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『敗戦真相記』 永野護

きな臭い人でもあるらしい


敗戦真相記―予告されていた平成日本の没落
永野 護
バジリコ
売り上げランキング: 347,649


日本はなぜ負けたのか、これからどうすればいいのか。敗戦直後に一経済人が語った戦後日本の出発点
著者はFSSの作者ではなく(笑)、渋沢栄一の秘書をしたのを皮切りに証券会社などの取締役を歴任、戦中・戦後に衆議院議員となり、第二次岸内閣で運輸大臣に就任した政財界の要人だ。弟たちも政財界で活躍したことから、「永野兄弟」の長兄として名高かったという
本書に元になったのは、なんと1945年9月に行われた講演!
終戦直後の混乱冷めやらぬ間に、冷静に敗戦の過程を分析し、ポツダム宣言から想像される日本の将来を驚くべき正確さで予見している

まず敗戦の原因に関しては、国策の基本理念からして間違っていたと指摘
自給自足主義を目指したのが間違いで、満州国で立派な近代都市を作っても、現地民の人人心を得ることはなかった。永野も日本語が上手い中国人の知人から、「ロシアと戦争になったら、ロシアにつくよ」と言われ絶句したという
いかに名分を語ろうと、植民地である以上は本国の利益が第一であり、現地人の福祉は二の次以下になるのだ
フィリピンにおいても、山下将軍が「フィリピン人の協力をまったく得られなかった」と語り、アメリカへつくものが多かったという。日本がアジアの解放に貢献した云々は、敗戦直後に否定されていたのである
戦争指導においても、陸海軍が様々な局面で張り合って、松根油のために松の木を争ってしまう。総力戦とはほど遠い状況証拠がいくつも示されて、ため息が出る
極めつけは、トロツキーの論文『噴火山上の日本』の引用。「日清戦争は日本が支那に勝ったのではない。腐敗せる清朝に勝ったに過ぎない。日露戦争は日本がロシアに勝ったのではない。腐敗せるロマノフ王朝に勝ったに過ぎない。要するに、これは一つの後進国が、さらに一層遅れた後進国に対する勝利に過ぎない」「日本は日清日露の成功に思い上がり、東洋制覇の事業に手を出し始めたが、これは早晩、アメリカかソビエトロシアに対する衝突を招くだろう。日本の生産と科学は果たしてこの大戦争に用意ができているかどうか。日本国民の神秘主義と精神論は、この大戦争によって冷酷にテストされるに違いない」

焼け野原となった日本については、ポツダム宣言から国の建て直しを考える
日本は武装解除されたが、国家が分断されたドイツよりはマシ。むしろ、国家財政の過半をもっていった軍部がいなくなったことで、国民の教育と福祉に意を払えるとする
戦争犯罪人については、アメリカはパールハーバーの開戦責任にこだわるのは仕方なく、日本国民と軍部を分ける発想に注目。無条件降伏ではないことを強調する
進駐軍の方針が他国に戦争を仕掛ける軍勢力の除去と民主主義の確立を条件とするのなら、永野は日本にとって悪くない話と考えているのだ。敗戦革命的な発想自由主義者の経済人から飛び出すのは意外だ
ポツダム宣言の条文を読み直して行くと、日本国憲法の下地になっていることが分かる。良かれ悪しかれ連合軍の政策が元になっているのだ
日本が純粋な農業国でやっていくのでは、江戸時代の人口三千万人しか養えない。肥料も海外からの輸入が必要なので、必ず外国と付き合わざる得ない
日本には人が余っているので、単純な工業製品ではなく複雑な工程を経る時計などの精密機械の製造を目指すべきとする。高付加価値の製品を輸出して、物のない日本は必要なものを輸入するしかない。高付加価値産品の輸出は今でも求められていることで、現代日本の出発点は焼け野原の現実にあったのだ
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『吉田茂とその時代』 下巻 ジョン・ダワー

戦後日本の原点


吉田茂とその時代(下) (中公文庫)
ジョン・ダワー
中央公論新社 (2014-10-23)
売り上げランキング: 381,347


敗戦から講和条約、最後の外遊まで、政治家としての吉田茂の足跡を辿る
戦後、吉田は東久邇宮内閣、幣原内閣の外相を務め、1946年には鳩山一郎の公職追放を受けて自由党の総裁に。選挙を経ない貴族院議員の身で内閣総理大臣に就任する
GHQとの折衝が国内政治の大きなウェイトを占めたゆえに、外務省出身者が台頭したのだが、吉田はGHQの方針にことごとく反対し、政治家としてはその改革のスピードを落とすように努力する
保守主義者として、新憲法制定、農地改革、財閥解体、教育改革にも抵抗し、巧みにその無力化を計った。これでよくマッカーサーに嫌われなかったのが不思議なほどである
著者は財閥解体の中途半端さが、日本的な系列の関係、企業別労働組合を生んだと批判する
とはいえ、GHQが強硬に主張した政策には、最終的にはしおらしく従い、経済優先の『従属的独立』に成功した。内政面で吉田は開明的とはいえず、GHQのごり押しが日本社会に寄与した部分も多いそうだ(すこしバイアスは感じるけど)

保守主義者を標榜した吉田だったが、鳩山一郎など他の保守政治家とは違い、再軍備に対してだけは慎重に取り扱った
新憲法が制定されて九条の解釈が国会で問題となったときには、「多くの戦争は自衛を名目に始まっている」と自衛戦争の権利すら放棄共産党の野坂参三「戦争にも正邪があるのでは」と問いただされる場面すらあった。非武装中立論は、軍国主義払拭のための吉田の政治姿勢に端を発しているのだ
吉田からすると、共産主義は内部から始まるという想像があり、軍隊がその温床になると考えていた。近衛上奏文に連なる発想である
朝鮮戦争の危機が迫り「逆コース」の政策転換があったときも、アメリカの再軍備要求には否定的で、国内の治安維持のための警察予備隊7万人でスタートした
吉田は国際社会で独立を承認されるためには、対外的に軍国主義の復活を印象づけてはならないという考えがあり、国内では反共でも共産主義諸国の反応に留意した。また、大規模な軍隊を持つと日本経済への負担を増やし、朝鮮戦争に動員される危険を避ける現実的判断があった
とはいえ、再軍備が在日米軍の撤兵につながることから、経済と外交を睨んだ漸進的な拡張を視野に入れていた
こうした慎重な姿勢が、サンフランシスコ講和会議での国際社会への復帰につながり、ひいては日本の経済大国化につながっていく

戦前には典型的な帝国主義者として、中国への偏見を隠さなかった吉田だが、戦後はその「伝統外交」の価値観を引きずりつつもイデオロギーに振り回されなかった
イギリスが1950年に大陸中国を承認したように(香港問題があるからだが)、共産党の北京政府との関係修復を模索する。吉田は中国がソ連と一体となって第三次世界大戦を起こすという発想に懐疑的で、中国がソ連の下風に立ち続けることはないと予見していた
しかし朝鮮戦争の勃発からアメリカは軍国主義的な冷戦政策へ転換し、台湾政府を正統として「反共の砦」とすることを決意。日本もその戦略に巻き込まれていく
なぜアメリカはベトナム戦争に到ったのかを課題とする著者にとって、日本の「従属的独立」による在日米軍基地は、冷戦のアジア政策を代表する存在
ただし日本視点に立てば、冷戦の情勢を生かして防衛を肩代わりさせ、経済協力で東南アジアの共産化を防ぐ吉田の構想は、今日の繁栄を築いたものと評価できるようだ
が、平和憲法と「従属的独立」の枠組みは、当初から政治的な解釈改憲に迫られていた。昨今の安保法制も、吉田路線の延長で生じた問題なのである


前巻 『吉田茂とその時代』 上巻

宰相吉田茂 (中公クラシックス (J31))
高坂 正尭
中央公論新社
売り上げランキング: 217,105
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『吉田茂とその時代』 上巻 ジョン・ダワー

帝国主義者のど真ん中


吉田茂とその時代(上) (中公文庫)
ジョン・ダワー
中央公論新社 (2014-10-23)
売り上げランキング: 360,006


戦後のワンマン宰相・吉田茂は、いかなる時代を生きて影響を振るったのか。日米関係研究の権威がその業績と思想を読み解く
上巻はその生い立ちから、外交官時代、戦中の反東条運動まで
著者は『敗北を抱きしめて』で有名なジョン・ダワーで、本書は1970年代の研究をもとに欧米の読者向けに書かれたもので、序文では「日本の読者には常識的なことかもしれないが」と断られている
しかし、それはまったくの謙遜であり、戦前の記憶を遺失した日本人にこそ、読むべき本
海外でも日本の戦前と戦後を断絶したものと捉えられているが、敗戦してなお「昭和」という年号を維持したことが、その継続を色濃く象徴していて、吉田茂という伝統的な保守主義者こそがそれを証明する存在なのだ

吉田茂自由民権運動の闘士・竹内綱の五男として生まれ、父の投獄後にその親友・吉田健三のもとで育てられる。健三は横浜の貿易商であり、40歳で養父が死んだとき、11歳で莫大な遺産を継いだ
1906年に東京帝国大学法科大学から外務省に入省。同期の首席には、広田弘毅がいた
吉田は外交官として多くの期間を中国で過ごした
張作霖政権に対し、排日新聞の販売停止、長城以南への侵攻禁止、日本製品の不買運動の取り締まりなど、関東軍もびっくりの干渉を行う。その一方で、中国南部に権益を持つイギリスへの協調を探り、日英同盟の復活を目論んだ
欧米列強との協調しつつの帝国主義こそが戦前の吉田茂で、自由主義といっても19世紀的な自由主義者なのだ
日中戦争前夜には、同期の広田弘毅に請われ駐英大使となる。ロンドンでは同じ古い自由主義者(帝国主義者)を訪ね日英協調を目指すが、日本の世論を極めて楽観的に語り、本国政府との見解の齟齬を見透かされて、まったく信用されなかった
イギリス側にも古い帝国主義に惹かれる者は多かったが、日中戦争が深刻化し日本国内が好戦的になったこと、アメリカが民族自決、門戸開放の「道義外交」にこだわり、それを無視しがたいことから、お流れとなる
吉田は中国人に近代国家を管理する能力がないと見下していて、その民族主義の昂揚を認めないことは致命的だった

太平戦争前夜には、外務省から退官した身ながら、天皇の重臣・牧野伸顕(大久保利通の息子)の娘と結婚していたことから、その影響力を残していて駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーに対し、積極的に日米関係の改善を働きかけた
しかし、例によって楽観的な見通しを語ることから、交渉相手からは信用されない。外交官としての吉田は、執念以外に取り柄がなかった
そして、開戦してからは反東条運動のいわゆる「ヨハンセン・グループに入り、新内閣のもとでの終戦を目指す
グループのメンバーは、近衛文麿、若槻礼次郎といった首相経験者、岳父・牧野伸顕、吉田と同じ古い自由主義者・鳩山一郎真崎甚三郎・真崎勝次兄弟、小畑敏四郎といった2・26事件に関与した皇道派軍人、終戦の総理となる鈴木貫太郎などなど
倒閣後に宇垣一成と首相として、陸相に皇道派を据えて統制派を一掃し、終戦への道筋をつけるという、陸軍内のクーデターを狙った構想だった
しかし、実際の東条内閣退陣につながる影響力はなく、鈴木貫太郎の首相就任にも関わらなかった
唯一、近衛上奏文事件だけが実行され、それをきっかけに吉田は憲兵に収監されることになる。近衛上奏文は、1945年2月に近衛文麿が天皇に提出した文書で、戦時体制の統制経済は日本の赤化を勧めるものであり、その戦争の継続と敗戦は最終的には共産主義者に利し、国体を損ねると警告するものだった
従来から吉田は国際情勢における共産党の暗躍を重くみていて、日独伊防共協定も反共の観点からイギリスを説得しようとしたことがある。その陰謀論的な共産主義への警戒心は、後に日本版レッドパージを生むこととなる
ともあれ、吉田は反戦運動によって捕まることで、平和主義者としての勲章を手に入れて、戦後の飛躍につながっていくのだ。ただし、入牢直後には戦争遂行に協力すると“反省”していて、知り合いだった阿南惟幾の配慮によってその囚人生活は優雅だったという


次巻 『吉田茂とその時代』 下巻
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『瀬島龍三 参謀の昭和史』 保阪正康

ここまで自分を大きく見せるとは


瀬島龍三―参謀の昭和史 (文春文庫)
保阪 正康
文藝春秋
売り上げランキング: 27,066


戦時は大本営参謀、戦後は大手商社の役員、「総理の政治指南役」と言われた男の真実
初出は昭和62年(1987年)で、中曽根政権最後の年瀬島龍三は、第二次臨時行政調査会の委員として辣腕を振るっていた
本書では、戦争指導の負い目を背負い、シベリア抑留を耐え、戦後は商社で大成功という、『不毛地帯』で広がった瀬島のイメージをどこまでが真実か、ひとつひとつ検証していく
陸軍時代から上司の目を意識する組織人で、独自の持論を持たずにその時々のリーダーや風潮に乗る典型的な出世主義者。その保身術はシベリア抑留時代にも生きて、伊藤忠入社後は社長の引き立てでのし上がり、その人脈で政治の世界へも食い込んだ
「政治指南役」という名声のわりに、その実像は無思想のテクノラートであり、軍人というより官僚に近い。目に見える仕事の実績がほとんどなく、強いリーダーシップのもとで各方面の調整役を本領とする生粋の参謀なのである

『不毛地帯』をフィクションだと分かっていても、本書で暴かれる事実には驚く
あまり語られない大本営参謀時代には、大戦末期の台湾航空戦で「空母18隻撃沈」の誇大戦果を鵜呑みにし、それに疑義を挟む情報を握りつぶしていた
この台湾航空戦の誇大戦果に基づいて、フィリピン中心の防衛計画「凄一号作戦」=レイテ沖海戦に変更されていて、敗戦は必至の情勢とはいえ、数万人の命を左右した責任は重い
シベリアからの帰国後、瀬島が電報を送った情報参謀・堀栄三に告白したというから、まず真実なのだろう
連合艦隊の壊滅で本土決戦路線にシフトしたことから、瀬島は満州国へ転属となり、そこで敗戦を迎える
ソ連との停戦協定に立ち会うが、ここに歴史の闇がある。外務省がソ連との和平交渉において捕虜を「賠償として一部の労力を提供する」という案が存在したというのだ
もし、この案を前提に交渉されていたとすれば、官民60万人のシベリア抑留は日本とソ連の合意によることになってしまう。抑留問題を訴える全抑協は、真相の究明を瀬島に要求していた

*停戦交渉については、ソ連側の証言として元帥ワシレフスキーの「命令」が伝えられただけという話もある→『沈黙のファイル ー「瀬島龍三」とはなんだったのか』

伊藤忠への就職は、当時の女子社員並みの四等社員で、まったく期待されていなかった
戦後二人目の社長となる越後正一が、繊維専業から総合商社への脱皮を図るべく、国防産業への参入を決めたことで、ようやく瀬島は陽の目を見る
第一次FX商戦には関わらなかったものの、「自動防空警戒管制システム」(バッジシステム)を巡って、安価のヒューズ社を引き込み500億円の商戦に勝利する。勝利の裏には、大本営時代の人脈がものをいい、部下には防衛庁の天下り組を揃えていた
しかし、国防産業の癒着が問題視されるのを予想し、国防産業からの撤退を進言しており、ロッキード事件に巻き込まれることはなかった
業務部長に就任した後は、業務部を社内の参謀本部に改造し、縦割りの組織を業務部中心の集権体制に変革した。繊維商社の放埓さを正すことはできたものの、現場を知らない業務部社員が各所で軋轢を起こし、越後体制後は弊害に苦しんだそうだ

越後社長が退くに及んで、瀬島の権勢も低下。名誉職的に累進したものの、田中角栄、中曽根康弘の知遇を得たことで、行財政改革に関わる。鈴木善幸首相、中曽根行政管理庁長官のもと、「第二次臨時行政調査会」(第二臨調)の委員となり、85歳の土光敏夫を担いで各方面の調整に専念した
著者はこの「第二臨調」の在り方を、戦前に大政翼賛会を準備した「新体制準備会にたとえる。カリスマ的な人物を担ぎ、「危機」を鼓吹して立て続けに答申を出す。第二次近衛内閣の世論操縦にそっくりというのだ
実際、臨調のなかで瀬島は、中曽根を始めとする政治家との折衝に励み、政治から独立して大胆な提言するはずの「第三者の委員会」世論誘導の機関、首相を目指す中曽根の権力基盤へと変えてしまった
上司受けがいいだけではなく、部下の面倒見もいいという人心掌握の達人ではあるが、過去を糊塗する厚顔さは褒められたものではない。本書が出版された時期には、ずいぶん美化された記事や書籍が出回っていたようで、歴史に対する誠実さに欠けた人物といえよう


関連記事 『不毛時代』 第1巻
     『沈黙のファイル ー「瀬島龍三」とはなんだったのか』

大本営参謀の情報戦記―情報なき国家の悲劇 (文春文庫)
堀 栄三
文藝春秋
売り上げランキング: 14,024
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『「昭和天皇実録」の謎を解く』 半藤一利 保阪正康 御厨貴 磯田道史

大河のヒロインの旦那も、御養育担当候補だったとか


「昭和天皇実録」の謎を解く (文春新書)「昭和天皇実録」の謎を解く (文春新書)
(2015/03/20)
半藤 一利、御厨 貴 他

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昭和天皇はあのとき、何を思っていたのか。24年の月日をかけて編纂された『昭和天皇実録』を半藤一利らが徹底検証する
昨年8月に、61冊1万2千ページに及ぶ『昭和天皇実録(以下『実録』)が完成した。本書では半藤一利保阪正康が中心に気になる箇所をピックアップして、座談会形式で史実の裏付けられた出来事を語っていく
『実録』は112人のスタッフと13人ほどの執筆者で書かれたといわれ、天皇の戦争責任などに配慮した記述になっているものの、意外な参考資料までも“正史”として扱われていて、画期的な史料となっているようだ。座談会のメンバーも、自説が実証されたと喜ぶ場面が多い
東洋における歴史の叙述は、中国で皇帝がなくなったときにその記録を「紀」として編纂するところから始まっている
今や日本においてのみにこうした伝統が残っているわけで、歴史学者・磯田道史世界文化遺産とまで称えている

エッフェル塔でエッフェル本人に案内されたとか、皇太子時代のエピソードも取り上げられるものの、やはり集中するのは激動の昭和だ
『実録』では天皇の知らないうちに政策決定されていたといわれることが、意外に伝達されていることが明らかになった。治安維持法の重罰化や大陸進出に憂慮し、「天皇機関説」を支持と、意志は明示されている
転機になるのが、満州事変後に陸軍がさらなる拡張をはかった熱河事件
国際連盟の除名を回避するために大元帥として作戦の中止できるかを計ったところ、侍従の徳大寺実厚から「政変の原因となるかもしれず」と諌められた
前年に五・一五事件が起きていたことから、軍のクーデターには現実的なものだった

磯田 自分たちを正当化するための壁なんです。そこに向かってやりたいことを叫んでおけば、その名の下にどんなひどいことでも国民に強いることができる。ごくたまに御神体から反対の声が聞こえて来るけれども、もう一回同じことを叫べば、結局、許してもらえる。この頃の日本はそういう国家構造になっていた。
保阪 なるほど、神殿の壁とは言いえて妙ですね(p82)


磯田氏は、この関係の源を幕末の長州藩に求めていて、下級武士と“そうせい侯”のスタイルがそのまま明治政府の構造になったという

太平洋戦争へ近づいていくと、見も蓋もない話が増えていく
対米戦の大義を東条にただしたところ、「目下、研究中」との返答が。開戦が決まっても戦争目的が決まってなかった
「大東亜戦争」という名称は開戦後の12月12日に決まっていて、「大東亜新秩序の建設」を目的とするとなったが、昭和18年5月31日とする「大東亜政略指導大綱」において、ビルマ、フィリピンを独立させるものの、イギリス領マレー、オランダ領インドシナを直接の領土にすると表明されていた。『実録』にも一部が抜粋されていて、共栄圏の虚妄を証明している
終戦の「聖断」に関しては、ソ連参戦よりも原爆投下の影響が大きかったらしく、12日に東京へ新型爆弾を積んだ飛行機が来るとの噂が飛び交っていたらしい
また、アメリカが流す短波放送から、国体の護持が可能であると判断できたことも後押しした。軍部があてにならないのと、通信が寸断されていることから、「米国の短波で、日本軍の所在を知る状態」だったという
ただし、軍部にとっての「国体」は、天皇の軍隊として存続することなので、このギャップが終戦の難しさにつながっていた

今に直接つながるのは、沖縄についての発言だろうか
人を介してマッカーサーとマーシャル国務長官へ送ったメッセージには、「沖縄の軍事占領の継続を希望し、日本の主権を残し長期貸与の形をとるべき」と伝えている
まさに現在の基地の在り方そのままである
当時の外務大臣・芦田均が拝謁して、「日本の安全保障を米国に依頼する代わりに、日本本土の一部を軍事基地として提供する」と説明していて、これとどう辻褄が合うのかは分からない
『実録』は何を伝えようとしているのだろうか


昭和天皇実録 第一昭和天皇実録 第一
(2015/03/27)
宮内庁

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『太平洋戦争と十人の提督』 下巻 奥宮正武

南雲中将の名誉回復


太平洋戦争と十人の提督〈下〉 (学研M文庫)太平洋戦争と十人の提督〈下〉 (学研M文庫)
(2001/09)
奥宮 正武

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下巻は「絶望の戦い」と題した、台湾沖航空戦、フィリピン沖海戦(レイテ沖海戦)から沖縄戦、そして日本軍の本土防空体制、潜水部隊の戦い、海上護衛部隊の活動を取り上げる。最後には、タイトルにある通り、著者が接した10人の指揮官の戦いぶりを評論する
すでにマリアナ沖海戦で連合艦隊を事実上失っていた日本軍は、基地航空部隊をもってアメリカの機動艦隊と戦う。質量ともにアメリカに突き放されたため、虎の子のT攻撃部隊を台湾沖航空戦で失われ、神風特攻作戦に追い込まれていく
著者はマリアナ沖以降の戦いを、何かのためではなく、「戦いのための戦いと評する。山本五十六の死後、どう負けるかという筋書きを欠いたまま、日本海軍は戦い続けて特攻作戦までやってしまった
その原因を、陸海軍(参謀部、軍令部)、政府が一致しなければ何も決まらない政治システム、「統帥権の独立」とする。明確なリーダーを欠いたまま、戦争に突入したのは参戦国の中で日本だけだったのだ
海軍にどっぷり浸かった人なので、軍の体質そのものにはやや甘いが、南方作戦を立てるわりに補給線防衛を軽視、あるいは潜水部隊の育成を怠るなど、軍事技術の面では手厳しい
戦う前に負けていたという結論には、身もふたもないが納得である

10人の提督への批評が面白い。何人かは評価が180度変わってしまった
ミッドウェイの敗将というイメージが強い南雲忠一中将だが、著者の評価は高い
ミッドウェイはそもそも作戦自体、山本五十六大将がリスクのあるものと考えており、予測しがたい不運が重なったとする。そして、連合艦隊司令部がアメリカの空母が真珠湾を出港したことを連絡しなかったこと、旗艦大和を中心とする戦艦部隊が後方すぎて南雲艦隊を支援できなかったことなど、実は山本五十六にも瑕疵があったとする
最近の映画でも、山本五十六が南雲中将を許す場面が作られたりしているが、その構図には山本大将を神聖視する力が働いているのだろう
南雲中将自身はガナルカナルの南太平洋海戦において、ミッドウェイのリベンジに成功している

真珠湾攻撃以来、南雲中将とともに空母部隊を指揮した小沢治三郎中将は、海外でも評価が高い。しかし著者はこれを買いかぶりとし、マリアナ沖海戦においてメッキが剥がれたとする
マリアナ沖では古賀峯一大将の戦死により急遽、豊田副武大将が連合艦隊司令長官に就任していて、悪名高い「アウトレンジ戦法」をとらせたのは、小沢中将の影響で間違えないらしい
米航空機の優秀さと数量、訓練も数も足りない自軍の航空戦力を、この段階で見誤るのは、度し難いというわけだ
山本五十六、米内光政と「海軍左派トリオ」と言われた井上成美は、軍政では海上輸送の護衛艦隊を提言するなど良識派とされたが、実戦ではミスが多い
開戦当初の快進撃の時点で、ウェーク島の占領に失敗し、珊瑚礁海戦では米空母ヨークタウンを追い詰めたのに航空攻撃を徹底せず、逃している
後にヨークタウンの航空機はミッドウェイ海戦時に、南雲中将の旗艦・赤城を撃沈させ、山口少将の飛龍を大破させた。逃した魚を大きかったのだ
部下を煽るわりに、自身が指揮する段になると優柔不断な指揮官が多かったと著者は愚痴る

フィリピン沖海戦で湾内に突入しなかった栗田健男中将は、作戦を不意にしたと批判されることが多い。著者によれば、これは大きな的外れ
栗田艦隊の任務は湾内の米艦隊と輸送団の撃破だが、湾内の情報をまったく知らされず、伝えられたのは西村艦隊がスリガオ海峡で全滅したことだけだった。すでに連日、敵艦隊との予期せぬ激戦を続けていたわけで、果たして制空権を完全にとられた段階での突入にいかなる成果が上げられたか
この海戦では、初めて特攻作戦が取られた。著者はその起源について、とりあえず大西中将とその部下からとしている(実際には軍令部が有力)
出撃する飛行機が次々に撃墜される現実があり、どうせ撃墜されるなら刺し違えるつもりで、という気運もあったようだ。作戦当初に護衛空母を撃沈させるなど、普通攻撃よりも戦果を上げたことから、渋っていた他の部隊にも広がり作戦として定着したようだ
本書では海上や水中からの特攻作戦にも淡々と触れていて、普通の船で近づけない状態でなんでそんな作戦を立てたかと愕然とさせられる。やらせる軍の体質もさることながら、それを受け入れてしまった村社会的な空気、日本人の生命観があって、それが過労死を生む今の社会にもつながっている


前巻 『太平洋戦争と十人の提督』 上巻

関連記事 『聯合艦隊司令長官 山本五十六 -太平洋戦争70年目の真実』
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『太平洋戦争と十人の提督』 上巻 奥宮正武

航空隊から見た太平洋戦争

太平洋戦争と十人の提督〈上〉 (学研M文庫)太平洋戦争と十人の提督〈上〉 (学研M文庫)
(2001/09)
奥宮 正武

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帝国海軍は太平洋戦争をいかに戦ったか。元航空隊の参謀が分析する各海戦
著者は第四航空隊参謀として、ミッドウェイ、アリューシャン、ガナルカナルなどに関わり、大本営の海軍参謀として終戦を迎えた奥宮正武。戦後はその経験を買われ、航空自衛隊の要職を歴任した第一人者だ
本書は開戦そのもの是非をさておいて、なぜ戦争がああいう経過を辿ったのか、太平洋戦争の推移を“空軍”の立場から明らかにしていく
空母の航空隊から這い上がった人なので、「機動部隊」への思いが強い。その反面、陸軍には厳しく、陸軍の航空機が大陸の戦争しか想定しておらず、海の上では使い物にならないと事あるごとにこき下ろす(苦笑)
そのため完全な海軍の戦史となっているものの、戦争の命運を握ったのが航空機であるとするならば、正しい視点と言わざる得ない

ミッドウェイ海戦を「まったくツイていなかった」で片付けてしまうが(むしろ、珊瑚礁海戦を重く見る)、それ以降の戦いにおいては手厳しい
注目すべきは、機動艦隊最後の勝利となった南太平洋海戦
ガナルカナル作戦を支援するため、連合艦隊は米軍の空母艦隊との決戦を仕掛ける
ミッドウェイの敗将である南雲中将はその戦訓を生かし、戦艦を前衛に置いて空母へ向かう敵航空機を索敵、かつ半ば囮してその目標を分散させた
この作戦は功を奏し、敵空母一隻を撃沈、一隻を大破させる。これにより、ガナルカナルに展開する米軍の空母はいなくなった
しかし、戦況は好転しなかった。多くのベテランパイロットを失ったことで日本の機動艦隊の戦闘力も大きく低下し、その後それが回復することはなかった
米軍の練度も上がり、たとえ勝っても被害が大きい消耗戦の段階に移行していたのだ
著者もガナルカナルにおいて国力の違いをひしひしと感じる
アメリカは卓越した土木技術で損傷した飛行場を素早く復旧するし、LST,LCIといった揚陸艇を配備し、物資や兵器を迅速に運び込んだ
対する日本軍は優れた商船隊を持っていても、軍事的には港のある場所にしか活用できず、占領した島に揚塔施設を作る能力を持っていなかった。ガナルカナル島の悲劇は、単に作戦指導の問題だけでなく、技術水準の差がもたらしたものでもあったのだ
これはたとえミッドウェイで大勝したとしても、埋められるものではない
そもそも日本の陸軍は大陸の戦場しか想定しておらず、南方の島に上陸する準備など一切考えられていなかった。まったくもって戦争準備が足りていない
「南太平洋海戦」以降、機動部隊が輝きを取り戻すことはなかった。艦上のパイロット達は基地航空隊に移され、その地域の防衛に忙殺されたからだ

そもそも航空機が艦艇を沈めるには、物量がいるらしい
真珠湾、マレー沖の海戦でも、戦艦を沈めるのに過剰とも思える数の攻撃機が投入され、ようやく戦果を上げた。たとえベテランパイロットでも、急降下爆撃、雷撃で命中させるのは容易ではないのだ
熟練兵が払底した「南太平洋海戦」以降、パイロットの報告と実際の戦果に驚くべき差が生まれていく。補充された新兵が艦艇に対する知識がなく、経験不足から海上で燃える飛行機を船と見間違ったためだが、その落差には乾いた笑いを浮かべてしまう。もし報告どおりなら、米海軍は壊滅している
戦果を評価する側も、航空隊の実際を知らないから、期待半分で信じてしまう
指導部のそういった認識は、“最後の艦隊決戦”「マリアナ沖海戦へもつながっていく
この海戦では、世界的にも長距離飛行が可能な艦上攻撃機「彗星」をもって、いち早く索敵し、米艦載機が届かない距離からのアウトレンジ戦法が採用された
しかしアウトレンジ戦法には、重大な欠陥があった。まず索敵機の報告する敵艦隊の位置にかなり誤差が生じる可能性、そして、行き帰りする間に敵艦隊の移動すること、さらに長距離飛行により、搭乗員が疲労しきってしまうこと
実際には攻撃隊発進直後に、空母「翔鶴」「大鳳」が米潜水艦の攻撃で撃沈し、戦果の確認すらできない状態に陥ったのだった
この敗戦で事実上、連合艦隊は壊滅した。現場を知らない机上の空論が招いた悲劇だった
下巻では、「マリアナ沖海戦」以降の戦いと各司令官の人物評があるようだが、連合艦隊の興廃は上巻で描ききられたと思う。これ以上、いったい何が語られるかというと……


次巻 『太平洋戦争と十人の提督』 下巻
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『大日本帝国の民主主義―嘘ばかり教えられてきた!』 坂野潤治 田原総一郎

戦後も戦前も変わらない!?

大日本帝国の民主主義―嘘ばかり教えられてきた!大日本帝国の民主主義―嘘ばかり教えられてきた!
(2006/04)
坂野 潤治、田原 総一朗 他

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明治憲法は盗作だった!?田原総一郎が近代史の泰斗から聞いた戦前日本の内幕
坂野潤冶教授田原総一郎氏が『日本の戦争』を書いたときに通いつめた研究者。本書では戦後教育で語られた暗黒の戦前が、実は大嘘だったことが暴露されていく
今では戦前に民主主義があったことが定着しつつあるが(坂野教授はだいぶ前から言い続けてきた)、本書の対談ではさらに踏み込んだ解釈が披露される
西郷の征韓論は対中国が本命、明治憲法は福沢グループからの盗作、天皇機関説は政府公認、北一輝は社会民主主義者だったとか、再読でもびっくりするような話ばかり
坂野教授が『日本の戦争』の結論、マスコミ戦犯論を「新聞にそんな力はない」と一蹴したと思ったら、田原氏も「日本人はなんで象徴天皇制にこだわるのか」と教授の研究の先を聞く鋭さで、従来の歴史観を切り裂くアブレッシヴな対談となっている

明治憲法が盗作とはどういうことだろうか
伊藤博文がオーストリアのシュタインについて立憲君主制の憲法を習ったというのが通説なのだが、実は大切な前段があるのだ
明治14年に大隈重信が議会開設の意見書を出したが、これは大隈と福沢諭吉のグループが組んだ一種のクーデターで、交詢社(慶応義塾のOBを母体にしたサロン)から私擬憲法が起草された。しかし政権交代の可能性を含む憲法を長州派が却下し、大隈は政権から追放されてしまう
坂野教授によると、太政官大書記官の井上毅が交詢社憲法案を明治憲法のたたき台にした形跡があり、体制派が受容しやすい憲法に作り変えたという
交詢社憲法は、天皇にあらゆる権限を集めつつ、神聖不可侵だから国務は政府の責任、内閣でやると規定し、政党内閣を志向していた。内閣と天皇の関係において、交詢社憲法は戦後憲法と同等のものだったのだ
どこが改変されたかというと、議会の多数派が内閣を構成するという条項で、これにおいて政党に所属しない超然内閣が可能となり、各大臣が総理大臣の下にいない分権的な体制が維持されることとなった
ではなぜ伊藤はわざわざシュタインの下へ行ったかというと、井上毅が書いた草案の良し悪しが分かるように勉強するため。精進の甲斐あって、解釈書『憲法義解』が書けるほど憲法に精通し、政治家として民主的な運用に努めて、美濃部達吉の天皇機関説へつながっていく

本書のテーマは、戦前の民主主義と戦後民主主義の接続といえる
伊藤博文が作った立憲政友会は、官僚と藩閥と旧自由党員が集まった政党で、ほぼ自民党と同じ性格を持つ。面白いのが、政党がそもそも政権を担うものと考えられていなかったことで、自由民権運動から発した野党は、ルソーの影響であくまで牽制する存在としていた
政権を目的とする与党と批判目的の野党という「1・5大政党制」は、そのまま戦後の55年体制にあてはまる
坂野教授によると、日本に二大政党制が定着しないのは、王制と社会主義の衝突が深刻でなかったからで、イギリスなどでは国王と議会との対立がそのまま二大政党に定着した。日本の場合、共産党以外は天皇制を前提にしていたから誰が政権をとっても構造が変わらない
20代で天皇制を否定していた北一輝が、あっさり天皇を利用した革命に転向し、日本に社会主義者を紹介した人間が「日本の社会主義は一君万民」としてしまうなど、天皇制は日本人の気質にはまりすぎているようだ


日本の戦争 (小学館文庫)日本の戦争 (小学館文庫)
(2004/12)
田原 総一朗

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『戦前日本の安全保障』 川田稔

秋山真之が軍務局長時代に、中国に謀略工作を行ったらしい。尾崎行雄とかも
まじかよ

戦前日本の安全保障 (講談社現代新書)戦前日本の安全保障 (講談社現代新書)
(2013/01/18)
川田 稔

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日露戦争後、日本ではどのような安全保障が構想されたのか。山県有朋から永田鉄山まで振り返る
『昭和陸軍の軌跡』の著者が、大正・昭和の安全保障、国際戦略の変遷を辿ったもので、その全てが失敗に終わったことを踏まえた上でどのような教訓を拾うかを本願としている
取り上げられるのは、山県有朋、原敬、浜口雄幸、永田鉄山の4人で、それぞれがそれぞれの情勢と流れの中で日本の行く末を考えた
四者四様であるのだが、共通するのは満蒙の確保であり対中国戦略が軸にあること
アメリカに対しては、永田は将来の対決を予見したものの、他の三者同様に隔絶した工業力から敵対しえないとしていた
日露戦争で得た満州の利権を守り、中国という市場へ参入するには、英米と組むべきか、対抗するためにドイツ、ロシア(ソ連)と組むべきか
永田鉄山の構想は大東亜共栄圏そのものであるし、原敬・浜口の流れは戦後日本の源流にも思える

山県有朋は日露戦争後、中国を巡る英米との相克を予想し、戦ったばかりのロシアと組んで牽制しようとした
アジアでまともに国家の形をなす国は日本と中国しかなく、中国に積極的に介入して近代化を助けるとともに、英米の力をアジアから排除していく戦略を持っていた
幕末の志士らしい華夷秩序の世界観に思えるが、同時にパワーポリティクス志向の山県は日本のみでは対抗しえないとして、ロシアを引き込む気でいた
しかし、ロシアは大戦中に革命で倒れ、山県の構想は空中分解する
初の平民宰相・原敬は、満蒙を確保しつつ、中国問題を英米との協調路線で解決を図る
原は大陸国家アメリカの力を正当に評価し、その提携なしに日本の安全保障は成り立たないというリアリズムの戦略だった
ただし、アメリカを掣肘する力を持たない日本が、「アメリカのなすがままに」陥る危険は払拭できず、シベリア出兵問題では露骨にそれが現れることとなった

原敬の路線を受け継いだ浜口雄幸は、世界大戦の惨禍から国際連盟による集団安全保障体制に、「アメリカのなすがまま」を押さえる希望を見出した
ワシントン条約に続くロンドン軍縮条約(1930年)を成立させ、財政再建と安全保障を両立する
同じ憲政党の幣原喜重郎によって、1922年に中国の門戸開放・機会均等・主権尊重を旨とする九カ国条約が調印されていて、不戦条約(1929年)につながっていく
その一方で浜口は単なる理想主義者ではなく、総力戦では工業力の多寡が勝敗を決め、日本にそれが足りないこと、集団安全保障下では特定の仮想敵国に対して膨大な軍備を整える必要がないこと、など新時代の安全保障への見通しがあった
ただ、浜口もまた満州・台湾・朝鮮の植民地領有を前提しており、中国側の要求に譲歩と棚上げで臨まざる得なかった

軍部主導の国家運営を目指した永田鉄山は、総力戦の認識では浜口雄幸と変わらなかった
ただし、欧米の情勢を受けて世界大戦は不可避との見方をとり、総力戦が始まるまえに国防資源の「自給自足」する体制を築くことを必須としていた
その範囲はほぼ大東亜共栄圏と同じで、満州事変、日中戦争前の北支への浸透は、不足資源を確保するためだった
日本の工業力の貧弱さから、平時においては国際協調の重要性を認めるものの、国際連盟に平和を強制する実行力を持たないことを見抜き、「平和目的のための軍縮は『順序の転倒』」とした
永田の流れを汲む幕僚たちが行ったのは、北支工作、インドシナ進駐に代表されるような、英米との直接対決を避けつつ、自給自足の体制を求める「火事場泥棒」戦略である
そして南印進駐で虎の尾を踏むことになる

本書で見えていたことをザッと振り返ると、山県は攘夷の発想が抜け切らず、日中の合同で英米列強に当たるという図式に固執したかに思う
原・浜口の路線は戦後日本を思わせる現実路線だが、アメリカの独走を止める術がない。冷戦後の日本も同様に振り回されてきた
永田の戦略はヨーロッパの情勢に煽られた感があり、かえって日本の選択肢を狭めたと思う
第一次大戦のように、勝ち組が決まるまで待って、それまでは両陣営に物資を売り工業化……HOI脳かもしれないが、そんなシノギ方もありえたのでは
ともあれ、四者の戦略には満州の利権を保持する前提があって、一度得たものを手放せない貧乏性が日本人の弱点なのだろう


関連記事 『昭和陸軍の軌跡 永田鉄山の構想とその分岐』
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『プレイバック1980年代』 村田晃嗣

60年代生まれの鶴田浩二ファン

プレイバック1980年代 (文春新書)プレイバック1980年代 (文春新書)
(2006/11)
村田 晃嗣

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21世紀をにぎわかす問題は、1980年代に原型ができていた!? 2013年、同志社大学学長に就任した著者が80年代を振り返る
本書は2006年初出で、小泉政権から第一次安倍政権に移った年だった
いきなりだが、冒頭を引用する

(1)現職の首相が病死した。
(2)その結果、「想定外」の人物が首相になった。
(3)日米同盟が大幅に強化された。
(4)世界中で反米機運が高まった。
(5)首相の靖国神社参拝が外交問題化した。
(6)自民党が選挙で歴史的な圧勝を遂げた。
(7)民営化が政治的争点となった。
(8)ベンチャー企業のオーナーが逮捕された。
(9)天皇と皇室への関心が高まった。
(10)首相が戦後政治との決別を表明した。
(p6)

実はこれ、ゼロ年代のことではない。80年代の日本社会に起こっていたことなのだ
(1)は大平正芳、(2)は鈴木善幸、(3)はロン・ヤス関係、(7)は国鉄や電電公社、(8)はリクルートの江副正浩、(10)は中曽根康弘による「戦後政治の総決算」
80年代で起こったことがそのまま繰り返されたわけではないが、過去にあったパターンと把握すれば慌てることはない
80年代の前例から今を知ろうというのが本書の本懐だ

かといってまとまった80年代論なわけでもない
時代区分からは、自身が生まれた1964年から振り返り、60年代、70年代への相応の紙数が割かれている
アメリカ外交と安全保障が専門なことから、時の国内政治、アメリカを中心とした国際情勢が中心ながら、世情をにぎわせたアイドルや風俗、社会問題などにもたぶんに触れている
著者の好奇心が赴くままに書かれたようで、一個人の体験と政治、経済、外交の問題が渾然と絡み合い、ごった煮の感はぬぐえない(苦笑)
しかし、主人公ははっきりしている。行革を推進した中曽根康弘であり、冷戦を終結させたロナルド・レーガンである
中曽根康弘はレーガンの新冷戦を受けて、中立色の濃い経済優先の外交から日米同盟重視に切り替え、防衛費のGNP1%枠突破を目指した。国内においては、最大の国有企業であった国鉄の民営化を勧め、内閣官房を強化して大統領的首相を目指した
小泉内閣の前身として、中曽根内閣はあった
しかし、大きな違いは田中派の支持で政権につけたことで、田中角栄の失脚と経世会(竹下派)の旗揚げという地殻変動のおかげで長期政権が可能だった
後継の竹下内閣はリクルート事件で倒れ、バブル経済のなか政治は混迷を深めることになる

ロナルド・レーガンは人権外交のカーター政権の後を受け、「強いアメリカ」「小さな政府」という矛盾する政策を推進した
結果、財政と貿易の「双子の赤字」を生むものの、冷戦を終結させて共産主義陣営の崩壊へ導く
日本の対米貿易黒字はアメリカ経済界の反発を招き、中曽根首相による「ロン・ヤス」関係もその穴埋めのために要求されたものでもあった。かの在日米軍に対する「思いやり予算」も、貿易関係の付け届けに端を発している
新冷戦時代にこの関係は機能したものの、いざ冷戦が終結に向かおうとするとアメリカは日本との交易条件の転換に向かい、それは「ロン・ヤス」関係でもいかんともし難いものとなった
「スーパー301条」などの制裁法案や日本の市場開放が議題に上り、プラザ合意による円高も日本経済の質的変化を要求した

80年代と現在と何が違うのか
至極とうぜんのことながら、世代の入れ替わりだろう。80年代にはファシズムと軍国主義に直面した世代が次々と退場した
1918年生まれの中曽根田中角栄と同い年で、太平洋戦争では海軍の主計を務め実戦も経験している。ロナルド・レーガンは七歳年上の1911年生まれで、戦時中はプロパガンダ映画の制作に関わった
小泉純一郎は1942年生まれの戦中派で、安倍晋三は1954年生まれなのだから、戦争や改憲に対する認識もどこか軽くなってくるわけである
ちなみに著者は1964年生まれであり、同い年の芸能人に近藤真彦、薬師丸ひろ子、阿部寛、椎名桔平、山口智子を挙げている。薬師丸ひろ子1981年に『セーラー服と機関銃』で「カ・イ・カ・ン」と叫び、阿部寛1985年に『メンズ・ノンノ』のカリスマモデルとなっていた
『北斗の拳』をして「漫画もポストモダンに達した」とか、『1984』は「マスメディア(現在はインターネット)が偉大なる兄弟として現実化した」とか、サブカル方面で大雑把だが、それもご愛嬌。明確な論はなくとも、軽快で七味の効いた文章は何かヒントをくれるはずだ
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