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『ラストサムライ山本覚馬』 鈴木由紀子

たまに競馬コーナーに置かれてる


ラストサムライ 山本覚馬
鈴木 由紀子
NHK出版
売り上げランキング: 609,122


大河ドラマにも登場した新島八重の兄、“あんつぁま”山本覚馬の伝記
山本覚馬は一般に知られていないどころか、現地の会津でも過小評価されてきた人物だった。覚馬のせいで会津藩の洋式兵装が遅れたというトンチンカンな声もあったという
一念発起した著者は1998年に『闇はわれを阻まず 山本覚馬伝』を上梓して小学館のノンフィクション大賞を受賞。本書は大河に合わせて復刻したもので、その後判明したことも反映した改訂版である
内容は幕末維新の覚馬自身の活動もさることながら、八重の会津戦争、盟友・新島襄と同志社大学にも触れていて、ほぼ大河の内容と重なる。三年前に買っとけば良かった(苦笑)
『八重の桜』で省略、単純化された部分が実際どうだったか、きっちり記されているので、ヤエサクファンは間違いなく買いである

会津藩は京都守護を任される前から、幕府に使い倒されてきた
文政五年(1822年)には蝦夷地防衛を命じられ、千人の藩兵が松前、樺太、宗谷に送っていた。文政七年には三浦半島の警備も命じられ、延べ10年に渡る軍役が命じられていた
覚馬の祖父、山本権八良高はこうした情勢のなかで砲術師範を任され、西洋砲術である高島流を導入した。先々代から山本家は藩の洋式化を担っていたのだ
山本家はその遠祖を武田信玄の軍師・勘助と称していて(実際は茶道方?)、覚馬もそれを意識して身を律していたという
佐久間象山のもとで修学した覚馬は、藩校・日新館蘭学所を設立するも、京都守護に藩財政の四割を費やす現実に洋式化は遅々と進まない
藩のことだけでなく、日本の国防策として『守四門両戸之策』を上申し、27隻の蒸気船で瀬戸内海を守るなど、かなり具体的な提言をしていた
しかし禁門の変時での負傷が元で、失明し後には半身不随に追い込まれてしまう
砲術師範としては無念な結末となったが、奔走した長崎では貿易商レーマン兄弟と出会い、後に京都復興のパートナーとなった

薩摩藩邸で客分扱いとなっていた覚馬は、槇村正直のヒキで京都府顧問となる
槇村正直は志士としての経歴は薄いものの、長州藩の洋式工業に取り組んだ実績があり、戦火で焼け遷都で荒む京都の復興を任されたのだ。明治政府は江戸遷都を断行するために、京都の世論を鎮静化しようと25万円もの大金を投じていた
槇村は行動力がある反面、廃仏毀釈の流れから平等院鳳凰堂(世界遺産!)を二千円で売りに出し、買い手がつかないとその蓮池に稲を植えさせるなどカオスな政策を採ることもあった
先進的思想を持つ覚馬が槇村を善導することで、日本初めての小学校、中学校、精神病院(癲狂院)が実現し、京都の殖産興業が結実したのだ。覚馬がいなければ、今の京都はありえなかっただろう
小野組転籍事件では、指弾した江藤新平や岩倉具視、木戸孝允を訪ねて槇村を救った覚馬だが、府議会の初代議長になったときは増税を巡り激しく槇村と対立する。生まれたばかりの府議会で、予算審議の前例を残した

新島襄とは、そもそも同志社設立に大きく関わっており、学校としての体裁で許可を得て、課外授業で聖書を教えたのは覚馬の入れ知恵。キリスト教の排斥に対しても、その人脈をフル活用して学校を救っている
新島が体調を崩した際には、校長代理となり、早逝した後にはしばらく臨時総長を務めている。同志社と山本家は一体だったのである
ドラマでは失明した後は、聖人のように描かれていたが、開拓会社を立ち上げて養蚕や植林事業を手がけるなど経済人として目ざとい部分もあり、京都府顧問を辞して全く金に困らなかった。体が動かずとも、その精神は闊達だったのだ
本書には思案橋事件の主犯・永岡久茂と川崎尚之助の関係の他、幕末における勝海舟のフィクサーぶり長州が下関を封鎖して京都の米価が急騰したなど、この時代の豆知識も詰まっていて、単なる歴史ファンにも読み応え充分の内容だ


ハンサムウーマン 新島八重
鈴木 由紀子
NHK出版
売り上げランキング: 672,194
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『井伊直弼の首―幕末バトル・ロワイヤル』 野口武彦

純粋過ぎて門弟もびびってたらしい。松陰先生は


井伊直弼の首―幕末バトル・ロワイヤル (新潮新書)井伊直弼の首―幕末バトル・ロワイヤル (新潮新書)
(2008/02)
野口 武彦

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ついに黒船来る。日米通商条約から、大地震、安政の大獄に桜田門外の変。内憂外患に苦しむ安政年間を振り返る
『幕末バトル・ロワイヤル』週刊新潮に連載されたコラムで、本書は2006年8月3日号から2007年6月14日号にまとめたものだ
それこそ週刊誌のように、上は政治上層部の暗闘から、地震、台風、物価高といった災難、庶民を慰めた風俗までを扱っていて、時代を様々角度で眺めることができる
週刊連載のために一項目ごとにネタがまとめられて読みやすく、かつ著者の史観がブレないため一冊の本としても完成していた
通商条約の調印を決めた政治の力関係から、井伊直弼の出自と人柄、安政の大獄の原因、為替を巡る日米の暗闘と、開国の経緯とその影響を、微に入り細にわたって描いているので、『花燃ゆ』の補完本としてもお薦めだ

本書の主人公は、タイトルにもある通り、井伊直弼だろう
井伊直弼は側室の子として生まれた。ほとんどの男子が養子に出されたのに、引き取り手がおらず部屋住みの身か、寺の坊主で一生を終えるはずだった
しかし、兄の嫡子が死んだことで、初めて陽の目を見る。他の兄弟が他家の養子となってしまったので、跡継ぎが直弼だけになってしまったのだ
当主の兄は突如、自身の養子となった直弼を邪険に扱い、この側室の子という境遇が安政の大獄を起こすダークサイドを生んだと著者は推測する
その兄の死で藩主となった直弼は出世主義者であり、政権内部の地位を高めようと運動していく。水戸藩の徳川斉昭の子で一橋慶喜を次期将軍につける動きに対抗して、御三家の紀州藩を味方につけることに成功
阿部正弘の後を受けた筆頭老中・堀田備中守正篤が通商条約についての朝廷への工作を失敗したことを機に、将軍の信任を受けて大老職に就いた
直弼はその傲岸不遜と独裁的な人事から、早くも各方面に反発を招いてしまう
開国に際しては、外患より内輪の折り合いを重視したが、アロー事件の流れからアメリカ総領事ハリスの圧力がかかり、開国派の海防掛・岩瀬忠震と井上清直の説得で通商条約調印に傾いた
井伊直弼はあくまで内向きの政治家であって、先見の明があったわけではなかったのだ

吉田松陰については、孟子と孫子に対する注釈からその思想が分析されている
『講孟余話』は、密航に失敗し野山獄にいたときの講義がもとになった孟子の注釈書で、現実の政治批判にもなっている

梁の恵王は孟子に会うといきなり、「遠路はるばるよく来て下さった。わが国に何か利益をもたらしてくれるか」と問いかける。これに答えた孟子の言葉は有名だ。「王、何ぞ必ずしも利をいわん。また仁義あるのみ」(p148)


この「梁恵王編」を使って松陰は、名利を追いかける昨今の武士を批判し、アメリカに屈する幕府や長州を指弾する。上から下まで己の利益を追求するは国家の危機であるというのだ
『孟子』は徳のない君主を放伐する革命思想から、日本では危険思想とされたが、松陰は日本において、儒学の「天命による革命」を否定する。ただし、徳川幕府は「天朝」が命じた将軍に過ぎないので、職務怠慢があればそれを廃することができるとした
著者は松陰が孟子を読み破ることによって、尊王と攘夷を思想的に結合させたとする
孫子の注釈では、死地を大きく取り上げていて、戦わねば死ぬ絶体絶命の立場に日本や長州を追い込めば、変革は可能だと考えていた
松陰は半ば藩を潰すつもりで、間部詮勝の暗殺をぶちあげたのかもしれない


前巻 『幕末バトル・ロワイヤル』

花の生涯〈上〉 (祥伝社文庫)花の生涯〈上〉 (祥伝社文庫)
(2007/04)
舟橋 聖一

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『日露戦争陸戦の研究』 別宮暖朗

仮想敵は『坂の上の雲』!?


日露戦争陸戦の研究 (ちくま文庫)日露戦争陸戦の研究 (ちくま文庫)
(2011/01/08)
別宮 暖朗

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日露戦争は、本当に作戦による勝利なのか? 陸軍の印象操作を打ち破り、七つの陸戦の勝因を問い直す
『坂の上の雲』を始めとした日露戦争のイメージは、物量に勝るロシアを作戦によって退けたとされる。本書ではそうした通説を軍官僚による情報操作であると疑い、冷静に戦況を見直すことで本当の勝因を明らかにしていく
著者が痛烈に批判するのは、井口省吾、松川敏胤をはじめとする陸大出の参謀たちで、現実的でない作戦を現場に押し付けて混乱させたとする
最終章でそうした参謀の失敗を戦後の官僚政治への批判とつなげたように、著者の価値観が色濃く反映されていて、井口らへの批判は後出しジャンケンの嫌いはある
しかし、戦史は参謀たちによって書かれる。戦争への印象はそうした参謀の政治的事情が反映されていて、『坂の上の雲』もその影響を免れていないとなれば、本書の価値は大きい

本書によると、日露戦争は海軍主導で開戦が決まり、陸軍は満州での決戦を想定していなかったという
日本側から見て開戦のきっかけになったのは、ロシアが鴨緑江河口の龍岩浦に軍港化をはかったこと(龍岩浦事件で、ロシアとしては旅順とウラジオストックだけでは航行距離の問題から制海権がとれないと朝鮮半島両岸に不凍港を欲しがっていた
この動きに対して、海軍大臣・山本権兵衛は表向きは平静を保ちつつ、奇襲攻撃による開戦計画を練っていた。外交の現場でロシア側の強硬姿勢を見ていた小村寿太郎がこれに同調し、ロシアへの和平工作に失敗した伊藤博文も日英同盟を見て開戦に舵を切った
陸軍はというと、山県を始めとする要人は満韓交換の条件が成立しないはずがないと思い込みがあって、海軍の事情に疎かった。首相・桂太郎は開戦が避けられないことから辞職騒動を起こしたという
開戦してからも、海軍の制海権次第で上陸できないとあって、陸軍は終始、海軍の事情に引きずられることとなり、大陸での決戦など想定できなかった。まったく準備を欠いていたのだ
また、陸大の教官であったメッケルは実戦経験が少なく、井口、松川らに師団長レベルの部隊展開しか教えることができなかった。他国に送られたドイツ軍人に比べ、二流の人材と著者は手厳しい
児玉源太郎は井口や松川といった参謀の空論を、菩薩なんだとおだてつつ無力化し、方々に角が立たないように軟着陸させていた。戦争全体の計画性には疑問符がつくものの、その軍人離れした調整能力は著者も高く評価している
結果、旅順攻防戦、遼陽会戦、奉天会戦などの決戦では、参謀によるドイツの軍事学よりも、戊辰・西南戦争を経験した将帥の機転がものをいうことになる

本書の目的のひとつは乃木希典の復権だろう
最初の総攻撃こそ、集団密集での突撃で大きな損害を出したものの(それにしても同時代の常識ではあった)、次の攻撃からは敵の塹壕に対して塹壕で迫る戦法に転換し、海軍に協力して重砲部隊で旅順艦隊を機能不全に追い込み、203高地の争奪戦では敵に消耗戦を強いてステッセルの降伏につなげた
日露戦争時代の砲弾では塹壕、トーチカを粉砕するには限界があり、どこかの時点で銃剣突撃はやむをえず、要塞の攻略は数に劣る守備兵を消耗戦に追い込む必要があった。いくつかの錯覚はあったものの、当時の事情からすればかなり優れた戦果を残したといえるのだ
旅順の膨大な犠牲は近代戦そのものの性質からであり、それに震えた者たちが責任を乃木に求めたと考えられる

本書のもうひとつの特徴はロシア側からの分析である
物量のロシアというのは、あくまで第一印象であって、実際に日露戦争に投じられた兵力はそれほどでもなかった
開戦当初は日本からの攻撃を想定していないので、極東全体の兵力が薄く、しかも旅順要塞に割かねばならなかった
遼陽、奉天と後期になって兵力が充実したのはいいものの、今度はシベリア鉄道を補給にフル回転させねばならず、帝政の腐敗から必要量が戦場に届かなくなっていた
実はロシア側からしても戦争の継続は困難になりつつあり、日本軍を打ち破る方策がなくなっていたのだ
つまりポーツマスで日本が賠償金を取れなかったのはウィッテの外交的勝利で、日比谷で暴れた庶民の感覚はあながち間違ってなかった(苦笑)
しかしこうしたものの見方は、あくまで結果と状況を全て知ってから言えることであって、日本の権益が守られればそれでよしとする児玉源太郎のバランス感覚を著者も認めている


関連記事 『坂の上の雲』 第1巻
     『「坂の上の雲」の幻影 “天才”秋山は存在しなかった』
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『会津落城―戊辰戦争最大の悲劇』 星亮一

大河の展開より早く読めました

会津落城―戊辰戦争最大の悲劇 (中公新書)会津落城―戊辰戦争最大の悲劇 (中公新書)
(2003/12)
星 亮一

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会津藩はいかに戦い、滅んだのか。会津戦争の実相を伝える星亮一の戊辰四部作最終巻
『奥羽越列藩同盟』が東北・北陸全体を捉えたのに対し、本書は最も激しい主戦場の会津に焦点をあてる
会津戦争では白虎隊や女性の殉難といった悲劇が美化して語られがちであり、藩の戦略・対応自体を問われることが少なかった
著者はそうした悲劇を美談化することを拒否し、藩首脳の指導不足や硬直性として批判していく
会津では数千ものの命が失われた。戊辰戦争は日本が最初に経験した近代戦ともいえ、その犠牲や影響は明治以後も尾を引いていく
会津戦争の実態に近代日本人の悪しき体質がある、とする著者の言葉は重い

会津藩はなぜ敗北したか
『奥羽越列藩同盟』では農村との関係が疎遠であることを強調されていたが、近年では板垣退助の総括ほど極端なものではないと分かってきたらしい
山川大蔵日光口での戦いで周辺の猟師を味方につけて、薩長についた宇都宮藩兵相手に大勝し、憤った薩長方は捕まえた猟師の腕を斬り落とすという報復に出ていた
しかし、全般的に階級の隔たりが大きかったことは否めず、会津兵が官軍の宿営に使われないように焼き討ちした地域では官軍への支持が大きくなり、戦線によっては会津を恨んで官軍を引き入れる農民も現れた
官軍によって徴発された農民たちは大きな負担を強いられたが、会津に加担する動機にはなりえなかった
洋式化が浸透した官軍に対し、会津の後進性は否めず、ある戦線が抜かれても他の戦線が知らずに孤立する、戦機を逃すことが多かった。首脳陣に大局を把握する意識が薄く、戦線同士で連絡をとるような士官教育がなされていなかった
少しフォローすると、会津の中で気鋭の者は京に出て敗れていたことが痛い。京都守護職を引き受けた藩主容保は、大坂からの退却で権威が失墜しており、保守・俗吏の留守居役が威張っていたことが藩の指導を中途半端なものにしてしまった

大河ドラマ『八重の桜』に関係しそうなところを拾い上げてみる
ヒロイン八重に関しては、

 砲術師範役山本覚馬の妹八重子は、男装し、両刀をたばさみ七連発銃をかついで城に入った。衣装は鳥羽伏見の戦いで戦死した弟三郎のもので、弟の仇討ちの覚悟だった。本丸に向かうと大勢の女中が主君容保の義姉照姫を警護していた。皆、懐剣をもって城を枕に殉死する覚悟だった。
 照姫は重臣の妻女に、籠城のさいは自分の周囲に集まるように指示を出していた。どの範囲までかは分からないが、これは立派な指示であり、もたついた男子にくらべると、会津藩は女子のほうがましだった。
 八重子は男たちに混じって城壁から敵を銃撃した。(p137-138)

これだけである(苦笑)
一月の籠城戦をもたせたのは女性の活躍があったればこそであり、八重はそれを代表する存在として描かれるのだろう
対照的なのが、保守派の代表格とされる西郷頼母
会津戦争の天王山となるはずだった白河口の総督を務めながら、あっけなく抜かれて再び更迭。籠城後に三度復帰するも会議で重役一同の切腹を主張する狂乱ぶりで、新体制後は仙台ついで榎本の艦隊で箱館に向かうも戦うことはなかった
白虎隊の悲劇も多くの女性たちの犠牲も首脳陣の至らなさから発しており、どこまでそれが問われるか、大河では注目したい


関連記事 『奥羽越列藩同盟』

八重と会津落城 (PHP新書)八重と会津落城 (PHP新書)
(2012/12/16)
星 亮一

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『奥羽越列藩同盟 東日本政府樹立の夢』 星亮一



奥羽越列藩同盟 (中公新書)奥羽越列藩同盟 (中公新書)
(1995/03)
星 亮一

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江戸が開城してからも東日本の諸藩はなぜ戦い続けたのか。薩長に比する構想を持った列藩同盟の軌跡をたどる
鳥羽伏見の戦いに始まる戊辰戦争は、江戸開城後も激しい戦いが続いていた
仙台藩を中心とした列藩同盟は、会津救済を目的で集ったものの、薩長を官軍として認めない姿勢をとり、輪王子宮公現法親王を奉戴して同等の勢力として立ち向かった
その立役者となったのが、外遊した経歴をもつ仙台藩の玉虫左太夫で、彼の構想のもとに会津の梶原平馬、南部藩の楢山佐渡、米沢藩の千坂太郎左衛門、長岡藩の河井継之助、庄内藩の菅実秀がそれぞれの藩を動かしていく
本書では、北陸における河井継之助の戦いと会津藩の死闘を包括してとらえ、列藩同盟の興亡と参謀たちの生き様を描いている

列藩同盟は幕藩体制の維持にこだわるものではなく、薩長中心の体制への異議申し立てだったというのが本書の主張だ
当時は「勝てば官軍」という政治情勢であり、列強も多くは中立を保ち列藩同盟に肩入れする国もあった
会津の梶原平馬は河井継之助の紹介でオランダのスネル兄弟と出会い、彼らを通して諸外国から同盟の武器弾薬を補給している
仙台藩では榎本武揚を介して、フランスの軍事顧問を招聘し、対薩長の戦略を練っていた(会津藩主導という見方もある)
そうした雄大な構想をもつ同盟がなぜ敗れたか
ひとつは榎本艦隊の動きが遅く、新潟港を薩長に押さえられたこと。武器弾薬の補給路を失ったことが致命的で、装備の上でも薩長に押されることになった
同盟には海軍が皆無だったので、榎本武揚の全面協力を得られなかったのは辛すぎた
二つ目には秋田藩の背信で、仙台藩は懲罰の兵を向けざる得なくなり、会津藩を救援できなかった
三つ目には、白河口を破られるのが早すぎた。東北の諸藩は実戦経験がなく、鳥羽伏見を経た会津も近代戦に対応できなかった
庄内藩は農兵を動員して挙国一致の体制をとれたが、会津は武士と農民の壁が高すぎたのか、農民たちは戦いで焼き払われるのを恐れ、形勢が傾くと薩長方に協力した
幕藩体制の優等生ぶりが仇となったようだ

同盟が敗れたのち、各藩の参謀たちには厳しい処分が待っていた
仙台の玉虫左太夫は明治の時代にも耐える人材ながら、微罪を口実に藩内の政敵に葬られた
長岡の河井継之助は戦傷がもとで死に、南部の楢山佐渡は戦犯として切腹を命じられた
会津は今後のため、萱野権兵衛一人が責を負い、梶原平馬山川大蔵は明治を生きた。山川家は明治における会津人の中心的存在となり、大蔵は陸軍軍人から貴族院議員となる。弟の健次郎は東京帝国大学総長に、妹捨松(咲)は大山巌の後妻となり鹿鳴館の華とよばれる
梶原平馬水野貞との恋のために、大蔵の実姉・双葉と別れ北海道に渡った。貞は教育者で女性で最初の小学校校長となり、平馬もその夫として生涯を終えた
このくだりは『八重の桜』でも取り上げられるはずなので、敗者たちの明治に注目したい
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『小栗上野介-忘れられた悲劇の幕臣』 村上泰賢

徳川埋蔵金を埋めた人らしいけど

小栗上野介-忘れられた悲劇の幕臣 (平凡社新書)小栗上野介-忘れられた悲劇の幕臣 (平凡社新書)
(2010/12/16)
村上 泰賢

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幕府の旗本の立場から日本の近代化に貢献しなががら、罪無くして死んだ小栗上野介の生涯
著者は小栗上野介の菩提のある東善寺の住職で、本書は官軍から「奸物」と見なされ処断された幕臣の名誉回復をはかるものながら、少し力点がずれている
調べているうちにネタが膨らんでしまったのか、紙数の半分が通商条約批准を目的とした安政の遣米使節団に割かれているのだ(苦笑)
使節団は直に見たアメリカの技術文化に圧倒され、外国の文明を学び取り入れる決意を新たにする。後の岩倉使節団が受けた衝撃を旗本たちも受けていた
小栗は黒船以前からの交易論者、安積艮斎の薫陶を受け、外遊の体験からラディカルに日本の近代化を目指していく

薩長側を主役した小説では、小栗上野介はフランスからの借款で洋式軍隊を作り官軍と戦う売国奴として扱われることも多い。極端なものでは、フランスの勧めに従って徳川家将軍を「皇帝」に仕立てあげ、天皇制を廃せんとする奸臣とまで言われる
本書で描かれる小栗からは、そうした姿は見えてこない。横須賀に日本発となる本格的な造船所を造る時には

 このころ、ある幕臣が「幕府の運命もなかなか難しい。費用をかけて造船所を造ってもできあがるころには幕府はどうなるかもわからない」と語ったところ、小栗は居ずまいを正し「幕府の運命に限りがあるとも、日本の運命には限りがない。幕府のしたことが長く日本のためとなって徳川のした仕事が成功したのだと後に言われれば徳川の名誉ではないか。国の利益ではないか」(p129)

徳川慶喜など維新後に汚名返上のため事実と違う立志伝が創られることもあるので、そのまま鵜呑みはできないにしても、小栗の行動に主義者めいたものはない
旗本として徳川家を支える側に回っただけであって、それは維新後に政府へ参画した他の幕臣となんら変わるところはない
小栗は鳥羽伏見の戦いを誘引した西郷の江戸攪乱工作を止めるために、薩摩藩江戸藩邸を焼きはらうことに進言したと言われ、単にその煽りから粛清の白羽の矢が立ったものと思われる
慶喜の意志に従って官軍に抵抗せずに捕まっており、どうせなら大鳥圭介ばりに粘った方が良かったのかも

本書ではドロドロした政治の舞台裏については余り触れず、小栗の業績を「ですます調」で丁寧に振り返っていく
その働きには横須賀造船所のように実ったものもあれば、時代の波に翻弄されて立ち消えたものもある
小栗は遣米使節団において、日米通貨の比較分析する任務を負っていた。当時、日本と外国では金銀の取り扱い方が違い、4メキシコドル(銀貨)→一分(銀貨)12枚→一両(金貨)三枚→12メキシコドルとなる事態が起きていた
これを是正するために、小栗は現地でドル金貨の成分を分析させ、レートが実態から離れていることを立証している
ただ、これはアメリカの国益を左右するとして通らず、日本側が一両小判の含有量を下げることで対応したようだ
日露戦争後、東郷平八郎は小栗の遺族を招き、「日本海海戦に勝利できたのは、小栗上野介殿が横須賀造船所を建ててくれたおかげ」と謝辞を送った
その業績のひとつひとつは小栗がいなくても誰かがやれた仕事かもしれないが、そのことごとくが維新後の行政の先鞭となっていて、その前例が後押しことは確かなのだ


小栗上野介 日本の近代化を仕掛けた男 小説 (集英社文庫)小栗上野介 日本の近代化を仕掛けた男 小説 (集英社文庫)
(2006/08/18)
童門 冬二

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うむ。横須賀造船所であたふたしているところをみると、埋蔵金はガセのようだな
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『鳥羽伏見の戦い―幕府の命運を決した四日間』 野口武彦

幕末ものを読むごとに、慶喜の評価が下がっていく

鳥羽伏見の戦い―幕府の命運を決した四日間 (中公新書)鳥羽伏見の戦い―幕府の命運を決した四日間 (中公新書)
(2010/01)
野口 武彦

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幕末の関ヶ原、“鳥羽伏見の戦い”において何が勝敗を分けたのか。その戦いの意義、可能性を従来の定説に囚われず見直す
最近読んだ幕末の本は、主題の他に周辺事情がたっぷりというタイプだったが、本書はほぼ“鳥羽伏見の戦い”についてのみ絞って掘り起こしていく
新政府側、旧幕府側の史料を縦横に引用して、当時の政治状況、銃器、戦術などの技術水準などを細かく検証すると同時に、戦場の情景や身も蓋もない修羅場までを情緒豊かに描いている。非常にディープな事物が並ぶものの、引用のすぐ後に簡明な意訳があり、読みを滞らせることはなかった
本書では、戦力的には優勢とされた旧幕府側に立って、いかにすれば勝てたか逆転できたか、と問うことで戦いの性質を浮かび上がらせている

いかにすれば鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は勝利、挽回することができたか?
純軍事的にはいくつも機会があった、といえるともに、可能性は低いと答えることもできる
なぜなら、旧幕府軍のネックとなったのは、人材の問題だからだ
まず、緒戦で新政府軍に機先を制されたのは、徳川慶喜の覚悟に問題があった
大軍で京都に討ち入れば、薩長や朝廷は恐れ入ってそのまま主導権を取り返せるという甘い読みがあった。すでに禁門の変という前例があったにも関わらずだ
薩長はすでに倒幕の決意を固めており、いざとなれば天皇を連れて落ち延びる手はずだった。結局、押し問答の末、薩軍に時間稼ぎをされるという、最悪の展開を辿った
そして、戦場を統括できる司令官がいず、部隊レベルでも作戦行動がとれる指揮官が限られたこと
慶喜は大阪城にいるので、陸軍奉行の竹中丹後守が伏見奉行所から全軍の指揮を執ることとなったが、彼もまた実戦の覚悟ができていなかった。戦闘が激しくなると泡を食って引き下がり、それに釣られて下げなくてもいい戦線が押し下げられることとなった
そもそも幕府軍は仮想敵をまず外国と想定していたために、陸軍は後回しになりがちで装備はともかく指揮官の育成までは手が回っていなかった
理屈の上で挽回できる作戦は立てられても、実行できる指揮官がいないのではしょうがない
江戸の旗本たちは役人は務まっても、軍人にはなれなかったのだ

戦いの舞台は京都南部であり、管理人の住んでいる地域にも非常に近い
宇治川はかつて暴れ川で、南岸には巨椋池などの沼沢地が広がっており、今は住宅地になっている広大な領域が池の底だった
中書島、槇島、向島と、“島”とつく地名が多いのも、古くは川からあふれ出た水が遊水池となり島同然であったためらしい
そんな郷土史もカバーしてくれているので、遠い昔の戦いをリアルに想像することができた
本書は『幕府歩兵隊』『長州戦争』に続く三部作だそうで、歩兵の兵装にはこだわりがある
一章を費やして、幕府軍が当時最新のシャスポー銃を使用したかを追究し、新政府側の記録から状況証拠を引きだしている。旧幕府側の史料が乏しいのが難点で、学界で認められるのは大変そうだ

幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団 (中公新書)幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団 (中公新書)
(2002/11)
野口 武彦

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『王政復古―慶応3年12月9日の政変』 井上勲

今の維新は逆戻りだったりして

王政復古―慶応3年12月9日の政変 (中公新書)王政復古―慶応3年12月9日の政変 (中公新書)
(1991/08)
井上 勲

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慶応三年十二月九日、幕府が大政奉還した後に岩倉、大久保、西郷ら倒幕派によって王政復古の大号令が下された。この宮廷クーデターはいかなる経過で起き、いかなる意義を持っていたのか。朝廷を中心に幕末の政権交代に斬り込む
ペリー来航(!)から王政復古までを取り上げているので、てんこ盛りの内容だった
朝廷の周辺だけでなく、村上源氏を祖とする岩倉家の伝統御三卿の実態など他の歴史本が取り上げない、細かいところにも立ち入り、なぜ大政奉還が起こり王政復古で覆されたのか、詳細にわたって検証している
また、そうした事実の積み重ねを追うだけでなく、公武合体、大政奉還、王政復古の裏にある思想を読み取って、現代の政治にも通じる言葉で語られる
日本の過去にあった改革とは、革命とはなんなのか、この本から捉え直してもいいかもしれない

「王政復古」とは、いつの体制を復古するものなのか
幕府体制の限界は、徳川慶喜や幕臣ですら自覚していることだった
国防のために雄藩の力を借りなければならないが、幕府の役職は徳川家の家職制に端を発している。外様の島津家や毛利家を大老や老中に迎えるわけにはいかない
そこで大政奉還派は、天皇を頂点に将軍や諸藩の藩主を上院に、志士たちを下院に迎える「公議政体」を提案する
これは藩の存続を前提にした漸進的な改革に過ぎず、それゆえに支持者も多かった。しかし、これでは国民国家は作れない
倒幕派が掲げた「王政復古」とは、こうした政治構造を根底から変えることを意味していた
復古するものは“神武創業。建武の新政より、大化の改新より前に設定することにより、武士政権から摂関家までも否定し、今まで続く朝廷の慣習を全てを否定した
それゆえ、維新後に「廃藩置県」「四民平等」「国民皆兵」、そして「立憲政治」が実現できた
「王政復古」とは、前代未聞のちゃぶ台返しだったのだ

本書で主役みたいな存在を探すとすれば、徳川慶喜だと思う
彼が家康以来の英明と讃えられたのは、将軍候補に推す雄藩連合が喧伝したためで、それは御三家で傍流とみなされた水戸徳川の出だったからだ
養子に入った一橋家は名目の封土しか持たないため家門に使える配下はおらず、京都を統治するためには会津藩の松平容保とその実弟、桑名藩の松平定敬の力を借りねばならない
大政奉還に応じることで薩長に一矢報いるものの、今度は佐幕派の不信を買い戊辰戦争を防げなかった
評判のわりにイマイチなのは、地盤の薄さも一因と合点がいった
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『池田屋事件の研究』 中村武生

大方の予想通り、巨人の日本一
阿部との勝負を歩かせなかったのも疑問で、日ハムは監督・選手とも経験が不足していた
まあ、いろいろあったけれども、最後の試合はギリギリの勝負を楽しめて大満足

池田屋事件の研究 (講談社現代新書)池田屋事件の研究 (講談社現代新書)
(2011/11/18)
中村 武生

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実際の池田屋事件とはいかなるものだったのか。歴史上いかなる意味を持ったのか。講談・小説など新撰組からしか語られなかった事件を、長州側から捉え直す
構成にがあって少し読みにくかった
史料から史実を探っていくかと思ったら、急に研究資料の比較や判明の経緯など話題が移り、話がどこへ行くのか全く読めないのだ
あとがきによると元は講談社のメルマガで満4年間、46回に渡って連載されたもので、それを400頁にまとめなおすという力業の結果、こうなってしまったようだ
内容そのものは、「えっ、ここまで調べるの」という些細なことから、定説をひっくり返す最新の研究までに及び、非常に充実している。今読んでいる司馬小説の前提が崩れそうで困るほどだ(苦笑)

池田屋事件とは何だったのか
本書は、事件前に逮捕された古高俊太郎から始める。そもそも長州の過激派が池田屋に集まったのは、古高俊太郎を新撰組の壬生屋敷から救うためという
古高俊太郎は表向きこそ一介の商人ながら、実は毛利家の遠縁にあたり、かつ幕末に影響力を持った山科毘沙門堂門跡・慈性法親王(浪士たちが攘夷の旗印に担ごうとした宮様)に仕えていた。そして、その妹・知恵降嫁する和宮に仕えることになっていて、素性が判明して取り消されたという逸話もあるという
長州藩にとって、古高は身分的に自由が効く朝廷とのパイプ役であり、かつ親長州の浪士を養う拠点を提供する存在でもあった
・・・・・・といったことは序の口で、池田屋の面々が一つのテロ計画が集まっていたわけではなく、吉田稔麿のように佐幕側と長州の和解に動いていたものもいたとか、佐幕側の大本営発表を覆す事実が明らかにされていく

本当のところ、一番驚いたのは、最近の研究として紹介される池田事件周辺の事例だったりして
池田屋事件前に長州征伐の計画はあったそうで、禁門の変は必ずしも戦争ありきではなく朝廷への直訴と復権を賭けたものだった
また、この時期にどの藩にも「倒幕」というスローガンはなく、長州・薩摩・会津の争いは阿部正弘が撒いた種=雄藩による諸侯会議の在り方を巡っての対立で体制内の争いだった
会津についたのが諸侯会議を解散し幕府主導の体制に戻そうとする一橋慶喜で、会津藩主・松平容保その実弟である桑名藩主・松平定敬と組んで京都の政界を牛耳る一・会・桑体制が成立させたのが、禁門の変でありその端緒となった池田屋事件だということになるようだ
明治維新という結果から、禁門の変あたりから「倒幕」が始まる思われがちだが、歴史を生きた本人たちは先を知って動いたわけではないのだ
新書にしては専門色が強くて読みにくいけれども、サプライズが多いし、史料の発掘から比較、推論と時代考証の現場まで取り上げているので、歴史ファンなら読んで損はないはず
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『幕末バトル・ロワイヤル』 野口武彦

何を読んでいくか迷っていたけど、年内は「アメリカ」「幕末」関連の積読を崩していこうかと

幕末バトル・ロワイヤル (新潮新書)幕末バトル・ロワイヤル (新潮新書)
(2007/03)
野口 武彦

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幕府滅亡の要因は天保の改革にあった!?水野忠邦の改革から阿部正弘で黒船来航を迎えるまでの権力闘争を描く
本書は『週刊新潮』2005年9月8日号から2006年7月27日号まで連載されたコラムをまとめたものだ
日本史の教科書や専門書に載る表の出来事ではなく、週刊誌が扱うような政権交代の裏幕や大奥を巻き込んだセックススキャンダル、江戸の底辺労働者や下半身文化などを追いかける
江戸時代の“噂の真相”といった内容なのだ
特徴的なのは、保守反動の独裁者とみられている水野忠邦を海外情勢に対応しようとした改革者とし、『風雲児たち』などで開明的な政治家に描かれる阿部正弘を幕府滅亡の引き金をひいた人物とみなしていること
倒幕・開国を前提にみる史観の多いなか、現代には珍しい幕府側から見た史観を披露している

なんといっても面白いのは、第一部の「天保政怪録」
まず、水野忠邦がいかにして先輩老中に取り入って、幕府内で出世していったのが描き、老中を終点とする出世レースの仕組みや役職の階層、江戸後期における転封の意味合いを解説している
江戸後期において転封は、外様に振るわれることは希で、譜代大名の格付けを変更するときに行なわれていた
ただ、転封を行なうにしても格の高い譜代大名を格の低い僻地に飛ばす口実が必要となり、そこに陰惨な暗闘が繰り広げられる必然がある
水野忠邦は肥前唐津藩25万石では長崎警備の役目が出世の妨げになるとみて、家老の諫死を振り切り遠江浜松藩15万石への転封を強行している
水野忠邦は反動的な文化統制や経済政策を庶民に押しつける傲慢な改革者にみられていて、本書ではその点は同じなのだが、失脚の引き金となった「上知令」に関しては、外国に備えるためのものと評価している
上知令は、江戸・大坂の周辺の錯綜する大名の飛び地、旗本領を整理し天領として管理するもので、アヘン戦争で清がイギリスに敗北したことを受けての対策だった
かといって忠邦は松平定信ほど攘夷色は強くなく、外国船に対する「薪水給与令」を出して硬軟両様の構えをとっている

水野忠邦に続き、本書のもう一人の主人公が水戸藩主徳川斉昭
『桜田門外の変』など歴史小説では堅物の攘夷主義者のように描かれる斉昭だが、最初の謹慎は外国に対する強硬姿勢ゆえではなかった
なんと大奥最高位の女官である上﨟年寄の唐橋を口説き、孕ましてしまったからだというのだ!?
水戸藩には「定府の制」があり藩主は江戸に在住すると定められていたが、唐橋を茨城に連れて出てこないため駒込の別邸へ幽閉されることになったとか
著者もヨタ話と疑ったが、違う史料にも同じ様な話が出て来てしまい書く気になったらしい
ただ、大奥を通した政治工作というのは、名だたる政治家が行なっていて、まったくリアリティのない話ともいえないようだ


次巻 『井伊直弼の首-幕末バトル・ロワイヤル』
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