ケルトとはヨーロッパ史の中で何を意味するのか。様々な角度から問う
単なるケルト民族の話ではなかった。古代からケルトという言葉、存在がどう扱われてきたかまでを論じているのだ
古代ギリシャ、ローマが全盛の頃、まだゲルマン人が移動する前にヨーロッパの広大な領域に広がっていたケルト人。ローマ文明、キリスト教以前のヨーロッパの風土を代表する存在と捉えられている
しかし、著者はそれを「ケルト」という言葉でまとめていいのか、と異論を呈する
キリスト教の立場から‟異教”と呼ばれる習慣も、ケルト以前のストーンヘンジやカルナックの巨石文明などがあり、下手すればキリスト教の影響が低下してから作られた異教的な祭祀があったりする
また現在の「ケルトブーム」(初出2007年)はアイルランド中心に回っていて、同国のナショナリズムに動員されている
が、ケルト人がアイルランドにやってきたのは比較的に後代であり、大陸のケルトとグレートブリテンのケルトとは様々な違いがある。著者はむしろ、異教の慣習が残るフランスのブルターニュ地方を中心に「ケルト」の特色をたどっていく
ケルトというと、ドルイドと呼ばれる祭祀階級が武人や平民を仕切り、人身御供の習慣を持つとイメージされる
しかしそれは、カエサルの『ガリア戦記』の影響であり、実際には人質や罪人の処刑を誤解したと言われている
また、ドルイドたちがケルト特有の存在かというと、実はそれが怪しい。ドルイドたちとギリシアのピタゴラス派には、霊魂不滅、数学の知識を要する幾何学模様の多用に天文学など共通点が多い。ケルト人は古くから、地中海沿岸へ襲撃していて、その影響を受けても不思議ではない
ケルトが文字の使用を嫌う閉鎖的な民族というのは、ギリシア・ローマ文明からの偏見、印象にすぎず、最近の研究ではエトルリア(イタリア中部)の文字を採用したケースもあり、状況によって柔軟に対応していたようだ
ローマの征服がガリアで上手くいったのは、大陸のケルト人が地中海の文化に親しんでいて、すでに下地ができていたからなのだ
本書ではケルト人がブリタニア(現・グレートブリテン)に渡ったかを疑う説も紹介している。というのも、ガリアのドルイドがピタゴラス派に近いのに比べ、ブリタニアのドルイドは中世ファンタジーのイメージされる呪術色の強いシャーマン、巫女と、まるで性格が違う
ケルトをどう定義するかにもよるのだが、大陸のケルトとブリタニアのブレトン人を別に考えるのが主流らしい
この説に乗っ取るとややこしいのが、ブレトン人がブリタニアへ移住したのちに、大陸ケルトの特色が残るとされるブルターニュ(当時の地名でアルモニカ)へ流入したともされること。本書で取り上げたブルターニュの風習がケルト発祥とはいえなくなってしまう(苦笑)
そもそもこの時代に民族が移動する際には、尖兵となる戦士階級とその家族たちの数万人単位となるのだが、必ずしも前の住人を叩きだすわけではない。ゲルマン民族大移動のときにも、ローマ帝国の住人の3%が移動したに過ぎず、概ね新しい住人と古い住人は妥協と融合を繰り返していく
その場合、前の神様と新しい民族の神様は同一視されたりして習合していくケースが多く、キリスト教が広まった際にも土着の神話と一体となる形で聖人伝説が生まれる。こうした聖人の伝承のなかに、異教の要素が受け継がれていくのだ
なので、今となってはどの慣習がケルトで、どの伝説がブレトンかなど判別するのは不可能らしい
そして、こうした異教の習慣が危機に陥るのは、近代になってから。1つの民族が1つの国家をなし、単一の言語で統一されるべしという国民国家の観念が古い言語の語り部を減らしていくのだ。日本のアイヌのことを思えば、理解しやすい話だ