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『自分の仕事をつくる』 西村佳哲

村上春樹からムッソリーニまで、蘊蓄の海



社会にあるすべてのモノは、誰かの仕事の結果である。いい仕事とは何なのか、そのために何が必要かを問う

「いい仕事」は何かを求めて、デザイン関係を中心に取材を続けるが、インタビュー集ではない
著者は働き方研究家としてワークスタイルの提案、研究をしている方で、本書はデザイン誌『AXIS』における「レッツ・ワーク!」を元にしており、1995年から1999年の連載に、文庫化において数年後の再インタビューで構成されている
元の連載がどういうものだったかは分からないが、取材先のインタビューからスタートしつつも、いわばその上澄みを抽出して、一種のエッセイとして持論が展開されている
インタビューの部分がかなり短いので、取材対象が理想のワークスタイルを至るまでの過程が分からず、それまでにどういう障害や問題に出くわしたのかを、読者は知ることができない
なので著者の理想はよく分かっても、その実践については手が回っていないと感じた
ただ、普通にエッセイとして文章が達者で、立て板に水が流れるごとし。引っ張り出される蘊蓄も面白いので、すっと読まされてしまった


自分の欲求から「いい仕事」は生まれる

「いい仕事」とは何なのか
20世紀末の先進国では、大量消費・大量消費の時代が終わりつげ、日本でも過剰生産が問題になっていた。玉石混交の商品市場のなかには、儲けを出すためにコストを切り詰めた「安かろう、悪かろう」なものがある一方、触れるだけで心地よさを感じる優れたものもある
その差はどこで生まれるのか。というのが本書の問いかけであり、著者のライフワークだ
「いい仕事」の条件について、取材先での体験や他の研究者の文献から引き出されている。「自分のやりたくない仕事はしない」「"儲ける”ところから始めない」という理想主義、貴族的な態度にも思えるが、著者や取材先はいわゆるデザイン業界
何よりも高品質が求められる、知的産業においては望ましい姿勢かもしれない。やりたいことを仕事にしきれる人は強いし、客であればそういう人に携わって欲しい!


一般労働者との齟齬

ただし、「自分のやりたいこと」「社会(会社)に求められること」の間に逡巡する多くの人々にとって、超然としたものに見えてしまうのも事実
そのことは著者も実感していて、あとがきでは、送られてきた異論のメールについて取り上げている
「仕事のための仕事」から抜けさせない人は多いし、「質の悪い仕事」をやりきることにも意味はある。悪条件の仕事でもやりきらないと、他にしわ寄せがいくし、やらなければ食べられない。そうした状況や仕事について、著者もリスペクトはしている
著者は、そうした悪いスパイラルに陥っている職場が多くていいのか、なるたけ「やりたい仕事」を見つけるべきではないかと言いたいだけなのだ
とはいえ、仕事を選べる、フリーランスのように動ける人は強者であり、現状なかなか踏み込めるものではない。それに自由には責任というか、危険が伴うものだ


管理人にひとつ引っかかったのは、著者の「誰しもが“いい仕事”をしたい」という性善説
水準以下の仕事をしてもいいとは思わないが、仕事はそこそこに趣味にいそしむというのが、今の人間の精神性ではなかろうか
それでも「自分の仕事をつくる」という姿勢そのものは、何に取り組むにしても大事には違いない




『ポートレイト・イン・ジャズ』 村上春樹 和田誠

YOUTUBEで聞ける、素晴らしい世界



和田誠のポートレイトに村上春樹がそのミュージシャンへの想いを込めたジャズ・エッセイ

村上春樹は学生の頃からジャズに傾倒し、専業の作家になる前はジャズ喫茶を営んでいたほどだが、あまり身近過ぎて書くのに躊躇があったらしい
しかし、和田誠(『麻雀放浪記』の映画監督までしたマルチなイラストレーター)の人物画を見て、切り口を見出したそうだ
それぞれの人物、楽曲への愛着からか、小説では見られない情緒たっぷりな詩的な文章が流れる。読んでいるこちらが気恥ずかしくなるほどの愛が表明されているのだ
もはや読者の目など気にならない、僕とジャズの偉人だけの世界、空気がギュッと詰まっている(たまに「僕ら」となっていて、とまどってしまうが)
ジャズの真髄を、人間の負の側面(=狂気、自己矛盾、悪意、妄執、自滅)として、前半は麻薬で早死するタイプが多く紹介されるが、別に主義者であるわけでもなく、後半には明るいジャズを「もし、ここにあるものがジャズという音楽の与えてくれる喜びのひとつじゃないとしたら、僕はジャズなんで聴かなくてもいいやとさえ思う」(p232)と、これはこれと楽しんでいる

とりあえず、取り上げられている人のリストをば

チェット・ベイカー (トランペット&ヴォーカル)
ベニー・グッドマン (クラリネット)
チャーリー・パーカー (アルトサックス、「モダン・ジャズ=ビパップ」の父)
ファッツ・ウォーラー (ピアノ、オルガン、ヴォーカル)
アート・ブレイキー (ドラム)
スタン・ゲッツ (テナーサックス)
ビリー・ホリディ (ヴォーカル)
キャブ・キャロウェイ (ヴォーカル)
チャールズ・ミンガス (ベース、ピアノ)
ジャック・ティーガーデン (トロンボーン、ヴォーカル)
ビル・エヴァンズ (ピアノ。ギル・エヴァンズとは別人)
ビックス・バイダーベック (コルネット、ヴォーカル)
ジュリアン・キャノンボール・アダレイ (アルトサックス、ソプラノサックス)
デューク・エリントン (ピアノ)
エラ・フィッツジェラルド (ヴォーカル)
マイルズ・デイヴィス (トランペット)
チャーリー・クリスチャン (エレクトリック・ギター)
エリック・ドルフィー (アルトサックス、バスクラリネット、フルート)
カウント・ベイシー (ピアノ)
ジェリー・マリガン (バリトンサックス、ピアノ)
ナット・キング・コール (ピアノ、ヴォーカル)
ディジー・ガレスピー (トランペット)
デクスター・ゴードン (テナーサックス)
ルイ・アームストロング (トランペット、ヴォーカル)
セロニアス・モンク (ピアノ)
レスター・ヤング (サックス、クラリネット)
ソニー・ロリンズ (サックス)
ホレス・シルヴァー (ピアノ)
アニタ・オデイ (ヴォーカル)
モダン・ジャズ・カルテット (バンド。『笑っていいとも!』にも出演。小説『騎士団長殺し』で主人公が曲をかける)
テディ・ウィルソン (ピアノ)
グレン・ミラー (トロンボーン)
ウェス・モンゴメリ (ギター)
クリフォード・ブラウン (トランペット)
レイ・ブラウン (ベース)
メル・トーメ (ヴォーカル)
シェリー・マン (ドラム)
ジューン・クリスティ (ヴォーカル)
ジャンゴ・ラインハルト (ギター、バンジョー)
オスカー・ピーターソン (ピアノ)
オーネット・コールマン (アルトサックス、トランペット、ヴァイオリン。フリージャズの先駆者)
リー・モーガン (トランペット)
ジミー・ラッシング (ヴォーカル、ピアノ)
ボビー・ティモンズ (ピアノ)
ジーン・クルーパ (ドラム)
ハービー・ハンコック (ピアノ、キーボード)
ライオネル・ハンプトン (ヴァイブの第一人者、ドラム、ピアノ、ヴォーカル)
ハービー・マン (フルート、テナーサックス、クラリネット)
ホーギー・カーマイケル (ピアノ、ヴォーカル)
トニー・ベネット (ヴォーカル)
エディ・コンドン (ギター、バンジョー)
ジャッキー&ロイ (夫婦デュオ)

<文庫版のボーナストラック>
アート・ペッパー (サックス、クラリネット)
フランク・シナトラ (ヴォーカル)
ギル・エヴァンズ (ピアノ。ユダヤ系カナダ人で、ビル・エヴァンズとは別人)


羅列していくと、総勢55名!!
もとが単行本2冊を文庫本1つにまとめたものなので、幅こそ分厚いのだが、文字は大きく行数は詰まっていないので、スラスラと読める
管理人でも知っているコルトレーンが入っていないけど、それは和田誠による人選のせい(!)らしい。有名人だからと後回しにしたら、抜けてしまったのだろうか。村上春樹自体は、代わりにジャック・ティーガーデンが入っているからヨシだそうだ
定番を少々と、『Fallout』シリーズで知っているぐらいの管理人には、いい入門書になりそうだ


関連記事 『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編』



『徹底抗戦 文士の森』 笙野頼子

90年代の純文学論争の実態



「売上のない純文学は不要!」90年代から巻き起こった論争を闘い続けた笙野頼子の記録

サブタイトルに「実録純文学闘争十四年史」とあって、“論争”ではなく闘争としているところがミソ。理想や理屈が噛み合ったやり取りではなく、作家生命がかかった闘争だったのである
発端は、1991年2月10日の中日新聞(東京新聞)の紙上で、大塚英志「売れない文芸誌の不思議」を掲載し、出版社がマンガが稼いだ金で文芸誌を養っていると批判したこと
本書では詳しく触れられていないが、当時の読売新聞の文芸時評が新聞記者によってなされたこと、と直木賞作家同士の座談会で「売れない小説には価値がない」という発言があったこともあいまって、作者は反論するが、それに対して福田和也が反応し騒ぎとなった
そこからさらに、批判した当人である大塚氏が、作者の連載する文芸誌『群像』へ乗り込み、対談や連載を始めてしまう。最後には、孤立した作者が追い出されてしまうのだ
本書の初出が2005年であり、1991年から数えての十四年及ぶ“言葉を通した戦いが刻まれている


1.市場主義者によるクーデター

本書の過半(!)は大塚英志との闘争で占められるが、過去に起こった純文学論争のようなものではない。最初からまったく噛み合っていないのだ
「『少年マガジン』に『群像』は食わせてもらっている」というが、講談社自身は不動産投資で利益を出していて、『群像』を完売赤字前提の文化事業として考えている
作者の反論に対して、編集から和解のような対談を申し込まれるが、警戒した作者は必要がないと拒否。すると欠席裁判のように、加藤典洋などとの対談が掲載される
そして、その後も「売れない作品に価値がない」とする山形浩生や、定期的に「文学は終わった」という笠井潔が『群像』に出る一方、作者には“言論統制”が求められ、立場がなくなったことから、他誌で反論と連載を行うことになる。
このように論争というより、一種の権力闘争、乗っ取りのようにしか見えない

*作者は『噂の真相』にまったく知らない男性との噂が記事に載せられたというから、かなり陰湿である(岡留安則からの詫び状も掲載されている)

90年代は構造改革や新自由主義による市場開放が政治経済の世界で謳われていて、その論理を単に文化の領域に持ち込んだのみであり、文学の本質うんぬんを問うものではなかった
大塚氏が儲からないはずの文芸誌にわざわざ乗り込んだのも、売上を求められない安定感(!)と、文学の評論をしたという実績が欲しかっただけに思える
悪役として大塚氏は目立ってしまうが、最終章では、本当の敵は文学を知らない一部の編集者とする。文学を知らないが高学歴の編集者たちの一部は、実地の文学やその歴史、蓄積ではなく、流行の思想にかぶれて文学を判断してしまう
縦の歴史ではなく、横の流行に流されてダメになるという、どこの世界でもありがちな失敗がここにもあった(日本の構造改革だって…)


2.西洋哲学批判と権現魂

帯には、大塚英志を始めとする敵に対する「罵倒」を“芸術”とまでしているが、読んでいて楽しいものではない。才能の凄まじさは感じるものの、論争の質や相手がよろしくないので、それほど引き立たないのだ
本当に面白いのは、柄谷行人への批判である「反逆する永遠の権現魂-金毘羅文学論序説」に、「内向の世代」の小川国夫加賀乙彦との対談。そこで彼女にとっての本当の「敵」が見えてくる
いわく、日本には土着の神と外来の仏教が混合した宗教観があるにも関わらず、明治以来、それをなかったかのように“西洋哲学(西哲)”をやみくもに導入してしまう。柄谷行人の『日本近代文学の起源』はまさにそういう論理の代表例で、作者は小説『金毘羅』において、近代以前の「仏教的自我=権現魂を提示している
文学の評論や対談を読むと、「他者」とかなんとか、心理学の用語を援用されて辟易するのだけれども、その気分は“西哲”の毒がもたらすものだと納得した


本書はあくまで被害者視点の大塚英志批判であって(それはその経緯からやもえないのだが)、評論のすべてが否定されるものでもないだろう
『彼女たちの「連合赤軍」』は、それほど戦後の女性を貶めるものではないし、『サブカルチャー文学論』でも難解に見える文学賞の作品が流行のサブカルチャーで簡単に紐解いてしまうのは鮮やかだった
ただし、本書で指摘されるとおり、田辺聖子、倉橋由美子、金井美恵子といった系譜を無視して、戦後文学を語ってしまうのは、大塚氏のみならず、男流評論家たちの手抜きには違いない
2022年、文学フリマの出店者から芥川賞作家(高瀬隼子)が出たが、それを始めた大塚氏は2002年の第1回までしか関わらなかったという。つまりは、そういうことなのだ


関連記事 『彼女たちの「連合赤軍」』



『清張ミステリーと昭和30年代』 藤井淑禎

管理人のなかにも「清張ブーム」が生まれたが、実際どうするかは積み読と相談



昭和30年代の「清張ブーム」は高度経済成長をどう描いたか。知られざる作品から日本の影を覗く

松本清張論かと思いきや、それを触媒にした昭和30年代論であった
引用されている作品は、『点と線』『砂の器』という鉄板もある一方、『発作』『潜在光景』『坂道の家』『誤差』『憎悪の依頼』『恐喝者』といった中短編から掘り出しているのが渋い!
そうした諸作品から、昭和30年代(1950~60年代)の社会状況を探りつつ、時には自身の原体験を語り、登場人物の心象を推測していき、そこに生きた男女を活写していく
清張作品の特徴は「視点」のトリックを最大限に活かしての、読み終わってなお残す「謎」。その真相を読者に委ねているようで、時代性のみならず今なお読みつがれる魅力となっている

*以下、()内は書籍化の年


1.郊外の誕生

『砂の器』(1961年所収)では、映画館にクローズアップ。テレビが浸透するまでの映画は娯楽の王様であり、映画館は地方においてもその偉容を誇っていた。建物そのものが今のイオンモールのような存在感なのだ
そして、報道に関してもニュース映画の影響力は大きく、作品でもミスリーディングに使われる
『発作』(1957年、「詐者の船板」所収)からは、拡大と密集を繰り返す首都圏に、それに対応して伸長する鉄道網を。そうして拡大された住宅地、ホームタウンは首都と地方の狭間に生まれた「境界」であり、その不安定さは新しい犯罪を生む温床として、様々な作品の舞台となった。80年代の郊外論の魁のような光景がそこにはある
『坂道の家』(1959年、「黒い画集1」所収)だと、地方における小売店に焦点。モータリゼーションが進んでいない年代では、なんでも扱う“よろず屋”が薄利ながら手堅い収益を上げており、作品ではサラリーマンではありえない額を愛人につぎこむ店主が出てくるのだ。まさにコンビニ以前のコンビニの存在であったのだ


2.戦前を引きずる官僚社会の格差

『誤差』(1961年、「駅路」所収)では、田舎の旅館が従来では湯治場として使われていたのに、愛人との逢い引きの場に使われる変化が。『憎悪の依頼』(1982年、「憎悪の依頼」)には、当時の男女における結婚と性愛の感覚のズレが問われる
ただ意外にも名作『点と線』に関しては、あくまでトリック重視であり、“社会派”にしては官僚の実態に即していないと指摘。その反省で生まれたのが、『危険な斜面』(1959年、「危険な斜面」所収)とする
昭和30年代の官僚組織は、戦前の給与体系を引き継ぎ、今以上に学歴による階級社会を為しており、それを覆すにはキャリアの上司に重宝がられるため、汚い仕事に挑まざる得なかった
しかし、高度経済成長とともに、官僚の世界にもベースアップが定着。階層による給与格差が少なくなり、民間企業に抜かされるようにもなった(今は民間がダダ下がりで再逆転なわけですが)


高度成長における動揺を描いたのが、ブーム期の清張作品であり、それが描いた光景は、今では時代の副次資料にすらなってしまう。本書は時代性のみならず、世代を越える普遍的な魅力も伝える良書でありました


*23’4/5 加筆修正



『ホンモノの文章力』 樋口裕一

今さら聞けない作文の基本



社会で求められる文章力とは何か? 各方面で必要となる形式、スキルを徹底解説!

ブログも習い性、文章に関しても頭打ちになってると自覚していたので、初心に帰るつもりで読んでみた
著者は翻訳業のかたわら、有名塾などで長年、指導されていて、「小論文の神様」の異名をとる方とか
本書はそれにふさわしく、かなり噛み砕いた表現で、小論文、就職活動、作文・エッセイ、手紙など各ジャンルを書くコツを教えてくれる
著者によれば、文章とは「自己表現」というよりは、「自己演出である。教育現場で作文は「自己表現」を教えられるから、実社会で求められることとかけ離れてしまう
あくまで社会で求められる、あるいは見せたい「自画像」として書くことが大事というのだ。そのために盗用はダメだけど、目的のために誇張があってもいい
文章力の中でも文章そのものというより、どう“構成”すれば読みやすく伝わるかについて、「型」を学べるのだ


1.小論文の基礎

小論文の指導をされてるだけあって、「小論文」の形式をベースに考える。この形式を身につけると、とりあえず論理的な文章にはなるからだ
小論文の試験を出されたとして

まず「テーマ」に対して、
①「問題提起」を行い、イエスかノーかを問う形にする
②その問いにイエスかノーかの「意見表明」をする。反対意見を踏まえて、視野の広さをアピールする(全体の30~40%)
③「展開」。イエスかノーかの根拠を示す。問題の背景・原因・歴史・思想・対策などを掘り下げる。ここでレポートの値打ちが決まる(全体の30~40%)
④「結論」。全体を整理し、イエスかノーを改めて意見表明(テストでは道徳的目標は避ける)

細かく注意点もあって、②「意見表明」の際、反対意見に説得力がありすぎると覆すのが大変とか(苦笑)、先に「展開」で使うネタを入れすぎると後が詰まってしまう
避けたいのは、いったい何が言いたいのか(賛成なのか、反対なのか)分からなくなること。意見を問われたときに、“解説”に終わってはいけないのだ
管理人が学生時代に受けた指導だと、「最初に結論を匂わせて、中盤をそれを証明するために使い、最後にまた結論を書くと格好がつく」と教えられていて、これには懐かしさを感じた
この「型」は一例としても、基礎になるものが何かしらないと、文章としての形にならないのも事実。どこから手をつけていいか分からない人は、とりあえず、試してみていいのではないだろうか


2.文章に求められる読者との距離感

就職活動については大人になってしまうと、「そらそうよ」という常識的なこと。“自己表現”ではなく、相手が欲しい人材を「自己演出」することがすべてだ(管理人は不得意だけど)
しかしエッセイ・作文となると、小論文や自己PRに比べ、格段に難しくなる
小論文の「型」で行くと、意見の押し付けになってしまい、読者と距離ができてしまう。不特定多数の読者に“読ませる”には、すべてを語るのではなく、読者に文章の世界に入ってもらって、自ら発見してもらうことが大事だとか
それには例えば、身近な例を持ち出して、読者との距離を縮める具体的に書き込んで(著者は多少の嘘はOKという!)、話にリアリティを持たせる必要があるのだ。ここはベタな表現だけど、目からウロコだった

そして、著者の分析として、エッセイには2つの種類があるという。ひとつは、「人柄の良さ」をアピールしていくこと
もうひとつは、穿った見方をして「個性的人物」を演じること。例として、北野武や曽根綾子が上がっているが、今だと堀江貴文はじめネットにはその手の人があふれていることだろう
どちらにしても、そういうキャラクターが好きな人に向けての「自己演出」が大事で、すべての人に受ける必要はない
といっても、自分にない要素を演出できるわけでもないので、自分の一部分を拡張することになる。そうして、新しい自分を発見するのも、文章を書く楽しみのひとつになるという
そこに至れば、冒頭に否定された「自己表現」に近づくことになるのが面白い


初出は2000年で、ブロードバンド環境がまだ広がっていない時代。ネット社会の習慣を軽く見ているところはある。また内容もテスト対策用の感はあって、それをそのまま学問の世界に適用すれば、曲学阿世の徒になることだろう(苦笑)。その点ではタイトルに偽りありである
それとしても、身も蓋もない文章術は面白かった

*23’4/5 加筆修正

『スタンド・アローン』 川本三郎

積み読も今のうちに消化せねば



コメディ、映画、メジャーリーグ、音楽、文学と様々なジャンルで、「わが道をいく」23人の異端児の物語

タイトルに「スタンド・アローン」となっているが、ただ“自立”しているというだけではない。自分の世界を作り、自分にしか従わない、そんな孤高の狼たちの物語なのだ
23人のラインナップも知る人知る人物たちで、一般受けするメジャーな人はあまりいない。あえていえば、『ティファニーで朝食を』作家トルーマン・カポーティ映画監督エリア・カザン『ロッキー』の由来(モデルではない)となったプロボクサー、ロッキー・マルシアーノぐらいだろうか
あの時代にこんな男たちが生きていたのか。そんな驚きに満ちた23篇の人物評、エッセイなのである

国籍でいうとアメリカの人が多く、ヨーロッパはだいたい映画人なので、なんだかんだアメリカに絡んでくる
とりあえず、23人の名を書いてしまおう

W・C・フィールズ(チャップリン、キートンと並ぶ三大喜劇人)

ブランチ・リッチー(ブルックリン・ドジャーズの名会長、黒人メジャーリーガーのジャッキー・ロビンソンを採用)

リング・ラードナー(スポーツ記事の地位向上を促したスポーツライター・作家)

B・トレヴン(映画『黄金』の原作小説を書いた謎の作家。その正体は……)

ハリー・クロスビー(1920年代ジャズエイジの詩人。31歳で心中自殺)

ノエル・カワード(同じくジャズエイジのイギリスで活躍し、アカデミー脚本賞ももらった華麗なる作家)

フランク・キャプラ(ロードムービーの元祖『或る夜の出来事』の監督)

ジョージ・ラフト(マフィアとの交際を隠さない名脇役)

マイク・トッド(超大作『八十日間世界一周』を実現した“山師”プロデューサー)

エリア・カザン(マイノリティを題材にしながら、“赤狩り”で仲間を売った名監督)

マルカム・ラウリー(メキシコで名作『火山のもとで』を書き上げた作家)

ピーター・フィンチ(『日曜日は別れの時』で同性愛役を演じた俳優)

ロバート・ミッチェム(アカデミー賞に喧嘩を売り続けた“バッドボーイ“俳優)

ジャック・ケルアック(ヒッピーの聖典『路上』を書き上げた“ピート”作家)

トルーマン・カポーティ(『冷血』でノンフィクション・ノベルを確立した上流作家)

ゴア・ヴィダル(性転換した女優志望者を描いた『マイラ』を描きつつ、自称“貴族”作家)

サム・ペキンパー(『ワイルドパンチ』などで知られる妥協知らずの“ハリウッドのアウトロー”)

ロッキー・マルシアーノ(49戦49勝!イタリア系のヘビー級絶対王者)

ミッキー・マントル(全盛期のヤンキースを支えたオクラハマ出身の朴訥な強打者)

バディー・ホリー(プレスリーと同時代のメガネの元祖ロッカー)

エリック・バードン(黒人のR&Bに学んだアニマルズのボーカル)

ピエロ・パエロ・バゾリーニ(最底辺の血と暴力にこだわったイタリアの映画監督)

R・W・ファスビンダー(バイセクシャルでパートナーたちや自分すら追い込んだドイツの映画監督)


誰もが個性的過ぎて、何か共通点があるわけではない。あえていえば、家庭人としてまともなのが、ほとんどいないぐらいか。でもそれは、海外の有名人なら不思議なことでもない
自分の思うままに破滅へ突き進んで夭折した人もいれば、体制に順応しながら“王様”であり続けた人もいる。一つ言えるのは、とにかく自分を曲げないということだろう
著者のあとがきに小津安二郎の言葉が引用されていて、「自分の生活条件として、なんでもないことは流行に従う、重大なことは道徳に従う、芸術のことは自分に従う」。これを120%実行してしまったのが、彼らではないだろうか
ここに書かれていることは、WIKIPEDIAでも記述されていないことばかり解説の鹿島茂氏どこかのゴシップ誌までかき集めたのでは言っているが(苦笑)、知られざる噂を含めて、逆立ちしても真似できない人間模様が面白い

『アニメを作ることを舐めてはいけない』 富野由悠季

第4部は来年のいつか



『Gのレコンギスタ』において何が考えられたのか。企画立案から製作の実作業、世界設定を支える文化論まで、「創作」に不可欠なエキスを込めた一書

「自分が企画・演出した作品について書くことはやってはいけない」。冒頭から富野節がさく裂だ
ではなぜ書く気になったかというと、話題にならなかったために自分で太鼓を叩くしかなかったという悲しい事情なのだ(つれえ……)
さらに序文で触れられるのが、企画段階から実際の週単位の制作に移った際に、予想以上に内容が厚く、テレビ版は映画製作でいう零号(第一回目の試作)にすぎないという厳しい自己評価
そんな作品をもとに創作について論じようとするのは、『G-レコ』の基本と方向性は間違っておらず、若い世代への響くものになり、映画化を通して完成する作品がよき教本になるという自負があるから
本書では当初の企画から、実際の制作に移る際の変化、スタッフを通して浮上するアイデア、ふとした着想から言葉・シンボルの原点を辿って、厚みのある作品世界の作り上げる作法、そして『G-レコ』に込められた次世代へのメッセージが語られる


1.新しい宇宙世紀

初期の企画で驚いたのは、宇宙エレベーターをてこにして宇宙世紀の書き換えともいえる内容を含んでいることだ
地球環境を守るための宇宙移民などは、ロケットの打ち上げだけで成り立つわけもなく、人と物資を大量に輸送できるインフラが不可欠。とすれば、宇宙移民が始まった時から、宇宙エレベーターは存在していないといけない
しかし、人を宇宙へ上げるためだけに、軌道エレベーターは運営できない。帰りの荷物がなければ、費用対効果的に経済がもたないのだ
そこで、宇宙から人類に必須ともいえる資源(リギルト・センチュリーではフォトン・バッテリー)を調達し、地球へ運ぶ役割を与えたという
ただ宇宙エレベーターには、ミノフスキー・フライトのエンジンが使われていて、宇宙世紀当初からあるとすれば、他作品との技術水準の問題が出てくるだろう(ホワイトベースは地上で飛んでいたけれど)
そんなわけで、どの時点で宇宙エレベーターが建設されたかは、はっきり言及されることはなさそうだ
また、現実で宇宙進出のためのエレベーターは、考えるだにありえず人類はその努力を地球で住み続ける環境を守ることに使うべきなのである


2.説明台詞が多い理由

富野作品の中でも、『G-レコ』は説明台詞の多さが気になる。本来、戦闘中にしゃべっている暇などないと百も承知でしゃべらせるのは、なぜ戦っているのか、誰と戦っているのかを明白にする必要があるからだ
『G-レコ』で目立ってしまうのは、それだけ複雑な状況にキャラクターが置かれているためだろう

 本来、芝居や演劇はもともとが全部、説明セリフの積み上げなのだということを思い出してほしい。
 フィクションであれ、ドキュメンタリー的作品であれ、観客に事情説明しながら、ドラマを説明するものだから、全部のセリフが説明になる。そして、その説明が劇的に昇華されたセリフであれば、劇はスムーズに展開してくれる。ドラマになる。演劇になる。それだけのことだ。(p320-321)

映画的に絵で魅せるのはさることながら、台詞回しが劇の基本と考えているのだ
その一方で、キャラクターの属性を一目で想像させる演出にも心を砕いている。その例に挙げられているのが、ベルリの母ウィルミットの執務室に飾られているカバの剥製であり、ドニエル艦長のシートに描かれた金髪美人のビキニ姿。特にビキニのほうは、シートが動くこともあり、アニメーターに負担をかけたらしい


劇場版は5部作予定であるものの、客入りによっては即打ち切りもありうる。そんな条件下で書かれた本書は、まだ発表されていない4部、5部のシーンについてもいくつか言及されている
劇場版になったときに、キャピタル・タワーのナットなど背景美術が描き直されているところも多く、管理人としては第4部の目的地であるビーナス・グロゥブがいかに仕上げられているかが気になるところだ
「人の分からない作品にではダメ、でも分かりやすいだけの作品でもダメ」と相反する警句が飛び交う本書だが、創作論のみならず、赤裸々な製作過程も告白されていて、単なるファンも楽しめる一書なのである


*23’4/5 加筆修正

見事、完結! → 【映画】『Gのレコンギスタ Ⅰ 行け!コア・ファイター』

『吉本隆明1968』 鹿島茂

再び、肉体労働者に復帰。帰宅後はぐったり



団塊世代が吉本隆明を支持したのは、なぜだったのか。初期の作品からその魅力を探る

「吉本隆明の偉さというのは、ある一つの世代、具体的にいうと1960年代から1970年代までの10年間に青春を送った世代でないと実感できない」
そんな会話から始まる本書は、著者が大学時代に遭遇した1968年の吉本体験から、その衝撃と真髄を語るものだ
自身が「吉本主義者」になった理由として、吉本隆明との共通点、下町の下層階級の子から「一族最初の大学生」となるという世代論から展開され、『高村光太郎』など吉本の論考にもそうした視点があって、大衆から知識人に到達したときにおこる問題が主要なテーマになってくる
大衆とはなんなのか。知識人はなぜ大衆を指導したがり、失敗するのか。そこには今における日本のリベラル(?)の敗北にも通じるものがあるのだ


1.スターリズムの利用主義・功利主義

吉本隆明の功績として、まず挙げられるのがスターリニズム批判。冷戦が終わっても、全体主義の妖怪は人間社会のなかで機をうかがっているという
吉本が小林多喜二『党生活者』などで批判するのは、革命のために身近な人間を利用する「技術主義」「利用主義。プロレタリア文学の主人公たちは、革命に従事する人間と世間の人間にを分けて考え、世間の人間を利用することを大義のためによしとした
吉本は世間の人間を馬鹿にする登場人物たちを「人間の屑」と断定し、「人を管理するコツ」といった‟わい本”にもみまがう低劣な人間認識と批判する
著者はこれを左翼運動だけに限らず、何が人間を「堕落」させ「屑」にしていくかといえば、それは人間を、「大義」のために利用する道具として見なさない「技術主義」「利用主義」にあり、人は弱さによって堕落するのではなく、利用しようという魂胆によって堕落する、とする
こうした発想は現代にも生き延びており、左翼政党やそれに同調するマスコミが「腐敗したブルジョア」を叩くために、「額に汗して働く、報われない労働者」を持ちだす構図で利用されている
マスコミたち自身が高給取りである欺瞞しかり、その発想が生み出す引きずり下ろし型民主主義は、抜け駆けを許さない相互監視、超低次元のユートピアを生み出しかねない。それは今の北朝鮮、戦時の日本型ファシズムにも通じるものなのだ


2.共産主義者の転向と封建意識の目覚め

大戦前後を巡る知識人の変転も大きなテーマとなる
なぜ戦前の共産主義者が「転向」したのか。吉本はそれを当局の弾圧・拷問に屈服したと見なさず、民族主義に染まった大衆との隔絶から来る徒労感をあげる。具体的には、佐野学と鍋山貞親の「転向」は、コミンテルンによる敗戦革命を命じられたことへの反発だった
日本の近代社会は、西欧近代の要素と土着の封建遺制が絡み合ったまま成立しており、知識人は「自己疎外(自分をはぶいた?)社会のヴィジョン」と「自己投入(自意識過剰?)した社会のヴィジョン」のギャップに苦しむ。そして自分のなかの封建遺制を発見して、「転向」していくのだ
吉本はこうした転向者を単に非難せず、自分のなかに封建意識が分かっただけ、意識しない人間よりマシとする

著者によると、日本社会の実態、封建意識を無視する知識人は「無日本人」。共産主義のみならずく、例えばジッドやサルトルなどの文学をフランスの風土で生まれたことを無視して万国共通な論理的記号として、日本社会を語ろうとする。この「万国共通な論理記号」を流行の用語に入れ替えていくと、現代にもこの手の知識人(というかコメンテーター)がはびこっていることが分かろうというものだ
吉本は獄中の共産主義者たちの「非転向」をむしろ批判し、現実に何が起ころうとイデオロギー内の論理を回したに過ぎず、日本の封建遺制との対決を回避したとする


長くなった
他にも政治的文脈に使われる芥川龍之介の自殺高村光太郎の『智恵子抄』から戦争協力、そして、「四季派の抒情詩人」たちの戦争詩天皇制とウルトラ・ナショナリズム誕生への論考と、考えさせられることばかりだ
吉本にとっての「大衆」とは、自分の身の回り、生活の範囲しか社会と関わらず、小さい幻想の領域でしか考えない反面、封建制の優性も併せ持つ
大半の人間にとって、大衆とインテリの葛藤など意味を持たないと思われるかもしれないが、大卒者が溢れ誰もがネット端末を手に持つ時代となれば、誰しもが陥る問題ではないだろうか。意識高い系の状態に陥っていれば、ど真ん中のストライクである
初期の論考にはマルキシズムの影響は抜けきれないが、吉本隆明は主義者ではない。インテリ信仰があった時代、自分の心のなかに「下町の親父を飼っており、倫理のバックボーンとしていたのだ


*23’4/5 加筆修正

『革命とサブカル』 安彦良和

連合赤軍は何を終わらせたのか。革命からサブカルの時代の移り変わりを当事者たちが問う




ファーストガンダムの作画監督、歴史物の漫画家として知られる安彦良和が、弘前大学で学生運動に関わった人々と過去と現在を語り合う対談集
60年代で派手に燃え盛り、72年の「連合赤軍事件」で下火になっていく学生運動の実態が赤裸々に語られている
安彦良和は弘前大学において全共闘運動にのめり込み、リーダーとして弘前大学本部(取り壊す予定の建物だが)を占拠! 警察に捕まり、大学から退学処分を受けていのだ
話はそこにとどまらない。弘前全共闘で活動を共にした青砥幹夫植垣康博は、後に赤軍派に参加し連合赤軍事件の当事者となってしまう(青砥とは、山岳キャンプ入り前に会っていた)
その両名との対談に加えて、日本共産党系の学生組織「日本民主青年同盟」(民青)にとどまって対立した人に、アングラの舞台人と転じた人との対話もある
そこから見えてくるのは、後の世代から「まとめて左翼」と断じられているものが、それぞれの活動家にとって、お互い相いれない存在であるということ
学生グループには、共産党系の民青もあれば、アナーキズムの流れをくむ「べ平連」に近いもの、大学執行部に反抗する全共闘と、マルクス主義への傾倒は一致しているものの、内実はバラバラだったのだ


1.全共闘世代とサブカルチャー

対談、論考のなかで浮かび上がってくるのは、タイトルでは革命とサブカルを対峙させながら、全共闘世代が「サブカル世代のはしり」ではないかということ
よど号ハイジャックのグループが「われわれは明日のジョーである」という声明文を残したように、大学生が漫画を読み続ける最初の世代だった。ヤクザ映画も流行して、橋本治創案の東大学園祭のキャッチフレーズ「とめてくれるな、おっかさん。背中の銀杏が泣いている」だった
「エロ・グロ・ナンセンス」も好む新左翼のこうした傾向は、日本共産党系のお行儀のいい文化論への反発でもあったそうだ。安彦氏はこの新左翼のお行儀の悪さ、カウンター・カルチャーが、サブカルチャーの興隆の源泉と考えている
よど号ハイジャック事件に話を戻すと、リーダーの田宮高麿は、すでに独裁体制と分かっていた北朝鮮と中国を説得して革命根拠地とする気でいたという。世界の実情をわきまえない、その想像力は、自分と世界の中間を欠落した「セカイ系とまで評する
すでに新左翼の「革命」はサブカルの領域に突入していたというのだ


2.全共闘世代のその後

すべての対談が興味深い。弘前大学の演劇集団「未成」メンバーとでは、同時代に蜷川幸雄の演出レビュー作を先取りしてやった話に、麿赤兒の舞踏集団「大駱駝艦」つかこうへい、松田優作、寺山修司の「天井桟敷」の名が飛び出すなど、当時の演劇界の熱さがうかがえる
元民青でかつて対峙したお相手とは、沖縄問題における本土人との感覚の違いが問題となる。本土から基地返還運動でやってきた活動家は、意外とナショナリズムの意識が強く、日本の領土奪還という認識でいる
しかし沖縄県民からすると、琉球処分、沖縄戦から本土に複雑な感情を持っており、そうした活動家とも溝があるという


3.セカイ系→ハーレム→物語回帰?

そして、サブカル代表(?)としてアニメ研究家・氷川竜介との対談。安彦氏は、社会という中間を抜いて世界を変える「セカイ系」批判をするつもりが、「すでに終わっている」と言われて拍子抜け。今は、異世界でチート的な能力を振るう「異世界転生」「なろう系が取って代わっている
氷川氏いわく、もはや世界の問題すら必要なく、自分の願望が叶うハーレムワールドなのだ。会社員が家に帰って見る読むとなると、物語の「葛藤」に身をつまされるより、癒し」のほうが求められるからだとか
とはいえ、その一方で『アルスラーン戦記』がリメイクされるのは、ファンの中では古典的でも物語を期待する向きがある。『エヴァンゲリオン』も根本は『マジンガーZ』でいわば‟懐かしもの”なのだ


本書は前半が対談で、後半が安彦氏の論考というかエッセイになっている
ワイドショー的な関心かもしれないが、栗本薫、永井豪、富野由悠季、庵野秀明などへの言及が興味深く、全共闘から手を引いた者をなじり、残った活動家を褒める映画監督の若松孝二、元赤軍派の塩見孝也には手厳しい
転向という言葉は、共産主義の側から作られた言葉で、全共闘や連合赤軍を経て「生を極めて」変化した人々をなじるのはお門違い。むしろ、変われない硬直した態度のほうが問題なのだ
正直、論考の部分は時事放談の部分も多く、各人物の好悪がはっきりしていたりするのだが、あの70年代のことに関しては、その時代を生きた者にしか分からない空気が伝わってくる
管理人の親父と同世代であり、語ってくれなかった時代の話を代わりに聞けたのが有難かった


*23’4/5 加筆修正

連合赤軍を扱ったマンガ 『レッド』 第1巻

『京都嫌い 官能編』 井上章一

帯にも「ほんまはお好きなクセに」と



京都はそんなに品のいい場所なのか? 歴史の中に消えた色街を探究する

新書大賞にもなった『京都嫌い』の続編
前作はベストセラーとなって店頭に並んだときに、「本当は好きなくせに」とポップ広告がつけられた。そのフレーズをつけた人が大阪の人だと聞いて、同じ上方なのに「大阪人は京都に距離を置くのか」と疑問に思ったのが、本書を書くことなった動機だ
戦前は大阪と京都に共通の上方意識があり、変わったのは戦後の京都の方。明治大正期では、京都の遊郭が評判になっていたが、1970年代に「ディスカバリージャパン」が始まり女性の観光客を意識するようになると、そうした色街要素との切り離しが進んだ
そこに大阪が猥雑で、京都が上品、高尚というイメージが作られることになったのだ
本書はいかに過去の京都において、女性が商品化されていたか、あるいは政治化して歴史を動かしてきたかを解き明かしていく
作者は京都の黒歴史、エロさを愛しているのは明らかであり、タイトルには大きく偽りあり(苦笑)


1.駆け込み寺「祇王寺」

戦前の色街と京都の象徴として取り上げられるのが、「祇王寺」であり、その庵主であった智照尼
智照尼は、瀬戸内寂聴の小説『女徳』のモデルとなった尼僧で、京都の新橋時代に照葉の名で人気を博したが、色恋沙汰で小指を落とすこともあり、1934年に出家した
祇王寺の「祇王は、かつて平清盛の愛妾を由来としている。祇王は白拍子として清盛に寵愛されたが、ある日、後輩の‟仏”の願いを聞いて清盛の前で舞わせたところ、一目ぼれ。清盛は祇王に飽きて‟仏”にのめり込み、世をはかなんだ祇王がこもったのが後の祇王寺となる‟祇王庵”
作者の推測によると、祇王は白拍子のプロダクションを束ねる存在で、自分の息のかかった‟仏”を送り込んだともいえ、清盛に捨てられたことで隠棲後のパトロン探しに専念できたとする。先を見越した処世術があったのだ
祇王寺と祇王庵は時代が離れていて、同じ場所にあったわけではないのだが、関係を信じられたことに意味がある。祇王寺は女性の駆け込み寺として知られ、瀬戸内寂聴も祇王寺に近い嵯峨野に居を構えている


2.美人を報奨!

平清盛つながりで浮上するのか、源義経の母・常葉(常盤御前)
12世紀半ば、近衛天皇は藤原頼長を養父とする藤原多子(まさるこ)、藤原忠通を養父とする藤原呈子(しめこ)の二人の后がいた
どちらも摂関家であり先に皇子を生んだほうが実家も本人も優位に立つ。天皇に通ってもらうために両者は美人の雑仕女(召使)を集め、町娘にすぎない常葉も迎えられた
呈子が天皇の寵愛を受けるようになると、常葉は呈子たちの警備も兼ねていた源氏の棟梁、源義朝に与えられた。官位ともに「美人」が褒賞として機能していたのだ
この時代の説話のなかに、「高い身分の女性を娶れない地方武士がせめて京の美人を連れ帰ろうと口説き落とす話」もあるそうで、京都から美人の妻を連れ帰ることが領民の尊崇を得られたという

呈子が義朝に常葉を与えたのは、源氏を味方につける政治的思惑があった。平治の乱で義朝が討たれると常葉は平清盛の手に渡るが、その前に呈子のもとを訪れて美しく着飾った。常葉が清盛の愛妾となったのには、息子たちの助命だけでなく、呈子の実家と平家が和解する文脈が隠れているとする
このように京都の風土には、「美人」というだけで価値を持つ歴史が隠れていたが、江戸時代の始まりとともに禁中並公家諸法度が定められ、朝廷の「性」を利用した政治は封じられた。その代わり、市中にはそうした朝廷の性文化の模倣が広がり、桂離宮が数寄屋の建築様式に影響を与え、町人たちが性風俗の主体となっていったのである


本書は文学作品などから当時の風潮を推し量る手法をとっているので、学問的な実証性は怪しいかもしれないが、だからこそ踏み込んだ面白い推論を提示してくれる。昔の京都はエロかったのだ


前作 『京都ぎらい』



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