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『ハックルベリー・フィンは、いま』 亀井俊介

80年代の映画も見直さねば




新大陸を開拓するところから始まったアメリカ人の理想とは何なのか。現代において、それはどう現れているのか。今なお続けられる「生の実験」を追いかける
本書はアメリカ文学・比較文化論を専門とする東大教授が1980年代に発表した論考をまとめたもの。『地獄の黙示録』『愛と追憶の日々』の大作映画から、80年代に復刻した『スーパーマン』『ターザン』『キング・コング』などのヒーロー物に、『ハックルベリー・フィンの冒険』に始まるアメリカ文学を渉猟して、現代のアメリカ社会の状況に建国以来変わらない理想の追究を見出していく
ヨーロッパから「自由」を求めて渡ってきた移民者にとって、新大陸は「荒野」そのものだった。移民者がそこで開拓して築くのは、本来逃れるべきヨーロッパを模した「文明」であり、ふたたびそこから「荒野」へ飛び出す運動が起こる。著者いわく、この「文明」の建設と「荒野」への旅との振り子運動にアメリカ人の理想の動きがある
そうした「荒野」へ旅に出て「文明」の町と往還を繰り返す、マーク・トゥエインの小説におけるハックルベリーこそが、アメリカ人の理想像なのだ
アメリカ人の離婚率が高いのは、移動の多い社会で「恋愛」への重要性が大きいからだとか、40年近く経ても色褪せないアメリカ文化論である

驚かされるのは、人民寺院事件の解釈だろう
1978年にガイアナで集団自殺した人民寺院は、カルトの代表例といわれるが、極端な部分だけを見てしまってはアメリカ社会の分析を誤まるというのだ
新大陸に「新しいエデン」を見て海を渡ったメイフラワー号の人々「荒野」だったユタ州を開拓したモルモン教徒も、当時の常識からはかけ離れた戒律を持ち、外部の人間からは狂信的な情熱で偉業を成し遂げた
アメリカには数千のカルト組織があるとされ、人民寺院のジム・ジョーンズもメソジストの牧師としてスタートを切った。著者は人民寺院の問題を語るときに、「彼らはファナティックだった」で済ませようとするアメリカでの論調を批判し、いわばアメリカで繰り返されてきた伝統的な運動の失敗例として捉えるべきとする

著者が人民寺院から連想するのは、『地獄の黙示録』のカーツ大佐とその王国である。カーツ大佐は最初、現地の人間を民兵に組織する任務を負っていたが、ヴェトナム戦争という狂気のど真ん中にあって、軍を離れて戦争から独立した王国を築く
狂気の戦争を続ける体制に従って、カーツ大佐を殺すことは果たして正義なのか? 映画では、やはり近い時期に虐殺事件を起こしていたチャールズ・マンソンが持ち出されてカーツ大佐と比較させている(人民寺院事件は、映画製作後)
そして、その『地獄の黙示録』の原典とされるのが、ジョセフ・コンラッドの『闇の奥』だ。この小説ではアフリカが舞台となり、狂った駐在員クルツが王国を築いている。ただし、コンラッドはイギリス人なので、主人公にクルツをヨーロッパ社会に連れ戻すことで解決しようとする
しかし、ヨーロッパ社会から飛び出たアメリカ人に、戻るべき大地はない。果敢に「荒野」に挑まざる得ない
こうした例はフロンティアを失ったアメリカ人の袋小路のように思えるが、著者はありがちな「病めるアメリカ論」はとらない「荒野」に向けて新しいチャレンジをせざる得ない環境こそが、アメリカの強みでもあるのだ
本書の論文が出されたときには、ロナルド・レーガンが大統領選で地すべり的勝利を収めていた。得票数では負けていたとはいえ、トランプ政権の成立は「荒野」への冒険なのかもしれない


関連記事 『ハックルベリイ・フィンの冒険』
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『1998年の宇多田ヒカル』 宇野惟正

新アルバムとのなかで、いろんな人と組んでいるけど、椎名林檎との「2時間だけのバカンス」はいいぞぉ~


1998年の宇多田ヒカル (新潮新書)
宇野維正
新潮社
売り上げランキング: 35,757


1998年、もっともCDが売れた年に4人の女性アーティストがデビューした。宇多田ヒカル、椎名林檎、aiko、浜崎あゆみ。彼女たちの軌跡を追う
宇多田ヒカルの復帰を合わせたわけではないようだが、2016年1月が初出
本書では、音楽界における1998年という年の意味を分析し、4人の有名女性アーティストの歩みとそれぞれの関係性が語られていく。著者も含めた過去のインタビューや、アーティスト自身の発言や記事から、その時々の彼女たちの状況が掘り起こしていくのだ
CDの登場と1998年前後の音楽状況など現代音楽史の勉強にはなるが、章立てられた4人に関しては、肝心の「何を歌ったか」について触れていないので、内容的にはやや肩透かしだった
著者の称する“音楽ジャーナリスト”は、アーティストを取材しても評論はしないものらしい

そもそも音楽界における「アーティストという言葉はどこで生まれたか
著者は女性「アーティスト」の関しては、大胆にも「同性にウケる」ことを条件にあげる。80年代からのアイドルブームが終わりつつあるときに、アイドルたちはその枠組みからはみ出さざる得なかった
その代表的な存在が工藤静香であり、ロック・シンガーのイメージを全面に出した本田美奈子や、自ら作詞するアイドル的ソロ・シンガーのはしりである森高千里だった
小室哲哉は時代に取り残されたアイドル予備軍を「アーティスト」として再生する存在だった。安室奈美恵、華原朋美、篠原涼子は同性の支持が高かった
宇多田ヒカルが登場した1998年は、その小室ファミリーのピークが過ぎて、一般にインターネットが普及した時期と重なった。ドラマとのタイアップなどテレビから売れる時代から、ラジオやネットをきっかけに知る時代の転換点となっていた
CD市場が成熟して昔の名曲も再版されるようになると、若者にとって「現在の音楽」と「過去の音楽」の境目がなくなり、同時代の洋楽も聴きやすくなった
そして1998年にデビューした女性アーティストには、「アイドル」からの路線転換というコンプレックスがなくなっていた

著者は宇多田ヒカルに「革新」、椎名林檎に「逆襲」、aikoに「天才」、浜崎あゆみに「孤独」というキーワードをあてはめる
宇多田ヒカルの「革新」は分かるにしても、椎名林檎の「逆襲」は自分に張られたレッテルに対するソレであり、東京事変解散後に「静かなる逆襲」など好んでつけた言葉から。本人的にはともかく、管理人からすると着実にのしあがっているイメージなのだが
aikoの「天才は著者があまり知らなくて、ライターとして使ってはならない言葉「天才」をあてはめてしまったとか(苦笑)。ただaikoが、普通の音楽雑誌などの取材を受けず、浜崎あゆみと同じく「芸能」の世界と捉えているのには驚いた
浜崎あゆみ「アイドル」から「アーティスト」に変化した旧来のタイプながら、宇多田ヒカルとの売り上げ枚数戦争に巻き込まれてしまった。不本意なベスト盤を出したのちは「孤独」な側面を隠して、ポジティヴなキャラクターを演じることを強いられる
このあたりのところを語るなら、楽曲の内容にも触れないと説得力がない。宇多田ヒカルのトリビュートアルバムの際に、「Movin'on without you」をカバーしたのを、宇多田ヒカルに対する感情としたのも、かなり屈折した見方だと思う(普通に考えると、某ジャニーズではないのか)
ただ宇多田ヒカルの周辺に関しては自身がインタビューしただけに鋭い。FINAL DISTANCEを真の音楽家としてのデビューというのは納得だ(管理人もそこからグッと好きになった)
CD市場が事実上壊滅しライブ中心の時代と重なり、スタジオ・ミュージシャンである彼女がこれからどう活動するのかは、確かに気になるところだ


点―ten―
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宇多田 ヒカル
EMI Music Japan Inc./U3music Inc.
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『終末の思想』 野坂昭如

よくこの内容の本がNHK出版から出たなあ


終末の思想 (NHK出版新書 398)
野坂 昭如
NHK出版
売り上げランキング: 382,297


病床の野坂昭如は、今の日本に何を思ったのか。無頼の奇才が放つ、最後の毒ガス
野坂昭如というと、管理人のぐらいの年代だと、高畑勲監督『火垂るの墓』原作者『朝まで生テレビ』や『TVタックル』で寝たり、酔っ払う変人のイメージが強い
しかし実際には、シャンソン歌手を目指して上京し、テレビの制作会社(?)で放送作家としてコントの脚本を書き続け、あの『おもちゃのチャチャチャ』の作詞も手がけていたりする。「芸能」の経歴が長いのだ
本書は半分が病床での書き下ろしで、1970年代から2010年代までに書かれたエッセイが集められている。テーマはタイトルどおり終末で、個人にとっての「死」という終末緩やかに行き詰る日本の「終末」が、書きなぐられたような言葉で語られる

本書は、単に今の風潮を批判するわけではない。戦後の日本そのものの在り方に疑問を呈する
14歳で敗戦を迎え、青春を焼け野原で送った作者にとって、その上に築かれた繁栄は砂上の楼閣にしか見えない
特に「食」の問題を大きく扱っていて、戦後にアメリカの政策と日本の困窮からパン食を受け入れ、食糧を外国に依存している状況を「属国」と表現する
いざ、世界的に食糧不足となれば、自給率の低い日本は地獄絵図のような状況にならざる得ない。作者からすると、そのような状況を放置した大人たちにつける薬はなく、食糧の争奪戦を丈夫な若者だけが生き残るとも
作者の価値観が焼け野原という強烈な体験に縛られて、それ以前の歴史が軽視する傾向はあるものの、その論陣は意外にも「保守系知識人」に近い。三島由紀夫が生きていて、東京都知事になったらどうなっていたかを妄想したり、本土決戦をやっていたほうが戦争の実感は残ったのではないか、と爆弾発言も
ただ討論番組の発言などを思い起こすと、本人が「保守系」ではなく、オブラートにくるんでお茶を濁し続けるより、筋道をはっきりさせる政治家が出てきたほうが事態が分かりやすくなるといった意味合いもあるようだ

作家として気にしているのは、メディアにおける死の描写が精神的なものに偏っていること
実際の末期がんの患者を襲う不快感、異常な感覚についてはテレビも小説も触れない。死に瀕した病人は、どこまでも本人にしか分からない孤独な状況にいるはずなのだ
それがどこかドラマ仕立ての美談に収まって、生きている人間にとって不快な部分は極力カットされている
理想とされるポックリ死もほとんどはとんでもない痛みに襲われていて、死は人間にとって永遠に恐怖なのである
さて、本書を総括すると、農業に関する認識など富野監督に近いところがあるものの、なんだか新訳リーンのサコミズが一人暴れまわっているよう(笑)。倫理的にどうなんだという発言が溢れていて、“毒ガス”と言い表す他ない作家の遺言だった


火垂るの墓 [Blu-ray]
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ウォルト・ディズニー・スタジオ・ジャパン (2012-07-18)
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『悪女入門』 鹿島茂

小説のタイトルは、だいたいファム・ファタル自身


悪女入門 ファム・ファタル恋愛論 (講談社現代新書)
鹿島 茂
講談社
売り上げランキング: 121,212


男を破滅させる究極の悪女、ファム・ファタル(=運命の女)」とは何者なのか。バルザック、デュマ・フィス、フロベール、ゾラ、プルーストといったフランスの文学作品から男女の機微を分析する
フランス文学を専攻する著者が女子大で教えていた関係から、講義内容から恋愛指南できないか考えていたところ、雑誌の連載向けにリライトされたのが本書。女子大生に対して、ファム・ファタルの誘惑術を授ける、悪女入門という体裁で書かれている
ファム・ファタルのやり口が実際の恋愛に役立つかは微妙なところ。ファム・ファタル自身が恋愛の地位が高いフランスの社会だからこそ、生まれでた存在であり、他の社会の価値観だと単なる悪女に映ってしまうのだ
往年のフランス文学を元にしているだけあって、「男はこう、女はこう」と規定する形で語られるので、今の若者には違和感を覚えるかもしれない。それでも男が女のどこに惹かれるのか、丹念に分析されているので男心への理解は深まるだろうし、何よりもフランス文学が読みたくなってくる

本書では十作の小説から、それぞれのファム・ファタルが紹介される。面白いもので、同じタイプの悪女は誰一人いない
悪女というと、色気むんむん、本音むきだしで男に迫るイメージがあるが、フランス文学に出てくるファム・ファタルは、積極性一辺倒でもない
『マノン・レスコー』に出てくるマノンなどは、むしろ健気さを装って男を釣り、清純なイメージを保つ。男に合わせてその幻想を守るのも、ファム・ファタルのやり口なのだ
『カルメン』のカルメンは、相手が口説きたいときに距離を置いて焦らし、諦めかかると近寄るプロの悪女。古代のカルタゴを舞台にした『サランボー』のサランボーは逆に天然のファム・ファタルで、処女で何も知らない“鈍感さ”が自然と男を誘惑する「カマトト娘」
まさに十人十色なので、創作で悪女キャラを考えるときの助けになるのではなかろうか

ファム・ファタルの中でも最強と思われるのが、ゾラの小説『ナナ』に出てくるナナ
ナナは両親(小説『居酒屋』の主人公夫婦)がアル中で早逝し、風俗の世界に身を落とす。暴力男のヒモになったり、レズビアンに走ったりと遍歴を繰り返しつつも、途中で世の男どもに復讐しようと「ファム・ファタル」へと生まれ変わる
ナナは数多くの客=愛人を抱え、その客の金を搾り取っては得た金を蕩尽し続ける。作者はその様を、経済学者ヴェルナー・ゾンバルトが唱えた「男女の欲望=贅沢」が近代資本主義の源となる説を実証するものとして、ナナこそ「近代資本主義」の象徴とする
労働によって富が生み出されたとしても、生活の必要以上に富が貯蓄されてしまうと、その富は行き場を失って人間を振り回してしまう。金持ちは余った金をナナに注ぎ込み、ナナはそれを使い倒すことで富が循環していく
「ファム・ファタル」の条件その1は男を破滅させることで、その2は意外にも金銭に執着しないこと。男から奪った金で店を持つ女などは、単なる悪女に過ぎない
しかし、ナナは勝利者とはいえない。近代資本主義の全てを消費されていく構造から逃れられるものはなく、ナナそのものは最後は消耗して病死する
男を破滅させるファム・ファタルには、自身の破滅も宿命づけられているのだ
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『前田敦子はキリストを超えた』 濱野智史

いつまで保つのかな


前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)
濱野 智史
筑摩書房
売り上げランキング: 128,713


予想どおり、香ばしい新書だった(苦笑)
タイトルの由来はもともと、評論家・宇野常寛がエイプリル・フールに出版される本の題名として挙げたもの。著者は本気で「キリストを超えた」と思っていたから、本にしてしまったという!
急仕立てで出したためか、素の意味で薄い本だ
アイドルやミュージシャンとファンの関係を宗教家と信徒に喩えるのはよくあることなのに、AKBと過去のアイドルの在り方を比較もしないし、宗教についても吉本隆明の『マチウ書試論』を持ち出して、アンチが教祖のカリスマ性を高める構図を示すのみだ
とりあえず著者は、ぱるる(=島崎遙香)推しである

著者がAKBが現代の宗教たりうる理由としてあげるのは、「近接性」と「偶然性」
近接性とは、握手会や狭いホールでのコンサートなどで身近に触れ合えること
偶然性とは、そうした閉鎖空間のなかで活動を続け、偶然にアイドルにファンとして認知されること、あるいはアイドルの魅力に気づくこと
成熟した社会では、「必然性」に満ちて息苦しいぐらいなので、コンサートで偶然に目が会う、アピールが認められるといった「偶然性」こそが、真の快感となる
宗教の教義として掲げるのは、「いま・ここ。特に分析されるわけではないが、「今、ここで楽しめばいい」というメッセージは秋元康の歌詞に散見されるらしい。それが秋元康自身の思想なのかは、よく分からん


関連記事 『AKB48白熱論争』
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『住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち』 川口マーン恵美

ポスト金美齢?


住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち (講談社+α新書)住んでみたドイツ 8勝2敗で日本の勝ち (講談社+α新書)
(2013/08/21)
川口 マーン 惠美

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本当に日本はヨーロッパより遅れているのか。長らくドイツに住んでいる著者が両国を徹底比較する
冒頭、いきなり尖閣諸島へチャンネル桜の社長と乗り込む場面から始まって唖然とする(苦笑)。著者は保守系の論客らしく、本書の半分は日本の危機を警告する憂国節なのだ
タイトルに偽りありとはいえなくて、半分はドイツの実状を紹介し日本に帰ってあり難く思えるところにも触れている
ただその比較にいまいち論理性がなく、気分のまま描かれたエッセイとなっていて、どこがどう「8勝2敗で日本の勝ち」といえるのか、よく分からない
最近、日本をやたら称揚するテレビ番組が増えているので、率直に日本の欠点を指弾するだけマシかもしれない

著者が日本よりドイツに過ごす時間が長いせいか、日本に関しては抽象的で、ドイツに関して具体的に語られる。なんだか日本人よりドイツ人向けの内容である(笑)
ドイツの原子力政策については、詳しく取り上げている
もともとドイツには反原発の動きが「緑の党」を中心に根強く、連立政権に参加しているときには政策化されていた。しかし連立の組み替えで同党が抜けると、メルケル首相は産業界の要請から原発の維持へと転換する
が、フクシマ原発事故により、世論は一変。政権が危うくなるとみるや同首相はまたも「反原発」へと転向したのだった
日本の「反原発」との違いは、デモが選挙結果に直結するところで、ドイツ人の教授は「日本の若者が選挙に行かないから、政治的影響力を持たない」と分析している
ドイツの「反原発」は、再生可能エネルギーの助成金が電気代にのしかかる形で実現しており、一定の電力を使う大企業が免除されることが物議をかもしているそうだ

雇用関係についてはやはり、ドイツに軍配が上がる
定時で仕事が終わるゆえに、仕事が詰め込みになる、契約を超えたサービスをしてくれないなどあるものの、著者が「仕事が早く終わって、休みが多くても結局、不満が残る」とか重箱の隅をつつくような記述が多い
日本のサービス業の素晴らしさも、残業の多さ、労働強化に支えられているわけで、一概に褒められない
ただ雇用が手厚い分、雇われにくく失業者が増える側面はあって、低収入の仕事が充実(?)している日本のほうが仕事は拾いやすいかも


住んでみたヨーロッパ 9勝1敗で日本の勝ち (講談社+α新書)住んでみたヨーロッパ 9勝1敗で日本の勝ち (講談社+α新書)
(2014/09/23)
川口 マーン 惠美

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『ナショナリズムの現在――〈ネトウヨ〉化する日本と東アジアの未来』

帯から與那覇潤氏が洩れてる。可哀想

ナショナリズムの現在――〈ネトウヨ〉化する日本と東アジアの未来 (朝日新書)ナショナリズムの現在――〈ネトウヨ〉化する日本と東アジアの未来 (朝日新書)
(2014/12/12)
宇野常寛、萱野稔人 他

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ネトウヨとそのアンチが渦巻くネット社会。その中で日本はどこへ向かっていくのか、を萱野稔人・小林よしのり・朴順梨・與那覇潤・宇野常寛の5人の論客が考える
5人中4人の本を読んだことあるので、ミーハーに買ってみた
2014年2月にPLANETS企画で行われたトークイベントとそれに前後した対談が収録されている
5人の座談会はタイトルからして“ネトウヨ”叩きに走るかと思われたが、哲学者・萱野稔人のリードで踏み込んだ議論に発展した。ネトウヨが悪いとすれば、どこなのか。彼らが生まれた要因を分析しないと意味がないとし、主張に一定の合理性があること、中韓の外交にも問題があることを指摘する
その流れから対象はネトウヨから、批判能力を失った左翼・リベラルへ移り、「安倍はファシスト」「徴兵制反対」といったレベルの言論しか展開できない彼らの想像力こそが貧困であるとする。小林よしのりの、「靖国で英霊を『顕彰』ではなく、『慰霊』する安倍は左翼!のほうが、はるかに破壊力がある
本書は座談会に対談二本と新書にしても容量が少なく、ネット論壇(?)の問題を語りつくしたとは到底いえないが、ネトウヨと「在特会」をごっちゃにしない見識はあって、それぞれ読み応えはあった

気になったのは、歴史学者・與那覇潤「90年代に歴史認識の論争が、今は脊髄反射になってる」という見解
匿名掲示板、ツィッターなどのSNS界隈で、議論が成り立たず感情的なリアクションで済んでしまい、「歴史観」が必要とされていないとまでいう
宇野常寛の「物語からゲーム」を引用して、すべてが「ああ言われたら、こう言い返せ」というゲーム化しているとも
それに対し、萱野氏はネトウヨにも社会的・経済的背景があって、中韓に対する感情も想像上の被害者意識でもないので、彼らのふるまいを道徳的未熟として片付けても不毛だという
むしろ、ナショナリズムの発揚が日本の国益にならないことを強調し、今の状況のなかでどうするのかを実践的に考える方向へ誘導するべきとする
これは萱野氏に軍配だろうか
『ゴーマニズム宣言』が始まった90年代とは、今とネット環境がまったく違い、個人が情報発信するにはHPで所場代を払わねばならなかった。もし、あの時代にSNSがあったなら、同じ惨状が繰り返されたはずだ
匿名掲示板、ブログが生まれてから10年以上経ち、ネットを巡回するだけでそれらしい理論武装できる環境が整っただけのことだろう

萱野・宇野の対談では、萱野氏のアカデミズムへの批判と「国家と暴力」に関するこだわりが赤裸々に語られる
学者たちの「ニホンジンガー」は、日本を貶めて外国の思想をひけらかしたい浅ましい根性であって、学界での日本批判は欧米へのコンプレックスであり、「日本的自意識の肥大化」にすぎないという
学者の自意識ゲームに対する「おまえの自意識やポジションなんて誰も興味ねえよ」という言葉は、聞き手をギクリとさせたのはないだろうか(笑)
戦争に関しては、戦後に大戦が起こらないのは、戦争が経済効果を持たなくなったからといい、戦争が公共事業たりうるのは軍備拡充の需要があるからとする。大戦を経て各国が重武装化すると、それ以上作る必要がなくなってしまって維持費で財政の負担になったという
極論に思えるが、軍備の増強がイコール戦争を呼ぶという構図は経済効果の点からはそうでもないのだ

與那覇・宇野の対談では、小沢一郎の『日本改造計画安倍晋三の『美しい国へを比較分析していく
『日本改造計画』は、ゴーストライターとして内政は御厨貴と飯尾潤、外交・安全保障は北岡伸一、経済は竹中平蔵と伊藤元重が担当したそうで、伊藤・竹中・北岡は小泉純一郎のブレーンとなり、北岡・竹中両氏は今の安倍内閣に食い込んでいるという。つまり、こうしたグループが90年代以降の日本を動かしてきたことになる
しかし、『美しい国へ』は『日本改造計画』より目標が後退していて、宇野氏は戦後レジームの延命になっていると指摘。ただ外交・安全保障に関しては、安保闘争から祖父・岸信介の退陣が屈辱だったのか、情緒的な語りを見せるという
集団安全保障絡みで解釈改憲を強引に突破したのは、過去のトラウマと無縁ではないだろう。じゃぶじゃぶの金融政策で経済を支えつつも、改革のスピード感が乏しいのは、前回の反省からきた政権「延命」のため。延命」がいろんな意味で安倍政権のキーワードになるようだ
「自民党敗北から細川内閣成立までは日本史上に希な1億総中2病時代」とか、二人が嫌うSNS論壇的な言葉遣いが漂うものの、文系的な読みで直近の日本政治を解きほぐすところはなかなか新鮮だった

『国家とはなにか』『国家とはなにか』
(2005/06/17)
萱野 稔人

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『ロマンポルノの時代』 寺脇研

著者はロマンポルノの評論をしながら、文部省へ入った謎の人物


ロマンポルノの時代 光文社新書ロマンポルノの時代 光文社新書
(2012/08/31)
寺脇 研

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日活ロマンポルノには何があったのか。ロマンポルノを今なお追いかける映画評論家が、全盛期を振り返る
日活ロマンポルノは、日活がスター映画の低迷から、採算の取りやすいポルノ部門を主体にしたことから生まれた。1971年の『団地妻 昼下がりの情事』に始まる
キネマ旬報といった表の映画評論では、冷めた目で見られたものの、ロマンポルノ摘発事件(1972年)を受けて一変。わいせつ表現を巡って表現の自由を擁護する立場から、後押しする論陣が張られ、作品が正当に評価されるようになる
本書は、著者の学生時代からの寄稿を引用しつつ、ロマンポルノの時代を回顧する。自分の思いいれとともに語られるので、全体のまとまりはないものの、ロマンポルノを通して男女の真理を追究する姿勢はすがすがしい
1988年に日活ロマンポルノは打ち切られる。ピンク映画との関係や社会評論を期待すると物足りないかもしれないが、数多くの監督、俳優を生み落としたロマンポルノの入門書としては充分だろう

ロマンポルノには、いきなり生まれたわけではない
大手の大映では、1950年代に10代のセックスを扱った「性典シリーズが製作され、南田洋子・若尾文子は“性典女優”と言われていた。1970年に入ると、収益の低迷から若手中心の「高校生シリーズ」が組まれ、篠田三郎、松坂慶子、水谷豊、関根恵子(高橋恵子)を輩出した。大映はその後まもなく倒産するが、「高校生シリーズ」はロマンポルノへの橋渡しの役目を果たす
当初はその流れで、『女高生レポート 夕子の白い胸』など女子高生ものが作られたが、ロマンポルノ裁判の影響か、女教師、女子大生、OLへとヒロインの属性が変わっていく
製作の特徴は、低予算での大量生産
当時、普通の映画でまず2500万円以上かけるところ、750万円で作りきってしまう。一年で70本も作るため、様々な人材を貪欲に吸収し、映画会社が新人を取らない中、若手映画人の修練場の役割を果たした
また、映画のプランは企画部がトップダウンでプロデューサー、監督、脚本家を決めていた。まず企画部からプロデューサーを経て脚本家に発注し、しかる後に監督が選ばれる
監督は他人の脚本を読み込む必要があり、それが一線級の人材を生む要因となった
実は表映画界より、ロマンポルノのほうがハリウッドに近いシステムを持っていたのだ

そうした大量生産の体制に原作を提供したのが、官能小説の大家・宇能鴻一郎、SM小説の巨匠・団鬼六「天使のはらわた」の漫画家・石井隆などは、自ら脚本として参加した
80年代にいたると、アダルトビデオの普及が興行成績に直撃し、バブルの再開発も裏通りの文化を衰退させた
それでも芸能人の「初ポルノ」デビューを売りにもちこたえ、意欲的な作品を生み続けた。終章「ロマンポルノの男優」では、たたき台に駆け上がった有名俳優たちがリストアップされている。朝ドラで親父逆上攻撃した人も、大河で松陰を追い回す人も、ここから這い上がったのだ
監督にしても外部からの招聘組も含めて、日本映画を支える面々と言っていい
それでもアダルト産業の変化はいかんともしがたく、日活ロマンポルノは1988年に活動を停止する。現在、ロマンポルノが果たした役割は、Vシネマが負っているようだ続きを読む
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『ヒットメーカーの寿命―阿久悠に見る可能性と限界―』 高澤秀次

最先端から時代遅れの男まで


ヒットメーカーの寿命―阿久悠に見る可能性と限界―ヒットメーカーの寿命―阿久悠に見る可能性と限界―
(2008/12/19)
高澤 秀次

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多くのアイドル、スターを発掘し、数え切れないヒット曲を送り出した作詞家、阿久悠。昭和歌謡にもたらした新しい可能性とその限界を探る
本書は阿久悠の著作や対談、ヒット曲の歌詞から、いかに市場=視聴者の要求を読んだか、時代の思潮に乗ったものだったかを論じている
山本リンダの『どうにも止まらない』ピンク・レディーの『UFO』から歌の世界で定番だった「忍ぶ女性」から、挑戦的で活発な新しい女性像を提示し、尾崎紀世彦の『また逢う日まで』で現代人のクールな別れを描き、沢田研二の楽曲で没落していく男の意地を語った、とする分析は鋭い
ただし、評論としては阿久悠に寄り添い過ぎていて、その限界に対しては語りきれておらず、デジタル化した環境や視聴者に押しつけている
今の音楽を小室哲哉に集約して語り呪う姿勢も残念で、最後の社会批評が著者が嫌う「自分語り」を終わっているのが皮肉だ

作者自身は阿久悠の限界を語りそこなっているが、それまで分析された内容でいろいろと推測できる
歌謡曲の世界では、男の作詞家は女の気持ちを想像、あるいは男の望む「おんなごころ」を描いてきたが、阿久悠は高まるウーマンパワーを読み取って従来と間逆な「前向きな女性」を生み出した
しかし女性自身が楽曲を作られてしまうと、男たちの作った「おんなごころ」の世界は色褪せ、阿久悠もそれを免れない。女性のシンガーソングライターにぶっちゃけられたら、男に何が言えるだろう
また90年代に入ると冷戦崩壊、社会のネット化で世界の距離が縮まり、アメリカやヨーロッパの流行がリアルタイムで視聴者を刺激してくる。これもまた、流行の洋楽をパロディし日本語の歌詞を載せてきた歌謡曲を動揺させた
TMネットワーク直撃世代からすると、小室哲哉は90年代に想像された未来(決して明るくない)を聴かせてくれたわけであり、若い世代に歌謡曲はテンポが遅過ぎた
とはいえ、歌謡曲の精神が滅んでしまったわけではない。テレビを媒介に国民的歌謡曲が生まれ続けることはないしても、アニソンやアイドルの歌に詩を聞かせる流れはあるし、由紀さおりがアメリカ経由で再評価されたり、たまに歌謡曲のカバーがヒットしたりする
近づき過ぎたゆえのアメリカへの幻滅もあるし、洋楽のリズムに違和を感じる層からすれば歌謡曲の需要はあるはずだ
阿久悠と作者が嘆く、90年代以降の「自分語り」は、自分が書いて自分で唄うシンガーソングライターが多過ぎるゆえで、歌手と作曲家の関係が見直されれば、お互いがお互いの意図を想像しあう歌謡曲が再生されることだろう
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『ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア』 波戸岡景太

ライトな評論


ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア (講談社現代新書)ラノベのなかの現代日本 ポップ/ぼっち/ノスタルジア (講談社現代新書)
(2013/06/18)
波戸岡 景太

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「かつてのオタク、いまはフツー」。ラノベを通して読み解く現代日本の変容
本書はライトノベルの世界を知らない世代、人向けに書かれたもので、W村上などのポップ文学の系譜を引きつつ、現代の文学としてのラノベを位置づけて、そこから日本の変化を辿っている
いわばライトノベルを読む世代と読まない世代の「断絶」を埋める役割を担おうとしているのだが、残念ながらそれは果たされていない
著者は管理人と同年代ながら、若いころに青少年向けの小説に触れなかったので、東浩紀などの評論やライトノベルの文章からの引用で語ろうとする。評者とライトノベルの間の「断絶」が埋められていないのだ
結果、著者が把握しているW村上から、文学的な役割を果たしているようなライトノベルを選んで、影響なり社会評論を語るという薄いラインを突いてしまい、世代論にとどまるところも物足りない

ただライトノベルの一部の作品が、文学的な役割を担っていることは再確認させられた
本書では滝本竜彦の『ネガティヴハッピー・チェーンソーエッジ』から、『涼宮ハルヒの憂鬱』などを引いて、主人公の内面とヒロインたちとの関係に注目していく
それぞれ変わったヒロインに振り回される主人公という点は共通するものの、比較的能動的に動くタイプから、ヒロインから積極的に迫られても寸止めに終わって友達にとどまって「ぼっち」を維持するタイプに移行しているという
著者はそうした主人公とヒロインから、W村上の課題を引き継いだ冷戦以後の価値観が見て新世代のある種の達観を感じている
作家の小説に対する考え方に注目していることもユニークで、村上春樹が「雪かき」=労働に喩えたのに対し、ライトノベルの書き手たち、例えば西尾維新は「あくまで趣味」であることを強調する
W村上が小説を商業活動=「労働」と位置づけて、ポップ文化の担い手として働き者の「大衆」に接近したが、ライトノベルの書き手は「労働」から離れた「趣味」である姿勢で読者に向かっているという指摘は鋭い
小説は道楽であり、小説家は余計者であるという、ある種の原点回帰であろうか

本書はW村上とライトノベルを接着する構想にこだわり過ぎて、しんどい内容になっている
ライトノベルの作家たちをW村上の読書体験があると仮定してしまって、小説とライトノベルの「断絶」を把握していないからだ
ライトノベルは初期には「ジュブナイル」、青少年を大人の読み物へ導くステップとしての小説と混在していたものの、まずもって漫画の影響が強い
漫画があまりに成熟したために、小説形式のほうが読者の敷居が低いという転倒が生じ、「漫画のような小説」というコンセプトでライトノベルは成立しているのだ
だから読者も書き手も、伝統的な日本文学、W村上を一般的に経験しているわけでもないし、課題を引き継ぐ意図も自覚的にはない
ライトノベルの文学性を問うとしても、ポップ文学の後継というより、それぞれ違う経路から現代社会の象徴が現れていると考えるべきだろう
本書はライトノベルの評論としては疑問符がつくものの、W村上や寺山修司を絡めた80年代論、ノスタルジイ論は鋭いので、各論は楽しめる


関連記事 『ネガティヴハッピー・チェーンソーエッジ』

キャラクター小説の作り方 (星海社新書)キャラクター小説の作り方 (星海社新書)
(2013/10/25)
大塚 英志

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↑ライトノベルの成り立ちにも詳しい。例によってアクが強いけど(笑)
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