![]() | ロマンポルノの時代 光文社新書 (2012/08/31) 寺脇 研 商品詳細を見る |
日活ロマンポルノには何があったのか。ロマンポルノを今なお追いかける映画評論家が、全盛期を振り返る
日活ロマンポルノは、日活がスター映画の低迷から、採算の取りやすいポルノ部門を主体にしたことから生まれた。1971年の『団地妻 昼下がりの情事』に始まる
キネマ旬報といった表の映画評論では、冷めた目で見られたものの、ロマンポルノ摘発事件(1972年)を受けて一変。わいせつ表現を巡って表現の自由を擁護する立場から、後押しする論陣が張られ、作品が正当に評価されるようになる
本書は、著者の学生時代からの寄稿を引用しつつ、ロマンポルノの時代を回顧する。自分の思いいれとともに語られるので、全体のまとまりはないものの、ロマンポルノを通して男女の真理を追究する姿勢はすがすがしい
1988年に日活ロマンポルノは打ち切られる。ピンク映画との関係や社会評論を期待すると物足りないかもしれないが、数多くの監督、俳優を生み落としたロマンポルノの入門書としては充分だろう
ロマンポルノには、いきなり生まれたわけではない
大手の大映では、1950年代に10代のセックスを扱った「性典シリーズ」が製作され、南田洋子・若尾文子は“性典女優”と言われていた。1970年に入ると、収益の低迷から若手中心の「高校生シリーズ」が組まれ、篠田三郎、松坂慶子、水谷豊、関根恵子(高橋恵子)を輩出した。大映はその後まもなく倒産するが、「高校生シリーズ」はロマンポルノへの橋渡しの役目を果たす
当初はその流れで、『女高生レポート 夕子の白い胸』など女子高生ものが作られたが、ロマンポルノ裁判の影響か、女教師、女子大生、OLへとヒロインの属性が変わっていく
製作の特徴は、低予算での大量生産
当時、普通の映画でまず2500万円以上かけるところ、750万円で作りきってしまう。一年で70本も作るため、様々な人材を貪欲に吸収し、映画会社が新人を取らない中、若手映画人の修練場の役割を果たした
また、映画のプランは企画部がトップダウンでプロデューサー、監督、脚本家を決めていた。まず企画部からプロデューサーを経て脚本家に発注し、しかる後に監督が選ばれる
監督は他人の脚本を読み込む必要があり、それが一線級の人材を生む要因となった
実は表映画界より、ロマンポルノのほうがハリウッドに近いシステムを持っていたのだ
そうした大量生産の体制に原作を提供したのが、官能小説の大家・宇能鴻一郎、SM小説の巨匠・団鬼六、「天使のはらわた」の漫画家・石井隆などは、自ら脚本として参加した
80年代にいたると、アダルトビデオの普及が興行成績に直撃し、バブルの再開発も裏通りの文化を衰退させた
それでも芸能人の「初ポルノ」デビューを売りにもちこたえ、意欲的な作品を生み続けた。終章「ロマンポルノの男優」では、たたき台に駆け上がった有名俳優たちがリストアップされている。朝ドラで親父逆上攻撃した人も、大河で松陰を追い回す人も、ここから這い上がったのだ
監督にしても外部からの招聘組も含めて、日本映画を支える面々と言っていい
それでもアダルト産業の変化はいかんともしがたく、日活ロマンポルノは1988年に活動を停止する。現在、ロマンポルノが果たした役割は、Vシネマが負っているようだ続きを読む