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『時代劇入門』 春日太一

管理人がわりと良く見えた映画『関ケ原』を、合戦シーンが安っぽいと一刀両断。一方、長澤まさみの忍者をよしとする


時代劇入門 (角川新書)
時代劇入門 (角川新書)
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春日 太一
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代劇は「おじいちゃん」だけのものじゃない! 食わず嫌いの人のための入門書

帯の富野インタビューに惹かれて買ったけど、普通にいい新書だった
ゴールデンタイムはおろか、昼間の再放送すらなくなった昨今、若い世代に時代劇は縁遠い。アラフォー世代でも、『水戸黄門』に代表される勧善懲悪な、ご老人のためのものというイメージがあって、それを覆そうというのが本書
尾上松之助から始まる30人の代表的スター、10人の映画監督、10人の原作者を紹介し、映画の全盛期からテレビへの変遷、現在の衰退・変貌までを伝える通史となっている一方、忠臣蔵と大河ドラマから時代劇の見所を初心者向けに紹介と行き届いている
この手の本の常として、初心者より既存のファンを引き付ける危惧はあるのだが(苦笑)、時代劇の関係者をリスペクトしながらも硬さに堕ちない軽快な文章で、知らない層もなんとなく引きずり込んでしまう

そもそも時代劇とは、古典や伝統を意味するものではなかった。チコちゃんも言っていたのだが(笑)、歌舞伎や大衆演劇スタイルで女性も女形がやる「旧劇」から、映画独自の方法論をとるべきとする「純映画劇運動」が1920年代に巻き起こり、それにのっとって撮られた歴史物を「新時代劇」と呼ばれたのだ
時代劇の歴史を読んで思うのは、そのヒーローたちにアウトローが多いこと
有名な「忠臣蔵」も赤穂“浪士”、当時の一大テロ事件であったし、清水次郎長・木枯し紋次郎・座頭市は極道あるいは流れ者、柳生十兵衛・眠狂四郎・拝一刀などの剣豪も組織からはみ出すか、追放された存在で、仕置人・仕掛け人は殺し屋そのものである
戦前の「傾向映画」という時代から、庶民の体制に対する晴らせぬうっ憤を晴らすのが、時代劇の役目であったのだ
戦国三傑をはじめとする史実の英雄、『水戸黄門』『遠山の金さん』『暴れん坊将軍』など体制側のヒーローが時代劇の象徴となったのは、テレビドラマに席捲するようになってからだ
こうしたシリーズの長期安定は、ジャンルを硬直させ視聴者への先入観を育てていく
そして、現在の冬の時代が訪れた原因として著者があげるのが、1994年に導入された「個人視聴率調査。世帯ごとに行われていた調査を、一人一台の時代だからと個人ごとに調べてみれば、時代劇を見るのは「ほぼ高齢者
これでは若年から中年に販促を打ちたいスポンサーの意向にそぐわず、金のかかる時代劇から離れていったのだ

さて、注目の富野インタビューは、Gレコ製作中の忙しい合間ということか、だいたい20ページ著者はガンダムが殺陣に興味をもつキッカケとなったことで申し込んだ。富野監督も「僕のような素人になぜ聞きにきたの?」と当惑気味だったが、なんだかんだヒートしていく

富野 映画をモノクロで撮っている時代、それから、カラーになって、さらにシネスコで撮っている時代ということでの、殺陣のありようというのは、結局、全て演劇的にやっている。根本的なことはどういうことかというと、踊りなんだよね。要するに、日舞を延長したものだと考えていかないと、殺陣の形というのは作れない。ああ、納得。
 僕にとって子供向けの時代劇で許せなかったのは、「こうまでチャンチャンバラバラやっていて、人なんて斬ったり殺したりできるもんじゃない」というのがイヤで見なくなったんだけれども、一方で演劇論、舞台として考えると、これでいいんだよねと思える。やっぱり型がいるわけ、様式があるわけです。
 殺陣は舞踏という部分と基本的につながっているものである。(p343)


リアリズムで考えると、真剣を構えられると身動きできるものではない。一撃で決着がついてしまうから、それを他人に見せられるものにするには「舞踏」たらざる得ない。悪い意味でリアリズムに走ってしまった例として、映画『散り椿』があげられている(監督は予告編しか見てないそうだが)
とはいえ、舞踏にしてもただチャンバラを見せるだけでは客も飽きるのだから、「百人を斬るなら百通りの斬り方をして見せろ」と監督は意識している
実際のロボット物でいうと、「ライフル戦、ビーム戦というものは、演劇的に意味がないんです。一度やったらもういい。そのあとどうするかといったときに、チャンバラしかない。」チャンバラをするには、相手が近い距離にいるしかなく、そのまま相手とのやり取りが生まれて自然と劇が生まれていくのだ
気になったのは、新しい時代劇の形としてみられている実写劇場版『るろうに剣心』に否定的なところ。「あそこまでものを考えずに画像オンリーで作るというのは、ちょっと映画をなめていないか」ゲームのワンシーンにしか見えないとも
著者も『るろうに剣心』の殺陣は、スピード感を出すためにラバーで軽く軟らかい刀身で実際に相手へ当てており、「ただのチャンバラごっこで演出ではなくなっている」
対談の前半に最近の剣道では、スポーツ的に勝つことを重視して、昔の竹刀より軽くなっているという話があり、ゲーム世代の身体性の問題としてリンクしてきそうだ
『散り椿』『るろうに剣心』も観てないので、連休中に確認してみたい


関連記事 【映画】『関ケ原』
     【BD】『るろうに剣心』(実写版)
     【DVD】『あずみ』

『藤田嗣治 手しごとの家』 林洋子

連休なんて、なかった


藤田嗣治 手しごとの家 <ヴィジュアル版> (集英社新書)
林 洋子
集英社
売り上げランキング: 111,800


実家に藤田嗣治の本が一冊あったので
藤田はただ絵を描くだけの画家ではない。自分で自分の絵を飾る額縁を作り、自分のアトリエのジオラマを作り、自分と妻の衣装を裁縫で作り、食器の絵付けもしてしまう
自作の衣装とオカッパ頭の髪型には生活費を切り詰める側面もあったものの、芸術家は芸術品をまとうべし」をポリシーとして、生活のすべてに芸術家のこだわりを見せた
本書はそうした藤田の製作物と、そこから生まれた自画像などの作品を豊富な挿絵(写真)で紹介するものだ

驚かされるのは、画家という肩書を大きくはみ出す、旺盛な好奇心と探求
パリの蚤の市から二束三文の人形を持ち帰ったかと思えば、自分で修復してアトリエに飾ってしまうし、額縁職人としても玄人はだし。日本に帰った1930年代には、染め物を収集するだけでなく、自ら染織に乗り出す
その活動量に唖然とするしかない
全編に渡って藤田を映した写真は満ちているのだが、後半には写真家たちと関わりや藤田自身の写真への取り組みが盛り込まれている
カメラは絵の概念を揺さぶる存在なのだが、自分の題材に生かせるものとして活用し、戦前には最新機器だったムービーカメラを入手し南米時代の映像が残っているそうだ
一般的には『アッツ島の玉砕』やアメリカ滞在時の『カフェ』の印象が強い藤田だが、進取の気性に富み、他の分野にもとてつもない凝り性を発揮して、自身のアトリエ(と自宅)や収集物さえも作品に変えてしまう芸術家であったのだ


関連記事 没後50年の藤田嗣治展に行ってきた


藤田嗣治 手紙の森へ <集英社新書ヴィジュアル版>
林 洋子
集英社 (2018-01-17)
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シリーズになってた

『ステーキ! 世界一の牛肉を探す旅』 マーク・シャッカー

ストレスもまずくなる原因だそうで、食肉処理場へ向かうまでにストレスを与えない工夫もされているとか。いやはや


ステーキ! - 世界一の牛肉を探す旅 (中公文庫)
マーク・シャツカー
中央公論新社 (2015-01-23)
売り上げランキング: 375,920


ステーキはなぜ、おいしいのか。世界一のステーキを求めて、アメリカのテキサスからヨーロッパ、日本、アルゼンチンと渡り歩き、人と牛との歴史とステーキの変遷をたどる
本書は著者が子供のころに食べた最高においしいステーキがなかなか再現できないことから、おいしいステーキが生まれる秘密を探そうと世界各地の名産地を回る旅に出るというもの。それだけにとどまらず、旅で得た教訓から自らおいしい牛肉を作ろうと自宅での飼育にまで乗り出してしまうのだ!
こと、味の問題であり、個人の嗜好で受け取り方は変わり、各地なりの事情と文化で評価も違うのだが、不思議と共通の“おいしいの法則が浮かび上がってくる

本来、牛はで育てられていた。西部のカウボーイは、牛に草を食べさせながら太らせ、街に肉を供給していた
しかし今では大量に生産される飼料用トウモロコシや大豆、小麦によって肥え太らされ、すぐに市場に出せるように若い牛が育てられる。そうした牛はいわばシステム化された工業製品であり、風味も食感も悪い
では昔のように草で育てればいいのではないか。最初の訪問先、アメリカのテキサスでそういう試みがなされていて、著者はその肉を試食するのだが……これがそれほどおいしくない(苦笑)
トウモロコシで育てられた牛はほどよく脂肪がつき、平均的なおいしさがある。草で育てた牛は、おいしさの質の幅が大きいのだ
自らの飼育経験を経て、終章においてこの幅の秘密は分かる。草を食べさせるにもただの雑草ではなく、その組み合わせ、食べさせる時期が重要で、もともと野牛が森で暮らしていたことも合わせて、クルミなどの木の実、リンゴなどの果実もエッセンスとなってくる。かなりの手間を要するのである

日本人として気になるのは、和牛の評価だろう
著者にとっての日本体験は、事前のイメージも相まって鮮烈。自動販売機のコーヒーの質の高さにマグロの脂ののりかたに驚き、日本人をよく悪くも完全主義者と評する
牛肉消費量の割に、日本人は霜降りと脂肪を最上とし、特徴的なのはその赤と白のコントラストの美しさを重視する。たとえおいしさが同じでも、黄色の脂肪のついた肉は高い評価を与えない
もう一つ大事にするのが食感で、その重要性に関しては著者の主義とマッチする。実際、和牛が北米に持ち込まれて飼育もされている
他にも本書からは最古の“カウボーイ”がいたスコットランドのアンガス牛、輸入穀物で質が劣化するステーキ大国アルゼンチンなど、知られざる牛肉事情を垣間見れる

『日本の官能小説』 永田守弘

こういう本は読むのが早い


日本の官能小説 性表現はどう深化したか (朝日新書)
永田守弘
朝日新聞出版 (2015-03-13)
売り上げランキング: 414,752


日本の官能小説は焼け跡からいかに発展していったか。その黎明期から今日までを日本社会の変化ともに辿る官能通史!
著者は1930年代生まれで、年間300本の官能小説を読破するという、その道の鉄人で、いくつもの賞の審査員を務めている
本書では敗戦の1945年から日本の性風俗を取り上げられ、官能小説が当局の規制と闘い、社会の変化を敏感に取り込んでハッテンしていく様子を描いている
戦後の闇市に早くもエロ本が流通したが、それはあくまで戦前の作品だった。1946年10月に『猟奇』(旧字体)が創刊されるも、その内容はまだ、今でいう官能小説というより伝奇、奇譚に相応しいものだった
むしろ、海外の『完全なる結婚』といった性医学書が、性器を直接とりあげている分、煽情的という転倒した状況が起こっていた

戦後最初の官能小説と言われるのは、映画化もされた田村泰次郎『肉体の門(1947年)。闇市の街娼たちが、無料で恋人と関係を持った娼婦を文字通りにつるし上げて、リンチする場面がエロチックで、それを再現したストリップ劇場の舞台も評判だった
1948年にはアングラで流通した『四畳半襖の下張』が摘発されて、話題となった。この作品を書いたのは、戦前からの大作家・永井荷風と言われ、本人は当局に否定し続けて難を逃れた
この作品は1972年に野坂昭如が持ち回りの編集長を務めていた雑誌『面白半分』に掲載されたことで、再び摘発の対象となった。裁判には丸谷才一、五木寛之、井上ひさし、吉行淳之介といった多くの文化人が特別弁護人として出廷した
ときに性描写は人間性の表現に不可欠であり、その表現の規制を国家の介入によってなされるべきではない、という命題を突きつけた裁判だったが、1980年に最高裁で有罪判決が確定した
このように、文学と官能小説には作家としても作品としても隔たりのあるものではなく三島由紀夫の『美徳のよろめき』が「よろめき夫人」「よろめき族」という流行語を生んだかと思えば、近藤啓太郎のような芥川賞作家が官能小説に踏み込むことがあった
セックスで失神する女性が描いたことで「失神作家」の異名をとった川上宗薫も、芥川賞候補に何度もあげられた作家であり、「最後の摘発作家」と言われる富島健夫もそうだった。デビュー当時は普通の恋愛小説や純文学を書いていた作家が、やけに官能描写に凝りだして売り物にするのは、今に始まった話でもないのだ

1980年代に入って、大きく地殻変動を起こしていくのが女性作家の躍進である
1978年に25歳の美女作家として丸茂ジュンがデビューし、中村嘉子、岡江多紀が後に続いた。男性の作家はやけにペニスの大きさを誇張したり、女性がありえないほど悶絶する描写に凝ってサービスするが、女性の作家はそうした表現をほどよく抑制することでむしろリアリティを増した
男性にとって女性の快感はあくまで想像の域を出ないが、女性にとってそれは自明のものであり、より実感のこもった表現ができた。その新鮮さからマスコミは「子宮感覚派」と呼んだ(爆)
1983年に今も官能小説の主流である『特選小説』が創刊され、今も活躍し続ける睦月影郎がデビューした
年代を重ねるごとに女性の活躍は増して、表現のタブーはなくなっていき、官能小説は多様化、マニアック化を深めているようだ。本書はジュブナイルや同人小説からの流れ、ボーイズラブやエロゲーなどの影響をまったく取り上げていない点が難だが、昭和の性風俗の変遷を知るには有用で、章の間に挟まれる著者のコラムが微笑ましい

『ハックルベリー・フィンは、いま』 亀井俊介

80年代の映画も見直さねば




新大陸を開拓するところから始まったアメリカ人の理想とは何なのか。現代において、それはどう現れているのか。今なお続けられる「生の実験」を追いかける
本書はアメリカ文学・比較文化論を専門とする東大教授が1980年代に発表した論考をまとめたもの。『地獄の黙示録』『愛と追憶の日々』の大作映画から、80年代に復刻した『スーパーマン』『ターザン』『キング・コング』などのヒーロー物に、『ハックルベリー・フィンの冒険』に始まるアメリカ文学を渉猟して、現代のアメリカ社会の状況に建国以来変わらない理想の追究を見出していく
ヨーロッパから「自由」を求めて渡ってきた移民者にとって、新大陸は「荒野」そのものだった。移民者がそこで開拓して築くのは、本来逃れるべきヨーロッパを模した「文明」であり、ふたたびそこから「荒野」へ飛び出す運動が起こる。著者いわく、この「文明」の建設と「荒野」への旅との振り子運動にアメリカ人の理想の動きがある
そうした「荒野」へ旅に出て「文明」の町と往還を繰り返す、マーク・トゥエインの小説におけるハックルベリーこそが、アメリカ人の理想像なのだ
アメリカ人の離婚率が高いのは、移動の多い社会で「恋愛」への重要性が大きいからだとか、40年近く経ても色褪せないアメリカ文化論である

驚かされるのは、人民寺院事件の解釈だろう
1978年にガイアナで集団自殺した人民寺院は、カルトの代表例といわれるが、極端な部分だけを見てしまってはアメリカ社会の分析を誤まるというのだ
新大陸に「新しいエデン」を見て海を渡ったメイフラワー号の人々「荒野」だったユタ州を開拓したモルモン教徒も、当時の常識からはかけ離れた戒律を持ち、外部の人間からは狂信的な情熱で偉業を成し遂げた
アメリカには数千のカルト組織があるとされ、人民寺院のジム・ジョーンズもメソジストの牧師としてスタートを切った。著者は人民寺院の問題を語るときに、「彼らはファナティックだった」で済ませようとするアメリカでの論調を批判し、いわばアメリカで繰り返されてきた伝統的な運動の失敗例として捉えるべきとする

著者が人民寺院から連想するのは、『地獄の黙示録』のカーツ大佐とその王国である。カーツ大佐は最初、現地の人間を民兵に組織する任務を負っていたが、ヴェトナム戦争という狂気のど真ん中にあって、軍を離れて戦争から独立した王国を築く
狂気の戦争を続ける体制に従って、カーツ大佐を殺すことは果たして正義なのか? 映画では、やはり近い時期に虐殺事件を起こしていたチャールズ・マンソンが持ち出されてカーツ大佐と比較させている(人民寺院事件は、映画製作後)
そして、その『地獄の黙示録』の原典とされるのが、ジョセフ・コンラッドの『闇の奥』だ。この小説ではアフリカが舞台となり、狂った駐在員クルツが王国を築いている。ただし、コンラッドはイギリス人なので、主人公にクルツをヨーロッパ社会に連れ戻すことで解決しようとする
しかし、ヨーロッパ社会から飛び出たアメリカ人に、戻るべき大地はない。果敢に「荒野」に挑まざる得ない
こうした例はフロンティアを失ったアメリカ人の袋小路のように思えるが、著者はありがちな「病めるアメリカ論」はとらない「荒野」に向けて新しいチャレンジをせざる得ない環境こそが、アメリカの強みでもあるのだ
本書の論文が出されたときには、ロナルド・レーガンが大統領選で地すべり的勝利を収めていた。得票数では負けていたとはいえ、トランプ政権の成立は「荒野」への冒険なのかもしれない


関連記事 『ハックルベリイ・フィンの冒険』

『不屈の棋士』 大川慎太郎

インタビューした時期は2015~2016年、第1回電王戦が始まる前。もちろん、スマフォ遠隔問題は一切出てこない


不屈の棋士 (講談社現代新書)
大川 慎太郎
講談社
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人間を凌駕するソフトの登場にプロ棋士たちは、どう立ち向かうのか。11人の棋士たちへのインタビュー
登場する棋士は羽生善治、渡辺明、勝又清和、西尾明、千田翔太、山崎隆之、村山慈明、森内俊之、糸谷哲郎、佐藤康光、行方尚史、とそのまま棋界の代表者といっていい錚々たる顔ぶれ。タイトルホルダー、ソフトを前向きに活用する者、電王戦経験者、ソフトを敬遠する者、とそれぞれと違った立場で電王戦の衝撃、ソフトの評価、棋界の将来を語っている
将棋界のど真ん中にいる人たちながら、その語り口はざっくばらんである。羽生こそ第一人者という立場から慎重であるものの、個人の感覚、考えについては信じられないほど率直に明かされる。プロ棋士はひとりひとりが個人事業主であり、勝ち負けに関してはきわめて合理主義者なのだ
著者は古くから将棋村にいる人ではない分、よく悪くも容赦なく答えを引き出していて、オブラートの少ない濃厚なインタビュー集にしている

将棋棋士はソフトの強さをどう評価しているのか
羽生三冠と佐藤九段は立場上(あるいは信条)から人間のトッププロを越えたとは言わないものの、ほとんどの棋士は認めている
「教授」こと勝又清和六段は、第2回将棋電王戦の三浦弘行‐GPS戦をひとつの決着戦と見る。ただし、人間のなかで羽生だけはレーティングで抜けた存在であるとして、その優劣を留保している
電王戦におけるプロ棋士側の勝利に関しても、永瀬拓矢六段を除き事前の研究によるものが大きいとする。特に斎藤慎太郎七段(当時五段)は普通に戦っているようで、穴熊を目指すことでソフトの人間側への評価関数を上げて暴れさせる、水平線効果を狙っていた。しかも自ら長考することで、相手に深読みさせるという高度な戦略をとっていた
「教授」は(まだ第1回の候補者が決まっていない段階だが)準タイトル戦の電王戦が第一期で、終わってもおかしくないと言い切っていた。くしくも今年、天彦名人が人間側の代表として登場したことで、電王戦は幕を閉じることとなる

ソフト開発者が研究を続け、ハードの性能が上がっていく限り、ソフトの力が人間を上回るのは必然だった。ソフトがプロ棋士に追いつき、追い越したとき、棋士はその現実にどう向き合っていくべきか。それはAIの向上と普及で、大きな社会変化にさらされるだるう一般人にも、無視できないテーマである
千田翔太五段、西尾明六段は終盤のみならず、序中盤の研究にもソフトを使用する。西尾六段の話では、チェスの世界では、グランドマスターがハンデをもらってソフトに挑戦する段階に達しており、ソフトによる研究は当たり前。世界戦の前に最新ソフトのアップグレードを相手に妨害される事案も発生しているという
もっとも、ソフト相手だけと指して、登りつめる人間はまだ出てきていないらしい
そのほかの棋士は意外なほどソフトを研究や対戦相手には活用していなかった。序盤がカオスで、中盤の評価値は利用しづらく、間違い合う人間同士の勝負ではあてにしづらいのだ。ただ、すでに奨励会員にはソフトの使用者が多く、とあるソフトを入手したことで大きく飛躍した成功者もいるので、時間の問題かもしれない
各棋士が警戒するのは、ソフトで考えることを節約してしまって、棋士としての“脳力”を落とすこと。高度なAIは人類にとって、禁断の果実なのか

『ルポ 電王戦 人間vs.コンピュータの真実』 松本博文

羽生さんが叡王になるとして、二番勝負で納得できるかというと


ルポ 電王戦―人間 vs. コンピュータの真実 (NHK出版新書 436)
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人とコンピュータ将棋の戦いはいかなる過程を経てきたのか。コンピュータ将棋の黎明期から電王戦にいたるまで、ソフト開発者と将棋棋士の関わりを振り返る
初出が2014年6月で、第3回電王戦後。当然、最後の五対五の対抗戦である第4回電王戦、山崎叡王とPonanzaの二番勝負となった“第1期電王戦”はフォローされていない
それでも1960年代に始まったコンピュータ将棋と、それに対する将棋棋士の反応が辿られているのは貴重。1967年に11手詰みの詰め将棋を7、8秒で解くに到っており、当時の加藤一二三“八段”が早くも「アマ初段の腕前」と評価していた
1990年第1回コンピュータ将棋選手権が開かれる。「森田将棋」「柿木将棋」「永世名人」といまや懐かしい将棋ソフトに、第2回大会には電王戦にも出場したYSS(「AI将棋」)が登場している。市販にまで辿りつけば印税は入るものの、ほとんどの開発者はあくまで本業をこなした上で、余暇を割いて取り組んでいる。名利ではなく「楽しさ」「挑戦欲」が彼らを支えているのだ

本書は特に将棋界、開発者ともに敬意を払いつつも、著者が東大将棋部OBであることからか、Ponanzaの開発者・山本一成に紙数が割かれている
一軍半の将棋部員だった山本と嫁の詳細過ぎる馴れ初め(笑)、コンピュータ将棋大会での涙の敗北、勝ったら100万円の企画に結婚資金を割く、などの変人ぶりが書き綴られている
第2回電王戦のPVでは、子供に将棋を教える佐藤慎一四段に対して、ソフトの貸し出しを「やーです」と断る台詞を抜き取られ、ボンクラーズの伊藤氏ともにヒールの役割を背負わされたとチクリ。「勝ちたいです。もの凄く勝ちたいです」という台詞も、電王戦ではなくコンピュータ選手権に向けての発言だった
あの挑発的なPVは、かなり面白おかしく偏向させたものと見なすべきだろう

他にもいろんな、エピソードが拾われている第1回電王戦の時点で、電王戦は五年間に一局ずつ行うと決まっていて、次に登場するのは加古川青流戦を優勝した船江恒平四段(当時)と内定していたという
しかし、第1回電王戦が終わった後の打ち合わせの間に、一年に5局の団体戦になった
このサプライズは短い打ち合わせの間に出たものというより、ドワンゴの川上会長が電王戦の反響を見ての腹案だったのだろう
数少ない叡王戦に不参戦の棋士、橋本崇戴八段は、第2回電王戦に500万円の対局料で依頼されていた。A級棋士として出るなら、進退をかける戦いになり500万円では割りに合わないと拒否したという
第3回電王戦に関しては、「悲壮感がありませんでした」との感想を漏らしている
いまや、電王戦は叡王戦のための口実になっていて、人間が負けても本人以外衝撃を受けていない。タイトル戦ばりの7番勝負にするとか、決着戦はしっかりやってもらいたいものだ

『悪女入門』 鹿島茂

小説のタイトルは、だいたいファム・ファタル自身


悪女入門 ファム・ファタル恋愛論 (講談社現代新書)
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男を破滅させる究極の悪女、ファム・ファタル(=運命の女)」とは何者なのか。バルザック、デュマ・フィス、フロベール、ゾラ、プルーストといったフランスの文学作品から男女の機微を分析する
フランス文学を専攻する著者が女子大で教えていた関係から、講義内容から恋愛指南できないか考えていたところ、雑誌の連載向けにリライトされたのが本書。女子大生に対して、ファム・ファタルの誘惑術を授ける、悪女入門という体裁で書かれている
ファム・ファタルのやり口が実際の恋愛に役立つかは微妙なところ。ファム・ファタル自身が恋愛の地位が高いフランスの社会だからこそ、生まれでた存在であり、他の社会の価値観だと単なる悪女に映ってしまうのだ
往年のフランス文学を元にしているだけあって、「男はこう、女はこう」と規定する形で語られるので、今の若者には違和感を覚えるかもしれない。それでも男が女のどこに惹かれるのか、丹念に分析されているので男心への理解は深まるだろうし、何よりもフランス文学が読みたくなってくる

本書では十作の小説から、それぞれのファム・ファタルが紹介される。面白いもので、同じタイプの悪女は誰一人いない
悪女というと、色気むんむん、本音むきだしで男に迫るイメージがあるが、フランス文学に出てくるファム・ファタルは、積極性一辺倒でもない
『マノン・レスコー』に出てくるマノンなどは、むしろ健気さを装って男を釣り、清純なイメージを保つ。男に合わせてその幻想を守るのも、ファム・ファタルのやり口なのだ
『カルメン』のカルメンは、相手が口説きたいときに距離を置いて焦らし、諦めかかると近寄るプロの悪女。古代のカルタゴを舞台にした『サランボー』のサランボーは逆に天然のファム・ファタルで、処女で何も知らない“鈍感さ”が自然と男を誘惑する「カマトト娘」
まさに十人十色なので、創作で悪女キャラを考えるときの助けになるのではなかろうか

ファム・ファタルの中でも最強と思われるのが、ゾラの小説『ナナ』に出てくるナナ
ナナは両親(小説『居酒屋』の主人公夫婦)がアル中で早逝し、風俗の世界に身を落とす。暴力男のヒモになったり、レズビアンに走ったりと遍歴を繰り返しつつも、途中で世の男どもに復讐しようと「ファム・ファタル」へと生まれ変わる
ナナは数多くの客=愛人を抱え、その客の金を搾り取っては得た金を蕩尽し続ける。作者はその様を、経済学者ヴェルナー・ゾンバルトが唱えた「男女の欲望=贅沢」が近代資本主義の源となる説を実証するものとして、ナナこそ「近代資本主義」の象徴とする
労働によって富が生み出されたとしても、生活の必要以上に富が貯蓄されてしまうと、その富は行き場を失って人間を振り回してしまう。金持ちは余った金をナナに注ぎ込み、ナナはそれを使い倒すことで富が循環していく
「ファム・ファタル」の条件その1は男を破滅させることで、その2は意外にも金銭に執着しないこと。男から奪った金で店を持つ女などは、単なる悪女に過ぎない
しかし、ナナは勝利者とはいえない。近代資本主義の全てを消費されていく構造から逃れられるものはなく、ナナそのものは最後は消耗して病死する
男を破滅させるファム・ファタルには、自身の破滅も宿命づけられているのだ

『オタク・イン・USA 愛と誤解のAnime輸入史』 パトリック・マシアス

おたくって、もう死語かな?


オタク・イン・USA:愛と誤解のAnime輸入史 (ちくま文庫)
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日本のマンガやアニメはアメリカでいかに受容されているのか? アメリカの“オタク”である著者が日本のサブカルチャーの展開とそこから生まれた“オタク”たちを追う
本書は『フィギュア王』と『映画秘宝』で連載されたコラムを集めたもので、映画評論家の町山智浩がそれぞれ翻訳と編集を担当していた。あとがきから想像される力関係と内容から、町山氏がかなり踏み込んだ意訳をして読める文章にしたようだ
アメリカにおいて“オタク”(otaku)とは、日本のマンガやアニメに耽溺する人のこと。日本語のオタクにあたる言葉は、ネガティヴな言い方で「need」熱狂的なマニアな意味で「geek」という
著者によると、アメリカで“オタク”という言葉が広まったのは、ガイナックスのOVA『おたくのビデオ』がきっかけらしい

アメリカへは60年代末から、ゴジラをはじめ様々な作品が持ち込まれた。が、その性表現、暴力性(!)、政治的事情、そしてジャンルそのものへの侮りから、まともな形で放送されたものは少ない
ゴジラサパスタインというプロデューサーを得て、東宝と提携しアメリカ版ゴジラが何本も製作された。サパスタインはスターウォーズが大成功を収める前に、版権ビジネスとグッズ商品が一大産業を生むと読んだ先駆者で、ゴジラの名前がアメリカで定着したのは彼のおかげと言っていい
ただし、アメリカ版ゴジラは核爆弾への怒りという要素は排除され、単なる怪獣のプロレスになった(日本のも後半はそうだけど)
成功したゴジラに対して、ウルトラマンは初代こそヒットしたものの、ウルトラセブンはシリアスなところでギャグ台詞に吹き替えられたせいで大沈没。暴力規制からアイスラッシャーはカットされた
アニメは名前が変えられることが多く、『宇宙戦艦ヤマト』は『スター・ブレイザーズ』となり船の名前は“アルゴ”に。『ガッチャマン』は『バトル・オブ・プラネッツ』として放映され、様々な改悪が施されたものの、白鳥のジュンのパンチラ・キックだけは何故か健在で(笑)、子供たちの股間を刺激したという

さて、それではガンダム・シリーズはというと、良く知られているように『ガンダムW』しか成功していない
そもそも初めてテレビで流されたのが、2000年の『ガンダムW』であり、最近のことなのだ。マニアにはZやZZで入って、ファースト・ガンダムを経て宇宙世紀の信者と化す王道ルートが確立されているものの、一般層には年代の落差が厳しいらしい
『ガンダムW』の人気を支えているのは日本同様に女性たちであり、その影響力は大きい。『セーラームーン』がジェンダー問題で打ち切りの危機に立った際には、女性ファンの抗議が殺到して復活させたという
男性中心のアメコミに対して、日本のマンガには少女マンガの歴史が長く、日本のサブカルチャーは女性に開かれていたのだ
日本のクールジャパン戦略にもこうした視点が必要だろう。まあ、クールジャパンそのものがいるかという話もあるが

と、本書が初出の2006年までは日本のサブカルチャーがアメリカで興隆を極めていたが、その後は逆風が吹いていた。文庫版あとがきによると、輸入マンガは粗製乱造が目立って部数は全盛期の三分の一に激減し、有名な全国チェーンの書店が潰れたことで扱う店そのものが減ってしまった。ネット社会が進んで流通形態そのものが変わってしまったのだ
これに続いて衰退しそうなのがDVD市場であり、ネット配信への移行が求められる。お金のないティーンズの読者は、ネットでの違法ダウンロードに頼らざる得ないのが現状のようだ

『テレビアニメ魂』 山崎敬之

懐かしいアニメ特集って、テレビでやんなくなったねえ


テレビアニメ魂
テレビアニメ魂
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山崎 敬之
講談社
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著者の山崎敬之は、アニメ制作会社「東京ムービー」プロデューサーシナリオライターを務め、テレビアニメの黎明期を支えた生粋のアニメ人。本書では「東京ムービー」での経験を中心に、当時の製作現場プロデューサーとしてスポンサーを説得する苦心などが語られる
リミテッドアニメなど業界知識に軽く触れつつも、オバQの毛が三本である理由著者が酩酊状態で口ずさんだ詩が『アタックNo.1』の主題歌となったこと、富山敬の代打の声優に愛川欽也が起用されていたことなど、意外なエピソードが盛りだくさん
富野監督の名前は出てこないものの(コンテ千本切り時代!)、その大先輩ともいえる長浜忠夫監督を中心に、東映動画から参入した高畑勲宮崎駿と、70年代のアニメ現場を偲ばせる

東京ムービーは、虫プロの『アトム』に刺激される形で生まれた。フジテレビで放送された同作品が視聴率40%を超える事態に、TBSは人形劇を製作していた藤岡豊にアニメ製作を強引に依頼し、旗揚げすることになった
初めての作品は手塚原作の『ビッグX』だったが、視聴率は取るものの制作費の管理が杜撰で大赤字に。「新東宝」を立て直した阿部鹿三を新社長にし、藤岡豊は製作に専念する体制とし、『お化けのQ太郎』で挽回に成功する
このお化けのQ太郎は、「お化け=可愛い」というイメージを定着させた画期的な作品で、視聴率も30%越えのまさに“お化け視聴率”を記録したものの、グッズ販売がピークを過ぎたことから二年で打ち切りとなってしまう。後番組の『パーマン』『怪物くん』も好調にも関わらず、一年での打ち切りが予定されていた。スポンサーがグッズの販促を基準を考えるので、こういう事態が常識化していたようだ
「東京ムービー」は漫画原作が中心だったものの、六法全書の入門書を元にした『六法やぶれくん』、著者がダサい少女の絵を一枚渡されたことから製作した『とんでモン・ペ』などオリジナル作品もいくつか製作されている

漫画原作のアニメに、なぜシナリオライターがいるのか。連載漫画は雑誌の方針で展開に融通が利くものの、アニメの場合は30分間(実質22分ぐらい)の中でストーリーに起伏をもたせなければならない
そのため、アニメオリジナルの場面やドラマを作ったり、原作の展開を先食いする形で圧縮する必要がある。最低2クールで終わると想定して、原作のネタを使い潰し、原作の展開を追い抜くケースもよくあったそうだ。『巨人の星』でも苦肉の策として、著者は一話で星飛雄馬が一球しかない回を提案しており、ドラゴンボールのナメック星もこうした事情から生まれたのだ
「私の上を通り過ぎたファンタジーたち」で取り上げた山崎晴哉は、この『巨人の星』のメインライター。大学でロシア文学を専攻し、虫プロからフリーの脚本家となった。原作を追い越した『巨人の星』の最終回では、なんと飛雄馬が死ぬラストのシナリオを書いていたそうだ。これは原作者の許可を得られたものの、テレビ会社側で却下され力尽きて引退するラストになったという。アニメ終了後に漫画の連載も終了となったが、果たして梶原一騎の予定はどちらだったのだろう?

「東京ムービー」と長浜監督の関係は深く、関係者にラッシュテープを披露する際に独演会のようにキャラクターの台詞を叫んだりと、スポンサーの抗議を気迫で退ける存在として重宝されたそうだ。著者は長浜監督の特徴を、オーバーアクションと説明台詞から「新劇かぶれ」と評している。『ベルサイユのバラ』ではその演出を巡って声優と揉めたことから監督を降板し、虫プロ出身の出崎統にバトンタッチする。70年代から80年代へ、時代の移り変わりを感じるエピソードである
そのほか、「東京ムービー」が海外と提携した際に、日本人スタッフのクレジットが削除されたことなど、今となっては考えられない差別待遇も明らかに。先人たちがこうした屈辱を跳ね返して、今の世界的評価につながったと思えば胸熱だ


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