地球圏から追い出したソロシップを地球連合軍は脅威と見なし、マーシャル・フランクリンの艦隊を出撃。バッフクランのハンニバル・ゲンと手を組んで、共同作戦さえ行ってきた。ソロシップはそれをイデオンガンで退けるが、生まれ故郷からすら敵とみなされた絶望感が残る。その一方で、ソロ星以来の敵だったギジェがクル―に加わり、カララの妊娠が受け入れられるなど、新たな希望も目覚める
いよいよ発動にきてしまった
物語の大筋はアニメと同様で、地球連合軍のマーシャルとバッフクランのハンニバルは共同戦線を張り、イデオンの攻撃で一気に殲滅されてしまう
その最中にギジェが加入するが、小説だとコスモがキッチンを殺すはめになっただけに、殴るぐらいしか感情のやり場がない
コスモもイデに試されているという意識もあるだけに、辛いのだ
そして、ハルルの艦隊と亜空間でニアミスした際に、ソロシップが直接攻撃を受け、フォルモッサ・リンが死亡する(アニメでは、アジアン星で人質にとられ射殺)。シェリルはさらに酒量が増えるが、そんな彼女にギジェは言葉を投げかけるにとどまる
アニメでは相思相愛なので、寸止め(!)は意外。酒の勢いで口説いてはいけないとか、カララの妊娠に嫌悪を感じたり、なかなか人間の性根は治らない
カララの妊娠は希望として受け入れられるものの、小説では心の裏側まで語れてしまうせいで、ムードとしては終末へのニヒリズムが漂う
前巻でイデとは何者かという種は明らかになった。しかし、それをどう受け止めるかは人によって違う
シェリルやギジェといった研究者、インテリは、ある種の機関として捉える。第六文明人の精神集合体であるという原理を理解しているからこそ、イデを善き意志によって制御することに絶望を感じてしまう
コスモやカーシャのような戦闘員にとって、イデは身を守るための兵器。戦闘が大規模化すると、イデオンガンならバッフクランの大艦隊も母星も葬り去れると鼻息が荒い。元来は純粋な少年少女が小説では戦争の論理に染まっていってしまうのだ
小説におけるカーシャの消化の仕方は強烈である。「イデオンが人間の意志を食べ物のように吸いとって存在しているのなら、流星や戦争の被害で飽食するのじゃないのか」
そして、ソロシップに乗っていられたこと自体を選ばれた人間だとして、選民思想すら語って見せる
「独善は時に人を自失させないための道具である」(p169)
その一方で、カーシャはギジェの加入を認めるにあたって、クルーたちはイデのゲージを見て判断したとも。そうなると、ある意味、神様である
人間同士でなく、それ以上の上位者を規定して「何が善か」か問うのでは、一種の宗教だ
そして、彼女が指摘するように、イデのゲージを見ることができない地球連合軍とバッフクランは分かり合えなかった。上位者の視線がなければ、人は争いを止められないのか
作中のイデは宇宙の生命体を作った、両人類から見て神といえる存在であるが、同時に第六文明人の精神集合体に過ぎない。そんな神の実体を知って、「親離れ」できるか否かが問われているともいえる
ちなみにアニメでは、イデを爆破放棄する「親殺し」を果たそうとしたが、イデが強硬にも拒否。イデも第六文明人のエゴの塊なので存在はしていたいわけで、簡単な解決方法はないのだ
制御しきれず、かといって簡単に排除できない「力」とどう向き合っていくのか、原発事故を体験したばかりの日本人には特に刺さる問いかけである
だいたい書きたいことは書いてしまったけれど、いちおう小説を完走した感想。ページをめくってまず眼をみはったのが、小林誠デザインによるイデオン
まるでナウシカの巨神兵を思わせる有機的なフォルムだ
角川版の初出が1987年。アニメ版の放送が1980年で、ソノラマ版の小説が1982年に出ている
その間にナウシカの放映が1984年、富野アニメでは昆虫を意識したデザインのダンバインが1983年に放送されていて、そうした流れもあるのだろう。しかし、この禍々しさは、映画の『エイリアン』(1979年)だろうか
キャラクターデザインに『赤い光弾ジリオン』の後藤隆幸、とアニメとは少し変わった雰囲気を味わえるのが角川版の良さである
前巻 『伝説巨神イデオン Ⅱ 胎動編』