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『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』 島田裕巳

タイトルは多少、偽りあり


浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか (幻冬舎新書)
島田 裕巳
幻冬舎
売り上げランキング: 38,849


普段は意識しないのに葬式になると、急に気になる自分の宗派。仏教の八大宗派が生まれた歴史を紹介する
著者はオウム事件のときに袋叩きにあった宗教学者である。そののオウム擁護はともかくも、本書では日本の仏教がどのように発展し、今ある宗派が生まれてきたかを分かりやすく解説している
新書一冊でそれぞれの教えの中身を語るには当然、限界があり、どちらかというと仏教の通史のような内容だ
聖徳太子から最澄・空海の時代まで、仏教は当時の中国王朝での流行に強い影響を受けていて、日本の仏教としての特徴が出るのは草木すら成仏するという「草木成仏を背景にもつ浄土教が広まってから。「草木成仏」の思想は、念仏や題目だけで救済されうるという浄土宗・浄土真宗、日蓮宗の在家重視の宗派が、中世の庶民へ広まっていった
また「草木成仏」の宗教観は、宗教の帰属意識を持たない無宗教につながっているとも

葬式のときに坊主を呼ぶ、「葬式仏教」という形式を作ったのは、どこの宗派か。それは意外にも、曹洞宗である。曹洞宗というと、臨済宗と並ぶ禅宗であり、鎌倉仏教のひとつと学校では習ったものだ
開祖とされる道元は、禅の修業にこだわって比叡山から迫害を受けたとされるが、中興の祖である瑩山紹瑾は、加持祈祷などの密教要素を取り入れ、現世利益への関心が高い武家を取り込んだ。さらに修行中になくなった雲水(修行僧)を弔う儀式を在家信者にもあてはめ、死後に出家させ戒名を授ける「葬式仏教を確立していく
仏教が日本人の死後の問題に関わるのは、浄土教信仰が広まってからだが、遺族による故人の供養へ乗り出したことにより、曹洞宗は全国的に広まっていく。いちはやく基盤を築いた曹洞宗は、全国のコンビニより多い寺院数を誇り、駒沢大学、東北福祉大学など数多くの大学や短大を開設しているのだ
こうした「葬式仏教」の形式は、ほかの宗派にも受け継がれ、教団を支える資金源となっていった

仏教系の学校に出ておきながら、本書からは今さら知る常識も多い
白河上皇の歌にも残る、比叡山延暦寺が権勢を誇ったのは有名だが、奈良時代からの歴史を誇る南都六宗もまた興福寺を中心に、大和国(現・奈良県)の荘園をほぼ所有していて、室町時代には守護も兼ねる宗教王国を為していたという
管理人が初詣に行く八坂神社=祇園社叡山の影響下であり、世界遺産の清水寺は興福寺の末寺と、「南都北嶺」と両者は並ぶ称される関係にあったのだ
織田信長が大仏を焼いた松永久秀を登用したのも、興福寺対策があったのかもしれない

新興宗教に関しては、創価学会と日蓮宗の関係が取り上げられている
本来、日蓮は法華経を重んじるという天台宗の方針をラディカルに守ることからスタートしていて、他の宗派に激しく論争をしかける「折伏」のイメージで知られるものの、徐々に密教的要素を取り込んで庶民へと浸透していく
近代になると田中智学皇国史観と日蓮信仰を合体させた「日蓮運動」を起こし、満州事変を起こす石原莞爾作家・宮沢賢治など多くの信奉者を生む。大東亜共栄圏のスローガンとなった八紘一宇も田中智学が提唱した
田中は天皇が法華信仰を持つことで「国立戒壇」が建立され、「広宣流布」が実現するとし、この発想は戦後の創価学会にも影響を与えたとする
創価学会は昭和30年に北海道・小樽で日蓮宗の僧と論戦し、当時の参謀室長・池田大作が日蓮宗が負けたというイメージを形成させた。このことから、日蓮宗と学会の関係は悪化する
それでも日蓮宗の一宗派・日蓮正宗とは、牧口常三郎が正宗の信仰を持つにいたった縁から、学会の会員がそのまま檀家になるという友好関係だった。しかし、莫大な資金が学会から正宗に流れ込む仕組みに学会側に不満が高まり、平成二年に独立し正宗側から破門されることとなる
著者は日蓮宗の在家に支えられた伝統から来るものとしつつも、新興宗教といえどまったく新しい信仰を説くわけにもいかず、既存の信仰世界を基盤せずにいられないことを示しているとする
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『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』 矢野久美子

絶好の入門書


ハンナ・アーレント - 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者 (中公新書)
矢野 久美子
中央公論新社
売り上げランキング: 40,392


アーレントはいかなる境遇を潜り抜けて、「公共性」を見出したのか。その人生と思考の過程を日本人の研究者が追う
著者は富野監督の対談コーナー「教えてください。富野です」にも登場したアーレントの研究者で、いくつもの訳書を手がけている
本書はアーレントの伝記ともいえる内容だが、その人生と時代とリンクして著作を分析することで、その時々に彼女が論じたかった真意に迫るするものとなっている
なにせアーレントの原著は難解である。本書ではそのエッセンスともいえる要素を、分かりやすく抜き出して解説してくれるので、時間のない社会人には非常にありがたい

ハンナ・アーレントは、1906年にドイツのケーニヒスベルク(現・カリーニングラード)のユダヤ人家庭に生まれた
18世紀のケーニヒスベルクは、ベルリンに次ぐドイツ・ユダヤ啓蒙主義の中心地と言われ、ユダヤ人のゲットーからの解放ドイツ市民社会への融合が唱えられていた。ハンナの祖父マックスは、ユダヤ民族主義にこだわるシオニストと一線を画す自由主義者だった
ベルリン大学の聴講生を経て、1924年にマールブルグ大学に入学する。同大学には、「思考の国の隠れた王」と呼ばれたマルティン・ハイデガーがいて若い学生のグループができていた。ハンナは珍しい女学生として参加し、ハイデガーとは道ならぬ恋路に踏み込む
ハイデガーとの関係はその妻エルフリーデの耳にも入り、1926年にはハイデルブルグ大学へと転学する。そこでハンナを指導したのが、ハイデガーの盟友であるカール・ヤスパース。ヤスパースは患者を社会に合わせて治療する既存の精神医学の方法論に疑問を持ち、心理学の手法を哲学に持ち込んでいた
この大学で生まれた博士論文が『アウグスティヌスにおける愛の概念』アウグスティヌスは4世紀、ローマ帝国末期のキリスト教哲学者で、ハンナはその著作をとおして「隣人愛」、隣人の存在意義への問いかけを行う
人間を社会的なものとして考えると、同じ神に創られた「被造物」というだけでは不十分で、それぞれ孤立した存在となってしまう
そこでアダムを始祖とする「出生」によって成立する「人類」への帰属をもう一つの起源として掲げる。罪深き「人類」として相互に依存し、平等に「運命を共有」して、それは死者たちの「歴史」に由来し、死者をも含む「社会」でもある
「処女作には、その作家のすべてがある」などというが、たとえ「他者」であっても、同じ「人類」である以上、歴史的に相互依存性があるという信念が処女論文に表れているのだ

ドイツで凄いメンバーに囲まれて育ったアーレントは、1933年にナチス政権の成立からフランスへ亡命する。そこでは、同じ亡命者の劇作家ブレヒト批評家のヴォルター・ベンヤミンと出会い、ロシア人哲学者アレクサンドル・コージェヴの講義にも顔を出していた
学業だけでなく、ユダヤ人青少年のパレスティナ移住を助ける運動にも従事し、結果的に数千人のユダヤ人を救ったとされる
1939年に第二次大戦が始まると、パリにいた亡命者たちは意外な苦境に立たされる。フランス当局によって、「ドイツ野郎」として強制収容所に入れられたのだ。アーレントたち女性はスペイン国境近くのギュルス収容所に収容された
国民国家は国籍のない人間に人権を保障してくれない。こうした苛酷な経験が「パーリア(賎民)」としてのユダヤ人論、『全体主義の起源』『人間の条件』といった著作に生かされていく
アイヒマン裁判を巡る論争では、「独裁体制のもとでの個人の責任」という難しい問題に対して信念を貫き、多くのユダヤ人の友人との絶縁を厭わなかった。体制に「服従」したか、ではなく「支持」したかが大事であり、体制そのものが犯罪なら自分の無力さを認めて不参加・非協力という生き方もあるとした
本書は「考えること」が特定の層のものではなく人間に必要な営みであり、そうして考え言葉を交わし行動することが世界を存続させるという彼女の哲学が、いかなる経験からで醸成されたかを教えてくれる


関連記事 『ガンダム世代への提言 富野由悠希対談集Ⅰ』

ハンナ・アーレント [Blu-ray]
ポニーキャニオン (2014-08-05)
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『イスラーム 生と死と聖戦』 中田孝

解説に距離を置かれる本も珍しい


イスラーム  生と死と聖戦 (集英社新書)
中田 考
集英社 (2015-02-17)
売り上げランキング: 135,810


イスラームとは、どんな宗教なのか。イスラム教徒の専門家がその実態を明らかにし、ISではないカリフ制の在り方を展望する
著者は日本には数少ないイスラム教の神学者で、誤解されがちなイスラム教を簡単な入信方法、戒律の性質、イスラム社会の考え方から、はては『涼宮ハルヒの憂鬱』を引いて科学の進歩に対応する一神教の世界観まで紹介していく
本書から見えてくるイスラム教とは、ゆるい一神教の姿である
入信には二人のムスリムが立ち会えば行えるし、聖職者という存在を必要としないムラーはあくまで法学者であり、帰依する存在ではない。神の教えを知らない人間が、地獄に行くわけではないので、新しく広まった地域でも先祖が地獄に落ちず、安心して改宗できた
アラーは慈悲深いので、罪よりも功徳を高く評価してくれるので、だいたいの人は天国行きが約束される。厳父型のキリスト教よりも大甘なのだ
なるほど、これなら広い地域に受け入れられるだろう
ただし、普通の人間は死ぬと墓場に霊魂は留まり、最後の審判を待つが、殉教者は天国に直行できるという教えがある。これがテロリズムに利用されているようだ

面白いのはイスラムの世界観では、一神教とアニミズムが同居していることだ
この世は神が人間のために創ったのではなく、全ての物に「霊」(ルーフ)が宿っているとされ、万物は自然に神の命令に沿って存在している。人間だけが神の命令に背ける理性を持つので、戒律が必要となるのだ
著者からすると、日本の八百万神はアラビアン・ナイトの魔神「ジン」のようなものであり、アラーとは別次元のものとして共存できるそうだ
その一方で、神の命令=戒律を法学的に思考する側面があり、ムハンマドの口伝・法話を元にした『クルアーン(コーラン)』、弟子たちが残した言行録『ハディース』を引いて、法学者たちがその戒律にどういう意味合いがあるのか、どの程度は許されるのかを判断していく。借金があると天国へ行けないなど、現世的な法もある
そうした解釈を下せる法学者に明確な条件があるわけでもなく、人によって様々な解釈がなされていく。ローマ教会のような絶対的な権威が存在せず、個人が聖典に向き合って解釈できるあたりは、プロテスタントに近いイメージである
なぜ、先進地域の中東から近代は生まれなかったのか? 宗教としてのイスラムは行き届き過ぎていて、偏狭なキリスト教社会が近代が生んだような、葛藤に欠けていたのかもしれない

著者は学生がISへ入国するのを助けた一件で、非常に誤解される立場にある。ただし、ISの存在を肯定しているわけではない
ISはその他宗教への虐殺もさることながら、「国家」を語ることが気に入らない
イスラムの理想は、イスラムの土地をイスラム教徒が自由に移動できることであり、近代国家の体裁をとり国境を作ることはそれに相反するのだ。中東の混乱はイスラム圏に欧米の理屈、近代国家と国境が持ち込まれたからであり、それを破壊する点でのみISを認める
ジハードの条件はカリフがいない今、異教徒からの防衛戦に限られるので、ISの戦いはジハードとしては認めない
既存のグローバリゼーションは物と金の移動のみ認めるから、この世に不均衡が生じるのであり、人の移動を認めるべきとする。正直、人の移動を無制限に認めれば、シリア難民にEUが泡を吹いたように大混乱が生じるのだろうが(苦笑)、イスラムと新自由主義は案外、親和性があるようだ
欧米型の民主主義や政教分離は帝国主義や世界大戦を生んだので信用できず、著者の理想はカリフ制によるイスラム圏の統一である。1924年にオスマン・トルコのカリフが退位して以降、イスラム圏に法を判断するリーダーが不在となり、中東の混乱が始まったというのだ
現在の中東の国家は、近代化に対抗すべく欧米の法体系や制度を受け入れて、イスラムの民衆を統治する体制なので、国家の法とイスラムの法が二重に存在している。それを一元化しようというのが、いわゆるイスラム原理主義なのだろうし、イスラムの伝統から逸脱するISは原理主義からかなり離れた存在だと理解できた
その価値観は解説の池内恵『イスラム国の衝撃』の著者)から批判されるのだが、イスラムの内側から見た世界はなかなか興味深いものだ


関連記事 『イスラム国の衝撃』
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『人はなぜ宗教を必要とするのか』 阿満利麿

兼好法師もおすすめの浄土宗


人はなぜ宗教を必要とするのか (ちくま新書)人はなぜ宗教を必要とするのか (ちくま新書)
(1999/11)
阿満 利麿

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宗教はほんとうに要らないのか? 身に余る不条理を受け止める、現代人にとっての宗教の入り口を模索する
『日本人はなぜ無宗教なのか』の姉妹本である
前著で記したように、だいたいの日本人は「自然宗教」が強いから、あえて「創唱宗教」には入らずに生きてきた。しかし、時代を経るごとに「ムラ」は消え、村社会的共同体も失われつつある
そうしたときに、無意識のうちに「自然宗教」に支えられてきた「無宗教」で、日本人は耐えられるのか?
本書はそうした認識のもとに、「宗教」への誤解を解きながら、文豪たちが模索した境地宗教者にとっての「信仰」を語る
著者が浄土真宗の寺で生まれたこともあって、浄土教への入門書と化しているが、「無宗教」とする日本人がいかに仏教の要素に囲まれて暮らしているかには驚かされた

まず最初に、作家・北杜夫「死ねば一切無に帰する」という言葉が取り上げる
「死ねば無」という発想はきわめて現代的なもので、生きているうちが華という現世中心主義の裏返し。地獄や極楽といった「来世」という観念が科学的常識が行き渡るともに、一番受け入れやすいものだという
日本における現世中心主義の始まりは、江戸期の「<浮世>の人生観」で、長い期間を経て多くの人間の共感を得てきた
ちなみに、「人生は無意味」というニヒリズムは、近代国家が成立した以降の代物。村を越えた国家、政府、あるいは会社に振り回され、自己選択を迫られるからこそ、人生の意味を自分で探さなくてはならないために陥る悩みだという
ただ本来、「死後の世界」は生きている人間が死んだ人間を見て想像する世界に過ぎず、科学的証明など不可能。死んで見なければ分からないわけであり、科学的証明とは別次元の事柄なのだ
しかし現代人にとって「科学的」なのが大事で、逆に言うと「科学的」に装われたことなら荒唐無稽なことでも信じられてしまう
著者は明治の宗教哲学者・清沢満之を引いて、「科学」をもって「納得」できないことを無視する態度は、人間の精神を衰えさせると指摘する

ただし「科学」に押されて出てきた「死ねば無」という発想は、仏教の「無」「空」の概念から来ていて、実は日本文化に根づいたものでもある
多くの文化人がその“道”を通じて、「無」という真理への共感を表明していて、「死ねば無」とは永遠の世界に還っていくことを意味する
啓蒙家の福沢諭吉すら、世界観に関しては伝統的な「無常観」を持っていて、「人間は芥子粒」のような存在としていた
近代文学でも志賀直哉の『暗夜行路』などは、人間のはかなさを訴えていて、多くの不条理を自然との一体感によって「救済」される物語となっている
また風流の価値観も佐藤春夫を引いて、自己のはかなさを自然との一体感で乗り越えよう境涯とし、「もののあはれ」「無常感」とも呼んできたという
自然に対して意志的な態度を放棄して、溶け込んでしまう作法は欧米にはない発想なのだ

このように日本人の宗教観には、仏教の入り口が開いているにも関わらず認識されないのは、人間の問題は人間の理解できる範囲で解決するという「浮世」の考えと、職業的宗教家への不信
職業的宗教家、坊さんを恨んでしまうのは、聖人、「清僧」願望の裏返しで、日本人は「苦行」によって神秘的な力を持つ「清僧」を信じてきた
また、仏教側もブッダが「苦行」を否定してきたにも関わらず、民衆の期待にこたえて「清僧」幻想を作り上げた
そうした願望を否定したのが、浄土宗の法然であり、人間は皆自分では悟れぬ「凡夫」であるとして、聖職者による「教会」と「苦行」を否定し、信者と「道場」があるのみとした。厳しい戒律と「苦行」は、並の人間にはついていけず、庶民を救うものではない
ちなみに大阪は、浄土宗・浄土真宗が浸透した土地であり、漫才はアホ=凡夫であることを笑いあうものと著者は解釈している
と、著者は日本人に入りやすい宗教として、浄土教を紹介するが、望まれる宗教の条件としてはその人を精神をポジティヴに、明るくできればよしとする。それが社会と相容れるかは、宗教とは別次元の道徳の話になるのだ


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暗夜行路〈前篇〉 (岩波文庫)暗夜行路〈前篇〉 (岩波文庫)
(2004/05/18)
志賀 直哉

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『イエスはなぜわがままなのか』 岡野昌雄

著者いわく、キリスト教は日本に広まらなかったが、愛や自殺のタブー視などその影響は感じるらしい


イエスはなぜわがままなのか (アスキー新書 67)イエスはなぜわがままなのか (アスキー新書 67)
(2008/06/10)
岡野 昌雄

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イチジクの木を枯らせ、豚を入水自殺させ、市場では大暴れ。世間のイメージとは違うイエス・キリストを紹介しながら、キリスト教徒にとっての「信仰」を説く
本書はフェリス女学院学院長(当時)の著者が、一人の信者の立場からキリスト教の「信仰」がいかなるものかを説明し、世間に流布する誤解を払拭することを狙いとしている
初詣をしながら「無宗教」と称してしまう日本人にとって、キリスト教を神秘の眼差しで見てしまうが、キリスト教徒だからといって隔絶した意識で生きているわけではない
「世界」に対する把握の仕方が違うだけで、「信仰」とそこへ到る境地は日本教教徒にも共感できるものなのだ
かなり基本的なところから説明してくれて、かつ分かりやすい文章なので、キリスト教の常識を知るのに最適だろう。ただし、キリスト教にはいろんな宗派があり、著者がプロテスタントなことは踏まえて読むべき

前半はタイトルにある通り、聖書にあるイエスのエピソードを引用して、一般に知られるイメージとのギャップをピックアップしていく
「季節はずれで実のならないイチジクの木を枯れさせる」「人についた悪霊を豚に転移させて水に飛び込ませる」(ドフトエフスキーの『悪霊』で有名)「市場で売買される動物を放して大騒動を起こす」「『わたしは平和ではなく剣をもたらすために来た』と信者に語る」など、愛と癒しのイエス像と一味違った姿がそこにはある
極めつけは、ユダに対して「お前なんて生まれて来なければよかった」と言い放ったことで、わざわざ自分で裏切りのフラグを立てるような振る舞いをとる
ユダヤ教の改革者として説明できるものもあるが、特にユダの件は納得いく解釈はしがたい
ここで著者は、こういう理解しがたいエピソードこそが、考えさせるキッカケをくれるという
神だけが全知全能とすれば、そうでない人間が理解できないのは当たり前聖書は「イエスに出会った人々の証言集」に過ぎないのであって、完全な答えをくれるものではない
聖書にあることを“すべて事実”と言いはる宗派もあるものの、多くのキリスト教徒はそう記された裏の「真実」を読み取っている
人間が絶対でない以上、その信仰も絶対ではないわけで、それを押し付けるところに原理主義の問題がある

誤解されやすいのが、キリスト教の「原罪」概念
「罪」といっても、イコール「悪」ではない。キリスト教の「罪」とは、犯罪でも不道徳でもなくて「的外れ」、「神の方向に向いていないこと」を指す
「罪」は神を知ることで初めて分かるもので、キリスト教の場合はまずイエスに会って神を知り、「罪」を知るという順番となる
アダムとエバの楽園追放が象徴的で、「善悪を知った木の実」をかじったが故に、神の意志が見えなくなり、エデンの園を追われている。道徳は人間の基準で作り出したものであって、それが神の方向を向いていることとイコールではないのだ

さて、神の方向を向くこととは何かというと、祈り
「祈り」は「願い」ではなく、神と対話することであり、感謝から問いかけ、怒りまで含まれる。「神」という人間に理解不能な存在だと“親しみ”が湧かないが、キリスト教では神がイエスという人間として現れたとして、それを媒介に「会話」を想定する
全知全能の神がわざわざ生身の人間として来てくれるところは、ギリシア神話の影響を感じる
著者は自発的に教会の門を叩いた人で、信仰することで「神にありのままの自分を受け入れられた」と感じられた。神だけが絶対ならば、他のすべては絶対でない。この価値観によって、神(真実)以外のものから支配されなくなり、精神の自由を得られたという。ここは仏教の悟りにも近いと思う
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『日本人はなぜ無宗教なのか』 阿満利麿

日本人の精神を見つめなおす


日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)日本人はなぜ無宗教なのか (ちくま新書)
(1996/10)
阿満 利麿

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日本人はなぜ「無宗教」と答えてしまうのか。葬式、年中行事に親しつつ、「宗教」を敬遠する日本人の宗教観とは?
軽く読めたわりに、付箋をびっしり付けてしまった
「宗教心」の調査だと、だいたい日本人全体の七割が「無宗教と答えてしまう一方、「宗教心は大切だと思う」という質問には過半数が諒とする
日本人にとって「無宗教」とは、無神論ではなく、特定の宗派に帰依しないことを指すのだ。本書では、そう答えてしまう歴史的背景と、もともと持ち合わせている宗教観を柳田國男などを引用しながら解き明かしていく
日本人の宗教観を捻じ曲げたとして近代日本に辛く、浄土宗・浄土真宗への肩入れを感じるものの、日本人がまさに「自然」「普通」と考える行動・思考様式の由縁を明かしてくれる

そもそも「宗教」「無宗教」という用語は、明治政府の政策から生まれている
明治政府は国民国家を作るために、天皇を主権者として下々を「臣民」としたが、その正当性を得るために天皇がアマテラスの子孫であるという「神話」を作り上げた
しかし、近代は合理性を求める時代もあり、特にキリスト教の公認問題は列強との条約改正でのネックになっていた
そうした外圧や宗教者、指導者層の反発もあって、国家神道による一神教化の計画は頓挫する
そこで妥協案として登場したのが、宗教を「内想」(内面)と「外顕」(活動)に分ける考え方だった。内面の信仰を保障するものの、布教活動などは政府によって制限されて然るべしというものだ
そして、政教分離の建て前を守るため、天皇の宮中行事などに関しては、憲法の実質起草者である井上毅によって「神道非宗教論」が展開され、国家が祭祀に税金を投入することを正当化した
井上毅によれば、神道を宗教化したのは近世の国学者であって、祖先崇拝と鎮魂は国家の儀式に過ぎないのだ
こうした政策的詭弁は日本人の宗教観に大きく影響し、「祭祀」と「祈願」の観念を分離させてしまった。神社で拝むことを「宗教」のうちに入れないのは、これが原因だろう
この「神道非宗教論」には、浄土真宗の僧侶も関わっていて、近世以来の政権と宗教組織の関係を引きずっている

そうした政策誘導を除いた上での、日本人にとっての宗教とはなんなのだろうか
著者はいわゆる“宗教”、特定の宗派への帰依するものを「創唱宗教」と、葬式、年中行事といった日常に溶け込んだものを「自然宗教」に分けて考え、「自然宗教」の世界へ切り込んでいく
柳田國男によれば、日本人には“普通”にこだわる「尋常志向があり、部落(ムラ)の平穏のためには、過ぎたる善であっても遠ざける。なるべく結果の不平等をなくそうと、何事も「平衡化」(平均化)し、超越的なものよりも身近な物事を重んじる「日常主義とする。「非日常より日常を」という文句は、よくサブカル界隈に見られるが、日本人のベースとなるムラ社会的発想ともいえるのだ
また自然観として、何事も最後は「大自然」に呑まれて元へ戻ると考えていて、悪いことも時間が経てばどうにかなるという行動様式につながる。これも自然に恵まれた“みずほの国”ならではなのだろう
とはいえ、こうした傾向が広まったのは、近世に入って農業技術が発達し生活が豊かになったから。中世までは災厄に苦しめられ、その苦しみから逃れるために超越的なものに期待するのが主流だった
時代が進むごとに、従来の仏教や儒教が「日常主義」に絡め取られてしまい、宗教としての拘束力を失っていったが、全ての人がそれで満足したわけではなかった
本書は「無宗教」で済まされる日本社会の裏に、多様で豊かな精神が潜んでいることを訴える


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『総力戦体制』 山之内靖

「空気」は日本だけじゃない?

総力戦体制 (ちくま学芸文庫)総力戦体制 (ちくま学芸文庫)
(2015/01/07)
山之内 靖

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戦後の豊かな社会は、「敗戦」によってもたらされたものではない! 現代の制度の多くが戦時の動員体制で形成されたという事実から、世界全体を見直す「総力戦体制論」
日本の福祉制度が戦時に整えられたことは、浸透しつつあるが、本書はそれを何歩も進めていく
戦時に福祉制度が充実するのは、実は普遍的な現象で、二つの世界大戦を経て欧米でも起こっていた。それのみにとどまらず、国家総動員体制が国民国家の枠組みを不可避的に変貌させていった
個人や家族の領域さえ、巨大なシステムに組み込まれた点で、ナチス、スターリン体制だけでなく、日本の軍国主義、アメリカのニューディール、フランスのドゴール体制も「ある種の全体主義と捉えるのだ
著者は1980年代に早くも、戦前と戦後の断絶に異を唱え、総力戦で完成したシステム社会がどこに向かうのか追及してきた。本書はそうした論考を「総力戦体制」というテーマでひとまとめにしたもので、章ごとの内容が重なる部分があるものの、大河内一男を代表とする戦時下の社会政策論、パーソンズを引用するシステム社会の定義、戦後の市民社会派が忘却したものとマックス・ヴェーバー誤読の歴史、ジョン・ダワー『敗北をだきしめて』の戦後論、リスク社会とシステムの緊張関係、<超人>と<カリスマ>の再評価、とテーマは日本社会を越えて多岐に渡る
ヘーゲル、マルクス、マックス・ヴェーバー、パーソンズと素人には頭が破裂しそうな内容ではあるもの、富野監督の言う現代の「全体主義」を考える上で、大きなヒントを与えてくれる大著である。つまり、こういうことだったのか!

時期的にばらばらの論考をまとめたにも関わらず、一人、主役のように浮かんでくる人物がいる。戦時下に「生産力理論」を提唱した大河内一男である
1930年代にマルクス主義は弾圧を受けて資本主義論争は下火となったが、大河内ら講座派は、総力戦に備える国民総動員体制を構築するために活躍の場を与えられた
生産力理論」は、限られた人的資源で最大限の生産力を得るために社会の合理化を目指すもので、大河内は軍国主義の非合理性を排除すべく奔走する。彼にとって戦争という非常時は、改革のチャンスでもあった
労働者を効率的に働かせるために、労働時間の制限、余暇の確保、「銃後」の安定のための保健体育体制、自発的意欲を高めるための「産業報国会」に働きかけた
産業報国会」は、企業ごと職場ごとに編成された組織であり、戦後の労働組合の原型となるものである
戦後、戦争協力への反動から、市民社会派に逃れるものが多く大河内もその一員だったが、彼は「戦時下の遺産を戦後の発展に生かすべき」ともし、戦後に実現した八時間労働制は戦時下から模索されたものとしている
こうした動きは日本の後進性、特殊性に由来するわけでもない。軍国主義と対置するはずのアメリカ・ニューディール民主主義も似たような現象を起こしていた
政府が巨大な官僚組織に変貌し、各分野で専門家中心の中央集権ヒエラルキーが生まれ、労働組合は体制に取り込まれた
ナチズムほどではないにせよ、国民すべてを戦争に動員するための「強制均質化が働いて、人種差別の撤廃も叫ばれた。そして、大戦から冷戦に膨れ上がった軍産複合体はベトナム戦争へと向かう
世界大戦を通じて、世界各国で機能主義的なシステム社会が生まれ、より強烈な「強制均質化」が働いた日本が経済大国にのしあがるのである

さて、戦時の総動員体制がなぜ、今「全体主義」につながるのか
上手くいえる自信はまったくないが、頑張ってみよう。本書ではシステム社会の特徴として、パーソンズの権力概念を紹介している
パーソンズにおいて「権力は、強者が弱者に行使するものではなくて、共同体に所属する全員に課せられる“機能”で、秩序が保たれるために働く。個人そのものには由来せず、野球チームなら「監督」という“立場”が権力の根拠となり、辞めればただの人となる
こうした、すべての成員がなんらかの社会的機能を果たすシステム社会では、市民社会と国家が一体化して、「目に見えない権力」によって相互監視される。国家はシステムの頂点ではなく一部と認識され、国家が市民社会を侵食したというより、国家が市民社会化したとも称される
そして、このシステムは絶え間なく合理性を目指すベクトルをもち、社会工学的合理性の観点から「予知不可能」「不規則」「不確か」を排除しようとする。この清潔で整頓された空間への希求こそ、「ホロコースト」への道であり、リアクションとして「テロリズム」を生むのだ
厄介なのは、一般人はおろか社会学者すらシステムの一環に囚われているから、客観的にシステムを点検できる人間がいないことである。もはや何が正常か、異常か、内部からは分からない
著者はシステムに回収されない「新しい社会運動」(国に補償を求める運動はダメ!)に期待するが、果たして……
サブカルチャーが描いてきた管理社会の恐怖とは、言葉にするとこういうことだったのだ

著者の戦後学界の主流、社会民主派に対する批判は、いわゆる戦後民主主義やそれに準拠するマスコミ、市民団体に通用する
彼らはすでに国家と市民社会が一体化したシステム社会にも関わらず、ヘーゲル時代の国家観に後退することで対応している
政治参加する「市民」は、社会の外壁から思考や判断を下せる理性的な人間として存在できるだと思っている。実際の庶民は社会政策と自己責任の間に右往左往しているわけで、他人事ぽい言説はこうしたリアリティがないから言えるのだ
戦前の丸山眞男は、「ファシズムは市民社会の本来的傾向の究極的にまで発展したもの」と喝破したが、戦後は口を閉ざしてしまった
近代の悲劇に直面しながら、戦後には近代化を楽観視し崇高な目標に置いてしまったことが、今の日本の現状を招いている。その列には新自由主義も入るわけで、システム社会の限界を把握しないと、違う形で悲劇が引き起こされることだろう


敗北を抱きしめて〈上〉―第二次大戦後の日本人敗北を抱きしめて〈上〉―第二次大戦後の日本人
(2001/03/21)
ジョン ダワー

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『「ケータイ・ネット人間」の精神分析』 小此木啓吾

サル呼ばわりする本とはものが違う

「ケータイ・ネット人間」の精神分析 (朝日文庫)「ケータイ・ネット人間」の精神分析 (朝日文庫)
(2005/01)
小此木 啓吾

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携帯とインターネットがモラトリアム社会にどのような影響を及ぼしているのか。「モラトリアム人間論」を唱えた著者が、情報化する日本社会に斬り込んだ最晩年の著作
初出が2000年と、iモードの登場を背景にネットが日常化したことで人間がどう変わるかを分析している
携帯の普及・発達と現代青年の気質を論じた物は数あれど、本書は一味違う
「ケータイ・ネット人間」とは、若い世代のみならず全世代を覆う類型であり、著者すら例外ではない。会議中に日本リーズを観戦し松中のホームランに驚きの声を上げてしまったという赤裸々な告白もなされる(笑)
母型社会である日本では、ネットやゲームは母を代行する役割を果たし「引きこもり」につながる
そして、この「引きこもり」は社会問題としての分かりやすい事例に留まらず、自分の世界に閉じこもる「内面的なひきこもりも含まれる。自らの欲望を処理するのに相手を必要としない環境は、老若男女が直面していることなのだ
「モラトリアム人間の時代」の著者にして、現実のモラトリアム社会に幻滅したのか、フロイトを引用した“新しい父性の再建”に留まり、「プロメテウス的人間」「阿闍世コンプレックス」に触れないのが少し寂しいが、スマートフォンの登場で加速する情報化社会への正しい警句である

ネットやゲームで生まれる人間関係の特徴として、「一・五」の関係を上げる
「二・0」の関係=対話でもなく、かといって「一・0」の自閉的空想の世界でもないのがミソで、「一・0」の人間と「0・五」の物を足して「一・五」の関係である
「0・五」のゲームやサイトは、擬人的な役割を果たし人間のアクションに対して、刺激的なリアクションをとってくる。半ば人間のような遊び相手になり、夢中にさせる
優良なゲームはなまじ開発者の執念を伝える作品にもなってしまうから、罪なほど毒性が強いものだ
そしてこの「一・五」の関係は、実は人間のもつ本性の一つでもあり、子どもの人形遊びに始まり、芸術、ドラマ、遊び、旅などエンターテイメントの基本的な心理でもあった
しかし、情報化社会では「一・五」の領域が拡大し、心の中だけのイメージも画像として楽しめるようになった。「一・五」の関わりが精神生活の全体を覆うようになってしまう
そのために、「二・0」のサシの会話、「三・0」の、第三者にいる社会道徳を問われる関係にも、「一・五」の論理が食い込み、希薄化してしまった
こうしたことは第三者に自らの考えを晒しているはずのブログやツイッターの現状を見れば、痛いほど的を射ている
そして現実社会においても、スイッチのオンオフのように人間関係を切る、配慮の欠けた「一・五」の論理が蔓延し、孤独なのに孤独に思えない「引きこもり」を生んでいると本書は警告する

社会全体が「ひきこもり」になるのはなぜだろう?
「一・五」の関係はスイッチをオフすれば切れるから、ほんらい脱出することはたやすい
しかし、今では「一・五」の関係が産業化しているから、社会そのものが誘導し囲い込んで、「引きこもり」を生みやすい
そして、積極的に社会参加させる理想像を見出せないことが大きい
豊かな社会が建設されたことで、自身の思想・信念と一体化するイデオロギー型人間、組織の一体化してその繁栄を自らの喜びとする会社人間も意味を失った。本書も思想や組織にアイデンティティを見出す人間には、究極的にはその人の自己愛が搾取され、組織に使い捨てられる存在とする
それに変わる基準が個人の自己愛となり、それでもなおかつ生きがいを見出すには何かの“マニアになるしかない
かつてなら天下国家に身を捧げる人間が今では“マニア”として存在し、ジョージ・ソロスやビル・ゲイツなど一攫千金の事業家、ミュージシャン、スポーツマンなど自らの欲望を満たすことで英雄となる
著者はこうした自己愛人間=マニアは自らのルーツ、歴史性を喪っていて、脆い家族しか築けないから、母子関係に新風を吹き込む“新しい父親像”を処方箋として掲げる
“マニア”がいかにして“父”となるか。胸にズシンとくる課題である


関連記事 『モラトリアム人間の時代』
     『日本人の阿闍世コンプレックス』
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『日本人の阿闍世コンプレックス』 小此木啓吾

山本七平の解説も秀逸

日本人の阿闍世コンプレックス (1982年) (中公文庫)日本人の阿闍世コンプレックス (1982年) (中公文庫)
(1982/04)
小此木 啓吾

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日本人の精神をエディプス・コンプレックスで説明できるのか。母性社会の原型として阿闍世コンプレックスを提示し、日本人の深層に潜む心性を紐解く
阿闍世コンプレックスはもともと、著者の師である古沢平作が戦前に発表したもので、もう一つの罪悪意識としてフロイトにも意見を求めていた
エディプス・コンプレックスは子どもが父に母を盗られる嫉妬から「父親殺し」の衝動を持ち、それを克服することが課題となる
しかし、日本には欧米ほど殺しの対象となる“父”はおらず空転する
そこで阿闍世コンプレックスは母親とのつながりを重視する。望まれずに生まれてたのではないかという「未生怨」に端を発する「母親殺し」の衝動をもつことを言い、その母親を許せることを課題とする
本書ではこの阿闍世コンプレックスから、戦後の日本社会で起きる軋轢の所以を解いていく
なにぶん1982年の文庫本なので、ミクロの人間関係では通り過ぎた課題もあるが、日本人論、日本社会論など抽象的な議論は今なお鋭さを失わない

明治以来、欧米に倣った近代化を行ったがゆえに、欧米社会との違いを否定的に扱われてきた
下手すると欧米直輸入の学問が通用しないのは、日本型社会に問題があるという本末転倒の議論も行われた
『「甘え」の構造』が出版されると、著者・土居健郎の意図に反して「甘え=日本社会の問題」として出版社が宣伝してしまうこともあったという
日本社会は表向きは西洋型の近代化をなしとげたことになっているので、エイディプス・コンプレックスを安易に動員しがちだが、根底が母性社会であるから解決にはつながらない
「阿闍世コンプレックス」とは、仏典にある阿闍世(アシャータシャトル)の物語にヒントを得たものだ

阿闍世の母である王妃は、占い師から「裏山の仙人が3年後に夫人の子どもとして生まれ変わる」という予言を聞く。王の寵愛がなくなるのを恐れた王妃は、三年を待てずに仙人を殺し、阿闍世をみごもった。しかし、仙人の呪いが恐ろしくなった王妃は、子どもを高い塔から産み落とす。阿闍世は長じてこの事実を知り、母を殺そうとする。それを思いとどまった彼は、今度はその罪悪感から悪病に苦しむ。悪臭を放つわが子にかつて殺そうとした母親が看病し、阿闍世は母の苦悩を理解して許しあう

厳父から罰せられることではなく、慈母に許されることから、罪の意識が生じるのがポイントで、自分が犠牲を払うことで相手の罪悪感を誘う日本人特有の「道徳的マゾヒズム」(フロイト心理学用語)の原点にも思える
ただし、この「阿闍世コンプレックス」には大きな瑕疵があった
古沢-小此木が提示した阿闍世の物語が原典と違い、本来は父殺しの物語であることだ。このことは最終章において告白されていて、著者自身の意図的な追加も白状されている。元が大陸の仏典なので、母型社会の原型を引き出すには無理が生じるのだろう
神話から類型を引き出して議論を補強することには失敗しているが、創作された「阿闍世コンプレックス」こそ女性の自我を捉えて現代の神話に相応しい

著者によると、明治以来の日本社会の問題は、母性社会にも関わらず父性社会の制度を受けいれざる得ない軋轢にある
教育は欧米流を志向するから、優等生であるほど父性社会的に自分を創る。そうした人間が実社会の「持ちつ持たれつ」にさらされると、拒否反応を起こす。部下として優秀でありながら、上司としては不適格者として弾かれる
その一方で、個人主義の浸透から母性社会が脅かされていて、国際環境でいえば母性社会の原理が通用するのは国内だけという現状もあり、海外の流儀をある程度受容しながら病気にならない自我の在り様を探らねばならない
これ以上ない難題だが、少なくとも日本人の原型を知ることなしに、その境地にたどり着けないだろう


「甘え」の構造 [増補普及版]「甘え」の構造 [増補普及版]
(2007/05/15)
土居 健郎

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『モラトリアム人間の時代』 小此木啓吾

心理学者は信用しないが、この人は別

モラトリアム人間の時代 (中公文庫)モラトリアム人間の時代 (中公文庫)
(2010/04/25)
小此木 啓吾

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現代を特徴づけるのは、「モラトリアム」である。かつては青年期固有ものだった「モラトリアム」が全年代に拡大し社会を覆っているとして、その社会状況でいかに生きるべきかと問う
いや、すごい本があったものだ
本書は1977年の高度成長期が初出でで、著者は日本におけるフロイト研究の第一人者
しかしそれでありながら、従来は青年期の特徴、特権と想定されていた「モラトリアム」を、人間の特徴として積極的に評価し、大人の「モラトリアム」をも短絡的に否定しない
モラトリアム」とは社会に出て一人前の大人になるのを猶予された状態をいい、文脈によっては「ゆとり」と置き換えてもいいだろう
安直なサブカル批評、オタク批判では、大人になれない「モラトリアム」が石を投げられるパターンが多く、それを嫌って開き直り「考えない大人になるより、子どもでいい」などという応答が繰り返されるが、本書にはそれを超える視点がある
多くの動物のなかで人間だけが「待てる」。モラトリアムは人間の特質なのである

なぜ「モラトリアム」が積極的に評価されるべきなのか
ひとつには社会変化が激しく、立場や状況に応じて自分を変えていかなくてはならないこと固有の目標に向かって生きていても、途中でそれが通用しなくなり、路線変更を余儀なくされる
そうしたときに一度築いた考え方に囚われると、精神も腐り転落の道を歩むことになる
こうした状況変化を乗り切る鍵が、今を仮の姿と考える「モラトリアム」の精神であり、今を生きつつ次の姿を想像していくためにはある種の余裕が必要なのである
著者が強調するのは、(高度成長期でも)普通の人生を送ったとしても、「モラトリアム化」は避けられないということだ
出世街道を臨んでも多くの人間はどこかで行き詰まり、職場ではロートルとなり窓際に追い込まれる。今風に言えば、課長になれるのは三割というわけだ
だからたとえ会社の要求に答え自分を創っても、たいがいの人は中年で干され、退社後は年金生活という長い「モラトリアム」にたどりつく
そうなったときに「モラトリアム」を上手く使える発想がなければ、創り上げた自分と現在の状況のギャップに苦しんでしまう
こうしたモラトリアム時代を生きる理想像として、ロバート・J・リフトンが名づけた「プロメテウス的人間」を掲げ、あくまで今を一時的・暫定的なものと見て、変わって行く状況や仕事に対応し変身しつつ、「常により新たな自己実現の可能性を残す」存在とする
かつての心理学ではアイデンティティの拡散は否定的なものとして見られたが、社会の変化に適応した新しい大人像なのだ

本書は全編に渡って深すぎるので、この記事だけで魅力を伝えきることはできない
モラトリアムの積極評価とともに、モラトリアムを軸にした国家論、社会論も展開されていて、60~70年代の学生運動を脱モラトリアム運動徴兵制などの右翼的主張を反モラトリアム運動と規定する。前者はモラトリアムからの脱皮にこだわり、後者はモラトリアム化する社会への「モラトリアムなし世代」の抵抗だとする
心理学をそのまま政治に転用するのは無茶に思えるが、それぞれの情緒からの分析においては正鵠を射ている。現代においても、戦争を潜り抜けた焼け跡世代&会社人間を生きざる得なかった団塊世代と、団塊ジュニア&「ゆとり世代」と、内ゲバ含めた「モラトリアムなし世代」と「モラトリアム世代」との不毛な対立が続いている
モラトリアムを称揚とすると同時に、「モラトリアム社会」への警告もシビアで、アイデンティティの分裂(公私混同)を許さない表の「マスコミ社会」と曖昧に動く「モラトリアム化した実社会」の対立モラトリアムゆえの無責任の言論言論の自由とプライバシーが対立し政治・行政側に利用される事態などの想定は、不幸なことに現実化している
こうした議論が1977年において展開されていることが驚きで、ポストモダンだなんだという批評が色あせて見えてしまった。サブカル論壇がいまいち突き抜けないのも、80年代以前の成果を上手く引き継げていないからではないだろうか
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