日本のノンフィクションはいかに始まって確立され、変化していったのか。その歴史を展望しながら問題点と突破口を模索する
冒頭に2012年の講談社ノンフィクション賞を巡り起こった「石井光太論争」に焦点をあてる
そこで問われたのは、作品の本文と取材者や関係者の語学力の矛盾があったことから、本当に作者はその場で立ち会ったのか、事実なのかという信憑性の問題に発展した
ノンフィクションというジャンルは事実に即して書かれなければならないが、読者の気を惹くための省略、演出はどこまで認められるのか。ジャーナリズムと文学性は同居できるのか
それを整理せずに拡張していくと、上述のようにノンフィクションというジャンルそのものの信用にも関わってくる
かといって、無味乾燥な記録にとどまってしまうと、誰にも読まれず社会に影響を及ぼせない
その一線がどこなのか、どこで客観性が担保されるのかを短い歴史のなかで探るのが、本書のテーマである
著者は「ノンフィクション」という言葉そのものにこだわる。この言葉が定着した経緯にジャンルの本質が隠されているからだ
戦前では「ノン・フィクション」と「・」(中点)が入っており、イギリスで始まった、小説などのフィクションと区別して「非フィクション」を意味していた。そのために、エッセイ、紀行文、学術論文もろもろを幅広く含むこととなった
今、ノンフィクションとしてイメージされる取材から起こした記事は、フランス語の「ルポルタージュ」と言われた。しかし、このルポルタージュも取材者に文学者が入ったことから、"記録文学”など「文学」の呼称を含むようになり、資料性において問題視されるようになる
戦後において、戦中の体制翼賛への反省から、週刊誌やテレビ放送などにおいて、事実に基づく公正中立な報道が求められ、優れたドキュンタリーが出現するようになる
その中では取材者の匿名性が問題になったが、それは集団で方向性を決め制作していく現場の実情に沿ったものでもあり、最終的な責任は組織が負うという考え方と、取材者をはっきりさせて信憑性を高めるという2つの考え方が併存した
この「ノンフィクション」の言葉の定着において、「ノンフィクションクラブ」を結成した大宅壮一の役割は大きかった
しかし1970年に創設された大宅壮一ノンフィクション賞には、第2回にイザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』、第4回に鈴木明『“南京大虐殺”のまぼろし』が受賞するなど、同賞は従来の「ノン・フィクション」のような、フィクションでなければなんでもあり、という雑多なジャンルになってしまった
その流れを変えたのが、第10回の沢木耕太郎『テロルの決算』。浅沼稲次郎を刺殺した17歳の少年の心境を、まるで供述調書を見たかのように描いたのは、ノンフィクションというジャンルを確立した金字塔だった(その描写は後に産経新聞に載った調書と酷似しており、創作ではない)
ときに取材者が一人称で登場して証言を聞き、ときに三人称で「神の視点」で事件の動きを追い、犯行の瞬間を犯人の視点で捉える。膨大な取材と読者に訴える文章力・文学性を両立させた傑作となった
しかし三人称での描写は、取材源の秘匿というジャーナリストの鉄則を守れる一方で、外部からはどこから取材したのか判別できない問題がある
沢木耕太郎自身も、これ以後は三人称の文章を控え、スポーツや紀行文など自分を視点とする私小説ならぬ「私ノンフィクション」へと舵を切った。いわく、ノンフィクションとは事実そのものではなく、事実に基づく仮説に過ぎないのだから、読者もそう読んで欲しいとか
『テロルの決算』で完成したノンフィクションのスタイルは、本当にどういう取材や証言がとれたのか、信憑性を揺るがす可能性をも生んだのだ
それに対する処方箋として紹介されているのが、怪しい三人称ノンフィクションか、空間の限られる私ノンフィクションかという、硬直したジャンルを埋めるように生まれた田中康夫『なんとなく、クリスタル』、から現代のケータイ小説という文学のあり方。とくに『なんとなく、クリスタル』は、80年代の記号化していく都会を無視した文学者やジャーナリストが黙殺したものを活写したと著者は高く評価している
そして、宮台真司『制服少女たちの選択』などに始まる、アカデミック・ジャーナリズムの流れ。大衆への受けありきのジャーナリズムと、大衆に背を向けがちなアカデミズムがつながることで、客観性が担保されることに期待している
著者は科学史家カール・ポパーの科学に対する姿勢、反証可能性かどうかを重視していて、それは沢木耕太郎の言葉にも通じる
本書は戦前の「ノン・フィクション」時代から、「ノンフィクション」の興隆と問題を辿る力作。あえていうと最終章において、ノンフィクションの役割を果たした文学、アカデミズム・ノンフィクションに対して完全な礼賛となっていて、それまでの批評的な態度との落差がらしくなかったか
それでも、30万冊を越える大宅文庫から、フィクションもいつかは歴史の資料、ノンフィクションの列に加わるという視点など、目から鱗の通史だった
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