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『東洋の発見』 岩村忍

著者はリットン調査団にも同行し、戦後はシルクロード・ブームの立役者になったとか



歴史学に西洋、東洋という区分けは有効なのか。ユーラシアの東西の交流をたどる

タイトルが気になったので、実家の本棚から
初出が1976年と管理人が生まれる前で、講談社学術文庫というレーベルの割に、真面目ながらエッセイのような柔らかい文体で書かれている
ページ数も121項と軽くまとめられていて、世界史を詳しく知らない人を意識してか、専門用語もかなり控えめであり、今で言えば歴史系ユーチューバーぐらいの分かりやすい
かといって、内容が薄いわけではなく、古代四大文明から前漢の武帝、ローマ帝国時代から模索される東西の交流を取り上げ、モンゴル帝国の衝撃、その崩壊から大航海時代への進展、現在にいたる欧米中心のアジア観を産んだ帝国主義時代を取り上げていく
現在の歴史学は欧米の優越した時代において生まれたもので、それをそのままアジアに適応すると実態から離れていくのだ


東西ヨーロッパの境はモンゴル帝国

完全に一般向けなので、とくに注で論拠は示されないし、部分的には今の研究から外れているものもあるが、いろいろ発見も多い
まず、ヨーロッパにおける西欧と東欧という区分け。これはモンゴル帝国が襲来した際に、一時的にであれ征服された地域で分かれる
チンギス・ハーンの孫バトゥは、1240年の遠征ハンガリー、ポーランド、ルーマニアのトランシルヴァニア地方まで占拠した。その西端はドイツにも至り、くしくも冷戦時代の勢力分布図に近い
バトゥの子孫はロシア諸侯を完全に服従させ、「タタールの軛」と呼ばれる長期の支配体制を続けたために、ロシアはヨーロッパとは見なされなくなったという
ソ連もモンゴル→ロシアの後継と見なされ、西側・東側という分け方は、モンゴル帝国に端を発するのだ
こうした歴史観がロシアのウクライナ侵攻にも関わる、伝統的な対立を生み出しているともいえる


東西をつないだパックス・モンゴリカ

このモンゴル帝国の影響力は大きく、そこにはマルコ・ポーロをはじめとする多くの商人、宣教師が訪れており、ヨーロッパ遠征で連れられた捕虜たちはハーンの奴隷となった。ハンの玉座を作ったフランス人の職人もいたという
著者は東西の交流を阻んでいたのは、中間にいる多くの国々であり、東西にまたがる帝国が現れたとき、どんな形であれ人の移動は行われた
しかしモンゴル帝国が消えると、そうした交流は失われ、ヨーロッパにおけるアジアの知識も喪失。陸路で行けないかわり、海路での通行が模索され、大航海時代に至る


古代・中世・近代の区分は欧米限定

欧米発の歴史学において、古代、中世、近代の3つの区分に分けられる
ローマ・ギリシアの「古代」キリスト教により知識が封印された“暗黒”の「中世」ルネサンスや市民革命を経て現代につながる「近代」で、著者はヨーロッパにおいては妥当とする

しかし、アジアにあてはめるのには限界がある
日本にはヨーロッパのような封建制があったのであまり問題にしないが、中国では秦漢時代から皇帝独裁体制が理想とされてきて、どこか古代で中世か明快に分けられない
インドでは「カースト」(元はポルトガル語)が古代から続いているし、中近東ではイスラム教を契機に古代・中世を分けられそうだが、近代をどう扱うのかが課題
そもそもヨーロッパと対置して、広大なそれ以外の地域を“アジア”と設定し、ひとつのものとして考えることに無理があるというのが、著者の結論だ




『ケルトの水脈』 原聖

イースの元ネタも出てくるよ



ケルトとはヨーロッパ史の中で何を意味するのか。様々な角度から問う

単なるケルト民族の話ではなかった。古代からケルトという言葉、存在がどう扱われてきたかまでを論じているのだ
古代ギリシャ、ローマが全盛の頃、まだゲルマン人が移動する前にヨーロッパの広大な領域に広がっていたケルト人。ローマ文明、キリスト教以前のヨーロッパの風土を代表する存在と捉えられている
しかし、著者はそれを「ケルト」という言葉でまとめていいのか、と異論を呈する
キリスト教の立場から‟異教”と呼ばれる習慣も、ケルト以前のストーンヘンジやカルナックの巨石文明などがあり、下手すればキリスト教の影響が低下してから作られた異教的な祭祀があったりする
また現在の「ケルトブーム」(初出2007年)はアイルランド中心に回っていて、同国のナショナリズムに動員されている
が、ケルト人がアイルランドにやってきたのは比較的に後代であり、大陸のケルトとグレートブリテンのケルトとは様々な違いがある。著者はむしろ、異教の慣習が残るフランスのブルターニュ地方を中心に「ケルト」の特色をたどっていく


1.ドルイドはギリシアの影響?

ケルトというと、ドルイドと呼ばれる祭祀階級が武人や平民を仕切り、人身御供の習慣を持つとイメージされる
しかしそれは、カエサルの『ガリア戦記』の影響であり、実際には人質や罪人の処刑を誤解したと言われている

また、ドルイドたちがケルト特有の存在かというと、実はそれが怪しい。ドルイドたちとギリシアのピタゴラス派には、霊魂不滅、数学の知識を要する幾何学模様の多用に天文学など共通点が多い。ケルト人は古くから、地中海沿岸へ襲撃していて、その影響を受けても不思議ではない
ケルトが文字の使用を嫌う閉鎖的な民族というのは、ギリシア・ローマ文明からの偏見、印象にすぎず、最近の研究ではエトルリア(イタリア中部)の文字を採用したケースもあり、状況によって柔軟に対応していたようだ
ローマの征服がガリアで上手くいったのは、大陸のケルト人が地中海の文化に親しんでいて、すでに下地ができていたからなのだ


2.ブリタニアのドルイドはシャーマン

本書ではケルト人がブリタニア(現・グレートブリテン)に渡ったかを疑う説も紹介している。というのも、ガリアのドルイドがピタゴラス派に近いのに比べ、ブリタニアのドルイドは中世ファンタジーのイメージされる呪術色の強いシャーマン、巫女と、まるで性格が違う
ケルトをどう定義するかにもよるのだが、大陸のケルトとブリタニアのブレトン人を別に考えるのが主流らしい
この説に乗っ取るとややこしいのが、ブレトン人がブリタニアへ移住したのちに、大陸ケルトの特色が残るとされるブルターニュ(当時の地名でアルモニカ)へ流入したともされること。本書で取り上げたブルターニュの風習がケルト発祥とはいえなくなってしまう(苦笑)


3.キリスト教と異教の習合


そもそもこの時代に民族が移動する際には、尖兵となる戦士階級とその家族たちの数万人単位となるのだが、必ずしも前の住人を叩きだすわけではないゲルマン民族大移動のときにも、ローマ帝国の住人の3%が移動したに過ぎず、概ね新しい住人と古い住人は妥協と融合を繰り返していく
その場合、前の神様と新しい民族の神様は同一視されたりして習合していくケースが多く、キリスト教が広まった際にも土着の神話と一体となる形で聖人伝説が生まれる。こうした聖人の伝承のなかに、異教の要素が受け継がれていくのだ
なので、今となってはどの慣習がケルトで、どの伝説がブレトンかなど判別するのは不可能らしい
そして、こうした異教の習慣が危機に陥るのは、近代になってから。1つの民族が1つの国家をなし、単一の言語で統一されるべしという国民国家の観念が古い言語の語り部を減らしていくのだ。日本のアイヌのことを思えば、理解しやすい話だ


*23’4/17 加筆修正

『とびきり愉快なイギリス史』 ジョン・ファーマン

MTGアリーナしながら読めた



本場のイラストレーターが書き下ろした、笑いたっぷりのイギリス史

積み読解消のために手に取ったら、意外に面白かった
著者は人気のイラストレーターであり、歴史は学生時代に落第生だったという素人。そんな学問としての歴史が苦手な人たち向けに、面白おかしく語り下ろしたのが、本書だ
そんなわけで厳密な考証には基づいていないし、ギャグに関してもイギリス人でないと分かりにくく、訳者がかなりフォローして読めるものにしたと思われる
ではどこに値打ちがあるかというと、ちゃんと歴史の転換点を捉えているところ。かなりシンプルな表現で流して読めてしまうのに、グレートブリテンの成り立ちから発展、変質が分かってしまうのである
原題は「THE VERY BLOODY HISTORY OF BRITAIN」。最初期に近代、工業化を迎えたのに、血なまぐさい歴史を背負っている


1.移民、征服者の波

ヨーロッパ大陸からドーバー海峡を隔てているだけあって、古代から様々な民族が流入する。土着の“ブリトン人”に、ケルト人、カエサルの遠征に始まるローマ人、北欧からきた“バイキング”ノルマン人デーン人、と支配者はくるくる入れ替わる
国家としての原型を作り出したのは、フランス北部に領地を持っていた“征服王”ノルマンディー公ウィリアム。奪った土地をノルマン人貴族を封じ、さらに貴族はノルマン人騎士に貸し、現地人(ケルト人、サクソン人)の農奴がその土地を耕す封建制度を確立した。これが11世紀で、日本でいう鎌倉時代より1世紀前
フランスのアンジュー家を継承したヘンリー2世の代で、国王を中心とした行政組織が整えられ、裁判官と陪審制の司法体制が誕生する(裁判のスタイルは神明裁判なわけだが……)
リチャード“獅子心王”を継いだジョン王の代に、王権を制限するマグナ・カルタが成立。憲法の草分けとも言われるが、実際には国王たちの暴走は続く!
プロテスタント、カソリック、イギリス国教会と宗教問題が絡んで、幾度となく血を吹くのであった


2.アメリカ独立戦争後に立憲君主制

クロムウェルの清教徒革命に比して、1688年のオレンジ公ウィリアムの即位は「無血革命」「名誉革命と称賛されるが、それは結果論。1万4千の軍団ともに上陸しており、ジェイムズ2世の対応次第では内戦となっていた
1707年にスコットランドとの連合協定が結ばれ国旗はユニオンジャックに、南海バブル事件(1720年)の収拾に初めて「内閣」が組織された
実際に国王が「象徴君主」となり議会政治が成立したのは、アメリカ独立戦争で新大陸東部を失ってからで、下院の多数政党が首相を輩出することとなった(1782年)。ここからようやく、近代的な議会政治の歴史が始まる
ちなみに政治家に歳費が支払われるのは、世界大戦直前の1911年。それまでは貴族か実業家といった資産家にしかつけなかった


本書はグレートブリテンの歴史=イングランドの歴史というオーソドックスなスタイルで、独自の伝統をもつスコットランド、アイルランドは添え物状態。アジアに関しては(アヘン戦争すら)あまり触れられず、日本は第二次大戦で負けたことにしか出てこなかった。あくまでイギリス周辺の歴史なので、より幅広い視点、あるいは細かいところは他の本をあたるべきだろう


*23’4/17 加筆修正

『ケルトの神話』 井村君江

ローマ・ギリシャにも通じる多神教世界



かつてヨーロッパ中に暮らしていたケルトの人々。彼らが遺した神話はキリスト教が広まった以降も、ヨーロッパ文化の古層に深く根を下ろしている。その伝承からケルトの文化、精神を読みとく


ファンタジーの一般教養というべき、ケルト神話の本である
ケルトは単一の民族ではなく、その居住の分布はヨーロッパの大半に及んだものの、固有の国家を築かず各地に部族が点在していた。その様子が現在にあまり伝わらないのは固有の文字を持たず、口伝によって部族の歴史を伝承していたからで、中欧では紀元前1300年から600年にかけて「ハルシュッタット文化」といわれる高度な文化圏が存在したことが分かっている
ケルト人は長身で金髪であり、戦車と投げやりで戦う「戦士」階級と神から神託を受ける「ドゥルイド神官」が二つの支配階級に、一般庶民は奴隷同然の身分だったといわれる
ヨーロッパ大陸のケルト人に関しては、カエサルの遠征記『ガリア戦記』などがあるものの、それはあくまで征服した側の立場で書かれている。ケルト人自身の価値観を探るには、彼らが語り継いできた神話を読み解いていくしかないのだ


アイルランドの神話に原型

ケルト神話がもっとも原型をとどめているのは、“島のケルト”アイルランドに遺された神話サトクリフの小説で読んだクー・フリンやフィン・マックールの物語だ
アイルランドにキリスト教の布教に来た聖パトリックは、幸いなことにケルトの神々を邪神とは扱わず、土地に伝わる伝承を弟子たちに記録させていた
『侵略の書』(10世紀)によると、大洪水を生き残った男フィンタンが語る物語があって、5つの種族がアイルランドの島にやってきたという。5つの種族とは、(1)バーホロン、(2)ネメズ、(3)フィルボルグ、(4)トゥアハ・デ・ダナーン、(5)ミレー族
5番目のミレー族クー・フリンらの王国で人間の時代に入る。クー・フリンの父、太陽神ルー(ルグ)は「トゥアハ・デ・ダナーン(=ダナーン神族)」にあたり、ダナーン神族はミレー族との戦いに敗れて、海のかなたか地中深くに逃れて、「目に見えない種族=妖精」になったといわれる
ケルト人たちはストーンヘンジなどの巨石文明の謎を神々に託したのだろうか


グレートブリテンの歴史自体、ケルト人の後に、ローマ人、ノルマン人が乗り込んで織りなしており、大陸からの移民の波が伝承として遺されたのかもしれない
本書では多くのファンタジー物の元になったケルトの神々を表情豊かに紹介しているので、小説やゲーム作品のタネ本としても面白い


関連記事 『炎の戦士クーフリン/黄金の騎士フィン・マックール』




ケルト神話のRPGというと、思い浮かぶのは『ティルナノーグ』
管理人がプレイしたPC版は、シナリオジェネレータ機能と言いつつ、パターンが限られたり、仲間が勝手に行動してパーティを外れていったりと困ったことがあったものの、いろんな種族を使える楽しさがあった
上記のPS2版は、悪い部分がのこって見かけだと良くなっただけのよう。アルファーは基本、これである
値段が安ければ、ゲーム性の確認がてらやるぐらいか


*23’4/17 加筆修正

『紫禁城の栄光』 岡田英弘 神田信夫 松村潤

中共の政策は乾隆帝時代の再現か



中国はいかにして、黄河、長江流域から多民族国家に拡大したのか。モンゴル帝国から明清の興亡までの歴史から読み解く


初出は1968年ながら、最新の研究の基盤となっている名著だそうで


1.永楽帝の遠征

モンゴル以前、中華圏といえば、黄河と長江の流域が中心で、長城の外、中国東北部は辺境扱いだったし、チベットや現ウイグル自治区は明らかに異民族の地だった
明の初代皇帝・朱元璋もそう認識して、北元と呼ばれるモンゴル帝国の後継者への遠征に躊躇した
その流れを変えたのは、靖難の変でクーデターに成功した永楽帝。彼は、北方を安定させるため北京(元の首都・大都)へ遷都し、タイトルにもある王宮・紫禁城を築く
永楽帝は母は蒙古族ともいわれ、父帝とは世界観が違った。犠牲を払いながら謀略や遠征を繰り返し、いったんは北元を滅ぼした
明朝の間、オイラート族やジュンガール族といった遊牧帝国の誕生を許してしまうものの、農耕文明と遊牧文明の交流は経済的に不可欠であり、双方の統治こそが理想形と認識されていく


2.遊牧民族の平定

その農耕と遊牧を包括した帝国を実現したのが、清朝だった
そもそも女真族は農耕・狩猟・遊牧を併せ持つハイブリッドな生活を送っており、早くから逃亡した漢民族を受け入れて、ヌルハチの代で国家の体制を整えつつあった
明は李自成らの反乱に滅ぼされながら、山海関の呉三桂が異民族である清朝に投降したのは、実は民族の壁が希薄になっていることを示している。遊牧民と対峙してきた呉三桂にとって、無秩序な反乱軍より信用できる存在だったのだ

康熙帝の代に北元の血を引くチャハル親王家を滅ぼして内モンゴルを併合。1689年にはロシアとネルチンスク条約を結び、国境を画定する。ちなみにモンゴル人はロシア皇帝をキプチャク・ハン国の後継者として“チャガーン・ハーン”(白い皇帝)と呼んだ
ジュンガール族に対しても康熙帝は危険な遠征の末に征服し、ついに外モンゴルをも制圧した
チベットチベット仏教(ラマ教)がモンゴル中に浸透していたことから、その宗派間の争いにモンゴルからチベットへの武力介入、チベットからモンゴルへの政治的な介入が相次いでおり、ついには清朝の遠征を受けた
こうして康熙帝の次の次、乾隆帝の代に最大領土を誇り、中華人民共和国の領土も概ね、これにならっている。新疆ウイグル自治区の“新疆”とは、新しい彊土(郷土?)という意味なのだ


3.大中国主義


康熙帝の次の皇帝、雍正帝は、スパイ組織を整えて皇帝独裁を完成させつつ、言論統制にも乗り出す。明朝の末期には、東林党と呼ばれるインテリ集団が生まれ、政府内の不毛な党争が続き、亡国の遠因となっていた
そこで雍正帝は反清的な知識人と対話を試みる。漢民族主義の知識人・曾静に対して、皇帝は大中国主義をもって諭す

帝は、いまシナといわれる地域は古来多くの民族の住地であって、政治的に統一されたのはちかごろのことであること、漢人といえども本来単一の民族ではなく、多くの異民族が混淆してできあがったものであることを指摘したうえ、いまや清朝によって漢人だけのせまい国家観をこえた、満州人、モンゴル人などをもうって一丸とした、あたらしい大中国が実現したのだということ、漢人も偏狭な民族主義をすてて新しい現実に眼をひらくべきであることを説いてきかせたのである。……(p271)

じゃあ、なぜ満州人の風俗、辮髪を漢人に強要するのか、と思うが、今の中国政府にも通じる論理ではなかろうか
本書は中国の通史というだけではなく、日本、朝鮮半島、中央アジア、ベトナムといった周辺地域へ与えた影響にも触れていて、遠大な視点でみる“大地域史になっている。遊牧民と農耕民族を包括する史観が新鮮だ


*23’4/17 加筆修正

『超巨人 明の太祖 朱元璋』 呉がん

著者の結末と本書の中身がリンクしてしまう



14世紀中ごろ、紅巾の乱に身を投じて征服王朝である元を倒した明の始祖・朱元璋。漢の高祖と並ぶ卑賎の身から頂点を極めた彼はいかにして、大王朝を築いたのか、本場の歴史家による史伝

日本では鎌倉から室町と太平記の時代。日本人には感心の薄い時代のせいか、元末の混乱から明王朝の創始を扱った書物は非常に少ない
その数少ない朱元璋(洪武帝)の史伝が本書。著者は北京副市長を務めた歴史家の呉がん(日編に「含」)で、監修は長らく日本のオピニオンリーダーだった堺屋太一と、初出は1986年と古いが、他に代えがたい内容である
注意しなければならないのが、中国共産党政権下で書かれた史書だということ。地主対農民の階級闘争史観が持ち込まれていて、叩き台になった論文には毛沢東の指導が入ったりとか、政治指導者の伝記が世に出るために様々な修正が入れられたようだ
(その呉がん本人は文化大革命で上司に連座するように、家族ともども獄に下され非業の死を遂げている……)
そうした事情を配慮してか、堺屋太一は日本人向けの解説をつけている。一代で元末の大乱を平定し、一兵卒から小隊長、軍司令官、君主とどの段階でも有能だとして、日本でいえば信長・秀吉・家康の戦国三傑を合わせたような「超巨人」と称えている
歴史と伝統、それに基づく政治力学が異なるので一概に比較ではできないが、中国史上に残る偉人なのである


1.紅巾の乱と豪族

元末の紅巾の乱は、弥勒信仰の影響を受けた白蓮教が基盤となっており、指導者は王朝の命運が尽きたときに現れる明王を名乗って、困窮した農民を率いた
それに抵抗したのは元王朝の軍ではなく、むしろそれと結びついた豪族(大地主)たち旧南宋の民は民族階級の「南人」として差別的な扱いを受けていたが、豪族たちは地方統治のために権勢を保っていたので、既得権を守るために私兵を養い紅巾兵に激しく抵抗した
朱元璋は紅巾側に加わったものの、都市を略奪し続けるやり口に疑問を覚え、徐々に儒者(地方の知識人)を登用し始めて、豪族たちと妥協する戦略をとった


2.近世の魁

その一方で中国南部を平定するまでは、大義名分を確保するため「明王」を称する韓林児を保護する(後に粛清した疑惑あり)など、優れたバランス感覚で群雄割拠を乗り切った
日本人として興味を引くのは、そうした築いた王朝の秩序に江戸時代への既視感を感じるところだ。農民に対して「分を知る」徳目を解き、五人組のような相互監視の制度を整え、全国を統治するための政治哲学を用意する
堺屋太一が指摘するように、江戸初期の儒学者たちは明王朝の政治体制を深く研究したのではないだろうか。日本が近世に導入していくことを、中国では14世紀で始めていた。中国はアジアの、というか世界の先端にいたのである。このあたりまでは


3.閉じた帝国と大粛清

政治家としての朱元璋は、荒れた耕地を復興させ、綿花の栽培を奨励させるなど優れた農政家の側面を見せたが、商業を規制して各地の自給自足を目指し、許可なく旅行を禁じて「閉じた帝国」を志向した。朱元璋の時代、銅銭は鋳造しても、民間の流通を許さなかったというから肝いりである
もっとも、そこまでして飢饉にならなかったそうだから、モンゴルの支配と戦乱でそれだけ経済が荒廃していたともいえる
負の側面としては、何度と繰り返されてきた大粛清だろう。それぞれが一族連座で数万単位に及んだから、朱元璋というとこれがイメージという人も多いだろう
解説によると、中国伝統の「一君万民」の政治思想が背景にあり、皇帝と民の間に立ちはだかる中間集団を排除することが、汚職を排除し民を救うことになる信念があったようだ。即位以前の群雄時代はともかくも、即位後に本物の謀反はほぼ存在せず、微罪あるいは冤罪だった


さらに凄まじくて笑えるのは、文字の獄。「禿」の文字が朱元璋の僧侶時代を揶揄していると、使えなくするとか、常軌を逸している
さて、こうした構図、どこか毛沢東の文化大革命にあてはまらないだろうか
著者が文革の嵐のなかに散ったのも、どこかで虎の尾を踏んでしまったのもかもしれない。ともあれ、歴史は違う形で繰り返されるのである


*23’4/17 加筆修正



『中国近代史』 岡本隆司

タイトルは近代史だけど、何百年の過程を扱う



なぜ中国の近代化は遅れたのか? 経済の面から西洋化との軋轢を分析する

題名は近代中国史だが、実質的には中国経済史である
本書では伝統的な中国社会を、古代から中央政府が人民の上層としか関わらない‟士”と‟庶”が分離した社会と紹介する。科挙試験により‟庶”から‟士”への昇格はゼロではなくなったものの、その構造を変えるものではなく、あくまで‟士”は‟庶”とは隔絶していた
中国の官僚制は民間の有力者から「徴税」するのみであり、庶民は必要の応じて「徴用」(=肉体労働)を強いられた。直接に税金を取られないものの、有力者の税金の元手を搾取されるわけで、その規制に役人は関わらない
王朝の財政はほとんど軍事費で、役人の人件費すら低く抑えられており、役人は他の社会からは汚職としか言えない賄賂収入で生活を賄っていた。民間の細かい行政は地方の有力者に丸投げの徹底した「小さな政府=チープガバメントだったのだ


1.朱元璋の統制と密貿易の横行

長江流域の商業化により茶・絹・磁器を中心とする伝統経済は明代に完成する
明の前の元朝は、中国大陸の経済を海と陸からユーラシア大陸に連結したが、世界規模の寒冷化「14世紀の危機」をきっかけに没落してしまう
明の太祖・朱元璋は分断統治されていた華北と江南の格差を縮めるべく、現物主義を導入。華北では元朝の紙幣制度が崩壊しており、江南の高度経済を混乱する華北に合わせる必要があった
朱元璋が行った粛清と明朝の秘密警察には、こうした統制を実現するためにあったといえるようだ

ただし、こうした政策は「中華の一体感」を出すためには良かったものの、経済効率の悪さは否めない。新しい貨幣が作られないために、各地方で独自の貨幣が作られ、地域間の交易には銀が使われる。貿易を規制したために密貿易が横行して、大航海時代には西洋のみならず、日本からの銀の流入が沿岸部の経済発展に貢献した
この王朝の制度とは別に、各地域が独自の貨幣、特産物、交易を展開する様が本書のいう中国近世の「伝統経済」なのだ
清朝の満州族は遊牧民との交易を欠かさせない商業習慣をもっていたことから、明清交替も多くの地域で歓迎されたようだ


2.アヘンと非公認商人“買弁”

清朝の乾隆帝が「地代物博を誇ったように、中央の官僚は中国は自給自足できると考えていたが、実際の各地域は外国との交易が盛んであり、華僑たちは「東洋のユダヤ人」ともいえる地位を築きつつあった
19世紀、イギリスの交易が茶の輸入で赤字となり、インドから綿花やアヘンが中国へ持ち込まれることで解消されていた。が、ランカシャーの綿工業が発達するつれ原料の綿花の輸入が必要となり、アヘンへの比重が求められることとなる
中国へアヘンを持ち込んだのはイギリスだが、中国側には「小さな政府」に食い止められない非合法集団、中間集団が存在した。官許の商人と違って外国の商社からの買い付けに応じる非公認の華人商人=買弁が動き回っていたのだ
中国大陸では18世紀から人口が激増して、清朝既存の体制で取り締まる能力を失っていたともいえ、香港や上海の外国人居留地も彼らの治外法権に任せるしかなかった


3.近代軍閥の起源

こうした「小さな政府」が変貌するきっかけが、太平天国などの反乱太平天国も清朝に統制できない中間勢力が国家を志向したものといえるが、それを倒した曽国藩の湘軍、李鴻章の淮軍といった義勇軍も中間勢力だった
彼らの義勇軍に中央政府から軍事支出が降りるわけもなく、地域の商人から軍費を拠出させる釐金(りきん)によった。「小さな政府」では補足できない金の流れを押さえるために、非公認だった商人たちが公認され、反乱陣営にまわっていた中間勢力を寝返らせた
この義勇軍が、中国の近代軍閥」の起源である

彼らによる群雄割拠は普通の近代史からすると逆行のように思えるが、清朝の「小さな政府」という事情からすれば、著者はやもえない過程とする
袁世凱政府は海外からの外債を引き受けつつも、国内の軍閥を討伐し地域ごとに違う通貨を統一し始め、そうした動きは蒋介石の国民党政権へと引き継がれる
蒋介石の政権は浙江財閥を基盤としており、上海から離れた地域では地方軍閥の生まれる余地が残った。それが東三省の張作霖→満州国であり、中国共産党と対立する原因ともなった


本書では国民党政府地方財閥や青帮という中間勢力に依存した旧態依然の組織であり、その構造を打倒した意味で中国共産党を評価する。土地改革と管理通貨を実現して「伝統経済」から離脱させたわけであり、その意味では中国史のなかでまさに革命的なのだ
しかし、方向性が正しいからといって中国の人民が幸福だったかはまた別であり、経済成長どころか飢餓状態に陥った毛沢東の統制政策を認めるわけではない
また、‟士”と‟庶”の隔絶という中国社会の伝統的な構造が解消しきったわけでもなく、世界なしに中国が存続できるかのような「地代物博」な態度は今も健在であり、本書で示された近代中国の性質は現代にも残存しているのである


*23’4/17 加筆修正

『ボルジア家 悪徳の策謀の一族』 マリオン・ジョンソン

悪名高き一族の系譜



15世紀末にイタリアを席巻したボルジア家。様々な悪徳を吹聴された稀代の一族は、イタリアに何を遺したのか。知られざるスペイン時代から、一族の系譜を追う

ボルジア家というと、ロドリゴ(アレクサンドル6世)チェーザレ、ルクレツィアの親子が注目されるが、本書ではロドリゴの叔父アロンゾスペインの郷士階級に生まれ聖職の階段を登るところから一族の興隆を描いている
毒殺、近親相姦、兄弟殺しと悪名高いボルジア家に対して、作者は当時の世評を冷静に精査し、教皇庁の儀典長ヨハン・ブルカルトの日記などを引いてその支配の実際を解き明かす。ロドリゴチェーザレは、枢機卿とのパーティに娼婦を招いて乱痴気騒ぎするなど聖職者として最低だったが、教会組織や政治に対しては卓越した手腕を示した
この父子のおかげで法王庁は、ルネサンス君主としての実力を手にしイタリア統一まで教皇領を維持することができた。しかし聖職売買などの徹底した世俗化は、ルターによる宗教改革運動を招くこととなる


1.スペインを発祥

ボルジア家の発祥には自称他称の様々な出自が語られるが、スペイン北部の土着の郷士階級でボルハの町に由来する。その祖先は13世紀、アラゴン王ハイメ1世がムーア人よりバレンシア地方を奪還する遠征に参加し、その功によってバレンシア南のハティバに広大な領地を得た。後にロドリゴの次子ホアンがハティバの西にあるガンディア公に、チェーザレはバレンシアの大司教となっていて、ボルジア伝来の根拠地となる
ロドリゴの叔父アロンソ・デ・ボルハは、聖職者ながらアラゴン王アルフォンソ5世に仕え、王のナポリへの介入を助ける。法王庁内でもバレンシア大司教から枢機卿に、そして1455年には法王に選出されカリストゥス3世(位1455-1458年)となる


2.法王の親族登用

ロドリゴは法王となった叔父によって若くして枢機卿となり、兄のペドロ・ルイスは教皇軍司令官に累進し、兄弟で叔父の法王を支える体制となった。この構想は、アレクサンドル6世となってからチェーザレとホアンに与えた役割と似ている
法王の親族登用は恒例であり、スペイン人として孤立しがちなアロンソにとって有能な甥たちの登用は必須であった
法王としてのアロンソオスマントルコによるコンスタンティノープル陥落に直面し、それに対する十字軍の計画に執念を燃やして、ときに以前の君主アルフォンソ五世とも対立。フランスのアヴィニョン捕囚に始まる「教会大分裂」(1378-1417年)冷めやらぬ時代であり、教皇権の再建に尽力した
このように、アレクサンドル6世以前にもボルジア家の法王が、教皇領の再建に取り組んでいたのだ
ちなみにロドリゴのライバルとなるジュリアーノ・デッラ・ローヴェレも、シクストゥス4世(位1471-1484年)の甥。この法王は父親が貧農ともリグリアの漁師とも言われ、出自でいえばロドリゴより低かったりする


3.荒廃した教皇領の再建

ボルジア以前の教皇領は、そのときの情勢で支配者が容易に入れ替わり荒廃していた。法王は高齢で就任するため、親族を任命しても長くは居座れない。封建制が成立しないのだ
そのため、地元のコロンナ家とオルシニ家腕自慢の傭兵隊長が僭主(非公認の支配者)となる世紀末的状況が生まれていた
チェーザレが権謀の限りを尽くしたのはこうした状況があったからであり、短期間でロマーニャ地方を征服し、ボルジア家の公国として教皇領を安定させる構想だった。チェーザレの民政はその荒療治に関わらず、既存の制度を温存する穏やかで公正なものだったという

こうした彼の業績は仇敵であるジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ=法王ユリウス2世に引き継がれ、組織化された教皇領をバックにヴェネツィア、フランス、スペインを相手に大立ち回りを見せることとなる。もっとも「戦争屋」と揶揄された法王が生んだ戦死者は、冷酷無比と言われたチェーザレのそれをはるかに上回ってしまったが


本書ではチェーザレの死後、フェラーラ公国に嫁いだルクレツィアが夫の代理人として公国を切り盛りしたことやホアンの息子フランチェスコがイエズス会の大学を築くのに尽力し、聖フランチェスコと称えられたことを紹介していて、陰謀家とされる一族の知られざる一面を伝えてくれる


*23’4/18 加筆修正

『恐怖の都・ロンドン』 スティーブ・ジョーンズ

これがイギリスの19世紀か



猟奇殺人、ロンドン塔の陰謀、地獄の監獄……中世から近代に繰り広げられたロンドンの暗黒を紹介する

本書はロンドンの観光ガイドブックとして企画されたもので、それも殺人現場巡りバスツアー」の記念品!
切り裂きジャックゆかりの居酒屋が「ジャック・ザ・リッパー」に店名を変えたりと、ロンドンでは殺人事件や幽霊が観光名所になってしまうらしい(苦笑)。さすがモンティ・パイソンが生まれた国である
ガイドブックゆえに細かいネタが並べれた形式になっているものの、印象深い挿絵や惨劇を淡々と描く文章のおかげで、普通に優れたエッセイとして読めてしまう
王朝の華やかな歴史、世界に先駆けた産業革命と議会政治の下には、かくのごとき悲惨な底辺生活者がうごめいていた。近代の訪れとともに、生活条件が良くなったように勘違いしがちだが、現代の豊かさが普遍化したのは、先進国ですらごく最近のことなのだ


1.不衛生とペスト大流行

中世都市の不潔さは良く知られるが、ロンドンもその例に漏れない
排泄物を川に垂れ流し、その水を飲み水に使用する始末で、有名なペスト大流行(1664~1665年)以前にも、疫病が頻発していた。公衆便所ができたのは、1852年のことである
ペストが流行ると、死人を出した家族は家のなかに隔離され、40日間出られなかった。さらに一人死ぬと、そこから40日間という念の入れようである
医者は患者の家に訪れるとき、感染を防ぐために長いクチバシを着用し、悪臭をかがないためにクチバシ部分にハーブを入れていたという
当時の医学で治せるわけもなく、ネコやイヌを殺せという愚かな布告により感染源のネズミが増えまくり、路上に死体が散乱するという『復活の日』さながらの地獄絵図となった
1665年の大流行に蹴りをつけたのは、同年にあったロンドン大火」で炎に焼き尽くされることで沈静化したという
とはいえ、根本的に環境が良くなったわけではなく、19世紀中ごろまでのスラム街イーストエンドでは売春や人身売買が横行し、人々は悲惨な環境で過ごしていたのだ


2.監獄のなかの社会

一般庶民がそういう生活なら、囚人はその上を行く
債務者が投獄(!)されるフリート監獄では、その罪状に相応しく全てが金次第。賄賂で一定期間、娑婆に出ることもできた。その代わり、金のない者にとっては地獄で、獄中死も常態化していた。まさにリアル帝愛である
イギリスのバスティーユといわれるフリーゲイト監獄では、もう一つの社会が形成されていて、金のある著名人は一日、酒を飲んで世間話をして過ごす。所内で金を稼ぐ術を見つけられれば、良質の環境を確保することができた
しかし、一般の囚人は監獄の入り口で衣服を含めた全ての持ち物を奪われ、劣悪な環境を強いられて、大半は獄中で死ぬか処刑場に旅立つかどちらかだった
ロンドンへの人口流入から監獄がパンク寸前となり、囚人を植民地へ移民させる政策が取られる。最初はアメリカだったが、合衆国が独立するとオーストラリアへ矛先は向かう。人員を確保するために、軽い窃盗などの微罪でも流刑者となった
この宗主国の勝手に、フランクリン・ベンジャミンは「本国で吊るせ」と抗議の声を上げている


3.死刑執行というお祭り

死刑が乱発されたのも、更生という概念がないのと、監獄の費用を浮かしたいゆえ。処刑は一般民衆にとってお祭りにもなっていて、群衆は死刑を手伝ったり、死者の死体をご利益に触ったりした
死刑執行人は処刑を演出するダークヒーローである反面、悲運の罪人を殺す際には恨まれる立場にもあった
死刑執行人は1686年から「ジャック・ケッチ」の名で呼ばれるようになったが、最初のジャック・ケッチは三回、斧を振り下ろしても貴族の受刑者を絶命させることができず、最後はナイフで切断した
この始末に群衆は怒り狂い、このケッチは更迭されてしまったという。ギロチンが必要とされたのも、執行人の人材の問題があったようだ
処刑後には犯罪者の死体を解体し、それを晒して宴会を開くとか、とんでもない光景が繰り広げられていて、切り裂きジャックやスウィニー・トッドが出てもなんら不思議でない社会なのだ
本書は現代の殺人事件まで触れているが、19世紀までの凄まじさに比べるとずいぶんと平和的。犯罪者もドジな凡夫が多い


*23’4/17 加筆修正




『ラディカル・ヒストリー ロシア史とイスラム史のフロンティア』 山内昌之

ロシア帝国の真実



ロシアとムスリムの確執はどこから始まったのか。旧ソ連圏の民族問題を歴史的過程から捉えなおす

初出が1991年とソ連崩壊前夜ながら、キエフ・ルーシ、モスクワ大公国時代から遡ることで、チェチェン紛争、ウクライナ問題などが生じる由縁を先回りしたかのように明らかにしていく
旧ソ連は人口にして世界第五位のイスラム教徒を抱えていて、現在のロシアの領域で考えてもシベリアをはじめとする東方は、トルコ系やモンゴル系の遊牧民の勢力圏だった
カスピ海と黒海に挟まれたカフカス地方は、18世紀からロシアが100年がかりで併合した地域であり、現地民との桎梏はロシア文学のテーマにもなった
チェチェンにおける民族紛争は、18世紀に始まる伝統的な抵抗運動でもあるのだ
本書では拡張する帝国とイスラム教徒の軋轢を被支配者側から捉え直し、封殺されてきた歴史を白日の下にさらしている


1.中世は“タタール”が先進地域

もともとロシアとイスラム教徒や遊牧民は対立関係にはなかった
ノルマン人の征服者リューリクの末裔たちが、キエフ・ルーシやモスクワ大公国などスラブの諸王朝を起こしたが、東方の「タタール」とは宗教が違えど友好的な関係だった
当時はイスラム教文化を受容した「タタール」のほうが高度な文明を持っており、ルーシ側は「タタール」に奴隷を提供する立場だった。イスラム教徒側が実力的にも文化的にも優位だった時代が長かったことが、現代の紛争を複雑なものとしている
モンゴルのバトゥが遠征するに及んで、ルーシとタタールの均衡は一変。モスクワ大公国は、バトゥの子孫であるキプチャク汗国の属国となる
農奴制や専制君主の伝統はキプチャクの体制から受け継いだもので、ロシア帝国の実質はビザンチンというよりモンゴル帝国の後継者と言っていい


2.ロマノフ王朝と脱亜入欧

「タタールの頚木」を断ったと言われるイワン4世、チンギス・ハーンの末裔を「全ルーシの大公」に担いだ時期があり、三番目の妻もその血を引く者を選び、いわばモンゴル帝国の後継者として、東方の領有を正当化していたのだ
本当の意味で頚木を断ったのはロマノフ王朝からで、イスラムを野蛮としキリスト教文明を広める十字軍として、各地へ征服に乗り出していく
イスラム教圏との紛争は、この「脱亜入欧」の変節に端を発していて、ピョートル大帝以来、西洋文化を専制的に押し付ける手法は、マルキシズムをイデオロギーとするソ連へ受け継がれて現代に到る
旧ソ連圏の混乱は、国内に植民地を抱えて膨張したロシア帝政が原因なのだ


3.女性問題とムスリム社会の反発

ソ連は様々な政策を通して、イスラム圏の社会制度を粉砕しようとしたが、その無言の抵抗から果たせなかった
本書では、女性問題に大きく紙数が割かれている
中央アジアでは、女性の地位は男性に隷属するものとされ、基本的に「女の世界は家の中だけ」とされていた。成人女性はヴェールをかぶり、外出するときには夫の同伴が原則。外で仕事を持つなどもってのほかだ
ソ連政府はこの女性差別を突破口にして社会制度を変革しようと、女性の公務員を登用し、女性党員にジェンダー問題の活動を始めさせた

しかし、それに対するムスリム社会の反応は冷淡だった。現地の男性党員や役人は職場から女性を隔離して無視し、酷い地域では女性活動家を集団で暴行、凌辱に及び、なおかつそれが司法の場で正当化されることもあった
強引に女性登用を進める中央政府に対し、現地人からなる地方政府はまったく乗る気でなく、その党幹部や役人は一夫多妻を誇っていた
また遊牧民社会では、娘を嫁入りさせる際に貴重な労働力の見返りとして家畜や生活物資、金銭等を受け取るカーリアという風習があった。近代にあるまじき人身売買として当局から禁じられたものの、今なおこうした風習は存在しているそうだ
そもそも女性側にすら、それが悪いという認識がまったくなかった女性が囲い込まれるのは、こうした男至上の社会や「誘拐結婚」への対抗措置ともいえ、社会的条件が揃わないうちに改革を強要したゆえの悲劇といえよう

*アフガンのタリバン政権を見ると、根深すぎる問題


そのほか、ムスリム共産主義の英雄スルタンガリエフの悲劇や、旧ソ連の共和国がソ連の管理しやすい都合で民族を分断していたなど、本書は強権が悲劇を呼び、それがさらなる強権を呼ぶという構図を浮き彫りにする


*23’4/17 加筆修正

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