かつての遊郭を偲ばせる大阪・飛田。なぜ露骨な色街が残るのか、密着取材
女性のライターさんが12年に渡って取材した、飛田新地のレポート
戦前こそ売春が合法化されていた時代があったとはいえ、今では建て前“違法”なので関係者の口はいちおうに堅い。著者は身近な‟体験者”から話を聞き、飛田の居酒屋、普通の老舗料亭、飛田を仕切る「飛田新地料理組合」、そして売春の舞台となる「料亭」の経営者、挽き子のおばさん(やり手ババア)、客をとる「女の子」、周辺地域のヤクザにまで斬りこんでいく
売春は違法で、飛田の人たちもその認識はある。ただ、罪とか悪という捉え方は「料亭」の経営者も「女の子」も客にもない。「しゃあない」で済んでしまう
飛田に堕ちる「女の子」はまともな家庭のない貧困層か、借金で首が回らなくなったのかとどちらかで、「料亭」のママは接客をしつけつつ、出ていかないように飴と鞭を振るう
飛田には「住めば天国、出れば地獄」という言葉があり、ここで慣れてしまうと他では生きづらい。そういう人間を生んでしまう、緩い煉獄なのである
飛田の始まりは、1912年(明治45年)1月16日に、難波新地の遊郭が焼失し、その代替地となったことから始まる
明治政府は国際社会から遊郭を問題視されたことから、「芸娼妓解放令」が出されて、林歌子などの廃娼運動もさかんであり、1916年に大阪知事が自身の辞職と引き換えに最終認可を与えるという、スタートからきな臭かった
遊郭時代の飛田の営業形態は「居稼」(てらし)と呼ばれる、妓楼に自分の部屋が与えられそこで客を取る形式。座敷には、客に見せる格子があって、外向きに並ぶ。時代劇の吉原の光景を思い出せばいいのだろう
他の地域の色町に比べた飛田の特徴は、セックス専門(!)であること。なので、芸者などに比べて、飛田は客の身分も娼妓の芸も問われない安物扱いだった
遊郭にはいわゆる女衒(ぜげん)が貧村にスカウトに回り、親が借金を前借りし娘が売られる。若い娘のうちに遊郭に来るので、旦那に引き取られない限り、外の世界で生きられない人間に育ち、また出られないように縛られてしまう
楼主(経営者)は「親方」と呼ばれ絶対服従。妓楼は楼主を家長としたファミリーであり、ある種の一体感はあった
戦後の飛田はいわゆる「赤線」、警察が地域に限って許した「売春地域」となる。九州、中国地方から流入した「親方」も多かった。妓楼の親方は子供に継がせることに引け目があり、経営者は入れ替わりやすかった
1956年、「売春防止法」が成立する。この法律の特徴は、売春婦そのものを処罰しないこと。むしろ、保護対象と見なしているのだ
罰せられるのは、客引き、周旋屋(かつての女衒)、経営者などであり、そもそも法律が「売春させる」ことしか罰しない。そりゃ、「女の子」に罪の意識が育たないわけである
とはいえ、これまで通りの営業はできないので、親方たちは「女の子」をにわか芸者に仕立てて、芸妓のように貸座敷への派遣「待合」への転業で対応する
しかし、客の側に警察にぱくられる恐怖があり、売り上げが上がらない
そこで「下宿屋にいる女給がカフェーに出勤して客を取り、自分で契約して待合を利用する」という三業分離方式も現れたが、当時流行したアルバイトカフェー(今でいうガールズバー、キャバクラ)にヒントを得た「アルバイト料亭」を生み出す
部屋からベッドを除きセックスありきではなく、客と「女の子」が自然な恋愛感情でという建前で押し通したのだ。結局、やっていることはいっしょで、トイレにはビデ代わりに蛇口にホースがつけられているのだが……
著者は警察にも赴くが、当局としては取り締まってもキリがないし、目の届かない闇社会に転がってしまっても困る。「料理組合」が暴力団を排除していることから、半ば「お目こぼし」を続けており、遊郭は今なお、健在なのである
全編にわたって強烈な人たちが現れるが、ラスト近くのまゆ美ママに飛田が象徴されている気がする
かつてはブログに飛田のことを告白していたまゆ美ママは(今は削除されている)、すべては「自分のため」と言いつつ、「女の子」をしつけて教育していると言い張り、悪いことをしていると思っていない。しかし、その裏で借金を完済させないためにホストクラブや高級品で身を固めるように仕向ける
遊郭、広くいえば水商売の世界にだけ通用する、確固とした「倫理」をもっており、著者が好感を持ってしまったように、それがフラフラした「女の子」を引き込んでしまうのだろう
借金地獄、社会不適合に陥った「女の子」と、依存させて離さない料亭ママ
貧困の連鎖という問題はあるにしろ、事業存続のために脱出・更生させない構造は認められるものではなく、罪深い関係なのだ