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『ペスト』 カミュ

暗い時代を生き抜け!




フランス植民地時代のアルジェリア。オラン市では、ネズミの大量死が起こっていた。医師のリウーは原因不明の熱病患者に直面し、ペストの流行を予感する。医療従事者の報告を受けて、市当局は街の閉鎖を決意。市民たちは外出を制限され、人間関係が遮断された中での日々を強いられる。「ペスト」という不条理な事態に対して、人の光と闇が映し出されていく

コロナ流行の影響で脚光を浴びている文学作品
舞台はフランス統治下のアルジェリアで、作者の出身地。その中心的な港町オランで、ペストが大流行し、街が閉鎖される中での市民の生活が描かれる
小説が書かれ始めたのは第二次大戦中からであり、フランスがナチスドイツに占領される事態が、普通に生きてきた人々を苦しめる「ペスト」の寓意にもなっているようだ
俗に「不条理」小説といわれるが、作者の主義はあんがい明快。作中に語られるところ「悪」は無知から生まれるとする啓蒙主義であり、性善説を掲げ、「不条理」(=常識外の出来事)に対しても、「理性でもって事に当たる
もっとも時代が時代だけに「理性」が万能というわけでもなく、人為に限界があることは百も承知している
ただ、それを放り投げて神秘主義へ走ったり、将来を諦めたりはしない。本作では視点となるリウー医師、新参者のジョン・タルーらを中心に、暗闇の状況で起こる重厚な人間ドラマが展開される

作者の立場はリウー医師の姿勢につきるのではないだろうか
たとえ、死にゆく患者に対しても医者としての最善を尽くし、今後の対策に向けてメモを忘れない。そこには患者を家族から引き離す、非情な業務も含まれる
なぜ、そんな仕事を続けられるかというと、「人が死ぬことになれないから」
タル―との、視点キャラ同士の問答で

「これは、あなたのような人には理解できることではないかと思うのですがね。とにかく、この世の秩序が死の掟に支配されている以上は、おそらく神にとって、人々が自分を信じてくれないほうがいいかもしれないんです。そうしてあらんかぎりの力で死と戦ったほうがいいんです、神が黙している天上の世界に目を向けたりしないで」
「なるほど」と、タル―はうなずいた。「いわれる意味はわかります。しかし、あなたの勝利は常に一時的なものですね。ただそれだけですよ」
リウーは暗い気持ちになったようであった。
「常にね、それは知っています。それだからって、戦いをやめる理由にはなりません」
「確かに、理由にはなりません。しかし、そうなると僕は考えてみたくなるんですがね、このペストがあなたにとって果たしてどういうものになるか」
「ええ、そうです」と、リウーは言った。「際限なく続く敗北です」(p188)


この前段に、ペストを人々の罪のせいで神の意思として受け入れろというパヌルー神父の説教があり、それに対するリアクションなのだが、なんとも理性の道は苦しい、終わりのないディフェンスなのである

そのほか、コタールという人物などは、犯罪歴があり自殺騒動を起こす困ったチャンだが、有事に対しては「おれは普段からペストに罹っているようなものだった」と、活動的になる。都市のロックダウンにより恋人と引き離された記者のランペールは、非合法な手段での脱走をはかるが、リウーたちの活動にいたたまれず残留を決意する
趣味の小説を書き溜めた老官吏グランは、死に瀕して原稿を焼き払うように求めるが……結果的に裏目という様々な人間模様が映し出される
永遠に続く夜はない。ペストも血清が出回って小康状態となり、街は徐々に活気を取り戻す。しかし、万民に幸福が訪れるわけでもなく、やはりそこにも「不条理」が渦を巻くこれが人生であり、それを避けるためにスペシャルな手段はなく、またすがってはいけないというのが、作者のメッセージなのだろう
たとえ、表に出なくなったとしても、ペスト(あるいは「不条理」)は存在し続けるわけであり、人々はそれ以前の状態には戻れない。今で言えば、コロナウイルスを乗り越えても、次のパンデミックを織り込んだ社会制度が求められるし、生活習慣も哲学も必要になってくるのだ


『ポル・ポトの掌』 三輪太郎

なんで会いにいくのやら


ポル・ポトの掌
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三輪 太郎
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幼馴染だった修一の死を聞いて、ぼくは内戦さめやらぬカンボジアへ行く。修一はたえず前を走る存在であり、いつしか疎遠となったが、大学の株式研究会で思わぬ再会をする。学生時代から相場に親しみ、卒業ともにアメリカの大学で最新の投資理論を学ぼうと留学した彼に何があったのか

少し完成度が低い作品だろうか
大学時代に幼馴染の修一から刺激を受けて相場の研究会に入り、投資会社でディーラーとなったぼくは、その修一の死を聞いて強い喪失感に陥る。修一はなぜカンボジアへ渡って客死したのか、本作はそれをたどる物語となっている
中盤まではカンボジアを旅する主人公と、1970年代に生まれてからのディーラーを辞めるまでの回想が交互に進展して、それが自然と合流するように作られており、その後にはタイトル通り、森で隠棲するポル・ポトと面会する山場にさしかかっていく。構成は整っている
が、テーマ性という点からは、「修一がなにを求めて死んだか」という部分が放り出されているし(オウム真理教に触れた部分から類推できなくはないが)、資本主義の「神の手」と対比されるはずの「ポル・ポト(の掌)」が資本主義批判として弱い

著者は文芸評論家で村上春樹の研究でも知られていて、「あさま山荘事件」に代表される過激化して終息した学生運動から、「森の王」というキーワードでオウム真理教につなげる着眼点は、2009年初出の『1Q84』に先んじている
しかし、どうすれば「森の王」を生まないか、取り込まれないかという課題を解消できず、ぼくはポル・ポトに手玉にとられる形で送り返される
年代的に、新自由主義の全盛はその後であり、グローバリゼーションの進展も冷戦後に始まっていて、小説のポル・ポトには今少し頑張って排撃してもらいたかったのだが(苦笑)、自らの行動を正当化する老人に過ぎずガッカリだった
なぜか日本のムラ社会の是非に飛び火していて、議論のベクトルが散漫になっている
そして、肝心の修一の話題がいっさい出ず、彼が何を求めてポル・ポトの森に踏み込んだのかは分からずじまい。主人公を翻弄し続ける現地人ソヴァンのしたたかさ、近代への意志だけが光を放っている


関連記事 『1Q84 BOOK1』

あなたの正しさと、ぼくのセツナさ (講談社文庫)
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文庫本ではなぜか、この改題。出版社が決めることではあるが……

『邪宗門』 高橋和巳

特定の宗教団体がモデルではない


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東北の飢餓で母を亡くした少年・千葉潔は、所縁のある宗教団体「ひのもと救霊会」を頼る。救霊会は神がかりの開祖・行徳まさを引き継いだ、活動的なカリスマである二代目・行徳仁次郎が、日本各地はおろか、満州、南海の委任統治の島々にも支部を広げていた。しかしその団体の拡大が、国家神道で宗教界を束ねようとする政府に警戒され、大弾圧を受ける。戦後、戦地から帰った千葉は、救霊会をもって本当の「世直し」を計るが……

『愚民社会』で宮台センセが推していたので読んでみた。なるほど名作である
本作の特徴は、マイノリティである新興宗教の立場から見た昭和となっている。部外者からは珍奇な視線で見てしまう新興宗教だが、その由来が分かると見る目も変わってくる
江戸から明治にかけて、国を挙げての工業化・近代化が推進された結果、農村は荒廃して都市との格差は増し、男性的な民法によって女性の立場が脅かされ続けた。不幸が重なって社会の階層から放り出された人々の受け皿になったり、向上心がありながらそれを社会で生かす場所がない女性の活躍の場になっていたのだ。女性の開祖が多いのは、男性中心の社会に対応している
テーマは難解ながら、飢餓から生き残った少年・千葉潔タカビーな教主の娘・阿礼を中心に、気さくな二代目教主・仁次郎、持病で足が不自由な次女・阿貴などなど多彩な登場人物が魅力的で、喜劇としても悲劇としても華のある過酷な大河小説である

上巻では、大恐慌、東北を中心とする農村の貧困、日中戦争から太平洋戦争へと軍国主義が進展するなかで、宗教団体が国策に飲まれていく様が描かれる
宗教界のナショナリズムな運動として、廃仏毀釈が進むなか、新興宗教も神道に近い形式をとって誕生する。団体が大きくなって社会的影響力を増し、時代がきな臭くなって思想統制がとられるようになると、国家神道に不都合だと判断されて、弾圧を受ける。戦前の信教の自由は、天皇制で許された範囲に過ぎないのだ
行徳仁次郎の逮捕と拘禁は、開祖・行徳まさが遺した「お筆先」で歴代の天皇について書いた部分を口実にした反逆罪であり、長い虜囚生活のなか、妻の行徳八重は半病人で釈放され、仁次郎は獄死する(元ネタとおぼしき大本の出口王仁三郎は1942年に釈放されている。あくまでモデルであって、いろいろアレンジされているので細かい比較はよしたほうがよさそうだ)
救霊会は、九州において分派した軍国主義を鼓吹する救世軍と合同することとなり、行徳阿礼はその教祖の息子に嫁ぐこととなる

下巻では、5・15事件に関係し教団から出奔した千葉潔が、戦争から帰ってきて物語を大きく展開させていく。モデルとなった新興宗教たちには、武力闘争とした歴史などないから、まったくのオリジナルである
戦争で捕虜を殺した千葉に、救霊会の神を信じる気持ちは持てなくなっていた。彼が志すのは、教団を利用した「世直し」であり、宗教を手段と考えるニヒリストとなってしまったのだ
解説の佐藤優がロシア革命でできたソ連を「ニヒリストの作ったグロテスクな帝国」と称したように、千葉にはドフトエフスキーの『悪霊』に出てくる革命家たちを連想させるところがある
千葉によって指令された教団のゲリラ戦は幻の本土決戦といえ、天皇制に弾圧された宗教組織が進駐軍相手に信者を玉砕させるところは、単に日本の戦争を軍部のせいにせず、日本人の精神構造へ求めているかのようだ(それどころか、あさま山荘事件やオウム事件をも予見していたかのようで……)
そして、終盤において、自殺を美化し「この世」と自分の命を軽んじる救霊会は、最初から「邪宗」ではなかったかと指弾する。これは単に新興宗教だけでなく、日本人全体に根付いた傾向ではなかろうか。とにかく空間的にも時間的にも、とんでもない射程を持つ作品なのである


関連記事 『愚民社会』

『騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編』 村上春樹

昨年は病気で倒れ、親父が死に、最後に軽い失恋を味わうヒドい年だった
今年は確実に去年よりはよくなるだろう

あっ、記事はネタバレ全開なのでご注意を


騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編
村上 春樹
新潮社 (2017-02-24)
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私に肖像画を依頼した謎の富豪「免色」の目的は、実の娘かもしれない‟まりえ”に近づくことだった。私は免色のお願いを聞き、‟まりえ”を絵のモデルとして招いて、免色は‟まりえ”の美しい叔母、かつての恋人の妹・笙子へと近づく。しかしある日、‟まりえ”は突如として失踪する。騒然とする周囲をよそに、私は‟騎士団長”の予言に従って昏睡状態の雨田具彦を尋ねる。そこから不思議な世界へ突入して……

話は「私」が雨田具彦を訪問することで一気に動いていく
騎士団長として現れた「イデアは、具彦が眠る病室で自らを殺すように要求する。絵画「騎士団長殺し」の光景を再現しろ、というのだ
イデアを殺したところから、穴から覗く男「かおなが」が現れ、私は彼を脅すことで‟まりえ”がいると思しき世界へと入っていく。私にとって13歳の‟まりえ”は死んだ妹の写し絵であり、別れた妻・ゆずに対しても同じ感情を引きずっていた
妹の死に立ち向かうことが、私にとっての「試練」だったのだ
それがなぜ‟まりえ”の救出につながるかは、現実をベースに考えるとご都合なのだが(笑)、「私」の冒険は‟まりえ”の冒険と表裏一体となっており、終盤に彼女の「父を知る旅」が描かれる。『スプートニクの恋人』などハルキ小説では女性の冒険が割愛されることが多いので、ちゃんと取り上げられるのは意外だった
まりえの冒険は「私」に比べて写実的でややそっけないが、作者にとってはチャレンジだったはずだ

騎士団長とは何だったかというと、主人公やまりえに対する助言者であり、ユング心理学の「老賢者そのままだ
雨田具彦の『騎士団長殺し』は、歌劇『ドン・ジョヴァンニ』を下敷きにナチスに対するオーストリア抵抗運動に影響されたもののはずで、上巻の巻末では『トレブリンカの反乱』(邦題『トレブリンカ叛乱』)からの引用があった
しかし、下巻では最後に東日本大震災と福島原発に言及されたものの、『騎士団長殺し』に内包された課題「邪悪なる父を殺し、その血を大地に吸わせる(p322-323)は放り出されたままに終わった。癒されたのは「私」と‟まりえ”で、世界と「私」は接続されず距離をとったままに終わったのだ
「白いスバル・フォレスターの男」主人公の行いを監察する審問官のような存在で「邪悪なる父」になりえないし、免色も実の娘を追いかけてしまう「ちょっと嫌なおっさん」に過ぎず、悪役には発展できなかった
本作は打ち上げたアドバルーンの割に、うまく中身が詰められなかった作品だと思う
作中で主人公が‟まりえ”の肖像画、「白いスバル・フォレスターの男」「雑木林の中の穴」が未完成のままに終わらせたのも、これ以上書き足しても作品が良くならないという自己言及なのかもしれない


前巻 『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編』

『騎士団長殺し 第1部 顕れるイデア編』 村上春樹 

 この本を身内から借りたのは、入院した三月末。なんで、ここまで放っておいたのか謎


騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編
村上 春樹
新潮社 (2017-02-24)
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画家の「私」は、妻・柚に新しい男ができたことから別れ、旅に出る。流浪の果てに友人である雨田政彦の好意で、彼の父親・具彦が残した別荘に住むこととなった。その別荘には、具彦の残した謎めいた絵『騎士団長殺し』が置かれていた。その絵に出会ったから、謎の富豪「免色」の肖像画を描いたり、夜中に鈴の音に悩まされ即身仏のために掘られた竪穴を探索したり、絵から飛び出したような「騎士団長」が顕れたりと、不思議な体験をすることに……

読み進みにくい小説だった……
画家の私が様々な出来事を通して、12歳で早逝した妹への哀惜が残す心の傷など、自分の隠された内面や至らない過去に気づいていく物語であり、第一部はそれに雨田具彦の過去とアンシェルズ(ナチスのオーストリア併合)の関係が解き明かされていくなど、過去作だと『ねじまき鳥クロニクル』に近い作風だ
画家の「私」は妻にフラれたダメ男と思いきや、旅先やお絵かき教室でこせこせと情事の相手を見つける、妙な器用さがある(笑)。『ノルウェイの森』しかり、ナンパの上手さもハルキ小説の主人公の伝統といえよう
文体も落ち着いていてそれが読みにくいわけではないのだが、「免色」の訪問、人妻の「ジャングル通信」、謎の鈴の音、「騎士団長」の登場と、こまごまと日々が過ぎていき、物語の筋が見えない、まるで日記のような構成が章をまたいで読みにくいリズムを生んでいたと思う。ただそれは欠点というわけではなく、作品の特異さなのである

ついつい従来の作品と比較しがちだが、謎の依頼人「免色はなかなかユニークな人物だ
金融資本主義に乗っかって莫大な利益を上げ、人里離れた別荘に若隠居した男。「色」を「免」れるとあって、「私」はその肖像画を描くのに苦戦する。その正体を探るのが、第一部の筋のひとつである
『ノルウェイの森』の永沢とか、『ねじまき鳥クロニクル』の綿谷ノボルのように、主人公と対称的な存在として登場するが、世界の敵でもなければ主人公の虚飾をはぎ取る悪魔でもない
第一部の終盤で、感傷や迷いと無縁であるやりたい放題の人生を送っているように見える「免色」も、実は主人公と同じ弱点を抱えた同質の存在と分かるのだ
そして「免色」の屈折が明らかになるとともに、主人公が抱えていた心の傷が明るみになっていく。この終盤の畳みかけは感動的だった
「私」の心の傷は第一部で明らかになってしまったかに思えるものの、ラストには『トレブリンカの反乱』(『トレブリンカ叛乱』)からの意味深な引用が!
雨田具彦がウィーンで観たものはなんだったのか。「騎士団長」は何を「私」に訴えたいのか。そして、「私」はどうなっていくのか。これは第二部を読まざるえまい


次巻 『騎士団長殺し 第2部 遷ろうメタファー編』

関連記事 『ねじまき鳥クロニクル』 第1部
     『ノルウェイの森』 上巻

トレブリンカ叛乱――死の収容所で起こったこと1942-43
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『思い出のマーニー』 J・G・ロビンソン

宇多田ヒカルのアルバムを聴きながら


思い出のマーニー (新潮文庫)
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プレストン夫妻に引き取られた少女アンナは、夏休みを海辺に近いノーフォークで過ごすことになった。実の親に捨てられたと思い込んでいる彼女は、寄宿先の夫婦とも打ち解けず、近所の子供とも仲良くできない。一人、海辺に出かけるのが日課となっていたが、ある日、満潮時に海に沈む湿地を探検し、大きな屋敷を見つけた。そこには不思議な少女、マーニーが住んでいた

元ジブリの米林宏昌監督でアニメ映画化して、アカデミー賞の長編アニメ部門でノミネートしたそうなので、ミーハーに手にとってみた
主人公のアンナは、両親が事故死しさらに祖母を失ったことを「見捨てられた」と捉えていて、普通の人たちを「内側」の人とし、自分を彼らと縁がない「外側」の人と位置づけてしまう心を少し閉ざした少女
アンナの年齢から「児童文学」とジャンル分けされているが、彼女の精神自体は非常に大人びいた領域に踏み込んでいるのだ
そんな彼女が癒しとして見出したのが、謎の屋敷に住むという少女マーニー。お互いが秘密にし合うという約束に元で、夏休みの間に遊びまわる
しかし、風車小屋の一夜をきっかけに別れの時がやってくる。そこには、マーニーの恋人であるエドワードという存在があって、アンナは少女時代の別れを疑似体験するのだ

メンヘラ少女がいかに社会に入っていくか。なんていう、説教話に落ちないのが本作のいいところ
豪快なネタバレになってしまうが、アンナがマーニーへの幻想を自覚してから、実際に「湿地の館」に住み始めた住人たちとの出会いが始まる。そこにはアンナのように夢見る少女プリシラがいて、そこでかつて屋敷に住んでいた本当のマーニーが浮かび上がってくるのだ
循環するオチはハッピーエンドで尺に収める児童文学のお約束かもしれないが、たとえ妄想で始まったとしても、想像することが人の縁を生み、あるいは歴史を遡行して真実にたどり着かせる。想像することの大切さを説く、これ大人が読んでいい良作である


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『文学部唯野教授』 筒井康隆

アニメとかで、実際の作品より面白い記事ってあるよね


文学部唯野教授 (岩波現代文庫―文芸)
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唯野教授は、早治大学の文学部教授である傍ら、「野田耽二」のペンネームで密かに純文学を発表していた。さらにそれに留まらず、立智大学の非常勤講師として文学批評の講義を始めたが、そこで謎の女子大生・榎本加奈子と出会う。彼女に「野田耽二」であると見破られたのを皮切りに、出版社も芥兀賞候補に挙がったことから唯野を世間に売り出そうとして蠢動。唯野は学界での立場を守るために、悪戦苦闘する

小説であり、かつ文学批評の批評
小説は一章ごとに二つの部分に分かれる。作家と学者の二束のわらじをはく唯野教授が、閉鎖的な村社会の学界と商業主義の出版界の間に揺れる、ロマンスとしがらみに満ちた生活が描かれ、その後に非常勤講師として行う文学批評の歴史の講義が「長台詞」で下される
主人公である教授は人格者でもなく、見栄坊でひょうきんなお調子者。持ち前の処世術で学界の遊泳しつつ、自らの研究のために匿名で文学作品を発表している
そうした彼と変わった大学関係者たちから、それとなく学界の封建的な風土が語られ、本来もっとも開明的でなければならない世界の理想と現実の乖離がユーモアたっぷりに描かれる。なるほど、これなら、かつて大学闘争が吹き上がったのもわからぬでもない
教授の口から語られる文学批評の変遷には、本の感想を書き殴っている管理人にもグサリとくる内容で、なんで文学作品の批評が、いやいろんなジャンルの批評家たちがわざわざ難しい書き方をする理由を暴露してしまうのだ

唯野教授の講義は作者がかなり分かりやすく噛み砕いているものの、ある程度の固有名詞を知らないと頭に入りづらい。正直、管理人も頭がショートしかかっている
文学批評の歴史は、19世紀のイギリスに始まるらしい。というのも、それまでは小説家の絶対数が少なく、その地位も低かった。それでも大学に文学部が生まれたのは、台頭する中産階級に教養を植えつけようという狙いがあり、さらには共産主義対策に貧困層を啓蒙する狙いがあったという
初期の文学批評では前例がないことから、絵画などの美学理論をそのまま引いた「印象批評だった。作品から受けた個人の主観や直感を重んじる「印象批評」は、批評する側の持つ「伝統」や「常識」に縛られる。そして、個人の主観が根源なので、批評家に周囲を黙らせるほどの小林秀雄級の教養がなければ、世人を納得させられない
さすがに個人の主観で権威づけるのは無理があるので、政治・社会・歴史的文脈と関連づけようとする運動が「新批評(ニュークリティシズム)文学を人生のためになるものと位置づけて、社会的な問題や人間関係の是非を論じ始めた
文学が人生の教科書にまでしてしまうと、批評は一種の宗教・科学となる
「新批評」が持ち込んだ言葉は、「両価性」(アンビバレンツ)、「矛盾」(パラドックス)、『緊張』(テンション)で、主に詩の分析に力を発揮したらしい

フッサールとハイデガーの格闘が論じられた後に、徐々に現代の評論家が使いそうな言葉が増えてくる
第8講についに真打ち、ソシュールの構造言語学を元にした構造主義の登場である。「受容理論」で登場したノースロップ・フライ牧師は、文学の外部から主義主張を持ち込む批評家を批判する
批評はひとつの科学であり、芸術であるという信念のもと、『批評の解剖』を行う。それは文学批評には中心的な仮説として、あらゆる物語を五種類に分類してしまうものだった
そして、文学は五つの類型「神話→恋愛・冒険・伝奇→悲劇・叙事詩→喜劇・リアリズム→風刺・アイロニイ」に発達してきたと、文学批評の神話を創設してしまう
これには、「文学作品はすべての人間の願望のあらわれ」であるという仮定があり、なんだかユングの集合的無意識に近い
物語の構造分析への踏み台を作ったのが社会人類学者クロード・レヴィ・ストロースで、神話をいくつかの基本単位に分割し、その組み合わせで神話を成り立つとした。ロシア・フォルマリストのウラジミール・プロップは物語分類の魁で、『昔話の形態学』であらゆる魔法昔話を7つの行動領域、31の要素に分類してしまった(大塚英志の創作論の定番ですな)
「構造主義」は、このようにあらゆる文学を言語構造に似た構造を持っているとして、分析しなおした
この「構造主義」の問題はすべてを分類できるけど、メタ過ぎて文学の世界の味わいを説明できないこと。小説も六法全書もひとつの構造物に過ぎず、作家の個性も無視されてしまう。ソシュールの言語学からして、歴史を脇においているので、作品の時代背景など眼中に入らないのだ。結局、「構造主義」の批評は、「構想主義」の規則が引き立つだけではと唯野教授は語る

長くなったのでまとめると、文学に政治的文脈から独立した普遍的な法則を求める一派と、歴史・社会のつながりを重視する一派のせめぎ合いで、批評の歴史は揺れ動いている。歴史や社会背景にこだわり過ぎると批評家の政治運動になってしまい、ハイデガーのようにファシズムに突入することもあり、普遍的法則に傾き過ぎると、科学的合理主義に陥って無味乾燥の批評となる
最後の講儀で取り上げられるポスト構造主義では、そうした不毛を乗り越えようと、文学も批評も「エクリチュール(書き物)」という点で違いはないとする。その代表者であるジャック・デリダは、完成された体系、イデオロギーはすべてまやかしであるとし、「形而上学とみなした。とはいえ、文章というひとつの形式をとる以上、「形而上学」から逃れるものはデリダ本人含めてありえない
そこで、ひとつのイデオロギーと対立するもうひとつのイデオロギーと「二項対立」の状況を作らせ、正しさを証明しようとする余りにかえって行き詰ってしまう「アポリア(袋小路)」の部分を指弾することにした。これを「脱構築」(ディコンストラクション)と呼ぶ
唯野教授=作者も「ポスト構造主義」には好意的で、批評家の作品に対する特権的地位を潰す点でお気に召すのだろう
なぜ読みにくい文学批評が生まれるのか。それは「文学作品の意味を、まるで『もの』のように作品の中から取り出そうとしてきたから」(p188)とずいぶん昔から指摘され、そんなことではダメだと言われてきた。それでもなおかつ続くのは、「文学作品の意味を説明して欲しい」という根強い需要からであり、読者が科学合理主義から抜けられないからのようだ


テクストの快楽
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『猫を抱いて象と泳ぐ』 小川洋子

将棋ファンにもお薦め


猫を抱いて象と泳ぐ (文春文庫)
小川 洋子
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屋上を降りられなくなった象インディラ。壁の間に挟まれて出られなくなった少女ミイラ。空想を友にした少年はある日、プールで死体を見つけた。その不幸な会社員を追いかけるうちに、同僚でチェス仲間だった独身寮の管理人に会う。ポーンという猫を抱く太っちょの管理人は少年にチェスを教えたが急死。悲嘆にくれる少年のもとに、“海底”パシフィック・チェス倶楽部からチェス人形“リトル・アリューヒン”を動かす依頼が来る

不思議でもの悲しく、美しい物語だった
屋上を降りられなくなった象から始まって、チェスを教えてくれた“マスター”が肥満ゆえに(生活の場にしていた)廃バスから出られなくなったことから、少年は「大きくなること」への恐怖を感じるようになる
からくりチェス人形“リトル・アリューヒン”を操作する立場になると、少年の体のままでいることに成功し、ほぼ12歳のままの体で一生を送る
一種の幻想のなかで生きる少年は、単純に成長忌避とはいえないし、作品としてもそれに突っ込まない。少年は“リトル・アリューヒン”でチェスを指すことで、大人たちを渡り合って行くし、アリューヒンの名に相応しい詩の棋譜を残していく
少年は“リトル・アリューヒン”となることを選んだのだ。そして、その代償として、鳩を肩に乗せた少女との悲恋を味わう
さて、少年は「大きくなること」から逃げ切れたのだろうか。人形から出られなくなる結果から考えると、彼もその宿命に飲まれている。大人とは、大きくなって屋上から降りられなくなることかもしれない
しかし、降りられなくなった少年の前にはチェスの豊饒な海が広がっていた

ヨーロッパとおぼしいものの(フランス?)、どこの地域かと特定できず、主人公をはじめ固有名詞はほとんど出てこない
ただ、アリューヒン”は実在したチェス・チャンピオンをモデルにしている
本名はアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・アレヒン。モスクワ生まれで、1927年にフランスに帰化しアリューヒンと呼ばれる
帰化した歳に、キューバのホセ・ラウル・カパブランカを破り、チェス・チャンピオンとなる。リベンジの権利をカパブランカを有していたものの、アリューヒンはこれを避け続けて、違う相手に防衛戦を行っている
カパブランカの実力を認めていても、「チェス機械」と称された棋風と相容れなかったようだ。彼がチェスを差す人形である“リトル・アリューヒン”を見たら、どう思うだろうか
アリューヒンは1933年に来日していて、目隠しの同時対局を全勝。あの木村義雄十四世名人とも対局していたという

『第三の嘘』 アゴタ・クリストフ

いろいろ、ちゃぶ台が返る




国境を越えて亡命した“リュカ”は、30年の月日を越えて自由になった祖国に戻ってきた。別れた兄弟“クラウス”を探しに、出国ビザの期限を越えて居酒屋でハーモニカを吹き、その名残を探す。ビザの期限切れを知られ監獄に入れられるが、本国へ送還される数日前に“クラウス・リュカ”という名の詩人がいることを知る。離れ離れになった兄弟の真実とは……

『悪童日記』『ふたりの証拠』に続く、三部作の完結編
時系列的に三部作の最終章にあたるものの、作品の性質は前作と前々作との違い以上に異なる。前半は国境を越えて亡命したリュカの視点から、後半は祖国に残ったクラウスの視点から、「私」の一人称で語られる。私小説のスタイルになっているのだ
『ふたりの証拠』では、クラウスが亡命しリュカが祖国に残っていたはずだったが、『第三の嘘』ではこれが。リュカは亡命した時に、「クラウス」を名乗ったからだ
そればかりか、『悪童日記』における「ぼくら」は、まったくの一人になったリュカがその孤独の辛さから想像した双子であり、『ふたりの証拠』で書かれたリュカは亡命しなかった自分を想像したフィクションということと判明する
と、地続きの世界観で考えると、衝撃の前作・前々作をひっくり返す最終巻ということになるが、これは多分そう読んではいけない。各作品を一種のスピンオフと捉えるのが妥当で、それぞれの体裁で語られた真実があると考えるべきだろう
この『第三の嘘』というスパイスを加えるか加えないかで、前作・前々作の意味が変わってくるのだ。厄介な作品だが、一粒で二度三度おいしいともいえる


1.リュカの彷徨

『ふたりの証拠』の最後にも、年老いたクラウスが帰国するのだが、それが本作につながるかも怪しい。本作が真だとすると、リュカのヤスミーヌ殺しはフィクションとなるからだ
それはともあれ、リュカは冷戦崩壊で自由になった祖国へ戻り、本当の自分を語り始める
リュカには、実際にクラウスという双子の兄弟がいた。しかし、母が別れ話を切り出した父を射殺するというトラウマな事件に遭遇し、しかも流れ弾に当たって足が不自由になる(『ふたりの証拠』リュカが障害児のマティアスに執着したのは、昔の自分に見立てたからだろう)
リュカはリハビリセンターに預けられるも、空襲に遭い祖母の家で養われ、ハンガリー動乱(1956年)をきっかけに亡命する


2.断絶が生む時の無惨さ

クラウスの方は、父の愛人だったアントニアに養われ、七年後に精神病院から戻ってきた実母と共に暮らし始める。実母は実際にいるクラウスを罵り、怪我を負わせたリュカを理想化して待ち焦がれる
クラウスは別れた兄弟に複雑な思いを抱えつつも、家庭を作り「クラウス・リュカ」の名で詩を発表していた
そんな状況が続くなかで、自由になった祖国で兄弟が再会する
リュカはクラウスを発見するが、クラウスはリュカを認めない。クラウスはリュカが死んだことを前提に続いてきた環境が崩れることが怖いのだ。リュカはただ己が書き続けた帳面だけを渡して、街を去る
亡命した人間にとって、故郷は昔の記憶のまま理想化されるが、実際の故郷はまったく違う時間を過ごして変わり果てている家族すら、違う生き物のように隔ててしまう時の無惨さが描かれている


3.嘘が生まれた理由

解説によると『第三の嘘』は、アゴタ・クリストフの実体験に一番近い内容らしい
アゴタにはクラウスといういつも共に過ごしていた兄がいて、ハンガリー動乱でアゴタはスイスへ亡命し、クラウスは祖国に残ったという。インタビューでは「ハンガリーに帰郷しても、自分のいた痕跡を発見できない」と告白している
自身の直接的な亡命体験から『第三の嘘』は生まれたのだ。また、『悪童日記』から続編を考えたわけではないが、続編の余地を残していたとも言う。いちおう、それぞれ仕上げた時点で完結と考えつつも、引きずるものが残ったので作られた作品といえる
解説にもまるまる引かれている文章が、三部作の本質を表している。リュカが書店の女主人に何を書いているのか、と聞かれたときの返しだ

 私は彼女に、自分が書こうとしているのはほんとうにあった話だ、しかしそんな話はあるところまで進むと、事実であるだけに耐えがたくなってしまう。そこで自分は話に変更を加えざる得ないのだ、と答える。私は彼女に、自分の身の上話を書こうとしているのだが、私にはそれができない、それをするだけの気丈さがない、その話はあまりにも深く私自身を傷つけるのだ、と言う。そんなわけで、私はすべてを美化し、物事を実際にあったとおりにではなく、こうあってほしかったという自分の思いにしたがって描くのだ、云々。(p14)

これが『悪童日記』でリュカが「ぼくら」を捏造した由縁だろうし、『ふたりの証拠』というフィクションが立ち上がった訳であり、そもそも世界で物語=フィクションが必要となる理由ともいえよう
管理人は吾妻ひでおの『失踪日記』の冒頭で、「リアルだと 描くの辛いし 暗くなるからね」と宣言して、ぶっとんだ告白に及んでいくのを思い出した


*23’6/19 加筆修正

前巻 『ふたりの証拠』



『ふたりの証拠』 アゴタ・クリストフ

辛く悲しい物語




「ぼくらのうちの一人」クラウスは鉄条網を越え、「もう一人」リュカは祖母の家に残った。戦争が終わり一党独裁の体制下で、リュカは野菜と家畜の面倒を見つつ、夜は居酒屋でハーモニカを吹いて生計を立てていた。ある日、不義の子を死なせようとした少女ヤスミーヌと出会い、二人を引き取る。リュカはいつかクラウスに伝えるために、日記を書き続ける

『悪童日記』の続編である
祖母の家に残った双子の片割れ、リュカの視点で、戦後の生活が語られる
双子の祖国は共産主義陣営に組み込まれ、全体主義的体制に支配された。戦争中より生活は安定するものの、当局によって本屋や図書館から読みたい本が消えて行く
父と不義の子を作ったヤスミーヌとその子マティアス、恋人を処刑された司書クララ、アルコール中毒の本屋ヴィクトール、同性愛者の党書記ペテール……リュカは直接実害を被らないものの、作品には社会からはじき出されり、精神生活を抑圧されて病んだ人々が次々に登場する
戦争によって生活と歴史が破壊され、全体主義によって記憶を奪われ意味が押し付けられる社会で、人間が生きたという証明は何によってなされるのか
社会は人を統計としか記憶せず、人が人によって記憶される他ない。リュカは自分の生きたという証のために書き続ける

前作では「ぼくら」で括られた双子は、それぞれリュカクラウスという名前を与えられている
他の登場人物も名前を持っていて、普通の小説に近くなったが、端的に書きなぐられた少年の日記という文体は変わらない。それによって青年になったリュカは、少年時代と同じ澄み切った存在に見せいてて、実はそれが巧妙なトリックとなっている
日記は読まれることを前提に書き残すもので、そこには著者のバイアスが必ずかかる。終盤に他の登場人物がリュカを語るとき、屈託のないような彼の精神がいかに脅かされていたかが明らかになるのだ
もう、なまじのミステリーなどぶっ飛ぶような衝撃である

戦争が終わって生活は安定したが、そこに住む人々の生活は荒廃している
その象徴として、リュカの家の屋根裏には、前作で死んだ母と妹の骸骨が飾られている。リュカは「ぼくらの片割れ」と別れたあと、その欠落を埋めようとするように、ヤスミーヌが生んだ障害児マティアスを受け入れて、自らの子として育てようとする
しかし、その新しい家族を作ろうとする努力は、複雑な人間関係のなか、最悪の形で崩壊する。戦争とその後の統制社会で人々の傷は癒されることなく沈殿していくのだ
はたしてリュカはどこへ行った?


次巻 『第三の嘘』
前巻 『悪童日記』

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