カテゴリ0の固定表示スペース

カテゴリ0の固定表示スペースの本文サンプルです。
テンプレート使用時に削除してください

カテゴリ1の固定表示スペース

カテゴリ1の固定表示スペースの本文サンプルです。
テンプレート使用時に削除してください

カテゴリ2の固定表示スペース

カテゴリ2の固定表示スペースの本文サンプルです。
テンプレート使用時に削除してください


『平和主義とは何か』 松元雅和

護憲派、というわけでもない


平和主義とは何か - 政治哲学で考える戦争と平和 (中公新書)
松元 雅和
中央公論新社
売り上げランキング: 195,915

平和主義は理想論に過ぎないのか? 政治哲学で考える非平和主義との論争と現実での実践


平和主義とは、「暴力を使わず非暴力で問題解決をはかる姿勢」である
平和主義には二つの種類があって、国内外問わずあるゆる暴力の使用を拒否する「絶対平和主義」と、例外を認める「平和優先主義(条件付き平和主義)」がある。著者は後者の立場であり、日本では両者が混同された形で扱われているのを整理しようというのが、本書の目的のひとつでもある
非暴力への「愛する人が襲われたら」という批判に対して、「平和優先主義」は国内と国外は別という立場で迎え撃つ。国内の暴力行為には、当事者より上位の公権力と司法による判断がなされるのに対して、国外の軍事行動は国家より上位の権威が存在しないので、「正統性」が担保されない
とはいえ、「平和優先主義」は原理主義ではない。その代表格のバートランド・ラッセルからして、第一次大戦で反戦の立場をとりつつ、第二次大戦ではナチスとの戦争を肯定した
いくら非暴力といっても、公私ともに自然権に基づく自衛権は放棄できない。自らや隣人の生命を軽視することは、人命を軽視することだからだ
「平和優先主義」は、正戦論や絶対平和主義から日和っているように見られる灰色の道なのである

平和主義の対極に位置するものに、正戦論がある。戦争には「正しい戦争」と「そうでない戦争」があるという考え方だ
「正戦論」は、何が正しいかを誰が判断するかという問題がある。戦争では当事国がともに正義を主張するのが通例だからだ
湾岸戦争では安保理での態度が一致したが、アフガン戦争ではアメリカの自衛権で行われ、イラク戦争では有志連合で攻撃が始まった。そして、アフガンでは多くの民間人が巻き添えでなくなり、イラク戦争は今では戦争目的の正当性が疑われている
しかし、国連という組織そのものは、侵略戦争を違法化しながら、それを止めるための個別自衛権や集団安全保障を認めており、実は「正戦論」にのっとっている
実は日本国憲法の「平和主義」と「国連中心主義」には、緊張関係にあるのだ

もうひとつの対極が国際政治学の主流である「現実主義マキャベリに始まる近代現実主義は、世界を無政府状態として国家のみをプレイヤーとし、その安全保障が最優先課題となる
「古典的現実主義」(冷戦時代のモーゲンソーまで)の問題は、国家の生存欲求が自然であるとしながら、自国の生存を最優先しろと勧めるところ。生存欲求が自然ならば、あえて勧める必要があるのか。過去の事実とあるべき姿が判然としない
もっと直接的な問題は、勢力均衡を目指した軍事力の増強がお互いの軍拡を招く「安全保障のジレンマ。防衛用のパワーと攻撃用のパワーは、他国からは区別しがたいから、生じる悲劇だ
とはいえ、「現実主義」が「平和主義」と相いれないわけでもない。イラク戦争の際にはアメリカの国家安全保障にそぐわないという立場から批判がなされた

著者がもっとも難敵とするのが、人道介入主義である
冷戦崩壊後の民族紛争、ボスニアヘルツェゴビナやルワンダの悲劇は、国連に平和維持活動の見直しを迫られた。第二次国連ソマリア活動(1993年~)など、当事国の反対を押し切って、“平和強制”に踏み込むようになった
「人道介入主義」は他国で起きている人権侵害を阻止するために、ときに武力も辞さない姿勢が必要とする
「人道介入主義」の問題は、無辜の人民を助けようとして軍事行動の結果、犠牲が出てしまうことだ。介入しなかったことで起きる犠牲とどちらが重いかを、誰が判断できるというのか
当事国の同意を押し切る軍事介入は国際法の精神と相いれないし、暴力による制圧はそれに対抗する暴力を誘発する(暴力の再生産)。軍事介入が必要な事態は救済ではなく、悲劇なのだ
ことが他国(他人)だからこそ、行動しないという「平和主義」の選択は風当りは良くない。「平和主義」側は非暴力の姿勢を保ちながら、何ができるかを追求しなければならない

「平和優先主義」の立場は「絶対平和主義」ではないので、「正戦論」「現実主義」と交わるところがある
著者自身、日本国憲法とその前文の精神を尊重しつつも、教条的に護憲にこだわって国民的議論を凍結することには反対する
フランス革命がナポレオンの帝国を生んだように、民主主義が必ずしも平和を呼ぶわけではない。著者は「平和優先主義」が正義で万能とは考えておらず、違った立場と対話していくことが、変わっていく国際社会を乗り切っていける知恵を導き出せると考えている
ネットでも紙面でも、憲法が絡むと不毛な論争に陥りがちだが、ひとつの基盤となってくれそうな一書である
(この一行は、各記事の最後に固定表示するサンプルです。テンプレートを編集して削除もしくは非表示にしてください。)

『帝国の残影 兵士・小津安二郎の昭和史』 與那覇潤

これが受けなかったから、次の本でああなったのか


帝国の残影 ―兵士・小津安二郎の昭和史
與那覇 潤
エヌティティ出版
売り上げランキング: 155,799


『中国化する日本』の著者が書いた、小津安二郎の人生と映画を通してみる昭和史
小津安二郎は内外から日本を代表する映画監督とされ、特に日本的家族」を題材としたことで知られる。本書はその小津に課せられた仮面を剥がし、ホームドラマの枠組みに押し込められざる得なかった過程を明らかにするものだ
小津は監督としてのキャリアを積んでいる時期、1937年に34歳で召集を受け中国内陸へ渡り、1年10ケ月の間、前線での戦闘をも含む戦争体験を積んでしまった
中国での体験は、「帝国」であった日本を眺める旅でもあり、その背伸びぶり、歪みが小津の不評とされた作品のなかに込められている。それに光を当てることが、日本近代の正体を照らし出すこととなるというわけだ
作品への精緻な分析がありながら、難は何が著者の文章が分からなくなるほどの膨大な引用と、著者オリジナルの概念「中国化」が邪魔になっているところだろうか

小津の作品で描かれる「家族」は、夫と妻が波乱はあれど基本は元の鞘に戻り、子供も結果的には親を立てる選択をする。実は例外がけっこうあるのだが、そういう作品は不評に終わり、小津のイメージは固まっていった
そうした家族像は実は日本の伝統的な家族ではなく、小津の生まれた大正時代以降に急速に広まったものだった。都市圏において専業主婦が増え、単身の母子家庭の自殺率が急上昇した
経済成長にともなったこの変化は国家の政策に誘導されており、著者は高圧的に近代化を推進した国家の「暴力」を見出し、小津が家族の秩序を取り戻すために主人公たちが行う“殴打”を重ね合わせる
いわば、人間の自然な感情を近代の社会に落とし込むための「暴力」であり、小津の暴力描写にはどこか「家族」が作為的なものであることを示す、切なさがある
もちろん、村落共同体が健在だった時代にも違う形の「暴力」はあったろうし、いつの時代の「家族」も生き延びていくための“作為”というか人為的なもの=知恵には違いないのだが、国家が個人の生活にまで介入する時代の歪みともいえるだろう

小津の映画史と並行して書かれる昭和史には、引用元からしてやや偏向が見られる。「従軍慰安婦」という単語が普通に使われているし、日中戦争の中国国民党を少し買いかぶっている
国民党が最初から殲滅戦に対する消耗戦を企図していたのは後付けで、どちらといえばドイツ仕込みの近代軍に自信をもったからこそ、日本の挑戦に受けて立ったところがある
八路軍のゲリラ戦術に悩まされたが、共産党の人民解放軍が充実するのは日本敗戦時に満州にソ連軍が入ってからである
日本が敗れたのは、本書にも指摘されているように道義戦=政治宣伝においてだろう
昭和史における「中国化」も、中国“化”というほど強いものではなく、いわば間欠泉的なお祭りであり、「純粋動機主義」の狂騒はむしろアニミズムへの先祖返りではなかろうか
ただ、中国での“敗戦”を素直に認めていたならば、太平洋戦争はせずに済んだわけだし、小津ですらその語らぬ本音とは裏腹に、戦争映画の企画に巻き込まれていったことへ思いをはせるべきかもしれない


関連記事 『中国化する日本』

知性は死なない 平成の鬱をこえて
與那覇 潤
文藝春秋
売り上げランキング: 19,777


『中国化する日本』からしばらく後、鬱になって大学を辞められてたようで……
(この一行は、各記事の最後に固定表示するサンプルです。テンプレートを編集して削除もしくは非表示にしてください。)

『日本人は思想したか』 吉本隆明 梅原猛 中沢新一

ひとつのタイトルに収まらない鼎談


日本人は思想したか
日本人は思想したか
posted with amazlet at 18.09.15
吉本 隆明 梅原 猛 中沢 新一
新潮社
売り上げランキング: 486,957


日本人の根底にある思想とはなんなのか。三人の知識人が突き詰めた古代から現代にまで至る鼎談
『共同幻想論』の吉本隆明『神々の流竄』の梅原猛に、当時気鋭の宗教学者だった中沢新一がホスト役を務めた鼎談で、初出は文芸誌「新潮」の平成六年(1994年)。ちょうど、阪神淡路大震災とオウム事件の直前であり、中沢新一は麻原彰晃が著書を座右の銘としていたこと、過去にオウム擁護の言論を繰り返していたことから、強い批判にさらされるのだ
良くも悪くも、そうした波風が立つ前に収録されたので、純粋に日本の精神史が主題となっている
日本の古代に関しては梅原猛の独壇場であり、吉本隆明も仮説を披露しながらも大人しく聞き役に回っている。そこを中沢新一が整理するという流れで、日本に欧米のようにかっちりした近代思想はないものの、茶道や短歌など芸能からにじみ出るものとして紹介していく
文字の記録以前の、古代の精神を遡るには、わずかな物証から想像を広げるしかない。メンバーでお察しのとおり、一般の研究から逸脱する部分も多く、自由奔放に展開される

語られる事柄は多岐に渡るが、管理人が興味を引いたのは、東北、北陸で「あの世」の思想が根強いというところ
東北は坂上田村麻呂の遠征まで中央政権の支配を全くうけなかった土地であり、北陸も辺境であり流刑地にもなっていた。親鸞が越後(新潟県)に配流されたとはいえ、戦国時代に加賀で一向一揆の国ができたのは、死者が「あの世」から往還してくるシャーマニズムと浄土思想に親和性があったと考えられる
北陸の門徒の仏壇には、中央に阿弥陀如来、脇になぜか聖徳太子がある。そこには親鸞が聖徳太子の生まれ変わりである宗教観があるのだ
仏教的に生まれ変わりはありえないのだが、いわば日本に来て変質した部分にこそ、日本人の思想があるわけで、この鼎談ではそうした雑多な部分がむしろ評価されている。これが中沢新一の仏教観なのだろう
また、多神教→一神教に宗教は進化する通説は、戦前の宗教学者W・シュミットを引いて否定されていて、部族社会の素朴な信仰にも一人の神がすべて作ったという一神教は存在していて、多神教は社会が複雑化して一神教が弱体化して生まれたものとしている。が、多神教にも神々の父など、より大きな神の意志が織り込まれていたりして、一神教と多神教は対立概念でもないそうだ

鼎談の最終章では、悪名高い「近代の超克」が冷静に評価されている
近代の超克」とは、太平洋戦争中の昭和17年に文芸誌「文学界」において開かれた座談会であり、日本がその軍事力を根拠に欧米の影響をアジアから排除した(とされた)状況下だった。欧米化=近代化だったものが、日本が近代化できたことで「近代」や「東洋」の定義が問われた
吉本隆明西田幾太郎らの京都学派の系譜に自らを位置しているとして、「現代の超克」(!)をやっているという。戦前の軍事力ではなく、経済力を根拠に世界史に何の役割を担っていくのかを問いたいのだ
デフレに苦しむその後の日本経済を省みると肩透かしかもしれないが、そこを中国に置き換えると現代的な課題となるだろう
「原子力の問題も科学の力で解決する」など今となっては科学信仰が見えるものの、科学技術の発達なくして放射能のカスも処理できないし、地球上の人口を養え切れないのもまたしかり。より「現代」を進むことと、「近代」の弊害を逆方向に抜け出す二正面作戦が吉本の「現代の超克」のようだ
それに対して、京都学派の直系にいる梅原猛「近代の超克」は近代の国家を全肯定しながら、それを超克しようとするのが矛盾だと指摘。近代の発想の原点はシュメール文明の自然破壊に端を発していて(!)、東洋のコメ文化や狩猟採集時代の思想(アボリジニー、アイヌ、ネイティブ・アメリカン)にまで遡ることが未来のヒントになるとしている
梅原猛の短歌や物語の持論、吉本隆明の近代文学論と、ひとつの記事に書ききれない様々な話題が取り上げられ、二十数年経っても色あせない議論だった
(この一行は、各記事の最後に固定表示するサンプルです。テンプレートを編集して削除もしくは非表示にしてください。)

『誤解された仏教』 秋月龍珉

用語辞典片手に読む必要があるかも


誤解された仏教 (講談社学術文庫)
秋月 龍珉
講談社
売り上げランキング: 315,712


仏教に霊魂はなく、あの世もなく、輪廻転生もなければ、「三世の因果」もない! 現代の仏教イメージを洗い流す説法
気さくな語り口ながら、専門用語もいろいろ飛び出してくるから、なかなか難解だった。仏教系の高校を出ているのに、記事にできるほど理解しているか怪しい(汗)
本書は現代に流布する葬式仏教のイメージ、あるいは霊感商法に利用されるような霊魂や霊界、輪廻といった概念が、まったく本来の仏教とは関係ない誤解の産物であり、本来の仏教の在り方を現代に問い直すものである
著者は最初、プロテスタントの牧師の伝道を受けながら、禅への道を進んで鈴木大拙西田幾太郎の影響を受け引き継いでいる人物。禅者でありながら浄土系の教えにも理解しめしていて、原理原則に厳しい一方で、相手を全否定せず仏教の枠組みの中でとらえ直す柔らかさが、いかにも仏教らしい

なぜ釈尊が語っていないことが、仏教に入り込んでしまったかというと、古代インドから中国を経て日本へ伝わるまでの間、また日本全国へ浸透するまでの間に、各地の土着の宗教と習合して伝播していったからだ。日本でいえば、古来の神様が仏陀の弟子となる神仏習合がまさにその典型
そのため、「死者をホトケ」と呼んだり、「神も仏もあるものか」という言い回しがあったり、あの世や霊魂の存在が語られたりする
釈尊は小乗の『阿含経』と呼ばれる初期の経典において、「後有を受けず」と言い切っており、死後の世界や霊魂の存在を明確に否定している。輪廻に関しては、バラモン教の世の中に生まれたゆえ当初はそれを信じていたものの、悟りを開いて以後は「無我」説を説明するために「縁起」を持ち出しただけで(「因果の道理」)で、輪廻はおろか「三世の因果」も否定している
現在の仏教において、「天」「人間」「修羅」「餓鬼」「畜生」「地獄」の六道輪廻は、一人の人間の精神状態あるいは人生の在り様として解釈できるという
著者は日蓮を評価しつつも、日蓮宗の「折伏」については修羅道に通じると否定的。「法」のために他を折伏するのは‟降魔の剣”であって、正義の戦いなど仏教にはないのだ

著者は誤った仏教理解を、ビッシビッシと裁いていくのだが、単純な原理主義者ではない。「死者をホトケ」ということも、どんな人間でも死んだら許すという思想自体は、日本人が仏教から学んだ心として評価する
仏教か否かが疑われている密教に関しては、古代インドのウパニシャッドのような、世界との合一を目指す「梵我一如=神秘主義」に対しては仏教ではないと否定する。仏教と古代インド哲学は別物なのに結び付けられやすいので、注意が必要だ
ただし、空海の密教に対しては、本来の仏教の範囲内だとしている
仏教の修養は、自我を離れる「無我」を目指して「本来の自己」に出会うものであって、より大きな存在と一体化するものではないのだ
阿弥陀如来による救済の教えから、キリスト教との類似点の多い浄土真宗には、釈尊が相手によって教え方を変えた「方便」という概念から肯定する。禅者でありながら、著者は禅宗が「自力本願」と称するのに反対で、「自力」と言ってしまっては‟自我”を捨てきれていないことになるとする。禅を悟りに至る直接的な手法としつつも、阿弥陀仏を立てて自我を捨てさせる「方便」もまた、一つの道なのだ
仏教はある種の無神論であるが、神の存在を全否定しているわけではない。人間が人生で味わう苦しみは外部の神や悪魔によるものではなく、自身の行い(「業」)に発するものという思想から来ている。だから、著者は一神教との対話も可能だとし、現代に耐えうる仏教「新大乗」を提唱している
(この一行は、各記事の最後に固定表示するサンプルです。テンプレートを編集して削除もしくは非表示にしてください。)

『政治家とリーダーシップ』 山内昌之

たしか、富野監督がなんかの雑誌で推していたはず


政治家とリーダーシップ―ポピュリズムを超えて (岩波現代文庫)
山内 昌之
岩波書店
売り上げランキング: 733,424


小泉政権以来、メディアと密着し政治が劇場化した今、ほんらい必要とされるリーダーとは何なのか。東洋の歴史から現代政治への教訓を引き出す
本書は、初出の単行本が2001年の第一次小泉政権下。序章にあたる「はじめに」と終章が2007年に文庫本のために書き下ろされている
序章で嘆かれているのは、テレビ番組で報道とバラエティの敷居が崩れている現状である。本来、事実を厳密に検証する報道と、政治家や芸能人の醜聞を垂れ流すバラエティは性格を異とするはずだが、それを同じ枠にすることは「現代の共同体体験における友愛の悪用」(リチャード・セネット)に他ならないとする
一部の政治家と芸能人、キャスターを「有名人」として一括りされ、これに属せない地味な政治家が除外されていく。メディアの世界では流される瞬間だけ、気の利いたことを言う刹那的能力が重視されてしまうのだ
メディアと政治が密着した時代にあっては、ジャーナリストも「反権力」ではありえない。著者は政治バラエティが無関心な人間を政治に近づかけたのではなく、「政治の芸能化」という名の政治化にほかならないとまでいう
そんな社会に公共善と取り戻し、未来の秩序を作るには何が必要なのか。それを問うのが本書のテーマである

序章において、安易な官僚への責任転嫁・中傷を弁護しつつ、その官僚たちの育成方法=法律学に編重する大学教育を批判している。本当の意味のエリートは、歴史、それも自国や東洋の歴史・教養なくして、判断の下地を作れず他国の人間の尊敬を得られないのだ
第一章では、具体的に理想のリーダー像として、江戸時代に薩摩藩を存続させた島津義弘と、家光の異母弟として影から幕府を支えた保科正之を掲げている
島津義弘は戦国時代を引きずる兄・島津義久に足を引っ張られつつも、豊臣や徳川といった強力な中央政権に巧みな外交を展開して、難局を乗り切った
保科正之は将軍の息子に生まれながら、保科家へ養子に出される不遇の存在だったが、腐らずに自分の門地にもおごらず諸大名から副将軍格としてみなされるまでに至った
両者に共通にするのは、他を圧倒する実力・声望を持ちながら、謙虚で公私混同しなかったこと。義弘は島津家の当主でありつつも、嫉妬する実兄の前当主・義久の顔を立て続け、正之は将軍の弟でありながら創業の功臣である大老・老中を尊重して、組織の序列を崩さなかった
著者は特に保科正之を称揚し、武断政治から文治政治への大転換を果たした戦略眼、社会保障や罪刑法定主義を導入するヒューマニティ、愚直な誠実さを評価する

第二章においては、タイトルこそ「リーダーシップの条件」だが、内容はほぼ外交官の条件。ただし、外交官の条件はリーダーの条件にも通じる
外交官の最低条件は嘘をつかず感情の起伏がないこと。一度、嘘をつくとその嘘を合理化しようと嘘を重ねることになって、結局は信用を無くしてしまう。外交の現場では同じ相手と何度も交渉することが多いので、嘘をつかないという信用が最大の財産となる
小泉政権の田中真紀子のようなスタンドプレイに走る外務大臣など、ありえないのだ
第三章・終章では専門の中東を中心とした国際情勢と求められる外交、第四章ではエリート育成のための教育の在り方に触れられている
全編を通して強調されるリーダー(エリート)の資質とは、自国の歴史を中心とした教養「嘘をつかない誠実さ」。まさに正論なのだが、ではこのメディア政治の状況下でそういう人材が育つかという点では、なかなか大変
地道に教育を施していくしかないようだ


関連記事 『島津奔る』(島津義弘主役の歴史小説)
(この一行は、各記事の最後に固定表示するサンプルです。テンプレートを編集して削除もしくは非表示にしてください。)

『原理主義とは何か』 西谷修 鵜飼哲 港千尋

ガンダムでいうと、Vガンあたりにつながる話です


原理主義とは何か
原理主義とは何か
posted with amazlet at 17.05.12
西谷 修
河出書房新社
売り上げランキング: 779,418


冷戦以後、世界は原理主義化している!? 三人の知識人が問う原理主義の正体
本書の鼎談は1995年・1996年の季刊誌『文藝』が初出。ちょうどオウム真理教の事件があったときで、ボスニア・ヘルツェゴビナやアルジェリアの内戦が議題に上っている
2001年の9・11後に「原理主義」を目の仇にして論ずる声は高まったが、本書ではそれ以前の様々な地域から、「原理主義」の出自や内実を視野に捉えることでより深く掘り下げられた議論が展開されている
原理主義は冷戦以後に、社会主義など近代国家を支えるイデオロギーが没落したことで、「宗教」がその代替物として浮上、アフリカや中東など欧米諸国が引いた国境で「民族」が分断された地域で台頭するものというのが一般的な理解だが、それのみに留まらない。実は相手を「原理主義」と非難する側も原理主義化している
冷戦以後、世界に壁はなくなり、タリバンやISは「外部」にいるわけではなく、原理主義は対岸の火事ではないのだ
単に政治的状況だけではなく、近代が終わることによる「死」と「生命」の意味の変化、それに対する原理主義的な社会の反応、そして原理主義の嵐を免れる処方箋を探ったりと、お腹ならぬ頭がいっぱいになる鼎談である

正直言って話される内容も参照される事例も、管理人の手に余る難解さなんだが、なんとか分かる部分だけでもまとめてみよう
冒頭に提起されるのは、冷戦が終わって1930年代に状況が近づいてきたということ。ボスニアにおける民族浄化が、単なる兵士の暴走ではなく旧共産の官僚組織による計画的犯罪であったことが念頭にある
核が角突き合わせる状況によって固定化していた問題が、冷戦終結によって再び表舞台に動き出し始めた
そもそも旧植民地からの独立した国にとって、資本主義諸国は帝国主義の元宗主国であり本来は戦うべき相手。反欧米のナショナリズムは、ソ連の支援とも結びついて社会主義が抵抗のイデオロギーとなっていた。日本でも「反米」をキーワードに、右翼と左翼が結びつく事例があり、左翼の背景にはナショナリズムが隠れている

冷戦の崩壊により社会主義の正当性が崩れて、宗教が代替物として浮上するが、実は先進国においても近代国家の枠組みが揺らいで、一種の宗教がそれを補うように役割を果たしている
欧米を範とする近代国家はキリスト教社会を母胎とするため、必然的にキリスト教を原型として背負う。政教分離も世俗と宗教を区分けしただけで宗教を消し去ったわけではなく、「信教の自由」も“ヴォルテールの寛容”、キリスト教社会内の寛容に過ぎない
鼎談では、ヨーロッパ社会内のムスリムには「世俗化」した社会も、キリスト教の変型にしか見えず、反発を招いているとする。一方、世俗化した欧州の反イスラムの動きも、原理主義的になっている(関連文献:『シャルリとは誰か?』
そして旧植民地の原理主義も、実は欧米が持ち込んだ近代国家の世俗性を基盤にした政治集団であり、イスラムであれヒンドゥーであれ伝統的なコミュニティを自己破壊していく。タリバンにしろISにしろ、伝統から飛躍した過激さを持ち、粗雑ながら官僚組織を築いて国家を志向していた
その意味で原理主義は、冷戦後に一つになった世界で浸透しきった欧米型近代の余波でありグローバリゼーションの産物なのである

では、日本における原理主義とは何だろうか
日本では政教分離が掲げられつつも、宗教を半ば手段にして政治的な動きをすることが平然と行われてきた社会」(鵜飼)であり、本書が出版された当時では、創価学会を味方につけた新進党が参院選で自民党の得票数を上回っていた
今では自民党が学会と連結する形で、第二次安倍政権を長期化させており、民進党サイドは反学会の宗教連合でそれに対抗している
20年前から宗教勢力とひっつかないと選挙に勝てないという、宗教の時代に突入していたのだ
そして、オウム真理教も、1990年に衆院選挙に打って出ていた。最近だと、幸福の科学が2009年に幸福実現党を結成している
近代国家の枠が揺らぐなか、宗教が国家を利用するのか、国家が宗教を利用しているのか判然としないが、安保法制、九条改憲、対テロ等準備罪などを巡るごり押しと頭から絶対反対が対峙する政治状況は、たしかに原理主義的である


関連記事 『シャルリとは誰か?』
(この一行は、各記事の最後に固定表示するサンプルです。テンプレートを編集して削除もしくは非表示にしてください。)

『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』 島田裕巳

タイトルは多少、偽りあり


浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか (幻冬舎新書)
島田 裕巳
幻冬舎
売り上げランキング: 38,849


普段は意識しないのに葬式になると、急に気になる自分の宗派。仏教の八大宗派が生まれた歴史を紹介する
著者はオウム事件のときに袋叩きにあった宗教学者である。そののオウム擁護はともかくも、本書では日本の仏教がどのように発展し、今ある宗派が生まれてきたかを分かりやすく解説している
新書一冊でそれぞれの教えの中身を語るには当然、限界があり、どちらかというと仏教の通史のような内容だ
聖徳太子から最澄・空海の時代まで、仏教は当時の中国王朝での流行に強い影響を受けていて、日本の仏教としての特徴が出るのは草木すら成仏するという「草木成仏を背景にもつ浄土教が広まってから。「草木成仏」の思想は、念仏や題目だけで救済されうるという浄土宗・浄土真宗、日蓮宗の在家重視の宗派が、中世の庶民へ広まっていった
また「草木成仏」の宗教観は、宗教の帰属意識を持たない無宗教につながっているとも

葬式のときに坊主を呼ぶ、「葬式仏教」という形式を作ったのは、どこの宗派か。それは意外にも、曹洞宗である。曹洞宗というと、臨済宗と並ぶ禅宗であり、鎌倉仏教のひとつと学校では習ったものだ
開祖とされる道元は、禅の修業にこだわって比叡山から迫害を受けたとされるが、中興の祖である瑩山紹瑾は、加持祈祷などの密教要素を取り入れ、現世利益への関心が高い武家を取り込んだ。さらに修行中になくなった雲水(修行僧)を弔う儀式を在家信者にもあてはめ、死後に出家させ戒名を授ける「葬式仏教を確立していく
仏教が日本人の死後の問題に関わるのは、浄土教信仰が広まってからだが、遺族による故人の供養へ乗り出したことにより、曹洞宗は全国的に広まっていく。いちはやく基盤を築いた曹洞宗は、全国のコンビニより多い寺院数を誇り、駒沢大学、東北福祉大学など数多くの大学や短大を開設しているのだ
こうした「葬式仏教」の形式は、ほかの宗派にも受け継がれ、教団を支える資金源となっていった

仏教系の学校に出ておきながら、本書からは今さら知る常識も多い
白河上皇の歌にも残る、比叡山延暦寺が権勢を誇ったのは有名だが、奈良時代からの歴史を誇る南都六宗もまた興福寺を中心に、大和国(現・奈良県)の荘園をほぼ所有していて、室町時代には守護も兼ねる宗教王国を為していたという
管理人が初詣に行く八坂神社=祇園社叡山の影響下であり、世界遺産の清水寺は興福寺の末寺と、「南都北嶺」と両者は並ぶ称される関係にあったのだ
織田信長が大仏を焼いた松永久秀を登用したのも、興福寺対策があったのかもしれない

新興宗教に関しては、創価学会と日蓮宗の関係が取り上げられている
本来、日蓮は法華経を重んじるという天台宗の方針をラディカルに守ることからスタートしていて、他の宗派に激しく論争をしかける「折伏」のイメージで知られるものの、徐々に密教的要素を取り込んで庶民へと浸透していく
近代になると田中智学皇国史観と日蓮信仰を合体させた「日蓮運動」を起こし、満州事変を起こす石原莞爾作家・宮沢賢治など多くの信奉者を生む。大東亜共栄圏のスローガンとなった八紘一宇も田中智学が提唱した
田中は天皇が法華信仰を持つことで「国立戒壇」が建立され、「広宣流布」が実現するとし、この発想は戦後の創価学会にも影響を与えたとする
創価学会は昭和30年に北海道・小樽で日蓮宗の僧と論戦し、当時の参謀室長・池田大作が日蓮宗が負けたというイメージを形成させた。このことから、日蓮宗と学会の関係は悪化する
それでも日蓮宗の一宗派・日蓮正宗とは、牧口常三郎が正宗の信仰を持つにいたった縁から、学会の会員がそのまま檀家になるという友好関係だった。しかし、莫大な資金が学会から正宗に流れ込む仕組みに学会側に不満が高まり、平成二年に独立し正宗側から破門されることとなる
著者は日蓮宗の在家に支えられた伝統から来るものとしつつも、新興宗教といえどまったく新しい信仰を説くわけにもいかず、既存の信仰世界を基盤せずにいられないことを示しているとする
(この一行は、各記事の最後に固定表示するサンプルです。テンプレートを編集して削除もしくは非表示にしてください。)

『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』 矢野久美子

絶好の入門書


ハンナ・アーレント - 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者 (中公新書)
矢野 久美子
中央公論新社
売り上げランキング: 40,392


アーレントはいかなる境遇を潜り抜けて、「公共性」を見出したのか。その人生と思考の過程を日本人の研究者が追う
著者は富野監督の対談コーナー「教えてください。富野です」にも登場したアーレントの研究者で、いくつもの訳書を手がけている
本書はアーレントの伝記ともいえる内容だが、その人生と時代とリンクして著作を分析することで、その時々に彼女が論じたかった真意に迫るするものとなっている
なにせアーレントの原著は難解である。本書ではそのエッセンスともいえる要素を、分かりやすく抜き出して解説してくれるので、時間のない社会人には非常にありがたい

ハンナ・アーレントは、1906年にドイツのケーニヒスベルク(現・カリーニングラード)のユダヤ人家庭に生まれた
18世紀のケーニヒスベルクは、ベルリンに次ぐドイツ・ユダヤ啓蒙主義の中心地と言われ、ユダヤ人のゲットーからの解放ドイツ市民社会への融合が唱えられていた。ハンナの祖父マックスは、ユダヤ民族主義にこだわるシオニストと一線を画す自由主義者だった
ベルリン大学の聴講生を経て、1924年にマールブルグ大学に入学する。同大学には、「思考の国の隠れた王」と呼ばれたマルティン・ハイデガーがいて若い学生のグループができていた。ハンナは珍しい女学生として参加し、ハイデガーとは道ならぬ恋路に踏み込む
ハイデガーとの関係はその妻エルフリーデの耳にも入り、1926年にはハイデルブルグ大学へと転学する。そこでハンナを指導したのが、ハイデガーの盟友であるカール・ヤスパース。ヤスパースは患者を社会に合わせて治療する既存の精神医学の方法論に疑問を持ち、心理学の手法を哲学に持ち込んでいた
この大学で生まれた博士論文が『アウグスティヌスにおける愛の概念』アウグスティヌスは4世紀、ローマ帝国末期のキリスト教哲学者で、ハンナはその著作をとおして「隣人愛」、隣人の存在意義への問いかけを行う
人間を社会的なものとして考えると、同じ神に創られた「被造物」というだけでは不十分で、それぞれ孤立した存在となってしまう
そこでアダムを始祖とする「出生」によって成立する「人類」への帰属をもう一つの起源として掲げる。罪深き「人類」として相互に依存し、平等に「運命を共有」して、それは死者たちの「歴史」に由来し、死者をも含む「社会」でもある
「処女作には、その作家のすべてがある」などというが、たとえ「他者」であっても、同じ「人類」である以上、歴史的に相互依存性があるという信念が処女論文に表れているのだ

ドイツで凄いメンバーに囲まれて育ったアーレントは、1933年にナチス政権の成立からフランスへ亡命する。そこでは、同じ亡命者の劇作家ブレヒト批評家のヴォルター・ベンヤミンと出会い、ロシア人哲学者アレクサンドル・コージェヴの講義にも顔を出していた
学業だけでなく、ユダヤ人青少年のパレスティナ移住を助ける運動にも従事し、結果的に数千人のユダヤ人を救ったとされる
1939年に第二次大戦が始まると、パリにいた亡命者たちは意外な苦境に立たされる。フランス当局によって、「ドイツ野郎」として強制収容所に入れられたのだ。アーレントたち女性はスペイン国境近くのギュルス収容所に収容された
国民国家は国籍のない人間に人権を保障してくれない。こうした苛酷な経験が「パーリア(賎民)」としてのユダヤ人論、『全体主義の起源』『人間の条件』といった著作に生かされていく
アイヒマン裁判を巡る論争では、「独裁体制のもとでの個人の責任」という難しい問題に対して信念を貫き、多くのユダヤ人の友人との絶縁を厭わなかった。体制に「服従」したか、ではなく「支持」したかが大事であり、体制そのものが犯罪なら自分の無力さを認めて不参加・非協力という生き方もあるとした
本書は「考えること」が特定の層のものではなく人間に必要な営みであり、そうして考え言葉を交わし行動することが世界を存続させるという彼女の哲学が、いかなる経験からで醸成されたかを教えてくれる


関連記事 『ガンダム世代への提言 富野由悠希対談集Ⅰ』

ハンナ・アーレント [Blu-ray]
ポニーキャニオン (2014-08-05)
売り上げランキング: 40,276
(この一行は、各記事の最後に固定表示するサンプルです。テンプレートを編集して削除もしくは非表示にしてください。)

『イスラーム 生と死と聖戦』 中田孝

解説に距離を置かれる本も珍しい


イスラーム  生と死と聖戦 (集英社新書)
中田 考
集英社 (2015-02-17)
売り上げランキング: 135,810


イスラームとは、どんな宗教なのか。イスラム教徒の専門家がその実態を明らかにし、ISではないカリフ制の在り方を展望する
著者は日本には数少ないイスラム教の神学者で、誤解されがちなイスラム教を簡単な入信方法、戒律の性質、イスラム社会の考え方から、はては『涼宮ハルヒの憂鬱』を引いて科学の進歩に対応する一神教の世界観まで紹介していく
本書から見えてくるイスラム教とは、ゆるい一神教の姿である
入信には二人のムスリムが立ち会えば行えるし、聖職者という存在を必要としないムラーはあくまで法学者であり、帰依する存在ではない。神の教えを知らない人間が、地獄に行くわけではないので、新しく広まった地域でも先祖が地獄に落ちず、安心して改宗できた
アラーは慈悲深いので、罪よりも功徳を高く評価してくれるので、だいたいの人は天国行きが約束される。厳父型のキリスト教よりも大甘なのだ
なるほど、これなら広い地域に受け入れられるだろう
ただし、普通の人間は死ぬと墓場に霊魂は留まり、最後の審判を待つが、殉教者は天国に直行できるという教えがある。これがテロリズムに利用されているようだ

面白いのはイスラムの世界観では、一神教とアニミズムが同居していることだ
この世は神が人間のために創ったのではなく、全ての物に「霊」(ルーフ)が宿っているとされ、万物は自然に神の命令に沿って存在している。人間だけが神の命令に背ける理性を持つので、戒律が必要となるのだ
著者からすると、日本の八百万神はアラビアン・ナイトの魔神「ジン」のようなものであり、アラーとは別次元のものとして共存できるそうだ
その一方で、神の命令=戒律を法学的に思考する側面があり、ムハンマドの口伝・法話を元にした『クルアーン(コーラン)』、弟子たちが残した言行録『ハディース』を引いて、法学者たちがその戒律にどういう意味合いがあるのか、どの程度は許されるのかを判断していく。借金があると天国へ行けないなど、現世的な法もある
そうした解釈を下せる法学者に明確な条件があるわけでもなく、人によって様々な解釈がなされていく。ローマ教会のような絶対的な権威が存在せず、個人が聖典に向き合って解釈できるあたりは、プロテスタントに近いイメージである
なぜ、先進地域の中東から近代は生まれなかったのか? 宗教としてのイスラムは行き届き過ぎていて、偏狭なキリスト教社会が欧米の近代を生んだような、葛藤に欠けていたのかもしれない

著者は学生がISへ入国するのを助けた一件で、非常に誤解される立場にある。ただし、ISの存在を肯定しているわけではない
ISはその他宗教への虐殺もさることながら、「国家」を語ることが気に入らない
イスラムの理想は、イスラムの土地をイスラム教徒が自由に移動できることであり、近代国家の体裁をとり国境を作ることはそれに相反するのだ。中東の混乱はイスラム圏に欧米の理屈、近代国家と国境が持ち込まれたからであり、それを破壊する点でのみISを認める
ジハードの条件はカリフがいない今、異教徒からの防衛戦に限られるので、ISの戦いはジハードとしては認めない
既存のグローバリゼーションは物と金の移動のみ認めるから、この世に不均衡が生じるのであり、人の移動を認めるべきとする。正直、人の移動を無制限に認めれば、シリア難民にEUが泡を吹いたように大混乱が生じるのだろうが(苦笑)、イスラムと新自由主義は案外、親和性があるようだ
欧米型の民主主義や政教分離は帝国主義や世界大戦を生んだので信用できず、著者の理想はカリフ制によるイスラム圏の統一である。1924年にオスマン・トルコのカリフが退位して以降、イスラム圏に法を判断するリーダーが不在となり、中東の混乱が始まったというのだ
現在の中東の国家は、近代化に対抗すべく欧米の法体系や制度を受け入れて、イスラムの民衆を統治する体制なので、国家の法とイスラムの法が二重に存在している。それを一元化しようというのが、いわゆるイスラム原理主義なのだろうし、イスラムの伝統から逸脱するISは原理主義からかなり離れた存在だと理解できた
その価値観は解説の池内恵『イスラム国の衝撃』の著者)から批判されるのだが、イスラムの内側から見た世界はなかなか興味深いものだ


関連記事 『イスラム国の衝撃』
(この一行は、各記事の最後に固定表示するサンプルです。テンプレートを編集して削除もしくは非表示にしてください。)

『人はなぜ宗教を必要とするのか』 阿満利麿

兼好法師もおすすめの浄土宗


人はなぜ宗教を必要とするのか (ちくま新書)人はなぜ宗教を必要とするのか (ちくま新書)
(1999/11)
阿満 利麿

商品詳細を見る


宗教はほんとうに要らないのか? 身に余る不条理を受け止める、現代人にとっての宗教の入り口を模索する
『日本人はなぜ無宗教なのか』の姉妹本である
前著で記したように、だいたいの日本人は「自然宗教」が強いから、あえて「創唱宗教」には入らずに生きてきた。しかし、時代を経るごとに「ムラ」は消え、村社会的共同体も失われつつある
そうしたときに、無意識のうちに「自然宗教」に支えられてきた「無宗教」で、日本人は耐えられるのか?
本書はそうした認識のもとに、「宗教」への誤解を解きながら、文豪たちが模索した境地宗教者にとっての「信仰」を語る
著者が浄土真宗の寺で生まれたこともあって、浄土教への入門書と化しているが、「無宗教」とする日本人がいかに仏教の要素に囲まれて暮らしているかには驚かされた

まず最初に、作家・北杜夫「死ねば一切無に帰する」という言葉が取り上げる
「死ねば無」という発想はきわめて現代的なもので、生きているうちが華という現世中心主義の裏返し。地獄や極楽といった「来世」という観念が科学的常識が行き渡るともに、一番受け入れやすいものだという
日本における現世中心主義の始まりは、江戸期の「<浮世>の人生観」で、長い期間を経て多くの人間の共感を得てきた
ちなみに、「人生は無意味」というニヒリズムは、近代国家が成立した以降の代物。村を越えた国家、政府、あるいは会社に振り回され、自己選択を迫られるからこそ、人生の意味を自分で探さなくてはならないために陥る悩みだという
ただ本来、「死後の世界」は生きている人間が死んだ人間を見て想像する世界に過ぎず、科学的証明など不可能。死んで見なければ分からないわけであり、科学的証明とは別次元の事柄なのだ
しかし現代人にとって「科学的」なのが大事で、逆に言うと「科学的」に装われたことなら荒唐無稽なことでも信じられてしまう
著者は明治の宗教哲学者・清沢満之を引いて、「科学」をもって「納得」できないことを無視する態度は、人間の精神を衰えさせると指摘する

ただし「科学」に押されて出てきた「死ねば無」という発想は、仏教の「無」「空」の概念から来ていて、実は日本文化に根づいたものでもある
多くの文化人がその“道”を通じて、「無」という真理への共感を表明していて、「死ねば無」とは永遠の世界に還っていくことを意味する
啓蒙家の福沢諭吉すら、世界観に関しては伝統的な「無常観」を持っていて、「人間は芥子粒」のような存在としていた
近代文学でも志賀直哉の『暗夜行路』などは、人間のはかなさを訴えていて、多くの不条理を自然との一体感によって「救済」される物語となっている
また風流の価値観も佐藤春夫を引いて、自己のはかなさを自然との一体感で乗り越えよう境涯とし、「もののあはれ」「無常感」とも呼んできたという
自然に対して意志的な態度を放棄して、溶け込んでしまう作法は欧米にはない発想なのだ

このように日本人の宗教観には、仏教の入り口が開いているにも関わらず認識されないのは、人間の問題は人間の理解できる範囲で解決するという「浮世」の考えと、職業的宗教家への不信
職業的宗教家、坊さんを恨んでしまうのは、聖人、「清僧」願望の裏返しで、日本人は「苦行」によって神秘的な力を持つ「清僧」を信じてきた
また、仏教側もブッダが「苦行」を否定してきたにも関わらず、民衆の期待にこたえて「清僧」幻想を作り上げた
そうした願望を否定したのが、浄土宗の法然であり、人間は皆自分では悟れぬ「凡夫」であるとして、聖職者による「教会」と「苦行」を否定し、信者と「道場」があるのみとした。厳しい戒律と「苦行」は、並の人間にはついていけず、庶民を救うものではない
ちなみに大阪は、浄土宗・浄土真宗が浸透した土地であり、漫才はアホ=凡夫であることを笑いあうものと著者は解釈している
と、著者は日本人に入りやすい宗教として、浄土教を紹介するが、望まれる宗教の条件としてはその人を精神をポジティヴに、明るくできればよしとする。それが社会と相容れるかは、宗教とは別次元の道徳の話になるのだ


関連記事 『日本人はなぜ無宗教なのか』

暗夜行路〈前篇〉 (岩波文庫)暗夜行路〈前篇〉 (岩波文庫)
(2004/05/18)
志賀 直哉

商品詳細を見る
(この一行は、各記事の最後に固定表示するサンプルです。テンプレートを編集して削除もしくは非表示にしてください。)
(この一行は、各ページ下部に固定表示するサンプルです。テンプレートを編集して削除もしくは非表示にしてください。)
カレンダー
01 | 2020/02 | 03
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
カテゴリ
SF (26)
RSSリンクの表示
リンク
FC2 Blog Ranking
ランキング
アクセスアップ!?
検索フォーム
はてな
この日記のはてなブックマーク数
タグランキング

サイドバー背後固定表示サンプル

サイドバーの背後(下部)に固定表示して、スペースを有効活用できます。(ie6は非対応で固定されません。)

広告を固定表示させる場合、それぞれの規約に抵触しないようご注意ください。

テンプレートを編集すれば、この文章を消去できます。