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【京都人による京都観光】祇園祭2023’前祭

今年は近場の親戚が集まって、祇園祭の宵山
だいたい目玉の山車は書いてしまったので、まだ紹介していないところを中心に


1.瀧尾神社の龍頭

京都大丸には巨大な龍頭が飾られていた

001 瀧神社の竜頭

東山の瀧尾神社のものであり、奉納したのは大丸・創業者の下村家幕末の1839年に納められ、それ以来、大丸と瀧尾神社はなが~い付き合いが続いているのだ
そして、大船鉾の龍頭は、この瀧尾神社の龍頭をもとに復元されたとか

027 龍頭
大船鉾の龍頭

007 函谷鉾

大丸の近くには函谷鉾が。斉の孟嘗君函谷関で部下に鶏の鳴き声をさせて、開門して難を逃れた故事をテーマにしている
山車により人気だったのは

006 犬が人気

浴衣を着たワンちゃん! 暑さのなか、四方に愛想を振りまいていたのであった


2.占出山の日本三景

占出山の山車はそれほど大きくなく、祭が始まった初期の形態をとどめたものなのだが

012 占出山 松島 松島 
013 占出山 宮島 宮島
014 占出山 天橋立 天橋立

綴織が「日本三景で、その上では36歌仙が描かれたゴージャスな綴織が!
36歌仙の存在に気づかず、画像に納められたのは無念


3.月鉾

020 月鉾 021 月鉾にはうさぎ

四条通の「月鉾には、月にちなんでかウサギが彫られている
見上げてばかりではアレなので、500円払って山車のなかを見てみることに

023 月鉾の柱 024 天井の絵

柱にはゴージャスに掘られた花の彫刻が。天井にも源氏物語を題材にした「五十四帖扇面散図」が貼られている
胴懸にはオスマン・トルコやムガール朝から伝来したという絨毯が使われるなど、月鉾は動く美術館」の異名をもつそうだ


4.岩戸山

岩戸山は、言わずとしれた「天の岩戸」の故事をテーマにした山車

034 岩戸山のおじさん 035 岩戸山

昭和、平成になってから復元されたり、奉納されたものが多いせいか、他の山車よりもきれいで、テレビの中継まで受けていた


夕食は以前にも行った、中華のお店「風枝」へ。烏丸通から、蛸薬師通へ進んだところにあり、祇園祭のときには行きやすい
祭のときにもそれほど混んでないので(失礼!)、グループでないなら予約なしでも行けるかも




開館1周年記念の佐伯祐三展へ行ってきた

家族に連れられて、大阪の中ノ島美術館へ。開館1周年記念の佐伯祐三展があったのだ


041 佐伯祐三展の大ポスター

佐伯祐三大阪生まれの洋画家光源寺の次男として生まれ、東京藝術学校(現・東京藝術大学)を経て、パリへ留学するも1928年、30歳で早逝した。そのフランス滞在中に、パリの店、広告、町並みと、流行の最先端を行く都市文化を描きつつ、結核を患った晩年はパリ郊外の長閑な風景画を残した


この展覧会、去年行った岡本太郎展と同じで、許可されたほとんどの絵を撮影できるのだが、気がついたのがしばらくしてから
学生時代の作品をまったく撮りそびれたのであった。撮影禁止の作品の横には、ちゃんとマークが貼られているので注意!
小学生並みの感想(いつもか?)で表現すると、必ず風景のなかに「電柱があった。風景画を描こうとするときに、排除したい異物にも思えるのだが、作者の年代では「電柱」そのものに文明の利器として、肯定的な意味があったのかもしれない
船の絵でも、帆柱に存在感にあって、垂直にそそり立つものが世界を支えるようなイメージを持った

さて、パリの作品はというと

007 パリ15区008

この通り、電柱がない!
パリはガス灯の伝統が長く、1960年代まで併用されていたようだ。最先端のモードと、歴史ある都市文化がこの街の魅力で、今では電線の地中化も進んでいるとか

011017
輪郭のはっきりしない印象派風のなかで、くっきり浮かぶ店の名前!

019020
ポスターや店名とメニューなど、文字情報がぎっしり。こんな風景画ってある?(笑)

013 ノートルダム021 リュクサンブール公園

パリ郊外の風景も。左がノートルダム大聖堂、右がリュクサンブール公園。公園にはリュクサンブール宮殿があり、現在はフランス上院の議事堂として使われている
フォーヴィスムの画家モーリス・ド・ヴラマンクを訪ねた際に、裸婦像を見せて「このアカデミズムめ!」と激怒され、当時描いていた自画像の顔を塗りつぶし、その裏にノートルダムの夜景を描いている。それも撮っておけば良かった……


2回目の渡仏で、パリ郊外のモラン村へ画家仲間と訪れる

027028
教会の絵が何枚も描かれていて、村の中心であると同時に、実家がお寺ということもあるのだろうか

032 黄色いレストラン031 煉瓦焼き
パリの印象派風の絵と違い、力強くぶっとい輪郭が。うつろう都会とは違う、重厚さを感じたのだろうか


そして、病気が進んだところに訪れた二人のモデルが

034 郵便配達夫035 ロシアの少女

左が有名な郵便配達夫。その後、狭い村にもかかわらず、姿を見なかったことから、米子夫人も「あの人は神様ではないか」と漏らしたとか
右はロシア亡命貴族の娘をモデルにした「ロシアの少女」


外のショップでは

036040

「郵便配達夫」のおじさんを全面に出したグッズが並んでいたのであった
まさか、自分が遠い未来にこんな扱いをされているとは、思いも寄らないだろう(笑)




【ぶらり奈良観光】大和高田の千本桜~長谷寺

桜の季節も今週まで!? 家族に誘われて、奈良にまでお花見


まずは大和高田千本桜
経路的には、JR山科駅から京都駅で、そこで近鉄に乗り換えて大和高田駅まで急行で

001 大和高田駅

滋賀もそうだけど、地方都市の駅前はわりと整備されている。空間がぜいたくに使われているので、歩くだけで楽しいのだ
費用対効果は知らんけど


1.高田川の千本桜

駅から高田川へ向かって歩いていくと

004 高田川005 高田川2

早くも千本桜”の並木に出る。街中に作られた桜並木なので、歩道は片側のみで、反対側は車道になっている
電車で来た人間には少し残念ではあるけれど、ドライブで気軽に花見ができるというメリットもある

006 高田川3008 高田川4

高田の「千本桜」は、戦後の新憲法制定に、市制(北葛城郡高田町→大和高田市)が施行された1948年とともに高田川に植えられたもの。敗戦の傷を癒やし、戦後復興のシンボルにとの役目があったのだろう

010 倒れて咲く桜011 鯉がいっぱい

桜の世界にもリストラ(!)があって、枯れてくると容赦なく接ぎ木が試みられたり、新しい株が植えられる
そんな中でも、左上の桜は、下に曲がって生えたほうが咲き誇り、片側はばっさり切られていた。ぎりぎりで伐採を回避した“崖っぷち桜”には、つい感情移入したくなる
街中ゆえ、川はキレイとも言い難いなのだが、餌をやる人がいるためか、がたくさんいた


2.大中公園

高田川から水路が枝分かれしているところに、大中公園がある

016 公園の中洲014 大中公園

この日は花見にちなんだお祭りなのか、露店が軒を連ねて大変な人だかり。公園内は桜より、店が多い印象だった(汗
大中公園が元は何があったかは分からないが、イベントスペースとして浮き舞台が!
源義経の側室・静御前が没したとされる地だから、それにともなう催し物でもあるのだろうか。しかし、流されるBGMは場違いなクラシックなのであった。なんで?


3.長谷寺

まだまだ時間はあるので、お次は長谷寺を。近鉄の大和高田駅に戻り、伊勢方面の電車で長谷寺駅まで

018 長谷寺駅019 マスクする狸

ほとんどの人が車で向かうせいか、駅前は寂しい!!
駅からは階段を下っていって、お寺に行くのに再び登る経路となるので、往復を考えるとけっこう辛い道のりなのである
家の前にある狸はコロナ対策なのか、花粉症なのか

021 長谷寺023 仁王門

そして、いよいよ長谷寺。駅前は寂しくとも、お寺のなかは人で溢れている。それでも清水寺よりはマシ

026 参道045 参道
左が登廊の出発点。右が登廊の終点

034 参道の桜035 舞台の下のしゃくやく
桜はしだれ桜が満開。地味にしゃくやくの花も咲いている

長谷寺は、天武天皇の代、686年道明上人が創建し、聖武天皇の勅命で727年得道上人御本尊の十一面観世音菩薩(重要文化財)を祀ったとされる(727年の勅命は正史になく、真偽不明のよう)
ただ徳道上人当時の観音信仰に大きな影響力を持った高僧で、かの西国三十三所巡り」の観音霊場を最初に唱えたと言われ、「長谷詣(はせもうで)」が全国に定着するに至る。『源氏物語』『枕草子』などの古典文学にも登場する「花の御寺」として、古くから親しまれてきたのだ

038 舞台からの光景

舞台からの見下ろしは絶景なり!!!
十一面観世音菩薩は公開されていて、無料(そもそも拝観料500円いるけど)で外から拝むことはできるが、特別拝観料800円で身近まで近づける
入るときには、結縁(帰依)の証として五色線を左手に巻き、お香の灰を手に塗り込む。そして、菩薩の脚に紙越しに触れて、各々がお願いをする
外から見たときにも巨大なのだけど、真下から見上げた迫力は実物大ロボットのごとしだ。もちろん、威厳は比較できないものである
十一面観音千手観音が千の手で様々な人に救いの手を差し伸べるように、11の顔をもって様々な姿で人々の前に現れ、様々な功徳を施す。周囲には11の相に、従える神将が描かれて、天井や壁にも鬼を退ける光景が描かれていた
この御本尊は何度も焼失しているらしく、現在は8代目室町後期の1538年に作られたものだ

鎌倉の長谷寺にも十一面観音は祀られていて、奈良の観音と同じ楠(くすのき)の木から作られたものが、祈祷の後に海へ流され(なんで流したし)、鎌倉へ漂着したとされる。そちらの実際の創建については分からないが、鎌倉のほうが「新長谷寺」と認識されたことは間違いない

047 五重塔

五重塔は見かけは歴史があるような感じだが、実は昭和の建築!!
これはこれで、古代の技術を残してきた宮大工の凄さを感じる


さすがに花見もこれが最後。階段の上り下りでくたくたになったけど、行った甲斐はあった。舞台の迫力は清水寺に劣らないし、歴史的由緒もある割に観光客は少ない。じっくり見て回れる、穴場の名刹といえよう
暖かくなってきたし、花粉症が止んだら、他府県へも巡っていきたい




【京都人による京都観光】玉水で花見

しばらく続いた春の雨も止み、今週はお天気の見通し
見に行くなら今でしょ!、とまだ行ってなかった桜の名所へ出かけた


1.玉川堤の桜

場所は、京都と奈良の県境に近い、京都府綴喜郡井手町の玉川湧き水も豊富なことから、玉水の名がついたという

1 玉川2 玉川

桜の美しさもさることながら、川にゴミ一つ落ちていない!
住民が積極的に参加しないと、ここまでキレイな景観は保てない。観光客もそれが伝わるから、何も残さずに帰るという好循環が生まれている
人口や街の性格もあるのだけれど、京都市内ではなかなかこうは行かないのだ

6 玉川015


川沿いには短歌や俳句が書かれた短冊がかけられていて、紀貫之藤原定家といった古代の歌人も歌碑も設けられている
「玉水」の景勝地としての歴史は古く、天平年間で大臣を務めた橘諸兄(もろえ)が、この地に邸宅を構えて「井手大臣」と呼ばれた。というのも、この玉川一帯に山吹の花を植え、聖武天皇の行幸を仰いで宴会、歌会を開いたという

歌碑にも

紀貫之
音にきく 井手の山吹 みつれども 蛙の声は 変わらざりけり   

詠み人知らず
かはづ鳴く るでの山吹 散りにけり 花のさかりに あはましものを

藤原定家   
いつしかも 都の人に いひづてむ 井手の山吹 今ぞ盛りと   

と、玉水というと、「山吹」の花と、蛙(かはづ)がキーワード。古代では橘諸兄の植えた山吹の花が咲き誇っていたのだろう

044 桜と山吹

が多く植えられるようになったのは、1953年の水害から復興する過程であり、今は500本のソメイヨシノによる桜並木が作られている
山吹の花もその下でひっそりと咲いていて、桜が散る頃にこちらが満開になるようだ
歩いても歩いても、途切れず桜が続き、眼が眼福を越えて飽食になってしまった(笑)


2.宮本水車場

032 水車記念碑

井手町では、玉川を引き込んだ水車で、牡蠣を砕いて顔料作りや発電にも利用されていた。それが昭和28年の水害で破壊され、復興の過程で地形すら変わってしまった
この水車はかつての働きを顕彰のために復元したもので、本来は街の象徴になるほどの数と存在感があったに違いない

水車の近くには、旧字体で書かれた“漢文”による碑文が残されている。宮本家の人が政府の認可を受けて使っていたから、宮本水車場と呼ばれていたようだ


3.橘諸江公旧跡

玉川から宮本水車場跡を通り抜けていくと、竹林が見えてくる

037 橘旧邸へ039 橘旧邸へ

橘諸江公旧跡は、道路から竹林に入っていく道を入っていく
ちなみに「旧跡」とは、有名な建物や事件があった場所を差す。今は竹林だが、このあたりに別荘があり、聖武天皇の行幸もあったのだろう

040 橘旧邸へ042 橘諸兄公旧跡

建物は残っていない代わりに、大きな石碑に橘公の墓まで設けられていた。橘諸兄は、井手大臣と言われたように、井手町の寺跡は彼によって創建されたものが多い
井手町の人たちにとって、街を作り上げた偉人であり、立派な石碑と清潔に管理された空間に郷土愛を感じた


4.蛙塚

帰りは玉川から離れてちょいと寄り道

048 カエル塚

幼稚園の裏手に、蛙塚なるものが作られていた。湧き水の多い玉水では、それが旅人の喉を癒やし、歌にが登場する由縁にもなっているとか。丘には玉井寺というお寺があったようで、その境内にあった井戸(=玉井)が元になっているようだ
そういえば、南北朝時代の騒乱時、後醍醐天皇が立ち寄ったという碑文が玉川に残っていた
いつの時代の人々にも、恵みをもたらしてきた花の名所なのである




【京都人による京都観光】南禅寺・岡崎神社

4日にアパートからてくてくと徒歩で、岡崎神社を目指す。山科から蹴上を通って入ると、琵琶湖疏水、南禅寺が近いので、寄っていくことに
「金地院庭園」にも入ったけど、以前行ったことがあったので割愛

関連記事 【京都人による京都観光】下鴨神社・南禅寺金地院


1.南禅寺三門

三門南禅寺を代表する建築物。1628年藤堂高虎大坂の夏の陣で亡くなった将兵を弔うために寄進した
一大名が建築したにしても、スケールの大きい山門だ

022 三門025 三門2

有名な絶景かな!絶景かな!の言葉は、歌舞伎の演目『楼門五三桐』で、石川五右衛門がこの三門(南禅寺山門)に登って放った台詞。しかし、実際に三門が建ったのは石川五右衛門の死後30年経ってからなので、史実を無視した創作である
ただ、三門の二階にも登れて、京都を一望できるのは確かで、拝観料を払えば登ることができる

026 法堂

三門の奥にあるのが、法堂で、さらに奥に国宝の方丈がある。が、今回はこのあと、岡崎神社→古本探しに行くので割愛


2.水路閣

南禅寺でもっとも有名なのは、水路閣ではなかろうか

027 水路閣028 水路閣2

京都を舞台にした2時間ドラマで、よくロケに使われた場所。ここから急に京都駅へ移って、「地理的に無理やろ」と突っ込むまでが京都人のテンプレである

030 水路閣3

「水路閣」、琵琶湖疏水を通すために作られたもので、本来は南禅院の南にトンネルを通して流す予定が、南禅寺側の反対で水路橋を作ることとなった。これにも京都の景観を破壊すると反発があったが、建設当初から人だかりができたほどの評判となったらしい
南禅寺は維新政府の方針で多くの寺領を失いその跡には邸宅と庭園が建つようになったが、そうした多くの庭園の水源として、水路閣は役立っているそうだ


3.南禅院

南禅院は亀山天皇が出家して法皇となる際に(1289年)、離宮を寄進して禅寺とした場所で、南禅寺発祥の地である

038 南禅院5031 南禅院

金地院庭園もそうだったけど、冬の曇りでも透き通った池の水面苔に覆われた島の構図が美しい

033 南禅院3035 南禅院4

亀山天皇の分骨された御廟と、その隣に元の渡来僧・一山一寧の墓がもうけられている。一山一寧は元寇の後にフビライの跡を継いだ成宗(テムル)によって日本への使者として渡日し、鎌倉幕府によって捕縛される
しかし大師号を持ち禅僧としての徳望から、多くの者が赦免を申し出て、鎌倉の草庵へと移り、ときの執権・北条貞時も帰依したという
その後はいくつもの名刹の住職となって立て直しに尽力、後宇多天皇の懇請で上洛し南禅寺の三世(3代目住職)になったとか
そんな流転を重ねて、日本に影響を与えた高僧がいたのだ


4.岡崎神社

南禅寺から、ぼちぼち歩いて岡崎神社に到着したが……

049 岡崎神社

この画像の下は、とんでもない人だかり!
しかも、参拝者の行列が通りから数ブロック続くという盛況ぶりで、これはちょっと付き合うのは無理というか
ウサギにちなむ神社が京都に少ないから、ここに集中したということだろう。しかもテレビの中継とかも多かったし

056 うさぎの石像057 岡崎神社2

とりあえず、らしい写真だけ撮って退散することとした
もう少し、日が過ぎてから行けば良かった


岡崎神社はちゃんと見れなかったが、いろんな庭園を見られて大満足。どうせなら本堂の方丈も見れば良かったかな
水路閣のところに触れたように、南禅寺の周囲には旧細川家など豪壮な邸宅が多く、今では企業のゲストハウスとして使われているようだ。歩くだけでそのゴージャスさが分かる




2023年の初詣は、7年ぶりの日吉大社

前回行ったのが、申年(さるどし)の2016年今年はうさぎ年だけど、京都の岡崎神社は家族それぞれが知り合いと行くことになって、日吉大社になったのである(苦笑)


1.坂本叡山口駅

大津市の坂本へは、京阪電鉄で行く。浜大津駅石山坂本線に乗り替え、坂本叡山口駅
元は「坂本駅」だったのが、観光誘致のために2018年に改名したようで、京都の叡山電鉄の「八瀬比叡山口駅」に対応してだそうだ

01 坂本駅

見た目もだいぶ変わって、なんだか現代美術みたいになっている

14 駅からの奥宮

今回は画像の山の中腹にある八王子山頂の“奥宮”=「三宮」(みぐう)を目指す


2.鳥居

02 日吉大社

7年前はガラケーで、ぼんやり画質になってしまったが、今回はこのとおり。通信携帯もここまで進歩しているのだ

03 ウサギの看板 04 猿のぬいぐるみ

猿の神社だけど、干支にちなんだ、うさぎの立て札がかかっている
しかし、鳥居の横に建てられた竹には、ちゃんと猿のぬいぐるみがくくりつけられているのだった

参考記事 2016初詣は日吉大社


3.西本宮


東本宮の写真はうっかり撮り忘れていたので、前回同様に西本宮のみ(汗

05 西本宮 仁王門
08 門を支える猿 仁王門の四隅にちょこんと屋根を支えるポーズのお猿さんが!

日吉大社は仏教が優勢になった中世に延暦寺の影響下に入るが、明治維新の神仏分離令の際には、吉田神社の神官たちとともに延暦寺へ独立を要求し、仏像や経典を焼くなどの暴挙に出て、廃仏毀釈運動の魁となったとか
その煽りで、東宮に祀られた大己貴神(大物主神)と西宮に祀られた大山咋神を入れ替えて、西宮官幣大社にして東宮を格下にする措置がとられたが、東宮も官幣大社になったことで祭神も元に戻る。時代によって、東西どっちが上か下か変遷が激しく、ややこしい

07 西本宮本社

コロナにつき、しめ縄は柱にくくられ、行列を恐れてか、西宮では本来の位置で拝むこともできなかった
ちなみに東宮では、しめ縄はくくられていたが、普通に拝むことはできた


4.神輿庫

10 江戸時代の神輿 11 江戸時代の神輿2

「神輿庫」には、祭りで使われた江戸時代の神輿が飾られていた
平安時代に延暦寺の僧兵が強訴のさいに使っていた神輿は、こうした日吉大社のもの。「山王権現」の権威をバックにしていたのだ
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【京都人による京都観光】清水寺の夜間特別拝観

先月末、家族と清水寺の夜間拝観へ出かけた。ちょうど最終日で、平日夜ながら人混みもそれなりに。駐車場には観光バスが何台も並んでいて、コロナが嘘のような状態である


01 大谷本廟
こちらは浄土真宗のお墓がある大谷本廟親鸞上人の墓所ともなっている場所にもライトアップがされていた

02 五条坂
清水寺までの坂道、「五条坂」からもライトアップされた三重塔と放たれたレーザービームが見える

011 仁王門 012 瑞雲青龍
左が「仁王門」 右は「西門」

013 清水三重塔 有名な三重塔

そういえば、近くに住んでいるせいか、清水寺のことをちゃんと記事にしていなかった
その創建は778年興福寺の僧・賢心(後の延鎮)が、音羽山の”金色の水流”を見つけ、そこで行叡居士(ぎょうえいこじ)という老いた修行者に出会う。彼に託された霊木から千手観音を彫り、それを本尊としたのが始まり
その2年後、初代征夷大将軍となる坂上田村麻呂妻・高子の病気のために鹿の生き血を求めて狩りに来た際、賢心に不殺生を説かれ、自身の屋敷を本堂として寄進した。そして、蝦夷征伐を命じられた際には、平定参拝を行ったという
798年、その田村麻呂の後援もあって、大伽藍をもつにいたる

024 音羽の滝
舞台から見下ろした音羽の滝

清水寺の山号は音羽山で、音羽山清水寺が正式名称。山科には東のほうにも”音羽山”があり、比叡山の西の麓にも”音羽谷”の地名が残る。奈良にも音羽山(観音寺)があり、そこが発祥の気もする

027 清水の舞台から見下ろし 025 阿弥陀堂
「阿弥陀堂」(左)と「奥の院」(右)

開山の賢心(延鎮)が興福寺の僧であったことから、中世から奈良の興福寺に属し、南都北嶺の争いの前線として、1165年には比叡山の僧兵による焼き討ちを受けた
応仁の乱に巻き込まれ、再び焼失したところ、勧進聖とよばれた時宗の願阿弥が再建事業に乗り出し、念仏の本願成就の地と見なされるようになった
豊臣秀吉に130石の寺領を安堵され、江戸幕府もそれを引き継ぎ徳川家光により寄進、再建が果たされたそうだ

034 京都の夜景 036 三重塔も逆光

参道から見た夜景や三重塔の塔が美しい。しかし、光で画質が……まだスマホを使いこなせておりませぬ

041 下から舞台 042 下から舞台
下から見上げた舞台

044 池に映る紅葉 045 池に映る紅葉
池に映る紅葉。枯れ切っているのが悲しいが、それでも幻想的


保津峡にいったあと、雨の日を挟んだことでかなり葉の落ちた木が多かった。気温もすっかり冬モードで、紅葉狩りとしてはシーズンを逃した感は強い
とはいえ、いついけば良かったかというと、きれいに染まった時期というのもなかった気がするので、今年は不作だったというのが本当のところだと思う
といっても、保津峡も清水寺も元の景観がガチでいいので、行った甲斐はあった




【京都人による京都観光】鳥居本・清凉寺

保津峡から峠を越えて、愛宕山の麓にある鳥居本へ下りる。2つの念仏寺で紅葉狩り


1.愛宕念仏寺

府道50号線から鳥居本へ出たところで、石仏で有名な愛宕念仏寺を目指す
途中、猿の群れが高い木の上で木の実を食べていて、なんだか嵐山公園のような様相に

051 愛宕寺

愛宕念仏寺の創建は、まだ平安京ができる前の天平年間で、766年称徳天皇により山城国愛宕郡初めての寺として名付けられた
真言宗の末寺とだったが、醍醐天皇の命で天台宗の千観内供(伝燈大法師)が再建したときに天台宗となり、千観が念仏上人と呼ばれていたことから、「愛宕念仏寺」と改められたとか
太平洋戦争中に管理者がいなくなり、ジェーン台風の被害で1950年に廃寺となったが、比叡山延暦寺から再建を命じられた西村公朝が復興に尽くした

062 愛宕念仏寺本堂  064 本堂からの石仏
本堂

このお寺に多くの石仏が並ぶのは、1980年に一般人が自ら羅漢像を彫る活動が始まったからで、石仏の後ろには作り手の名が記されている。500体目標が10年目で1200体になってしまったとか
2007年に亡くなられた西村公朝・前住職仏師(仏像の職人)として有名で、きらびやかな虚空蔵菩薩ふれ愛観音が境内に安置されている。東京藝術大学の教授になったり、2000年に清水寺で始まった青龍会を監修したり、長渕剛と交流があったりとかなり幅広く活動された方。そのお寺が今もにぎやかなのも納得

073 モアイ石仏 

羅漢像にはユニークものも多く、写真のようにモアイ像(!)ボクシンググローブをはめた羅漢髪型がリーゼントになった羅漢など、一般人が楽しんで盛り上げている


2.化野念仏寺

温度の上げ下げが激しいせいか、紅葉は枯れたり青かったりとまばらなのだけど

077 あだしの念仏寺の入り口 079 あやしのの紅葉

化野(あだしの)念仏寺の紅葉は美しい!
化野念仏寺は、空海上人が都で野ざらしになった死体を弔うために、811年に千体の石仏を沈め、五智如来を祀る五智山如来寺として始まった。その後、法然上人が念仏道場として、念仏寺となったという

083 西の川原の紅葉 084 仏舎利塔

境内なかで、ひときわ目立つのが仏舎利を守る仏舎利塔(ストゥーパ)。本場のインドから専門家を呼び、世界文化遺産であるサン・チーの塔を模して1969年に建立された。タイに旅行したときにも、こういう石造の寺院が一般的であり、東南アジアからインドには、こういった宗教建築は珍しくない
宗教を通したアジアのつながりを感じさせる建造物だ

092 角倉素庵の墓 096 竹林

左上の立て札には、角倉了以の息子・素庵の墓のことが。家の菩提寺は他にあるのだけど、不治の病にかかったため、この地を選んだとか
冬直前とした竹林の向こうには、六面六体地蔵があるけど、そこは割愛



3.鳥居本の街並み

049 愛宕

鳥居本の由来は、愛宕山の愛宕神社の鳥居があるから。戦前の古い街並みを残していることから、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている
コロナゆえか、テナントの入ってない建物が多かったが、人が少ない分、風情が守られてる気はする

075 鳥居本の通り 076 鮮やかな紅葉

街並み保存館には、電気とガスが通る前のレトロな生活空間が再現されていて、母親は懐かしがっていた


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【京都人による京都観光】保津峡

日曜日は家族で保津峡へ紅葉狩りに出かけた
JR山陰線で保津峡駅まで行き、そこから歩いて嵐山を目指すコース


1.保津峡駅

電車を降りたところから絶景!

008 駅からの桂川012 外から見た保津峡駅

保津峡の大堰川~桂川は、平安時代から木材の輸送で利用されてはいたが、それをさらに飛躍的に発展させたのが京都の豪商・角倉了以高瀬川の開削で有名な彼は、この保津峡においても大規模な改修工事を行い、船が通れるように川底の岩を砕き、滝になっている場所も均して、北陸の物品が上方に運べるようにした
水運事業そのものは、明治になって陸上交通が発展するうちに廃れていったが、この緩やかな川の流れを利用した「保津峡下りが観光の目玉となり、夏目漱石の『虞美人草』など多くの文学作品に登場し、現代に至るまで親しまれている
人為と自然が絶妙に混ざりあったのが保津峡なのだ

011 道から

川でなく、徒歩で歩いて行くとあまり川が拝めないの難。紅葉もいっせいにという場所はなかったけれど(苦笑)、まばらなのが造成されていない森ってもんでしょう


2.トロッコ保津峡駅

川下りとともに有名なのが、ゆっくり進行で風景を楽しめるトロッコ列車

019 トロッコ保津峡駅020 トロッコ保津峡駅

もともとは本線だったところ、輸送力強化から1989年に新しい路線が作られたために廃線となっていたが、1991年に保津峡の美しい景観を活用しようとJR西日本の子会社に観光用路線として運用されるようになった

026 桂川032 桂川

川が曲がるところでようやく、その姿が見えてきた。流れがゆるやかで川底も深いから色は濃い緑で、よくみるとが列を作っている


3.芭蕉の句碑

ここから桂川を離れて、峠を登っていく

035 小川036 芭蕉に区

落合橋(?)を渡ると、脇道に芭蕉の句碑のある場所が。「清瀧や 波に散り込む 青松葉」
かなり晩年の作品で、青松葉は芭蕉自身。滝から落ちる川の水のように美しく散れたら、という心境かな?
近くには廃屋となった売店や倉庫が立ち並び、兵どもが夢の跡といったところ

040 橋と紅葉041 トロッコの橋

見下ろした風景も美しい
次回は戦前の面影を残す鳥居本の通りから


次回 【京都人による京都観光】鳥居本・清凉寺


↑工藤芝蘭子は松尾芭蕉の弟子・向井去来が使っていた落柿舎の十一代庵主となった人で、相場師から私財を投じて再建に尽くした異端の俳人



【ぶらり滋賀観光】賤ヶ岳の下り~木ノ本

賤ヶ岳を登ったあとは、木ノ本のほうで下山する


1.賤ヶ岳から下山

賤ヶ岳の慰霊碑 ロープウェイもある
左は、賤ヶ岳の戦いの慰霊碑小さい石仏が多数祀られている
右は木ノ本方面へ降りる賤ヶ岳リフト。スキー場のようにちょんと腰掛けて降りていく。昨年作られたそうで、HPをみると恋人の聖地に認定されているそうな……おひとりさまの管理人には縁遠い話ですな

木之本へ下山山道とロープウェイすれすれ

普通の登山道をてくてくと。例の新設されたリフトも影響したのか、緩い坂がジグザグになっているので、余呉湖側より登りやすいはず。カジュアルなハイキングを意識しているようだ
ただ、その途上には、そのリフトの通り道に(苦笑)。誰も乗っていないときは大丈夫だが、足の長い人のときはスレスレというか当たりそう

下のリフトには、大学生だろうか? 若い女性のスタッフが管理していて、初々しかった


2.伊香具神社

下に降りてから、山沿いに歩いていくと伊香具神社に出た

伊香具神社伊香具神社の歌碑


真ん中にキレイな祭殿があるようで、実は本殿のほうは台風の被害が残っているらしく、リフトのところには募金箱が置かれていた
伊香具神社は、この地が未開の沼沢地だったときに“伊香津臣命”が開拓をはじめ、子孫に永代まで土地を守るように言い渡し、天武天皇の時代に創建されたとか。土地の開拓者を祀った神社なのだ
9世紀には朝廷から”名神大社”と認められ、菅原道真の法華経などの手写が収められ、足利尊氏から200石を寄進され祈祷を求められるなど、地域外にも影響力を持っていたらしい
しかし、賤ヶ岳の戦いに巻き込まれて焼失し、明治になってようやく社格を回復し、現在にいたるそうだ

左の歌碑は、「思へども 身をしわけねば めかれせぬ 雪のつもるぞ わが心なる」で、伊勢物語が原典。在原業平とどういう縁があるのかは謎


3.余呉川

伊香具神社から木ノ本を目指して歩いていると、

余呉川余呉川2


余呉川に出た。余呉川は、余呉湖から琵琶湖に注ぐ川……ではない
福井県境の椿坂峠が源流で、そのまま琵琶湖に注いでいるので、直接は関係なかったのだが、洪水に悩まされたことから1956年に余呉湖に通じる用水路を作って、湖を天然のダムにする構想が起こり、1959年に完成した。用水路とともに、湖から放水するトンネルも掘られて、水量を調整している


4.木之本地蔵

木之本まで来たのは、平和堂で惣菜を買いたかったのもあるが、「木之本地蔵」で日帰りの旅を終わらせたかったから

木之本地蔵木之本地蔵 (2)

木之本地蔵院は、もともと本尊が難波浦(なにわのうら、現・大阪)に流れ着き、開山には2つの説があるとか
ひとつは薬師寺の僧聖武天皇の命で、北国へ行こうとしたところ、柳の下で本尊が動かなくなり、ここに寺を建立することになった説。「柳の下」から転じて地名も「木之本」になった
もうひとつは、文武天皇が北陸の白山に参詣した途上、この地に紫雲が立ち上るをみて、難波の金光寺をここに移した説
以降、賤ヶ岳の戦いで秀吉の本陣が置かれ、その戦いに巻き込まれて焼失するまで殷賑を極め、豊臣秀頼によって再建された

あふれるカエル2

有名な”お地蔵さん”本尊の3倍に建てられた銅像で、1894年(明治27年)に建立太平洋戦争の際には、供出の危機に陥ったが、住職と東條英機夫人・勝子の嘆願により免れたとか
地蔵の周囲には、ちいさいカエルの置物がびっしり!
身代わり蛙として、罪やら不運やら背負ってくれるらしい。お値段は千円なので、ご遠慮した

阿弥陀堂

本堂の横の道からは、阿弥陀堂にいたる。「明治天皇在所」もあって、皇室ゆかりの地であることも地蔵の供出を免れた要因であることだろう


木ノ本駅

「木ノ本駅」から京都・山科へお帰り。余呉駅と違って、観光への意識が違う!
やはり、仏閣の存在というのが、街の基盤ではないかと思い知ったところだ。コンビニや平和堂があるもの、もとを正せばそういうところにつながっていると思う


前回 【ぶらり滋賀観光】余呉湖・賤ヶ岳

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