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『菜の花の沖』 第4巻 司馬遼太郎

嘉兵衛、択捉に到達。まだ、ロシアは姿を見せない




寛政11年(1799年)ロシアの南下を知った幕府は、松前藩から蝦夷地を上知し、直轄領とした。蝦夷地に派遣された幕臣・近藤重蔵に、嘉兵衛は千島列島の択捉島への航路開拓を求められる。普通の船での航海できねばならず、千石船ではなく百石級の図合舟で荒海に挑む。見事に択捉へとたどり着き、その漁場を開拓した嘉兵衛は、定御雇船頭に命じられ、幕政への関係を深めてしまうのだった

嘉兵衛の航海は続く。東蝦夷の果て、ついに千島列島にも及んだ
箱館を任された弟・金兵衛や、兵庫の主・北風荘右衛門には、役人との付き合いを厄介そうにみられるものの、嘉兵衛にとって最上徳内近藤重蔵ら、草莽から立った幕臣たちとの厚情は断ち難い
また、蝦夷地の自然やアイヌの魅力に取り憑かれて、貧しい蝦夷地を豊かにすることを使命と考え始めていた
そして、択捉航路開拓後は、もはや商人の世界からはみ出して、幕府の蝦夷地経営と一蓮托生の関係になっていくのだ
荘右衛門には嫌味と警告を受けるが、それはより大きい世界に接してしまったとも言えた


ロシアと千島列島

まだロシア人は姿を現さないが、アイヌや千島、樺太との関連で触れられる
千島列島には、17世紀にオランダ人が接触し、18世紀には毛皮を求めて東進したロシア人最北端の島、占守島に達っしている
しかし、島にやってきたロシア人はギリシア正教への改宗と過酷な毛皮税を課し、千島アイヌとの関係は最後まで悪いまま。幕府の役人が上陸すると、たちまち十字架を捨ててしまった
上陸は早かったが、ロシアの行政機関は及ばず、毛皮商人が立ち去ればそれっきりで、国家の統治といえる実態はなかったのだ


択捉島の地勢

千島列島のなかでも、島によってその環境は大きく異なる
特に択捉島はその大きさと漁場の多さのわりに、海の難所に囲まれた関係から、蝦夷地本土や他の島との関係も薄く、原始的な漁業に留まっていた
嘉兵衛は、千島アイヌに本土の漁具と漁法を伝えて、生活水準を底上げした。多くの漁場を開拓し、魚を米の肥料に換算すると、15万石の収入に及ぶとの試算が出されている
アイヌの人々は、外からの人間を「客人(まろうど)=神の使いとして扱うが、小説では嘉兵衛が生き神様のような扱いを受けている様が描かれていた


嘉兵衛による択捉島への航海はなかなか破天荒で、あえて霧のなかで出航し、潮を計算していったんはオホーツク海方面に向かう。ひとつ間違えば、日本に戻ってこれない決断だが、すべては嘉兵衛の計算のうちであり、航海者としての非凡さが描かれている
彼にくわえて、途中で失脚した最上徳内文政の”三蔵”の1人、近藤重蔵に、日本全土を測量した伊能忠敬と、元町人、農民、下級武士が日本の前線を支える様は、幕藩体制の変質、崩壊を予感させる


前巻 『菜の花の沖』 第3巻



『菜の花の沖』 第3巻 司馬遼太郎

あとがきには、についての長い蘊蓄!
“灘”は本来、船乗りが船を入れる場所のない難所で、“◯◯灘”という言い方をするが、兵庫の“灘”はそれと関係ないという話。もともと「灘目」などと呼ばれ区別されていたが、いつしか取れてしまったようで




千五百石船の辰悦丸を得た嘉兵衛は、念願の蝦夷地へと船出する。蝦夷を治める松前藩は、秀吉以来の特権を楯にアイヌ人との交流一切を取り仕切り、その物産を諸国と取引することで繁栄していた。しかし、その裏側では松前藩の商人と手代たちがアイヌ人を収奪し、動物のように扱っているのだった。嘉兵衛はその松前藩を探索する幕臣・高橋三平と出会って……

第3巻で、ついに蝦夷地が舞台に!
当時最大級の和船・辰悦丸を手にしたことで、嘉兵衛は兵庫のみならず、大坂などの各地で一流の廻船商人として知られるようになる
その名声を脅威に感じた兵庫の北風家は、“高田屋”への扱いを変え、嘉兵衛は自立への道を歩むことに
そして“北前船”の北端である蝦夷地へとたどり着いた嘉兵衛は、その土地の広大さに純朴なアイヌ人、横暴な松前商人とそれに憤る幕臣と、本土と違う原則で動く天地を知ったことで、商人を越えた高みを意識していく


松前藩と悪名高き「場所請負制」

松前藩蠣崎(かきざき)氏の時代、1593年豊臣秀吉により蝦夷地と松前を安堵され、松前氏に改姓した徳川の時代にも、その地位がそのまま引き継がれた
蝦夷地では米が取れないので大名ではなく、交代寄合(旗本)として扱われたが、1719年に1万石の大名として扱われるようになった
藩の財政はアイヌとの交易に支えられ、家康の黒印状には「夷人に対し非分申しかくる者、堅く停止の事。」アイヌ人の移動の自由が認められていた
しかし、18世紀初めから、城下の商人が交易を請け負う「場所請負制が広まり、松前商人の手代たちは“場所”の主としてアイヌ人たちを奴隷のように使役する
そうした実態を隠すため、松前藩は幕府や東北諸藩の密偵の潜入を嫌い、海からの関所である沖の口役所では厳しい詮議が行われた。作中でも嘉兵衛は、罪人扱いされてしまう


蝦夷地の幕府直営

そんな蝦夷地でも、ロシアが沿海州へ進出したことで風雲急を告げた
田沼意次の時代から蝦夷地開発が検討され、その失脚で一時立ち消えたものの、1798年老中・戸田氏教大規模な蝦夷調査を命じて、蝦夷探索のベテランである最上徳内などを送り込んだ
1799年には蝦夷の大半を7年間の期限で取り上げて、松前藩に代わりの領地を与えている
そうした探索の幕臣と接した嘉兵衛は、箱館(後の函館)を拠点に選んで、北前航路ではなく、蝦夷地への新航路探索にのめり込む
世話になった北風荘右衛門にも、惜しげなく蝦夷地の地図を授け、商売人というより航海者としての役割を担う
サトニラさんの隠居で、高田屋の看板も堂々と掲げられるようになったが、ただの廻船商人では落ち着かないのだ


次巻 『菜の花の沖』 第4巻
前巻 『菜の花の沖』 第2巻




『菜の花の沖』 第2巻 司馬遼太郎

いよいよ船頭として始動




兵庫津で船乗りとして頭角を現した嘉兵衛は、“サトニラさん”こと堺屋喜兵衛に頼みされ、和泉屋伊兵衛の名を借りて江戸への沖船頭(雇われ船頭)となる。北前船への夢を持つ嘉兵衛は、カツオ漁で大船の建造費を稼ごうとするが、難所の多い太平洋航路の現実に転換を余儀なくされる
しかし北風荘右衛門の好意で、廃船されかかった「薬師丸」を得て、華の日本海航路へ旅立つ

2巻目も濃い!
兵庫に身を落ち着けた嘉兵衛は、瀬戸内海、紀州の新宮から関東の下田、北前船の航路である下関~出雲~隠岐の島~秋田と乗り出していくのだが、その都度、そのお国の風土や当時の産業について詳述していくので、さながら『海道をゆく』といったところだ
嘉兵衛が船持ちへと出世していくのを後押ししたのが、兵庫津の主ともいえる北風荘右衛門貞幹北風家は南朝の武将を先祖とし、江戸時代は廻船問屋となり、北前航路を河村瑞賢に先立ち開拓上方から江戸の太平洋航路も鴻池の酒を大量に輸送し、樽廻船の先駆となった
この荘右衛門貞幹の代に一時落ちぶれていた北風家は盛り返し、それを募った船頭が兵庫津に結集したという。作中でも北風家が遺した史料から、無料の風呂場と飯場を提供し、いかに船頭たちを大事にしたかを紹介している


紀州熊野の鰹節

嘉兵衛は最初、カツオ漁で北前船の建造費を稼ごうとするが、カツオ漁は紀州熊野の漁師たちが強く、入る隙間もない
紀州の浜近くは当然譲らないし、季節や捕れ高によっては土佐や関東にまで旅網も辞さない。その活動が日本各地の漁業技術を底上げしたと言われ、諸国に名がとどろいた
そして、沖でカツオを獲ろうにも、今度はカツオの加工が問題になる
魚を生で売るには限界があり、カツオが商品として流通するには“鰹節にしなければならない。燻乾法」(作中では「燻乾法」)によって、良質の鰹節が量産され、ただの乾物ではなく調味料として重宝されるようになる
その「燻乾法」を産んだのも紀州熊野の角屋甚太郎であり、土佐に伝えて「土佐節」といわれ、薩摩の枕崎、関東の伊豆にも伝わり、各地の鰹節の番付までつけられたそうだ
嘉兵衛の時代では、すでに競争相手が多く実入りのいい仕事ではなくなったようだ


日本海沿岸の繁栄

日本海航路へ行って嘉兵衛が出くわすのは、日本海側の港の繁栄
出雲は古来より「渤海国」など大陸との交易があり、流罪の地だった隠岐なども北前船により、淡路島より物品は豊かだったりする
秋田では最上川の流域で、口紅や生薬となる紅花に、上質の麻が栽培され、秋田杉が上方で高く売れた
米沢藩では特産品の青苧(あおそ=カラムシ)からチヂミ作りを産業化し、藩の財政を再建した
徳川家康が想定した、ほどほどに自給自足する社会制度を建前にしつつも、商品経済が全国的に沸騰しており、どの地域も他国なしに存続できない経済圏ができようとしていた


嘉兵衛は秋田の土崎湊にて、北前廻船のための1500石船を発注し、いよいよ念願の松前進出を計画する
そして、その建造費を投資してもらうためにも、淡路へと里帰り。実家に本家の高田律蔵本村の庄屋甚左衛門へと挨拶に回り、娘をさらった格好である網元の幾右衛門にも頭を下げる
青年期までの確執が錦を飾ったことで水に流れ幾右衛門もまた「昔は嫁を奪うのが流儀。蝋燭を立てて祝おうが、奪って夫婦になろうが、夫婦は夫婦」と、さらりと許してしまう
それだけ嘉兵衛が地域にとっての宝船になったということだが、長い年月を経たそれぞれの心境の変化を、数行の文章で描ききっていて、嘉兵衛の複雑な被害感情が溶けていくのが分かるラストだった


次巻 『菜の花の沖』 第3巻
前巻 『菜の花の沖』 第1巻



『菜の花の沖』 第1巻 司馬遼太郎

はみ出しもの、の成り上がり




18世紀末の淡路島津名郡都志の本村に生まれた嘉兵衛は、家が貧乏なことから、隣の新在家の問屋へ奉公に出た。しかし、地元の“若衆宿”に入らず、本村のに所属したことから、目をつけられてしまう
世間に嫌気がさした嘉兵衛は、新在家の網元の娘・おふさと結ばれた後、水主(船乗り)を目指して兵庫津(後の神戸)の叔父を訪ねるが……

北海道の箱館(現・函館)を開き、ゴローニン事件に巻き込まれた高田屋嘉兵衛の物語
司馬は少年時代に、ロシアから日本への使者レザノフを乗せ、世界一周の航海に出たクルーゼンシュテルンの回顧録を愛読しており、日本とロシアの異文化のぶつかり合い、人間の交流を描こうと心温めていたらしい
とはいえ、第1巻はロシアの“ロ”の字も出てこない。ドラクエ3でいうと、まだアリアハンだ(笑)
主人公の嘉兵衛は淡路国に生まれた青年であり、小柄ながらいかつい風貌から良くも悪くも目をつけられる異端児。奉公先の土地で因縁をつけられたことから、網元の娘に手をつけて飛び出し、兵庫津では淡路には見ない役人たちともめてしまう
海の上で船を操れるかどうかなのに、地上ではなぜ貴賎にうるさいのか
嘉兵衛からは、大阪人の司馬がのり移ったかのように、江戸の身分社会への怒りが表明される


淡路の風土と若衆宿

『街道をゆく』の「明石海峡と淡路みち」でも少し触れられていたが、淡路島は蜂須賀家の阿波藩のもと、元は野盗とも言われる家老の稲田氏が州本城代として統治していた
蜂須賀家の収奪の激しさと出自の卑しさから、武士を嫌う風土があったらしい
そんな淡路は低いながらも山々を挟んで、乾いた北部と温和な南部に分かれて気候が違い、嘉兵衛が新在家で“いじめ”られる原因にもつながっていくる
司馬が日本の古層としてこだわってきた「若衆宿に関しても、はみ出し者の嘉兵衛を通じて描かれ、昼の表社会は大人に従うが、“宿”に関わる風習に関しては大人を上回る力を持っていた
嘉兵衛が新在所の者に闇討ちされそうになったとき、新在所と本村の若者頭(若衆宿のリーダー)が話し合い、村から姿を消すように申し渡す
「若衆宿」には日本的な“いじめ“の力学が働く一方、慣習をもとに緩やかにまとめる“リーダー”を育てる場所でもあった


近世日本の航海技術

兵庫津へ出て以降に触れられていくのが、近世における日本の航海技術
戦国時代においては、海外渡航もさかんで西洋のように竜骨はないものの、中国のジャンク船に西洋風のマストを乗せた大船が外海へ繰り出していた
しかし、江戸時代に諸大名の密貿易と江戸の防衛を気にした徳川家康が、500石以上の大船を禁止。以後、古代の刳り船へ先祖返りし、和船は奇形ともいえる進化をとげる
高波を防ぎ、かつ積荷が多く積めるように両舷に高垣を作った菱垣船」(菱垣廻船)に、さらに積み込みの合理化をはかった樽廻船ができたことで、上方から江戸への航路が確立される
それまでは絶えず、岸が見える航路を通る沿岸航海にとどまり、長い日数を要していたのだ
こうした航海術の発達を促したのが、商品経済の発達とそれに対応して米を大坂で売ろうとする諸藩の対応であり、嘉兵衛の叔父・堺屋喜兵衛(サトニラさん)は鳥取藩の士分になったがために、ご奉公と経営の板挟みに苦しむ


1巻にして中身が濃い!
司馬の命日「菜の花忌」の由来となるだけあって、少年時代からの思いが込められ、歴史小説家としての集大成を意識されているかのようだった
それとなく、披露される日本語をめぐる蘊蓄がたまらず、「くだらない」が元は、上方から「くだる」の反義語「まとも」は風が船尾からまっすぐ吹いてくれて、帆を動かす必要のない状態「真艫」から。艫とは、船のうしろをさす
航海用語の「ヨーソロー」は「宜う候」から。舵を切ったあとにこういう言葉が出たときは「そのままでよろしく」ということなのだ
そんな豆知識を嫌味なく読ませる文章力は、晩年でも健在だ


次巻 『菜の花の沖』 第2巻

関連記事 『街道をゆく 7 甲賀と伊賀のみち、砂鉄のみちほか』



『胡蝶の夢』 第4巻 司馬遼太郎

徳島市には関寛斎の石像あり




戊辰の戦争は、蘭方医に数奇な運命をもたらす。鳥羽伏見の戦いに敗れた近藤勇は、江戸に帰り松本良順のもとで治療を受ける。その後も新選組に関わったことで、東軍へ身を投じて会津まで同行する
一方、徳島藩の侍医・関寛斎は、藩が官軍に転じたことから、野戦病院の病院長を務めることとなり、くしくも良順と対峙することに
そして、佐渡に帰らされた伊之助も、幕府瓦解の影響で職をなくし、横浜へと旅立つが……

小説としては、江戸時代が終わるまでを扱い、あとは後日譚として語る感じだった
解説にもある通り、当初は新選組に関わって、賊軍の軍医になったにも関わらず、維新政府に請われて軍医総監になった松本良順を主役にしたと思われるが、それに伴って現れたのが、長崎時代まで助手として関わった島倉伊之助(司馬凌海、父・佐藤泰然の弟子だった関寛斎
良順以上に、浮沈の激しい二人を見つけてしまったせいで、最終巻の後半は彼らの流転に紙数が割かれる
小説全体として見たときに、誰の話かブレてしまった感はあるものの、予想外の形で「胡蝶の夢」を発見してしまった以上、それに傾けざる得なかったのだろう


世間知らずの伊之助の結末

人間関係に不得手の伊之助は、佐渡でも医者として通用せず、鉱山を調べにきたアメリカ人技師の通訳ぐらいしかやることはない
幕府の崩壊から、佐渡奉行のともに紛れて横浜を目指し、良順の父・佐藤泰然と再会したことで、語学教室を開くように助言を受ける
こと、語学に関して伊之助の才能は天才的で、本場の人間と話したことがないにも関わらず、オランダ語はおろか、英語、ドイツ語、中国語を自由に会話できてしまう
しかし、近代的な生活・倫理についていけず、稼いだ金を遊郭につぎ込み生徒に教科書を高く売る、二日酔いで休んで授業を滞らせるなど、世間に敵を増やしてばかりだった
ヨーロッパの留学生が語学と知識を身に着けて帰り、外国人医官が帰国する時代になると用なしとなった

伊之助肺結核となるが、ポンペの治療を自流で解釈し、熱海の温泉へ出掛けた帰りに旅の疲労から客死してしまう
司馬のあとがきでは、佐渡は島を暖流が囲うように流れ込んで、北陸とは思えない温和な気候。江戸時代は幕府の直轄地で年貢も安く、日本海航路の要衝江戸・上方の優れた文化の影響を受ける、もっとも恵まれた土地だった
現地を訪れた司馬は、「こんな土地で生まれた伊之助は、佐渡を出るべきではなかった」と涙したという


農本主義者になった関寛斎

関寛斎も波の激しい人生を送った。官軍の軍医と獅子奮迅の働きをした寛斎だったが、医界の権力闘争に嫌気がさしたのか、すぐに徳島で町医者を始める
庶民に無料で種痘を施すなどして慕われるが、息子が農業学校へ行ったことから、一念発起して北海道へ移住し、広大な牧場を開拓する
しかしトルストイの影響で、土地を共に開拓した人々に譲渡しようとしたことから、米国流の牧場経営をしたい息子や家族と対立し、大正元年に服毒自殺を遂げる
その人柄は、明治の作家・徳富蘆花の評論に残っており、蘆花は「本来なら、(良順のように)男爵軍医総監でもおかしくなかった」と惜しんでいる
この時代の日本の医界は、短期間のうちに漢方→蘭学→イギリス式→ドイツ式と覇権が入れ替わった。その激しい流れは、蘭方医たちをあるときは蝶のように華やかに舞わせ、それが夢であったかのように庶民の海へ戻していく。それを見事に描いた、知られざる名作なのである


*2023’8/29 加筆修正

前巻 『胡蝶の夢』 第3巻




『胡蝶の夢』 第3巻 司馬遼太郎

幕府の瓦解へ




1862年11月1日ポンペはオランダへ帰国する。松本良順を本国に連れ帰ろうとするが、良順は他の塾生を推薦し、江戸に戻り医学所頭取(東京大学医学部の前身)となる
当時は反りの合わない伊東玄朴が江戸の蘭方医学を仕切っていたが、スキャンダルで失脚。要職についた良順は“将軍後見職”の一橋慶喜、ひいては第14第将軍・徳川家茂の治療も扱うことに
一方の、島倉伊之助はポンペに長崎を追われたあと、平戸の藩医・岡崎等伝に逗留し、その娘を妊娠させてしまう。そこへ祖父・伊右衛門がやってきて、無理やり連れ戻してしまい……

ポンペが帰国するとともに、良順の身辺にも政治の波が押し寄せる
江戸に帰った良順は、医道の風上のおけないと嫌う伊東玄朴に冷や飯を食わされる。しかし、玄朴が養子に花を持たせようと、偽って翻訳者に名を連ねさせたことで失脚し、良順は奥医師へ復帰できた
長崎帰りの名声から、一橋慶喜の治療に呼ばれ、さらには江戸にいる時に新選組局長・近藤勇の知遇を得るなど、一気に政治の世界へ関わっていく
京都では、壬生や西本願寺にいる新選組を訪ね、その衛生習慣の改善を指導。近藤とは一種の侠客としての付き合いで、幕府の衰亡を予測しつつも佐幕派へ肩入れしてしまう
将軍・家茂との関係は、「医者はよるべなき病者の友である」というポンペの教えどおりで、本作の最大のドラマシーンといえよう


蝶のようにひらひら飛ぶ伊之助

島倉伊之助はというと、きわめて動物的に欲望を満たすように行動していく。世間知は一欠片も持ち合わせず、そのときの状況でゴロゴロと流れていく
同じポンペの講義を受けた佐賀平戸藩の岡崎等伝の家に転がり込んで、娘の佳代を妊娠させてしまう。驚いた等伝が伊之助を養子に取ろうとしていたところへ、祖父・島倉伊右衛門が現れて、格上の藩医に掛け合って無理やり佐渡へ帰す
このときの、伊之助のリアクションは人並み外れて薄い!
「胡蝶の夢」のタイトルどおり、佐渡と長崎のとぢらが現実で夢なのか、分からぬ風情であり、どこか他人事なのでる。平戸では学問的な興味を見いだせず、旺盛な性欲をカタギの娘に向けてしまったらしい(苦笑)
ただ知りたいという好奇心が彼の中心であり、岡崎家に捨てられてしまえば、平戸へなんの未練もないといったところ。本作はこの奇人への描写が微細である


強権支配の阿波徳島藩

その伊之助と仲の良かった関寛斎は、請われて阿波徳島藩の蜂須賀家侍医として召し抱えられる。生涯、町医でいたかった寛斎にはありがた迷惑で、大藩であるだけに他の侍医との付き合いに苦労する
徳島藩東海出身の蜂須賀家が支配者層として君臨して、元三好家の郷士たちへ強権的な支配をしているように描かれるが、『功名が辻』のこともあるのでどこまで真実なのか誇張なのかは分からない
ただ、戦国の三好家の時代に、阿波は上方文化に浴しており、成り上がりの蜂須賀家と反りが合わなかったのはあるかもしれない


*2023’8/29 加筆修正。『菜の花の沖』でも、高田屋嘉兵衛の出身である淡路を領したことから、阿波徳島藩の支配が少し取り上げられている

次巻 『胡蝶の夢』 第4巻
前巻 『胡蝶の夢』 第2巻

『胡蝶の夢』 第2巻 司馬遼太郎

医学の世界から革命始まる




1857年(安政4年)11月、松本良順は、オランダからやってきたポンペ・ファン・メールデルフォールトを師事して、日本で初めてとなる西洋医学の講義を始めた
江戸では13代将軍・家定の治療を巡って、蘭学医・伊東玄朴が陰に陽に動き回り、奥医師の世界に蘭方医学が解禁される
その一方で、咸臨丸教官カッテンディーケを迎えた長崎の海軍伝習所は、築地の軍艦操練所に吸収され、オランダ人教官は引き上げを余儀なくされた
長崎伝習所内にあるポンペの医学伝習所も岐路に立たされる

海軍教官のカッテンディーケ軍医のポンペがやってきたことで、長崎の海軍伝習所日本で最先端の教育機関となった
それまで蘭学医療は、西洋科学の体系を踏まえずに、本からの情報医者の経験則によって行われていて、外科の技術も師匠から弟子へ伝えられるものだった
ポンペは医学に必要となる基礎的な学問、物理学、化学、解剖学、生物学、病理学までも一人で教え、オランダ語を把握できる松本良順とその受取である島倉伊之助が各藩の塾生に読み下す形で広めていった


医療から崩れる身分制度

ポンペの壁となったのは、江戸時代の身分制度ポンペはオランダ国王の家臣ということで旗本直参の待遇であり、他の塾生もほとんどが士分である
そうした身分の人間が一般庶民を診ることは、社会制度の破壊を意味したのだ
しかし、良順開明派の長崎奉行・岡部駿河守の尽力で、天然痘の予防となる種痘の実施に、コレラの治療に成果をあげ、日本で初めての西洋医学病院となる「小島養生所」(後の長崎大学医学部、長崎大学病院の源流)を建設するに至る。西洋医学の流入は、その社会の背景となる平等思想の浸透につながっていく


伊東玄朴による蘭学の地位向上

江戸では将軍の治療を巡り、思わぬ人物が頭角を現す。良順が医で金を稼いでいると、蛇蝎のごとく嫌った伊東玄朴である
伊東玄朴は佐賀藩に籍を置いていたが、思わぬところから将軍の生母・本寿院の耳に評判が入り、大老・井伊直弼に呼び出される。佐賀藩当主の正室は、第11代将軍・家斉の息女で、大奥に玄朴の評判を吹聴していたのだ
家定の死期を予見した玄朴は、井伊直弼の支持を得て、良順の父・良甫ら蘭学医の一団を奥医師へ引き入れたのだった


司馬によって、良順より精密に描写されるのが、主人公の一人、島倉伊之助
天性の記憶力とともに一向に身につかない世間知とのギャップに惹かれるのか、なんでその才能が恐れられつつ、最終的に集団から爪弾きにされるのかを執拗に描いていく
ただただ一直線に学問的関心のみで生きているせいで、ポンペの蔵書を勝手に持ち出してしまい、異邦人の彼にすら不信感をもたれてしまう
良順が「小島養生所」とポンペの講義に忙しく、まずます伊之助の面倒が見られなくなって、急変する世の中とともにどう転がっていくのかに注目だ


*2023’8/29 加筆修正

次巻 『胡蝶の夢』 第3巻
前巻 『胡蝶の夢』 第1巻

『胡蝶の夢』 第1巻 司馬遼太郎

幕末の医学界




「佐倉順天堂」を開設した佐倉泰然の息子、良順は、幕府奥医師ながら蘭学を修める松本良甫の家に婿入りする。その若い跡取りの助手として、佐渡から連れてこられたのが、異常な記憶力を持つ伊之助。伊之助は忠犬のように良順に従うが、あまりに世渡りと人付き合いが下手で、紆余曲折を経て佐渡へ帰されてしまう
良順は黒船が到来しても、漢方が絶対の奥医師の世界にうんざりし、長崎へ海軍伝習所への“留学”を決意。伊之助を再び佐渡から呼び出すが……

2巻まとめて感想を書こうと思ったけど、あまりに長く内容も濃いので1冊ずつ
医療の視点から幕末から明治の社会を描いた作品ながら、視点となる主人公がかなりマイナー!
順天堂大学の起源となる蘭学塾を開いた佐倉泰然を父に持ち、幕末は幕府陸軍、奥羽列藩同盟の軍医となりながら、明治では陸軍初代軍医総監となる松本良順。脅威的な記憶力と語学力で、日本最初のドイツ語辞典を作った司馬凌海(島倉伊之助)と、本作を読むまでまったく存じ上げなかった人なのだ
日本の近代を準備した“小英雄”が主役なので、その周辺の人々との関係から、自然と江戸の身分制度、佐渡と江戸の風土の違いが浮かび上がってくる
颯爽とした江戸っ子の良順に、変わり者で純朴な伊之助凸凹コンビは、心は通うようで会話がドッジボールという、このぎこちなさに人間関係のリアルを感じてしまう


漢方医学の既得権益

幕府奥医師の跡取りながら、蘭学を志す良順に立ちはだかるのが、多紀楽真院を始めとする漢方絶対主義の壁
蘭学しか学んでいない良順に漢方の試験を課し、いかに民間や他藩で蘭方医療の有効性が証明されようと幕府内には取り入れない。自分たちの権威が脅かされるからであり、それら多くの侍医は江戸城に控えているだけで扶持をもらう体たらくだった
その医療体制は、第12代将軍・家慶二十数名の子を為したにも関わらず、将軍を継いだ家定を除いて早世するという、異常事態を招いている


江戸の細かい身分制度

伊之助の側から見えてくるのは、江戸時代の細かい身分制度。なにかにつけて上下の別を作って、庶民同士でもマウントをとってくるのだ
同じ松本家の用人でも、些細なことの積み重ねから追い出そうとしてくる
伊之助が育った佐渡は、金山のある天領であり、役人は最小限の人数でまかなっていた。そこでは医者に士分はなく、風通しもいい
江戸には勉学の興味は満たされても、人間的には鬱屈する。伊之助は人の気持ちへの鈍感さも祟って、良順以外の理解者を得られずに苦しむ
彼の苦しみは、現代の日本にも通じるものがあって、なんだかんだ江戸時代の悪弊が今でも残っていると思われるのだ


*2023’8/29 加筆修正

次巻 『胡蝶の夢』 第2巻

『覇王の家』 司馬遼太郎

『新史 太閤記』と扱っている年代がかぶってた




250年余の長きに渡って日本を統治した“覇王の家”徳川家は、いかにして生まれたか。徳川家康と三河武士の関係を軸に、今川家の人質時代、三方原の戦いから小牧・長久手の戦いまでをたどり、日本人に及ぼした影響を探る

徳川家康という人物が捉えきれないのか、奇妙な小説となっていた
人間の欲望が沸騰していた戦国時代から、大人しい江戸時代の人間が生まれたのは、天下を取った三河武士の気質が影響を及ぼしたのではないか。そして、それは今の日本人の性格にも影響している
そういった仮説から、徳川家康と三河武士の関係を描いていくのだが、主人公にも関わらず家康は不思議な立ち位置にある。信長にしろ、秀吉にしろ、明快なキャラクターをもって登場していたのに、家康に関しては遠くから眺めるような距離があるのだ
三方原の無鉄砲さと石橋を叩いて渡らぬ慎重さが同居し、容易に底が割れない不気味さがどうも小説の主人公として座りが良くない。それは司馬が家康を好きになれなかった理由にもなっているのだろう


尾張と三河、遠い隣国

尾張国と三河国は現在、同じ愛知県にあっても、戦国時代においてその地域性はだいぶ違う
尾張国河川が密集していて商業が発達し、自然と人間も軽快さと投機性を持ち合わせたのに対して、山がちな三河国堅実で保守的な人間を育んだ
戦国人らしく時勢によって主君を変える尾張衆に対し、三河衆は鎌倉以来の地域内の関係を大事にする。後に天下を制した集団は、実はもっとも時勢に遠い感覚で生きていたというのだ
松平家はもともと山間部の豪族であったが、近隣の酒井家などと連合し、家から英傑が出たときに平野に出て、ようやく大名に近い存在となった。その有り様を遊牧民が農耕民を征服して国家の体を為し始めたと比較するのが面白い
そうした三河武士と家康の関係は単なるご恩と奉公の関係では説明がつかず、信者と教祖(しかも救世主!)に近い。今川家に人質へ出されたときにも、居城の岡崎城を乗っ取ろうとする重臣は現れないのだ
ただそうした熱烈な家臣たちに対して、家康の側も独裁者として振る舞うのではなく、古くからの序列と格式を守った上で操縦している


築山殿・信康事件と三河武士

初出が1973年なので、当然ながら今となっては廃された通説を採用しているところも多い。しかし、そこから掘り下げる読みは侮れない
長男・信康の切腹に関しては、徳姫経由の情報による信長の命令としつつも、酒井忠次が弁解しなかったところに注目。徳川家(松平家)と三河武士の関係を守らない信康に対して、三河衆の代表である忠次が廃嫡を促したとするのだ
家康の正室・築山殿のみならず、信康も人質として駿河で育てられており、三河衆とは縁が薄い。家康も宿老たちと波風立てる後継者を放置できなかった。この部分はリアリティを感じる
また、石川数正の出奔は三河の外の世界を正当に評価できるゆえに、愛郷心と忠誠を疑われて三河衆から追い出された感じで、何やら日本の中小企業体質を思わせる
いろんな華が咲いた江戸時代を、三河武士の作った灰色の時代とするのは短絡的だと思われるが、随所に鋭い洞察があり。作者本人が苦手な題材なのに、なんだかんだ楽しく読ませてもらった


*2023’8/29 加筆修正

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『新史 太閤記』 司馬遼太郎

続きは『覇王の家』?→扱っている年代は同じでした




寺に奉公へ出されていた“猿”は、高野聖の一団と出会う。商人としての立身をかけて、彼らを追って寺を出たものの、聖たちは三河を通った際に撲殺されてしまう。そこから宛もなく流浪の日々を送った末、織田家の足軽組頭・浅野又右衛門を頼り、若き当主・織田信長の近くに仕えることに。信長は桶狭間の戦いに勝利した後、美濃攻略へ向かい、“猿”は土木技術と調略の才を開花させていく

司馬遼太郎による秀吉の“半生”を描いた『太閤記』
司馬は生まれが大阪だからだろうか、江戸時代とそれを築いた徳川家康に辛く、晩節を汚した豊臣秀吉には甘い。本作では秀吉に甘い所以がストレートに表現されている
対比されるのが、今は同じ愛知県である尾張と三河の地域性の違いで、尾張が豊かな穀倉地帯でかつ、河川が入り乱れる地勢から商業が発達。住む人間も自然と商業の感覚が身について、信長や秀吉といった飛躍した知性を生み出す
対して、三河は篤実な農業国であり、徳川家康ら三河武士の性格そのもので、堅実ながら自己主張が薄い
もし秀吉の天下がなく、そのまま江戸時代になったらその後の日本はどうなっていたか。今の経済大国はなかったのではないか、と言いたげだ
そして晩年の秀吉を描きたくなかったからか、本作は小牧・長久手の戦いの後に、家康を上洛させ天下人の地位を固めた瞬間に幕を閉じる


尾張人の商業感覚

墨俣一夜城など今となっては、史実ではないとされる話も肯定的に取り上げられている。今浜を「長浜」と改名したように、“大坂”という地名を作ったとか、ノリで書いたようなところもある(蓮如上人の歌が有名なのだが)
初出が1968年であり、今の研究とかなり違ってくるのは致し方ないことだろう
そんな本作の見どころは、偉人たちへの人物評。同じ尾張に生まれた織田信長と豊臣秀吉は、商業感覚から来る軽快さで変化を拒まない。明朗な一方で猜疑心も強い信長に、秀吉は同じレベルの人間と気づかせないように働き、他の同僚にも爪を隠していく
信長と秀吉の手法で大きく違うのは、信長が織田家の領土を膨らませる形で天下を統一しようとしたのに対し、秀吉はより現実路線として大大名の割拠をある程度許し、港や金山など経済の要所を握ることで覇権を維持しようとした(今では、信長も同じような構想を持っていたともされる)
もう一人、近い人間として描かれるのが、腹心となる黒田官兵衛である。先輩軍師である竹中半兵衛が合戦の芸術家とされるのに対し、秀吉同様に調略に長じてキリスト教を通じて旧来の価値観に囚われず、秀吉の発想についてこれる


ゼロ体験から生まれた酷薄な知恵

しかし、秀吉が信長や官兵衛と違うのは、幼少期から底辺の人間や世間を見て歩き、人間の本性を骨の髄から知っていること。野に咲くタンポポを食べて暮らしたゼロ体験は、戦国時代の大名たちが持ち合わせていないものだった
目的のために土下座も辞さない秀吉に、最大の敵・徳川家康も最後には転がされてしまうのだ
秀吉自身もひとつ間違えれば大悪人と自覚しており、ゼロ体験で身につけた酷薄な知恵明朗さで隠しきったのが前半生であり、小説が徳川家康を上洛させたところでピリオドを打つのも、それから後に隠しきれなくなったからだろう
解説には、司馬が「外国人」に読んでもらうつもりで書くというエピソードが取り上げられて、歴史を知らない人間にも入れるよう心がけていたとか。その対比に引き出されているのが、先日読んだ井上靖の『後白河院』で、作家性の違いが興味深かった


*2023’8/29 加筆修正

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