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『ボルジア家 悪徳の策謀の一族』 マリオン・ジョンソン

悪名高き一族の系譜


ボルジア家―悪徳と策謀の一族 (中公文庫)
マリオン ジョンソン
中央公論社
売り上げランキング: 316,184


15世紀末にイタリアを席巻したボルジア家。様々な悪徳を吹聴された稀代の一族は、イタリアに何を遺したのか。知られざるスペイン時代から、一族の系譜を追う
ボルジア家というと、ロドリゴ(アレクサンドル6世)チェーザレ、ルクレツィアの親子が注目されるが、本書ではロドリゴの叔父アロンゾスペインの郷士階級に生まれ聖職の階段を登るところから一族の興隆を描いている
毒殺、近親相姦、兄弟殺しと悪名高いボルジア家に対して、作者は当時の世評を冷静に精査し、教皇庁の儀典長ヨハン・ブルカルトの日記などを引いてその支配の実際を解き明かす。ロドリゴとチェーザレは、枢機卿とのパーティに娼婦を招いて乱痴気騒ぎするなど聖職者として最低だったが、教会組織や政治に対しては卓越した手腕を示した
この父子のおかげで法王庁は、ルネサンス君主としての実力を手にしイタリア統一まで教皇領を維持することができた。しかし聖職売買などの徹底した世俗化は、ルターによる宗教改革運動を招くこととなる

ボルジア家の発祥には自称他称の様々な出自が語られるが、スペイン北部の土着の郷士階級でボルハの町に由来する。その祖先は13世紀、アラゴン王ハイメ1世がムーア人よりバレンシア地方を奪還する遠征に参加し、その功によってバレンシア南のハティバに広大な領地を得た。後にロドリゴの次子ホアンがハティバの西にあるガンディア公に、チェーザレはバレンシアの大司教となっていて、ボルジア伝来の根拠地となる
ロドリゴの叔父アロンソ・デ・ボルハは、聖職者ながらアラゴン王アルフォンソ5世に仕え、王のナポリへの介入を助ける。法王庁内でもバレンシア大司教から枢機卿に、そして1455年には法王に選出されカリストゥス3世(位1455-1458年)となる
ロドリゴは法王となった叔父によって若くして枢機卿となり、兄のペドロ・ルイスは教皇軍司令官に累進し、兄弟で叔父の法王を支える体制となった。この構想は、アレクサンドル6世となってからチェーザレとホアンに与えた役割と似ている
法王の親族登用は恒例であり、スペイン人として孤立しがちなアロンソにとって有能な甥たちの登用は必須であった
法王としてのアロンソはオスマントルコによるコンスタンティノープル陥落に直面し、それに対する十字軍の計画に執念を燃やして、ときに以前の君主アルフォンソ五世とも対立。フランスのアヴィニョン捕囚に始まる「教会大分裂」(1378-1417年)冷めやらぬ時代であり、教皇権の再建に尽力した
このように、アレクサンドル6世以前にボルジア家の法王は実現していたのだ
ちなみにロドリゴのライバルとなるジュリアーノ・デッラ・ローヴェレも、シクストゥス4世(位1471-1484年)の甥。この法王は父親が貧農ともリグリアの漁師とも言われ、出自でいえばロドリゴより低かったりする

ボルジア以前の教皇領は、そのときの情勢で支配者が容易に入れ替わり荒廃していた。法王は高齢で就任するため、親族を任命しても長くは居座れない。封建制が成立しないのだ
そのため、地元のコロンナ家とオルシニ家、腕自慢の傭兵隊長が僭主となる世紀末的状況が生まれていた
チェーザレが権謀の限りを尽くしたのはこうした状況があったからであり、短期間でロマーニャ地方を征服し、ボルジア家の公国として教皇領を安定させる構想だった。チェーザレの民政はその荒療治に関わらず、既存の制度を温存する穏やかで公正なものだったという
こうした彼の業績は仇敵であるジュリアーノ・デッラ・ローヴェレ=法王ユリウス2世に引き継がれ、組織化された教皇領をバックにヴェネツィア、フランス、スペインを相手に大立ち回りを見せることとなる。もっとも「戦争屋」と揶揄された法王が生んだ戦死者は、冷酷無比と言われたチェーザレのそれをはるかに上回ってしまったが
本書ではチェーザレの死後、フェラーラ公国に嫁いだルクレツィアが夫の代理人として公国を切り盛りしたことやホアンの息子フランチェスコがイエズス会の大学を築くのに尽力し、聖フランチェスコと称えられたことを紹介していて、知られざる一族の一面を伝えてくれる
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『恐怖の都・ロンドン』 スティーブ・ジョーンズ

これがイギリスの19世紀か


恐怖の都・ロンドン (ちくま文庫)
スティーブ・ジョーンズ
筑摩書房
売り上げランキング: 620,065


猟奇殺人、ロンドン塔の陰謀、地獄の監獄……中世から近代に繰り広げられたロンドンの暗黒を紹介する
本書はロンドンの観光ガイドブックとして企画されたもので、それも殺人現場巡りバスツアー」の記念品!
切り裂きジャックゆかりの居酒屋が「ジャック・ザ・リッパー」に店名を変えたりと、ロンドンでは殺人事件や幽霊が観光名所になってしまうらしい(苦笑)。さすがモンティ・パイソンが生まれた国である
ガイドブックゆえに細かいネタが並べれた形式になっているものの、印象深い挿絵や惨劇を淡々と描く文章のおかげで、普通に優れたエッセイとして読めてしまう
王朝の華やかな歴史、世界に先駆けた産業革命と議会政治の下には、かくのごとき悲惨な底辺生活者がうごめいていた。近代の訪れとともに、生活条件が良くなったように勘違いしがちだが、現代の豊かさが普遍化したのは、先進国ですらごく最近のことなのだ

中世都市の不潔さは良く知られるが、ロンドンもその例に漏れない
排泄物を川に垂れ流し、その水を飲み水に使用する始末で、有名なペスト大流行(1664~1665年)以前にも、疫病が頻発していた。公衆便所ができたのは、1852年のことである
ペストが流行ると、死人を出した家族は家のなかに隔離され、40日間出られなかった。さらに一人死ぬと、そこから40日間という念の入れようである
医者は患者の家に訪れるとき、感染を防ぐために長いクチバシを着用し、悪臭をかがないためにクチバシ部分にハーブを入れていたという
当時の医学で治せるわけもなく、ネコやイヌを殺せという愚かな布告により感染源のネズミが増えまくり、路上に死体が散乱するという『復活の日』さながらの地獄絵図となった
1665年の大流行に蹴りをつけたのは、同年にあったロンドン大火」で炎に焼き尽くされることで沈静化したという
とはいえ、根本的に環境が良くなったわけではなく、19世紀中ごろまでのスラム街イーストエンドでは売春や人身売買が横行し、人々は悲惨な環境で過ごしていたのだ

一般庶民がそういう生活なら、囚人はその上を行く
債務者が投獄(!)されるフリート監獄では、その罪状に相応しく全てが金次第。賄賂で一定期間、娑婆に出ることもできた。その代わり、金のない者にとっては地獄で、獄中死も常態化していた。まさにリアル帝愛である
イギリスのバスティーユといわれるフリーゲイト監獄では、もう一つの社会が形成されていて、金のある著名人は一日、酒を飲んで世間話をして過ごす。所内で金を稼ぐ術を見つけられれば、良質の環境を確保することができた
しかし、一般の囚人は監獄の入り口で衣服を含めた全ての持ち物を奪われ、劣悪な環境を強いられて、大半は獄中で死ぬか処刑場に旅立つかどちらかだった
ロンドンへの人口流入から監獄がパンク寸前となり、囚人を植民地へ移民させる政策が取られる。最初はアメリカだったが、合衆国が独立するとオーストラリアへ矛先は向かう。人員を確保するために、軽い窃盗などの微罪でも流刑者となった
この宗主国の勝手に、フランクリン・ベンジャミンは「本国で吊るせ」と抗議の声を上げている

死刑が乱発されたのも、更生という概念がないのと、監獄の費用を浮かしたいゆえ。処刑は一般民衆にとってお祭りにもなっていて、群衆は死刑を手伝ったり、死者の死体をご利益に触ったりした
死刑執行人は処刑を演出するダークヒーローである反面、悲運の罪人を殺す際には恨まれる立場にもあった
死刑執行人は1686年から「ジャック・ケッチ」の名で呼ばれるようになったが、最初のジャック・ケッチは三回、斧を振り下ろしても貴族の受刑者を絶命させることができず、最後はナイフで切断した
この始末に群衆は怒り狂い、このケッチは更迭されてしまったという。ギロチンが必要とされたのも、執行人の人材の問題があったようだ
処刑後には犯罪者の死体を解体し、それを晒して宴会を開くとか、とんでもない光景が繰り広げられていて、切り裂きジャックやスウィニー・トッドが出てもなんら不思議でない社会なのだ
本書は現代の殺人事件まで触れているが、19世紀までの凄まじさに比べるとずいぶんと平和的。犯罪者もドジな凡夫が多い


スウィーニー・トッド フリート街の悪魔の理髪師 [Blu-ray]
ワーナー・ホーム・ビデオ (2010-04-21)
売り上げランキング: 40,454
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『ラディカル・ヒストリー ロシア史とイスラム史のフロンティア』 山内昌之

ロシア帝国の真実




ロシアとムスリムの確執はどこから始まったのか。旧ソ連圏の民族問題を歴史的過程から捉えなおす
初出が1991年とソ連崩壊前夜ながら、キエフ・ルーシ、モスクワ大公国時代から遡ることで、チェチェン紛争、ウクライナ問題などが生じる由縁を先回りしたかのように明らかにしていく
旧ソ連は人口にして世界第五位のイスラム教徒を抱えていて、現在のロシアの領域で考えてもシベリアをはじめとする東方は、トルコ系やモンゴル系の遊牧民の勢力圏だった
カスピ海と黒海に挟まれたカフカス地方は、18世紀からロシアが100年がかりで併合した地域であり、現地民との桎梏はロシア文学のテーマにもなった
チェチェンにおける民族紛争は、18世紀に始まる伝統的な抵抗運動でもあるのだ
本書では拡張する帝国とイスラム教徒の軋轢を被支配者側から捉え直し、封殺されてきた歴史を白日の下にさらしている

もともとロシアとイスラム教徒や遊牧民は対立関係にはなかった
ノルマン人の征服者リューリクの末裔たちが、キエフ・ルーシやモスクワ大公国などスラブの諸王朝を起こしたが、東方の「タタール」とは宗教が違えど友好的な関係だった
当時はイスラム教文化を受容した「タタール」のほうが高度な文明を持っており、ルーシ側は「タタール」に奴隷を提供する立場だった。イスラム教徒側が実力的にも文化的にも優位だった時代が長かったことが、現代の紛争を複雑なものとしている
モンゴルのバトゥが遠征するに及んで、ルーシとタタールの均衡は一変。モスクワ大公国は、バトゥの子孫であるキプチャク汗国の属国となる
農奴制や専制君主の伝統はキプチャクの体制から受け継いだもので、ロシア帝国の実質はビザンチンというよりモンゴル帝国の後継者と言っていい
「タタールの頚木」を断ったと言われるイワン4世、チンギス・ハーンの末裔を「全ルーシの大公」に担いだ時期があり、三番目の妻もその血を引く者を選び、いわばモンゴル帝国の後継者として、東方の領有を正当化していたのだ
本当の意味で頚木を断ったのはロマノフ王朝からで、イスラムを野蛮としキリスト教文明を広める十字軍として、各地へ征服に乗り出していく
イスラム教圏との紛争は、この「脱亜入欧」の変節に端を発していて、ピョートル大帝以来、西洋文化を専制的に押し付ける手法は、マルキシズムをイデオロギーとするソ連へ受け継がれて現代に到る
旧ソ連圏の混乱は、国内に植民地を抱えて膨張したロシア帝政が原因なのだ

ソ連は様々な政策を通して、イスラム圏の社会制度を粉砕しようとしたが、その無言の抵抗から果たせなかった
本書では、女性問題に大きく紙数が割かれている
中央アジアでは、女性の地位は男性に隷属するものとされ、基本的に「女の世界は家の中だけ」とされていた。成人女性はヴェールをかぶり、外出するときには夫の同伴が原則。外で仕事を持つなどもってのほかだ
ソ連政府はこの女性差別を突破口にして社会制度を変革しようと、女性の公務員を登用し、女性党員にジェンダー問題の活動を始めさせた
しかし、それに対するムスリム社会の反応は冷淡だった。現地の男性党員や役人は職場から女性を隔離して無視し、酷い地域では女性活動家を集団で暴行、凌辱に及び、なおかつそれが司法の場で正当化されることもあった
強引に女性登用を進める中央政府に対し、現地人からなる地方政府はまったく乗る気でなく、その党幹部や役人は一夫多妻を誇っていた
また遊牧民社会では、娘を嫁入りさせる際に貴重な労働力の見返りとして家畜や生活物資、金銭等を受け取るカーリアという風習があった。近代にあるまじき人身売買として当局から禁じられたものの、今なおこうした風習は存在しているそうだ
そもそも女性側にすら、それが悪いという認識がまったくなかった女性が囲い込まれるのは、こうした男至上の社会や「誘拐結婚」への対抗措置ともいえ、社会的条件が揃わないうちに改革を強要したゆえの悲劇といえよう
そのほか、ムスリム共産主義の英雄スルタンガリエフの悲劇や、旧ソ連の共和国がソ連の管理しやすい都合で民族を分断していたなど、本書は強権が悲劇を呼び、それがさらなる強権を呼ぶという構図を浮き彫りにする
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『世界史の誕生─モンゴルの発展と伝統』 岡田英弘

モンゴル以外もてんこ盛り

世界史の誕生─モンゴルの発展と伝統 (ちくま文庫)世界史の誕生─モンゴルの発展と伝統 (ちくま文庫)
(1999/08)
岡田 英弘

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世界史はノマド(遊牧民)が作った!古代からモンゴル帝国まで、遊牧民から世界を読み直す
タイトルの「世界史の誕生」とは、世間で「世界史」とされる物への疑義から来ている
日本における「世界史」とは、明治以来の「万国史」、中国の「正史」の概念にあてはめて理解したもので、西洋における覇権の移り変わりを中国流の正統論で説明しているにすぎず、その実態を説明するには不十分なものだった
かといって、西洋における歴史の語り口も、古代ギリシア、ヘロドトスのアジア=野蛮の価値観と、キリスト教の黙示録による善悪二元論の二本立てでできていて、世界全体を説明する視野に欠けている
そこでユーラシアの西と東を移動し続けた遊牧民に焦点をあて、その帝国の興亡から本来の「世界史」の視点を獲得しようというのが本書のテーマ

遊牧民を主役にすると、中国史に対する見方が180度変わってくる
最初の王朝とされる夏は、伝承や地理を見るに東南アジア系の住民が川を遡った“東夷”であるし、続く殷は始祖伝説から北方の狩猟民“北狄”で、さらに周は地理的に西方の遊牧民“西戎”であることは疑い得ないという
夏、殷、周はあくまで地域政権であり、最初に帝国を作ったのは秦王朝だった。しかし、この秦も地理、神話から遊牧民出身と考えられる
つまり、中国の王朝は最初から征服王朝だったというのだ
中国にやってきた遊牧民は中原に入ると同時に遊牧を止めてしまう。遊牧の生活は決して大きい集団を作れなかったからだ
遊牧民自身が帝国を作る転機となったのが、秦漢の統一王朝であり、元遊牧民が作った帝国が交易を仕切るようになったことから、遊牧民自身がまとまる必要が生まれ、最初の遊牧帝国“匈奴となる
“匈奴”の制度は、モンゴル帝国まで遊牧民のお手本となり、その行動はローマ帝国を崩壊させる引き金にさえなった

司馬遷『史記』において、漢帝国の正統性を確保するために、三皇五帝、夏-殷-周から漢に「天下」が引き継がれたとしたが、その論理も四世紀で破綻した
三国志を終わらせたが各地の遊牧民の前に滅亡し、彼らが覇者となったとき、過去の中国とはいえない地域にまで勢力が及び、正統のはずの晋の後継王朝は南の地方政権に成り下がったからだ
本書によると、皇帝不在となった317年に第一次中国は滅亡し、鮮卑族を中心とする隋唐が新しい中国を作る。この時点で字音すら、鮮卑基準で変わってしまったのだ
唐を成立させた太宗・李世民は、北方の遊牧民たちは「天可汗」(テングリ・カガン)の称号を贈ったといわれ、この時点で遊牧民のカガンと漢族の皇帝を合わせ持つ二重帝国が始まっていた
元朝が以前の王朝と違ったのは、中国の外に自分の権威の源泉を置いていたことで、モンゴル人たちは中国を地域のひとつと見なしていた
元朝は中国を追い出されてもモンゴルで命脈を保ち、清朝に正統性を譲る役割を果たした

記事では中国中心に触れたが、本書の視野はユーラシア大陸中にある
モンゴル帝国の前進を止めたマムルーク朝は、トルコ人つながりでモンゴルの軍制を見習ったし、オスマントルコも強い影響を受けた
インドのムガール帝国は語源そのままだし、ロシアも大公たちが17世紀まで朝貢を続けていた
目新しかったのは、女真族の金が世界で初めて不換紙幣を発行していたことで、それはモンゴル帝国に受け継がれ、資本主義の萌芽となったという
本書はやや遊牧民に肩入れした記述であるものの、彼らの文書が少ない反面、儒者による史書が偏向していることを思い合わせれば、これぐらいやらないとバランスが取れないとも思う
歴史に対する真摯なスタンスで、近代の国家、民族概念に囚われない大事さも問いかけられる、深イイ本だった


関連記事 『日本史の誕生』

遊牧民から見た世界史 増補版 (日経ビジネス人文庫)遊牧民から見た世界史 増補版 (日経ビジネス人文庫)
(2011/07/02)
杉山 正明

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『中国の歴史』 第7巻 陳舜臣

今の中国を考える前提

中国の歴史(七) (講談社文庫―中国歴史シリーズ)中国の歴史(七) (講談社文庫―中国歴史シリーズ)
(1991/04/05)
陳 舜臣

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中国五千年をたどった大著の最終巻。アヘン戦争から抗日十五年戦争までを扱う
清朝の斜陽と列強の帝国主義が重なり、アヘン戦争、太平天国の乱、アロー戦争、日清戦争、義和団の乱、これでもかと内乱と外敵の侵犯が起こり近代中国の苦悩が始まる
アヘン戦争以降の外国の圧力はまったくごり押しで、中国側からすればなんの名分もない
著者があえて中国側の非として指摘するのは、中国が対等の立場で他国と付き合おうとしてこなかったこと
ネルチンスク条約という前例がありながら、イギリスの使節に対し三跪九叩頭を要求するなどという錯誤を犯し、李鴻章の領土切り売り外交も外交音痴と手厳しい
現代中国はこうした経験と反省に踏まえて行動しているわけで、隣国を知る上でも、向こうから見た日本を知る上でも優れた通史と思う

著者が『阿片戦争』、『太平天国』、日清戦争の『江は流れず』と小説で取り上げた時代だけあって、細部に渡り検討されている
義和団については、反洋務派で西太后の信任を受けた毓賢が乱の前年、山東巡撫に任命されていて、暴動を起こした人々を“団練”に組み込もうとしていたという。もとから清朝の親衛隊として取り上げる動きがあり、北京に迫られたから公認したというような後ろ向きのものではなかったのだ
ただし、保守派内も割れていて、栄禄は公使館に空砲を撃たせたし、袁世凱は自分の任地から義和団を叩きだした
日清戦争の軍費流用云々は諸説あるにしても、義和団についての西太后の政治判断は責められてしかるべきものだろう
太平天国については、キリスト教と土着の信仰から生まれた“神がかり”で動く宗教集団と滅清復明を唱える伝統的な民族組織が結びついた反乱ながら、教祖の洪秀全は客家の出であり、同じく客家出身の革命家たちに大きな影響を与えたという

孫文など辛亥革命を起こした活動家の多くが日本に留学していたことは良く知られているが、時代の思潮だった共産主義の影響も大きい
そもそも辛亥革命の理念である「三民主義」のなかの、民生主義は共産主義を意味していたし、第一次大戦後は列強に失望しソビエトに傾斜していく
当時レーニンがとっていたネップ政策の精神を自分の民主主義と一致していると評価し、蒋介石をモスクワに派遣して赤軍の組織を学ばせそれにならった党組織を作り上げたという
その後の争いで国民党と共産党がイデオロギー的に相容れないように思えてしまうが、中共政府が成立する下地はここにあったのだ


前巻 『中国の歴史』 第6巻

阿片戦争(前) 陳舜臣中国ライブラリー (1) (陳舜臣中国ライブラリー)阿片戦争(前) 陳舜臣中国ライブラリー (1) (陳舜臣中国ライブラリー)
(2000/06/05)
陳舜臣

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『中国の歴史』 第6巻 陳舜臣

見逃されがちな明朝をチェック

中国の歴史(六) (講談社文庫―中国歴史シリーズ)中国の歴史(六) (講談社文庫―中国歴史シリーズ)
(1991/03/07)
陳 舜臣

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歴史小説の大家が書く、中国五千年の通史。第5巻では、明の永楽帝から清の乾隆帝までを扱う
『小説十八史略』の範囲が神話時代から南宋滅亡までなので、その後を押さえようと購入し積読になっていた(苦笑)
十八史略とは調子が違い、小説仕立てで面白い話を盛り込むのではなく、考証から妥当なところを探る書き方であり、文体は「ですます調」で純粋に中国史を紹介していく
士大夫の書く史書から立ち上げるので、宦官に辛口なところはあるものの、結果から凡夫、悪党と見なされた人々の業績、経緯を洗いなおして、失敗の原因を鮮明にする
明のラストエンペラー崇禎帝が暗愚というより頑張りすぎた独裁者で、簒奪者とされる李自成に新王朝の創始者になるチャンスがあった、という評価には驚いた

というと、華やかな唐・宋、グローバリゼーションを実現した元朝より、地味で停滞したイメージがあるが、本書で読むとそうでもない
永楽帝の世界帝国志向は鄭和の死によって終わるが、文化面では『四書大全』などが地方に配られ、官学である朱子学が浸透して科挙試験が全国化したし、王陽明によって陽明学(向こうでは王学)が生み出されて日本史にも大きな影響を与えた
『蒼穹の昴』乾隆帝とジョゼッペ・カスティリオーネの交流が描かれているが、1582年(万暦九年)にイエズス会が明朝に訪れていて、ポルトガルからは大砲を導入して満州族を苦しめていた
科挙の八股文といい、清朝は明朝の遺産のほとんどを引き継いで成立している

清朝に関しては、征服王朝としての性質を強調しやや辛口になる
作家という職業上、康熙帝から乾隆帝までにいたる表現の規制、弾圧には、断じてノーと言わざる得ないのだろう
康熙帝の『康煕字典』、乾隆帝の『四庫全書』には、清朝を明朝の後継者として正当化する狙いがあり、同時期に文字の獄と呼ばれる大弾圧があって多くの文人が投獄、死罪となった
「清濁」という言葉は詩の韻の都合で「濁清」としたら捕まったという事例もあり、単に政治的事情だけでなしに、下手に漢人の文化を知ってしまったばかりの劣等感の裏返しように思える
全盛期と呼ばれる乾隆帝に対してはボロクソで、遠征の成功は先代までのお膳立てがあってのことであり、ジュンガル遠征に際し『蒼穹の昴』にもでてきた将軍兆恵が部族を虐殺したことを紹介している
人物本位ではあるものの、全盛期の裏に紛れる罪、衰退期に隠れた功を取り上げる大著である


次巻 『中国の歴史』 第7巻
関連記事 『蒼穹の昴』 第1巻・第2巻
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『紫禁城の黄昏』 レジナルド・フレミング・ジョンストン

訳者のあとがきの充実から、岩波でよいかと

紫禁城の黄昏 (岩波文庫)紫禁城の黄昏 (岩波文庫)
(1989/02/16)
レジナルド・フレミング ジョンストン

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清朝最後の皇帝宣統帝溥儀の家庭教師を務めたイギリス人ジョンストンによる、溥儀と紫禁城の回顧録
ジョンストンは大英帝国の官僚で植民地経営や中国との折衝に関わっており、清朝が国民党政府によって終わったあとの1919年に紫禁城に入り、溥儀が紫禁城去る1924年までを、一人の清朝関係者として描いている
訳者のあとがきによると、原書は前半に変法運動から滅亡までを振り返った一~十章と、変法派の評伝などもあったが、文庫にするにあたって割愛されている
前身は植民地官僚であり、家庭教師になってからは王朝の価値観に浸かった著者は、決して客観的な観察者ではないし、政治色の濃さから観察記として成立する部分だけ選んだのは正解だろう

『蒼穹の昴』を読んだあとだと、どうしても種本として見てしまう
たとえば、西太后の使っていた宮殿のひとつに、乾隆帝が最後に過ごした宮殿があり、そこにはただ山があって皇帝は瞑想をしていたという。小説では、西太后がそこで乾隆帝の亡霊に伺いを立てる場所に使われていた
また、康有為に対する梁啓超の弔辞として以下の言葉を紹介している

「新中国の歴史を書こうとする者は」と梁啓超は述べている。「その第一章として、一八九八年の事件以外のものを据えることはできない」。本書を書くにあたって、私はその示唆にしたがった。(p426)

『蒼穹の昴』に始まる浅田次郎の中国サーガはおそらく、この言葉に規定されていると思う
清朝が滅亡したあとに紫禁城で皇帝を温存したのは、北京の国民党政府が立憲君主制の余地を残す意図があるようで、イギリス人のジョンストンは紫禁城を立憲君主の宮廷に啓蒙すべく家庭教師を務めていた
立憲君主制の日本人としてはイギリス人の活動を目を細めて見てしまうが、こうした考え方は現実の中国ではずっと少数派で現実味のないものだったことを抑えておかなくてはいけない
立憲君主制へのはかない夢が本書の醍醐味といえる

そうした著者の偏向を抑えて読めば、面白い観察記だし、一人の人間が自由を手にする物語に読める
皇帝の側室がなくなったら、それに仕えていた宦官が遺品を勝手に懐に入れる習慣とかはにわかに信じ難い話もあれば、ある事業に予算をつけるといろいろと口を出して賄賂をとり末端に行くとバカみたいな金額になっているとか、日本のテレビ制作や原発の下請けに通じるような身近な社会問題もある
中国の軍閥の駆け引きなど、著者の立場から真に受けられないが、満州を独立させる構想など興味深いものがある
各方面に大きな影響を与えている古典であるので、訳者のあとがきをしっかり読んで当事者の証言として付き合おう


関連記事 『蒼穹の昴』 第1巻・第2巻
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『大清帝国』 石橋崇雄

清朝のイメージが変わる一冊

大清帝国 (講談社選書メチエ)大清帝国 (講談社選書メチエ)
(2000/01)
石橋 崇雄

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女真族の一部族がいかにして、中華世界に君臨したか。現代中国を規定した巨大王朝の全貌に迫る
清朝というと辛亥革命の文脈から征服王朝」の烙印を押されがちである
しかし、現実の中共政府は清朝の領土・構造を引き継いでおり、本書では清朝を既存の華夷秩序を超越した世界帝国として捉え直し、ヌルハチからホンタイジ、順治、康熙、雍正、乾隆までの発達と変遷を辿っている
清朝の特徴を為すのが八旗制だが、ヌルハチの代から漢族、モンゴル族の八旗が存在していた
マンジュ国時代から多民族国家として始まっているからこそ、漢族やモンゴルを上手く扱いながら、満州族のアイデンティティを保つことができたのだ

清朝が「征服王朝」といえないように、明朝も「漢民族の王朝」と言い切れない
そもそも漢民族の定義が政治・文化概念であると同時に、明朝自身が特に永楽帝に代表されるように元朝を引き継ぐ意識を持っていた。朱元璋ですら、漢族と非漢族を「一視同仁」するとしていた
しかし、明朝は北京を首都にしたものの、モンゴルを取り込むことができなかった
清朝は明朝の構想を受け継ぎ、モンゴルを包括した世界秩序を作り出したといえるのだ
新しい世界帝国を完成できた理由は、マンジュ国が持っていた柔軟な八旗制民族ごとに三つの顔を使い分けたことだ
満州の八旗に対しては満州族の首長(ハン)として、モンゴルに対してはモンゴルのハンとして、漢民族に対しては天命を受けた皇帝として振舞った

八旗は王朝成立後に役人化が進むものの、元はそれぞれ皇族に仕える旗人であり、中国では宋代で絶滅した貴族階級であった。皇帝と皇族も君臣ではなく肉親の関係であり、皇帝でも無視できない存在だった
満州族の慣習で生前に皇太子を立てることが許されず、中国を統一した康熙帝ですら取り消しを余儀なくされた(雍正帝のときに後継指名を死後公開にすることになる)
立太子がないことで皇族はお互いを切磋琢磨することになり、有能な後継者を生むことができた
宦官を重用しないなど、満州族の習慣を持ち込むことで従来の王朝が持っていた弊害を押さえ込むことができた

しかし、ハイブリッドな帝国を維持するのも容易ではない
満州族の風習を維持したまま、漢皇帝を演じるために苛烈な思想統制も必要になり、辞典が編まれるともに焚書も行われた
『蒼穹の昴』では亡霊で活躍した乾隆帝も、本書ではケチョンケチョンである
周辺国を畏服せしめる「十全武功」も異民族を「藩」(従属国)して安全保障上、世界帝国として完成させたものの、国庫はすっからかんになり国力が衰える契機となった
また、晩年に和珅という官僚を猫可愛がりしたり、汚職を蔓延させた
親の代までで内政面の課題にめどがついたから、鬱屈してしまったのだろうか
清朝の「八旗・漢・藩」の構造は、例えば「藩」が「民族自治区」という形で中共政府に引き継がれている。「八旗=党員」「漢=人民」と当てはめるのは少し強引?
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『宦官―側近政治の構造』 三田村泰助

新書や文庫で何度も再版されているようで

宦官―側近政治の構造 (中公文庫BIBLIO)宦官―側近政治の構造 (中公文庫BIBLIO)
(2003/03)
三田村 泰助

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宦官は王朝政治の中でいかなる役割を果たしたのか。政治に介入する宦官の視点から、歴代の中国王朝を振り返りその実態に迫る
『蒼穹の昴』のつながりで、積み読から手にとってみた
第一章に宦官の起源や去勢の仕方に触れられていて、手術の具体例として清朝に滞在した英国人ステントの記録が上げられている
その内容はほぼ『蒼穹の昴』で描かれたものと同じで、阿片を含ませながら手足を縛り意思確認してから去勢にいたる。刑罰なら玉だけの例もあったようだが、宦官となると竿も玉もとる完全去勢が求められた
小説では危険な手術とされていたものの、ステントの記録によれば見かけが野蛮なわりに言いつけさえ守れば生存率が高く、長い伝統で去勢の技術も洗練されていたようだ
本書はこうして生まれた宦官の実生活、皇帝との関係に触れつつ、後半には宦官と各王朝の因縁を洗い直し、ほぼ健常な士大夫によって綴られた史書とは違う中華帝国の姿を映している
軽妙な語り口で「ホンマデッカ!」と思う逸話も折り込みながらも、要所を押さえた不思議な通史となっている

『三国志』十常侍など、歴史物で悪役を演じることが多い宦官だが、本書では中国王朝の国制から必要不可欠な身分とする
前漢の高祖からして、晩年は宦官の膝枕で昼寝をしていたと言われ、孤独な専制君主にとって安らぎを与える存在だった
また下層階級からすると、宦官は去勢するだけで立身出世が図れる手段であり、建前はどの身分でも資格がある科挙試験より現実的な目標だった
宦官たちの中には政治を差配できる有能な者もけっこういて、士大夫階級の反感を買う
しかし、士大夫たちは儒教を学ぶ知識人階級であり、そうした儒者の建前論を補う存在として俗物論者の宦官が必要とされたようだ
前漢が儒者のクーデターで倒された反省から、後漢では外戚と宦官が早死の皇帝を担ぐスタイルとなり、宦官は養子をとって家系を残すことが許された
後漢後期では清流官僚は絶滅状態となり、宦官やその類縁の家系が幅を利かすこととなる
末期において宦官殲滅をかかげた大将軍何進は妹を宦官に皇后にしてもらった屠殺業者であり、袁紹の父は外戚・梁氏の腰巾着で有力宦官から同姓のよしみで引き立てられた宦官派貴族だった
宦官を義理の祖父に持つ曹操には、出来の悪いブラックジョークにしか見えなかっただろう

唐代は中国史上珍しく儒教の地位が低く、怪しげな仏教などが広まって多様な宗教・思想が蔓延していた。その影響で君臣の関係が薄弱になり、軍隊を持った宦官が自立化しロボット皇帝を擁立する事態が続出した
その反省かモンゴルを北に追いやった明朝では、宦官に儒教を教える学校が設立され、士大夫と丁々発止のやりとりができる宦官官僚が生まれた。秘密警察である東廠の統制も相まって、宦官が皇帝に歯向かうこともなくなったという
著者は宰相制を廃止したことで皇帝の負担が増え、縦割りの官僚たちに丸投げすることを衰退の原因に挙げるが、俗物の宦官が儒教観念を身につけたために、すべての階層に儒教が浸透し相対化できる存在を失い、自閉的な政治環境が生まれたこともあると思う
初出が昭和38年であり若干、男尊女卑な表現は残っているが、宦官を一人の人間として扱うのは先駆的で、中国王朝の意外な側面を紹介してくれる名著である
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『世界史とヨーロッパ』 岡崎勝世

バレンタインで貰ったチョコは、パチンコのイベントだけという・・・

世界史とヨーロッパ (講談社現代新書)世界史とヨーロッパ (講談社現代新書)
(2003/10/20)
岡崎 勝世

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高等教育にも使われる「世界史」とは、どのように創られてきたのか。古代ギリシアのヘロドトスから、中世の聖書を基とした「普遍史」、啓蒙主義時代からロマン主義時代に成立した「科学的世界史」、マルクス、ウェーバーを経て、ウォーラーステインまで、世界史の変遷を見ていく。『聖書vs.世界史』の姉妹本

積まれた本を開いて見てびっくり。線がびっしり引いてある。すでに一度読んでいた本だったのだ
内容は古代から近代、現代までの「世界史」の価値観を俯瞰するもので、同じ著者の『聖書vs.世界史』と被るところもある
しかし、力点は「普遍史」と「世界史」の対立ではなく、「世界史」の変遷、その裏にある価値観の変遷に置かれているので、より高い視点から時代の要請によって再構成されていく「世界史」を眺めることができる
歴史研究にまつわることだけでなく、その時代の出来事や価値観の変化も手短にかつ正確に書かれていて、軽いヨーロッパ通史・思想史としても読むことができた
個人的には、啓蒙主義とロマン主義の関係が整理できたのが有り難い

キーワードの一つが、「時間」の概念の変化
古代では農耕の経験から生まれた「循環的時間」、中世では聖書に影響された創造から終末への「直線的時間」、近代ではニュートン的時間である「始点と終点のない直線的時間」が支配的となる
なので、古代では半ば実在とみなされていた文明が、中世では世界創造前であるとして否定され、近代において再発見されるという事例があったりする
冒頭に著者は言う

歴史は「現在と過去の対話」だといわれ、ここから、必然的に「歴史は書きかえられる」といわれる。「現在」そのものが変化し、その「現在」から行われる「過去」への問いかけも、解答もまた変化するからである。・・・(p3)

その時に求められた価値観によって、同じ歴史でも違った評価が下され、再発見されたり埋もれることもある
「世界史」の歴史が物語っているのは、時代が進むごとに真実が明らかになるということではなく、その時代の要請で歴史像そのものが書き換わるということなのだ

時代ごとに満遍なく取り上げられているので、それぞれ読み応えがあった
古代ギリシャの歴史観が、西=文明、東=野蛮という近代のオリエンタリズムにまんま影響しているのには、笑ってしまう
現代の「世界史」は、「理性」による「世界史」に取って代わった、「科学」による「科学的世界史」
ロマン主義の国民主義マルクスの史的唯物論、それに影響されたマックス・ウェーバーの古代論が、いまだに強い影響力を持っていて、教育における世界史の基となっているのだ
最後に取り上げられるウォーラーステインは、ほぼ1ページのみの軽い紹介に終わる
もう少し、最近の歴史学のことも取り上げて欲しかったかな

関連記事 『聖書vs.世界史』
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