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『日本解体 「真相箱」に見るアメリカの洗脳工作』 保阪正康

わりと正論



GHQはいかに日本人を情報操作しようとしたか。ラジオ宣伝番組から読み解くアメリカの洗脳工作

他の著書では護憲派よりに見えたけど……
ポツダム宣言受諾から占領軍の統治が始まっていた1945年12月9月に、眞相はかうだの番組が日本放送協会(現・NHK)から放送された。脚本を書いたのはGHQのスタッフで、満州事変以降の軍国主義の実態をドラマ仕立てで暴露するものだった
それに続いて始まったのが、眞相箱一般の日本人から質問に答えるという形式の番組だった。もちろん、質問も答えもGHQのスタッフか、その指示を受けた関係者が作成していた
その目的は、(アメリカから見た)太平洋戦争の要因となった軍国主義精神の排除に、新憲法の定着、反米感情の鎮静にある
"あの戦争”の責任を、一部の軍国主義者に求め、天皇の戦争責任を免責し、アメリカの高度な科学技術と物量には敵わないと思わせることだった
ラジオのテープは日本に残っていないが、本書は書物として残る「眞相箱」から統治下の情報工作を追及する


1.実は受け入れやすかったGHQ史観

意外なことに、GHQの語る近代日本への評価は、司馬史観に近い
黒船来航から始まる明治維新から、日清・日露戦争までの国造りを褒め、それ以降の、特に満州事変以降の軍国主義化を批判する
連合国も植民地を持つ国が多いせいか、「帝国主義」や「侵略」に対する定義もぼかしていて、自分たちにブーメランが返ってこないように配慮している。手が込んでいるのは、「帝国主義」に関する質問に、アメリカからではなくイギリスの百科事典などから引用すること。後で突っ込まれないように、「それイギリスの意見だから」と言い逃れできるようにしているのだ
「侵略」に関しても、戦争末期のソ連の参戦が絡むので深く追及していない
太平洋戦争に対する評価では、個々の日本人兵士の勇敢さを湛えつつも、上層部が愚かだったことを強調。戦争の責任を一部の軍国主義者に求めて、天皇や国民を除外している。自分たちの思うとおり誘導するために、当時の日本人が受け入れられやすい史観を提供しているのだ
実際のところ、GHQの用意した史観は、保守派を含めて日本人の大半に受け入れられているように思える。こうした史観がすぐに浸透した背景には、戦中の大本営発表が現実とあまりに乖離して、欲していた情報をGHQから供給されたためなのだろう


2.9割の真実と巧妙なプロパガンダ

GHQの史観は一見、かなり妥当に思えるのが巧妙で、多くを事実から引きながら、特定の結論へたどり着かせるために細部を曲げたり、噂としてエピソードを挟んだりする
最大の問題点は、民間人含む無差別爆撃、特に原爆投下についてで、アメリカでの論争を紹介しながらも、「戦争を早く終わらせるための止む得ない」と結論する。そして、一番の文明国であるアメリカが核爆弾を最初に手にしたことにより、世界の平和が保たれるという自己中心的な主張が展開されている
「これを戦争を避けるために使う」という考え方も、冷戦時代の核戦略に通じるものがあるのだ


著者の保阪正康は、半藤一利と絡みが多い人ながら、単独の著作だと護憲派の主張が強かったのだけど、本書では「押し付けられた歴史観でいいのか」と右派のような問題提起の仕方をしているのが面白い。これはただ親米の保守派はおろか、既存の護憲派をも脅かすものであり、場合によっては自らに襲いかかるブーメランになりかねない
他国や他人の意見ではなく、自分で"あの戦争”は、“あの時代”は何だったのか、と問いかけて、はじめて日本人の歴史観はもちうるし、それを踏まえて判断を下せる。著者自身の歴史観はともかく、このメッセージは普遍性があると思う
本書は「眞相箱」の作為を紐解くことで、プロパガンダの巧妙な手口に触れられ、歴史はある指向性をもって作れてしまう事実を教えてくれる


*23’4/5 加筆修正



『漂流 日本左翼史 理想なき左派の混迷 1972-2022』 池上彰 佐藤優

もはや左翼は絶滅!?



学生運動が衰退したなか、左翼政党は労働問題に存在価値を見出す。その衰退と今後の展望は

あさま山荘事件の72年から、2022年現在の状況まで
72年のあさま山荘事件の後でも、過激派のテロは続く。戦前から続く日本の帝国主義を清算するとして、東アジア反日武装戦線“狼”」が三菱重工などの旧財閥系企業に爆弾テロを仕掛けた
佐藤氏によると、彼らには体制を倒したあとに何かをする構想はなく、その体質はアナキズムや右翼に近いという。あさま山荘事件の坂口や赤軍派にも右翼くさいところがあり、理性より感情を重視するナショナリズムの時代へ向かっていたことをうかがわせる
また、ノンポリの学生を後押ししたのが、吉本隆明『共同幻想論』国家や宗教は確固としたものではなく、人々の幻想に支えられたものだとした。そのことは、マルクス主義にもあてはまり、国家ともに思想も相対化してしまった
吉本はノンセクト・ラジカル、セクトに所属しない左翼青年のカリスマとなったが、その信奉者の気質も国家の関与を嫌うアナキズムに近く、後の新自由主義の下地を作ったともいえそうだ
本巻は50年をざっくり語る内容だし、他の巻で触れられたことは省略されたりもしているので、最初の『真説』から読むことをおすすめする


1.社会党による労働運動

その後のセクトや学生運動で唯一盛り上がったのは、成田国際空港を巡る三里塚闘争ぐらい。それも農民と左翼思想の相性が合わなくて、党派ごとに足並みがそろわず、自民党政権の切り崩しにあって分裂して取り込まれてしまう
一方で、70年代に社会党の影響のもとに、労働運動は盛り上がる
公務員にスト権はないとして、国鉄などの国営企業の労働者は悪条件、低賃金に甘んじていた。でありながら、国鉄で法を逸脱した運行が求められたことから、法律を遵守することで、実質的なストライキを行う「順法闘争が行われる
さらに1975年ILO(国際労働機関)の勧告をきっかけに、国営企業の労働者にスト権を付与する「スト権ストが唱えられる。当初は国民を支持を受けた「順法闘争」も、相次ぐ運休や遅延から利用者の反発を招き、上尾事件などの乗客による駅への暴動事件へも発展してしまう
その一方で、60年代は東京都知事に美濃部亮吉が当選するなど、各地で革新陣営の首長が生まれ、社会民主主義の機運がこれまでになく高まっていく


2.国鉄民営化による社会党の退潮

1970年、チリでは民選による初めての社会主義政権、アジェンデ政権が誕生して、国家規模でも社会民主主義の期待が高まった。しかし、アジェンデ政権は1973年にCIAの支援を受けたピノチェト将軍によるクーデターで崩壊、この一件が過激派の暴力革命論社会民主主義の衰退をもたらすこととなる
それでも、国鉄の国労を中心とする労働組合は左翼の牙城となったが、それに致命傷を与えたのが国鉄民営化
当時の首相・中曽根康弘社会主義革命の可能性を閉ざすために、莫大な赤字を口実に民営化を訴え、国民の支持をバックに断行した。革マル派の松崎明の影響が強い「国鉄動力車労働組合(動労本部)」は、労働者の待遇改善につながると民営化を後押しして「JR総連」となる一方、4万人の労働者がリストラされて社会党とのつながりは急激に弱まった。とはいえ、民営化への支持が集まったのも、「怠けるほど革命が近づく」とうそぶく国鉄の組合の堕落が原因でもあった
そして、自社さの村山内閣によりその命脈が断たれたのは、『真説』にもある通りだ


3.共産党の愛国路線とSEALD’sの新自由主義

さて、現在の左翼運動はどうなっているのだろう
唯一の左翼政党であるはずの日本共産党は、戦術上の都合(?)とはいえ、選挙ポスターに富士山を載せ、北方領土問題に千島列島も加えて沖縄基地問題への関わりにも愛国路線を全面に出している。佐藤氏が問題にするのは、ロシアのウクライナ侵攻に対するリアクションで、国境を越える労働者(あるいはプロレタリアート)の連帯を訴えるべき左翼政党が、普遍的な“反戦”ではなくウクライナを一方的に支持するのは、もはや左翼でなくなった証拠とする
また2015年に集団安全保障への参加が問題になったさいに、話題となった学生グループ「SEALD'sも佐藤氏は辛口で自由に集まって解散したところから、新自由主義的な組織とする。上層部が名前を売ってキャリアの肥やしとし、運動に参加した学生の多くは日本共産党の民青が刈り込んだのみ
結局、右も左も今は思想がなくメディアを含めて、ただ新自由主義で、椅子取りゲームが続いているだけという


3部作(!)の総括をすると、基本は対談の体裁ながら佐藤優氏がしゃべり続け、池上彰氏がインタビューアーとして話を引き出し補足をするといった内容だった。佐藤氏の解釈で覆われているところが多いので、他の方のご意見も聞いて差し引いていく必要はあるだろう
そして、これから左翼が台頭するから、過去の歴史を整理したいという動機から始まった企画ながら、最終巻の結論がもはや左翼と呼べる勢力は日本共産党含めて、今の日本にはないということになってしまった(笑)
格差問題から左翼思想は注目されるけれど、実際にそれを引き受ける左翼勢力はない。そんな奇妙な状況に陥っているらしい
しかし、菜食主義の「ヴィーガニズム」、動物保護の「アニマルライツ」など環境保護団体が先鋭的になっている部分はあり、それらを進める組織が昔の左翼のような問題に陥る可能性はある。セクトが過激化しないために、左翼の黒歴史を教訓とすることが大事だろう


*23’4/7 加筆修正

前巻 『激動 日本左翼史』

『激動 日本左翼史 学生運動と過激派 1960-1972』 池上彰 佐藤優

全共闘=民主主義ではない!?



なぜ、新左翼は過激な行動を取るようになったのか。衰退の要因を探る

本巻は60年安保の60年から、あさま山荘事件の72年まで。国民と連動していた60年安保から68年の全共闘を経て、新左翼のセクトは過激化し孤立を深めてしまう


1.60年安保闘争とブント

60年安保闘争で大きな役目を演じたのが、共産主義者同盟(ブント)。日本共産党の指導を受ける「全学連(全日本学生自治会総連合)」から飛び出して1958年に結成された
1956年のスターリン批判とハンガリー事件から日本共産党は動揺しており、デモ・ストライキすら及び腰への不満からで、「マルクス・レーニン主義」を堅持しつつも革命は大衆運動からしか起こせないと、かなりルーズな組織だった
その中心人物が後に経済学者・青木昌彦で、姫岡玲治・名義で書いた論文が理論的支柱となる。主な結集者が、文学者・柄谷行人、安保闘争で死亡した樺美智子保守系の思想家・西部邁、政治評論家・森田実平岡正明
60年の時点では、ブントが全学連の主流派となり、共産党の民青は脇に追いやられ、「極左冒険主義」と足止めする立場となる

その一方で、スターリン批判からトロツキーを再評価する「日本トロツキスト聯盟」→「革命的共産主義同盟(革共同)」が生まれ、そこには後に核マル派の指導者となる黒田寛一、社会党への加入戦術をとる上田竜がいた
日本をブルジョア革命を達成していないとする講座派(日本共産党)と違い、日本をすでに先進国としていきなり社会主義革命を目指せるとする労農派という点で、社会党と新左翼は一致しており、党員の少ない社会党は安保闘争に新左翼を動員することができた
とはいえ、社会党は平和革命路線であり、自衛隊のような近代軍を火炎瓶闘争で勝とうというのは、ロマンにもほどがある。そこで日本で政権をとってワルシャワ条約機構に加盟する戦略を持っていた
もっとも労働組合出身の社会党議員たちは、自民党と国対で渡り合ううちに、3分の1を確保しての憲法改正阻止で満足してしまったようだが


2.セクトと全共闘方式

60年安保闘争は結局、改正を阻止できず、革命の端緒も作れず、新左翼にとって敗北だった
学生の集まりだったブントはその後の方針を巡って解体し、以降は様々な団体が乱立していく
安田講堂へと続く大学闘争は、1965年の慶應義塾大学から始まった。学費の値上げ反対に米軍の研究費を受け取ったことが問題となり、早稲田大学でも値上げ反対の運動が起こる
そこで取られたのが「全学共闘会議」方式と言われるものので、単に学生自治会で行うと普通のノンポリ学生は過激な抗議活動を敬遠するので、“革命意識”の高いセクトの学生が連合して「共闘会議」が組織された。日大や東大でも共闘会議が組まれ、中心的存在となる
そこでは戦う意志のある学生が「前衛」として指導していくので、近代の代議制=多数決で決まらず、声が大きく拍手の数で決める1930年代の翼賛政治であり、全体主義に近い体質があったという
今では左翼とリベラルが同じもののように語られるが、本来のリベラルは自由主義であり、左翼は民主主義にすら拘泥しない党派が主流というのがポイントだ


3.セクトの内ゲバと武力闘争

本書では連合赤軍事件よりも、それに至るエスカレーションを細かく検討していく
各セクトが戦闘的になったのは、1967年10月に機動隊との衝突のなか、京大の学生が亡くなったことから。そこからヘルメットに角材(ゲバ棒)というスタイルが定着する
セクト間の大学の主導権を巡る内ゲバも深刻化し、それぞれが縄張りのキャンパスを持ち、違うセクトの人間が近づけば、バールで足を折って活動不能にする。佐藤氏は特に中核派について、左翼というより任侠団体、愚連隊の系譜ではという
そうした内ゲバの経験から、革命のために殺人を正当化する論理が生まれていく。1970年8月3日池袋駅の中核派のデモを通りかかった革マル派の学生が殺される事件があり、行動の中核に対して理論を重んじる革マル派は「革命的暴力論」を打ち出した
70年代でも安保や沖縄返還問題、成田国際空港建設を巡る三里塚闘争など世間の支持や同情を得られる部分はあったものの、その過激さからついていけないと見放される
いつしか、学生運動することが、社会からのドロップアウトにつながるような印象すら与えてしまったのだ

970年以降は中核派の警察やその家族を狙った殺人事件が多発し、関西では京大経済学部助手の滝田修京大のグラウンド内で軍事教練を行い、社会の中で一人で戦えるパルチザン育成を目指した
もはや、政治運動どころか、テロ組織へと化していく
関西で滝田の影響を受けた、関西ブントの塩見孝也や田宮高麿などは「共産主義同盟赤軍派」(赤軍派)を結成するが、大阪や東京の蜂起作戦に失敗し、海外に拠点を作るためによど号ハイジャック事件を起こす
一方で日本共産党の神奈川支部に所属して、除名された中国派のメンバー「日本共産党神奈川県委員会」(革命左派)を設立。毛沢東主義の集団なので、もともと武器の使用を厭わない
赤軍派は、反スターリンのトロツキストで本来は思想的に水と油。ただ、革命左派が赤軍派の資金を、赤軍派が革命左派の銃を欲しがるという打算が生んだ連合だった。そして、内ゲバも同志間の総括という一線を越えてしまい、新左翼へのシンパシーを葬ってしまった


4.新左翼運動の欠陥と左翼思想の限界

フランスの5月革命が男女平等の進展など社会的な成果があったが、日本の新左翼運動ハイジャック事件から空港の警備が厳重になったこと、テルアビブ空港乱射事件が現代の自爆テロの魁となったこと、政治運動に対する意識が後退し“島耕作的なノンポリの出世主義者”を生み、ひいては新自由主義への下地を作ったこと、とマイナスか微妙な影響しか残していない

とはいえ、左翼の政治指導者やセクトの理論家、設立者たちは知的水準は高かった。にもかかわらず失敗した原因は、佐藤氏によると、左翼思想の根幹に問題があって、「始まりの地点で知的であったものが、どこかで思考停止になる地点がある」という。それはおそらく、人間観の問題で、「人間には理屈で割り切れないドロドロした部分があるのに、それを捨象して社会を構築できるとすること、その不完全さを理解できないことが左翼の弱さの根本」と指摘している
そして、なぜ内ゲバにまで至ってしまうのかというと、「閉ざされた空間、人間関係の中で同じ理論集団が議論していれば、より過激なことを言うやつが勝つに決まっている」(池上)
国家権力を相手にすると、あまりに存在が大きくて全体像が見えないので、権力そのものより、それに迎合する身内が敵に見えてしまう。左翼最初の内ゲバは戦前の共産党による「社民主要打撃論」(社会ファシズム論)で、先に異端を潰さないと革命は達成できないという方向で権力闘争に走ってしまう


5.堕落のススメ

佐藤氏はそれを克服するために、党内にダラ官(堕落した官僚)を許し、現実の風を吹かせる必要があるとする。現代の政治運動には官僚化が欠かせない。それが日本共産党が、唯一の左翼政党として生き残っている要因でもあるだろう
70年代に関東で壊滅した学生運動が、関西で健在だったのはそうしたユルさからで、佐藤氏の母校・同志社大学ではブント的な学生同士の「子供の政治」を社会勉強として容認し、大人が子供を利用しようとする民青、中核派、そして統一教会から守ろうとする良識があった
本巻は両氏の実体験も深く関わって、手前味噌な部分はあるけれども、それだけに偏狭な世界観しか持たない集団が過激派に堕ちてしまう過程が捉え、その問題点を明らかにしている


*23’4/7 加筆修正

次巻 『漂流 日本左翼史』
前巻 『真説 日本左翼史』



『真説 日本左翼史 戦後左派の源流 1945-1960』 池上彰 佐藤優

戦後左翼の総決算



なぜ日本の左翼は衰退したのか? 終戦直後からの日本共産党と社会党の動きを追う

本屋に3部作のように並んでいたので、衝動買いしてしまった
池上彰佐藤優という有名な論客の対談形式であり、時事ネタに絡んでいく両者へのイメージから広く浅くなりはしないかと思われたが、いい意味で裏切られた
“外務省のラスプーチン”と呼ばれた佐藤優氏は、実は高校から大学時代に社会党の青年部“日本社会主義青年同盟”(社青同)へ所属し、左翼の活動を見知っていたのだ
対談のテーマは戦後の民主化で興隆した日本共産党日本社会党で、自民党の長期政権が固まるまでの1960年までを中心に扱う
本書は対談の体だが、7割を佐藤氏がしゃべり、池上氏がそれを補足する形で進む。そもそも佐藤氏が持ち込んだ企画で、格差の問題から『人新世の「資本論」』などを中心にマルクスが再注目されているとして、左翼の復権を予想。今の共産主義が日本共産党の解釈を中心に流布していて、若者たちが取り込まれることを警戒してのことだ
社会主義は良くも悪くも様々な広がりを見せて、百家争鳴の時代があったのだ


1.日本共産党の台頭と混乱

戦前に思想犯として逮捕されていた日本共産党のメンバーは、連合軍の進駐を受けて解放される。徳田球一を書記長にして活動を再開するが、ソ連共産党の指導を受ける立場にも関わらず、「アメリカを中心とする連合軍を解放軍として歓迎する」と表明したのが、蹉跌の第一歩
当初はソ連も連合国であり、米ソの対立が予想できなかったためだが、1947年2.1ゼネラルストライキが計画された際に、共産党が中心に労働組合を牛耳るにも関わらず、“解放軍”の方針としてGHQの指示にしたがって中止してしまった
そのために、労働者への信用は地に落ち、代わって日本社会党が台頭する

そして、共産党転落で決定的だったのが朝鮮戦争を巡る内紛と武力闘争。旧軍の復活を恐れて再軍備反対と平和革命を唱えた日本共産党だったが、ソ連のコミンフォルムは戦争に備えてその平和革命路線を批判指導部の徳田球一や野坂参三らは“所感”を発表して反論したため「所感派」と呼ばれたのに対して、非主流派の宮本顕治や志賀義雄らはスターリンや毛沢東の批判を受け入れて「国際派」と呼ばれて、激しく対立する
1950年6月、GHQは占領軍と共産党員が人民広場(皇居前)で激しく衝突する事件を受けて、共産党の国会議員などの公職追放・政治活動の禁止(レッドパージ)を行い、逮捕状の出た徳田球一、野坂参三たちは中共に亡命した
結局、1951年に武力闘争路線が採択されたが、数々の事件は国民の不信を招き、1955年に武装闘争の放棄を決議した。この武力闘争を受けて政府は破壊活動防止法(破防法)の制定公安調査庁が立ち上げられている
ちなみに共産党の武力闘争方針は農村から都市を包囲するという、毛沢東の影響が濃い。後の連合赤軍の自滅も、これに続いたように思える


2.左翼政党の中心、日本社会党

一方の日本社会党は、戦前の無産党に、労農派の共産主義者など非共産党系の社会主義が集結する政党として始まった
1947年に戦後初の左翼政権、片山連立内閣を実現するが、いろんな派を引き入れたゆえの内紛から、1年で瓦解する
その社会党のなかで一致したのは、「全面講和、中立堅持、軍事基地反対」「再軍備反対」を加えた「平和四原則」だったが、右派は朝鮮戦争を共産主義側が仕掛けたものとして、分裂する
日本社会党の特徴は、労働組合出身の国会議員社会主義協会の頭脳が理論を支えるという構造で、大学教授ばりの教養を持つ協会員は主義から労働者の地位に甘んじたという
青年部の党員に社会主義に対する幅広い書籍を読ませており、共産党の若者と論争しても負けたことがなかったという
そんな懐の広い社会党のもとには、マルクス・レーニン主義ではない、ローザ・ルクセンブルグに準拠するという新しい社会主義の模索が行われ、暴力的な新左翼へもつながってしまうのだった
しかし、その命脈が立たれるきっかけになったのは、ソ連の崩壊。社会民主主義を標榜しつつ、ソ連の資金が流れ込んでおり、東側の一党独裁政権とも友党関係だったのが明るみに。さらには、積年の敵だった自民党を組んで、首相まで出したことで長年の支持者はドッチラケになってしまったという
とはいえ、人士は民主党、今の立憲民主党になだれ込んで、母屋を乗っ取った感もあるが


3.共産党の欺瞞体質

とにかく佐藤氏は、日本共産党に手厳しい
宮本顕治が戦前の官憲に激しい拷問を受けて耐えたのは、リンチ事件の殺人罪で立件されていて、口を開けば死刑の危険があったからとか、「どんなものにもいいものと悪いものがある」という共産党的弁証法、西側の核はダメ、東側の核は平和目的とするなどを欺瞞と断定、「革命が平和的か暴力的かは“敵の出方”による」という「敵の出方」理論も暴力革命を完全に放棄していないということ。昔の論文や発言を後で見れないようにする秘密主義も、党と指導者の無謬性を守りたいからに他ならない
次巻のこうした批判の真意は明かされていて、別に今の日本共産党が暴力革命を準備していると言いたいわけではなく、過去を取り繕う欺瞞体質を批判しているのだ
まあ、ここまで容赦なく言ってしまえば、赤旗に呼ばれないのも当然のことだろう(笑)


もっともその上で、共産党や社会党を引っ張った指導者の有能さを認めていたりもする。なにぶん、まだ現代史の範囲であり、何が真実かは立場によってだいぶ変わってくるし、佐藤氏の話がどこまで裏のとれたものかは分からない。その点、留保が必要だろう
共産党に入党した讀売新聞社主筆・渡邉恒雄がマルキシズムに「倫理の欠如」を指摘したり、網野史観で有名な歴史家・網野善彦共産党の武力闘争(山村工作隊)に従事したとか、宮本顕治創価学会の池田大作と和解する対談で、宮本が箱の上で演説していた際に唯一立ち止まって聞いたのが池田だったとか、面白エピソードも盛り込まれたりと最初から最後まで、読ませる対談だった


*23’4/7 加筆修正

次巻 『激動 日本左翼史』

関連記事 【プライム配信】『日本の夜と霧』



『失敗の本質』 戸部良一 寺本義也 鎌田伸一 杉之尾孝生 村井友秀 野中郁次郎

いろんな組織にあてはまる



大東亜戦争で日本軍は何に失敗したのか。社会科学の視点からその体質を分析する

単に日本軍だけでなく、戦後の組織を見通そうとする名著
本書は大東亜戦争の敗戦を「なぜ負ける戦いをしたか」ではなく、なぜ負けたかにこだわる。個々の戦いで大本営と現地軍がいかに作戦に取り組んだか、何が失敗の要因になったのかに斬りこんでいく
レイテ海戦、沖縄戦など最初から勝算に乏しい対象もあって、重箱の隅をつついていると思われるかもしれないが、逆境にこそ、組織の弱点がさらけ出されるものなのだ
日本軍は平時では学歴重視、年功序列で安定していたものの、軍隊が本来の力を発揮する非常時において、前例に囚われて新しい状況に対応できなかった
航空兵力主体の真珠湾攻撃は、トップに山本五十六がいたからこそできた例外であり、海軍も大艦巨砲主義、艦隊決戦思想から抜け出せなかったし、陸軍はノモンハンの敗戦を経てなお、日露戦争の戦勝から白兵突撃を離れなかった
軍隊が大規模になることで、それを管理するために官僚化が進み、実際に携わる参謀たちは記憶力、データ処理、文書作成などが重視され、それぞれの教育機関での成績で序列は決まった
軍人というより、能吏がしきる組織だったのだ

本書ではノモンハン事件、ミッドウェー海戦、ガダルカナル、インパール作戦、レイテ海戦、沖縄戦の6つの敗北が取り上げられる
共通していえるのは、全体で方針がまとまっていないこと。ノモンハンでは大本営が事件の拡大を抑制する方向だったのに、関東軍はソ連・外蒙軍を甘く見て反撃し続けた
ミッドウェーでは米機動艦隊とミッドウェー島の攻略が両天秤にかけられ、インパールではビルマ防衛とインパール攻略レイテではフィリピン島の防衛(米上陸部隊の撃破)と艦隊決戦沖縄では空港防衛と引きこんでの持久戦、と大本営と現地軍との齟齬が大きかった
そして、それに対して意識のずれを埋めようとするのではなく、状況によって現地の判断に任せるという曖昧な指針になってしまった
それが顕著にでたのが、ノモンハンであり、インパール。インパール作戦は本来、イギリスのビルマ侵攻に対しての攻勢防御であったのだが、第15軍司令官の牟田口廉也はそれを策源地のインパール攻略からインド侵攻(!)までを構想した
それに対して、大本営もしかり、直近の上司であるビルマ方面軍司令官の河辺正三もその無謀に気づいていたが、現地軍自身の判断で自制すべきであるとして表立っての反対をしなかった
河辺が牟田口を止めきれなかったのは、部下の顔を潰したくないという人情重視の対応であり、徹底した上下関係が求められる軍隊組織に情が割り込むのが、日本軍の特徴。さらには、敗北に対する責任も甘く、牟田口は士官学校の校長へ転じ、ノモンハンとガナルカナルに関わった辻正信は陸軍大学校の教官に異動した
こんな調子では同じ失敗を繰り返すのも当然といえよう

後半では上記の敗北から導き出される日本軍の性格が総括される
太平洋の戦線では陸軍と海軍の共同作戦が必要とされたが、協議がなされるだけで統合する存在は生まれなかった。陸軍はそもそもソ連と戦うことを念頭に置いていて、南方の戦場を想定していなかった
それに対して、アメリカは島々に上陸し制圧する海兵隊を組織し、水陸両用作戦を次々と成功させていく。この作戦計画は1922年の時点で対日戦争を想定したところから始まっていて、1943年以降は概ねそれに沿って終戦に導いた。20年前から考えているのだから、恐れいる
日本軍は短期決戦思考、実戦からの帰納法で、アメリカ軍は長期的視野でひとつの原理原則から当てはめていく演繹法が特徴。帰納法型だと、本来は実地の経験からフィードバックして、原則を柔軟に変えていけるはずだが、日本軍の場合は、現地の判断を重んじるわりに、その現地の司令官、参謀たちが教わってきたマニュアルを「聖典」として遵守してしまう最悪のかたちに終わった

日本軍が硬直化した原因として挙げられるのが、士官たちの教育。日露戦争を指揮したのは戊辰戦争の経験もある将官であり、士族としての思考、モラルを持っていた
しかしその後の世代は、日露戦争の戦訓、「白兵主義」「大艦巨砲主義」を金科玉条としてしまい、そこから外れる異端者が現れない組織にしてしまった。士官たちはテスト勉強のように各種の操典を暗記、再現することが評価された
それによって、どのような状況でも「模範解答」どおりに行動してしまう事態に至ったのだ
これの克服に提案されるのが、困難にぶつかった時に目標や基本を再定義しなおして自己を変えていく「ダブル・ループ学習。特定の問題から「模範解答」を導く「シングル・ループ学習」では進歩がない
もうひとつの視点が、日本軍が日露戦争へ過剰適応したというもの。ひとつの環境へ順応しすぎたために、大きく変化するとついていけなくなる。これを乗り越えるには、組織のなかにあえて「不均衡」を残す必要がある
主流派と非主流派が緊張感をもつことで、環境が変わったときに入れ替わったり、新しい発想が生まれ行くのだ
本書の初出が1984年であり、新自由主義を経た今の日本企業は旧軍的な体質を脱しているかもしれない。それでも、大型で安定してしまった組織にあてはまる教訓が散りばめられていて、何度も読み返したい本だった


『日本赤軍派 その社会学的物語』 パトリシア・スタインホフ

連鎖するテロ事件



連合赤軍はなぜ、凄惨なリンチ事件を起こしたのか。社会学の手法から、その過程を分析する

日本人の「転向」問題などを研究するアメリカの社会学者が、連合赤軍事件を検証したのが本書
著者の興味は、1972年のテルアビブ空港襲撃事件を日本人が起こしたことから始まっている。当時イスラエルの独房に収監されていた実行犯の一人、岡本公三へのインタビューに成功した後、「日本赤軍」の源流として日本の「赤軍派(共産主義者同盟赤軍派)」に着目し、そこから連合赤軍の山岳ベース事件に主題は移っていく
純粋に連合赤軍を扱っているわけでなく、く武装化してい新左翼運動の顛末を流れとして把握しどういう力学でリンチ事件を起こしてしまったかを解き明かそうとする
特異な事例でありながら、普遍的な教訓を引きずり出そうとして苦戦している印象で、社会学な分析ができているかは素人目にも怪しい
しかし、単独で語られがちな連合赤軍事件を、新左翼運動の流れの中で位置づけようとする試みは新鮮だ

赤軍派と革命左派のイデオロギー、気風の違いも語られるものの、リンチにいたる過程で注目されるのは、森や永田が導入した意識高揚法と呼ばれる手法だ
アメリカではグループ心理療法として有名で、多くの自己啓発のグループで取り入れられている
目的は新しい自己形成を助けることだが、最初の段階では集団による個人の批判や追及を行い、自己防衛の構えを取り除こうとする。集団による批判が個人の精神に与えるダメージが大きいので、指導者は行き過ぎないようにコントロールする必要がある
アメリカで行われるセラピーでは、参加者の序列がないので、その批判に異議を唱えやすいそうだが、それでも指導者不在、あるいは指導力不足の行き過ぎは問題視されていたそうだ
連合赤軍では、森の考える「共産主義化」の定義が曖昧であり、理屈を考えだして議論をリードすることは上手くても、コントロールする力量はなかった
そして、全員が「共産主義化」できるまで山を下りないと決めたことで、指導部も指導される側も逃げ道もなくしてしまう
「共産主義化」の手段として、体罰や鍛錬が加わりだすと、またたくまに暴力、拷問へとエスカレートとしていった
森は拷問死した人間を共産主義化を失敗した「敗北死」と定義することで、参加者の罪悪感を解消した。その行いにおいて被害者と加害者は紙一重だったが、それを線引きするやり口だけは巧妙だった

著者は戦前日本における共産主義者の「転向」問題が専門であり、この事件にアイロニーを見出す。

そのレトリックとめざした目標にもかかわらず、連合赤軍の「総括」の実態は、自供というものに抵抗するためというよりも、むしろ自供を促すために人々を訓練してしまったようなものだった。総括の要求に抵抗しても無駄だったし、いったん暴力がその過程に導入されるようになると、ことばでの抵抗は必ず体罰で終わった。(p219-220)

組織のメンバーが、国や社会の転向への圧力に抗して、自分たちの思想への忠誠心をどのように表明してきたか調べるかわりに、私は同様の戦いのミニチュアを、連合赤軍のなかに見出したのだった。そこでは思想的忠誠心を共有するという名目のもとに、組織と指導者が一体となって、個人に対して転向要求ともいうべきものをつきつけたのだ。(p270-271)



リーダーであった森と永田が東京へ行くと、粛清は止まり組織の瓦解が始まった
警察の追及でメンバーは逃走し、坂口弘ら5名があさま山荘に立て籠る。この時点では山岳ベースのリンチ事件が知らされてなく、学生間でも彼らを英雄視する者も多かったそうだ
残されたメンバーにとって、あさま山荘事件は山岳ベースの悲劇を無駄にしない「殲滅戦」だった。若松孝二監督の『実録・連合赤軍』で、どこか爽やかに描かれていたのは、こうした心情を汲んだのだろうと分かった(まったく共感できないが)
そして、この事件は序章のテルアビブ空港襲撃事件へと波及する。PFLP(パレスチナ解放人民戦線)と結びつき海外に拠点を求めた「日本赤軍」は、リンチ事件の動揺から「隊伍を整えよう」と前代未聞の、空港への無差別テロを決行した
テルアビブの事件は生還を期さない自殺的攻撃であり、何やら9.11などで知られる自爆テロの魁のように思えてしまう。生存者の岡本公三が「民間人の死は革命を成就させるための犠牲」で片づけてしまうのも、典型的なテロリストの論理だ
革命後の世界像についても「分からない」とし革命自体が目標という無責任さも、森の「共産主義化」が曖昧だったことに通じる
イデオロギーそのものの中身というより、イデオロギーが集団を覆ったときに何が起こるかを問いかける良書だった


関連記事 【DVD】『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』


↑出版社は違うが、改題した文庫版らしい

『大東亜戦争、こうすれば勝てた』 小室直樹 日下公人

タイトルと結論が真逆という


大東亜戦争、こうすれば勝てた (講談社プラスアルファ文庫)
小室 直樹 日下 公人
講談社
売り上げランキング: 300,061

大東亜戦争は勝てない戦争ではなかった!? 保守系の論客二人が探す敗戦の原因と日本組織の欠点

驚いたことにタイトル通りの内容であった(爆
保守系社会学者のレジェンド、小室直樹と、核武装論者の日下公人の対談なのだが、その射程が政治、戦略レベルから兵器開発、戦術論まで広範にわたる
両者とも細かい兵器の性能にまで精通し、もしこれが何年にまで間に合っていたら、あるいはこの機種に資源を集中させていたら、といった一見、架空戦記じみた話にもなる。とんでもないミリオタミリタリー知識なのである
しかし、話の根本は架空戦記にとどまらない。いわばそれを可能にする、政治・戦争の意思決定、開戦から講和にいたるグランドデザインの欠如を両者は指摘しているのだ
指導層の無責任体制は戦後も官僚によって引き継がれていて、怜悧で無私でなければならない組織が共同体化し、前例を固守して同じ失敗を繰り返す。現代にも通じる日本社会の病癖なのだ

戦術面で批判されているのは、海軍の艦隊決戦主義と艦隊保全主義の共存である
この相反する二つがミッドウェー海戦でなけなしの空母4隻壊滅の悲劇を招いた
パールハーバーにおいて二次攻撃しなかったのは、米空母2隻の位置が確認できず反撃を恐れたからとされるが、逆にここでケリをつけられればミッドウェー作戦は必要なかった
ミッドウェー作戦でもアリューシャン列島に向かわせた二隻の空母を参加させれば、作戦の幅も広がった
物のない国の癖なのか、決戦すると言いながら、その時には「まだ決戦は先だ」と艦隊の消耗を避けてしまう。それは日露戦争から続く悪弊だった
奇抜なのは、そもそもパールハーバーの奇襲は必要だったのかという話
従来の日本領海近くでの艦隊決戦でも、相手に空母による航空攻撃の有効性を知られていないのだから、奇襲の汚名を着ずにかなりの戦果を挙げられる
ガナルカナルまで手を出すのは無駄であり、石油が出るインドネシア西部と本土とのラインを確保しつつ、迎撃に専念すればいい
アメリカ海軍の増強が間に合うのは1944年以降なので、それまでに優勢を確立して早期講和にはかるのが、ベストの戦略だった
もっとも、アメリカがそれに応えてくれるほど甘ちゃんとは思えないが、開戦時に終戦までの見通しをつけていないと始まらないのだ

政治面では、何のための戦争かがはっきりしていない点を責められる
開戦の詔勅には「仕方なく自衛のための戦争をする」にとどまり、大東亜共栄圏は開戦後の1942年1月、首相の施政方針演説で初めて明らかになった。完全な後付けなのだ
これでは欧米の植民地主義を責めることはできない
二人が注目するのはインドの独立運動家チャンドラ・ボーズの存在であり、対イギリスに対しては彼のインド独立を支援する形で協力すれば、名分は立つ
アメリカなどはフィリピンの独立運動を苛烈な弾圧で潰した過去はあれど、第二次大戦前にその独立を準備しており、マッカーサーは“フィリピン”の陸軍元帥となっていた
しかし、そうした戦略の前提は、日本が占領地を自発的に独立させることだ。小室氏は朝鮮すら李王朝の王族を戻す形で独立させるべし、としており、こうしたことを当時の日本で実行できたかは怪しい
土地が富の源泉としてしまうのは農耕民族の習性であり、そうした島国の住人が海外に領地を作ってはいけない。戦争を善悪ではなく、国益の観点で問い詰めてここに至るというのが、本書の面白いところ。極端な仮説、試論も突き詰めれば、核心を突くのだ

『続・昭和の怪物 七つの謎』 保阪正康

謎は謎として残る


続 昭和の怪物 七つの謎 (講談社現代新書)
講談社 (2019-04-10)
売り上げランキング: 24,066

日本人にとっての戦後は何なのか。戦前・戦後の政治家、知識人の決断から、歴史の裏側を探る

『昭和の怪物』第二弾。今回のメンバーは三島由紀夫、近衛文麿、橘孝三郎(農本学者)、野村吉三郎(駐米大使)、田中角栄、伊藤昌哉(池田勇人の首席秘書官)、後藤田正晴と、前巻より戦後に寄っている
例によって怪物と呼べるのは、田中角栄ぐらいだろうか(苦笑)
全体に渡って貫かれているのは、日本の戦後の“肯定”であり、平和憲法の護持である。利益分配の政治を確立した角栄を「自覚せざる社会主義者と喩え、庶民視点の「軍隊の理不尽さ」を身に知る「反戦」の政治家として捉える
露骨なのは後藤田正晴の章で、「私の目の黒いうちは憲法を変えさせない」と護憲関連の発言を強調する。実際の後藤田にはテレビで「政治家のレベルは国民のレベルだ」と突き放すような保守政治家の側面もあるのだが…
本書は前作以上に、作者の主義主張にかなう部分を拾っている印象が強かったが、知られざる歴史の裏側を教えてくれる一書である

興味深かったのは、そうした中で作者の戦後民主主義的価値観に批判的な面々
特に5.15事件に参加した橘孝三郎は、近代化そのものに批判的な農本主義者であり、若年のころに大杉栄らのアナーキズムにも影響を受けたような人物。郷里の茨城に自ら荒野を開拓して、農村共同体“愛郷会”を設立していた
その彼が5.15事件に参加することとなったのは、海軍士官たちの純粋さに惚れたのと、工業化のシンボルである発電所を破壊することで東京を停電させ、その社会の脆さを考えさせる狙いがあった
しかしまさか、ときの総理を暗殺するほどの事件を起こすとは想像していなかった
橘はその結果、農本ファシスト」の烙印を押されてしまう。本人としては社会主義もファシストも工業的で、農本主義はそうしたものと対極にあるのだが……
作者は橘の挫折に大正時代の理想主義が崩壊していく象徴としてみる

 私たちは近代日本百五十年の歴史を迎えて、その姿を俯瞰してみる時、大正時代の理想主義の精神を忘れているように思う。私は、橘に月に一度か二度訪ねてその体験を聞いているうちに、橘が口にした「君の質問は戦後民主主義的にすぎる」の意味がしだいに分かってきた。大正デモクラシーと戦後民主主義の違いは、一言でいえばその「内在する力」の違いだったのである
 大正デモクラシーに傾いた人たちは、歴史や政治、そして人間存在そのものの中から何が真実かを求めようとして、そこに辿りついたが、戦後民主主義はそのような内的な力よりも外面的な枠組みとして、民主主義を受け入れていたのであろう。
(p84-85)


ならば、その大正デモクラシーがなぜ昭和に崩れたのか、日本人なら追究すべきテーマだろう

三島由紀夫の章では、その「盾の会事件」における自殺が大きなウェイトを占める
作者は自らの死によって社会に影響を与えようとする「自裁死と規定し、明治36年に投身自殺した藤村操から、芥川龍之介、山崎晃嗣、三島由紀夫、最近に亡くなった西部邁を例にあげる(「自裁死」という言葉は西部邁が広めたらしい)
特に三島にとって大きな意味を持つのが、現役東大生が闇金融屋となった「光クラブ事件」の山崎晃嗣で、事件をモデルとした小説『青の時代』からはかなり親しくないと分からない描写があるという
山崎は学徒兵として召集を受け、終戦時に上官の命令で食料を隠匿したが、密告で逮捕され警察で虐待を受けた経験を持つ。そこから「人間はもともと邪悪」との信念を持つようになったという。山崎は光クラブの資金繰りが悪化した結果、青酸カリで自殺する
管理人は三島と西部以外の三人の「自裁死」が明確な社会的メッセージを持っていたかと断定できないが、たしかにそれぞれの死は時代を象徴する事件には思える
三島の死は彼が「鼻をつまんで生きてきた」戦後民主主義の社会の一面をさらけだし、本音と建て前が乖離しても平気な日本人の性を指弾するものなのだろう


前作 『昭和の怪物 7つの謎』

青の時代 (新潮文庫)
青の時代 (新潮文庫)
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三島 由紀夫
新潮社
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『昭和の怪物 七つの謎』 保阪正康

半藤一利より、護憲ありきな姿勢


続 昭和の怪物 七つの謎 (講談社現代新書)
保阪 正康
講談社
売り上げランキング: 7,561

戦争の時代、その渦中にいた人物たちは何を考えていたのか。昭和史の大家が4000人を超える取材体験から探る昭和の影

御年80になろうという著者が、平成が30年で終わり、つまり昭和から30年過ぎたのを機に、ライフワークであった動乱の時代を振り返ったのが本書だ
東条英機、石原莞爾、犬養毅、渡辺知子(5・15事件の被害者・渡辺錠太郎の娘)、瀬島龍三、吉田茂の6人から、知られざるエピソードを切り抜き、歴史の深層に迫っている
取材者対象が吉田茂の娘・麻生和子(財務大臣・麻生太郎の母)など本人に極めて近い、歴史の立会人といっていい人たちばかりであり、その生々しい証言から歴史の劇的な瞬間と、その裏側にうごめく“昭和の暗部を引き出しているのだ
吉田茂の章で「非武装」の構想にこだわるなど、反自民・反安倍のバイアスはあるのだが、長きにわたる蓄積があるからこその味わい深い歴史の光景を拝むことができる

タイトルの『昭和の怪物』は半ば釣りで、それに当てはまるのは石原莞爾ぐらいだろうか
東条英機は石原莞爾が小馬鹿にする「無思想」の人間であり、総理になっても精神論を鼓吹する「陸軍軍人の典型であった。サイパンが陥落して絶望的な状況となっても、「これで日本人の精神が目覚める」と言い出すのだから、国民はたまらない
こういう人間がトップのほうが参謀は操りやすいと考えていたのだろうか
作者の指摘する東条の過ちは日米開戦を防ぐため首相に任命されたのに、戦争が避けられなくなってからも引責辞任しなかったこと。東条は「敗戦によって国体が損なわれるのを防ぐ」という政治家の視点を持てず、ただ軍人として戦争に勝つことだけを考えてしまった。昭和天皇並びに内大臣・木戸幸一の賭けは外れたのである

石原莞爾に関しては、戦後の活動から戦前の「世界最終戦論」に遡るという、時系列と逆に珍しい試みがされている
石原は戦後、「世界最終戦論」を「はなはだしい自惚れ」と撤回し、東京裁判を否定しつつも、新しい憲法は将来を反映している、と評価していたそうだ

「われわれは、歴史は今重大な転換期に来ているものと見、後の鳥が先になる機会が与えられているものと考えている。血なまぐさい時代ではあるが、世界は正に人類のあこがれである永久の平和が実現しようとしているのだ。日本はちょうどマラソンで一番ビリになった選手のようなものだが、コースが変われば逆に最先頭になる可能性がある。コースは現に変わりつつある。決して落胆する必要はない」(p56~57 「新日本の建設とわが理想」)


作者は「非武装」「戦争放棄」の理想から、吉田や石原の平和憲法支持を持ち上げるが、それぞれ「戦前の軍隊の影響を徹底排除したい」「国が貧しくては軍を維持できない」など現実的な視点があったことを忘れてはいけないだろう
「世界最終戦論」は日蓮主義がベースとなっており、立正安国の教えが日本で確立したのちに、インドなど広まっての永久平和の実現が、最終戦争後の平和に変わっている。米ソの冷戦を「最終戦争」と仮定すると、趣き深い史観なのだが、多極化時代のテロや地域紛争、米中冷戦をみれば、それもまたユートピア的ったということか
それはさておいて、石原は満州事変を起こしつつも、アジアの盟主たるには「日支提携」が不可欠と日中戦争には大反対し、太平洋戦争を論外とした。その先見の明から当時も戦後もファンが多く、本書では幻の東条暗殺計画や倒閣との関わりを追求し、2.26事件、トラウトマン工作(日中の和平案)への関与も分析される
東条とは対照的に、軍人としての立場や発想に縛られない「怪物」は、多くのシンパを得つつも組織からははじき出され、その主流になることはできなかった
自らの経歴を改竄しようとした瀬島龍三しかり、東条のように体制に順応し、その枠内でしか行動できない官僚エリートたちが国を滅ぼしたという歴史の教訓が本書を貫いている


次作 『続・昭和の怪物 七つの謎』

関連記事 『陸軍軍務局と日米開戦』

ある歴史の娘 (中公文庫)
犬養 道子
中央公論社
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『日本共産党と中韓 左から右へ大転換してわかったこと』 筆坂秀世

先を読めない「科学の目」



日本共産党は戦前戦後をどう歩んできたのか。本当に護憲政党なのか。元共産党幹部がその実態を明かす

著者は共産党員として参議院議員を務め、党の要職を歴任しナンバー4にまで登りつめた人物。セクハラ事件で議員辞職、離党してからは、保守派に転じている
本書では安保法案の「戦争法」「憲法違反」と批判する日本共産党が、過去に憲法や外交政策でどういうスタンスを取ってきたかが俎上に載せている
戦前の共産党は1930年代には壊滅状態となり、1945年の敗戦ともに再結成されたが、ソ連のスターリンの影響下にあり世界党である共産党の日本支部という扱いだった
平和憲法=日本国憲法制定の際には、「天皇制の存続」「自衛戦争の放棄」を理由に反対票を投じていて、朝鮮戦争が勃発した50年代にはソ連のコミンフォルムから武力闘争が求められ、四分五裂の状態に陥っている。70年代に党勢を回復させてからも、被爆国でありながら社会主義の核は正義としたり、冷戦が終わってからの「ソ連の覇権主義」を批判するなど、一般大衆からは非常識あるいは周回遅れ過ぎる対応を繰り返してきた
前衛政党と称しながらも、その時の政情を意識して野党として生き残るべく、綱領を共産主義との建前の間で変化させ続ける政党なのである

最近、連合赤軍の映画やマンガを読んでいる管理人からすると、新左翼に与えた影響が気になる
なぜ、連合赤軍は山に籠もったのか。その元は毛沢東の中国が日本共産党に押しつつけてきた人民戦争方式である
野坂参三は当初、平和憲法下の社会主義革命を唱えたが、コミンフォルムに非難され徳田球一ともに政策変更。GHQの公職追放後に、両者は中国に亡命して「北京機関」を設立し、日本に武力闘争路線を輸出しようとした
そして、1951年10月に第五回全国協議会(五全協)において、「日本の解放と民主的変革を、平和の手段によって達成しうると考えるのはまちがいである」と綱領を定めた(現在の日本共産党は「綱領」と認めていないが)

そして、同時に「軍事方針」なるものを五全協は採択している。
「占領制度を除き、吉田政府を倒す闘いには、敵の武装勢力から味方を守り、敵を倒す手段が必要である。この手段は、われわれが軍事組織をつくり武装し、行動する以外にない」
(中略)
「われわれの軍事的な目的は、労働者と農民のパルチザン部隊の総反攻と、これと結合した、労働者階級の武装蜂起によって、敵の兵力を打ち倒すことである」
「大衆闘争の発展と軍事的勝利の蓄積ののちには、山岳地帯に根拠地をつくることができるだろう」

 要は、農村部でのゲリラ戦など、中国革命方式の武装闘争を行うことを規定しているのだ。……(p65‐66)

当時は朝鮮戦争が勃発しており、コミンフォルムは日本での後方撹乱を日本共産党に課したと考えられる。これによって50年代の同党は、路線対立と世論の批判を浴びて大きく党勢を後退させた

1960年代、ベトナム戦争が激化する中、1966年に日本共産党は宮本顕二書記長を団長とする代表団北朝鮮中国に派遣した
中国側は中ソ対立から、アメリカと同時にソ連を共通の敵とする立場を求めたが、ソ連が北ベトナムを支援している関係から代表団は拒否。毛沢東は日本共産党を「宮本修正主義集団」と規定し、日本の革命運動へ毛思想の絶対化を広めようとした
再び来た人民闘争路線の浸透に、日本共産党内部のみならず、各層に大きな影響を与える。共産主義者同盟(ブント)の国会突入において樺美智子の死を英雄として人民日報は持ち上げ、1970年の「よど号ハイジャック事件」を周恩来が称賛した
当時の日本のマスメディアは、朝日から読売まで文化大革命を評価する論陣が張られていた(司馬遼太郎すら巻き込まれている→『長安から北京へ』
そうした毛ブームの中で、一番ガチに思える人民戦争路線を突っ走る連中が現れるのは分からなくはない。今からすれば、「どうしてこうなった」と思える連合赤軍事件も、こうした社会的背景があったのだ
ちなみに、ニクソン訪中を機に中共は大きく外交政策を変更させ、自民党との接近をはかり、周恩来は「日本にとって日米安保条約は、非常に大事です。堅持するのが当然」と言い切ったそうだ。これが政治である


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