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【京都人による京都観光】南禅寺・岡崎神社

4日にアパートからてくてくと徒歩で、岡崎神社を目指す。山科から蹴上を通って入ると、琵琶湖疏水、南禅寺が近いので、寄っていくことに
「金地院庭園」にも入ったけど、以前行ったことがあったので割愛

関連記事 【京都人による京都観光】下鴨神社・南禅寺金地院


1.南禅寺三門

三門南禅寺を代表する建築物。1628年藤堂高虎大坂の夏の陣で亡くなった将兵を弔うために寄進した
一大名が建築したにしても、スケールの大きい山門だ

022 三門025 三門2

有名な絶景かな!絶景かな!の言葉は、歌舞伎の演目『楼門五三桐』で、石川五右衛門がこの三門(南禅寺山門)に登って放った台詞。しかし、実際に三門が建ったのは石川五右衛門の死後30年経ってからなので、史実を無視した創作である
ただ、三門の二階にも登れて、京都を一望できるのは確かで、拝観料を払えば登ることができる

026 法堂

三門の奥にあるのが、法堂で、さらに奥に国宝の方丈がある。が、今回はこのあと、岡崎神社→古本探しに行くので割愛


2.水路閣

南禅寺でもっとも有名なのは、水路閣ではなかろうか

027 水路閣028 水路閣2

京都を舞台にした2時間ドラマで、よくロケに使われた場所。ここから急に京都駅へ移って、「地理的に無理やろ」と突っ込むまでが京都人のテンプレである

030 水路閣3

「水路閣」、琵琶湖疏水を通すために作られたもので、本来は南禅院の南にトンネルを通して流す予定が、南禅寺側の反対で水路橋を作ることとなった。これにも京都の景観を破壊すると反発があったが、建設当初から人だかりができたほどの評判となったらしい
南禅寺は維新政府の方針で多くの寺領を失いその跡には邸宅と庭園が建つようになったが、そうした多くの庭園の水源として、水路閣は役立っているそうだ


3.南禅院

南禅院は亀山天皇が出家して法皇となる際に(1289年)、離宮を寄進して禅寺とした場所で、南禅寺発祥の地である

038 南禅院5031 南禅院

金地院庭園もそうだったけど、冬の曇りでも透き通った池の水面苔に覆われた島の構図が美しい

033 南禅院3035 南禅院4

亀山天皇の分骨された御廟と、その隣に元の渡来僧・一山一寧の墓がもうけられている。一山一寧は元寇の後にフビライの跡を継いだ成宗(テムル)によって日本への使者として渡日し、鎌倉幕府によって捕縛される
しかし大師号を持ち禅僧としての徳望から、多くの者が赦免を申し出て、鎌倉の草庵へと移り、ときの執権・北条貞時も帰依したという
その後はいくつもの名刹の住職となって立て直しに尽力、後宇多天皇の懇請で上洛し南禅寺の三世(3代目住職)になったとか
そんな流転を重ねて、日本に影響を与えた高僧がいたのだ


4.岡崎神社

南禅寺から、ぼちぼち歩いて岡崎神社に到着したが……

049 岡崎神社

この画像の下は、とんでもない人だかり!
しかも、参拝者の行列が通りから数ブロック続くという盛況ぶりで、これはちょっと付き合うのは無理というか
ウサギにちなむ神社が京都に少ないから、ここに集中したということだろう。しかもテレビの中継とかも多かったし

056 うさぎの石像057 岡崎神社2

とりあえず、らしい写真だけ撮って退散することとした
もう少し、日が過ぎてから行けば良かった


岡崎神社はちゃんと見れなかったが、いろんな庭園を見られて大満足。どうせなら本堂の方丈も見れば良かったかな
水路閣のところに触れたように、南禅寺の周囲には旧細川家など豪壮な邸宅が多く、今では企業のゲストハウスとして使われているようだ。歩くだけでそのゴージャスさが分かる




2023年の初詣は、7年ぶりの日吉大社

前回行ったのが、申年(さるどし)の2016年今年はうさぎ年だけど、京都の岡崎神社は家族それぞれが知り合いと行くことになって、日吉大社になったのである(苦笑)


1.坂本叡山口駅

大津市の坂本へは、京阪電鉄で行く。浜大津駅石山坂本線に乗り替え、坂本叡山口駅
元は「坂本駅」だったのが、観光誘致のために2018年に改名したようで、京都の叡山電鉄の「八瀬比叡山口駅」に対応してだそうだ

01 坂本駅

見た目もだいぶ変わって、なんだか現代美術みたいになっている

14 駅からの奥宮

今回は画像の山の中腹にある八王子山頂の“奥宮”=「三宮」(みぐう)を目指す


2.鳥居

02 日吉大社

7年前はガラケーで、ぼんやり画質になってしまったが、今回はこのとおり。通信携帯もここまで進歩しているのだ

03 ウサギの看板 04 猿のぬいぐるみ

猿の神社だけど、干支にちなんだ、うさぎの立て札がかかっている
しかし、鳥居の横に建てられた竹には、ちゃんと猿のぬいぐるみがくくりつけられているのだった

参考記事 2016初詣は日吉大社


3.西本宮


東本宮の写真はうっかり撮り忘れていたので、前回同様に西本宮のみ(汗

05 西本宮 仁王門
08 門を支える猿 仁王門の四隅にちょこんと屋根を支えるポーズのお猿さんが!

日吉大社は仏教が優勢になった中世に延暦寺の影響下に入るが、明治維新の神仏分離令の際には、吉田神社の神官たちとともに延暦寺へ独立を要求し、仏像や経典を焼くなどの暴挙に出て、廃仏毀釈運動の魁となったとか
その煽りで、東宮に祀られた大己貴神(大物主神)と西宮に祀られた大山咋神を入れ替えて、西宮官幣大社にして東宮を格下にする措置がとられたが、東宮も官幣大社になったことで祭神も元に戻る。時代によって、東西どっちが上か下か変遷が激しく、ややこしい

07 西本宮本社

コロナにつき、しめ縄は柱にくくられ、行列を恐れてか、西宮では本来の位置で拝むこともできなかった
ちなみに東宮では、しめ縄はくくられていたが、普通に拝むことはできた


4.神輿庫

10 江戸時代の神輿 11 江戸時代の神輿2

「神輿庫」には、祭りで使われた江戸時代の神輿が飾られていた
平安時代に延暦寺の僧兵が強訴のさいに使っていた神輿は、こうした日吉大社のもの。「山王権現」の権威をバックにしていたのだ
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【京都人による京都観光】清水寺の夜間特別拝観

先月末、家族と清水寺の夜間拝観へ出かけた。ちょうど最終日で、平日夜ながら人混みもそれなりに。駐車場には観光バスが何台も並んでいて、コロナが嘘のような状態である


01 大谷本廟
こちらは浄土真宗のお墓がある大谷本廟親鸞上人の墓所ともなっている場所にもライトアップがされていた

02 五条坂
清水寺までの坂道、「五条坂」からもライトアップされた三重塔と放たれたレーザービームが見える

011 仁王門 012 瑞雲青龍
左が「仁王門」 右は「西門」

013 清水三重塔 有名な三重塔

そういえば、近くに住んでいるせいか、清水寺のことをちゃんと記事にしていなかった
その創建は778年興福寺の僧・賢心(後の延鎮)が、音羽山の”金色の水流”を見つけ、そこで行叡居士(ぎょうえいこじ)という老いた修行者に出会う。彼に託された霊木から千手観音を彫り、それを本尊としたのが始まり
その2年後、初代征夷大将軍となる坂上田村麻呂妻・高子の病気のために鹿の生き血を求めて狩りに来た際、賢心に不殺生を説かれ、自身の屋敷を本堂として寄進した。そして、蝦夷征伐を命じられた際には、平定参拝を行ったという
798年、その田村麻呂の後援もあって、大伽藍をもつにいたる

024 音羽の滝
舞台から見下ろした音羽の滝

清水寺の山号は音羽山で、音羽山清水寺が正式名称。山科には東のほうにも”音羽山”があり、比叡山の西の麓にも”音羽谷”の地名が残る。奈良にも音羽山(観音寺)があり、そこが発祥の気もする

027 清水の舞台から見下ろし 025 阿弥陀堂
「阿弥陀堂」(左)と「奥の院」(右)

開山の賢心(延鎮)が興福寺の僧であったことから、中世から奈良の興福寺に属し、南都北嶺の争いの前線として、1165年には比叡山の僧兵による焼き討ちを受けた
応仁の乱に巻き込まれ、再び焼失したところ、勧進聖とよばれた時宗の願阿弥が再建事業に乗り出し、念仏の本願成就の地と見なされるようになった
豊臣秀吉に130石の寺領を安堵され、江戸幕府もそれを引き継ぎ徳川家光により寄進、再建が果たされたそうだ

034 京都の夜景 036 三重塔も逆光

参道から見た夜景や三重塔の塔が美しい。しかし、光で画質が……まだスマホを使いこなせておりませぬ

041 下から舞台 042 下から舞台
下から見上げた舞台

044 池に映る紅葉 045 池に映る紅葉
池に映る紅葉。枯れ切っているのが悲しいが、それでも幻想的


保津峡にいったあと、雨の日を挟んだことでかなり葉の落ちた木が多かった。気温もすっかり冬モードで、紅葉狩りとしてはシーズンを逃した感は強い
とはいえ、いついけば良かったかというと、きれいに染まった時期というのもなかった気がするので、今年は不作だったというのが本当のところだと思う
といっても、保津峡も清水寺も元の景観がガチでいいので、行った甲斐はあった




【京都人による京都観光】鳥居本・清凉寺

保津峡から峠を越えて、愛宕山の麓にある鳥居本へ下りる。2つの念仏寺で紅葉狩り


1.愛宕念仏寺

府道50号線から鳥居本へ出たところで、石仏で有名な愛宕念仏寺を目指す
途中、猿の群れが高い木の上で木の実を食べていて、なんだか嵐山公園のような様相に

051 愛宕寺

愛宕念仏寺の創建は、まだ平安京ができる前の天平年間で、766年称徳天皇により山城国愛宕郡初めての寺として名付けられた
真言宗の末寺とだったが、醍醐天皇の命で天台宗の千観内供(伝燈大法師)が再建したときに天台宗となり、千観が念仏上人と呼ばれていたことから、「愛宕念仏寺」と改められたとか
太平洋戦争中に管理者がいなくなり、ジェーン台風の被害で1950年に廃寺となったが、比叡山延暦寺から再建を命じられた西村公朝が復興に尽くした

062 愛宕念仏寺本堂  064 本堂からの石仏
本堂

このお寺に多くの石仏が並ぶのは、1980年に一般人が自ら羅漢像を彫る活動が始まったからで、石仏の後ろには作り手の名が記されている。500体目標が10年目で1200体になってしまったとか
2007年に亡くなられた西村公朝・前住職仏師(仏像の職人)として有名で、きらびやかな虚空蔵菩薩ふれ愛観音が境内に安置されている。東京藝術大学の教授になったり、2000年に清水寺で始まった青龍会を監修したり、長渕剛と交流があったりとかなり幅広く活動された方。そのお寺が今もにぎやかなのも納得

073 モアイ石仏 

羅漢像にはユニークものも多く、写真のようにモアイ像(!)ボクシンググローブをはめた羅漢髪型がリーゼントになった羅漢など、一般人が楽しんで盛り上げている


2.化野念仏寺

温度の上げ下げが激しいせいか、紅葉は枯れたり青かったりとまばらなのだけど

077 あだしの念仏寺の入り口 079 あやしのの紅葉

化野(あだしの)念仏寺の紅葉は美しい!
化野念仏寺は、空海上人が都で野ざらしになった死体を弔うために、811年に千体の石仏を沈め、五智如来を祀る五智山如来寺として始まった。その後、法然上人が念仏道場として、念仏寺となったという

083 西の川原の紅葉 084 仏舎利塔

境内なかで、ひときわ目立つのが仏舎利を守る仏舎利塔(ストゥーパ)。本場のインドから専門家を呼び、世界文化遺産であるサン・チーの塔を模して1969年に建立された。タイに旅行したときにも、こういう石造の寺院が一般的であり、東南アジアからインドには、こういった宗教建築は珍しくない
宗教を通したアジアのつながりを感じさせる建造物だ

092 角倉素庵の墓 096 竹林

左上の立て札には、角倉了以の息子・素庵の墓のことが。家の菩提寺は他にあるのだけど、不治の病にかかったため、この地を選んだとか
冬直前とした竹林の向こうには、六面六体地蔵があるけど、そこは割愛



3.鳥居本の街並み

049 愛宕

鳥居本の由来は、愛宕山の愛宕神社の鳥居があるから。戦前の古い街並みを残していることから、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている
コロナゆえか、テナントの入ってない建物が多かったが、人が少ない分、風情が守られてる気はする

075 鳥居本の通り 076 鮮やかな紅葉

街並み保存館には、電気とガスが通る前のレトロな生活空間が再現されていて、母親は懐かしがっていた


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【京都人による京都観光】保津峡

日曜日は家族で保津峡へ紅葉狩りに出かけた
JR山陰線で保津峡駅まで行き、そこから歩いて嵐山を目指すコース


1.保津峡駅

電車を降りたところから絶景!

008 駅からの桂川012 外から見た保津峡駅

保津峡の大堰川~桂川は、平安時代から木材の輸送で利用されてはいたが、それをさらに飛躍的に発展させたのが京都の豪商・角倉了以高瀬川の開削で有名な彼は、この保津峡においても大規模な改修工事を行い、船が通れるように川底の岩を砕き、滝になっている場所も均して、北陸の物品が上方に運べるようにした
水運事業そのものは、明治になって陸上交通が発展するうちに廃れていったが、この緩やかな川の流れを利用した「保津峡下りが観光の目玉となり、夏目漱石の『虞美人草』など多くの文学作品に登場し、現代に至るまで親しまれている
人為と自然が絶妙に混ざりあったのが保津峡なのだ

011 道から

川でなく、徒歩で歩いて行くとあまり川が拝めないの難。紅葉もいっせいにという場所はなかったけれど(苦笑)、まばらなのが造成されていない森ってもんでしょう


2.トロッコ保津峡駅

川下りとともに有名なのが、ゆっくり進行で風景を楽しめるトロッコ列車

019 トロッコ保津峡駅020 トロッコ保津峡駅

もともとは本線だったところ、輸送力強化から1989年に新しい路線が作られたために廃線となっていたが、1991年に保津峡の美しい景観を活用しようとJR西日本の子会社に観光用路線として運用されるようになった

026 桂川032 桂川

川が曲がるところでようやく、その姿が見えてきた。流れがゆるやかで川底も深いから色は濃い緑で、よくみるとが列を作っている


3.芭蕉の句碑

ここから桂川を離れて、峠を登っていく

035 小川036 芭蕉に区

落合橋(?)を渡ると、脇道に芭蕉の句碑のある場所が。「清瀧や 波に散り込む 青松葉」
かなり晩年の作品で、青松葉は芭蕉自身。滝から落ちる川の水のように美しく散れたら、という心境かな?
近くには廃屋となった売店や倉庫が立ち並び、兵どもが夢の跡といったところ

040 橋と紅葉041 トロッコの橋

見下ろした風景も美しい
次回は戦前の面影を残す鳥居本の通りから


次回 【京都人による京都観光】鳥居本・清凉寺


↑工藤芝蘭子は松尾芭蕉の弟子・向井去来が使っていた落柿舎の十一代庵主となった人で、相場師から私財を投じて再建に尽くした異端の俳人



【ぶらり滋賀観光】賤ヶ岳の下り~木ノ本

賤ヶ岳を登ったあとは、木ノ本のほうで下山する


1.賤ヶ岳から下山

賤ヶ岳の慰霊碑 ロープウェイもある
左は、賤ヶ岳の戦いの慰霊碑小さい石仏が多数祀られている
右は木ノ本方面へ降りる賤ヶ岳リフト。スキー場のようにちょんと腰掛けて降りていく。昨年作られたそうで、HPをみると恋人の聖地に認定されているそうな……おひとりさまの管理人には縁遠い話ですな

木之本へ下山山道とロープウェイすれすれ

普通の登山道をてくてくと。例の新設されたリフトも影響したのか、緩い坂がジグザグになっているので、余呉湖側より登りやすいはず。カジュアルなハイキングを意識しているようだ
ただ、その途上には、そのリフトの通り道に(苦笑)。誰も乗っていないときは大丈夫だが、足の長い人のときはスレスレというか当たりそう

下のリフトには、大学生だろうか? 若い女性のスタッフが管理していて、初々しかった


2.伊香具神社

下に降りてから、山沿いに歩いていくと伊香具神社に出た

伊香具神社伊香具神社の歌碑


真ん中にキレイな祭殿があるようで、実は本殿のほうは台風の被害が残っているらしく、リフトのところには募金箱が置かれていた
伊香具神社は、この地が未開の沼沢地だったときに“伊香津臣命”が開拓をはじめ、子孫に永代まで土地を守るように言い渡し、天武天皇の時代に創建されたとか。土地の開拓者を祀った神社なのだ
9世紀には朝廷から”名神大社”と認められ、菅原道真の法華経などの手写が収められ、足利尊氏から200石を寄進され祈祷を求められるなど、地域外にも影響力を持っていたらしい
しかし、賤ヶ岳の戦いに巻き込まれて焼失し、明治になってようやく社格を回復し、現在にいたるそうだ

左の歌碑は、「思へども 身をしわけねば めかれせぬ 雪のつもるぞ わが心なる」で、伊勢物語が原典。在原業平とどういう縁があるのかは謎


3.余呉川

伊香具神社から木ノ本を目指して歩いていると、

余呉川余呉川2


余呉川に出た。余呉川は、余呉湖から琵琶湖に注ぐ川……ではない
福井県境の椿坂峠が源流で、そのまま琵琶湖に注いでいるので、直接は関係なかったのだが、洪水に悩まされたことから1956年に余呉湖に通じる用水路を作って、湖を天然のダムにする構想が起こり、1959年に完成した。用水路とともに、湖から放水するトンネルも掘られて、水量を調整している


4.木之本地蔵

木之本まで来たのは、平和堂で惣菜を買いたかったのもあるが、「木之本地蔵」で日帰りの旅を終わらせたかったから

木之本地蔵木之本地蔵 (2)

木之本地蔵院は、もともと本尊が難波浦(なにわのうら、現・大阪)に流れ着き、開山には2つの説があるとか
ひとつは薬師寺の僧聖武天皇の命で、北国へ行こうとしたところ、柳の下で本尊が動かなくなり、ここに寺を建立することになった説。「柳の下」から転じて地名も「木之本」になった
もうひとつは、文武天皇が北陸の白山に参詣した途上、この地に紫雲が立ち上るをみて、難波の金光寺をここに移した説
以降、賤ヶ岳の戦いで秀吉の本陣が置かれ、その戦いに巻き込まれて焼失するまで殷賑を極め、豊臣秀頼によって再建された

あふれるカエル2

有名な”お地蔵さん”本尊の3倍に建てられた銅像で、1894年(明治27年)に建立太平洋戦争の際には、供出の危機に陥ったが、住職と東條英機夫人・勝子の嘆願により免れたとか
地蔵の周囲には、ちいさいカエルの置物がびっしり!
身代わり蛙として、罪やら不運やら背負ってくれるらしい。お値段は千円なので、ご遠慮した

阿弥陀堂

本堂の横の道からは、阿弥陀堂にいたる。「明治天皇在所」もあって、皇室ゆかりの地であることも地蔵の供出を免れた要因であることだろう


木ノ本駅

「木ノ本駅」から京都・山科へお帰り。余呉駅と違って、観光への意識が違う!
やはり、仏閣の存在というのが、街の基盤ではないかと思い知ったところだ。コンビニや平和堂があるもの、もとを正せばそういうところにつながっていると思う


前回 【ぶらり滋賀観光】余呉湖・賤ヶ岳

【ぶらり滋賀観光】余呉湖・賤ヶ岳

気候も良くなってきたので、紅葉も期待してお出かけ
余呉湖へはJR山科駅からびわこ線野洲まで乗り、近江塩津行きに乗り換えて、約1時間30分弱余呉駅に到着
米原駅で切り離しなどもあるので、アナウンスに注意しなきゃいけない


1.余呉湖(北)

JR余呉駅は、JRしては地方らしいというか、周囲が田んぼに囲まれたところにポツンとある

駅から見た余呉湖

余呉湖長浜市に属しており、役所の支所などは駅から離れたところにある。西側に住宅が固まっていて、駅やそちらのほうにコンビニなどは一切ないカフェが一件あったぐらいだろうか
湖北の公園近くにあるレストランで食事をとらないのであれば、持ち込み推奨である

鴨泳ぐ余呉湖北2

余呉湖は鴨が多い! ただ鴨川の鴨より、人に慣れていないのか、ちょっと近づくだけでも大げさに逃げてしまう
湖面の緑は、余呉湖で長年問題になっているアオコ。人間の流した生活排水などで水が富栄養化し、湖面を覆って藻を腐らせて、生態系を破壊する。数十年前に教科書で習ったものだけど、解決したわけではないのだ
もっとも、冬場はワカサギ釣りも流行っているそうで、悪化の一途というわけでもないようだ

余呉湖の像

公園にはこの地に残る羽衣伝説にちなんだ天女の石像が建てられている。本来は、羽衣がかかっていた柳が名所となっているのだが、台風の影響で倒れてしまったらしい(もっとも、それも二代目らしいけど)
後に出会ったガイドのおじさんによると、羽衣伝説は大陸由来の神話であり、それが残る地域は朝鮮半島からの渡来人と深いつながりがあるとか

煙る農道

湖の西側には耕作地と農家の住居が占めている。かなり広く、端っこに子供の遊び場として遊具が置かれていたり
いちおう、ハイキングコース(?)もできていて、砂利道だけど雑草に邪魔されず歩くことはできる


2.余呉湖(南)

ハイキングコースが終わる頃には、住宅地もおさらばで、狭い車道に合流する。そこでは、ミツバチが巣を作っていたりもしたが、なんとか刺されずに通れた

蛇の目玉石

暗くて恐縮だけど、これが蛇眼玉石。ここには湖に入水した”菊石姫”にまつわる伝説が残っている
いろんなバリエーションがあるようだが、もっとも鮮烈なのは、子供の頃に蛇の体に近づいていったために湖へ入り、面倒を見ていた下女に、自らの目(蛇の目)を渡して形見とした。蛇の眼の石には不思議なご利益があり、周囲の信心を集めたが、とある身分の高い人が下女にそれなら両目とも渡すように強要し、耐えられなくなった下女は菊石姫に呼びかけた
下女の窮状に、姫はもう片方の目を渡し、「両目が見えなくなったので時間が分からない。湖のほとりにお堂を建てて、鐘を鳴らすように」と頼んだとか。他には、姫は雨不足への請願に湖に入水したとも言われる

新羅崎神社跡

道から少し登ったところにある新羅崎神社跡。面影はやや平らに開けている以外にないのだけど、賤ヶ岳の戦いの折に、ここが伏兵を置く絶好の地点になったとか
湖面沿いの道は細いので、ここから下を通る兵たちを撃てば、かなりの成果をあげたことだろう
どちらが使ったかは命じされないが、佐久間盛政の奇襲部隊が通って退却したルートなので、柴田方が羽柴勢の追撃をここで留めたに違いない

アジサイ園の紅葉

アジサイ園はこんな季節では当然ながら咲いているはずもなく、微妙に紅葉した木だけが迎えてくれた

国民宿舎跡

かつて、ここには国民宿舎があったとか。日本各地に観光産業の振興及び安く泊まれるレジャー施設を国民へ提供する事業も、バブル崩壊から政府系金融機関の融資が止められていったことで、次々と廃業が相次いだ
今となってはそんな余裕があったものだと、昔の日本に驚くが、戦国の合戦とは違う意味で無常を感じる。どこにも箱物を建てる、あの狂騒はなんだったのだろう
いちおう、余呉のスキー場のほうでは、別の法人として宿泊施設が運営されているそうだ

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【京都人による京都観光】山科川から牛尾山

月曜日は一日晴れ、そんな予報を信じて、前から考えていたコースを歩いてみた


1.山科川

京都市山科区には、山科川という川が流れている

東野から

牛尾山を起点に、宇治川まで注ぐ川。もっとも宇治川につながるようになったのは、昭和に入ってからで、豊臣秀吉が伏見を開発した影響で、木幡池へと注がれ、治水にかなり不便があったらしい
今回は川を山へ辿るとどういった光景が広がっているか、を確かめたい。上の写真は西友のある東野で、ここがスタートライン

山科川沿い

行きは川沿いに遊歩道が整備されていて順調。雑草がはみだしている場所もあるけど、特に気にならないぐらいだ
菜の花に、ススキが茂っていて、誰かさんが撒いた花も存在を主張している

亀ちゃん

水流の勢いを削ぐために石造りの仕掛けが露出しているところ、亀ちゃんがひょこひょこと。ぶらりと白鷺などもいたりして、東野から国道一号線まではなかなかに楽しめる遊歩道となっている
が、

川沿いに道なし

なんということでしょう。国道一号線より向こうは、川沿いに道はなく雑草が茂るばかり
ざんねん!! わたしのぼうけんはおわってしまった!!
……というわけにもいかないので、迂回して川が見えるところまで行ってみる


2.露山水車

名神高速道路をくぐり、音羽中学校を尻目に遡っていくと、ようやく川と近づける場所が見えてくる

二の講

二の講とは、大蛇を模した締縄のことらしく、平安時代に牛尾観音の参拝者を悩ましていた大蛇に対して、弓の名人・内海浪介景忠が射殺したという。そのときに清水寺の音羽の滝までもが血に染まり、大蛇を恐れた住人は締縄を祀って、五穀豊穣を願うようになったとか
行政的にはここが山科川の起点となり、これより上流は音羽山科川とされる

露山の水車露山の水車2

おやっと思ったのが、この水車小屋。子供のころに記憶がないのだが

水車内部水車内のオブジェ

露山水車といい、数年前に宮大工に頼んで建てたものらしい。しかも行政ではなく、向かいの家のお人が。なんと、風雅なお人がいるものやら


3.音羽の滝

山に入ると、風景も一気に変わってくる

苔むす森

普通の山と違うのは、の存在感だろう。とにかく、木の幹はおろか、ガードレール、砂防ダム、コンクリートで固めた壁面にも、びっしりと苔が覆っている。人工物を時間ともに呑み込んで一体化してしまうような、不思議な空間が広がっている
それだけ人の手が入らず、自然の時の流れに任されているからでもあるのだろう
その一方で、

水車で木のオブジェ

水車小屋にあったような木のオブジェが、岩の上に並んでいた。木はいつか朽ちて自然のなかに埋もれていく

かわいいオブジェ
こんな可愛い木霊

音羽の滝

とはいえ、メインディッシュは数々の滝。音羽の滝には、中務のみこ(中務卿をつとめた親王の意?)の歌碑「鳴滝の 音羽の滝や まさるらん 関のこなたの 夕立の空」が残る

橘青龍の滝2

いろんな滝に名前がつけられているが、みんなが古くから伝えられる滝ではなく、川によって削られて生まれた新しい滝にも名付けられる。これはそのひとつで、橘青龍の滝

夫婦の滝

これも生まれたばかりの滝夫婦の滝。名付けた人のイニシャルが残る

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【ぶらり滋賀観光】彦根城

過ごしやすい季節になったので、朝早くからお出かけ
京都から日帰りで行けるお城ということで、彦根城へ行ってみた


井伊直政像 駅前の井伊直政像

JR彦根駅から、彦根城は近い!

駅から見える石垣

駅からこのとおり、本丸の石垣が見えてしまうのだ。逆に言えば、周囲を見下ろせるように城が建てられたということでもある
彦根城の主、彦根藩徳川四天王の一人、井伊直政が関ケ原の戦功から、近江15万石に封ぜれたことに始まる。石田三成の過ぎたるものと言われた佐和山城が当初の居城とされたのだが、中世的な山城であったことと三成との関係性を嫌って、彦根山に新城を築くこととなった
築城が始まる前に直政は病死してしまうが、幼主・井伊直継を支えた家老・木俣守勝が、幕府と相談して1603年に築城開始東海・北陸の諸大名が手伝う天下普請として、1606年に完成した

佐和山城を嫌ったのは、石田三成が民政に力を入れた大名だけに、そのつながりをリセットしたかったのだろう。関ケ原直後から大坂の陣までの間に完成されたことは、徳川幕府がいかに大阪方と西国大名の逆襲を恐れたのが分かる。京都は守りにくい土地なので、近江で戦線を膠着させ、東海、関東の応援を待つ戦略なのだ

外堀から天守を見る 外堀から見た天守閣

天下普請で築かれた城だけあって、その規模は巨大である。これは二の丸を囲む外堀なのだが、当時はさらに有力な商人や奉行所、武家屋敷を囲んだ”三の丸”が広大な敷地をとっており、それも外堀に囲まれていた。日本に一般的な城下町ではなく、城中町になっていたのである
さすがに”三の丸”の外堀は残っていないが、そこかしこに江戸時代から残ってそうな家屋や遺構を見かける

大手門口

大手門から”二の丸”へ。”二の丸”の中には、なんと高校がある! 彦根東高等学校は赤鬼魂(!)を受け継いで、国際的に通用する人材育成を目指しているとか

馬小屋跡
重要文化財という馬小屋。城の施設で馬小屋が残っているというのは、極めて珍しいとか
明治維新後にしばらく陸軍の管轄として扱われたことと無縁ではないだろう

表関橋

表関橋から本丸へ。内堀もまた、でかい
本丸に入ると、元藩庁の博物館受付・売店がある。入場券を買って進むと、曲がり続ける坂道を登り、かつて知らせの鐘が置かれたという「鐘の丸」、最初の関門となる天秤櫓にたどり着く
「鐘の丸」は当初、様々な合図に使う鐘楼が置かれたが、城中に聞こえないと判明し、太鼓櫓に移されたとか

天秤矢倉正面

天秤櫓は正面から見た形でなく、上か見下ろしたときに「コ」の字=天秤に見立てて名付けられたとか。橋の下はここに至る通り道。つまり、敵軍は橋の下を登ってくる形なので、櫓と橋、鐘の丸から、集中砲火を浴びせられる設計になっている

太鼓門櫓

天秤櫓の次に待ち構えるのが、太鼓櫓。天秤櫓ほどではないにしろ、天守閣から遠ざかるように曲がり、やはり周囲から飛び道具を浴びせられる地勢となっている
そして、いよいよ

天守閣

天守閣へ。城のシンボルであり、最後の決戦の場として立て籠もる場所
天守閣の前には本丸のなかの本丸というべきか、各方面を支援するための物資が集積するためにか、平らに開けている
実際の天守閣はというと……

武者だまり1階天守閣の鉄砲狭間、矢狭間

内部の階段は傾斜60度を越える急勾配!!! 階段の幅も小さいから、滑るのが怖いほどだ
こんな登りにくい天守に実用性は……と思ってしまうが、天守は本来、非常時に立て籠もるもの。下から登る敵を突き落とすための急角度なのだ。降りるときも、怖かったよ……
外目からは分からない銃狭間、矢狭間も四方に張り巡らされ、最後まで抵抗するという強い意志を感じる天守閣なのであった

本丸からの湖 本丸から見た琵琶湖


彦根城は元の佐和山城よりも琵琶湖に近く、近世的な平城と経済的な実用性も考えられているようだけども、実際に登ってみたところ、かなり実戦を考えられた城郭だとわかった。まだ関ケ原直後に戦国の気風を色濃く残す時代、堅牢な城塞を作る実用性は高かっただろし、天下普請させられた大名も、徳川の本気を感じたことだろう

展覧会 岡本太郎

では、いよいよ岡本太郎展に
今回の展覧会では、SNSによる拡散を意識してか、フラッシュを伴わない写真撮影は許されている(動画はダメ

出だしの太陽


1970年大阪万博の「太陽の塔」で知られる岡本太郎は、1911年に漫画家・岡本一平歌人・仏教研究で知られる岡本かの子のもとに生まれる。放蕩三昧の一平に、かの子の愛人も同居するという、複雑な家庭で育つ
慶應義塾普通部から東京美術学校へ進学、1930年からパリに10年間留学する。ピカソの絵に衝撃を受け、既存のシュールレアリスムと決別すべく、『痛ましい腕』を創作した

痛ましい腕 『痛ましい腕』(1936)

1942年、召集され30歳で中国戦線へ。師団長の肖像画を描く
戦後は「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」と日本美術界を挑発し、花田清輝、埴谷雄高、安部公房らと『夜の会』を結成する。その名前の由来となったのが、この作品

夜 『夜』(1947)

合理主義の抽象画と非合理主義のシュールレアリスム、無機的な工業化社会と有機的な動物、2つの異なるもののぶつかり合い「対極主義が作品の特徴である

重工業 『重工業』(1949)

『重工業』では、赤いネジ緑のネギ。一種のダジャレでもあるのだろうか(笑)

森の掟2 『緑の掟』(1950)

『緑の掟』は当時、全体主義への批判として受け止められていたらしい。しかし、チャックのついた赤い野獣は、容赦なく人間を狩る資本主義(ジーンズ!)にも受け取れる


戦後復興から高度成長に乗り出す日本へ向かう日本のなかで、縄文土器に衝撃を受けた太郎は、日本の風土を探ろうと東北、沖縄へと足を運ぶ

縄文人 『縄文人』
樹霊 『樹霊』

異端の思想家ジョルジュ・バタイユ宗教学者ミルチャ・エリアーデの影響も受けたそうな


あまりお金に苦労していなかったからか、お金持ちに自分の作品を売らず、より多くの人に見てもらうことに心砕いた

バッファローズ

ポップアーティストとしての代表作は、近鉄バファローズのロゴマーク初代監督となった親友の千葉茂のために引き受けた

座りにくい椅子

椅子のデザインを頼まれたところ、「座り心地のいい椅子に座ると、人間が退化する」と、あえて座りにくい椅子を作った(爆


燃える人 『燃える人』(1955)

前の記事で触れた、第5福竜丸事件に関連した作品がこの『燃える人』。真ん中にピカドンと爆発。左下に赤い舌をだしてぐったりした船が並んでいる
そして、その系列に属する大作が

明日の神話 『明日の神話』(1968)

メキシコオリンピック(1968年)のために、現地の44階建てのホテルに飾るものとして製作された壁画だった。しかしホテルは完成する前に倒産し、作品はどこへ行ったか分からなくなっていた
それが2003年に奇跡的に発見され、ひび割れバラバラになっていた作品を修復し、2006年に復元に至った
アメリカではメキシコ国境に近い砂漠でトリニティ核実験が行われており、メキシコのホテルにこれを掲げようとしたのも、その意図は明らかだろう


中之島美術館は広い! 岡本太郎は晩年も精力的に活動していて、それ以後のあまり公開されていない作品もドドンと並べられていた
色彩、画風もあいまって、見るのもかなり疲れる展示会なのであった(汗
それでも、そのインパクトは心洗われるものがあって、忘れられない体験となった


前編 大阪の中之島美術館へ行ってみた



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