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『思い出のマーニー』 J・G・ロビンソン

宇多田ヒカルのアルバムを聴きながら


思い出のマーニー (新潮文庫)
ジョーン・G. ロビンソン
新潮社 (2014-06-27)
売り上げランキング: 64,632


プレストン夫妻に引き取られた少女アンナは、夏休みを海辺に近いノーフォークで過ごすことになった。実の親に捨てられたと思い込んでいる彼女は、寄宿先の夫婦とも打ち解けず、近所の子供とも仲良くできない。一人、海辺に出かけるのが日課となっていたが、ある日、満潮時に海に沈む湿地を探検し、大きな屋敷を見つけた。そこには不思議な少女、マーニーが住んでいた

元ジブリの米林宏昌監督でアニメ映画化して、アカデミー賞の長編アニメ部門でノミネートしたそうなので、ミーハーに手にとってみた
主人公のアンナは、両親が事故死しさらに祖母を失ったことを「見捨てられた」と捉えていて、普通の人たちを「内側」の人とし、自分を彼らと縁がない「外側」の人と位置づけてしまう心を少し閉ざした少女
アンナの年齢から「児童文学」とジャンル分けされているが、彼女の精神自体は非常に大人びいた領域に踏み込んでいるのだ
そんな彼女が癒しとして見出したのが、謎の屋敷に住むという少女マーニー。お互いが秘密にし合うという約束に元で、夏休みの間に遊びまわる
しかし、風車小屋の一夜をきっかけに別れの時がやってくる。そこには、マーニーの恋人であるエドワードという存在があって、アンナは少女時代の別れを疑似体験するのだ

メンヘラ少女がいかに社会に入っていくか。なんていう、説教話に落ちないのが本作のいいところ
豪快なネタバレになってしまうが、アンナがマーニーへの幻想を自覚してから、実際に「湿地の館」に住み始めた住人たちとの出会いが始まる。そこにはアンナのように夢見る少女プリシラがいて、そこでかつて屋敷に住んでいた本当のマーニーが浮かび上がってくるのだ
循環するオチはハッピーエンドで尺に収める児童文学のお約束かもしれないが、たとえ妄想で始まったとしても、想像することが人の縁を生み、あるいは歴史を遡行して真実にたどり着かせる。想像することの大切さを説く、これ大人が読んでいい良作である


思い出のマーニー [Blu-ray]
ウォルト・ディズニー・ジャパン株式会社 (2015-03-18)
売り上げランキング: 5,674
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『文学部唯野教授』 筒井康隆

アニメとかで、実際の作品より面白い記事ってあるよね


文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)
筒井 康隆
岩波書店
売り上げランキング: 95,227


唯野教授は、早治大学の文学部教授である傍ら、「野田耽二」のペンネームで密かに純文学を発表していた。さらにそれに留まらず、立智大学の非常勤講師として文学批評の講義を始めたが、そこで謎の女子大生・榎本加奈子と出会う。彼女に「野田耽二」であると見破られたのを皮切りに、出版社も芥兀賞候補に挙がったことから唯野を世間に売り出そうとして蠢動。唯野は学界での立場を守るために、悪戦苦闘する

小説であり、かつ文学批評の批評
小説は一章ごとに二つの部分に分かれる。作家と学者の二束のわらじをはく唯野教授が、閉鎖的な村社会の学界と商業主義の出版界の間に揺れる、ロマンスとしがらみに満ちた生活が描かれ、その後に非常勤講師として行う文学批評の歴史の講義が「長台詞」で下される
主人公である教授は人格者でもなく、見栄坊でひょうきんなお調子者。持ち前の処世術で学界の遊泳しつつ、自らの研究のために匿名で文学作品を発表している
そうした彼と変わった大学関係者たちから、それとなく学界の封建的な風土が語られ、本来もっとも開明的でなければならない世界の理想と現実の乖離がユーモアたっぷりに描かれる。なるほど、これなら、かつて大学闘争が吹き上がったのもわからぬでもない
教授の口から語られる文学批評の変遷には、本の感想を書き殴っている管理人にもグサリとくる内容で、なんで文学作品の批評が、いやいろんなジャンルの批評家たちがわざわざ難しい書き方をする理由を暴露してしまうのだ

唯野教授の講義は作者がかなり分かりやすく噛み砕いているものの、ある程度の固有名詞を知らないと頭に入りづらい。正直、管理人も頭がショートしかかっている
文学批評の歴史は、19世紀のイギリスに始まるらしい。というのも、それまでは小説家の絶対数が少なく、その地位も低かった。それでも大学に文学部が生まれたのは、台頭する中産階級に教養を植えつけようという狙いがあり、さらには共産主義対策に貧困層を啓蒙する狙いがあったという
初期の文学批評では前例がないことから、絵画などの美学理論をそのまま引いた「印象批評だった。作品から受けた個人の主観や直感を重んじる「印象批評」は、批評する側の持つ「伝統」や「常識」に縛られる。そして、個人の主観が根源なので、批評家に周囲を黙らせるほどの小林秀雄級の教養がなければ、世人を納得させられない
さすがに個人の主観で権威づけるのは無理があるので、政治・社会・歴史的文脈と関連づけようとする運動が「新批評(ニュークリティシズム)文学を人生のためになるものと位置づけて、社会的な問題や人間関係の是非を論じ始めた
文学が人生の教科書にまでしてしまうと、批評は一種の宗教・科学となる
「新批評」が持ち込んだ言葉は、「両価性」(アンビバレンツ)、「矛盾」(パラドックス)、『緊張』(テンション)で、主に詩の分析に力を発揮したらしい

フッサールとハイデガーの格闘が論じられた後に、徐々に現代の評論家が使いそうな言葉が増えてくる
第8講についに真打ち、ソシュールの構造言語学を元にした構造主義の登場である。「受容理論」で登場したノースロップ・フライ牧師は、文学の外部から主義主張を持ち込む批評家を批判する
批評はひとつの科学であり、芸術であるという信念のもと、『批評の解剖』を行う。それは文学批評には中心的な仮説として、あらゆる物語を五種類に分類してしまうものだった
そして、文学は五つの類型「神話→恋愛・冒険・伝奇→悲劇・叙事詩→喜劇・リアリズム→風刺・アイロニイ」に発達してきたと、文学批評の神話を創設してしまう
これには、「文学作品はすべての人間の願望のあらわれ」であるという仮定があり、なんだかユングの集合的無意識に近い
物語の構造分析への踏み台を作ったのが社会人類学者クロード・レヴィ・ストロースで、神話をいくつかの基本単位に分割し、その組み合わせで神話を成り立つとした。ロシア・フォルマリストのウラジミール・プロップは物語分類の魁で、『昔話の形態学』であらゆる魔法昔話を7つの行動領域、31の要素に分類してしまった(大塚英志の創作論の定番ですな)
「構造主義」は、このようにあらゆる文学を言語構造に似た構造を持っているとして、分析しなおした
この「構造主義」の問題はすべてを分類できるけど、メタ過ぎて文学の世界の味わいを説明できないこと。小説も六法全書もひとつの構造物に過ぎず、作家の個性も無視されてしまう。ソシュールの言語学からして、歴史を脇においているので、作品の時代背景など眼中に入らないのだ。結局、「構造主義」の批評は、「構想主義」の規則が引き立つだけではと唯野教授は語る

長くなったのでまとめると、文学に政治的文脈から独立した普遍的な法則を求める一派と、歴史・社会のつながりを重視する一派のせめぎ合いで、批評の歴史は揺れ動いている。歴史や社会背景にこだわり過ぎると批評家の政治運動になってしまい、ハイデガーのようにファシズムに突入することもあり、普遍的法則に傾き過ぎると、科学的合理主義に陥って無味乾燥の批評となる
最後の講儀で取り上げられるポスト構造主義では、そうした不毛を乗り越えようと、文学も批評も「エクリチュール(書き物)」という点で違いはないとする。その代表者であるジャック・デリダは、完成された体系、イデオロギーはすべてまやかしであるとし、「形而上学とみなした。とはいえ、文章というひとつの形式をとる以上、「形而上学」から逃れるものはデリダ本人含めてありえない
そこで、ひとつのイデオロギーと対立するもうひとつのイデオロギーと「二項対立」の状況を作らせ、正しさを証明しようとする余りにかえって行き詰ってしまう「アポリア(袋小路)」の部分を指弾することにした。これを「脱構築」(ディコンストラクション)と呼ぶ
唯野教授=作者も「ポスト構造主義」には好意的で、批評家の作品に対する特権的地位を潰す点でお気に召すのだろう
なぜ読みにくい文学批評が生まれるのか。それは「文学作品の意味を、まるで『もの』のように作品の中から取り出そうとしてきたから」(p188)とずいぶん昔から指摘され、そんなことではダメだと言われてきた。それでもなおかつ続くのは、「文学作品の意味を説明して欲しい」という根強い需要からであり、読者が科学合理主義から抜けられないからようだ


テクストの快楽
テクストの快楽
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ロラン・バルト
みすず書房
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『猫を抱いて象と泳ぐ』 小川洋子

将棋ファンにもお薦め


猫を抱いて象と泳ぐ (文春文庫)
小川 洋子
文藝春秋 (2011-07-08)
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屋上を降りられなくなった象インディラ。壁の間に挟まれて出られなくなった少女ミイラ。空想を友にした少年はある日、プールで死体を見つけた。その不幸な会社員を追いかけるうちに、同僚でチェス仲間だった独身寮の管理人に会う。ポーンという猫を抱く太っちょの管理人は少年にチェスを教えたが急死。悲嘆にくれる少年のもとに、“海底”パシフィック・チェス倶楽部からチェス人形“リトル・アリューヒン”を動かす依頼が来る

不思議でもの悲しく、美しい物語だった
屋上を降りられなくなった象から始まって、チェスを教えてくれた“マスター”が肥満ゆえに(生活の場にしていた)廃バスから出られなくなったことから、少年は「大きくなること」への恐怖を感じるようになる
からくりチェス人形“リトル・アリューヒン”を操作する立場になると、少年の体のままでいることに成功し、ほぼ12歳のままの体で一生を送る
一種の幻想のなかで生きる少年は、単純に成長忌避とはいえないし、作品としてもそれに突っ込まない。少年は“リトル・アリューヒン”でチェスを指すことで、大人たちを渡り合って行くし、アリューヒンの名に相応しい詩の棋譜を残していく
少年は“リトル・アリューヒン”となることを選んだのだ。そして、その代償として、鳩を肩に乗せた少女との悲恋を味わう
さて、少年は「大きくなること」から逃げ切れたのだろうか。人形から出られなくなる結果から考えると、彼もその宿命に飲まれている。大人とは、大きくなって屋上から降りられなくなることかもしれない
しかし、降りられなくなった少年の前にはチェスの豊饒な海が広がっていた

ヨーロッパとおぼしいものの(フランス?)、どこの地域かと特定できず、主人公をはじめ固有名詞はほとんど出てこない
ただ、アリューヒン”は実在したチェス・チャンピオンをモデルにしている
本名はアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・アレヒン。モスクワ生まれで、1927年にフランスに帰化しアリューヒンと呼ばれる
帰化した歳に、キューバのホセ・ラウル・カパブランカを破り、チェス・チャンピオンとなる。リベンジの権利をカパブランカを有していたものの、アリューヒンはこれを避け続けて、違う相手に防衛戦を行っている
カパブランカの実力を認めていても、「チェス機械」と称された棋風と相容れなかったようだ。彼がチェスを差す人形である“リトル・アリューヒン”を見たら、どう思うだろうか
アリューヒンは1933年に来日していて、目隠しの同時対局を全勝。あの木村義雄十四世名人とも対局していたという
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『第三の嘘』 アゴタ・クリストフ

いろいろ、ちゃぶ台が返る


第三の嘘 (ハヤカワepi文庫)
アゴタ・クリストフ
早川書房
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国境を越えて亡命した“リュカ”は、30年の月日を越えて自由になった祖国に戻ってきた。別れた兄弟“クラウス”を探しに、出国ビザの期限を越えて居酒屋でハーモニカを吹き、その名残を探す。ビザの期限切れを知られ監獄に入れられるが、本国へ送還される数日前に“クラウス・リュカ”という名の詩人がいることを知る。離れ離れになった兄弟の真実とは……

『悪童日記』『ふたりの証拠』に続く、三部作の完結編
時系列的に三部作の最終章にあたるものの、作品の性質は前作と前々作との違い以上に異なる。前半は国境を越えて亡命したリュカの視点から、後半は祖国に残ったクラウスの視点から、「私」の一人称で語られる。私小説のスタイルになっているのだ
『ふたりの証拠』では、クラウスが亡命しリュカが祖国に残っていたはずだったが、『第三の嘘』ではこれが。リュカは亡命した時に、「クラウス」を名乗ったからだ
そればかりか、『悪童日記』における「ぼくら」は、まったくの一人になったリュカがその孤独の辛さから想像した双子であり、『ふたりの証拠』で書かれたリュカは亡命しなかった自分を想像したフィクションということと判明する
と、地続きの世界観で考えると、衝撃の前作・前々作をひっくり返す最終巻ということになるが、これは多分そう読んではいけない。各作品を一種のスピンオフと捉えるのが妥当で、それぞれの体裁で語られた真実があると考えるべきだろう
この『第三の嘘』というスパイスを加えるか加えないかで、前作・前々作の意味が変わってくるのだ。厄介な作品だが、一粒で二度三度おいしいともいえる

『ふたりの証拠』の最後にも、年老いたクラウスが帰国するのだが、それが本作につながるかも怪しい。本作が真だとすると、リュカのヤスミーヌ殺しはフィクションとなるからだ
それはともあれ、リュカは冷戦崩壊で自由になった祖国へ戻り、本当の自分を語り始める
リュカには、実際にクラウスという双子の兄弟がいた。しかし、母が別れ話を切り出した父を射殺するというトラウマな事件に遭遇し、しかも流れ弾に当たって足が不自由になる(『ふたりの証拠』でリュカが障害児のマティアスに執着したのは、昔の自分に見立てたからだろう)
リュカはリハビリセンターに預けられるも、空襲に遭い祖母の家で養われ、ハンガリー動乱(1956年)をきっかけに亡命する
クラウスの方は、父の愛人だったアントニアに養われ、七年後に精神病院から戻ってきた実母と共に暮らし始める。実母は実際にいるクラウスを罵り、怪我を負わせたリュカを理想化して待ち焦がれる
クラウスは別れた兄弟に複雑な思いを抱えつつも、家庭を作り「クラウス・リュカ」の名で詩を発表していた
そんな状況が続くなかで、自由になった祖国で兄弟が再会する
リュカはクラウスを発見するが、クラウスはリュカを認めない。クラウスはリュカが死んだことを前提に続いてきた環境が崩れることが怖いのだ。リュカはただ己が書き続けた帳面だけを渡して、街を去る
亡命した人間にとって、故郷は昔の記憶のまま理想化されるが、実際の故郷はまったく違う時間を過ごして変わり果てている家族すら、違う生き物のように隔ててしまう時の無惨さが描かれている

解説によると『第三の嘘』は、アゴタ・クリストフの実体験に一番近い内容らしい
アゴタにはクラウスといういつも共に過ごしていた兄がいて、ハンガリー動乱でアゴタはスイスへ亡命し、クラウスは祖国に残ったという。インタビューでは「ハンガリーに帰郷しても、自分のいた痕跡を発見できない」と告白している
自身の直接的な亡命体験から『第三の嘘』は生まれたのだ。また、『悪童日記』から続編を考えたわけではないが、続編の余地を残していたとも言う。いちおう、それぞれ仕上げた時点で完結と考えつつも、引きずるものが残ったので作られた作品といえる
解説にもまるまる引かれている文章が、三部作の本質を表している。リュカが書店の女主人に何を書いているのか、と聞かれたときの返しだ

 私は彼女に、自分が書こうとしているのはほんとうにあった話だ、しかしそんな話はあるところまで進むと、事実であるだけに耐えがたくなってしまう。そこで自分は話に変更を加えざる得ないのだ、と答える。私は彼女に、自分の身の上話を書こうとしているのだが、私にはそれができない、それをするだけの気丈さがない、その話はあまりにも深く私自身を傷つけるのだ、と言う。そんなわけで、私はすべてを美化し、物事を実際にあったとおりにではなく、こうあってほしかったという自分の思いにしたがって描くのだ、云々。(p14)


これが『悪童日記』でリュカが「ぼくら」を捏造した由縁だろうし、『ふたりの証拠』というフィクションが立ち上がった訳であり、そもそも世界で物語=フィクションが必要となる理由ともいえよう
管理人は吾妻ひでおの『失踪日記』の冒頭で、「リアルだと 描くの辛いし 暗くなるからね」と宣言して、ぶっとんだ告白に及んでいくのを思い出した


前巻 『ふたりの証拠』

失踪日記
失踪日記
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吾妻 ひでお
イースト・プレス
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『ふたりの証拠』 アゴタ・クリストフ

辛く悲しい物語


ふたりの証拠 (ハヤカワepi文庫)
アゴタ クリストフ
早川書房
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「ぼくらのうちの一人」クラウスは鉄条網を越え、「もう一人」リュカは祖母の家に残った。戦争が終わり一党独裁の体制下で、リュカは野菜と家畜の面倒を見つつ、夜は居酒屋でハーモニカを吹いて生計を立てていた。ある日、不義の子を死なせようとした少女ヤスミーヌと出会い、二人を引き取る。リュカはいつかクラウスに伝えるために、日記を書き続ける

『悪童日記』の続編である
祖母の家に残った双子の片割れ、リュカの視点で、戦後の生活が語られる
双子の祖国は共産主義陣営に組み込まれ、全体主義的体制に支配された。戦争中より生活は安定するものの、当局によって本屋や図書館から読みたい本が消えて行く
父と不義の子を作ったヤスミーヌとその子マティアス、恋人を処刑された司書クララ、アルコール中毒の本屋ヴィクトール、同性愛者の党書記ペテール……リュカは直接実害を被らないものの、作品には社会からはじき出されり、精神生活を抑圧されて病んだ人々が次々に登場する
戦争によって生活と歴史が破壊され、全体主義によって記憶を奪われ意味が押し付けられる社会で、人間が生きたという証明は何によってなされるのか
社会は人を統計としか記憶せず、人が人によって記憶される他ない。リュカは自分の生きたという証のために書き続ける

前作では「ぼくら」で括られた双子は、それぞれリュカクラウスという名前を与えられている
他の登場人物も名前を持っていて、普通の小説に近くなったが、端的に書きなぐられた少年の日記という文体は変わらない。それによって青年になったリュカは、少年時代と同じ澄み切った存在に見せいてて、実はそれが巧妙なトリックとなっている
日記は読まれることを前提に書き残すもので、そこには著者のバイアスが必ずかかる。終盤に他の登場人物がリュカを語るとき、屈託のないような彼の精神がいかに脅かされていたかが明らかになるのだ
もう、なまじのミステリーなどぶっ飛ぶような衝撃である
戦争が終わって生活は安定したが、そこに住む人々の生活は荒廃している
その象徴として、リュカの家の屋根裏には、前作で死んだ母と妹の骸骨が飾られている。リュカは「ぼくらの片割れ」と別れたあと、その欠落を埋めようとするように、ヤスミーヌが生んだ障害児マティアスを受け入れて、自らの子として育てようとする
しかし、その新しい家族を作ろうとする努力は、複雑な人間関係のなか、最悪の形で崩壊する。戦争とその後の統制社会で、人々の傷は癒されることなく沈殿していくのだ
はたしてリュカはどこへ行った?


次巻 『第三の嘘』
前巻 『悪童日記』
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『私の男』 桜庭一樹

なんだ、女か


私の男 (文春文庫)
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桜庭 一樹
文藝春秋
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奥尻島の震災で家族を亡くしたは、親戚の男・腐野淳悟に引き取られた。その15年後に花は結婚、式のあとに淳悟は姿を消す。親子でありながら、恋人のような二人の間に、何があったのか。15年間の愛の日日を綴る

文量のわりに物足りない作品だった
純粋なミステリーでないとはいえ、謎の見せ方が上手くない。現代から15年前の震災に遡っていくのだが、ごろんと次の章の展開を想像させる現象が出されるので、展開にサプライズがない
なぜ、田岡さんは大塩さんのフィルムを現像しないのか。なぜ、死体を8年間もアパートに隠していたのか(結婚式の日には一瞬で消える!)。なぜ、小町さんは田岡さんの失踪にノーリアクションなのか
いくらなんでも、これぐらいは踏まえてくれないとご都合が過ぎるだろう。仕事して(苦笑)

文学的には、小さい女の子から見た「若い父親=最初の恋人」のまぶしさがテーマなのだけど、淳悟が早々に少女を母性を求めて抱くという崩れ方をして、のっけから複雑な間柄となる
花は母性のあるタイプには思えないが、「血」から来る力が淳悟には慰安になるらしい。いちおう理由らしいものはあるが、家族に「血」が不可欠という発想についていけるかで賛否が分かれるだろう
花は大人になるにつれ、堕ちていく淳悟から逃れようとする。しかし、その心情は漠たるものとしか描かれないので、結婚式での花の逡巡にいまいち迫力が出ない
老いていく父親のどこに嫌悪感を覚えたのか。恋愛小説として考えると、これはキモになるところだ
男を使い捨てたような花の魔性、女性の容赦なさについて、オブラートに包んだ感が否めなかった
富野監督が誰かとの対談で「近親相姦がいけないのは、気持ち良すぎるからだよね」と喝破していたが、性愛についてはその「気持ちよさ」を描ききったといえるだろう。「気持ちいいこと」ばかりしてると、お互いが腐っちゃうのだ
解説によると、本当の名作は『赤朽葉家の伝説』らしい。『私の男』は、直木賞を獲らせるために準備不足で長編にしたのでは、と勘ぐりたくなった


私の男 [Blu-ray]
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『ハックルベリイ・フィンの冒険』 マーク・トウェイン

パラドゲー『Victoria』の歴史イベントでも出てきます


ハックルベリイ・フィンの冒険 (新潮文庫)ハックルベリイ・フィンの冒険 (新潮文庫)
(1959/03/10)
マーク・トウェイン

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トムとの冒険で6000ドルを得たハックは、未亡人の家に引き取られる。そこへ飲んだくれの父親が金をせびりに現れたので、街を出ることに。逃亡した黒人奴隷ジムといっしょに、筏でミシシッピー川を下るが、その行く先々には様々な苦難が待っていたのだった

『トム・ソーヤーの冒険』の続編にあたる、家なき子ハックの冒険譚
ハックトム・ソーヤの友人で、アル中の親父に放置されストリートチルドレン化し、街の住人から嫌われていたが、トムとの冒険を通して名誉と大金を手にしていた
そこへダメ親父が舞い戻ったので、家出するのが冒険の始まりだ
村岡花子の短い解説によると、マーク・トウェインは前作を少年小説としか評価されなかったことへの反発があったらしく、本作は単純な冒険小説の体裁をとっていない
主人公は社会の裏側を見てきて世故長けた少年ハックであり、行き当たりばったりの子供ぽっさは残るものの、その目を通して映った世界は前作のように理想化されたものではなく、南北戦争前後のリアルな社会が描かれている
家庭を放棄した暴力親父との関係、黒人奴隷が当たり前の世界、法の及ばない地域での力による解決、悪党とみなした者へのリンチ、……まさにアメリカ社会の底流に流れるものが映し出されていて、ヘミングウェイをして「アメリカ文学の源流と言わしめるのも分かる名作だった

こんな名作が、本国アメリカでは図書館にふさわしくない作品として、問題になってきたらしい
というのも、村岡花子の訳でいう「黒ん坊」が、おそらく「Negro」(ニグロ)という差別用語だからだろう
作中でも黒人を道具視するような表現が多出する。ハックにしても、お助けキャラで登場するトムにしても、人種差別主義者ではないが、黒人奴隷を当たり前とする社会で生まれた人間として動くので差別表現を伴う
もちろん、マーク・トウェインは奴隷制に賛成しているわけではなく、その大反対である
奴隷制を当たり前とする世界を忠実に描くことが、それだけ際どいことを要求するのだ
ミシシッピー川を下る冒険は、共同体の法と慣習から解き放たれた世界だけに、アメリカの“生の原理”がむき出しとなる
これを訳しきった村岡花子は、伊達じゃない

*発禁処分を受けたのは、挿絵のハックの股間が印刷の都合で膨らんでいたかららしい(爆)。ネタ元は関連記事の本


前作 『トム・ソーヤーの冒険』

関連記事 『ハックルベリー・フィンは、いま』
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『トム・ソーヤーの冒険』 マーク・トウェイン

ファミコンのゲームになってたらしい

トム・ソーヤーの冒険 (ポプラ社文庫―世界の名作文庫)トム・ソーヤーの冒険 (ポプラ社文庫―世界の名作文庫)
(1979/12)
マーク・トウェン、岡上 鈴江 他

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村岡花子訳の『ハックルベリー・フィンの冒険』を読むために、触っておいた
子供の頃に読んだはずだけど、内容は完全に忘れている
ストーリーはわんぱく坊主のトムが、機転を利かせて家の用事を済ませたり、悪戯をしたりしつつ、日常に飽いて冒険に出てみんなを心配させたり、と思い向くままに行動して、最後は大きなご褒美がという、児童文学にありそうなものだった。いや本作から、児童文学の定番が生まれたかもしれないが
ただトムことトマス・ソーヤーの身の上は、早くに母を亡くし、弟ジッドともに叔母の家で暮らすという複雑なもので、彼自身も叔母に愛されているのか、気にしている
思春期にさしかかった少年として、一目ぼれしたベッキーとの恋、殺人事件の秘密を抱えた不安などを抱えている。細かい心の動きを追いかけられていて、アメリカ文学の父といわれた片鱗が窺えた

トムの住むセント・ピーターズバーグマーク・トウェインの故郷である、ミズーリ州ハンニバルをモデルにしていて、ミシシッピー川を航行する船の中継地として栄えていたという
マーク・トウェンの名の由来も、汽船の水先案内人の合図“by the mark, twain”(2ファゾム=約3.6m)に由来し、作中でも船に助けられる場面がある
街の住人は児童文学らしく理想主義的で、善行をすればそれに答えてくれるといった調子だが、日曜に教会に集まる日曜学校、体罰のムチ、子供に飲ませる危ないドラッグ(興奮剤)など、当時のアメリカを偲ばせるというか、今のアメリカにつながる文化をそこかしこに感じさせてくれた
トムの冒険仲間であるハックいわゆる家なき子で、父は飲んだくれで行方不明となり、街の住人からも嫌われている
そのハックがトムのような堅気の人生を嫌って大冒険に出るのが、次作『ハックリベリー・フィンの冒険』。この作品はアメリカ文学の源泉といわれるガチ仕様らしいから、どんな展開が待っているか、楽しみだ


関連記事 『ハックルベリー・フィンの冒険』
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『風立ちぬ』 堀辰雄

宮崎アニメも観たいんだけど、金ないんだわ

風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)
(1951/01/29)
堀 辰雄

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節子と“私”がサナトリウムで暮らした日々を綴る堀辰雄の代表作
“私”を視点とする小説ながら、『美しい村』とずいぶん毛並みが違った
主人公が節子通り過ぎる時間、世界に移っているのだ。“私”の自意識は後退して、節子が直面する死とそれによって見出された世界の美しさが全面に出ている
「自然なんぞが本当に美しくと思えるのは死んで行こうとする者の眼にだけだ」。かつて節子に語った言葉を彼女から突きつけられ、“私”は自然に美を感じられたのは死にいく節子と共にいたからだと悟った

各編によって小説の形態も変わった
「序曲」「春」「風立ちぬ」“私”がほぼ視点キャラで、自意識を吐いてにも節子へすぐに焦点がいく
そして、「冬」「死のかげの谷」では各文章の最後に日付が入る手記調となり、私小説に近い形式になる
ただし、その手記の“私”は絶えず節子の存在を意識し、「死のかげの谷」に至っては彼女が不在にも関わらず、傍らに節子がいるよう風景に触れていく
最愛の人の生と死に立会い、“私”という個人が一人で成り立っているわけではないことを知るのだ

『風立ちぬ』は昭和十一年(1936年)十月から書き始められ、最後の章「死のかげの谷」が昭和十二年(1937年)十二月軽井沢の川端康成宅で書き終えている
時代的には1937年8月に盧溝橋事件が起こり、日中戦争が始まっているが、節子のモデルとなった女性が1935年に亡くなっていることから、戦間期の文学と言っていいだろう
宮崎駿監督の『風立ちぬ』でも、ヒロイン菜穂子は戦争が本格化する前に死に、話の大半は片がつくという
映画を観ていないこともさることながら、戦間期における文学の在り様を知らないので、話の膨らましようがないのだが(苦笑)、方々で聞く感想を聞くとあまり宮崎作品と直接結びつけて読む必要はないと感じた
ただ宮崎監督が戦間期をどう解釈しているかには興味があるので、映画は映画でなんらかの形で見ておきたいと思う


関連記事 『美しい村』
     【BD】『風立ちぬ』

フィルムコミック 風立ちぬ(上) (アニメージュコミックス) (アニメージュコミックススペシャル)フィルムコミック 風立ちぬ(上) (アニメージュコミックス) (アニメージュコミックススペシャル)
(2013/08/31)
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『美しい村』 堀辰雄

青空文庫でも読めますが

風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)風立ちぬ・美しい村 (新潮文庫)
(1951/01/29)
堀 辰雄

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『風立ちぬ』を別枠で扱いたいので、記事を分けることにした
本作は軽井沢を訪れた若い小説家と少女との出会いを描いた私小説的作品
いや、驚いた。赤裸々ともいえるロリコン告白なのである
小説家として美しい光景を目に焼き付けていた“私”は、同じく風景を写生する少女を見て惹かれる。“私”は以前にも同じ年頃の少女と付き合ったことがあったらしく、苦い思い出を持っている
ロリコンの“私”にとって脅威なのは、以前の私を知る元少女たちに出くわすことである。狙いの少女を連れつつも、不自然なほど一目を避けて行動する
ラストにはついに元少女の人妻に見つかって……自意識過剰が痛々しく腹を抱える展開である(苦笑)
解説によると、この『美しい村』は堀辰雄にとって転機になった作品で、それまで少女や風景を「将棋の駒」のように扱っていたのが、次作の『風立ちぬ』で実体験を経て変貌していくそうだ
美しい日常を書くはずが、一人の少女の出現で作品の中身まで現在進行形で変わってしまう。超然とした“私”が一介のキャラクターとして右往左往する。それが本作の醍醐味だ

作品のBGMとして流れるのはバッハの遁走曲(フーガ)であり、その構図はハルキ作品との関わりを考えしまう
バッハを演奏するのは外国人で、戦前の軽井沢は多くの外国人が過ごすリゾートだ。そもそも軽井沢を避暑地にしたのは、カナダ人の宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーで、その後西武財閥などの資本が入って日本三大外国人避暑地と呼ばれるまでになった
今上天皇と美智子皇后が知り合ったことでも有名で、ビートルズ解散後のジョン・レノンが毎年利用していた
こうした避暑地には、転地療養に使われるサナトリウム(療養所)があって、堀辰雄自身も結核にかかって療養していたという
アニメやラノベが文学として語られる昨今である。その先達として本作も読まれるべきだろう


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