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「征韓論」に対し、ついに結論がでた
もちろん、「否」とされたわけだが、その過程は二転三転していた。木戸が後押しで大久保が参議となり評議に出たものの、木戸本人は薩人同士の争いに巻き込まれたくないと欠席する。結果、大久保が前面に出て西郷と対決せざるえなくなった
西郷らの威圧に三条と岩倉は押され、一時は「征韓論」を認めてしまう(!)。そこから、伊藤らの巻き返し工作もあって、退けられることになるのだが、小説的演出にしても最後のギリギリでのどんでん返し
西郷の「征韓論」そのものは、島津成彬の積極防衛論、勝海舟の「日中韓三国同盟」から来たもので、韓国を征服するわけではなく、ロシアの南下に備えて清国と韓国の協力を得て満州に兵営を築こうというものである(協力しないなら、砲艦外交止む為しなわけだが)
たぶんに理想論的ながら、後に岩倉をして「あのとき、西郷に行かせても良かった」と言わせるほど、後の日本の対外政策をなぞるものなのだ
実のところ、「征韓論」に見る西郷らと大久保らの違いとは、幕末の「大攘夷」「小攘夷」ぐらいの違いしかない
それがなぜ、袂を分かつことまでになったか。その裏には、それぞれが構想する国家観の違いにあったのだ
西郷が下野した時、彼を慕う薩摩人はなんの憚りもなく職を辞した
彼らは勤王という旗印を掲げて新政府を作ったにもかかわらず、実際の天皇への忠誠心は持ち合わせていなかった
政府が天皇を中心とした国体を考えはじめたのは、西郷の下野と西南戦争を契機としている。山県有朋の「軍人勅諭」もその一環で、徴兵制による軍隊も士族の蜂起に備えた内乱対策から来ている幕末においては、尊王思想や勤王思想が一世を覆い、大久保もその志士であった。しかし他の多くの一流の志士たちが観念的な天皇主義者ではなかったように、かれもそうであった。多分に天皇観については政略的要素がつよかったが、そのかれが、西郷の下野・近衛士官の大量辞職、それにともなう朝野の大動揺のなかにあって、濃厚に天皇の司祭職たる色彩を打ち出してきたのは、この権威を批判無用の絶対的なものにし、これに頼って国家を安定せしめるほかはないということを、福地の用語を借りれば「渾身でもって心に決めたらしい。これが、のちのおそるべき歴史をつくりだすにいたる。(p236-237)
昭和の陸軍を経験してしまった司馬は、大久保、山縣の流れを警戒しているが、本来は統制を目的とした内向きの政策なのだ
その一方で、江藤新平の流れである法治による民権中心の国家観も明治政府にはあった
初代警視総監である川路利良は内務省の大久保に近い人間ながら、フランス体験の影響で国家観は江藤に近かったこの人民の強烈な監視者である警察官については、一面で公僕であることを強調し、その毒性を中和しようとしている。川路の表現では、
「官員は元来、公衆の膏血を以て買はれたる物品の如し」
とある。天皇の官吏、天皇の警察官という考え方はこの時期にはなかったことを注目すべきであろう。(p258)
大久保もまた民権にもある程度理解を示していて、自由民権運動の違いも隔絶したものではなかったようだ
それにしても、法治を目指した江藤がなぜ武装蜂起にいたったのか。次巻は佐賀の乱に入る模様
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