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『河内源氏 頼朝を生んだ武士本流』 元木泰雄

源平合戦だけで語れない中世史



鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝を生み出した河内源氏は、いかに平安時代を渡り歩いたか。武士の保守本流の歴史を読み解く

大河ドラマのときに読んどきゃ良かった(苦笑)
河内源氏とは、清和天皇を源流とする源氏のなかでも、武門を代表する存在として源頼信を祖として河内国(現・大阪の一部)を根拠地とした一族
本書では清和天皇の孫にあたる源経基に、その子・満仲から源氏武者の発祥をたどり、平治の乱によって一度滅するまでの栄枯盛衰を取り上げる
強調されるのは、源氏が“武家の棟梁”と言われつつも、その力の源泉は朝廷ならびに摂関家とのつながりによるということ。河内源氏と言われるように、畿内を基盤とする“軍事貴族であり、親戚には摂関家のライバルとなったような権門もあり、国司の代わりに現地の問題を解決する受領」の地位をもつ四位・五位に位置していた
坂東武者とのつながりは、古くからあったものの、その代表者となるのは源頼朝からで、だからこそ革命的な存在といえる

清和源氏の祖である源経基は、平将門と藤原純友の乱に参加しながら功を挙げられず、皇族としての政治力で官位だけは確保した
武家としての基盤を築いたのは、その嫡子・満仲から。安和の変で、醍醐天皇の第十皇子である左大臣・源高明の失脚に加担し、摂関家と太いパイプを築き、武門の最高位である鎮守府将軍に上り詰めた
満仲の長男・頼光と三男・頼信は、摂関家の絶頂を築いた藤原道長の覇権に協力。頼光摂津国を根拠地に、東国への玄関口である美濃を抑えて、子孫に多田源氏、美濃源氏を残す。荒々しい頼信は、東国で平忠常の乱を平定して、源氏と関東の縁を築いた。この頼信が河内源氏の祖となる
面白いのは、その子の源頼義桓武平氏の嫡流である平直方から嫁をもらい、鎌倉の地とその郎党を引き継いだこと。この頃の平家は、土着した平家である平忠常の乱の鎮圧に失敗し、源氏と明暗を分けていた
後に頼朝が頼義の故事を踏まえた鎌倉入りも、元は桓武平氏から譲られた土地であり、武士の争いを源平合戦で見ていくと実態から離れていくのだ

高評価を受けた源頼義であっても、まだ坂東武者を動員できる立場にはなかった前九年の役には、安倍氏の抵抗に苦戦し、出羽の豪族・清原氏の大軍がなければ勝利できなかった
後三年の役での源頼家は、朝廷から私戦と見なされたことから、奥州藤原氏が成立したことを見守ることしかできず、絶大な名声を得ながらも官位は頭打ち状態となった。そして、頼家の嫡子・頼親は素行の悪さから都を追放され、後に反乱を起こして一気に河内源氏は没落
河内源氏は摂関家とのつながりが強かったため、白河法皇に始まる院政の時代に退けられた側面があり、頼親の子・為義の代に駆け上がる平家の嫡流・平忠盛(清盛の父)とは立場が逆転してしまう

為義の息子・義朝母が白河院の近臣であり、為義が摂関家を優先させたせいか、廃嫡同然で東国の安房国(現・千葉の一部)へ下向する
そこで源氏の貴種として見出され、豪族間の調整役として常総氏、三浦氏、千葉氏といった坂東武者に認められる。院と関係の深い熱田大宮司・藤原季範の娘と結婚して、検非違使の父・為義を超える「受領」就任を果たした
保元の乱では、摂関家の藤原忠実・頼長父子についた為義に対して、義朝は妻の実家のつながりから後白河天皇の旧院政派について、父と兄弟を処刑することになった
大きく貢献した義朝だったが、もともと高い官位をもつ平清盛との差は埋まらず、保元の乱の首謀者だった藤原信西も平家を重視してしまう

そこで平治の乱では、反信西派によるクーデターに乗り、藤原信頼が二条天皇と後白河上皇を確保して、義朝は播磨守頼朝は天皇の側近となる右兵衛佐と異例の出世をした
しかし、義朝は河内源氏を継ぎながらも、その勢力圏は東国。天皇と上皇が脱出すると、西国と畿内で動員できる平家に抵抗できず、義朝は落ち延びた先で討ち取られてしまう
同じ源氏でも、多田源氏の源頼政は以仁王に巻き込まれるまでは、平家政権下で生き延びたし、義朝の嫡子・頼朝熱田神宮という母の実家、上西門院(後白河天皇の姉、准母)の蔵人というつながりから生き延び、他の兄弟たちの多くも助命される
平治の乱は摂関家の内紛、私戦とみなされたことから、保元の乱ほど処分は厳しくなかったそうだ
本書は源氏、平家、天皇家、摂関家と複雑に入り乱れた血縁と人間関係を細かくたどって、公家対武家という二項対立、教科書的な史観を退け、時代が進むごとに分離し専門化していく構図を導き出している。また、皇族も武家も主がなくなると、その未亡人が廃嫡の権利まで握るという(北条政子が好例)、武家でも母系社会ならでは習俗が残るのも興味深かった


保元・平治の乱を題材 → 『後白河院』(井上靖)

前九年・後三年の役を題材 → 『炎立つ』(高橋克彦)



『敗者の日本史 治承・寿永の内乱と平氏』 元木泰雄

政治家としては後白河法皇が上



全盛を極めた平家はなぜ、滅んだか。通説を覆す、敗者から見た源平合戦の真実

負けに不思議の負けなし。負けた方からその原因を探る「敗者の日本史」シリーズの源平合戦の巻
本書では、平家が興隆する保元・平治の乱からその軍事体制に着目。その後の、後白河院政下の平氏政権鹿ケ谷事件をきっかけに成立する清盛独裁体制、源氏蜂起後と急変する情勢に、どう対応していったかを見ていく
また、平家内の血縁関係と後継者争いを取り上げていて、当初は一番手と目された長男・重盛だったが、継母・時子の娘・徳子(建礼門院)高倉天皇の皇子を生んだことで、時子の息子・宗盛が急浮上。平氏政権内で派閥と緊張が生まれだす
そして、平清盛の弟で、公家として独自路線を歩んだ頼盛の存在など、けっして一枚岩ではない平家一門の実態がうかがえる

平安時代における武家は、公家に従属する存在であり、五位以上の者が「貴族」と見なされて様々な特権を許され、所領を権門に寄進して、その家政のなかで行動していた。特に畿内(今の近畿圏)における、こうした武家を「京武者と呼ばれ、その地域内にしか影響力を持たなかった
平家もそうした存在のひとつであったが、反乱の討伐などを通じて、伊勢や伊賀の武士団と結びつき「家人とした。この伊勢・伊賀の「家人」こそが、平家の力の根源となる
保元・平治の乱において、清盛が優位に立てたのは、源氏が頼家以降に各地に分散していったのに対し、平家が父・忠盛の代までに伊勢平氏へ力を結集できたからだった
そして、それ以降は後白河法皇を中心とする朝廷の後ろ盾で、各地の武士を「かり武者」として動員し、主力の「家人」への後詰めとする体制で勢威を強めた

しかし、この盤石にも見えた体制が、源頼朝の挙兵によって覆されていく
頼朝は反乱軍という立場からスタートしたことで、現地の武士と朝廷の権威に寄らない関係を構築「所領安堵」と敵対者の所領を分配していく形で、頼朝に恩ある「家人」が急速に増えていった
対する平家は、鹿ケ谷事件から後白河法皇を幽閉したことで、「かり武者」を動員する力が低下し、関東の有事のために送り込んだ「家人」たちも、初動を抑えられなかったことで各個撃破された
その影響がモロに出たのが富士川の戦いで、先鋒であった地元の「家人」たちが壊滅したことで、「かり武者」だらけの追討軍に勝機はなかった
そして、京都を支える食糧源である北陸が木曽義仲に制圧されると、都を追われることとなる

「平家にあらずば、人にあらず」。そんな言葉と裏腹に、平清盛の力は絶対的ではなかった
皇室の実質的リーダー‟治天の君”である後白河法皇の政治力は強く、いわば二頭体制で平氏政権は安定していた。そのシンボルともいえる存在が清盛の長男・重盛で、平家の武門の中心として法皇の信任も厚かった
しかし重盛が病死し、後白河法皇が幽閉されると、事態は一変。法皇の所領の武家たちは頼朝に駆け込む、重盛に恩のある「家人」たちも源平の争いを静観
特に平家子飼いのはずの伊勢・伊賀の「家人」たちは、一の谷の合戦後に季節外れの反乱で鎮圧されるなど、その武力を源氏との決戦に生かせなかった
本書では軍事、政治判断、血縁・利害関係など多岐に渡って平家の敗因を分析し、結果論からではない具体的な原因を明らかにしてくれる。頼朝の斬新な新体制に朝廷の権威に頼る体制が陳腐化したこと、清盛死後に平家を束ね切る指導者がおらず、各派閥に力が分散したことが大きかったようだ

『頼朝と義時 武家政権の誕生』 呉座勇一

鎌倉アウトレイジ



いかにして鎌倉幕府が作られたのか。頼朝・義時のリレーから武家中心の時代への変遷をたどる

ちょうど大河ドラマと近い内容だな、と思ったら、時代考証を担当してらしたのだった。某騒動が起きるまで
この前読んだ本が武士の実態を描くものなら、本書は政治のレベル、豪族たちの権力闘争から歴史の流れを読み解くものだ
当時の武士たちが絶えず紛争の種を抱えていた。関東の武士たちが伊豆の流人だった頼朝を担いだのは、平家のもとに伸長した豪族と軋轢を抱えていたからで、源氏恩顧というロマンではない
紛争が起これば勝ち馬に乗り、負けた豪族の領土を奪い取って自分の勢力を伸ばしていく。そんな血なまぐさい武士たちを、頼朝は血筋とカリスマをもって操縦して‟武家の棟梁”という地位を確立し、北条義時はその権威を‟幕府”という組織に移し替えて、全国の武士を統率することに成功したのだ

なぜ頼朝の挙兵は成功したのか。石橋山の合戦で10倍の敵に包囲される劣勢でありながら、安房に逃れるや平家方を圧倒する軍勢を手にするに至った
早くから連絡を取り合っていた三浦氏、平家方と競合関係にあった千葉常胤、上総広常が合流したからだが、そもそも平家の統治体制に限界があった
平治の乱で勝利した平家は、源義朝の勢力を関東から払拭すべく、自家の家人を送り込んで地元の有力者を圧迫したが、家人たち個々の武力は高くはない
頼朝という反抗のシンボルとなる人物が現れるや、家人たちが束になっても勝ちようがなかった
中央から討伐軍を送り込もうにも、上方から関東は遠く費用は莫大。結局、現地の家人が主力とならざる得ず、討伐軍はあくまで予備兵力、後詰なのだ
なので、富士川の戦いでの平家方は数の上でも劣勢で、悲観的にもなる状況だった
その敗戦は平家の武名を失墜させたが、他の局地戦では勝利も多く、平家の武士が弱いわけではない。木曽義仲の上洛が成功したのは、平家当主・宗盛が泡食って逃げたたためで、後白河法皇を確保できないという致命的ミスが祟ったのだ

頼朝が奥州合戦に勝利して、ようやく日本に平和が訪れた……と思いきや、ここから陰謀とクーデターの第二ラウンドが始まる
頼朝は若い後継者・頼家の世のことを考えて、弟・範頼などの‟鎌倉殿”になりうる存在を粛清し、自身の乳母・比企尼の一族比企氏と、妻・政子の北条氏を中心とした体制をはかった
しかし頼朝死後、二代将軍・頼家が執務を取り始め、比企氏の力を持ち始める。焦った北条時政は、頼家が病気になったときにクーデターを決行するのだ。俗に比企の乱と呼ばれる政変は、幕府の正史『吾妻鏡』では比企氏が頼家に時政の謀反を訴えた形になっているが、天台宗の僧・慈円の『愚管抄』によると嫡子・一幡への相続を決めた頼家に時政方が蜂起。なんと、比企能員とその一族、そして将軍の息子・一幡を殺したことになっている!
病状が回復した頼家は怒り心頭だが、後ろ盾がいない状況ではいかんともしがたく、母・政子に従って出家するしかなかった。後に北条方の刺客に殺されている……
この「比企の乱」において、北条義時北条宗家の後継ではなく、正室を比企氏から迎えるという複雑な立場で迎えており、この父の横暴をどう描くか、ドラマが楽しみだ

幼い第三代将軍・実朝のもとに、成人まで限定の「執権」のような地位についた北条時政だったが、後妻・牧の方との嫡子・政範が急死すると、北条氏の後継に義時が再浮上。ここから時政は畠山義忠を冤罪で処断するなど人望を亡くし、源氏一門の平賀朝賀を将軍に担ごうとした牧氏事件によって、政界から完全に追放される
ここでようやく、政子-義時のラインが主導権をとる。頼朝以来の所領を保証した半面、有力御家人を抑圧し、1213年には和田義盛を反乱に追い込んで、鎌倉の政庁が焼ける大合戦を制している

義時と政子は男子のいない実朝の後継者として、後鳥羽上皇の皇子を迎える親王将軍構想をぶちあげ、実朝と上皇の了解のもとに進めていたが、ここで1219年1月、実朝暗殺事件が発生!
親王の代わりに頼朝の遠縁にあたる摂関家の藤原頼経(当時1歳!)を、次期将軍候補として下向することとなった。この権力の空白を、政子が「尼将軍」として‟鎌倉殿”を代行し、義時が支える「執権体制」が誕生した
実朝暗殺による幕府の動揺は、後鳥羽上皇の倒幕計画をそそり、1221年に京都の幕府派粛清と義時追討の院宣が発布されたが、機敏な上洛作戦により承久の乱」は幕府方の勝利に終わり、武家が‟治天の君”である後鳥羽上皇を配流し、天皇を譲位させるなど、それまではありえない朝廷へ過酷な戦後処理がとられた
朝廷の武装解除と皇位継承者の決定、さらに六波羅探題という京都の統治組織まで整えられ、ようやく「武家の時代」を決定づけたのである
本書では朝廷と武士は二項対立の構図ではなく、それぞれが権威と実力を利用し合う関係として描かれ、かなり臨機応変に動いていたことが分かる。本書の史観は大河ドラマにも強く反映されているようで、義時と三浦義村との友情にその片鱗がうかがえる

『源平合戦の虚像を剥ぐ』 川合康

大河、あっという間に平家滅んだなあ



講談で彩られた鎌倉武士の実態はどうだったのか? 頼朝の幕府構想とともにひも解く

ちょうど、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で盛り上がっているので、積読から取り出した。渋沢栄一の轍は踏みたくない(苦笑)
本書は『平家物語』に、『吾妻鏡』といった正史や当時の史料を合わせて検討することで、源平合戦期(治承・寿永の乱)の武士の在り様を求め、それを束ねようとした源頼朝の構想を検討するものだ
西洋馬に比べて背丈の小さい日本馬で、いかにして騎馬戦が行われたか、なぜ優勢であったはずの平家が敗れ去ったのか、源頼朝が「大将軍」にこだわった理由はなんなのかを解き明かしていく
既存の年表では分からない、生々しい武士と指導者たちの姿が浮かび上がってくる

日本馬が西洋馬より小柄で、騎馬武者を乗せての突撃などそうできるものではない。人と武具を合わせて90キロの重量を背負うわけで、乗り手はかなり気を遣って馬を使わないと、振り落とされたり、馬が消耗して使い物にならなくなる
なので、騎射の技術はかなり高度なものであり、幼い頃から仕込まれた「軍事貴族」でないと扱えないものだった
軍事貴族」とは、都で地位を築いた源平両家を中心とした家門であり、上方から遠い関東の武者たちはけっして得意とはいえなかった源氏と関東武者が戦が強く、平家が弱いという先入観は実態とは違うのだ
それでいて平家が敗北したのは、源氏側が本来は武士とはいえなかった者たちを動員したこと。それにより保元・平治の乱に比べて、動員される人員は大規模化して合戦の質が変わった
さらに平家は朝廷の権威をもとにしたことで、武士に対する所領の保証はあくまで朝廷に由来するものになり、平家への御恩にはならない。当時の武士たちは一番威勢のいい側につく傾向があり、裏切りという観念はなく、落ち目になればあっという間に離れていくのだ

それに対して頼朝は反乱軍からスタートしたことで、朝廷の権威に頼らずに武士たちへの裁定を決めねばならかった
その拠り所としたのは、源氏の‟貴種であること。前九年の役で安倍氏を滅ぼした源頼義の後継者であることを意識し、源氏の棟梁の証として受け継いだ甲冑「源太が産衣」名刀「髭切」をまとった。鎌倉入りもかつて鎌倉が頼義の所領だったことを踏まえた行動だった
実際のところ、頼朝と同等の頼義の子孫はいたことから、その権威の確立に苦労したのは大河ドラマの通りなのだ
反乱軍状態の頼朝は、従わない御家人を実力で成敗し、朝廷を通さずに没収した領地を分配していく
教科書では、義経追討を口実にして全国に守護・地頭職を置いて全国支配を確立したように言われるが、実際は平家についたり非協力的だった者の所領を没収して、地頭を置いたもので、西国には鎌倉の手の及ばない地域は残されていた
実際に幕府が全国化するのが、奥州藤原氏を討伐する「奥州合戦で、九州までの御家人を動員した他、平家方について領地を召し上げられた武士にも復帰のチャンスが与えられて、中世としては空前の規模の大軍が編成された
この「奥州合戦」においても、頼義の故事は忠実に再現され、最後の当主・藤原泰衡の首は、かつての安倍貞任と同じ流儀でさらされたという
源頼朝は実のところ「征夷大将軍」そのものにはこだわっていなかったが、「大将軍」であることにはこだわった。それも奥州藤原氏が「鎮守府将軍」を代々、任命されていたからで、武家の最上位として「大将軍」の官位につくことがのぞましかったのだ
また‟将軍”は有事において、朝廷の指示を受けずに独断で処罰を下してもいいと解釈があり、幕府の法的根拠として都合が良かった
頼朝の「奥州合戦」は、近世における大坂の陣と重なるところがあり、天下統一の総決算に利用しつくすところは、偉大な先例になったといえるのだろう

『にっぽん裏返史』 尾崎秀樹

いろんな俗説がぶった切られる



歴史上のヒーローとアンチヒーローはいかに作り上げられていったか。民衆が膨らませていったフィクションの形成過程を追う

有名人から知らなかった人まで興味深い話ばかりが乗っていた
冒頭には著者と作家・海音寺潮五郎、歴史学者の奈良本辰也の鼎談があって、歴史作家と学者の違いが語られる。ほぼ海音寺の独演会であり、「日本人は女性的民族」とか今では叩かれそうな言葉がとびかっていたが、本編は真摯に史実と伝承の関係を追うものでホッとした(笑)
俎上に上げられるのは、有名どころで西郷隆盛、遠山の金さん、平賀源内、由井正雪、松尾芭蕉、水戸黄門、豊臣秀頼、宇喜多秀家、源義経、源頼朝、弓削道鏡。その他、台湾遠征で没した輪王寺宮、幕末尾張藩の粛清「青松葉事件」、加賀藩で密貿易を担った銭谷五兵衛、加賀騒動に散った大槻伝蔵、将軍吉宗の落胤を称した天一坊事件の真相などに分け入っていく
初出が1989年であり、研究が進んでしまっているものもあるだろうが、こんなことがあったのかと驚かされる小ネタ集……いや小ネタといえないほど、各章が充実している一書なのだ

驚かされたのは、北白川輪王寺宮のこと
北白川能久親王は、伏見宮から仁考天皇の猶子となった後、江戸の上野寛永寺へ下って、寛永寺貫主・日光輪王寺門跡を継承する。輪王寺門跡比叡山の天台座主を兼務することもあったことから「東比叡」ともいわれ、都で天皇を奪われたときのために独自の皇統を確保しておく幕府の戦略といわれる
実際、こうした立場は親王を幕末の争乱へ巻き込んでいく
幕府が鳥羽伏見に敗れ薩長の東征軍が来たさいは、駿府城で東征大総督の有栖川宮熾仁親王慶喜の助命と東征中止を訴えて断られる。その後、彰義隊が寛永寺に立て籠ったさいには官軍へ走らずに、榎本武揚の軍艦に乗せられて会津征伐に反対する奥羽越列藩同盟の盟主となる
同盟内部では、同盟の「天皇」に推戴された可能性があり、アメリカ側に「東武皇帝」と伝えられていたのだ
戊辰戦争直後は身分のはく奪と蟄居処分を受けたものの、明治2年には伏見宮に復帰し、イギリス、プロイセンへ留学。陸軍軍人としての教育を受けて、明治26年には師団長に
明治28年、日清戦争の結果で割譲された台湾への征討軍に参加する。台湾では、劉永福ら清朝の軍人が「台湾民主国」を宣言して激しく抵抗し、過酷な環境から能久親王はマラリアに罹り、現地で亡くなってしまう。ゲリラの銃撃を受けた傷が死因という噂すらある
なぜ、皇族が掃討戦という「汚れた戦争」に加わる羽目になったのか。著者はそこにかつて「逆賊として担がれた負い目があったのでは」と推測する

ちょうど『炎立つ』の最終巻を読んでいるところなので、義経生存説が気になった
義経生存説(義経北方伝説)が起こる原因は、奥州藤原から送られた義経の首が、頼朝が実検するのが遅く腐食したといわれること
古くから伝えられるものなのだが、ブームとなるのが蝦夷地(北海道)への関心が高まった時。江戸時代には1669年のシャクシャインの戦いから関心が高まり、18世紀に幕府が蝦夷地経営に積極的になると義経生存説は、アイヌの人文神オキクルミとの同一視を生み、義経神社が創建されアイヌの同化政策に利用された
明治になってもブームは続き、大正時代には、小谷全一郎の『成吉思汗ハ源義経也』がベストセラーに。アカデミズムで否定されたトンデモ説は、大陸進出の機運が高まる時代に全国へ広まったのである


関連記事 『炎立つ』 第1巻

『アイヌ学入門』 瀬川拓郎

そろそろ『ゴールデンカムイ』も読まねば




アイヌというと、蝦夷地と呼ばれた北海道の狩猟生活をもっぱらとする先住民で、本土人に浸食された可哀そうなマイノリティ。そんなイメージが広がっている
本書は、そんなステロタイプのアイヌ像を覆していく
帯にある「海のノマド」という表現には語弊があるが(苦笑)、アイヌはひとつの地域に住み続けた閉鎖的な民族ではなく、長い歴史のなかでいろんな民族、文化と交わりつつ、独自の文化、アイデンティティを築いてきた
古代の昔から、北海道を中心にサハリン、千島列島、本土の東北・北陸に渡る人々の交流がアイヌの歴史に刻まれているのだ

アイヌのルーツと考えられるのは、和人(本土の日本人)と同じく縄文人。縄文土器で知られる縄文文化の範囲はほぼ現在の日本の領土と重なる
縄文時代において、琉球列島、北海道においても他地域の影響は見られず、独特の文化が発達した
朝鮮半島から弥生人が渡来し、縄文人を征服、同質化するなか、弥生文化が到達しない東北、北海道で縄文文化の伝統を保ったのが、古代アイヌだそうだ
琉球列島も事情は同様で、アイヌと琉球には入れ墨を施す文化があり、近代にいたるまで女性の入れ墨は大人になった証とされていたなど、共通点も多い
本土で律令国家が固まっていくと、それに服さぬ東北の民は「蝦夷(エミシ)と呼ばれたが、アイヌと弥生人が混交した人々と考えられる
アイヌが一つの国家は作らないまでも、サハリン、千島列島へも移住し、サハリンでは大陸から渡ってきたオホーツク人と接触する
オホーツク人から大麦の農耕を取り入れ、時には争って大陸の沿海州まで遠征した。いわば、日本版ヴァイキング、北海の倭寇ともいうべき活発な時代があったのだ

中世以降もアイヌは活動的で、本土との交易も盛んだった
アイヌの衣服のなかでも、アットウシと呼ばれる樹皮衣(オヒョウという木の繊維で編む)は漁師の労働着として人気で日本へ輸出され、矢羽根になるオオワシは武士の必需品として珍重された
15世紀には、奥州藤原氏が砂金とオオワシを富の源泉としたことから、北海道へ移住が始まったと考えられ、特に砂金の利権を巡って現地のアイヌとの争い、和人同士の抗争も激しくなった
1550年蠣崎家(後の松前藩)は、アイヌと和人の交易を松前に集約し、1604年には交易の独占権を認められる
しかし規制の網を逃れて、アイヌ居住地に和人の漁民、猟師、砂金堀りが流入。アイヌの生活が脅かされ、体制への不満から1669年にシャクシャインの戦いが起こる
今の通俗的なアイヌ像が生まれたのは、この時代から。和人の業者によるアイヌの強制労働、差別が生まれ、明治政府ができるとアイヌの日本化政策が始まった。北海道開拓史によって、アイヌの土地が民間に払い下げられ、狩猟を制限した結果、飢餓が生じたとも……
本来、アイヌ独特とされる儀礼にも、日本の呪術、中国由来の陰陽術と共通するところは多い。アイヌの文化はかつての日本、大陸渡来の文化の集積であり、歴史の宝だと考え、敬意をもつべきものなのだ

『信仰の王権 聖徳太子』 武田佐知子

評価が人によって膨らんだり、縮んだりする代表選手




タイトルからは想像しづらい内容だった(笑)
聖徳太子はあまりに後世の太子信仰が篤いせいでその伝説が膨れ上がり、厩戸皇子の実存すら疑われるようになってしまった。著者は玉ねぎの皮をむくように、太子の実像が小さくなっていき、むしろ今に伝わる「太子像」の興味が向いたという
本書は太子のイメージを決定づけた「唐本御影」(聖徳太子二王子像、中央に太子が立って、童子二人に挟まれた絵図)をはじめとする太子像が、どう扱われてきたかを追っていく
冒頭は聖徳太子のお札の話から始まる。昭和5年(1930年)百円の高額紙幣として登場し、「唐本御影」がそのモデルに選ばれた
敗戦後、聖徳太子は十七条憲法の「和をもって尊しとなす」から平和主義者と日銀の一万田総裁がGHQを説得し、軍国主義の排斥から免れる。こうして、千円札→五千円札→一万円札と最高額の紙幣に位置し続けることとなったが、昭和56年7月の改正で、一万円札が福沢諭吉に代わることとなる
そのキッカケと噂されるのが、今枝愛真の「唐本御影」が太子ではなかったという説。御影に川原寺と読める部分があることから、法隆寺にあったものではないと推測されたのだ
これが本当に最高額紙幣の交代を呼んだかは定かではないが、太子像を探る旅がここから始まる

唐本御影は廃仏毀釈が吹き荒れた明治維新で、皇室ゆかりの品が紛失することを恐れた明治政府が、伽藍の修理費を下賜した上で、他の宝物とともに法隆寺から引き取ることとなった。戦後はある程度、法隆寺へ宝物が返納されていったが、御影は特別な「由緒物」として皇室の手元にとどめる状態になった
そのため、東大史料編纂所長だった今枝愛真でさえ、眼を触れることは容易ではなく、御影が聖徳太子ではない説が提唱される原因となった
実際のところ、川原寺と読めるところは、江戸時代に張り替えられた表装部分であり、それも著者が推測するところ、違う文字が書かれていたのがすり減り「川原寺」と読めただけではという。「唐本御影」が太子像ではないと、積極的に否定する理由はないのだ
それはともあれ、「唐本御影」が作られたのは奈良時代ながら、それが有名になったのは平安時代後期。ちょうど藤原氏による太子信仰が最盛期に高まっていた時だった
そして、「唐本御影」にとって大きかったのは、鎌倉時代における法隆寺僧侶・顕真の活動。当時、太子信仰の中心地は四天王寺であったが、顕真は聖徳太子の奴婢だった調子丸百済の宰相の息子であると位置づけ(でっち上げ!)、自らをその子孫であると称したのだ
さらに御影の作者が百済の阿佐王子として、その格式を高めた。ちなみに、この阿佐王子は実在するかは怪しい(爆
ともあれ、顕真の運動はときの皇室、藤原氏の人々の心を動かし、法隆寺の格式をグッと引き上げたのだ

平安時代後期以降、信仰の高まりとともに多くの太子像が作られた
面白いのは、播磨(兵庫県)の斑鳩寺にある勝髻経講讃御影が、後醍醐天皇の像と似ていることだ
網野善彦が「異形の王権」と評した後醍醐天皇は、帝位の象徴である冕冠を被りながら、袈裟を掛け密教の法具を手にしていた
いわば、王法と仏法を統合する象徴として描かれたのだが、「勝髻経講讃御影」はその先駆を為すという
密教の開祖である弘法大師は聖徳太子の生まれ変わりという伝承があり、後醍醐帝は聖徳太子→弘法大師の後身であると称する意図があったと思われる
法隆寺の救世観音には聖徳太子の等身像という伝承もあり、聖徳太子は仏教を日本へ広めた功績から、俗人の身でありながら仏として扱われていた。後醍醐天皇はそうした特別な地位を得て、日本を統治したかったのだろう
というわけで、タイトルの「信仰の王権」はここにおいて、ようやく回収された。混迷する中世の人々にとって、いろんな意味で聖徳太子は理想とされる存在だったのである

『天下統一』 黒嶋敏

「唐入り」の実態



「天下統一」とは、どういうことなのか。秀吉、家康の対外政策を通して、その意味を問う

「天下統一」というと、秀吉が後北条氏を滅ぼした1590年(天正18年)と学校で教えられている
本書ではこの「天下統一」の定義を問いかけることで、いかなる紆余曲折を経て江戸時代の「天下泰平」にたどり着いたかを明らかにするものだ
「天下統一」とは、一人の君主が直接支配することではない。一つの権威に諸侯が従うこととするなら、源頼朝も前例に数えられるし、秀吉は1590年以前に北条の従属を勝ち得た時期があった
ここで問題なのは、「天下統一」と「天下泰平」の間。秀吉は諸侯を従えたが、一代限りの天下に終わった。いかにして天下人の地位を世襲していくのか
そのために何をもって諸侯を従えるのか。そこに、秀吉、家康の苦心があった

秀吉は関白の地位を得て摂関家待遇となったが、あくまで武家である。その支配原理は武力が支配を正当化する「武威
従属した諸侯には一見、寛容に領土を安堵するものの、検地を行って国力を割り出し、寺社や城の普請などを命じる。それに対して反抗する諸侯は、後北条氏のように武力で打倒する
著者はこの論理が「唐入り」、朝鮮出兵にも適用されたと考える
秀吉の「唐入り」は明の征服が目的ではなく、明から「日本国王」の地位を勝ち取ることと、李氏朝鮮を日本に従属させること
当時の東アジアではそれぞれ自国を中心にした華夷秩序をもっており、当時の日本は明は帝国として上位とするが、隣の朝鮮は下位の国とみていた。近代国家同士のように対等の国として見る国際慣習がなかったのだ
その立場を公式に認めさせるために、行われたのが秀吉の「唐入り」だという。国内での豊臣の地位を安泰とするためにも、「日本国王」=外国からの承認が欲しかったのである
朝鮮出兵=秀吉の外交感覚の欠如がもたらした侵略戦争と、単純にはいえないわけなのだ

武力で相手を威圧し、従属したら「仁政」=寛容さを示すという「武威」中心の政治は、外交的にはハト派に見られる徳川家康にもあてはまる
家康は秀吉の死後に五大老筆頭として、対朝鮮、対明の講和交渉を仕切り、この時点で「天下人」として認められていたとする
対朝鮮では、相手が格下であるという前提を崩さず、朝鮮側から使者を派遣するべきとする。結局、伝統的に李朝と交易していた対馬の宗氏へ使者が来た際に、そのまま江戸には連れてきて、既成事実を作ってしまう
対明に対しては、勘合貿易の復帰あるいは民間の通商解禁を求めるが、はかばかしい結果は得られない
薩摩藩に関ケ原の敗戦を不問とする代わりに、琉球に圧力をかけさせて明との交易を求めるも、「武威」の外交が裏目に出てしまう。進展がでなければ、「ばはん」(=倭寇)の取り締まりを止める、つまり海賊行為に及ぶと脅したのに反発を招いたのだ
家康もまた武家の棟梁を継いだわけであり、国内にアピールするために武力による成果が欲しかったが、存命中に通商の復活はならなかった
とはいえ、大坂の陣で最大の抵抗勢力である豊臣家も滅亡。家康→秀忠→家光と最高権力者の世襲も達成されて、「日本国王」の必要性は薄くなっていく
むしろ、島原の乱など海外との交流が国内の混乱を招く懸念が出てきたため、西洋との交易をオランダに限るなど、国を閉ざす方向へ傾いていくのだった
本書は国内の統一運動と対外政策が密接に結びついていて、家康が武断政治を継続していたことを明らかにしている。東アジア諸国が、自国中心の華夷秩序で他国を位置づけてきたことなどは、今の外交関係にも通じる視点だと思う


『織田信長の家臣団』 和田裕弘

GW、長いようで短い



なぜ重用されていた佐久間信盛は追放され、明智光秀は謀反を起こしたのか。織田家の司令官を血縁・地縁から査定する

大河ドラマではだいぶ先の話ながら
織田家は信長の元、各地方を平定していく「方面軍」が複数編成されるようになった。四方に敵を抱えたがゆえで、その「司令官」には出自よりも能力と結果を優先して抜擢された
本書は織田家の興隆から方面軍が作られていく過程を描きつつ、その方面軍にはどんな人間が抜擢され、誰が与力(援軍+監視)につけられたかを事細かに調べ、その性質を解き明かしていく
方面軍につけられる有力武将のみならず、その配下の出自まで触れられるマイナーな人物も取り上げられ、新書の枠を超えたデータベースの域にまで達している(汗
なじみのない人が読む進めるのは少し骨かもしれないが、歴史クラスタならむしろ好物だろう。信長の司令官たちの裏側が分かる、貴重な視点を提供している

なぜ佐久間信盛は追放されたのか
表向きの理由は、1580年(天正8年)における信長の折檻状にあげられている。対本願寺に七か国の大軍を率いたのに、さしたる成果を上げられなかったことと、朝倉義景を追撃する際に信長へ口答えして面目を潰したこと、三方ヶ原の戦いで平手汎秀(平手政秀の孫)を見殺しにしたことを挙げている
が、もちろんはこれは口実。佐久間信盛は信長が代を継いで以来、柴田勝家のように敵に回ったことはなく、織田家の筆頭家老ともいえる地位を築いていた
それでもなお処断したのは、信盛が織田家の“中核州”である尾張に大領を有していたからだ。信長は信盛からこれを奪うことで、後継ぎである信忠に美濃・尾張を基盤とする軍団を持たせて、次代の天下人の礎としたかったのだ
信盛の弱点は、信長とも他の「司令官」とも血縁関係が薄かったこと。7か国の軍勢を率いても、茶飲み友達を作るぐらいで、本当の味方は少なかった
甥である佐久間盛政も柴田勝家にもっていかれたぐらいだ

織田家の由緒正しい譜代と思われている柴田勝家だが、意外にその出自ははっきりしない。信長の織田家自体が祖父・信定の代に港・津島を支配下にしてのしあがった新興勢力であり、信長の弟・信勝の家老になったことから譜代に違いないものの、やはり実力でのし上がった感はある
ちなみに著者の見立てだと、信秀は信長を後継者にしたというより、信長と信勝に分割相続させたとする。手勢の数をみると、むしろ信勝のほうが正統なのだ
武辺者のイメージの勝家も、血縁ネットワークはばっちり。妹を同じ「司令官」である滝川一益に嫁がせ、一益の娘を信長の養女として息子・権六の嫁にもらって、滝川家と重縁を結びつつ信長の一門衆に列している
ただし、柴田勝家の軍団内の与力は一枚岩とはいえず、監視もかねて前田利家・佐々成政などの尾張衆が加わっている。これが賤ヶ岳の戦いでの自壊につながったと考えられる

明智光秀は出自が諸説ある人で、朝倉に仕えた縁から元朝倉旧臣斎藤利三などの美濃出身、叡山焼き討ちから坂本城を得たことで近江衆、丹波平定でその国人たちと連戦した回った土地の勢力を貪欲で取り込んでいっている
そして、大和検地のときに筒井順慶を与力とし、長岡藤孝(細川藤孝)の息子・忠興に娘・ガラシャを嫁がしている
信長と直接の関係がなかったことが本能寺の変につながるが、不思議と光秀の与力に尾張出身者がいなかったことが、変を成功させる要因にもなっているそうだ
さて、信長後継レースの勝利者である羽柴秀吉は、正室・寧々の親戚ら蜂須賀正勝ら尾張出身者を連れて転戦、その人間的魅力で各地で味方を増やしていく。実子を得られないことから、信長の四男・於次(秀勝)を養子に迎えて信長の点数を稼いだ
領土が広がっても織田家の中核は尾張・美濃出身者。信長の後継者・信忠がそれを引き継いでおり、本能寺の変後には美濃に三男・信孝尾張を次男・信雄と分け合う。しかし、信孝は美濃衆を掌握する前に秀吉に攻められて敗れ、あえなく織田家の中枢はなくなってしまい、その人材は秀吉の元へ集中していくのだ
本能寺の変の理由など脱線気味の推論もあるものの、急拡大した織田家の実情が良く分かる一書だった

『秀吉戦記』 谷口克広

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だから何って話ですが



秀吉はいかにして天下人に登りつめたか。信長研究の第一人者が追った秀吉の軌跡

秀吉は「墨俣一夜城」「金ヶ崎の退き口」「中国大返し」など、「太閤記」などの講談で潤色されたエピソードが多い
そんな世間で独り歩きしている「明るい成功者」の前半生を、様々な史料を洗い直すことで、実際の秀吉を浮かび上がらせようというのが本書だ
著者は『織田信長家臣人名辞典』に代表される信長研究の大家で、管理人も何冊か読んで記事にあげている
ただ何分、初出が1995年と25年前。「中国大返し」を秀吉の証言どおりに捉えたり(最近まで真に受ける研究者が多かったわけだが)、その後の史料の発見で覆されているものもあるだろう
それでも冷静に秀吉の立場をその役割と知行から分析して、より具体的な英雄の姿が見せてくれる

「羽柴」の名字を譜代の丹羽長秀と柴田勝家から取ったように、徐々に織田家内の地位を固めていったイメージの秀吉だが、実際には美濃攻略の時点で有力な部将として浮上していた
俗にいう「墨俣一夜城」について確証はないのだが、実際に墨俣城そのものはすでに存在していたらしい。長良川西岸の中州に位置し、何度も争奪の舞台となっていて、秀吉が一時期関わった可能性はあるようだ
美濃攻略における秀吉の功績は、尾張との国境にある伊木城の伊木忠次と鵜沼城の大沢次郎座衛門を織田方に引き入れたこと。これをきっかけに美濃に楔が打ち込まれ、大きく戦況は進展した
秀吉の名が初めて登場した文書は、永禄8年の時点で美濃松倉の坪内利定に宛てて、信長の宛行状の副状(そえじょう)として発給されたもので、このようなことができるのは、信長の側近か有力な部将でなければありえないという
美濃攻略の過程で美濃に所領が与えられ、その在地領主たちを統率する権限が与えられたと考えられるのだ
すでに上洛前に有力部将のトップ集団に仲間入りしており、出自を問わない信長の実力主義ぶりもうかがえようというものだ

美濃攻略をしたのち、信長は足利義昭を奉じて上洛。朝倉討伐に乗り出すが、浅井長政の裏切りにあって前後を挟まれてしまう
ここで有名なのは「金ヶ崎の退き口」だが、秀吉のほかに明智光秀らも残留していたらしい。大河『麒麟が来る』でどう描かれるかが気になるところ
その後、信長は京都と美濃の連絡を保とうと有力武将を近江の要所に配置する。秀吉は横山城を任され、姉川の戦い後、武田信玄に備える各武将にかわって対浅井・朝倉の戦線を引き受ける
浅井・朝倉が滅亡後にはその功績もあって、江北の支配を任された
出世頭に躍り出たかに思われたが、ここで奈良を任された塙直政や加賀切り取り次第の許しを得た簗田広正、のちに謀反を起こす荒木村重といったライバルが現れる
さらに秀吉を追い抜いて家臣筆頭になっていったのが、「かかれ柴田」の柴田勝家。一向一揆に占領された越前を奪回しその越前一国を任され、一向宗の本拠ともいえる加賀でも容赦ない平定戦を遂行した。ここに上杉家と対峙する北陸方面軍が形成される
秀吉が挽回したのは、中国戦線である。播磨において小寺孝高(いわゆる黒田官兵衛)を味方につけ、別所家の造反に苦戦するものの、“梟雄”宇喜田直家を調略して大毛利と事を構えた
秀吉の必殺技はなんといっても、この調略である。徹底的に相手の調べ上げて弱みをつかんで引き込む。一度、味方したときには体を張って、その身柄と権益を守る
その出自から血縁の味方が少なく、外部の人間をどんどん取り込む必要があったからだが、それを可能にした人間力、行動力はすさまじい
機動力が目立つ「中国大返し」でも高山右近や中山清秀などの摂津衆を引き込み、賤ヶ岳の戦いでも前田利家と密約をかわしていて勝因としているのだ
著者からすると、この賤ヶ岳の戦いまでが秀吉の才能の絶頂。これ以後については揺るがぬ地位を築いてしまって、才能を生かす必要もなしで、あまり分析する気もおきないと本書では割愛されている


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