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『新宗教の風土』 小沢浩

オウムはでてきません



新興宗教にはどういう魅力があるのか? 浄土真宗の強い富山県で、伝統的な信仰と新宗教の受容の関係を探る

親戚に新興宗教の信徒が多いせいか、亡父が実家の本棚に置いていた
初出が1997年オウムサリン事件の後だが、元になったフィールドワークが1993年に『富山県大百科事典』のための取材となっており、オウムについては一切触れていない
著者は宗教社会学の立場から、宗教団体とその信者を取材しつつも、合理主義の立場から非合理を斬るのではなく、信じる者の立場からなぜ信仰を必要とされるのかを追いかけている
学問上で幕末以降にできた宗教を「新宗教」戦後に生まれた新興宗教「新・新宗教」と分けられるが、本書は地方の伝統的な宗教に加え、新興宗教の流入した時期や役割も違うので、そうした分類に囚われない
学者として各宗教とは距離を置くものの、新興宗教がどういう役割を果たしているのか、その地域の歴史・伝統との関わりからもアプローチしている


1.人間性を高める救い

新宗教に入る1つのケースとして、まずA宗の富山支部長が紹介されている(原文は実名)
東京へ画家になるために出るが、画壇の現実に幻滅して夢破れ、最初の旦那と結婚し広島へ。荒れた家庭で生まれた子供も障害者と、精神的に疲れた彼女は新興宗教を転々とするが、さらに水商売に第二の結婚と離婚を経験することに
それでも、彼女が違う宗教へ移っていけたのは、救いというものは、常に人間性の高まりをともなうものだ」という宗教観があったからだ
最後に出会ったのがA宗で、家族に伴う苦難を「霊障」「色情の因縁」という視点から整理でき、立ち直れたという。著者はA宗の「霊障」うんぬんには同調しないものの、支部長にもたらされた救いに宗教の役割を感じる


2.利他行為を生む「あなんたん」

2つ目に取り上げられるのは、北アルプス剱岳の麓にある「あなんたん(穴の谷)。そこには万病に効くという霊水が伝えられている
いちおう、ゲルマニウムを多く含むとして健康のために持ち帰る人が多く、管理組合では有料のポリタンクを売るだけで、無料で並んで持ち帰れる
弘法大師からの仏縁とされるが、穴の谷の霊水が有名になったのは、実は戦後
岡本弘真尼という行者が穴の谷に6年間籠もり、1962年に亡くなったのだが、親交のあった売薬業者(富山の薬売り!)の塩原氏に、「洞窟の水は万病に効く徳水だから、多くの人に広めてほしい」と言い残した
塩原氏は弘真尼の遺言を忠実に守り、霊水の効果を説いて回った。そのうち、実際に医者がさじを投げた患者が治る事例があり、全国に広まったという
著者はこうした“奇跡“に対して距離を置くが、弘真尼や塩原氏の困った人を放っておけない性科学が見放した人への“癒やし”にこそ、惹きつける理由があり、肉親の健康を思って水を運ぶ人々の姿に「現代のオアシスを見る


3.真宗の異端事件「頓成の異安心」

真宗王国とも言われる富山の宗教事情として、江戸時代天保年間に始まる異端事件「頓成(とんじょう)の“異安心(異端)”を取り上げる
浄土真宗には、二種深信」という教えがあり、自らの罪業が深く決して救われることがないと信じる「機の深信と、そうしたときに初めて阿弥陀様が必ず救って下さると信じる「法の深信があり、分かち難いものとして機法一如と言う
頓成能登(現・石川県)の長光寺の次男として生まれ、北陸の門徒の支持を受けていたが、時代を減るごとに教えが曖昧になっていた本山と対立して失脚する
江戸時代の詮議ではどこが悪いか不明なようだが、明治になってからの頓成の法話によると、死んだ後の救いのこだわる本山に対して、現世で苦しむ門徒へ救いのメッセージを送っていることが強調されている
著者はそこに伝統的な仏教が「あの世専門」になっていて、現世の問題を軽視していることを、その現世の問題に新興宗教が救いをもたらしていることを見る
逆に新興宗教の側は、葬式などの「あの世」の問題には深掘りしないところが多く、式は既存の仏教に任せるところが多い


4.頓成以降の2つの流れ

そうした頓成の問題意識は富山に生まれた新興宗教「浄土真宗親鸞会」「御手南会に引き継がれている。「親鸞会」はラディカルな原理主義を掲げつつ、現世での功徳と来世への救いをつなげる
「御手南会」は教祖を弥勒菩薩の生まれ変わりとしつつも、真宗王国の裏で引き継がれてきた「秘事法門」と呼ばれる民間信仰を包括して引き受けていく
多くの新興宗教そのルーツを「欧米から入った雑多な思想」を取り入れたものに過ぎないとしながら、この2つの団体は、江戸時代からの民衆の願いを背負っているとする


本書は死に瀕した人が「阿彌陀仏」を見たと感動しながら事切れるなど、なかなかハードな場面も取り上げられていて、短くまとめられた新書なのに重かった
「生きてて感じる空虚さ」「誰もがいつかは直面する死」の問題は現代人にとっても避けられず、宗教の果たすべき役割は厳然としてある
そして、そうした隙を突いてカルト宗教が忍び寄るケースもあり、それが健全か否かは追い込められた当事者に判別できるものではなく、A宗の富山支部長のように上手く行き着ける人ばかりではない
人間、いつ危機に直面するか分からないものだし、心の備えはしておきたいものであります




『日本ノンフィクション史』 武田徹

やはりあの人たちがエポック



日本のノンフィクションはいかに始まって確立され、変化していったのか。その歴史を展望しながら問題点と突破口を模索する

冒頭に2012年の講談社ノンフィクション賞を巡り起こった石井光太論争に焦点をあてる
そこで問われたのは、作品の本文と取材者や関係者の語学力の矛盾があったことから、本当に作者はその場で立ち会ったのか、事実なのかという信憑性の問題に発展した
ノンフィクションというジャンルは事実に即して書かれなければならないが、読者の気を惹くための省略、演出はどこまで認められるのか。ジャーナリズムと文学性は同居できるのか
それを整理せずに拡張していくと、上述のようにノンフィクションというジャンルそのものの信用にも関わってくる
かといって、無味乾燥な記録にとどまってしまうと、誰にも読まれず社会に影響を及ぼせない
その一線がどこなのか、どこで客観性が担保されるのかを短い歴史のなかで探るのが、本書のテーマである

著者はノンフィクション」という言葉そのものにこだわる。この言葉が定着した経緯にジャンルの本質が隠されているからだ
戦前では「ノン・フィクション」と「・」(中点)が入っており、イギリスで始まった、小説などのフィクションと区別して「非フィクション」を意味していた。そのために、エッセイ、紀行文、学術論文もろもろを幅広く含むこととなった
今、ノンフィクションとしてイメージされる取材から起こした記事は、フランス語の「ルポルタージュ」と言われた。しかし、このルポルタージュも取材者に文学者が入ったことから、"記録文学”など「文学」の呼称を含むようになり、資料性において問題視されるようになる
戦後において、戦中の体制翼賛への反省から、週刊誌やテレビ放送などにおいて、事実に基づく公正中立な報道が求められ、優れたドキュンタリーが出現するようになる
その中では取材者の匿名性が問題になったが、それは集団で方向性を決め制作していく現場の実情に沿ったものでもあり、最終的な責任は組織が負うという考え方と、取材者をはっきりさせて信憑性を高めるという2つの考え方が併存した

この「ノンフィクション」の言葉の定着において、「ノンフィクションクラブ」を結成した大宅壮一の役割は大きかった
しかし1970年に創設された大宅壮一ノンフィクション賞には、第2回にイザヤ・ベンダサン『日本人とユダヤ人』、第4回に鈴木明『“南京大虐殺”のまぼろし』が受賞するなど、同賞は従来の「ノン・フィクション」のような、フィクションでなければなんでもあり、という雑多なジャンルになってしまった
その流れを変えたのが、第10回の沢木耕太郎『テロルの決算』。浅沼稲次郎を刺殺した17歳の少年の心境を、まるで供述調書を見たかのように描いたのは、ノンフィクションというジャンルを確立した金字塔だった(その描写は後に産経新聞に載った調書と酷似しており、創作ではない)
ときに取材者が一人称で登場して証言を聞き、ときに三人称で「神の視点」で事件の動きを追い、犯行の瞬間を犯人の視点で捉える。膨大な取材と読者に訴える文章力・文学性を両立させた傑作となった
しかし三人称での描写は、取材源の秘匿というジャーナリストの鉄則を守れる一方で、外部からはどこから取材したのか判別できない問題がある
沢木耕太郎自身も、これ以後は三人称の文章を控え、スポーツや紀行文など自分を視点とする私小説ならぬ「私ノンフィクション」へと舵を切った。いわく、ノンフィクションとは事実そのものではなく、事実に基づく仮説に過ぎないのだから、読者もそう読んで欲しいとか
『テロルの決算』で完成したノンフィクションのスタイルは、本当にどういう取材や証言がとれたのか、信憑性を揺るがす可能性をも生んだのだ

それに対する処方箋として紹介されているのが、怪しい三人称ノンフィクションか、空間の限られる私ノンフィクションかという、硬直したジャンルを埋めるように生まれた田中康夫『なんとなく、クリスタル』、から現代のケータイ小説という文学のあり方。とくに『なんとなく、クリスタル』は、80年代の記号化していく都会を無視した文学者やジャーナリストが黙殺したものを活写したと著者は高く評価している
そして、宮台真司『制服少女たちの選択』などに始まる、アカデミック・ジャーナリズムの流れ。大衆への受けありきのジャーナリズムと、大衆に背を向けがちなアカデミズムがつながることで、客観性が担保されることに期待している
著者は科学史家カール・ポパーの科学に対する姿勢、反証可能性かどうかを重視していて、それは沢木耕太郎の言葉にも通じる
本書は戦前の「ノン・フィクション」時代から、「ノンフィクション」の興隆と問題を辿る力作。あえていうと最終章において、ノンフィクションの役割を果たした文学、アカデミズム・ノンフィクションに対して完全な礼賛となっていて、それまでの批評的な態度との落差がらしくなかったか
それでも、30万冊を越える大宅文庫から、フィクションもいつかは歴史の資料、ノンフィクションの列に加わるという視点など、目から鱗の通史だった


関連記事 『日本人とユダヤ人』



『革新幻想の戦後史』 下巻 竹内洋

プロ市民の誕生秘話



どうして戦後社会で左翼思想が流行したのか? 下巻は共産党が退潮して以降に、なお知的権威として定着した理由を探る

下巻は60年以後の福田恆存と清水幾太郎の論争、べ平連から全共闘の動き、作家・石坂洋二郎と戦後社会の変遷、そして現代への展望をみる
朝鮮戦争の前後に日本共産党は武力闘争路線を巡って分裂し、平和を願った庶民の支持をなくし、革命を期待したものはより過激なセクトへ流れた
そんな左翼思想のピンチを救ったのは丸山眞男をはじめとする進歩派知識人(岩波知識人)。丸山は共産党という中核がなくても、一般の‟市民”が活動して社会主義の社会はできるとし、60年安保闘争を特定の組織によらない草の根の活動として支持した
戦後の岩波書店は共産党の影響が強く、進歩派知識人はその同伴者であったが、党の衰退から主役として躍り出た。今、政治運動の組織が「市民団体」と呼ばれるのは、実際の中身はともかくも共産主義からの脱色をはかった結果なのだ
本書における革新思想とは、どのようなルートはともかく、未来は最終的に「社会主義」へ向かっていくというのが定義であり、保守派の論客・福田恆存によればたとえ意図的でなかったとしても、それに貢献するものはその範疇に入れるそうだ


1.小田実のベ平連と岩波知識人の失墜

60年安保闘争の成功体験(?)は、「革新思想」の大衆化したものと見なされた。そのオピニオンリーダーとなった進歩派知識人は、岩波書店、朝日新聞と深く関わり、お互いの権威を高める鉄のトライアングルを形成した
しかし、その牙城が崩れたのは、皮肉にも思想が大衆へ浸透したゆえだった
著者が着目するのは、「べ平連」の小田実である。今の人間からは左派に属すると思われる小田だが、貧乏世界旅行を記した『なんでも見てやろう』で登場した際には、既存の秩序を揺るがす存在だったのだ
そんな新進作家の小田が自由参加が原則の「べ平連に担がれたのは、左右に偏らないと見られたゆえであり、もうひとりの候補が実は石原慎太郎だったというから驚きだ

そして、既存の組織と一線を画す「べ平連」の流れは、60年代末の「全共闘」へ受け継がれていき、東大紛争の際には丸山眞男の研究室が荒らされることとなる
「全共闘」が日大から始まったのは、私立大学が利潤を追い求めて学生数を増やし、高額の授業料を学生とその家族に求めたから。大学生=知的イコールのイメージが残っていた時代に、ろくに施設を整えずに生徒を詰め込む扱いは、自分の研究を第一とする教授たちへ怒りをぶつけざる得なかった
自民党政権下で高度成長が実現し、教育水準があがったために大学の権威は相対的に下がることとなり、戦後の革新が夢見た豊かな社会ができつつあったゆえの出来事だった


2.石坂洋次郎の時代と革新幻想

本書では知識人の動向ばかりでなく、大衆作家・石坂洋次郎を「革新幻想」のイデオローグとして着目する
石坂洋次郎自体は、戦前に共産主義者の活動を批判的に描くなど主義者ではないのだが、戦後には『青い山脈』など大衆文学を朝日新聞に連載している
著者は『青い山脈』から、主人公のいる高等学校が戦後教育の理想像ともいえる男女共学で、民主主義の自由を高らかに歌い上げていた。作中で、女先生が戦前の社会を「国や組織のために個人が鋳型にはめこまれ、犠牲になっていた」とし、「結局それは一部の人々の利益のためだった」と指摘していて、個人の主体性を大事にすることを訴えっていた

石坂の小説がベストセラーとなったのは、大衆の間に古い因習から解放されたい願望があり、アメリカの自由主義と共産主義がないまぜになった「大衆モダニズムがあったからであり、それが進歩派知識人のもたらす「革新幻想」の受け皿になっていたとする
しかし、石坂の時代も70年代に入ると終焉する。高度成長から高度消費社会の入り口へと差し掛かり、小説のなかの出来事が現実化してしまったからだった
「大衆モダニズム」の実現とともに、社会主義の夢も不要となったのだ(最近は格差問題で蘇ってきた!?)


3.政治運動は下剋上の歴史

最後まで読んで見えてくるのは、政治運動の歴史はその主体が、じょじょにインテリ(そもそも「インテリ」という言葉自体が、昭和にできた揶揄した言い方)から庶民に近い「ふつうの知識人」に降りて行って、現代ではタレントがテレビで政治を語り誰でも言論参加できるネット社会という下克上の過程」を辿っていることだ
戦前の共産主義は、既存の教養人を陳腐化する道具となり、「末は博士か、大臣か」という幻想を穴埋めし、戦後の大学でも学生の数が増えすぎて「結局、末はサラリーマン」という鬱屈を晴らす、対抗文化として使われた
管理人には今のネット上での言論も、その流儀は全共闘に端を発するようにも思える

著者が指摘するのは、「革新幻想」が「封建遺制」ともいわれた日本の特殊性を追放しきったことでカウンターとしての役割を失い、クレイマーに代表される自由と権利をはき違えた個人主義が跋扈している点だ
本当に「封建遺制」が追放されたかは良くも悪くも微妙なところだが、ひとつの思想が敵を追放した途端に、牢固な体制となり告発される側に回るというのは、歴史の教訓ともいえ、相対するものの価値を認めて全力で潰さないという知恵が求められそうだ


*23’6/17 加筆修正

前巻 『革新幻想の戦後史』 上巻

『革新幻想の戦後史』 上巻 竹内洋

日本の左翼の源流



なぜ、戦後社会で左翼思想が流行したのか? 自身の体験と綿密な取材、調査により、共産党、大学、知識人の役割を明らかにする

ソ連が崩壊して30年。今となってはなぜあれほど社会主義が席捲し、日本でも政治勢力を誇っていたか分からない
本書はそれを戦中生まれの著者の体験や周辺の出来事を、関係者への取材と統計によって掘り下げて、その時代の空気、深層へ迫っていく
上巻では三島由紀夫の小説『宴のあと』のモデルとなった有田八郎思想家・北一輝の弟・北昤吉の選挙戦、雑誌『世界』の興隆と岩波知識人、大学の教育学部から広まる左翼支配、教育委員会と日教組が対立した京都市立旭ヶ丘中学校事件まで、1950年代を取り上げていく
戦後の日本共産党中心だった左翼運動が、朝鮮戦争前後の武力闘争路線、スターリン批判を巡って共産党が退潮し、教育界への浸透を図っていく様子がよく分かる


共産主義の素地は戦前から

戦後に共産主義が流行したのは、実のところ戦前に流行した時期があったからである(苦笑)
大正末期から昭和10年代まで、大学を中心にマルクス主義が流入。学界でのドイツの評価が高かったことから、マルキシズムは最新の社会科学として受け入れられた
同時にインテリゲンチャ(=知識階級)」という言葉も普及し、学があるにも関わらず不公正な社会のせいで居場所がなく、現体制に不平不満を持つ知識人が革命の担い手として脚光を浴びる。ロシア革命とソ連邦の成立は、日本の学生にも反体制運動の中で主役となるイメージが広がったのだ
すでに欧米の教養を磨いた先行世代に対して、当時最新の社会思想である共産主義や無政府主義を手に出すことで追い抜くチャンスとなるのが学生たちに魅力だった

その広がりを脅威と見た日本政府は、学界の研究会を早くから取り締まり、日本共産党は治安維持法による弾圧と内紛から、1930年代には壊滅した
こうした共産主義運動の退潮と軍国主義の台頭が軌を一にしたことから、運動の衰退が日本の敗戦を招いたとする教訓(?)が生まれ、活動家たちが獄中から解放されたで、共産主義の復活がもたらされたのだ
こうした具体的な実証というより、支持者のムード・感情との合致から生まれる発想を「背後仮説と呼ぶ。これが左翼=平和主義というイメージが広まる源となった


旭ヶ丘中学校事件と革新の敎育界支配


京都生まれ、京都育ちの管理人からすると、京都市北区の旭ヶ丘中学校事件が興味深い
旭ヶ丘中学校事件とは教育方針を巡り、校長と教職員が対立し、1953年4月から1954年6月まで行われた紛争だ
同校では日教組の組織率が高く、革新側の影響を受けた‟平和教育”がなされていた。革命歌や赤旗を強要し左翼のイベントにも生徒を参加させていたことから、保護者団体や保守派から‟偏向教育”という指摘があり、京都市教育委員会はそうした活動の中心人物だった教員を転任させようとする
それに対して、京都教職員組合(京教組)に属する教員たちは転任を拒否し、お互いが対抗措置を取り合う騒動へ発展。校長の休校命令に対して、教職員たちが自主教育を強行し、校舎には関係団体の赤旗が乱立。校長による学校外の補修授業に対しては、バス乗り場に関係者が乗り込んでバス乗り場で、生徒を奪い合う事態となる

最終的に国会でも問題視され、共産党をライバル視していた社会党左派が距離を置いたことから、多くの教職員が人事異動し、新校長による再スタートが切られた
と事件に終止符が打たれたように思えるが、管理人の実体験からするとそうでもない。管理人の通った市立小学校では、京教組の影響力が強くて、赤旗丸出しではないもの、入念な反戦教育がなされていた
80年代までの教育界は、元は共産党によって組織され、東大、京大の教育学部を頂点にする革新陣営の牙城だったのである


*23’6/17 加筆修正

次巻 『革新幻想の戦後史』 下巻

関連記事 『宴のあと』

『法然入門』 阿満利麿

中世の宗教革命



浄土宗を開いた法然は、何のために念仏を説いたのか。誤解されやすい開祖の真意を探る

法然上人というと、ラディカルな親鸞上人に対比されて、世間と妥協してなお捕られたイメージが強い
本書によれば、それは大きな誤解。思想的には法然がラディカルであり、親鸞がそれをしっかり引き継いでいる。宗派が分かれてしまったがゆえに、両派の書いた伝記に差別化を図る逸話が記され、連続性が曖昧になったらしい。実際、『歎異抄』こそ、法然入門ではないかというほどなのだ
法然は「出家と世俗の別など意味がない」としつつ、本人が出家の地位を居続けたのは、世間の「聖(ひじり)」としての期待に応えるためで、こうした鷹揚な姿勢が保守性を引きずっているような印象がもたれたようだ
著者はこの鷹揚さこそ、仏教者らしいとする。念仏だけが浄土での救済につながるとしつつ、それはあくまで法然自身の信念に過ぎず、他宗派の手法を否定しているわけではない


1.末法の世と阿弥陀仏

そもそも阿弥陀仏とは、法蔵という名の国王であった。仏陀にあって出家し、「一切の生きとし生けるものを仏にしたい」と願い、そのための48の願いを神話的年月と苦行の実践によって阿弥陀仏という仏になったといわれる
歴史的にはインド大陸にバクトリアが侵入し、クシャーナ朝を築くまでの300年間の暗黒時代を反映して、生み出された仏なのだ
法然が念仏を説いた当時も、仏教が信じられなくなり、道徳が退廃した「末法の世。著者は「末法」の意味を、仏教が大陸から一通り伝えられたのに、人々が仏に近づかず世の中が良くならない現実を示したものだという


2.大衆のための念仏


このような世の中で仏を目指すのに、一部の高僧でなければ果たせない勉学や修行による「聖道」では、字も読めない一般庶民に遠すぎる。そのまま諦めてしまうから「末法の世」になってしまうので、どんな悪人でも阿弥陀仏の名を唱えれば救われるとハードルを下げてみせたのだ
そして、法然はこの念仏を一心に唱えて本願を祈ることを、「聖道」に勝るとした
もっとも、念仏を‟呪文”として唱えれば救われる、罪が帳消しになるということではない。本当に仏へ近づきたいという信心がなければならない


3.凡夫と社会活動の実践

仏に近づきたいという信心の前提として、自らが救いがたい「凡夫」であるという自覚が必要となる
「悪人こそ、阿弥陀仏が救う」の「悪人」とは、仏から遠い場所にいると自分で分かっている人間のことで、単に世間的な罪人というわけではない。法然に帰依する人には、殺生沙汰に関わる武士階級が多かった
この世で自分が‟善人”と思う人は、「悪人」「凡夫」の自覚が薄い人でかえって救いには遠くなるということなのである
もっともこうした法然の考えは誤解されやすく、同時代に天台宗の叡山、奈良の興福寺といった既成の仏教勢力の大きな反発を招いた。勉学や修行の「聖道」を軽視し、出家と世俗の差を無くして宗教人の地位を脅かすからだ
念仏はただ自らを救うだけではない。阿弥陀仏の願いには、世の中の「貧窮」を解決することも含んでおり、念仏を始めた凡夫はこのための社会的活動を意識する必要がある
。実現が難しい目標であるが、活動の実践そのものが生き甲斐ともなる
こうした思想は一向宗が一大勢力を作るに至る源泉にもなったろうし、いつの時代の宗教にも課せられた社会的使命といえるのだろう
本書は今の世の中で、仏教から何を学べるかまで含んだ優れた入門書である

『平和主義とは何か』 松元雅和

護憲派、というわけでもない


平和主義とは何か - 政治哲学で考える戦争と平和 (中公新書)
松元 雅和
中央公論新社
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平和主義は理想論に過ぎないのか? 政治哲学で考える非平和主義との論争と現実での実践


平和主義とは、「暴力を使わず非暴力で問題解決をはかる姿勢」である
平和主義には二つの種類があって、国内外問わずあるゆる暴力の使用を拒否する「絶対平和主義」と、例外を認める「平和優先主義(条件付き平和主義)」がある。著者は後者の立場であり、日本では両者が混同された形で扱われているのを整理しようというのが、本書の目的のひとつでもある
非暴力への「愛する人が襲われたら」という批判に対して、「平和優先主義」は国内と国外は別という立場で迎え撃つ。国内の暴力行為には、当事者より上位の公権力と司法による判断がなされるのに対して、国外の軍事行動は国家より上位の権威が存在しないので、「正統性」が担保されない
とはいえ、「平和優先主義」は原理主義ではない。その代表格のバートランド・ラッセルからして、第一次大戦で反戦の立場をとりつつ、第二次大戦ではナチスとの戦争を肯定した
いくら非暴力といっても、公私ともに自然権に基づく自衛権は放棄できない。自らや隣人の生命を軽視することは、人命を軽視することだからだ
「平和優先主義」は、正戦論や絶対平和主義から日和っているように見られる灰色の道なのである

平和主義の対極に位置するものに、正戦論がある。戦争には「正しい戦争」と「そうでない戦争」があるという考え方だ
「正戦論」は、何が正しいかを誰が判断するかという問題がある。戦争では当事国がともに正義を主張するのが通例だからだ
湾岸戦争では安保理での態度が一致したが、アフガン戦争ではアメリカの自衛権で行われ、イラク戦争では有志連合で攻撃が始まった。そして、アフガンでは多くの民間人が巻き添えでなくなり、イラク戦争は今では戦争目的の正当性が疑われている
しかし、国連という組織そのものは、侵略戦争を違法化しながら、それを止めるための個別自衛権や集団安全保障を認めており、実は「正戦論」にのっとっている
実は日本国憲法の「平和主義」と「国連中心主義」には、緊張関係にあるのだ

もうひとつの対極が国際政治学の主流である「現実主義マキャベリに始まる近代現実主義は、世界を無政府状態として国家のみをプレイヤーとし、その安全保障が最優先課題となる
「古典的現実主義」(冷戦時代のモーゲンソーまで)の問題は、国家の生存欲求が自然であるとしながら、自国の生存を最優先しろと勧めるところ。生存欲求が自然ならば、あえて勧める必要があるのか。過去の事実とあるべき姿が判然としない
もっと直接的な問題は、勢力均衡を目指した軍事力の増強がお互いの軍拡を招く「安全保障のジレンマ。防衛用のパワーと攻撃用のパワーは、他国からは区別しがたいから、生じる悲劇だ
とはいえ、「現実主義」が「平和主義」と相いれないわけでもない。イラク戦争の際にはアメリカの国家安全保障にそぐわないという立場から批判がなされた

著者がもっとも難敵とするのが、人道介入主義である
冷戦崩壊後の民族紛争、ボスニアヘルツェゴビナやルワンダの悲劇は、国連に平和維持活動の見直しを迫られた。第二次国連ソマリア活動(1993年~)など、当事国の反対を押し切って、“平和強制”に踏み込むようになった
「人道介入主義」は他国で起きている人権侵害を阻止するために、ときに武力も辞さない姿勢が必要とする
「人道介入主義」の問題は、無辜の人民を助けようとして軍事行動の結果、犠牲が出てしまうことだ。介入しなかったことで起きる犠牲とどちらが重いかを、誰が判断できるというのか
当事国の同意を押し切る軍事介入は国際法の精神と相いれないし、暴力による制圧はそれに対抗する暴力を誘発する(暴力の再生産)。軍事介入が必要な事態は救済ではなく、悲劇なのだ
ことが他国(他人)だからこそ、行動しないという「平和主義」の選択は風当りは良くない。「平和主義」側は非暴力の姿勢を保ちながら、何ができるかを追求しなければならない

「平和優先主義」の立場は「絶対平和主義」ではないので、「正戦論」「現実主義」と交わるところがある
著者自身、日本国憲法とその前文の精神を尊重しつつも、教条的に護憲にこだわって国民的議論を凍結することには反対する
フランス革命がナポレオンの帝国を生んだように、民主主義が必ずしも平和を呼ぶわけではない。著者は「平和優先主義」が正義で万能とは考えておらず、違った立場と対話していくことが、変わっていく国際社会を乗り切っていける知恵を導き出せると考えている
ネットでも紙面でも、憲法が絡むと不毛な論争に陥りがちだが、ひとつの基盤となってくれそうな一書である

『帝国の残影 兵士・小津安二郎の昭和史』 與那覇潤

これが受けなかったから、次の本でああなったのか


帝国の残影 ―兵士・小津安二郎の昭和史
與那覇 潤
エヌティティ出版
売り上げランキング: 155,799


『中国化する日本』の著者が書いた、小津安二郎の人生と映画を通してみる昭和史
小津安二郎は内外から日本を代表する映画監督とされ、特に日本的家族」を題材としたことで知られる。本書はその小津に課せられた仮面を剥がし、ホームドラマの枠組みに押し込められざる得なかった過程を明らかにするものだ
小津は監督としてのキャリアを積んでいる時期、1937年に34歳で召集を受け中国内陸へ渡り、1年10ケ月の間、前線での戦闘をも含む戦争体験を積んでしまった
中国での体験は、「帝国」であった日本を眺める旅でもあり、その背伸びぶり、歪みが小津の不評とされた作品のなかに込められている。それに光を当てることが、日本近代の正体を照らし出すこととなるというわけだ
作品への精緻な分析がありながら、難は何が著者の文章が分からなくなるほどの膨大な引用と、著者オリジナルの概念「中国化」が邪魔になっているところだろうか

小津の作品で描かれる「家族」は、夫と妻が波乱はあれど基本は元の鞘に戻り、子供も結果的には親を立てる選択をする。実は例外がけっこうあるのだが、そういう作品は不評に終わり、小津のイメージは固まっていった
そうした家族像は実は日本の伝統的な家族ではなく、小津の生まれた大正時代以降に急速に広まったものだった。都市圏において専業主婦が増え、単身の母子家庭の自殺率が急上昇した
経済成長にともなったこの変化は国家の政策に誘導されており、著者は高圧的に近代化を推進した国家の「暴力」を見出し、小津が家族の秩序を取り戻すために主人公たちが行う“殴打”を重ね合わせる
いわば、人間の自然な感情を近代の社会に落とし込むための「暴力」であり、小津の暴力描写にはどこか「家族」が作為的なものであることを示す、切なさがある
もちろん、村落共同体が健在だった時代にも違う形の「暴力」はあったろうし、いつの時代の「家族」も生き延びていくための“作為”というか人為的なもの=知恵には違いないのだが、国家が個人の生活にまで介入する時代の歪みともいえるだろう

小津の映画史と並行して書かれる昭和史には、引用元からしてやや偏向が見られる。「従軍慰安婦」という単語が普通に使われているし、日中戦争の中国国民党を少し買いかぶっている
国民党が最初から殲滅戦に対する消耗戦を企図していたのは後付けで、どちらといえばドイツ仕込みの近代軍に自信をもったからこそ、日本の挑戦に受けて立ったところがある
八路軍のゲリラ戦術に悩まされたが、共産党の人民解放軍が充実するのは日本敗戦時に満州にソ連軍が入ってからである
日本が敗れたのは、本書にも指摘されているように道義戦=政治宣伝においてだろう
昭和史における「中国化」も、中国“化”というほど強いものではなく、いわば間欠泉的なお祭りであり、「純粋動機主義」の狂騒はむしろアニミズムへの先祖返りではなかろうか
ただ、中国での“敗戦”を素直に認めていたならば、太平洋戦争はせずに済んだわけだし、小津ですらその語らぬ本音とは裏腹に、戦争映画の企画に巻き込まれていったことへ思いをはせるべきかもしれない


関連記事 『中国化する日本』

知性は死なない 平成の鬱をこえて
與那覇 潤
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『中国化する日本』からしばらく後、鬱になって大学を辞められてたようで……

『日本人は思想したか』 吉本隆明 梅原猛 中沢新一

ひとつのタイトルに収まらない鼎談


日本人は思想したか
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新潮社
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日本人の根底にある思想とはなんなのか。三人の知識人が突き詰めた古代から現代にまで至る鼎談
『共同幻想論』の吉本隆明『神々の流竄』の梅原猛に、当時気鋭の宗教学者だった中沢新一がホスト役を務めた鼎談で、初出は文芸誌「新潮」の平成六年(1994年)。ちょうど、阪神淡路大震災とオウム事件の直前であり、中沢新一は麻原彰晃が著書を座右の銘としていたこと、過去にオウム擁護の言論を繰り返していたことから、強い批判にさらされるのだ
良くも悪くも、そうした波風が立つ前に収録されたので、純粋に日本の精神史が主題となっている
日本の古代に関しては梅原猛の独壇場であり、吉本隆明も仮説を披露しながらも大人しく聞き役に回っている。そこを中沢新一が整理するという流れで、日本に欧米のようにかっちりした近代思想はないものの、茶道や短歌など芸能からにじみ出るものとして紹介していく
文字の記録以前の、古代の精神を遡るには、わずかな物証から想像を広げるしかない。メンバーでお察しのとおり、一般の研究から逸脱する部分も多く、自由奔放に展開される

語られる事柄は多岐に渡るが、管理人が興味を引いたのは、東北、北陸で「あの世」の思想が根強いというところ
東北は坂上田村麻呂の遠征まで中央政権の支配を全くうけなかった土地であり、北陸も辺境であり流刑地にもなっていた。親鸞が越後(新潟県)に配流されたとはいえ、戦国時代に加賀で一向一揆の国ができたのは、死者が「あの世」から往還してくるシャーマニズムと浄土思想に親和性があったと考えられる
北陸の門徒の仏壇には、中央に阿弥陀如来、脇になぜか聖徳太子がある。そこには親鸞が聖徳太子の生まれ変わりである宗教観があるのだ
仏教的に生まれ変わりはありえないのだが、いわば日本に来て変質した部分にこそ、日本人の思想があるわけで、この鼎談ではそうした雑多な部分がむしろ評価されている。これが中沢新一の仏教観なのだろう
また、多神教→一神教に宗教は進化する通説は、戦前の宗教学者W・シュミットを引いて否定されていて、部族社会の素朴な信仰にも一人の神がすべて作ったという一神教は存在していて、多神教は社会が複雑化して一神教が弱体化して生まれたものとしている。が、多神教にも神々の父など、より大きな神の意志が織り込まれていたりして、一神教と多神教は対立概念でもないそうだ

鼎談の最終章では、悪名高い「近代の超克」が冷静に評価されている
近代の超克」とは、太平洋戦争中の昭和17年に文芸誌「文学界」において開かれた座談会であり、日本がその軍事力を根拠に欧米の影響をアジアから排除した(とされた)状況下だった。欧米化=近代化だったものが、日本が近代化できたことで「近代」や「東洋」の定義が問われた
吉本隆明西田幾太郎らの京都学派の系譜に自らを位置しているとして、「現代の超克」(!)をやっているという。戦前の軍事力ではなく、経済力を根拠に世界史に何の役割を担っていくのかを問いたいのだ
デフレに苦しむその後の日本経済を省みると肩透かしかもしれないが、そこを中国に置き換えると現代的な課題となるだろう
「原子力の問題も科学の力で解決する」など今となっては科学信仰が見えるものの、科学技術の発達なくして放射能のカスも処理できないし、地球上の人口を養え切れないのもまたしかり。より「現代」を進むことと、「近代」の弊害を逆方向に抜け出す二正面作戦が吉本の「現代の超克」のようだ
それに対して、京都学派の直系にいる梅原猛「近代の超克」は近代の国家を全肯定しながら、それを超克しようとするのが矛盾だと指摘。近代の発想の原点はシュメール文明の自然破壊に端を発していて(!)、東洋のコメ文化や狩猟採集時代の思想(アボリジニー、アイヌ、ネイティブ・アメリカン)にまで遡ることが未来のヒントになるとしている
梅原猛の短歌や物語の持論、吉本隆明の近代文学論と、ひとつの記事に書ききれない様々な話題が取り上げられ、二十数年経っても色あせない議論だった

『誤解された仏教』 秋月龍珉

用語辞典片手に読む必要があるかも



仏教に霊魂はなく、あの世もなく、輪廻転生もなければ、「三世の因果」もない! 現代の仏教イメージを洗い流す説法

気さくな語り口ながら、専門用語もいろいろ飛び出してくるから、なかなか難解だった。仏教系の高校を出ているのに、記事にできるほど理解しているか怪しい(汗)
本書は現代に流布する葬式仏教のイメージ、あるいは霊感商法に利用されるような霊魂や霊界、輪廻といった概念が、まったく本来の仏教とは関係ない誤解の産物であり、本来の仏教の在り方を現代に問い直すものである
著者は最初、プロテスタントの牧師の伝道を受けながら、禅への道を進んで鈴木大拙西田幾太郎の影響を受け引き継いでいる人物。禅者でありながら浄土系の教えにも理解しめしていて、原理原則に厳しい一方で、相手を全否定せず仏教の枠組みの中でとらえ直す柔らかさが、いかにも仏教らしい


釈尊は霊魂も死者の世界も輪廻も否定

なぜ釈尊が語っていないことが、仏教に入り込んでしまったかというと、古代インドから中国を経て日本へ伝わるまでの間、また日本全国へ浸透するまでの間に、各地の土着の宗教と習合して伝播していったからだ。日本でいえば、古来の神様が仏陀の弟子となる神仏習合がまさにその典型
そのため、「死者をホトケ」と呼んだり、「神も仏もあるものか」という言い回しがあったり、あの世や霊魂の存在が語られたりする

釈尊は小乗の『阿含経』と呼ばれる初期の経典において、「後有を受けず」と言い切っており、死後の世界や霊魂の存在を明確に否定している。輪廻に関しては、バラモン教の世の中に生まれたゆえ当初はそれを信じていたものの、悟りを開いて以後は「無我」説を説明するために「縁起」を持ち出しただけで(「因果の道理」)で、輪廻はおろか「三世の因果」も否定している

現在の仏教において、「天」「人間」「修羅」「餓鬼」「畜生」「地獄」の六道輪廻は、一人の人間の精神状態あるいは人生の在り様として解釈できるという
著者は日蓮を評価しつつも、日蓮宗の「折伏」については修羅道に通じると否定的。「法」のために他を折伏するのは‟降魔の剣”であって、正義の戦いなど仏教にはないのだ


梵我一如は仏教でないが、空海はセーフ

著者は誤った仏教理解を、ビッシビッシと裁いていくのだが、単純な原理主義者ではない。「死者をホトケ」ということも、どんな人間でも死んだら許すという思想自体は、日本人が仏教から学んだ心として評価する
仏教か否かが疑われている密教に関しては、古代インドのウパニシャッドのような、世界との合一を目指す「梵我一如=神秘主義」に対しては仏教ではないと否定する。仏教と古代インド哲学は別物なのに結び付けられやすいので、注意が必要だ
ただし、空海の密教に対しては、本来の仏教の範囲内だとしている

仏教の修養は、自我を離れる「無我」を目指して「本来の自己」に出会うものであって、より大きな存在と一体化するものではないのだ
阿弥陀如来による救済の教えから、キリスト教との類似点の多い浄土真宗には、釈尊が相手によって教え方を変えた「方便」という概念から肯定する。禅者でありながら、著者は禅宗が「自力本願」と称するのに反対で、「自力」と言ってしまっては‟自我”を捨てきれていないことになるとする。禅を悟りに至る直接的な手法としつつも、阿弥陀仏を立てて自我を捨てさせる「方便」もまた、一つの道なのだ


仏教はある種の無神論であるが、神の存在を全否定しているわけではない。人間が人生で味わう苦しみは外部の神や悪魔によるものではなく、自身の行い(「業」)に発するものという思想から来ている。だから、著者は一神教との対話も可能だとし、現代に耐えうる仏教「新大乗」を提唱している


*23’6/23 加筆修正

『政治家とリーダーシップ』 山内昌之

たしか、富野監督がなんかの雑誌で推していたはず


政治家とリーダーシップ―ポピュリズムを超えて (岩波現代文庫)
山内 昌之
岩波書店
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小泉政権以来、メディアと密着し政治が劇場化した今、ほんらい必要とされるリーダーとは何なのか。東洋の歴史から現代政治への教訓を引き出す
本書は、初出の単行本が2001年の第一次小泉政権下。序章にあたる「はじめに」と終章が2007年に文庫本のために書き下ろされている
序章で嘆かれているのは、テレビ番組で報道とバラエティの敷居が崩れている現状である。本来、事実を厳密に検証する報道と、政治家や芸能人の醜聞を垂れ流すバラエティは性格を異とするはずだが、それを同じ枠にすることは「現代の共同体体験における友愛の悪用」(リチャード・セネット)に他ならないとする
一部の政治家と芸能人、キャスターを「有名人」として一括りされ、これに属せない地味な政治家が除外されていく。メディアの世界では流される瞬間だけ、気の利いたことを言う刹那的能力が重視されてしまうのだ
メディアと政治が密着した時代にあっては、ジャーナリストも「反権力」ではありえない。著者は政治バラエティが無関心な人間を政治に近づかけたのではなく、「政治の芸能化」という名の政治化にほかならないとまでいう
そんな社会に公共善と取り戻し、未来の秩序を作るには何が必要なのか。それを問うのが本書のテーマである

序章において、安易な官僚への責任転嫁・中傷を弁護しつつ、その官僚たちの育成方法=法律学に編重する大学教育を批判している。本当の意味のエリートは、歴史、それも自国や東洋の歴史・教養なくして、判断の下地を作れず他国の人間の尊敬を得られないのだ
第一章では、具体的に理想のリーダー像として、江戸時代に薩摩藩を存続させた島津義弘と、家光の異母弟として影から幕府を支えた保科正之を掲げている
島津義弘は戦国時代を引きずる兄・島津義久に足を引っ張られつつも、豊臣や徳川といった強力な中央政権に巧みな外交を展開して、難局を乗り切った
保科正之は将軍の息子に生まれながら、保科家へ養子に出される不遇の存在だったが、腐らずに自分の門地にもおごらず諸大名から副将軍格としてみなされるまでに至った
両者に共通にするのは、他を圧倒する実力・声望を持ちながら、謙虚で公私混同しなかったこと。義弘は島津家の当主でありつつも、嫉妬する実兄の前当主・義久の顔を立て続け、正之は将軍の弟でありながら創業の功臣である大老・老中を尊重して、組織の序列を崩さなかった
著者は特に保科正之を称揚し、武断政治から文治政治への大転換を果たした戦略眼、社会保障や罪刑法定主義を導入するヒューマニティ、愚直な誠実さを評価する

第二章においては、タイトルこそ「リーダーシップの条件」だが、内容はほぼ外交官の条件。ただし、外交官の条件はリーダーの条件にも通じる
外交官の最低条件は嘘をつかず感情の起伏がないこと。一度、嘘をつくとその嘘を合理化しようと嘘を重ねることになって、結局は信用を無くしてしまう。外交の現場では同じ相手と何度も交渉することが多いので、嘘をつかないという信用が最大の財産となる
小泉政権の田中真紀子のようなスタンドプレイに走る外務大臣など、ありえないのだ
第三章・終章では専門の中東を中心とした国際情勢と求められる外交、第四章ではエリート育成のための教育の在り方に触れられている
全編を通して強調されるリーダー(エリート)の資質とは、自国の歴史を中心とした教養「嘘をつかない誠実さ」。まさに正論なのだが、ではこのメディア政治の状況下でそういう人材が育つかという点では、なかなか大変
地道に教育を施していくしかないようだ


関連記事 『島津奔る』(島津義弘主役の歴史小説)
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