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『観応の擾乱 室町幕府を二つに裂いた足利尊氏・直義兄弟の戦い』 亀田俊和

ベストセラー『応仁の乱』に続き、室町時代ブーム到来!?




北朝の優位が固まった後に、なぜ足利尊氏と直義の兄弟は争うこととなったのか。室町幕府の性質を定めた‟空白”の大乱を解明する
観応の擾乱とは、室町幕府を開いた足利尊氏実弟の直義足利家執事の高師直が政権内部の主導権を争った、1350年から1352年かけてのめまぐるしい内乱である
『太平記』のクライマックスともいえる出来事ながら、そのあまりに激しい展開から科学的な考証が進まず、講談的な解釈がまかり通ってきた
そこを作者は、幕府が武士たちの請願や恩賞をどのように解決してきたかを分析することで、内乱の裏にあった不満を明らかにしていく。政権の腰が定まらなかったのは、諸大名の要求に応えきれない組織の不備が原因であり、尊氏とその後継者・義詮は内乱に右往左往しながらも、それに対応した政治制度を整えていったのである

本書ではずいぶん整理して語られているのだが、そうしてなお、観応の擾乱はカオスである(苦笑)。尊氏から政務を任されていた直義が、執事を解任された高師直のクーデターを受けて出家するはめになるが、幕府が尊氏の実子ながら直義の養子となっていた直冬へ討伐の軍を発したところ、もぬけの京都から抜け出して挙兵して観応の擾乱は始まる
歴史ファンがとまどうのは、直義をはじめとして幕府の要人が簡単に南朝へ寝返ってしまうところだ
しかし、それは北朝=室町幕府という固定観念からあるからでもある。足利尊氏はそもそも後醍醐天皇の下での幕府を想定していて、その崩御に至るまでその気持ちは変わらなかった
最高指導者がこういう意識であるから、諸大名たちからしても転向のハードルは低く、北朝の既存の制度で救われない場合には南朝側に立って取り返すといったケースが多かったようだ
ただし、将軍の弟である直義が南朝に降りたのは、当時としても衝撃的であり、その前例は南北朝の乱を長引かせる要因ともなった
また高師直が将軍の住居を包囲した「御所巻は、大名が軍勢で御所を強訴する室町時代特有の政治現象の先例となる。江戸幕府の堅固さからは頼りなく思えてしまうものの、そうされてなおかつ傷がつかない「将軍=武家の棟梁」の特殊な権威・立場があってのことなのだろう

当初、政務を任されていた直義が高師直のクーデターを許した原因は、承久の乱以後に確立された鎌倉幕府の諸制度への固執にあった
鎌倉幕府では、争う当事者同士の意見を聞いての裁決、「理非糾明」が理想とされていた。しかし、この制度にはたとえ聞くまでもない事例にも時間をかけてしまう弊害があり、力の強い者が現状維持してしまうのが実態であった。たとえ、正しい裁決がなされても、訴えた者の「自力救済」が基本であったのだ。そして執事として直義と争った高師直も、政治思想的には同様であった
そこで、尊氏・義詮の父子は、見るに明らかな事例に対しては即決、判断のつかない事例には「理非糾明」と使い分け、裁決の結果を守護がなるべく救済する方向へと舵を切る。これにより、恩賞の空手形が少なくなり、幕府のもとに有力大名が集い政権を安定させたのである
乱以前、武家のシンボルとして「象徴化」していた尊氏の‟鮮やかな変身”が本書の山場であり、権威と権力を引き受ける理想的な将軍の姿が描かれる
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『徳川家康』 下巻 山本七平

最近、本の記事がめっきり少なくなった。分厚い本を読んではいるにしても……


徳川家康(下) (ちくま文庫)
山本 七平
筑摩書房
売り上げランキング: 691,460


山本七平による徳川家康の評伝。下巻は関ヶ原の敗戦処理から、大坂の陣まで
下巻でも上巻に引き続いて、講談のイメージに引きずられないゼロベースの考察が徹底されている
司馬遼太郎などが描いてきた関ヶ原以後に天下を意識して、いわゆる腹黒、「古狸」に豹変した説を一蹴。それまでの「律義者」「海道一の弓取り」という堂々たる武人としてのキャラクターを保ったまま、天下取りに望み成功したとする
政治家が成功するにはまず権力を握らねばならず、権力を握るために権力欲を持つのは必然。「古狸」イメージは、あくまで西国大名や上方の人間による偏向したものというのだ
もっとも、あまりに常識人過ぎて面白みに欠け、頼られる人間であっても親しまれる人間ではなかったのも確かで、この点において大河ドラマの扱われ方は正しいといわざる得ない
巻末には息子さんが山本七平の遺稿をまとめた経緯、樺太出身の作家・綱淵謙錠との刺激的な対談が盛り込まれ、いろいろ濃厚な一冊である

下巻では家康の外交能力が高く評価されている
著者はクリスチャンながら、家康とキリスト教の関係を客観的に扱っていて、幕府が禁教にしたのもスペインやポルトガルの姿勢を問題視する。すでに布教活動が植民地化の道具に使われていることを知りながらも、家康はキリスト教自身には寛容であり、貿易にも積極的だった
しかし家康は布教を許す見返りに、帆船による航海技術や鉱山開発のための技師派遣を求めたときに、スペイン側は拒否する。国力の源泉である先端技術を渡すことに抵抗があったのもさることながら、大半が非キリスト教徒の日本を格下扱いしたのだ
オランダのクルーとして日本に漂着したウィリアム・アダムスは、家康のために帆船を建造して見せ、その信認を得る。彼を通じて国際情勢をつかんだ家康は、キリスト教の伝道にこだわらない新教国オランダの方が、貿易の利を追いかけられると外交方針を転換していく
秀吉の朝鮮出兵で冷え込んだ対アジア関係では、第三次の出兵を偽装しながら朝鮮側から通信使を一方的に派遣させることで双方の顔を立てつつ、対明貿易の再開を探っている。島津に琉球へ侵攻させたのも、対明貿易のためだった
すでに明が滅亡間近でこうした動きは功を奏さなかったものの、諸外国に対する家康の細やかな対応は、日本史のなかでも抜きん出ている

大坂の陣に関しては、著者は淀君戦犯説を唱える。もうボロンチョである(苦笑)
家康が目指した国家は源頼朝を範にした公武を峻別した武家中心の社会であり、関ヶ原以後は豊臣家を一大名として傘下に収めようとしていた
信長に従い、次には信長の配下だった秀吉に従った家康にとって、その時代の強者に弱者が従うのは「常識」であり、なんら不思議な構想ではなかった。豊臣家の滅亡ありきで策謀を巡らせたというのは、家康嫌いの偏見だというのだ
家康にとって大坂の陣は望んだことではなかったが、大坂城の包囲をいわば「諸大名の忠誠試験」に用いた。冬の陣後も豊臣家を幕藩体制に組させようと、関東への移封を条件に出している
なぜ、大阪方は豊臣家が存続する条件を拒否したか。著者は大阪方に総大将がつとまる人材がおらず、集めた牢人たちの「世論」に支配されたとする。彼らは講和が成立してしまうと、行き場所がなくなってしまう。『真田丸』を思い出すと、苦笑せざる得ない皮肉な結論である
ここらへんは、軍部にかきたてられた「世論」によって対米戦に突入し、あわや本土決戦までやりかねなかった、かつての日本を意識していると思われる
もし、淀君が前田利家の妻・芳春院のように江戸へ人質へ出ていれば、著者の言うように豊臣家の滅亡は回避できただろうか。家康が存命中は守られただろうが、秀忠以降になるとけっこうな大名が潰されているので、丁半博打な気もする


前巻 『徳川家康』 上巻
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『徳川家康』 上巻 山本七平

けっこうガチな分析


徳川家康(上) (ちくま文庫)
山本 七平
筑摩書房
売り上げランキング: 638,559


江戸250年の泰平を築いた徳川家康とは、どういう人物だったのか? 日本人論で有名な山本七平が、戦国を終わらせた巨人に挑む
徳川家康江戸時代には「神君」と崇められた一方で、当時から「古狸」の評判も高かった。それをイザヤ・ベンダサンこと、山本七平が史料から追いかける。武田信玄の本も出してたりと、この人は戦国にも造詣が深い
まず最初に持ち出されるのが、“スーパーじいちゃん”としての先駆者「毛利元就である。数十年の月日をかけて中国から九州にまたがる大毛利を築いた彼を、著者は「不倒翁」と称え、武略においては信長、謀略においては家康を凌ぐ存在とさえ言う
家康は元就の影響を受けたとするものの(根拠はよく分からない…)、二段三段の凄まじい謀計をしかけた元就に比べると、事案の解決には三河の一向一揆など正面からの対決で制するものが多い
家康の本質は優れた武人なのであって、彼の保守性が戦国に堅実な秩序を生み出す一方で、その堅苦しさから嫌われる側面があった。声望はあるが、人望のあるタイプではなかったというのだ

家康の保守性を決定づけたのが、今川氏での人質生活だとする
「人質生活=みじめ」ではないとする著者の指摘は目から鱗。松平家では父・広忠からして今川で養われて家を継いだ前例があるのであって、戦乱で荒れる三河にいるよりも恵まれた状況にあったとする
実際、今川義元の師である太原雪斎の薫陶を受けて、将来の領主になるための高い教育を受けている
その今川家では、鎌倉以来の『貞永式目』を発展させた分国法『今川仮名目録が成立していて、家の相続を長子をもって原則とするなど近世的な法体系が整備されていた
努力しなくても長子が家を継げる相続法は、今川の武士団の弱体化を招いてしまうが、家康に法治の大切さを植えつけたとする

家康は長い人生において、自分より強者に逆らっていない
秀吉に関東移封を命じられたときも、進んで江戸へ移動し秀吉をかえって唖然とさせている。著者は、関東が北条によって制度が統一されている領土であり、旧武田の甲斐・信濃よりは治めやすいという計算があったとしている
とはいえ、命がけで広めた領国をとられるのは辛過ぎるわけで、屈辱を耐える強い意志をもった現実主義者なのだ
秀吉死後にいよいよ天下取りとなるが、関ヶ原の分析が面白い。西軍の敗戦の原因は三成に誰も従わない「指揮官不在」なことともに、上杉によって家康が東上できないと思い込んでいた点にあるとする
西軍のキーマンとして三成は限定的であり、安国寺恵瓊が毛利輝元を口説き落としたことで関ヶ原が天下分け目の戦いになった。家康視点からは、恵瓊こそが首謀者であり容赦なく処分している

毛利輝元が関ヶ原に総大将として出ていたらどうなったか、あるいは関ヶ原後に秀頼を擁して大坂城に立て篭もったらどうなったか、という著者の提示するIFは微妙な采配で歴史が動いたことを証明している
しかし、輝元は祖父・元就とはかけ離れた凡将であり、毛利家は領土のほとんどを剥奪され、吉川広家に約束された周防、長門の二国の大名になってしまうのであった
上巻では関ヶ原後の毛利家の始末まで。下巻は、島津家と朝鮮との国交回復から大坂の陣が取り上げられる


次巻 『徳川家康』 下巻
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『戦国の陣形』 乃至政彦

「陣形」なんて、なかった


戦国の陣形 (講談社現代新書)
乃至 政彦
講談社
売り上げランキング: 101,212


戦国時代の陣形とは、実際にはどういうものなのか。日本軍事史の空白に挑む
序章にある著者の動機が生々しい(笑)。大河ドラマや小説などで、細かい部分の歴史考証は改善されているが、なぜか合戦の場面だけは講談に留まっていることに対する怒りなのである
それに留まらず、研究の世界でも中世、近世の軍隊に関しての戦術、戦型は、あまり掘り下げられていないという。本書はそうした未踏の地を大胆に踏み込んでいこうとするものだ
話は古代にまで遡る。古代日本は韓三国の戦いに巻き込まれ、唐・新羅の連合軍に大敗を喫する。この事態に対して、唐との関係を改善しつつ、その軍制を学習して農村から徴兵した「軍隊」を作ろうとした
それに沿って唐の“軍法”が導入されるはずだったが、大陸との関係が安定し蝦夷との国内戦に力が注がれるようになると、それに応じた“健児”(こんでい)の制に変更され、陣形の概念は衰えてしまう

平安時代に生まれた健児は、地方ごとの豪族によって編成され、「武士」の前身ともいえる存在だった。豪族の私兵という性質上、組織だった「軍隊」足りえず、それぞれが自分の判断で行動する「軍勢に近かった
そうした傾向は室町時代にまで続くが、足軽の台頭などで軍隊が大規模化していくことで陣形の必要性が生まれていく
合戦ごとに即席の陣形が生まれては消えていくが、著者によると武田信玄によって規則だった「陣形を作る動きが生まれたという。最新の研究によると、偽書とまで言われた『甲陽軍鑑』は高坂昌信が著し始め、春日惣次郎が継ぎ、最後は小幡景憲が完成させたと証明されたそうだ
それによれば、武田信玄は山本勘助から、諸葛孔明の八陣をヒントにするように進言を受け、陣形を工夫し出したという
面白いのが、相手を包囲する陣形とされる「鶴翼」の陣が、V型ではなく八型として伝えられていることだ。最初から包囲殲滅を目的に構えては、相手にバレバレなのである

もっとも、武田信玄の「陣形」は普及しなかった
主流となった軍制はむしろ、その敵である村上義清や上杉謙信の「五段隊形」だった。五段隊形とは、旗(指揮官&旗本)、長柄槍、弓、騎馬、そして新兵器である鉄砲を加えた五つの兵種をそれぞれ集中して運用したものである
「陣形」を軍隊全体の配置とすれば、「隊形」はあくまで一部隊の「隊形。追い詰められた村上義清は、信玄本人のみを倒すことで打開しようと必殺の隊形を編み出し、塩田原(上田原)の戦いでは、実際に信玄を負傷させることに成功した
その村上義清の機転を上杉謙信はシステム化することで、最強の軍勢をつくり上げる。そして、それに対抗する武田や北条に、「五段隊形」の軍法が広まることとなったという
鉄砲というと織田家のイメージが強いが、すでに上杉、武田でも集中運用が始まっており、上杉には三段撃ちどころか六段撃ちの記録まであるらしい
川中島で上杉方が用いたと言われる「車懸の陣」は、別にそういう「陣形」だったわけではなく、あくまで部隊の運用法。戦国時代で組織的な「軍隊」がいない関係上、「陣形」の概念は普及せず、部隊個々の兵種別運用「隊形」が発達した
この軍勢による「隊形」は、朝鮮出兵という対外戦争でも有効だった

戦国時代において「陣形」など、ほとんど意味を持たなかったのに、後世に名が残ったのはなぜだろう
江戸時代初期において、小幡景憲の甲州流軍学山鹿素行の山鹿流兵法にも「鶴翼」「魚鱗」などの名前はなく、後期に講談的想像力で広まったものだった
まして、「鶴翼」の陣が包囲殲滅の陣形というのは、明治以後に西洋の近代戦術が入ったから。著者にいわせれば、関ヶ原の戦いをみてメッケルが「西軍の勝利」と評したのも眉唾という。残された参謀本部の図を見ても、外国人に理解するのは至難の技だからだ
そもそも関ヶ原の戦いで戦場が関が原になったのは、石田三成が小早川秀秋の裏切りが濃厚になった情勢から、大谷吉継の軍勢が孤立するのを恐れて大垣城から引いたためという。とすると、関ヶ原の戦いはハナから東軍の勝利が濃厚の状態で起こったことになる
本書が語る「五段隊形」では、騎馬専門の隊が存在していることになっている。小柄な日本馬が重装備の武士を乗せて動ける時間は限られているはずで、その点では本当に騎兵として運用されたかは疑問。ただそれ以外の部分では、鋭い推論が展開されていて、合戦のイメージが改まる新書である
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『歴史対談 徳川家康』 山岡宗八 桑田忠親

今年の大河のMVPは、内野聖陽


徳川家康―歴史対談 (1979年) (講談社文庫)
山岡 荘八 桑田 忠親
講談社
売り上げランキング: 455,840


家康はなぜ悪役になってしまうのか? 大長編『徳川家康』を書き上げた山岡宗八と歴史学者が英雄の実像に迫る
徳川家康というと、江戸260年の泰平を築いた天下人にも関わらず、関ヶ原から大坂の陣までで「古ダヌキ」のイメージが強い。今読んでる司馬作品『城塞』がまさにそうなのだけど、長生きしてしまうと晩年の印象が残ってしまい、それがゆえに誤解も大きい
本書では26巻にも及ぶ大著『徳川家康』を著した山岡宗八が、戦国時代と茶人が専門の歴史学者で大河ドラマの時代考証も手がけた桑田忠親と対談し、数々の逸話や史料から虚実をふるい落として、大政治家の実像を探っていく
初出が1979年とファーストガンダムのテレビ放映と同年。新左翼の事件が冷めやらぬ時代を反映して、山岡が「同じ革命でも、中国人は気が長いから成功したけど、日本人は短気だから連合赤軍のようになる」(笑)とぶちあげるなど、飛躍した比較や脱線もある。ただしそれもご愛嬌で、実利一辺倒に見える家康を様々な角度から論じて、その思想、哲学を導き出している

鉄の結束を誇った三河武士団だが、家康以前はそうでもなかった。なにしろ、祖父の清康、父の広忠は家臣に殺されているのだ
なぜがそれが家康のもとで団結するようになったかだが、対談では「家康(幼名・竹千代)が幼くして当主になったから、みんな可愛がったのでは」とやや苦しい推測がなされる
その説を補完するように浮上するのが、家康の母方の祖母・華陽院。最初は水野忠政に嫁いで、家康の母・於大の方を生んだ
しかし、そのあまりの美貌から、家康の祖父・松平清康に講和の条件に譲り渡されることとなる。清康は三河を統一し、三河に所領を持つ水野家を圧迫していた
清康の死後、華陽院は先妻の子・広忠と、忠政と自らとの娘である於大の方を婚姻させ、家康が今川家に人質されていたときには、付き添って養育に当たったという
今川義元から当主として育てる許可を取ったというから、とんでもない女性である
ちなみに、娘の於大の方関ヶ原前後に高台院(北政所)の元に通うなど、家康の覇権に協力していて、広忠との離縁後に嫁いだ久松家は、徳川の譜代として松平姓を賜っている

現実主義者の側面が強くて、いまいち分かりづらい家康の宗教観だが、山岡宗八は天台の加持祈祷や修験道、禅宗、「厭離穢土 欣求浄土」の旗印で有名な浄土宗と幅広い豊かな宗教心の持ち主と強調する
三河一向一揆では、講和に一揆側の物資や本領を没収しないことと、首謀者を殺さないことを条件とし、家来の帰参を寛容に認めたという
実際には一向宗の寺に改宗を進め、従わなければ破却したらしいが、ここで家康が宗教の強さと根の深さを思い知ったのは間違いない
本能寺の変後に信濃・甲斐の戦乱で荒れた寺社へ寄進し、旧武田家の遺臣たちをひきつけたりと、宗教勢力と対立するのではなく、巧みに政治利用していく
キリスト教の禁止と鎖国に関しては、秀吉と同じく人身売買や植民地化の恐れがあったのと、キリスト教内部の新旧対立が一因。家康の顧問となったウィリアム・アダムスが旧教陣営であるスペイン・ポルトガルの帝国主義を強調し、新教国であるオランダとの独占貿易へ導いたのだ
家康の代には、秀吉以上に朱印船が出されており、この時代に多くの日本人町が生まれている

興味深いのが、家康の天下国家に関する考え方。対談では天下をとってもそれをひとつの家系が独占するものとは考えず、それが藤原惺窩→林羅山の朱子学にひきつけられた理由だとする
江戸幕府では、将軍家に適任者がいなければ、尾張、紀伊の分家から後継者を出すこととなっており、その過程を「副将軍」である水戸家が差配する。実際には老中以下の合議制が発達して後継者がいまいちでもなんとかなり、血筋が絶えない限り、そういうことにはならないのだが、ともあれ血筋の濃さが将軍の正統性にはならないのだ。そこに天下を私物化しない、敬天の精神があるという
この精神は、徳川慶喜の大政奉還にも通じるといい、水戸学以前に家康がこうした考えに到っていたと山岡は推測する
徳川家康はこの朱子学と同時に、兵法指南役として柳生宗矩を登用。その全国各地に散らばる門人をスパイとして活用しつつ、石舟斎の「活人剣」=「ほんとうの強者は戦わずして勝つ」の精神を武士道のスタンダードにして、荒々しい戦国の気風から清く正しいサムライへ誘導しようとした
小説同様に家康を理想化していて、出版された年代から古い史料に基づいてしまうものの、講談のフィルターを剥がして時代を作った大巨人に迫る面白い対談だった


関連記事 『城塞』 上巻

徳川家康 文庫 全26巻 完結セット (山岡荘八歴史文庫)
山岡 荘八
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『真田幸村と真田十勇士』 山室竜也

『真田丸』での忍者は……寺島進の死に方が酷かった(笑)
藤井隆のみでは層が薄いので、長澤まさみも『天地人』に続いて忍者にしたほうが分かりやすかったような




なぜ、真田幸村は人気があるのか? どうして真田十勇士は生まれたのか? 大河ドラマの考証を務めた著者が、幸村と十勇士にまつわる逸話を紹介する
大河ドラマが大坂の陣に入る前にと、関連本を手にとってみた
著者は大河ドラマだと『新撰組!』『竜馬伝』『八重の桜』の考証に関わっていて、著作からも幕末が本来の得意分野らしい。三谷幸喜の映画『清須会議』にも携わったそうだが、『真田丸』には特に関係ない模様だ
本書はまず、第一章と第二章で史実の真田信繁(いわゆる幸村)の生涯を取り上げ、第三章で講談から生まれた真田十勇士を一人一人列伝式で語る二部構成となっている
信繁に関しては、幸村を名乗っている書簡を紹介したりと(その信憑性はともかく)史料に沿った分析をしており、「その性格は穏やか」と『真田丸』を裏づけするような逸話も取り上げている
その一方で、上杉家は石田三成と連動して兵を挙げたとか、徳川のプロパガンダを真に受けた、というか大河のノリそのままに話を進めたりしていて、歴史の真実よりも、大河ドラマを楽しむ視聴者を意識したゆるい本なのである

真田十勇士に関しては、その全員があくまで架空の存在であるとする
江戸時代初期に成立した『難波戦記』において、真田幸村の名が広まったが、そこにはすでに三好清海入道、三好為三入道、由利鎌之助、穴山小助、海野六郎兵衛、望月卯左衛門の6人が活躍していた
江戸後期の軍記物語『真田三代記』では、幸村が戦死せず秀頼を奉じて鹿児島に逃れるラストが描かれる
しかし、意外や意外十勇士の筆頭ともいうべき猿飛佐助、そして霧隠才蔵が書物に描かれるようになったのは、20世紀に入ってから。講談を文章化した立川文庫においては、単に幸村の付属物ではなく、主役とした作品すら刊行されるにいたった
十勇士は佐助を除いて(前期の作品において才蔵も)、幸村の影武者となって夏の陣で大暴れして討ち死にするも、専門の忍者なのは佐助と才蔵だけなのもイメージと違った
考証も立川文庫ではかなりいいかげんで、三好清海入道は出羽の領主であり、真田家の武将という(爆)。清海入道は90歳、弟の為三入道が80歳で大暴れとか、いくらなんでも……と思ったが、『真田太平記』じゃ、60歳のくのいちを追いかける80歳の忍者がいたなあ(苦笑)
ともあれ、この立川文庫を源泉に真田十勇士は語り継がれていき、日本のサブカルチャーに多大な影響を残すのである


関連記事 『真田太平記 (一) 天魔の夏』

真田丸 深読みセット(真田幸村と十勇士関係の著作5冊セット)
松永 義弘 井口 朝生 江宮 隆之 柴田 錬三郎 司馬 遼太郎
各社
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『関ヶ原合戦と大阪の陣 戦争の日本史17』 笠谷和比古

サイコロの目のように天下は決まる


関ヶ原合戦と大坂の陣 (戦争の日本史 17)
笠谷 和比古
吉川弘文館
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関ヶ原の戦いは本当に天下分け目の戦いだったのか? 豊臣から徳川政権への移行期を、俗説に囚われずに分析する「戦争の日本史」第17巻
『真田丸』も関ヶ原が近いので急いで読んだが、まさに目から鱗の一書だった
本書は関ヶ原の戦いが江戸幕府260年の礎となったという従来の見解に対して、戦後に大幅加増されたのが豊臣系の有力大名であることに着目して異を唱える
関ヶ原の論功行賞は徳川の優位を決定づけるものではなく、秀吉が家康に備えて東海道に配置していた子飼い大名を西国へ移すという、あくまで東国での優位を確立するものに過ぎなかった
豊臣家が65万石の中堅大名に転落したというのも真っ赤な嘘であり、実際には西国に御料地が点在していて隠然たる実力を誇っていた
二条城の会見の際にも、家康は秀頼を対等に近い存在として気を遣っており、関ヶ原後の大譜請にも豊臣家を狩り出さなかった。いや、狩りだせる立場にはなかった
関ヶ原の戦いは形式的に豊臣政権内での主導権争いなのであって、家康も豊臣政権の第一人者としての立場に縛られており、それから抜け出すために征夷大将軍が必要となった
著者は関ヶ原後の政治体制を、関白が約束された豊臣家と征夷大将軍の徳川家の、二つの公儀が並存する「二重公儀体制と見なしている

なぜ、関ヶ原の戦いで徳川の天下が確立できなかったか
それは実際の戦場において、豊臣系大名である福島正則や黒田長政らの存在が大きく、本多忠勝や井伊直政らの先遣隊を除けば、家康自身とその旗本衆がかろうじて参加したに過ぎなかったからだ
徳川の戦闘部隊は、中山道の秀忠隊に集中していて、秀忠の遅参が重要な一因となる
ただし、秀忠の遅参は彼個人の責任ではないと分析するところが本書の白眉である
そもそも、小山の評定の後、家康はなぜ江戸に留まっていたのか。直接的には上杉の南進への備え常陸(現・茨城県)の佐竹義宣の去就が定まらないこと。さらに大きな要因として、小山の評定の際に石田三成-大谷刑部ラインの謀反と見なされたことが、その後宇喜多秀家、毛利輝元をも巻き込んで政権を二分する事態にまで発展したことだ
秀頼の出陣まで想定すると、豊臣恩顧の将を中心とする先鋒がいつ旗幟を翻してもおかしくない。動きたくても、動けなかったのだ

家康は福島正則たちの反応を窺うこととし、秀忠にまず上田城攻略を命じていて、実は秀忠の行動にまったく落ち度はなかった
しかし、福島正則たちが進んで岐阜城へ落としてしまったことで状況は一変。もし、福島たちだけで決着がついては立場がないと、家康は急遽、西上する。この家康の臨機応変の行動が、結果的に秀忠遅参という状況を作ってしまったのである
吉川広家が東軍に通じたことで南宮山の毛利軍が動けないと知った家康は、関ヶ原に戦場を設定。あとは、小早川秀秋が予定どおりに裏切れば、勝利は手にしたも同然だった
しかし、石田軍が戦場で大砲を使用(榴弾?)するなど思わぬ健闘を見せたことから、秀秋は日和見を始めてしまう。もし、秀秋の内応が遅れて、南宮山の毛利軍が動き出してしまったら、東軍の勝利は危うかったという
小早川秀秋は越前転封から再び筑前30万石に復帰する際に、徳川家康の尽力を受けており、西軍のなかでも怪しいと評判になっていた。土壇場で事前の予定どおり、動いたことで東軍の勝利は決定づけられる
ただし、実戦場には豊臣系の大名が活躍しており、徳川家とその譜代大名は全国の3分の1の知行しか掌握できず、徳川の天下とは程遠い状況だった

家康は当初、関ヶ原後の政治体制を豊臣と徳川の「二重公儀体制」を目指した。西国における豊臣系大名の存在を考えるとそれが現実的であり、秀吉の遺言に沿って秀頼と秀忠の娘・千姫との婚姻も整えている
なぜ、そこから家康は豊臣家滅亡を考えるようになったか
それは始まったばかりの江戸幕府の体制が、家康個人の声望に頼ったものだったからだ
豊臣政権内の第一人者として、豊臣恩顧の大名は家康に従ってくれるが、後継者の秀忠に対してはそんな義理はない。もし、家康の死後に秀頼が関白に任官した場合、秀忠の影響力は相当、限られたものとなってしまう。下手すれば、室町幕府の関東公方扱いもありうる
転機になったのは豊臣系の有力大名である加藤清正、浅野幸長が相次いで亡くなったこと
降って湧いたように、方広寺の鐘銘事件が持ち上がり(徳川方の難癖ともいえないらしい)、これを機会に「二重公儀体制」の終焉を目指す
家康個人としては、織田家を秀信や信勝が継いでいるように、豊臣家の断絶を狙ったわけではなく、冬の陣後には大坂城からの立ち退きと一大名としての存続を和議の条件としている
和議では本丸を除く大坂城の破却が決まっており、徳川方が外堀だけでなく内堀を騙して埋めたというのは、俗説だそうだ
大阪の陣に関しては、従来どおりながら、真田勢の活躍に隠れがちな木村重成、毛利勝永、後藤基次(又兵衛)の働きも詳述され、読み応えたっぷり。これを読む限り、大阪の陣のMVPは、毛利勝永だと思う
本書は驚くべき事実が掘り返されているわけではないけれど、冷静な分析で講談的想像力に彩られた歴史像を一新してしまう名著である
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『信長と家康 清須同盟の実体』 谷口克広

姉川の徳川勢の活躍は幕府補正


信長と家康―清須同盟の実体 (学研新書)
谷口 克広
学研パブリッシング
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戦国の世に20年もの同盟が続いたのは、なぜなのか。史料を冷静に読み解いて、信長と家康の関係を追究する
最近読んだ信長関連の書籍より、地味な内容だった。通説を覆して大胆な仮説を立てるのではなく、最新の研究を比較して妥当なラインを浮かび上がらせることに専念しているのだ
信長と家康に直接関わらないことは割愛すると断りつつも、それぞれが関わる重大事件に触れて行くので、自然と語られる範囲が広がり、そのまま戦国時代の通史のごとし(笑)。そうした中で、足利義昭が信長との対決を決意するのは、信玄の西上を信じた時点であり、それまでは信長包囲網の主宰者とはいえないとか、意外な分析も明らかにされる
家康関係の史料は、『三河日記』など同時代の人間の証言からして、創始者としての神格化を免れていないものが多い。著者は信長側の史料などと照らし合わせながら、権現補正を剥がして行く
そこに現れる信長と家康の姿は地味だったりするのだけど、シビアに利害を計算した上で何度も破綻の危機を乗り越えた稀有の同盟関係なのである

そもそも清須同盟という言葉自体が怪しいという。家康が清須城に出向いたという根拠がどこにもないというのだ
桶狭間の戦いの直後に、家康が今川家から離反したわけではなかった。母親の実家である水野家を攻め、まず西三河の制圧に乗り出していた
清須同盟の成立に関しては、この水野家当主の信元がキーマンとなる。知多半島を支配する水野家は本来、今川方だったが、信元の代に織田方に転じていた。水野家は三河と尾張の国境に位置し、信元が家康の叔父であることから独自の地位を築いていたのだ
水野信元は信長の主要な戦いに参陣する一方、武田信玄の侵攻に際しても織田方の援軍として出陣している。ただし、その所領のわりに少ない兵数であり、著者は信長から目付け役として派遣されたと考えられる。
ただし、水野信元は長篠の戦いの後に、武田家への内通を疑われて、家康に岡崎城へ呼び出され誅殺されてしまう。問責に来た織田家の使者が水野家家老によって叩き斬られる不祥事のせいだが、その問責は佐久間信盛の讒言からという。この水野事件が荒木村重の疑念と謀反を招き、佐久間信盛自身の失脚につながって、織田家に不協和音を生む源となる

清須同盟は最初は対今川家、今川家滅亡の後は対武田家との戦いに大きく機能した
長篠の戦いの直前、武田勝頼が高天神城を攻めた際に、信長は家康に援軍を求められたが、信長らしからぬ鈍い対応で高天神城は開城してしまう。このとき信長はただ救援に行くだけでなく、勝頼の主力軍団を捕捉、殲滅を狙っていた
長篠の戦いはそのリベンジであり、勝頼は高天神城の前例から信長の戦意を侮っていたようだ
武田攻めに関しては、家康による穴山梅雪の調略が大きくものを言った。『真田丸』で榎木孝明が演じる穴山梅雪は武田家で最有力ともいえる一門衆であり、その背信によって武田勝頼は信濃救援を諦めざるえなくなり、その軍勢は四散し敗北を決定づけた
家康は穴山の本領安堵を請負、もし信長に反故されたなら、自領から補填するとまで約束した。実際、その約束が実行できたかはともかく、穴山梅雪は武田家滅亡後にその名跡の継承と甲斐河内領と駿府江尻領が安堵された
信長が朝廷から天下人扱いされたことから、家康はその臣下として扱われ、旧武田領の分配は「駿府を拝領する」という形式となる。しかし安土城では信長自ら配膳を据えるなど臣下としては破格の待遇を受けており、織田政権の内部では一門衆に相当する地位に扱われたのだ
信康の切腹事件に関しては、信康自身の謀反で家康が手を下したとし、信長の命令という説を否定する。本当の信頼関係がなければ、安土城でこのような待遇を受けられないだろう
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『信長の戦争 「信長公記」にみる戦国軍事学』 藤本正行

Gレコ劇場版は三部作という話。ならば∀劇場版のような超ダイジェストにはなるまい(あれはあれで神業だけど)
テレビ版を背負いつつ、どう表現が変わるかに注目


信長の戦争 『信長公記』に見る戦国軍事学 (講談社学術文庫)
藤本 正行
講談社
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戦国時代を終わらせた天才・織田信長。近代に到っても神秘性は消えず、さまざまな脚色が施された戦いの実際のところとは? 最も信頼される『信長公記』から読み解く
序章からしてこだわりが違う
『信長公記』信長の家臣・太田牛一が一代記としてまとまたものである。その写本は数十本あるとされ、太田牛一自身が依頼され写したものでも内容が微妙に異なるという
写した年代によって信長や家康への敬称が変化していて、渡す相手の御家の武功を書き足すなどサービスもある。著者はそうした細かい違いをただの誇張なのか、新たな史料から追加したのか精査していくのだ
桶狭間の奇襲、墨俣一夜城、長篠の三段撃ちは、『信長公記』ではなく、それを元にした小瀬甫庵の『甫庵信長記』に由来している。甫庵は胸躍る武勇伝を作るべく、架空の合戦の創作までしており資料性ははなはだ薄い
にも関わらず、明治の陸軍が『日本戦史』において史実扱いしてお墨付きを与えてしまい、それゆえに太平洋戦争の用兵にも影響を与え、今なお講談話が史実の顔をして一人歩きしている。そんな実状を覆すために書かれたのが本書なのだ

ある意味、もっとも後世の日本に影響を与えたといえるのが、桶狭間の奇襲説だろう
太平洋戦争において物量で圧倒的な米軍に対し、迂回・奇襲が奨励され様々な将官から「桶狭間」という言葉が飛び出したという。そして敵は大軍だからこそ油断しているに違いないという、近代戦にあるまじき希望的観測が生まれた
『信長公記』から読み解いた実際の桶狭間はというと、奇襲とは考えづらいという
今川義元は桶狭間という“谷間”ではなく、「おけはざま山」という高所に陣取っていたとされ、特別に油断したとは思えない。その大軍勢からして、いきなり本陣に辿りつけるはずもなく、信長が善照寺砦から大きく迂回したという根拠はない
こうなると、なぜ信長が大軍相手に勝利できたかが謎になる
著者がヒントとするのは、太平洋戦争のミッドウェー海戦だ。ミッドウェーの連合艦隊は、ミッドウェー島の攻略を第一目標としつつも、本当の目的は敵機動艦隊(空母)の撃滅だった
しかし敵機動部隊が発見できないまま、ミッドウェー攻略の爆撃機を飛ばしてしまい、発見したときには艦爆には地上攻撃用の爆弾が備え付けたまま。魚雷に武装を変更する間に、敵の航空機攻撃を受けて空母四隻を失う大敗北に到った
今川軍は大高城を包囲する丸根砦・鷲津砦への攻撃に傾注しており、それに対して信長は中嶋砦に入り、そこから義元本陣へ最短距離を正面から突き進んだ。劣勢のはずの織田軍が大将自ら野戦を挑むというのは今川軍の想定外であり、義元は安全策をとって旗本衆と退却したところ、追撃にあって討たれたというのが著者の描くストーリーだ
戦国時代において将兵を消耗させる野戦は珍しく、武将たちも歓迎しなかった。今川義元の「金持ち喧嘩せず」、最小の損害で勝利する常識的采配が裏目に出たというわけだ
が、管理人にも釈然としないものが残る(苦笑)。その「それにしても」を埋めるために生み出されたのが「奇襲説」なのだろう
この空隙を埋めるに、小林正信氏の唱える「意外に織田軍も大軍だった説」もありと思う

墨俣一夜城は、信長が美濃攻めに際し一時的な拠点として使ったことに由来し、秀吉が当時どこかの城を預かっていたこととと合体して作られたらしい。一夜城ではなく、もともと城としてあったのを争奪したと考えられる
美濃攻めの決定打は美濃三人衆の調略で、そこから一気に稲葉山城の攻略へつなげている。武田攻めも木曾義昌・穴山梅雪の調略から始まっており、信長の戦略は敵勢力内に楔を打ってから攻め込む慎重なものである
長篠の戦いでは、鉄砲三段撃ちを空理空論と指摘。銃の扱いには個人差がかなりあり、遅いものに合わせていては間隔が空いて意味がなくなる。速い者からまちまちに撃つしかなく、それを三千挺の鉄砲で行うのは実戦的ではないのだ
ただ信長が馬防柵を巡らし鉄砲を重視する用兵をしたのは確かで、大和の筒井家には50人ばかりの鉄砲衆を拠出した記録が残っている。諸兵科が混在する戦国時代の軍隊において、鉄砲だけの部隊を運用しようとしたのはたしかに先進的といえよう
石山本願寺を降伏に追い込んだ鉄甲船に関しては、当時の技術からして鉄の船ではなく、要所に鉄で補強した大船であって、焙烙玉を完封できる代物ではないとする
ただし、木津川河口を封鎖する目的に特化していたので、大鉄砲を多く積み込んで毛利水軍の船を寄せ付けない効果があったと推察する
総じて信長が行った天才とされる戦略は、発想の勝利というよりその経済力をフルに動員したものであり、特に独創的というわけでもない。むしろ、その経済力を得るにいたる戦略に天才性が宿っているのだ


関連記事 『信長の大戦略 桶狭間の戦いと想定外の創出』
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『信長の大戦略 桶狭間の戦いと想定外の創出』 小林正信

目から鱗というレベルじゃない


信長の大戦略―桶狭間の戦いと想定外の創出(ディスロケーション)
小林 正信
里文出版
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桶狭間の戦いの裏には何があったのか。室町時代の政治環境から、戦いの真の意味を探り、誤解される信長の実像を明らかにする
著者は『明智光秀の乱』の人であり、本書も日本近世史を根底から問い直すものである
まず、桶狭間の戦いの通説、雷雨による小勢での奇襲に疑問を呈する。奇襲説の根拠は信頼度が高い太田牛一の『信長公記』に依存していて、著者は今川義元が討ち取られる場面だけが記されただけではないのかと推論するのだ
信長が“奇襲”に使ったとされる二千の手勢と家臣たちは馬廻り衆に過ぎず、仮にも尾張一国を制した大名として他にも軍勢がいたはず。むしろ堂々たる軍勢を用意して今川家を慌てさせ、長篠の戦いばりの総崩れから総大将を討ち取る完勝に到ったとする
著者は大学院出の研究者ではなく、金融関係を務めた市井の人であり、単に当時の資料を探るだけでなく、孫子からクラウゼヴィッツ、リデル・ハートまで古今に通じる「大戦略の原理原則を引いて、信長が世界的名将であることを実証していく
日本史に親しんだ人間にこそ、本書は「想定外の創出」(ディスロケーション)となる

桶狭間の戦いでの隠れたキーマンは、室町幕府第13代将軍・足利義輝である
室町時代は西国を京都御所の征夷大将軍が、関東を始めとする東国を同じ足利の一族の鎌倉公方が治める東西複合国家体制だった
本来なら源頼朝の前例から、鎌倉公方が征夷大将軍に座り、西の将軍は天皇の近衛兵を率いる「右近衛大将」とする予定だった。しかし、室町幕府は後醍醐帝による南朝という強敵を抱えていて、京都に重点を置いて征夷大将軍を置かざる得なかった
不満を抱える鎌倉公方に対して、お目付け役として関東管領が置かれたが、それでもなお鎌倉は反抗を繰り返し、室町幕府の弱みとなっていた
稀代の独裁者、6代将軍足利義教の時代には、足利直系の堀越公方が送り込まれたが、伊勢新九郎=北条早雲によって滅亡。勢力を伸ばす北条家は、鎌倉公方の直系である古河公方を担いで、関東支配の正統性を確保していた
足利義輝の代には、古河公方を盟主とする北条・今川・武田の三国同盟が成立し、“東の将軍”の勢力が関東甲信を席巻することとなった
後背の危険がゼロになった今川義元は、三国の軍勢を総動員できるようになり、足利の一族として“西の将軍”の地位を継承すべく上洛作戦を決行したのだ。上洛説にはその道程から疑問の声もあるが、義元の輿が将軍を意識したものであることから、著者は上洛を視野に入れたものとする

今川義元の挑戦に対して将軍・義輝は、まず上杉政虎(謙信)に上洛を促す。義輝の綸旨のより武田晴信との和平がなると、政虎は1559年に五千の兵で上洛し管領なみの待遇を受けた
これにより今川義元は上洛の延期を余儀なくされ、和睦した武田晴信を利敵行為として北条家とともに非難。晴信が剃髪して信玄となったのは、このときの侘びだという
著者によるとこの一年の時間稼ぎが大きかった
足利将軍が後ろ盾になることで、信長は美濃の斎藤義竜との和議、北近江の浅井家や六角家など周辺諸国との関係を改善、諸勢力からの後詰(援軍)を得て、尾張で迎撃できる態勢が整った
桶狭間の戦いは単なる戦国大名の勢力争いではなく、室町幕府の存亡をかけた歴史的決戦となったのだ
今川の軍勢は最低で二万五千以上の大軍だが、尾張一国でも一万以上は集まったろうし、津島に代表される経済力からさらなる募兵も可能だっただろう
信長は義元にとって「想定外」を積み重ね、勝算をもって戦いに臨んだ

今川家の泣き所は、大軍を養う補給、特に皮革関係だという。具足の間に挟む皮は消耗品であり、良質であれば機敏な動きがとれる
皮革の市場は仏教でのタブーに関わる動物の殺生が絡むことから、農民から差別される特殊な階層の民に委ねられ、一般の人間が踏み込めないアジール(聖域)を為していた
著者は若き信長が妙な風体で歩き回っていたのは、こうした界隈に踏み込んだからと想像し、そうした場所で築いた人脈として木下藤吉郎、後の豊臣秀吉を上げる
同じ木下の姓から実はれっきとした尾張の豪農だった説もあるが、ならばあえて羽柴姓を作るのは不自然。むしろ本来は侍になれない生まれだったからこそ、萩の中納言など珍妙な生まれを装う必要があったと考える
特にこれに突っ込みが入らなかったのは、天下人がそんな生まれではまずいし、ありえないという先入観が招いたと指摘する
秀吉が皮革を商って今川領内をスパイしていたとか、小説的想像力を感じるものの、たしかに六本指など秀吉には、農民出にしては不思議なエピソードが多い
信長が、秀吉ら皮革関係の「非人」たちから貴重な情報を得たことに対し、今川義元は足利義輝と織田信長の連携を舐めていた

桶狭間の戦いでは多くの家臣が討たれていて、義元本陣だけが奇襲されたのは説明がつかない
義元は出陣前に家督を氏真に譲っており、お家騒動こそ起きなかったものの、譜代の将の多くが討たれたことは戦国大名にとって致命的だった。家臣それぞれの家で代替わりが余儀なくされ、指導者として経験の薄い人間が繰り上がれば、軍勢を率いることなどできない
氏真は物理的に父親の仇討ちはできなかったし、名分的にも将軍家に真っ向から歯向かうことはできない。それどころか、氏真は翌年には室町幕府の相伴衆に列することとなり、屈服を余儀なくされたのだった
幕府転覆の陰謀に怒る義輝は上杉政虎に関東遠征を命じて、古河公方を摂関家の近衛前久に継せようとまでした。しかし上杉独自の公方候補がおり、氏康の粘り強い抵抗でこの構想は頓挫する
そうする内に、今川家の脅威に沈静化していた三好家との対立が激しくなり、幕府側は長慶に対する三度の暗殺未遂を起こして、三好一族・関係者に次々と変死者が出る異常事態に。信長の上洛が計画されると、松永久秀と三好三人衆が義輝方のテロ攻撃に対して強硬手段に出た。永禄8年(1565年)二条御所を強襲し、義輝やその母、主従全員が討ち死させたのだ。いわゆる永禄の変である
信長が義輝の遺志を継いで上洛するのは、この三年後のことである
『信長公記』から漏れていること、作戦の機密性が高いことなどから、本書でも桶狭間の戦いの全てが描ききれているわけではないが、そのフレームは斬新でかつ納得できるものだ


関連記事 『明智光秀の乱 天正十年六月政変 織田政権の成立と崩壊』

河原ノ者・非人・秀吉
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