歴史学に西洋、東洋という区分けは有効なのか。ユーラシアの東西の交流をたどる
タイトルが気になったので、実家の本棚から
初出が1976年と管理人が生まれる前で、講談社学術文庫というレーベルの割に、真面目ながらエッセイのような柔らかい文体で書かれている
ページ数も121項と軽くまとめられていて、世界史を詳しく知らない人を意識してか、専門用語もかなり控えめであり、今で言えば歴史系ユーチューバーぐらいの分かりやすい
かといって、内容が薄いわけではなく、古代四大文明から前漢の武帝、ローマ帝国時代から模索される東西の交流を取り上げ、モンゴル帝国の衝撃、その崩壊から大航海時代への進展、現在にいたる欧米中心のアジア観を産んだ帝国主義時代を取り上げていく
現在の歴史学は欧米の優越した時代において生まれたもので、それをそのままアジアに適応すると実態から離れていくのだ
東西ヨーロッパの境はモンゴル帝国
完全に一般向けなので、とくに注で論拠は示されないし、部分的には今の研究から外れているものもあるが、いろいろ発見も多い
まず、ヨーロッパにおける西欧と東欧という区分け。これはモンゴル帝国が襲来した際に、一時的にであれ征服された地域で分かれる
チンギス・ハーンの孫バトゥは、1240年の遠征でハンガリー、ポーランド、ルーマニアのトランシルヴァニア地方まで占拠した。その西端はドイツにも至り、くしくも冷戦時代の勢力分布図に近い
バトゥの子孫はロシア諸侯を完全に服従させ、「タタールの軛」と呼ばれる長期の支配体制を続けたために、ロシアはヨーロッパとは見なされなくなったという
ソ連もモンゴル→ロシアの後継と見なされ、西側・東側という分け方は、モンゴル帝国に端を発するのだ
こうした歴史観がロシアのウクライナ侵攻にも関わる、伝統的な対立を生み出しているともいえる
東西をつないだパックス・モンゴリカ
このモンゴル帝国の影響力は大きく、そこにはマルコ・ポーロをはじめとする多くの商人、宣教師が訪れており、ヨーロッパ遠征で連れられた捕虜たちはハーンの奴隷となった。ハンの玉座を作ったフランス人の職人もいたという
著者は東西の交流を阻んでいたのは、中間にいる多くの国々であり、東西にまたがる帝国が現れたとき、どんな形であれ人の移動は行われた
しかしモンゴル帝国が消えると、そうした交流は失われ、ヨーロッパにおけるアジアの知識も喪失。陸路で行けないかわり、海路での通行が模索され、大航海時代に至る
古代・中世・近代の区分は欧米限定
欧米発の歴史学において、古代、中世、近代の3つの区分に分けられる
ローマ・ギリシアの「古代」、キリスト教により知識が封印された“暗黒”の「中世」、ルネサンスや市民革命を経て現代につながる「近代」で、著者はヨーロッパにおいては妥当とする
しかし、アジアにあてはめるのには限界がある
日本にはヨーロッパのような封建制があったのであまり問題にしないが、中国では秦漢時代から皇帝独裁体制が理想とされてきて、どこか古代で中世か明快に分けられない
インドでは「カースト」(元はポルトガル語)が古代から続いているし、中近東ではイスラム教を契機に古代・中世を分けられそうだが、近代をどう扱うのかが課題
そもそもヨーロッパと対置して、広大なそれ以外の地域を“アジア”と設定し、ひとつのものとして考えることに無理があるというのが、著者の結論だ