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『「日本の朝鮮統治」を検証する 1910-1945』 ジョージ・アキタ ブランドン・パーマー

植民地というより、同化政策



日本による朝鮮統治はいかなるものだったのか。研究者たちの論文を参照しながら、民族史観の矛盾を明らかにする

著者の一人ジョージ・アキタハワイ生まれの日系2世で、東アジアの言語・歴史研究者。かつては日本が史上最悪の植民地統治を行っていたという民族史観を信じていたが、共著者のブランドン・パーマーの研究が見直すきっかけになったという
戦前の日本を諸悪の根源とする論調は、韓国が反日をナショナリズムの基礎においたこともさることながら、アメリカの敵となったことで「悪の帝国」と見なされ、戦後の占領統治の正当性を確保するために喧伝された側面がある
本書では、民族史観の主張を掲載して批判を加えつつ、戦前の日本の再評価とその支配の実際のところを論証していく
目につくのは、韓国やアメリカの韓国系の研究者が積極的に民族史観へ挑戦しているところだ。日本人による土地接収、文化財の略奪、従軍慰安婦、拷問が次々と否定され、1960年代以後の経済成長の基礎が植民地時代に用意されていたことを例証する
民族史観が科学的にここまで追い詰められて、なお生き残るのは、政治的事情いうしかないだろう


1.沖縄、北海道、台湾の延長

アメリカでも戦争の影響で、明治・大正の政治家は「反動主義者」か「軍国主義者」と認識されていた
山縣有朋原敬はその親玉と見なされたが、著者はその書簡から違う側面を見出す。彼らは沖縄や北海道、台湾の経験から、朝鮮半島を捉えていた。植民地として収奪するというより、日本への同化を意識していた
併合の動機も半島が他国の影響下に入ると国防に重大な危機が生じるという、安全保障上の理由であり、沖縄の経験から「三・一独立運動」以前より、現地の習慣を尊重しながらの漸進的な変革を念頭に置いていた
「三・一独立運動」により朝鮮総督に就任した長谷川好道は、日本人と朝鮮人の共学を提唱し、運動に加わった宗教団体を牽制するに留め、貴族院選挙への投票権を与える提案した。原敬は沖縄の代表がいるのだから、「朝鮮人の代表もあとに続く」と議会で発言していた


2.穏健な植民地統治

長谷川のあとを受けた斉藤実は、就任直後に爆弾テロを受けつつも、漸進的改革を受け継ぎ、憲兵制度の廃止したし、戦時下の南二郎総督は地方知事や警察官署長への登用を認めた。当時のジャーナリスト御手洗辰雄によると、地方参政権が拡充されていくことから、朝鮮人の間に完全な独立は遠くても、アイルランド型の自治が与えられるという期待感が強かったという(南自身はそこまで容認していないようだが)
1943年に、戦局の悪化から朝鮮人にも徴兵が実施されたが、かつて日本で起こったような暴動は起きなかった。総督府は後世語られるほど強権的ではなく穏やかな取り込みがその特徴であり、統治下の朝鮮人も日本の政策を利用しながら、経済力を養っていたというのが実態のようだ
民族差別や関東軍の独裁がまかりとおった満州国との違いには驚く


3.欧米列強との比較

戦前の日本を非難する際に、なぜか欧米諸国の植民地のことは語られない
本書では紛争時の行動を除外しつつも、欧米列強の植民地統治と比較していく。多くの植民地政府では現地の人間に強制労働を課し、プランテーションや政府直轄の事業に従事させられた。表向きの奴隷制度は廃止されても、植民地の搾取は奴隷制度に酷似していた
ベルギー統治下のコンゴでは、殺人、餓死、病死、難民化で、人口が3分の1にまで減少している。オランダ統治下のインドネシアでは、強制栽培制度による飢饉が起こり、1850年には30万人が餓死した。フランス統治下のマダガスカルでは、コーヒー農場における強制労働が第二次大戦後も続いた

アメリカ米西戦争で得たフィリピンの独立運動を粉砕し、1899年から1902年の反乱(米比戦争)では、ダグラス・マッカーサーの父、アーサー・マッカーサー大将がゲリラに協力した町の破壊を命じて、強制収容所を作った。上院委員会への証言では、戦争で100万人のフィリピン人が命を失ったと報告されている
日本も朝鮮における「義兵軍」の蜂起(1908-1909年)で、推定1万7千人の朝鮮人が亡くなったと言われるが、強制収容所は作られなかったし(公安関係はどうかな?)、その経済は強制労働に頼るものではなかった
日本の統治の原則は「同化であり、朝鮮半島には第一次産業に留まらず、工業化のためのインフラ投資を惜しまなかった


4.幻の収奪

日本の歴史教科書にも影響している民族史観はどこまで本当なのだろうか
まず、日本人による土地収用エドウィン・H・グラガートが総督府の史料を調べたところ、併合から1918年までに土地所有に大きな変化は見られなかったという。1935年までに日本人の手に渡ったのは10パーセント未満で、世界恐慌の影響だと指摘している
日本人による文化財の略奪については、カリフォルニア大学のペ・ヒュンイルが、実際に朝鮮の文化財を日本人に売ったのは地元の朝鮮人だとし、むしろ「朝鮮の遺跡や文化遺産の保護」の面で総督府から受け継いだものが大きいという。実際、現在の韓国の文化遺産の格付けは、総督府のそれに準拠しているそうだ

従軍慰安婦に関しては、サンフランシスコ州立大学の蘇貞姫は、日本と朝鮮に存在した公娼制度の延長だったとする。女性たちは家族の生活のために売られ、本人も売春宿へ行くと承知していた。朝鮮の儒教的父権社会にあっては、女性を使い捨て可能な人的資源として扱われたと糾弾している
慰安所が女性たちに賃金を支払うかは、経営者次第ではあるが、日本兵は性的サービスの対価は支払った。性的奴隷の苦しみは否定できないが、一部を全体化するのは正しくない
著者もなぜ日本人の従軍慰安婦を問題せず、国際社会が憤慨しないのかと、皮肉っている


本来、歴史の修正主義(リビジョニズム)とは、新しい史料や既存の情報をそれまでとは異なった角度から解釈する試みで、歴史学ではホロコースト関連で注目された。それがいつのまにか、政治用語として使われて、なぜか「悪のレッテル」を貼られてしまったが、著者の両氏は本来の修正主義の立場からステレオタイプの歴史観を批判している
本書は日本の植民地統治を肯定するものではなく、悪ならばどういう悪だったか、広い視野で位置づけるものである


*23’4/14 加筆修正

『イスラーム国の衝撃』 池内恵

最近、漫画の記事が多いなあ。反省



「ISIL」は、なぜあれだけのことをして潰れないのか。国際的な連帯、宣伝工作、宗教的言説などからその実態を探る

本書はそのどぎつい行動から拡大したイメージで見がちなISILを、その起源から、実際の支持層、外国人兵士の集散、宣伝手法を分析し、実際の姿を測るものだ
国境を越えて欧米にテロを仕掛けたアル・カーイダに代わり、その国際ネットワークを受け継ぐつつも、イラク北部とシリア東部に根付いた経緯イラク戦争、「アラブの春」の失敗から克明に描いている
国際社会全体を敵に回す行為も、実は彼らの世界観では妥当性を持ったものであり、それなりに洗練されたイスラム教の解釈で理論武装しており、有名な人質殺害の映像などにも緻密な計算があって、非常に情報戦に長けた集団でもある
彼らの報道に触れる際に、この本をフィルターして印象操作を退けたいところだ


1.イラクのアルカイーダが母体

「ISIL」はいかに起こったか
もともとはザルカーウィが創設したアル・カーイダ系組織に由来しており、アフガニスタンに本拠を置きつつも、ザルカーウィの故国ヨルダンへのテロを企てていた
9.11の報復でアフガンを追われるとイラクへ逃れ、イラク戦争によるフセイン政権倒壊を受けてイラクでの活動を開始する。いくつかの小勢力を合同したものの、ザルカーウィは2006年に米軍の攻撃で戦死してしまう
ただし、この2006年にイラク出身のバグダーディに形式的であれ指揮権が移譲されたらしく、イラクの土着化が始まる


2.少数派のスンニ派や元軍人吸収

イラク新政府はシーア派中心のマーリキ政権であり、彼らの民主主義は少数民族のクルド人には広汎な自治権や内閣ポストで配慮する一方、少数派のスンニ派はかなり割りを食う体制だった。このため、旧フセイン政権の軍人が「ISIL」になだれ込み、軍隊としての形を整えだす
さらに「ISIL」を後押ししたのはアラブの春で、シリアのアサド政権が民主化運動を大弾圧したことから、泥沼の内戦に突入。アサド政権が東部を放棄したことから、そこに後背地を得ることに成功する。たとえ放棄された地帯とはいえ、イラク軍や多国籍軍はシリアの領土をやすやすと空爆できない
シリアのアサド政権はロシアによって安保理の制裁を免れ、イランのシーア派民兵の支援を受けて維持され、サウジアラビアはスンニ派の反政府勢力を援助しており、周辺各国の思惑が入り乱れた鉄火場となっている


3.教義を流用した理論武装

著者は「ISIL」の基盤はあくまでイラクのスンニ派地域であって、イラクやシリア全域を制圧する力はないという。しかし、なぜ手強いのか
まず、イスラムの教義を使って、上手く理論武装できていること
元来、イスラムのジハードとは自発性を根本とするが、イスラム教徒が異教徒の支配に屈した際に戦う義務が生じる
「ISIL」は、現在の国境が第一次大戦の列強による分割「サイクス=ピコ協定」に由来するものとして、現政権をいわば異教徒の支配されたものとして否定する。報道において、「ISIL」に参加する兵士が「貧困」を原因とすると語られるが、実際には強い宗教的心情に支えられている。「ISIL」の兵士たちは渡航を自弁に強いられ、決して待遇がいいわけではないのだ
悪名高い奴隷制導入も、実はイスラムの終末論に絡んだ解釈で正当化されていて、実に注意深く伝統的な教義を引用して世界観を形作っている。カルトといえるほど、極端な解釈でもないから厄介で、穏健派から近代的価値観と相容れるような理論が立てられることが期待されるが……


4.映画的なプロパガンダ

もう一つは巧みな宣伝工作。先進国の人間を人質したり、処刑したりするときに、オレンジ色の服を着せるのは定番化しているが、これはアブグレイブ刑務所での虐待された捕虜たちが同じ色の囚人服を着せられたことに由来する
斬首する映像には、あえてその瞬間を写さない、映画のような演出を意図している。ネットの視聴者が目を背けずに、かつ許容できる範囲でかつ拡散したくなるほど刺激的なラインを狙っていて、流通を意識した編集がなされているのだ
実のところ、現地人も大量に処刑されているのだが、欧米人の処刑を流すことで「ISIL」が反欧米であることを訴え、他国のアル・カイーダ系組織との連携を演出し、潜在的志願者の支持を確保している
日本には日本赤軍からの伝統か、イスラム主義を欧米型近代のカウンターとして見る嫌いもあるので、「ISIL」がアラブの圧政が生み出した現象であって、解決策でないことを再認識するべきだろう


*23’4/14 加筆修正。ISは転落したが、アフガンではタリバンが政権復帰。シリアも内戦が続いて、西アジアの混乱は終わらない

関連記事 『イスラーム 生と死と聖戦』



『フランス現代史―英雄の時代から保革共存へ』 渡邉啓貴

テロに揺れるフランスの成り立ち



フランスはいかにして第二次大戦の焼け跡を再スタートしたか。パリ解放からの戦後復興、植民地独立をきっかけとした第五共和制のスタート、経済成長と福祉国家の両立を目指すコアビタシオン(保革共存)に落ち着くまで

フランスは大戦中、ナチスに占領され、国土は荒廃しきっていた。焼け野原では、レジスタンスの中心であった共産党が大きな政治勢力を誇り、戦勝国なのに日本の戦後とスタートラインはどこか似ている
終戦直後の混乱を収めたのは、解放の英雄ドゴールだったが、戦前の議会勢力が復帰し、経済も復興し始めると、その影響力はフェードアウトしていった
当初はレジスタンスの功績がある共産党、社会党ら左翼勢力がキャスティングボードを握ったが、アメリカによるヨーロッパ復興プラン=マーシャル・プラン受け入れを巡って路線対立が明確となる。モスクワの指令を受ける共産党は、フランス復興に不可欠なプラン受け入れを拒否し、左翼勢力は分裂する
戦前の保守穏健派をはじめペタン政権に協力した政治家たちも政界へ復帰し保守勢力が再建されていく。右翼のピネ政府のもと、朝鮮戦争の世界的特需もあって、戦後復興が完了し高度成長期を迎えるのだ。えっ、ここまで同じなの?
本書は日本人がつまみ食いで都合よく解釈しがちなフランスの体制を、アルジェ独立、5月革命などの歴史の過程を踏まえて理解させてくれる


1.ベトナムとアルジェ

日本の戦後と違ったのは、植民地支配を巡る葛藤だろう
当時のフランス人にとって、海外植民地は単なる資源供給地ではなく、近代を広める使命を担った土地と考えられていて、「フランスの一部」と考えられていた
仏領インドシナ(ベトナム)に対しては、1954年4月のディエンビエンフーにおいて決定的な敗戦を受けて、ジュネーブ協定に基づいてラオス、カンボジアの独立、ベトナムは南部を非共産党政府が治める形での独立が承認された

北アフリカに対しては、そう簡単に割り切れない。チュニジア、モロッコに対しては「フランス連合」内の独立が承認されるも、アルジェリアに関してはほとんどの政治勢力が「フランスのアルジェを掲げていた
アルジェリアの独立運動は、エジプトのナセルによるスエズ運河国有化によって刺激され、第二次中東戦争でフランスはイスラエル側に加担する。しかし、超大国の米ソがそれぞれの国益から英仏の介入に難色を示し、ひと月で撤退することになった
1955年の第1回アジア・アフリカ会議によって、アルジェリア解放闘争は激化。国連総会でも議題とされ、フランスは国際的に窮地に追い込まれる。アルジェの扱いを巡って右翼・保守勢力は分裂し、共産党もハンガリー動乱でソ連を支持しことから国民の信頼を失っていた。国内のどの政治勢力も統治能力をもっていなかった
もし日本が敗戦を経験せず、植民地を持ち続けたなら同じ苦しみを味わったのだろうか


2.ド・ゴールによる民主主義のための独裁

この大混乱を収めるために、ドゴールの復帰が熱望された
当時のアルジェリアは内戦が常態化して、佐官級の軍幹部が実権を握っていた。FLN(民族解放戦線)との戦いはエスカレートし、拷問、裁判なしの処刑が国際問題となり、フランス本土にもFLNの工作員・協力者が活動し始めていた
ここにいたって、政界を引退していたドゴールが復帰を決め、軍によるクーデター計画を撤回させた
独裁の危険を回避するためと、左翼勢力の支持も取り付けたドゴールは、憲法改正を目的とする六ヶ月の全権委任を認められた。独裁を防ぐための独裁、ボナパティズムの復活である


3.大統領と議会が分業する第5共和制

第四共和制において、第一院である国民議会が大きなウェイトを占め、大統領は形式的な国家元首に過ぎなかった。第二院はあるが諮問機関どまり
しかしその大事な国民議会が、議席数を分散する比例代表制度を取ったために強力な政権与党が生まれず、第一党が組閣後、さらに議会の信任を必要とする脆弱さがあった
首相は解散権を持つが条件が複雑であり、比例代表制度ゆえに特定議員の再選は容易だった

その反省から第五共和制において、大統領は強大な権力と権威ともつ
7年もの任期の間、国民からも議会からも解任されず、首相の任免を通じて政府を指導し、特定の法律を国会を経ずに国民投票にかける権限を有する。さらに一年以上の間隔が空いていれば国会の解散を命じることができる
そして非常時にいたっては、大統領の判断で、いかなる者の拘束を受けることなく立法権、執行権を手にし、憲法の一部停止すら行える
そして、大統領は第四共和制のように国会議員のみよって選出されるのではなく、最初は国会議員から地方議員を含めた選挙母体から、1962年以降は国民の投票によって選出されることになる

国民議会選挙は制度が小選挙区に変わり、二段階の選挙で選ばれる。第1回投票で12.5%以上の得票を得た候補者が第2回の候補に残り、第2回の1位の候補者が当選される。その際には、各政党間の票の調整が認められている
大統領の権限は強力だが、国民議会は不信任案を出すことが可能であり、大統領選挙と国民議会選挙に直接のつながりがないことから、大統領与党と国会の多数派が違うという状況が可能となった
アメリカ大統領のように拒否権まではないので、「準大統領制」ともいわれる


しかしながら、アルジェリア問題はソフトランディングとはいかなかった
「アルジェリア人のためのアルジェリア」を認めた結果、アルジェではフランス系植民者(コロン)に支持された国会議員らによる反乱「バリケードの一週間」、そして外人部隊を使ったクーデターが勃発。素早く鎮圧した後も、秘密武装組織OASサラン将軍の指揮でアルジェを中心にテロ活動を展開して、本土でもかの有名な「ジャッカルの日」を引き起こす。多くの流血の末に、アルジェリアは独立し、第五共和制は確立したのだった
大統領と議会のズレを容認する第五共和制は、ミッテラン時代にコアビタシオン(保革共存)を可能とし、ポスト冷戦、EU統合を睨んだ自由化政策経済成長による格差を是正し持続可能な福祉政策の二正面作戦を可能とした
グローバル化による新自由主義の流れは左翼の強いフランスでも拒否できなかったものの、大統領と議会という異なる政治力学で動く存在がお互いを補完しあって、政策の行き過ぎを防ぐ役割を負っているようだ


*23’4/14 加筆修正



『オリエント急行の時代―ヨーロッパの夢の軌跡』 平井正

オリエント急行といえば、ポワロ
→ まさか、リメイクされるとは思わなかった



なぜか野球選手の代名詞にもなってしまったオリエント急行。時代の著名人たちに愛され続けた「列車の王者」の歴史を綴る

「オリエント急行」とは、フランスのパリからイスタンブールを横断する鉄道で、1883年に開通した寝台車、食堂車を兼ね備えた空前の豪華列車だった
鉄道先進国アメリカにカルチャーショックを受けたベルギー人ナゲルマケールスが、ヨーロッパに「寝台車」を普及すべく1872年に「ワゴン・リー社」を設立し、ベルギー王室の後ろ盾を得て関係各国と交渉し、ヨーロッパ大陸を横断する鉄道を実現した
本書では、実現の過程とその路線を通る国々の歴史、鉄道事情に触れ、鉄道に象徴される「近代化」の進出と“東方(オリエント)”での軋轢をテーマとする
「オリエント急行」は、豊かな西欧が貧しい東欧、中東を観光する「オリエンタリズム」そのものといえ、東欧の王侯がブランドとして珍重する一方、路線には近代化に取り残される寒村が広がっていた
ハプスブルグ朝(オーストリア)とオスマン・トルコの間で揺れ動くハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなど、あまり取り上げられない年代、地域を詳しく取り上げていて、世界大戦と冷戦で沈滞し続けた理由も良く分かる


1.東欧の近代化への壁

やはり建国したばかりの東欧諸国が興味深い
ルーマニアワラキア公国モルダヴィア公国に分かれ、オスマン帝国の忠実な属国としてギリシャ人官僚の支配が続いていたが、民族主義の影響を受けて合同しルーマニアとなる
しかし、近代化に着手した君主クザ公の前には、大地主と小作人の農村社会、識字率の低さが立ちはだかった
ブルガリアではこちらはオスマン帝国の直轄地であったためブルガリア人としてのアイデンティティを国民に確立するのが困難であり、ロシアの介入によってかろうじて自立の道を歩む


2.近代化を手伝う帝国主義

彼らの宗主国であるオスマン帝国も、西欧化の波に大きく揺さぶられた
マフムート2世(位1808~1839年)は、圧力団体と化したかつての精鋭イェニチェリ軍団を廃止し、洋式軍隊を創設した。その後、ガス灯、電信、そして鉄道と最新の技術が導入されていったものの、科学や国民国家といった新しいコンセプトを支える意識を定着できなかった
そのため、こうした“オリエント”の国々は、技術導入のために西欧列強の支援を仰がざるえず、特にオスマン帝国は新しい軍隊、産業を支えるための出費が増大し国家財政が破綻。ついには外債が払えなくなり、列強による債務管理局を設置して内政を管理される事態に陥った
まさに“瀕死の病人”である
列強は直接に植民地を増やすだけでなく、近代化の風を送ることによって間接支配による帝国主義を進めたのだ


オリエント急行はその象徴であり、それに刺激されたドイツ3B政策(ベルリン-ビザンチン-バグダッド)を掲げ、第一次世界大戦への遠因を作ってしまう
日本も日露戦争で勝ち取った満州鉄道を使って権益を拡大したように、鉄道そのものが近代化の名のもとに帝国主義の手段となる
本書はそんなシリアスな話だけではなく、急行が生んだ鉄道小説日本人による珍道中、冷戦後に勝手に生まれた“偽オリエント急行”など、暢気なエピソードも盛り込んでいて、急行の華やかな歴史の裏側を知ることができる


*23’4/15 加筆修正



『陸軍尋問官―テロリストとの心理戦争』 クリス・マッケイ グレッグ・ミラー

柘植久慶の本に、えぐいやり方が載ってましたね…


アメリカの対テロ戦争において、アメリカ軍は捕虜にいかなる尋問を行っていたのか。実地で捕虜を尋問した軍人従軍記者の手を借りて告白する

本書はアブグレイブ刑務所の捕虜虐待事件を受けて、軍全体がそのような行為に手を染めてないことを訴えるため、アフガニスタンに赴任していた元尋問官が実体験を語るもの
ところが必ずしも、軍を美化する内容でもない
建て前として、アメリカ軍は“不正規兵”、制服を着ないゲリラも、ジュネーブ条約に準じて扱うこととしている。しかし現場にいる尋問官は、条約の条文に抜け道を見出し、捕虜に圧力をかけていく
著者の尋問官は陸軍の教習で、拷問では捕虜から正しい情報を得られないと教えられたが、実地では厳しい追及、精神的圧迫が効果を生むことが多く、戦地に長くいるうちに条約ギリギリのラインにまで踏み込めるようになってしまった
平然と語られる捕虜の処遇や収容所の環境も想像以上に劣悪であり、捕虜が戦争から解放された存在でないことを教えてくれる


1.精神的な拷問

実際に行われている捕虜への尋問は、拷問スレスレである
直接的な虐待はなくても、長時間の尋問で疲れさせ、就寝時の前にはコーラなどのカフェイン入りの飲料を与えて、絶えず睡眠不足に追い込む
捕虜に拷問しないと見切られると、代わりに母国への送還、条約を守らない中東諸国への引渡しをほのめかす。凝ったやり方だと、尋問官の一人がアラブ諸国の軍人に扮して、某を連れ帰ると指名する
拷問を直接ほのめかさないが、拷問する場所への移送で脅迫するのはありなのだ
人によっては、軍隊生活で体験する罰則、無理な姿勢を長時間とらせることなどは“拷問”のうちに入らないと解釈して、捕虜に強制する
尋問官側からすると、捕虜から情報を引き出せるかどうかで、友軍兵士の生命、ひいては自国民、関係各国の民間人の生命に関わるという焦りがあり、尋問もまた戦争のように手段を選ばなくなっていく


2.テロリストはジュネーヴ条約対象外

ブッシュ政権は対テロ戦争の捕虜を、ジュネーブ条約を適応する対象とはみなしていなかった
アブグレイブ刑務所で行われたことは、末端の兵士の独走ではない。その「尋問規則」には、軍用犬で脅すこと、三日三晩寝かさないこと、フードをかぶせ続けて知覚を奪うこと、1時間近く無理な姿勢を続けることを認めている
「尋問規則」があるということは、現地司令官の承認があり、半ば合法化されていたことを表すという
著者もぶっちゃけ“拷問”の効用を否定しない。しかし、“拷問”は尋問する側の人間性を剥奪し、大義を損ない、引いて味方失ってしまう
ジュネーブ条約では民族解放闘争を受けて、1977年に制服を着ない不正規兵にも、捕虜の資格が認められたが、アメリカ軍が正式に“拷問”をやめたのは1985年。それ以前にはベトナム戦争、フィリピンのゲリラなどに、電気ショック、水責めなどの古典的ともいえる虐待が行われていたのだ


*23’4/15 加筆修正

『中国共産党 支配者たちの秘密の世界』 リチャード・マクレガー

生き延びる全体主義国家



なぜ中国で民主化が起こらないのか? 今なお秘密のベールに覆われた中国共産党に迫り、その本質と適応力を暴く

著者は『ファイナンシャル・タイムズ』の元北京支局長で、20年に渡って中国で取材活動を続けていた人物で、党組織、国有企業、情報管理、人民解放軍、歴史認識……と様々な角度から党と人民の関係を追求している。社会のほとんどの領域に党が関わるので、党を論じることは中国を論じることに等しいだろう
本書が書きあげられたのは2009年であり(日本語訳の出版は2011年)、当時の中国はヨーロッパが金融危機に揺れるのを見て、「もう欧米から学ぶものは何もない」「中国の体制で金融危機は起こらない」と現体制に自信を深めていた
著者もそうした情勢に煽られたのか、中国の一党独裁は経済成長や時代の変化に軋みつつも強かに歩んでいくと予測していた
今ならそこまで楽観的にはなれないだろうが、開放路線の中国で中産階級の台頭→政治の民主化という構図が通用しなかった理由を明白にしてくれる


1.党による官民一体の経済

高い経済成長と広がる経済格差から、赤い資本主義と揶揄される中国だが、その根っこには、党が選良として人民を指導するレーニン主義の組織が確固として存在している
経済が自由化されたといっても、天安門事件(1989年)を境に大きな変化があった。天安門事件以前は、農村の余剰物売買に始まって、人民による私企業がもてはやされたが、事件後は保守派が盛り返し、国有企業を通した官民一体の体制が構築されたのだ

党に選ばれた国有企業は、海外で上場するためにほぼ民間企業の体裁を整えつつも、経営者の横には党の要人に通じる「赤い電話」が置かれる。企業内には秘密裏に党委員会が作られて、経営者は党の意向に拘束される代わりに、競争に勝ち抜くために国中の力を借りることもできる
このため、経営者も特権階級を意味する「赤い電話」=党員としての地位を欲しがり、党は民主化をもたらすはずの新興階級をつなぎとめることに成功しているのだ
こうした関係は海外から問題視されるものの、中国企業がもたらす莫大な取引額を無視できないの現状のようだ
不思議なのは、ムダの多い国有企業をグローバル市場で活躍する俊敏な存在に変貌できたことだが、党と政府の関係にヒントがある
政府の役人も党から見れば地位が低く切り捨てやすい存在で、国有企業の労働者もそれ以下の身分。党の指導でいくらでも余剰人員を整理し、トップダウンの体制に組みなおせるのだ
一党独裁だからこそ、できる強権である


2.地方同士の競争

党が超越した存在として国を束ねる様は、全体主義国家といわざる得ない
なにせ党の権力はあらゆる政府機関、法律に勝るのだ
たとえば汚職があって摘発される場合は、党の認可が前提であるし、たまに高官が捕まるのは権力闘争による粛清などのイレギュラーだ。司法においても、判決を決定しているのは党で裁判官を完全に掌握し、法律団体と免許の認可を通して弁護士をも間接的に支配している

そうした体制だと汚職が蔓延し、ソ連のように硬直して倒れそうなものだが、なぜかそうならない
中国独特の中央と地方の関係にその鍵がある。原理的には中央の党本部がすべてを仕切るのだが、広大な地域と膨大な人口を中央ではとうてい管理しきれない
そこで地方の政府と党支部に裁量を委ねるのだが、この地方同士で猛烈な経済競争を行われているのだ。地域ごとの経済成長は、党員の出世と栄華と面子をかけたもので、汚職と環境問題の原因になる反面、国全体の繁栄に、中国共産党の求心力に貢献している
ただし官民一体企業による様々な問題が残る。超然とした党が介入するため、汚職が蔓延しつづけ、中央の統制が及ばないため環境問題の改善も進まず元国有企業から党が利益を吸上げるために、中国人民そのものに富が再分配されない
グローバル化して経済成長のわりに貧富の格差が縮まらない問題は、世界全体に見られるものの、高度成長の中国でその問題が先鋭化しているのだ


*23’4/15 加筆修正

『ナチスの発明』 武田知弘

我がドイツの科学力はァァァァァァァアアア 世界一ィィィイイイイ ...



ナチス・ドイツの経済政策を再評価する著者が、ナチス時代の発明と計画を紹介する

例によって、ドイツ科学の成果をナチスの功績に置き換えている(苦笑)。分かっていて書いているのだから、タチが悪い
画期的な発明にも蓄積がいるのであって、それがナチス時代に花開いたといっても純粋にナチスの功績とはいえない。ナチスは科学者の集団ではないし、むしろオカルト的な俗流科学を流布させ、優秀な科学者をアメリカ等も流出させたわけで、そうした影の部分を取り上げないと全体像を描いたと言えないだろう
そもそもアメリカが台頭する前、第一次大戦前のドイツはイギリスを抜いて世界第1位の工業力を誇っていたわけで、実は帯にあるほど衝撃的な内容ではない
ただ一つ一つの記事自体は確かな事実を踏まえており、某漫画の台詞が現実であることを実感できるものだ


1.政治の劇場化とメディアの活用

ロケット、ジェット機、ヘリコプター、リニアモーターカーに、テレビ電話……こんなものもと驚くものもあるが、元を正すと第一次大戦前後に発端があり、軍事目的で進化したものが多い
国産自動車、フォルクス・ワーゲンの構想も、ナチス時代にはすぐ戦争に突入してしまい、わずか数十台足らずで生産停止。労働者の積み立て金は戦費に消えてしまった
著者は戦争がなければ言うが、財形貯蓄と同じく確信犯的に労働者から掠め取ったといわざる得ない(苦笑)
あえてナチスの発明に相応しいものがあるとすれば、政治を劇場化していったことだろう
党大会の演出は戦後のロックスターにも影響を与え、レニ・リーフェンシュタールの記録映画は映像表現の金字塔となった。ニュルベルク党大会における「光のカテドラルは、今では世界中のテーマパークで取り入れられて定番化しているものだ
政治宣伝のため、安価なラジオを普及させるなど、最新技術とメディアの活用という点で、確かに数段抜けている


2.ベルサイユ条約の逆境

第二次大戦でドイツが次々に新技術を開花された背景としては、ベルサイユ条約が挙げられている
陸軍国が10万人への軍縮を強要されたために、その穴埋めとして条約の規制に入らない技術開発に重点を置くようになり、ただでさえ最新技術を持っていたドイツはさらに先んじることとなった
もっともそれらは国防軍の工夫であり、“ナチスの発明”といい難いものだったりするけども
巻末の方では、ナチスの核開発円翼機によるUFO神話(フライングパンケーキの開発は戦後ではない…)、怪しいネタもあるが、IBMが世界大戦前夜までナチスに情報処理のためのパンチカードを提供していたなど、知られざる薀蓄も載っているので小ネタ集としては悪くない


*23’4/15 加筆修正



『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』 第3巻 児島襄

ついに西方電撃戦




第3巻は“ファニーウォー”中の対英和平工作に、ノルウェー侵攻の“ヴェーゼル演習”を経て、マンシュタイン・プランによる西部電撃戦バトルオブブリテン、対ソ戦の前段となるユーゴ、ギリシャの作戦、日独伊三国同盟まで
国防軍は西部戦線に対して悲観的で、戦線が停滞すれば弾薬まで不足するとしていた。そこで反ヒトラー派の軍人たちは、再びクーデター計画を蒸し返す
英仏への攻勢を合図にした計画は皮肉にも、“ファニーウォー”が続きすぎたことから頓挫してしまう
ヒトラー自身も英仏の宣戦、特にイギリスの激しい抵抗は予想外だった。ファニーウォーの原因はドイツ側が和平の可能性を捨てていなかったためでもあった
戦前には対英融和のために海軍の拡大をしておらず、イギリス本土の上陸作戦を立案したものの、将来の対ソ戦を重視して本腰ではなかった
フランス制圧後もイギリスへの和平の期待は収まらず、副総裁ルドルフ・ヘスが単独渡英する事件を引き起こすのだった
戦艦グラフ・シュペーの最期ヴェーゼル演習におけるデンマークとノルウェーの対照的な対応、戦争で影響力が低下したムッソリーニの右往左往など、相変わらずマニアックな人間味のあるエピソードを取り上げられて、もう満腹です


1.幻のソ連侵攻作戦


西部戦線のフランスについての記述は、アンドレ・モーロワ『フランス、敗れたり』からの引用が多いようで、ポール・レノーエアドール・ダラディエの、愛人を交えた政争が面白くおかしく描かれている
驚くべきは、戦線の膠着を打開すべく、フランスによるソ連侵攻作戦が計画されていたことだ
目の前のドイツよりは、ソ連のほうが倒しやすいと、フランスの委任統治領のシリアから植民地軍を北上させ、ソ連の資源が集中するカフカスを突くという壮大な作戦である
さすがに却下されたものの、冬戦争のフィンランド支援を巡って政争が起き、ダラディエ政権は倒壊し、ポール・レノーが首班となる
しかし、レノー政権ダラディエが入閣しないと政権が持たない脆弱性を抱えており、挙国一致には程遠い体制だった
パリ占領後、レノーは徹底抗戦を唱えたが、軍部が秩序だった抵抗はできないとして反対し、副首相だったペタン元帥(84歳!)に政権が渡って、ヴィシー政権が成立する


2.独ソ関係の悪化と松岡洋右

ヒトラーはフランス制圧後、イタリアへの援軍にロンメル率いるアフリカ軍団を送りつつ、対ソ戦への準備を始めた
ソ連側も徐々に対独戦を想定し始めていたようで、スターリンの「積極攻勢発言」もあって1942年を目標に装備の刷新を目指していたらしい
ドイツ軍関係者にミグ戦闘機を見せたこともあり、赤軍の強大化を感じたヒトラーはより対ソ戦への決意を強めたようだ

そんな情勢のときに、のこのこ現れたのが、“東方の使者”日本外相・松岡洋右
松岡は日中戦争の打開のために援蒋ルートを遮断しようと、仏領インドシナへの進駐を希望していた。また、日独伊三国同盟をソ連を交えた四国同盟に発展させ、アメリカの介入を防ぐ構想を持っていた
ヒトラーの要求はずばり対英戦で、シンガポール攻撃を依頼した。松岡は南進論者であったものの、イギリスへの宣戦は自動的に対米戦を招くとして、意味不明の問答で回避する

アメリカの宣戦が第二次大戦の転機となったため、真珠湾攻撃時のドイツの対米宣戦布告が不可解とされるが、ドイツ側からすると「民主主義の武器庫」としてイギリスを支援した時点で敵国同然であり、将来の参戦は不可避と判断していたようだ
日本の参戦でイギリスとアメリカの国力が削がれることを期待されていて、対ソ戦中に真珠湾攻撃があったことはドイツ側からすると同盟の効果が生きたということになる
しかし日本側からすると、日独伊三国同盟で生まれた国益って……


*23’4/15 加筆修正

前巻 『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』 第2巻

関連記事 『フランス、敗れたり』

『ヒトラー・ユーゲント―青年運動から戦闘組織へ』 平井正

少年団同士の国際交流で日本にも来たそうで



ナチズムの少年団「ヒトラー・ユーゲント」の実態を、その成立から悲劇的結末まで追いかける

本書は全体主義のプロパガンダ、その尖兵の供給源となり、最終的にはすべての青少年を強制加入させた「ヒトラー・ユーゲントを、目的、集団生活、文学や映画への題材、指導者の変遷など多角的に検証していく
名前からはヒトラーを個人崇拝する絶対服従の少年親衛隊、と思えるが、実際はそう単純ではない。ヒトラー自身はナチズムの従者として期待し、突撃隊候補生と見ていたが、少年たちそのものにそれ以上の価値を見ていなかった


1.シーラッハの民族教育

「ヒトラー・ユーゲント」の性質を決めたのは、ヒトラーから信認を勝ち取ったバルドゥーア・フォン・シーラハ。中産階級出身で文学者志望だった彼は、ドイツの青年運動「ワンダー・フォーゲル」の要素を持ち込み、彼なりのドイツ的価値(国粋主義!)を植えつけようと野外生活、文学や映画による啓蒙に重きをおいた
ナチスの体制では、なにが“頽廃”か、ヒトラーの指示がないところでは各部署の独裁的な指導者に委ねられていて、シーラハは宣伝相ゲッペルスと組むことで様々な妥協を重ねつつも、ユーゲントを自分色に染め上げていく
しかし、戦時下にアルトゥール・アックスマンがユーゲントを指導するようになると、一気に少年兵の戦闘集団へ変貌していく


2.全体主義への反抗

少年たちからすると、「ヒトラー・ユーゲント」は退屈な家庭、学校生活から解放する側面があった。著者によると、日常からの解放、「非日常性」をいかした偽りの文化(キッチュ文化)を上手く利用したことがナチズムの特徴だとする
しかし実際に入団してみると、画一的に鋳型へ流し込む集団生活は少年達にとって過酷なもので、ユーゲントのなかでは後に反・ヒトラーの活動に身を投じるものもいた
少年たちのイライラは暴力事件へと発展し、共産党本部占拠ゲームなどプロパガンダに利用された事例もあれば、エーデルヴァイス海賊団といわれる反ヒトラー・ユーゲントの少年愚連隊を生み出し、治安当局を悩ます自体に発展した
人間を全体のために存在するとし、理想像にはめ込んでいく全体主義の非人間性を、端的に表しているようだ


3.少年兵として前線へ

大戦が始まると、まずヒトラー・ユーゲントの指導者たちが従軍し、シーラハ自身も負傷するなど多くの犠牲を出す
ノルマンディー上陸作戦の際には、「ヒトラー・ユーゲント師団」が結成され、ついに少年兵が矢面に立つ。連合軍からは“ベイビー師団”と揶揄されながら、大人顔負けに健闘し、ユーゲントは国民突撃隊へ参加していく
少年達が勇敢に戦えてしまったのは、著者は「戦争」と「戦闘」の区別がついていなかったのでは、と推測する。全体の戦況や未来の観測なしに、目の前の戦場に適応し燃焼してしまうのだ


本書では、ナチス統治下の教育、女性に対する考え方、プロパガンダに使われたユーゲント映画など、第三帝国の銃後を様々な角度で触れていて、新書で読めるのは貴重である


*23’4/15 加筆修正



『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』 第2巻 児島襄

びびるぐらいなら止めればいいのに…




第2巻は、赤軍大粛清から、将軍追放による軍部掌握、オーストリアの“大併合”、ミュンヘン会談、独ソ不可侵条約、そしてポーランド侵攻による第二次世界大戦の始まりまで


1.国防軍の掌握


すでに一党独裁体制を築いたヒトラーは、最後の抵抗勢力、国防軍に標的を定める
ヒトラーの支持者だった国防相・プロンベルグ大将が、再婚相手の経歴を不適当であるとして罷免、陸軍総司令官フリッチェ大将も同性愛疑惑の罠にかかって更迭された。ヒトラーの戦争計画により忠実な将軍を起用するともに、トップの首を刎ねた事実をもって国防軍への支配力を強めた
しかし、ヒトラーの戦争計画はドイツを破滅させるものと見なし、参謀総長フォン・ベック大将、参謀次長ハルダー大将(その後、参謀総長)を中心にクーデター計画も練られていて、チェコ併合後もくすぶり続けることになる


2.ファニー・ウォーの真実

ミュンヘン会談からポーランド侵攻までで見えてきたのは、誰もが世界大戦を避けたがっていたこと
ミュンヘン会談は英仏の対独宥和外交として有名で、チェコは対ドイツに軍備を集中していたため、国境地帯のズデーテン地方を取られると軍事的に無力化されてしまい、そのままスロバキアの衛星国化とチェコの併合に直結した
ミュンヘンでは英仏の妥協を見切ったヒトラーも対ポーランドでは揺れた。英仏の強硬姿勢が世界大戦を呼ぶと見て、急遽ソ連へと接近する
ソ連はポーランド東部を第一次大戦で失った勢力圏と見ていて、取り返すべくドイツと交渉に入る。ポーランドがソ連の援軍に否定的だったことも、独ソ接近につながった

それでもソ連の態度が不透明なうちは開戦に踏み切れず、8月25日には作戦開始直前にヒトラーは延期を決めている
たとえソ連との不可侵条約で二正面作戦が避けられても、イギリス相手の長期戦は避けたい。またアメリカの参戦が破滅をもたらすとも予測していたようだ
ポーランド戦が本当の世界大戦にならぬよう、対イギリスへの先制攻撃を禁じ、西部戦線では散発的にしか砲火を交えない“ファニー・ウォーが続くこととなった


3.日本外交の迷走

独ソ不可侵条約に、防共協定を結んでいた日本は大きく動揺する。複雑怪奇の迷言を残して時の平沼内閣は総辞職
ドイツからすると、防共協定はソ連への牽制ではあったが、同時にイギリスの海軍を引きつける役割を期待していて、日本の思惑とはかけ離れていた
駐独大使となった大島浩中将は、ドイツ側へ不可侵条約はソ連の極東進出を助け、防共協定を空文化するものと抗議する。が、外務次官からは「日独同盟に日本が躊躇するから不可侵条約を結ばざるえなかった」などと言われ、リベントロップ外相からは日本もソ連と協定を結べばいいじゃない。ナチスファンの中将にして大きな不信感をもたざる得なかったようだ
どうして、ここから三国同盟に発展できたか、謎と言わざる得ない(嘆


*23’4/15 加筆修正

次巻 『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』 第3巻
前巻 『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い』 第1巻



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