られる
しかし、ユダヤ人を選別する悪名高きニュルンベルク法がネックに。3代遡って3人のユダヤ人がいたと認定されたことから、本人たちの自覚がないままに“ユダヤ人”と認定されてしまう
そして、パウルが愛人ヒルダと子を為していたことを、“ユダヤ人”でありながらアーリア人に手を出したとしてに問われるのだ! 憤ったパウルは国外へ脱出し、母子もスイスへ逃れさせる
ここに至って、ウィトゲンシュタイン家は完全に引き裂かれた。結婚してアメリカ国籍を取得したグレートル(マルガレーテ)は、米独を往復して、家族の救助や財産の保全に奔走するが、これに関して2人の弟は関与しないし役に立たない
身も蓋もない家族間の相互不信もあらわになって、形骸化していた大家族が崩壊していくのだ
サブタイトルに「闘う家族」とあるが、一致して闘うわけではなく、それぞれがそれぞれの状況で闘うのみであり、下手すれば家族同士で闘うこともあるので、タイトルに偽りありだろうか(苦笑)
まずは忘れられたピアニスト、パウルの伝記として、家族を通した歴史の資料として読める一書である



『渋沢栄一 下 論語篇』 鹿島茂

身体上の都合により暇になってので、これからは更新が増えそう



日本経済の建設に奔走する裏で、渋沢栄一が描いていたグランドデザインとは?

下巻では、主に実業以外の活動に焦点をあてていく
渋沢は経済人の教育水準を上げるための東京商業高校(後の一橋大学、東京に増える孤児を保護する養育院、そして、日米、日中の対立を回避するための民間外交で、特に晩年は福祉と外交に専念している
それらの活動と起業の発想に共通しているのは、フランスで知った近代社会のシステムを全体から把握して、日本に足りないものを建設していくというものだ
日本の社会と風俗まで洋式化していくことを想定して、「食」では北海道開発もかねて乳業ビール会社(札幌麦酒→大日本麦酒→サッポロ、アサヒ)「衣」では後の東洋紡となる紡績会社群に、製麻・毛織・製帽や皮革産業まで関わっていく
「銀行からリボンまで」渋沢の資本と意志が働いているのだ
「住」に関しては、東京の田園調布(大田区)に由来となる「田園都市」の構想を起こしていたが、周囲の無理解や関東大震災もあって挫折している
渋沢自身は利殖というより、社会の必要性において行動するが、他の人間がそれに同調するとは露ほども思っていない。福祉政策にも「儲け続けてたければ、損して得とれ」のリアリズムに訴えて、周囲を動かしていった

渋沢が取り組んだのは、ただ日本国内ことだけではなかった
日本とアメリカは日露戦争の裏側で「桂-タフト覚書」によって、日本の朝鮮半島とアメリカのフィリピンを相互に干渉しないことを確認するなど、協調を基本としていた
が、1905年にカリフォルニアで排日運動が火を噴いた。アメリカの移民排斥は伝統的に人手が余ったときに白人の雇用、賃金が抑制される原因としてやり玉が上がるためだが、排日運動に対してはメディアも加わって燃え上がっていく
桂内閣の外務大臣・小村寿太郎は渋沢へ、アメリカの世論を鎮静化するため日米財界人のパイプ役を依頼。渋沢は当時としては高齢の古希(70歳)でありながら、アメリカの政財界のみならず、排日運動家にも接触をはかった
その後、第一次大戦で改善されたかと思いきや、シベリア出兵や対華21ケ条要求で日本の帝国主義が警戒されたりと山あり谷あり。1926年にはアメリカ人の牧師が始めた、日米の子供の間で手製の人形を交換する「人形プロジェクトが、アメリカ国民に親日感情を大いに盛り上げた
日本側の人形受け入れでは88歳の渋沢がアメリカ大使と立ち会うこととなり、大正天皇の喪中ながら日本でも大変な注目を集めて、大成功を収めたのだった

フランスへの外遊で大きな影響を受けた渋沢だったが、その根っこにあるのは少年の頃に植え付けられた「論語」だった
だからこそ、妻妾同居をはかるなど前近代的な倫理観をもっていて、後妻の兼子からは「論語とは旨いものをみつけなさったよ。あれが聖書だったら、てんで教えを守れないものね」と嫌味を言われてもしている(苦笑)
もっとも、それで女性蔑視とみなすのは一面的で、最初は女性の教育は賢母のためのものと見なしていたものの、男勝りの能力を誇る者がいればそれを妨げるべきではないと、ある程度柔軟に考えていた
渋沢家の家族形成に関しても、明治の家系らしからぬ柔軟性により、権門へ娘を嫁がせるのではなく、あくまで青年の将来性を重視。自分の閨閥ではなく日本の社会経済に資することを見越して、婚姻関係を作っていく
四男・渋沢秀雄による伝記からの引用で、伊藤博文が渋沢夫人の兼子に悪ふざけをし、美しい芸者を連れて馬車で帰る場面を中学生のころは憤慨し、10年後に羨望(!)に到ったという記述がよくも悪くも渋沢の時代の余裕が感じられた

上下巻を総括すると、渋沢は単に日本経済の建設者ではなく、社会全体のグランドデザイナーである。太平洋戦争で明治の国家は瓦解したが、渋沢の残した遺産が戦後の日本を経済大国に押し上げたかのようだ
ただ現代だと渋沢のように、「無私」で経済運営に取り組む人はいないし、期待するのは現実的ではない。せめてその精神に学んでいくしかなさそうだ


前巻 『渋沢栄一 上 算盤篇』



『渋沢栄一 上 算盤篇』 鹿島茂

大河ドラマのハンドブック



日本型資本主義の源流は、19世紀のパリにあった! 近代日本経済の父といわれる渋沢栄一の淵源をその出生から遡る

大河をやっているうちに読むべきであった(苦笑)
渋沢栄一は一橋家の家来として徳川慶喜に仕えて、パリ万博の随員となり、維新後は大蔵省に出仕して、さらには下野して実業家として多くの事業に関わり、今の日本経済の基礎を築いた人物だ
江戸時代から続く同族経営ではなく、民間から資本を集めた「合本会社」(株式会社)による近代経営を定着に尽力し、私利の追求が公益に通じる経済の実現を目指した
本書では、『青淵百話』『雨夜譚』といった渋沢自身の証言を引きつつも、フランスにおける銀行家フリュリ・エラールとの交流に着目。エラールの子孫とも連絡を取り合って、サン・シモン主義者フランス資本主義の発展に関わったことに触れ、そのエッセンスが渋沢栄一を通して日本の経済システムを注がれたことを証明していくのだ

まず、サン・シモン主義が近代フランスで果たした役割とはなんだろうか
イギリスが産業革命を独走したのに対して、1830年代までフランスは後塵を拝し続けてきた。それを一気に挽回したのが、サン・シモン主義による金融制度の確立だった
それは渋沢がパリを訪れた1867年から遡ること、たった15年。ナポレオン3世によるクーデターの翌年、1852年にペレール兄弟がクレディ・モビリエ銀行を設立したことに始まる
クレディ・モビリエ銀行手形割引の市場整備に、産業育成、インフラ整備を株式購入や貸し付けによって助けることであり、ときには貸付先の経営にも介入。他の金融機関への融資を行って、今の中央銀行の役目も果たした
サン・シモン主義はマルキシズムとは違い資本家と労働者に壁を作らず、会社の経営者、技術者、労働者をまとめて「産業人」として社会の主役であるとする
そうした大小の「産業人」の資金をかき集めて、小川の流れを大河とするのが近代の銀行の役割であり、フランスにおいては鉄道、ガス会社、馬車会社、炭鉱、保険が一気に整備されていく。とくに鉄道においては、1851年から1870年の間に営業距離が5倍にまで拡大し、どの方面の他国にも鉄道で到達できるようになっていた
サン・シモン主義の流儀は後進国が一気にインフラ整備を成功させる絶好のモデルケースとなり、それを渋沢は日本に持ち帰ったのだ

渋沢は攘夷主義者としてスタートしながら、一たび日本を離れるや、すぐに欧米の習慣を理解した。パンとバターの朝食に、ブドウ酒、デザートのアイスクリーム……多くの日本人がとまどう洋食にも違和感なく適応してしまう
なかでもフランスで一番感銘を受けたのは、軍人や行政官と経済人が普通に交流しているところ。江戸時代の日本では、儒教的価値観から商人は卑しまれる存在であり、幕府の役人に商人が堂々と話し合うなど一般的なことではなかった
家業である藍玉の販売に精を出していた時代、役人に苦しめられた渋沢には、理想的な光景に映った。維新後にも、政府=「官」と五分で渡り合う経済人=「民」の確立こそが、渋沢のポリシー、目標となっていく
幕府瓦解を受けて帰国した渋沢は、最初は蟄居した慶喜の面倒を見るべく、一橋家の殖産に関わるが、大隈重信に丸めこまれる形で大蔵省へ出仕し、廃藩置県の実現のために「円」を単位とする貨幣制度を定め、米の流通を助けるために鉄道を整備、金を元手にした兌換紙幣を可能にする国立銀行の設立に尽力する
しかし、従来からの大商人の三井や、独占にこだわる三菱の岩崎弥太郎の手法に不満をもった渋沢は、理想の「民」を作るために自らが民間へと転じて、実業家の道を進むこととなる

三井の番頭・三野村利左衛門や岩崎弥太郎に比べて、経営者として優れているとはいえなかったが、フリュリ・エラールにレクチャーされたとはいえ、短期間にフランスを視察したのみで事物の関係性を見抜き、その背後にあるシステムを理解することに長けていた
フランスのクレディ・モビリエ銀行のように、渋沢は日本の近代化に必要であった保険事業(東京海上)、郵船会社、製紙事業、ガス、電力……を次々に展開していく
「民」の地位を引き上げる鍵となるのが株式会社。大小の民間人が「銀行」に貯蓄し、「銀行」が企業へ出資、あるいは株券を発行して資金調達して「株式会社」を作る。こうして生まれる「株式会社」こそ、民間人が束になった強い「民」。株式取引市場の整備も果たしていく
面白いのは、原則として自由競争を認めつつ、三菱の海運独占に経済戦争を仕掛けるなど渋沢個人はそれを規制するように動き、自らも利殖に励まなかった。本来は大蔵省や財閥に人脈があり、金融市場の創設者となれば、莫大な利益を上げることも可能だったが、渋沢はそうはしなかった
著者はそれを市場における‟せり人”に喩える
資本主義経済が回っていくためには、市場における‟せり人”のように自分の職務に忠実な人間も必要不可欠である。そもそも経済学がアダム・スミスの「神の見えざる手」が自然に現れるとせず、人為的に作り出そうとするものであり、渋沢の活動はその仕組みを日本経済に生み出そうとしていたのだ
下巻では、渋沢が作り出した日本の近代経済が動くなか、何が社会に足りないのか、問いかけられることとなる(はず……たぶん)


次巻 『渋沢栄一 下 論語篇』

『素敵なダイナマイトスキャンダル』 末井昭

まさか、映画化されてたとか



「芸術は爆発だりすることもあるのだが、僕の場合、お母さんが爆発だった」。伝説の編集者による波乱万丈、イイかげんな実人生、実生活の記録

著者のことを知ったのは、『パチンコ必勝ガイド』だった。特に表に出てくることはないのだが、編集者にイジられる謎の編集長というイメージを持っていた
本書は1982年が初出で、壮絶な出自からビニ本などのいわゆるエロ雑誌を創刊するまでの人生と、その当時行っていた珍活動までが記されている
1975年に『NEW SELF』1977年に『ウィークエンドスーパー』を立ち上げたが、発禁処分を受けたことから共に80年代に300万円の値がつくようになったという
両雑誌でアラーキーこと写真家の荒木恒惟を大きく取り上げ、その仕掛け人として多くの作品に関わる。そもそも両雑誌は白夜書房を創る森下信太郎に任されたもので、グラビアに作家の赤瀬川源平、嵐山光三郎、評論家の平岡正明など著名人のエッセイが載る「なんでもありのスタイル」は、現在に至るエロ総合誌(!)の原型を作ったといえそうだ

前半の目玉、母親がダイナマイト心中する話は、『街道がゆく』ように読めてしまう。描写が淡々としている分、昭和30~40年代の山村の習俗を記録した紀行文のようなのだ。まるで他人事のような距離の置き方が、ボーヨー(茫洋)とした人柄とつながっているのだろう
著者が生まれた岡山町吉永町には、クレーなど耐火レンガの材料となる鉱石がとれる鉱山が点在していた。このため、発破に使うダイナマイトが豊富で管理も杜撰であったから、関係者は池の魚を獲るのに使ったり、喧嘩の脅しに見世物にするなど生活の近くにダイナマイトは存在していた
母親は肺結核をわずらっており、著者はその子供として病気がうつると差別されたという。もはや治る余地はないと、病院が返ってきた母だったが、近所の若い男を家に連れ込むようになり、ぜいたくをして遂には田畑を手放したことになった
当時の鉱夫は兼業農家であるのが常で、農地を手放したものは「非農家」とやはり差別されたとか
こうして零落した一家に夫婦喧嘩が絶えなくなり、母親は近所の男とダイナマイト心中にいたる。その光景は家屋に臓物がぶら下がる惨状なのだが、解説の花村萬月が嘆くように味気ない描写に終始するのであった

そんなクールというか、暢気に物事と距離を置く姿勢から、ときどき鋭い人間観が飛び出す
自身が金回りがよくなってハマってしまった風俗通いに対して

 欲求不満を解消させるところではなく、常識をマヒさせるだけだから、たとえピンク・サロンに行っても欲求不満は欲求不満のまま残っている。欲望再生産システムなのである。その欲求不満を引きずったまま、再び日常生活に戻ってゆくのである。(p55)

自ら、イロモノ業界に関わりながら、その限界を認識しているのだ
「暗い性格」に関しては、生まれたときからそうした人はおらず、自分の精神と肉体、環境に、差別や軽侮に対して認識できる能力がなければならないとする。そして、「どちらかというと自意識過剰の人のほうが有利」とか
「暗い性格」の人は不幸かというと、「意外に暗さに浸っているときが気持ちいい」とナルシズムか一種の中毒のよう。著者も母親が死んだあと、肺病の子として差別されたときに暗くなってしまったそうだ
この自分を美化しない感覚は、なるほど作家というより編集者にふさわしい

まあ何よりも、この本は面白い!
著者のみならず、その人徳(?)が惹きつけられた人々が珍妙で、坊さんの家に生まれて劇団員となり結局、住職として収まってしまった上杉清文氏は、解説のかわりに著者のあとがきを捏造したりする(爆)。水戸黄門がどこまで通用するかという企画で、インドで印籠をパクられるなど、著者をいろんなことに巻き込んでいく仲間ばかりなのだ
出版社がかわるごとに、解説と‟あとがき”が増えていったので、本編が終わってからも笑える部分も多く、なかなかに香ばしい本だった



『地雷を踏んだらサヨウナラ』 一ノ瀬泰造

コメント欄に宗教の勧誘はお断り。せめて内容に触れて




70年代に活躍した戦場カメラマン、一ノ瀬泰造の写真&書簡集
今から20年前、『富野由悠季全仕事』において、敏腕プロデューサー・奥山和由富野監督の対談で挙げていたもので、実際に映画化され話題となった
一ノ瀬泰造がカンボジア入りしたのは、1972年3月UPI通信社(アメリカ)に入ったものの、試用期間を経て不採用となったので、フリーのカメラマンとして潜入した
読んで驚くのは、カメラマンとしての駆け上がりぶりである。当初は経験も技術も拙くマスコミにも相手にされないが、たった1年の間に日本のマスコミはおろか、UPI通信社とよりを戻してワシントンポストにまで写真が載るようになる
瞬く間にてっぺんへ、これが戦場カメラマンの魅力でもあるのだろう
本人の文章には自身の死について、当然ながら触れられていないので、若者の成長記録、サクセスストーリーにも読めてしまう。読まれることを前提の文章が多いので飾っている部分も多いかもしれないが、性格はかなりポジティヴで逆境に燃え、ストレートに物を言うが女にはかなりだらしない(苦笑)
NHKの取材ビデオで、明るく戦争を語り過ぎて、使ってもらえなかったこともある
しかし、職場が文字通りの戦場である。一瞬でさっきまで飯を食っていた兵士が殺される世界で、泰造もなんども危ない目に遭う
タイトルは伝説のカメラマン、ロバート・キャパの最期から引いたもので、この割り切りなくしては、やれたものではなかったのだろう

1972年のカンボジアは、CIAの工作によるクーデターで誕生したロン・ノル政権ポル・ポト派を中心にした‟解放勢力”と激しく争っている時期
泰造はアンコールワットを撮ろうと最寄の街シェリムアップへやってくるが、そこはすでに‟解放勢力”の手に渡っていて、政府軍との最前線となっていた
シェリムアップそのものに軍事的な価値はないが、国の象徴であるアンコールワットを占領することが、政治的な意味をもっていたのだろう
アンコールワットは15世紀にタイのアユタヤ朝との戦争で放棄された都であり、シェリムアップの名にはそのアユタヤ朝に勝利したことから「シャム人敗戦の地」という意味がある
何度も政府軍の奪還作戦は失敗し、1973年には形勢が‟解放勢力”側に傾いて、国道という国道が寸断されるようになっていた
当時の記者たちの間で交わされるのが、いかに‟解放勢力”の支配する「解放区」を取材するか。この前読んだ『ポル・ポト<革命>史』で著者は取材に成功したものの、外国、インテリを激しく嫌うポル・ポト派の性質上、スパイとして処断される危険も高かった
一ノ瀬泰造をはじめとする多くのジャーナリストが拘束され、再び外へ出ることなく命を落としたのだ


*カンボジアで一番の親友、教師‟ロックルー”ことチェット・センクロイは、手記で結婚式を挙げ泰造も出席したが、ポル・ポト派の粛清により1975年に死亡。ただ妻は生き残り、シェリムアップでクメール語を教える教師になったそうだ

*23’5/10 映画ではロックルー(チェット・センクロイ)の処刑が1977年とされていた

映画 【プライム配信】『地雷を踏んだらサヨウナラ』

関連記事 『ポル・ポト<革命>史』



『餃子の王将社長射殺事件』 一橋文哉

二週間も更新があいてしまった。時間が経つ早さに愕然とする


餃子の王将社長射殺事件
一橋 文哉
KADOKAWA/角川書店
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2013年12月19日。京都市山科区、本社前で四代目社長・大東隆行が射殺された。いったい犯人は……誰がなんの意図で……。事件の裏側と日本の闇社会の変化を探る

もろに地元で起こった事件なので、手に取ってみた。もう6年も経っていると思えない衝撃が残っている
未解決事件であり、本書は犯人像、その黒幕に鋭く迫っているものの、確定されるような真相が明かされるわけではない。作中に出てくる証言者も、取材源の秘匿がジャーナリストの義務であることを考えれば、かなりの脚色がなされているとみなすべきだろう
餃子の王将は今や、全国展開する一大チェーン、まさに中華料理の“王将”なのだが、最初は60年代の京都から始まった。当時は「珉珉」が同業の先駆者であり、その競合に勝つべく創業者の加藤朝雄と殺された大東隆行は、でかくこってりした餃子とユニークな無料キャンペーンを展開し拡大した
朝雄氏の死の一年後、三代目社長に息子の加藤潔が就任。当時はバブル冷めやらぬ時代、父親の遺訓を破り不動産業に手を出して、会社を傾かせる大規模な損失を出した
それを立て直すべく、“現場の鬼”大東隆行が四代目目社長につき、副業や不採算店舗を清算し、ハードな研修や信賞必罰の徹底で業績をV字回復!
その峻烈な経営による、長時間労働に多くの離職者、“絶叫”研修が問題視されていた矢先の射殺事件だった……というのが表の歴史である

外食チェーンが全国へ出店していく際に、問題になるのが土地の確保。チェーンの戦略にあった立地条件は必須である
そうした土地取引を為すのは不動産屋であり、その裏には暴力団関係者が関わってくる。本書ではキーマンとして、王将の全国展開には各地域の顔役に橋渡しをするU氏が登場する
U氏は創業者・加藤朝雄と同郷で、会社を傾かせたゴルフ場への異常融資に深く関わっていた。王将側が闇社会への仲介の労に応えるために、バブル崩壊で苦しむゴルフ場経営を助けた疑惑がある
こうしたトラブル対策の仲介者をもっていても、出店にともなうトラブルは起こる
2012年12月、石川県金沢市の繁華街、片町にある店舗で、ホストたちが乱痴気騒ぎを起こして、ネットに全裸の記念写真を流す事件があった
彼らはホストクラブの出店先の土地へ王将が先を越したことに激怒し、報復に及んだのだ。興味深いのは、彼らが半グレ集団『怒羅権』(ドラゴン)のメンバーであり、そのルーツはなんと中国残留孤児の2、3世だというのだ。この中国、満州への因縁が王将を取り巻く

王将の社長を射殺した凶器は、25口径の自動小銃
暴力団の殺し屋が使用するのは一発で仕留められる38口径を好むといわれ、実際に社長へは4発も発砲されている。4発を命中させる腕前はプロに違いないが、わざわざ殺しきれないリスクのある25口径を使ったのはなぜか
ヒントは銃弾にあって、それは加工され被害者が苦しんで死ぬように意識されていたというのだ。この手口は中国系マフィアが裏切り者の処刑する際の手口らしい
実際、関西国際空港には、事件当日に入国して日帰りで帰る不自然な女性がカメラに残っており、「女殺し屋説」を本書は推している
当時、王将は中国進出に挑戦しており、餃子発祥の土地、旧満州こと中国東北部へ展開をはかっていた。一説には創業者の朝雄氏が召集されて満州で憲兵をしていた時期があり、朝雄氏の悲願だったともいわれる
しかし他の外食チェーンが大規模展開する傍ら、大連を中心とした数店にとどまり、事件後の2016年に大連店も閉店していた
本書ではその理由として、出店の際にマフィアと仲介したコーディネーターとの物別れ、あるいは他のコーディネーターと頼むダブルブッキングの影響があげられいて、その報復が社長に及んだ説を紹介している
そして、終章で及ぶのは、暴対法を嫌って東南アジアへ拠点を移す暴力団の姿。上記の半グレ集団もここにつながってくる
彼らは中国系や地元マフィアと密接に組んで活動しており、朝雄氏がアジア人留学生を援助するための「加藤朝雄国際奨学財団」を利用して“犯罪者の人的交流”を進めていたともいう
真相はやぶの中だが、王将を食いものにしようと様々な集団がうごめいていたのだ

『もうひとつの「バルス」 宮崎駿と『天空の城ラピュタ』の時代』 木原浩勝

バルスはトルコ語で「自由」だが、作品の設定ではラピュタ語の「閉じよ」からとか



『天空の城ラピュタ』製作の裏には、いったいどんなドラマが隠れていたのか。当時のジブリスタッフによる回想


タイトルから宮崎作品の評論かと思いきや、そうではなかった(苦笑)
著者はスタジオジブリで製作進行を務めたあと、1990年にジャパニーズホラー・ブームの端緒になったと言われる『新・耳・袋』で作家デビューし、『空想科学読本』などやり手のコンセプトライターと名をはせた人である
宮崎駿に憧れてアニメ業界に飛び入り、できたばかりのスタジオジブリへ入社した経緯から、劇場アニメ第一作の『天空の城ラピュタ』(以下『ラピュタ』)で「製作進行として関わった現場の光景、とくに宮崎監督の言動を事細かに、手際よくまとめている
「製作進行」とは、原画・動画などの作画、色を塗る仕上げや背景、背景にセルを重ねた撮影、現像、編集などアニメ制作の多くの工程を橋渡しする役目で、外注先が多いのでスケジュール調整からフィルムの運搬までに関わる。アニメの現場が激務ならば、とうぜん「製作進行」も激務となる
著者は「『ラピュタ』に関わる間は、一日も休まない」とストイックな決意をしており、筆は取らないといっても情熱がなければ務まる仕事ではない

アニメは、絵コンテがなければ始まらない。絵コンテ「作品そのものの設計図」であり、それぞれのカットの演出、台詞などすべての情報が詰め込まれる
その絵コンテを宮崎監督は一人で手掛ける。本来は絵コンテを全て描き上げてから、原画・動画に回されるが、『ラピュタ』では作品の半ば(シータが要塞から救出されるまで)の絵コンテができた段階で、原画マンと打ち合わせが始まった
設立したばかりのジブリでは、全員が作品契約であり、自分の受け持ちが終われば元のスタジオへ帰っていく。スケジュールの厳しさから、原画マンの空き時間を少しでもなくしたいからだ
こうなると、後半の絵コンテができた段階で、前半のカットを追加や変更が出るリスクがあり、上映時間や予定作画枚数に影響でてしまうかもしれない
しかし、結果的には二か所の作画が追加されたにとどまった。それは宮崎監督の頭の中に、ストーリーが明確に出来上がっていて、経験則で尺や作画枚数が分かっているから。著者は絵コンテの天才と称える
上映時間や作画の手間を考えて詰まったとき、細かい考証よりノリや勢い重視の解決を選ぶあたり、表現重視のアニメーター出身の監督らしい

宮崎監督というと、すべての作画を直して自分色に染めてしまうイメージだが、実際にはそこまで手が届かない
例えば悪役のムスカ大佐は、登場するタイミングが離れているために、よく見ると一貫性がなく、なんだかんだスタッフの個性を残されている
「原画頭」の金田伊功、小林一幸、二木真希子ぐらいの優れたアニメーターとなると、その腕を信頼して修正されなかったそうだ
2時間4分という微妙な尺になったのは、製作資金や人員の問題ともに当時最新だった新メディア「レーザーディスク」が2時間までしか入らないから。2時間を越えると二枚組になって値段が大きく変わってしまう
しかし、宮崎監督はどうしてもその4分を削り切れず、ドラマの質を落とさないことを優先した(4分を切らずにいられる立場にあったことになる)
撮り終えた後には、頭がきれいな白髪に変わってしまうほど、『ラピュタ』は心血を注いだ作品だったのだ

本書ではドーラ一家の小型飛行機「フラップラーSF小説『デューン/砂の惑星』の「オーニソプター」に着想を得つつも、乗り心地を想像して昆虫型の羽ばたき式に変更したとか、「ロボット兵」がアニメ版『スーパーマン』(フライシャー兄弟作)の「メカニカルモンスター」からと元ネタを明かしたり、上映時間がおしていなければありえた展開などが裏話が明かされている
WIKIに載っている話と微妙な違いもあって、美化されているところもあるかもしれないが、アニメ好きなら一度目を通してみたい一書である


ふたりのトトロ -宮崎駿と『となりのトトロ』の時代-
木原 浩勝
講談社
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『小説 田中軍団』 大下英治

1週間も記事を上げてなかった。どうしてこうなった


小説 田中軍団〈上〉 (角川文庫)
大下 英治
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小説 田中軍団〈下〉 (角川文庫)
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1985年2月、鉄の団結を誇った自民党内の田中派が割れ、竹下登を中心に新しい派閥「創政会」が立ち上がった。反竹下の派閥会長・二階堂進は総裁選への出馬を抜き打ちで発表し、脳梗塞で倒れた田中角栄の支持を取り付けるが……。田中角栄がいかに自民党を支配し、手塩にかけた議員の反乱を招く結末に至ったかを描く政治闘争史

田中角栄とその軍団の栄光と、世代間抗争を描いたノンフィクションである
冒頭こそ、経世会と二階堂派の抗争だが、田中角栄の幼少時から丁寧に振り返り、上巻半ばまではほぼその立志伝だ。志、金、女も含めて、生々しく政治家たちの実像を描かれていく
高等小学校を卒業後は、16歳で上京し夜間学校に通いながら働き、19歳でなんと建築事務所を設立する
敗戦後、1947年4月の衆院選に初当選し、政争を巻き込まれて吉田茂の民主自由党に入り、その選挙部長となる。その後、九州の炭鉱疑獄事件で収監されるが、1949年1月に再選されると、戦争で荒廃したインフラ整備を中心に議員立法を成立させて行き、地元の新潟でも長岡鉄道の電化を実現し、のちに首相となる佐藤栄作池田勇人の知遇を得る
角栄というと、首相以降の日中国交正常化とロッキード事件などの派手な部分に焦点があてられがちだが、そもそもが土木建築の実業家として頭角を現していて、ガソリン税を道路財源にしたし、郵政大臣時代にテレビ局と新聞社の統合系列化を進めて民放の体制を整えるなど、後世に残した影響は大きい

角栄は岸信介、佐藤栄作の内閣で大臣を歴任したのちに、幹事長に就任
昭和44年(1969年)の第32回衆院議員選挙では、288議席の大勝利に貢献した。このとき新人だったのが、渡部恒三、小沢一郎、羽田孜、梶山清六、石井一、綿貫民輔が当選し、先輩格の竹下登、金丸信、二階堂進、3期当選の橋本龍太郎、小渕恵三とともに、いわゆる田中派、「木曜クラブ」の中核となる
佐藤栄作は沖縄返還を花道に勇退することとなるが、後継には政権運営に貢献した角栄ではなく、東大出大蔵省出身の福田赳夫を選ぶ。ここに「角福戦争」が始まり、“おやじ”である佐藤栄作に逆らう形で首相に就任する
首相辞任のきっかけはロッキード事件ではない。オイルショックによる経済の悪化に、文藝春秋の『田中角栄研究』『寂しき越山会の女王』といった金脈問題が浮上したことで内閣支持率が激減し退陣を余儀なくされる
ロッキード事件の発覚は三木政権下であり、その公判が表舞台での活動を妨げたのだった

無念が残る角栄は首相への復権をうかがいつつ、三木、福田政権ののちに、初当選以来の盟友である大平正芳を首相につけ、大平が病に倒れると鈴木善幸を担ぎ、その後には少数派閥の中曾根康弘を支える
さて本題。なぜ、竹下登らは角栄に反乱を起こしたのか
それは最大派閥にも関わらず、総裁候補を出さなかったこと。10年間も他派閥の首相を支え続けて若手を中心にフラストレーションが溜まっていた
それは竹下を総裁候補に出してしまうと、角栄自身が首相に返り咲けないからであり、完全に彼のエゴだった。1985年時点で角栄は67歳、竹下は61歳。派内で最有力の後継と目されていた竹下の自民党総裁を事実上否定したことで、「創政会」としての独立を決定的にした。「創政会」→「経世会」は竹下内閣以後も、自民党内で主導権を握り続けるのであった
しかし平成5年(1993年)には小沢一郎、羽田孜らが自民党を離れてまで、小渕恵三を推す竹下に反抗し、細川連立政権を成立させる。再び子殺しが親殺しを呼ぶ
本作を読めば昭和・平成の日本政治は、佐藤→田中→竹下と保守の分裂・内紛により動いていったことがよく分かる



大下英治は他にも何本か角栄の本を。内容はある程度かぶるかな?
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