新興宗教にはどういう魅力があるのか? 浄土真宗の強い富山県で、伝統的な信仰と新宗教の受容の関係を探る
親戚に新興宗教の信徒が多いせいか、亡父が実家の本棚に置いていた
初出が1997年とオウムサリン事件の後だが、元になったフィールドワークが1993年に『富山県大百科事典』のための取材となっており、オウムについては一切触れていない
著者は宗教社会学の立場から、宗教団体とその信者を取材しつつも、合理主義の立場から非合理を斬るのではなく、信じる者の立場からなぜ信仰を必要とされるのかを追いかけている
学問上で幕末以降にできた宗教を「新宗教」、戦後に生まれた新興宗教「新・新宗教」と分けられるが、本書は地方の伝統的な宗教に加え、新興宗教の流入した時期や役割も違うので、そうした分類に囚われない
学者として各宗教とは距離を置くものの、新興宗教がどういう役割を果たしているのか、その地域の歴史・伝統との関わりからもアプローチしている
1.人間性を高める救い
新宗教に入る1つのケースとして、まずA宗の富山支部長が紹介されている(原文は実名)
東京へ画家になるために出るが、画壇の現実に幻滅して夢破れ、最初の旦那と結婚し広島へ。荒れた家庭で生まれた子供も障害者と、精神的に疲れた彼女は新興宗教を転々とするが、さらに水商売に第二の結婚と離婚を経験することに
それでも、彼女が違う宗教へ移っていけたのは、「救いというものは、常に人間性の高まりをともなうものだ」という宗教観があったからだ
最後に出会ったのがA宗で、家族に伴う苦難を「霊障」「色情の因縁」という視点から整理でき、立ち直れたという。著者はA宗の「霊障」うんぬんには同調しないものの、支部長にもたらされた救いに宗教の役割を感じる
2.利他行為を生む「あなんたん」
2つ目に取り上げられるのは、北アルプス剱岳の麓にある「あなんたん(穴の谷)」。そこには万病に効くという霊水が伝えられている
いちおう、ゲルマニウムを多く含むとして健康のために持ち帰る人が多く、管理組合では有料のポリタンクを売るだけで、無料で並んで持ち帰れる
弘法大師からの仏縁とされるが、穴の谷の霊水が有名になったのは、実は戦後
岡本弘真尼という行者が穴の谷に6年間籠もり、1962年に亡くなったのだが、親交のあった売薬業者(富山の薬売り!)の塩原氏に、「洞窟の水は万病に効く徳水だから、多くの人に広めてほしい」と言い残した
塩原氏は弘真尼の遺言を忠実に守り、霊水の効果を説いて回った。そのうち、実際に医者がさじを投げた患者が治る事例があり、全国に広まったという
著者はこうした“奇跡“に対して距離を置くが、弘真尼や塩原氏の困った人を放っておけない性、科学が見放した人への“癒やし”にこそ、惹きつける理由があり、肉親の健康を思って水を運ぶ人々の姿に「現代のオアシス」を見る
3.真宗の異端事件「頓成の異安心」
真宗王国とも言われる富山の宗教事情として、江戸時代天保年間に始まる異端事件「頓成(とんじょう)の“異安心(異端)”」を取り上げる
浄土真宗には、「二種深信」という教えがあり、自らの罪業が深く決して救われることがないと信じる「機の深信」と、そうしたときに初めて阿弥陀様が必ず救って下さると信じる「法の深信」があり、分かち難いものとして「機法一如」と言う
頓成は能登(現・石川県)の長光寺の次男として生まれ、北陸の門徒の支持を受けていたが、時代を減るごとに教えが曖昧になっていた本山と対立して失脚する
江戸時代の詮議ではどこが悪いか不明なようだが、明治になってからの頓成の法話によると、死んだ後の救いのこだわる本山に対して、現世で苦しむ門徒へ救いのメッセージを送っていることが強調されている
著者はそこに伝統的な仏教が「あの世専門」になっていて、現世の問題を軽視していることを、その現世の問題に新興宗教が救いをもたらしていることを見る
逆に新興宗教の側は、葬式などの「あの世」の問題には深掘りしないところが多く、式は既存の仏教に任せるところが多い
4.頓成以降の2つの流れ
そうした頓成の問題意識は富山に生まれた新興宗教「浄土真宗親鸞会」「御手南会」に引き継がれている。「親鸞会」はラディカルな原理主義を掲げつつ、現世での功徳と来世への救いをつなげる
「御手南会」は教祖を弥勒菩薩の生まれ変わりとしつつも、真宗王国の裏で引き継がれてきた「秘事法門」と呼ばれる民間信仰を包括して引き受けていく
多くの新興宗教がそのルーツを「欧米から入った雑多な思想」を取り入れたものに過ぎないとしながら、この2つの団体は、江戸時代からの民衆の願いを背負っているとする
本書は死に瀕した人が「阿彌陀仏」を見たと感動しながら事切れるなど、なかなかハードな場面も取り上げられていて、短くまとめられた新書なのに重かった
「生きてて感じる空虚さ」「誰もがいつかは直面する死」の問題は現代人にとっても避けられず、宗教の果たすべき役割は厳然としてある
そして、そうした隙を突いてカルト宗教が忍び寄るケースもあり、それが健全か否かは追い込められた当事者に判別できるものではなく、A宗の富山支部長のように上手く行き着ける人ばかりではない
人間、いつ危機に直面するか分からないものだし、心の備えはしておきたいものであります