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『イエス・キリストは実在したのか?』 レザー・アスラン

ユダヤ戦争はローマ帝国でいうと、皇帝ネロからウェスパシアヌスの時代



史実のイエス・キリストはどういう存在だったのか。「神の子」のイメージをから抜け落ちた革命家イエスを拾い上げる

なかなかショッキングなキリスト教誕生が描かれていた
著者はイスラム革命にともないアメリカに亡命したイラン系アメリカ人であり、イエスキリストに傾倒したものの、聖書の記述と史実のイエスの違いに悩み、イスラムに回帰したという複雑な経緯をもつ研究者である
本書では福音書のなかでも成立年代が一番古いとされる「マルコによる福音書」と、少し後代とされるマタイ、ルカ、ヨハネの福音書や「使徒行伝」などなどを比較していくことで、ローマ教会によって最終的に定められた「神の子」イメージを剥ぎ取り、史実のイエスをむき出しにしていく
キリスト教を信仰しない人にとっても、穏やかな聖人のイメージを抱きがちなイエスなのだが、実際にはユダヤ人社会の不正義に怒り、革命をも辞さない運動家の姿が立ち上がってくるのだ
冒頭で凄惨なユダヤ戦争の成行が描かれるのは、イエスの生きた時代が文字通り「革命」の時代を生きていたことを示したいのだろう


1.メシアの時代

イエスが生まれた頃のイスラエルは、ローマ帝国の統治下。ヘロデ王(在位BC37年~BC4年)が間接統治し、その後はその子や孫が分割して担当し、エルサレムではローマ帝国と結託した大祭司がユダヤ教の大本山として暴利をむさぼっていた
片田舎のナザレに生まれたイエス「洗礼者ヨハネ」(使徒ヨハネと別人)の弟子となり、その影響を受ける。イエスが活動家として主張する内容は、洗礼者ヨハネを踏襲したものが多い
当時のユダヤ教主流派(ファリサイ派)は律法を遵守し、それを守ることができない貧民を低くみてきたが、ガラリヤやサマリアなどではエルサレム神殿から独立した独自の信仰をとってきた。イエスはそうしたイスラエルの周縁部を回って、信徒を広げていく
「洗礼者ヨハネ」やイエスのような存在は当時、珍しくなかったらしく、「メシア=ユダヤ人の王」を称する宗教家が、次々と反逆罪として十字架にかけられていた
イエスは信徒たちには「ユダヤ人の王」と自らを称さないようにと慎重に行動していた一方で、神殿での儀式にからんで盛り上がる広場の市場で、腐敗を弾劾する大騒動を起こすなど、「熱情」も持ち合わせていた
イエスはそうした行動が神殿に眼をつけられて捕えられ、反逆者の一人として処刑された。総督のピラトは特に注目せず、事務的に処刑を決めたそうだ(西暦30年前後)


2.革命家イエス・キリスト

史実におけるイエスは、ユダヤ人社会の改変を目指す革命家であり、その先にはローマ帝国からの独立があった。そして、そうした革命家は珍しくなかった
それが「神の子」とされ、より高次で純粋な存在に変貌したのは、イエスを失った信徒たちの復活信仰である。三日後の復活、死者としてでもなく神としでもなく蘇ったというのは、史上例を見ない思想だった
十字の磔に処されるのは反逆者の証であり、「ユダヤ人の王」として否定されたということなのだが、イエスを敗北者にしたくない信者の願いが違う存在に生まれ昇華させたということなのだろう。それでも、この思想は危険視されて殉教者を生んだが、さらなる信仰と結束につながった
イエスの死後、キリスト教団はイエスの弟「義人ヤコブ」に引き継がれて、ユダヤ人ともにローマ帝国各地に広がった。それにともない、パウロのようにユダヤの律法を一切否定し、イエスへの信仰のみを重要視するものが現れる
パウロはヤコブと仲たがいするが、新約聖書の大半はパウロが書いたとされ、重大な影響を残す。ここにおいて、ユダヤ教から生まれたキリスト教はローマ化し、普遍宗教となったのだ
「義人ヤコブ」のキリスト教団は、ユダヤの律法とイエスへの信仰を両立させ続けるが、西暦66年から7年続いたユダヤ戦争によりエルサレムはローマ軍に徹底破壊された
これにより、イエスの革命家像を完全に脱色する必要がなされ、イエスを処刑することを決めたローマの総督ピラトを戸惑う善人として描き、処刑を求めたユダヤ人上流階級を悪に描く脚色なされるようになった
「義人ヤコブ」は非ユダヤ人の信徒に対し、割礼などの律法を押し付けようとしなかった。こうしたキリスト教団の柔軟な生きのこり戦略が、ローマの知的階級を惹きつけて民族を超えた普遍宗教へ発展させたということなのである


*23’4/4 加筆修正


ナナミンの本だとこのあたり→ 『ローマ人の物語 22 危機と克服 (中)』



『ローマ人の物語 43 ローマ世界の終焉(下)』 塩野七生

サッカーの三位決定戦は悔しい結果に終わった
香川のいないごった煮の急造メンバーで、期待以上のベストフォーまで行けたのだから上等なのだが、相手が相手だからなあ
しかし、三位決定戦が日韓というのは、サッカー界のオリンピックがMBAのWBC級ってこと?

*この頃はロンドン五輪。話題が懐かしい…


ローマ人の物語〈43〉ローマ世界の終焉〈下〉 (新潮文庫)ローマ人の物語〈43〉ローマ世界の終焉〈下〉 (新潮文庫)
(2011/08/28)
塩野 七生

商品詳細を見る


西ローマ帝国滅亡後の、オドケアルそして、東ゴート族のテオドリックによるイタリアの統治から、ユスティニアヌス帝による“ローマ遠征”まで
文庫最終巻を読むと、前巻で東ローマに冷たかった理由が分かった
ナナミンにとってのローマ文明の真髄とは魂、スピリットであって、それがルネサンスの淵源となって今の近代社会の礎になっているという認識がある
形だけは帝国の東ローマは実質オリエントの帝国であって、その遠征が都市ローマを破壊したのならば、到底ローマの後継者として認めるわけにはいかないのだ
こういうところの機微はオチを読まないと分からないので、前巻の感想は軽率だったと少し後悔している
「ローマ帝国の物語」ではなく、都市国家ローマ、『ローマ人の物語』なのだから


パックス・バルバリカ

西ローマを滅ぼしたオドケアル、それを倒してローマに入ったテオドリックの統治が面白い
“蛮族たち”は行政をローマ人自身に全て任せて、そのために元老院の銅貨の鋳造権など古い権利までを復活させた
ゴート族はあくまで武人であることにこだわり、ローマ・ギリシアの教養を拒否して、奇麗にローマ人と棲み分けた。このためゴート族は一般的にラテン語が読めないままで、国家の体をとるにもローマ人の協力は欠かせなかった
この構造はまさに、その後の中世社会そのもの。中世の王族や騎士たちも文字を読めないものが多く、知識人として聖職者の役割は大きかった
パクス・バルバリカ」(蛮族による平和)は、中世社会の魁けだったのだ。「同化」でなく、「共生」という在り方も階級社会の残るヨーロッパ社会の源といえよう
ルネサンスを愛する作者にとって、ローマの精神を保存したこの統治はそれなりに評価できるものであり、それを破壊したユスティニアヌスの遠征こそ罪深いのだ


最終巻において全てが腑に落ちた
「ローマ世界の終焉」という最終章は、単にローマ帝国の滅亡だけでなしに、蛮族の統治に次の時代の橋渡しとなる事象を捉えた点で見事だと思う
しかし、最後まで読んで違和感が残るのは、やはりカエサル萌えが過ぎることだろうか(微苦笑)
カエサルという人は文武両面で最高のローマ人である一方、伝統の共和制を破壊しようとした規格外の英雄でもある。自身が征服したガリア人族長を大量に議員へ仕立て上げるなど、これ以上ない議会制の破壊だろう
もしカエサルが無事ならば、ローマはもっと早くに専制君主制へ移行したのでは、と想像することもできる
後継のアウグストゥスが穏当な形で元首政に持っていったからこそ、ローマは長命したといえるので、普通なら彼の穏やかなで堅牢な統治こそ評価されるべきだ
まあ、こういう作家の好悪が露出しているところが、この作品の愛らしい理由でもあって、広く読者に愛されるのだろう


*23’4/3 加筆修正

前巻 『ローマ人の物語 42 ローマ世界の終焉(中)』



『ローマ人の物語 42 ローマ世界の終焉(中)』 塩野七生

五輪はいろいろ波乱が続いている
柔道ではビデオ判定で審判三人の判定が覆るという
なんでそんな審判を使ってしまうのやら




ホノリウスの治世末期から476年の西ローマ帝国滅亡まで
ホノリウスの治世では西ゴート族アラリックに「ローマ劫略」を許すなど帝国の権威は地に墜ちたが、コンスタンティウス将軍の働きと“蛮族同士の共食い”でローマ周辺は小康を得た
西ゴートに囚われた皇帝の妹ガッラ・プラチディアは講和で帰還し、コンスタンティウス将軍と結婚し、後の皇帝ヴァレンティニアヌス三世をもうけ、息子の治世前半では事実上の摂政となる
何やら再興できそうな情勢におもえるが、内外は“蛮族”がぎっしりで敵もゲルマンなら味方もゲルマンで、蛮族の真打ちフン族まで姿を現わしていた
明らかに主役は蛮族なのだ
本巻では「ローマ人の物語」でありながら、世界史の教科書では説明されない部分、諸民族がどういう経緯で大陸を横断していったか、を限られた文献と著者の想像力を交えて語られている
ヨーロッパ暗黒時代を照らす、貴重な一巻といえよう


1.ナナミンの一刀両断

帝国の体制は極度に弱体化し、もはや組織力でなんとかなる時代ではない
指導者の素養が興亡を分ける、まさに乱世である
そんなわけでこの巻では、ナナミンの人物鑑定が縦横無尽に行なわれる。結果から単純に判定している嫌いはあるが(苦笑)、文献の少ない時代であり、講談的想像力で埋め合わせずにはいられないところでもある

まず悲運のヒロインともいえる、ガッラ・プラチディアに対しては、二人の司令官ボニファティウスアエティウスを使いこなすどころか同士討ちさせて、貴重な軍事力を消耗したとしてボロンチョに叩く
あてつけのように、東ローマの皇太后プルケリアを持ち上げ、東ローマ安定の要因に数える
東と西では君主制の基盤が違うので迂闊に比較はできないが、ガッラ・プラチディアの人格で蹴りをつけてしまうところ、善くも悪くもナナミン節である

世紀末覇者ともいえるフン族のアッティラに対しても、非常に厳しい
ローマ人以外の蛮族を統一すると吹いたわりに戦略がお粗末であり、こんな10年暴れた程度の奴が歴史上有名なのは、キリスト教徒が「神の鞭」と言い触らしたからでは、とする
このあたりは、ローマ人の視点、農耕民族の視点・価値観からの批評であって、遊牧民の基準からはやはり優れたリーダーではと思う
当時の遊牧民にとって、農耕民は収奪の対象であって統治の対象ではない。牧草地にならない土地に興味はないし、パンノニア(現・ハンガリー)の草原を確保したのは、立派な功績だろう


2.ローマあってのローマ帝国

文庫では、本巻でローマは「滅亡」する
ナナミンの史観からすると、ローマ帝国とはローマという都市国家の延長で拡大した広域国家であり、ローマという都市へこだわらないローマ帝国はローマ帝国ではない
帝国という意味では、紀元410年の西ゴートによる「ローマ劫略」で属州への統治能力を失って滅亡しているが、ローマの都市機能が完全に失われてはいなかった

ホノリウス帝のもとローマの復興は着手され、減ったとはいえローマの市民と元老院は存在した。ヴァンダル族による「ローマ劫略」の後、476年に最後の皇帝ロムルス・アウグストゥスが退位し、ローマを代表するものが名実ともにいなくなったところでようやく「滅亡」と判定された


しかし、東ローマが西ローマよりローマ的でないと言い切れるだろうか
母后プルケリアは還暦を過ぎた元老院議員マルキアヌスと結婚し皇帝とすることで、フン族に対抗し国難を退けた。東ローマでは伝統がないために元老院は軍人の名誉職となっていて、マルキアヌスは実戦経験を持つ最高司令官として事に当たった
本来、君主制が強く世襲と血統が重んじられそうなところ、軍人がインペラトールとして前に出て行くのはいかにもローマ的で、ボンボンが奥に引っ込んでいるアジアの宮廷イメージとは違う
むしろ、蛮族に金を払って潰し合いをさせる西ローマの方が、よほどアジア的ではないか。最近、流行の“中国化”という言葉をあてはめたくなるぐらい(南宋みたいでしょ)
東ローマ帝国は西ローマ滅亡後も千年続き、国難には武人肌の皇帝が先頭に立って中興してきた歴史があるので、それはそれで評価すべきだろう


*12’7/31 加筆・修正
*23’4/4 加筆修正


次巻 『ローマ人の物語 43 ローマ世界の終焉(下)』
前巻 『ローマ人の物語 41 ローマ世界の終焉(上)』



『ローマ人の物語 41 ローマ世界の終焉(上)』 塩野七生

紀元前4XX年、ローマはゴートの炎に包まれた!
しかし、ローマは死滅して・・・・・・





1.テオドシウスの帝国分割

テオドシウス帝の死後、西ローマ帝国を継いだホノリウス帝の治世を中心に
テオドシウスはその遺言で、コンスタンティノープルを首都とする帝国東部を長男アルカディウスに、ローマを首都とする西部を次男ホノリウスに委ねた
後世に帝国分割を決めた皇帝として名を残すテオドシウスであったが、本人としてはそのつもりなく、あくまで統治を分担させる意図だったらしい
しかし、跡を継いだ両皇帝とその臣下が協力し合わず、お互いに蛮族を押しつけたので結果的にローマは真っ二つに割れることになる


2.スティリコVSアラリック

本巻の主役は、幼いホノリウスの補佐を任された将軍スティリコローマに反逆した西ゴート族長アラリック
スティリコは父方がゴート族の“蛮族”(バルバルス)でありながら、ローマの武人としてその価値観に忠実だった武将であり、アラリックは一度ローマに服しながら“蛮族”であり続けた梟雄と、まったくの好対照をなす
二人の戦いはまさにローマの興廃を賭けたものとなった

スティリコに関して、ナナミンは“最後のローマ人”の定評通りに褒め称える
こういう筋のいい男には毒ガスを吹きかけると思っていたので、少し意外で残念だった。彼女にしては、向こうの文献や研究者の価値観を丸呑みし過ぎではないか?
スティリコを理想的なローマ人かというと、少し疑義があるのだ
なるほどローマ人は法や手続きを重視するが、果たしてホノリウスの改心を期待してすがるのは現実的だったか
ホノリウスの行動はローマのリーダーから逸脱しているわけで、ローマの価値観や秩序を守るために反逆するという道理も成り立つはずなのである
ローマの皇帝は最高軍司令官なのであって、過去何度も兵士に担がれて帝位に昇り秩序を回復した英雄はいるのだ。あのカエサルも慣例を破って、ルビコンを渡ったではないか
スティリコの従順さはキリスト教の影響もあるし、ホノリウスに対する態度は中世の君臣関係を思わせる。むしろ、ゲルマンの従士制度にこそ近いと思う


3.帝国の限界

“蛮族”が数に任せて大挙来襲する光景は、実はローマが共和制の時代から見かけたもの
いかに数が違う、国力が弱体化したとはいえ、4世紀で出来たことが5世紀に入るなり出来ないというのは不思議に思える
スティリコに関して一つローマの限界と感じたのは、父方がゴート族だから“蛮族”で皇帝になれないとされていたこと
少し前の時代には、優秀な属領出身者が順繰りに皇帝に就いては帝国を支えた。ゲルマン人を即トップに据えるのに抵抗があるのは分かるが、危急存亡のときに背に腹は代えられないはずだ
中世では結局、フランク族出のシャルルマーニュを西ローマ皇帝にして、帝国の再建を目指すわけなのだ
軍事力の中核は明らかにゲルマン人となっていた。それを軍司令官候補から排除して、帝国が保てるわけがない
いろんな民族を束ねたローマ人をして、ゲルマン人を同化しきれなかったのが、滅亡の原因というと厳しすぎるだろうか
中華帝国は侵攻した騎馬民族を次の支配者に仕立て上げて同化しているので、中の人は違っても価値観を継承する帝国が作れなかったかと考えたくなる


*23’4/3 加筆修正

前巻 『ローマ人の物語 39・40 キリストの勝利(中)(下)』
次巻 『ローマ人の物語 42 ローマ世界の終焉(中)』



『ローマ帝国衰亡史 3』 エドワード・ギボン

ギボン「やれんのか!?おい!やれんのか!」
管理人「*%☆¥$#&!」




ディオクレティアヌス死後の内戦を制した大帝コンスタンティヌスの治世から、それを継いだコンスタンティウス帝、そして異教再興に燃えたユリアヌス帝のキリスト教対策まで
読むのに時間がかかったのは、キリスト教内でのアリウス派とアタナシウス派の対立に紙数が割かれていたから
各皇帝と教派の関係に触れたところは非常に面白いのだが、三位一体を巡る教義上の違いにも詳しく触れられていて、理解するのに大変だった。原文に反映した格調の高い訳文も、きっと学術的な説明には向いていないに違いなく、訳者の苦労がうかがい知れる
ただこうした部分は、多神教ローマ万歳の『ローマ人の物語』では割愛されているので、当時のキリスト教会の実像を知るには悪くない


1.コンスタンティヌスによる軍団の肥大化

ギボンは、意外にも有能な指導者とされるコンスタンティヌスユリアヌスには辛口
コンスタンティヌスについては、

 統一されたものをすべて分割し、傑れたものを一切弱体化し、また積極的な権力はすべてこれを怖れ、逆にもっとも弱いものこそもっとも柔順なものとばかり誤信する同じ一つの小心怯懦の政策は、数代にわたるローマ帝たち、とりわけコンスタンティヌス帝治下の全制度を貫いていたかに思える。(p60)

一例に挙げられるのが、軍団の構成単位を小さくしたこと。従来の一軍団六千人規模だったのを、三千人以下にまで落としてしまった
こうした組織の分割にともなう権限の分散は、帝国の各組織で勧められたらしいが、各管理職の収入自体は落とさずにポストを増やして懐柔したために人件費は激増することになってしまった
今の日本でも問題になっている官僚組織の焼け太りを、指導者自ら行なうのは確かにいただけない


2.ユリアヌスの多神教復興策

ユリアヌスに関しては、多神教復興に関する狂信ぶりに対して
荒廃を極めた神々の神殿を復興させるための膨大な経費に、自ら個人的な信仰を大っぴらに宮廷へ持ち込んだ点多神教を組織化するためにどこの馬の骨と分からぬ者を引き立てるなど、行きすぎた政策も多かったようだ
しかし、多少の経費も官僚組織や聖職者の免税特権を削減したことの方が大きかったわけだし、ギボン師匠には悪いがどこまで本当なのか疑わしい部分もある
むしろ、キリスト教を表向き認めつつ、異端として排斥された教派を後押しして教会の弱体化を狙ったり、軍団の儀礼を伝統の形式に戻して兵士たちの転向を促すという、狡猾ともいえる宗教政策を素直に評価するべきだろう
あくまで寛容の振る舞い、ローマ的な価値観に従った政治家として


3.アタナシウス派(カソリック)とアリウス派の闘争

目から鱗が落ちたといえるのは、アリウス派とアタナシウス派に関してだ
これまでは、ローマ教会の正統であるアタナシウス派が、教義闘争からアリウス派を強引に異端へ仕立てたと見ていたのだが、実際には違った
アリウス派もまた、コンスタンティウス帝に取り入って一時期は中心勢力へと躍進し、自派以外を異端と弾圧していたのだ
アタナシウス派の中心人物であったアレクサンドリア大司教アタナシウスは、アリウス派の攻撃で何度となく司教座を追われ雲隠れを余儀なくされている
いわば、一神教ゆえの教義への無謬性が、細かな違いですら“異端”を仕立ててしまうようなのだ
この宗教闘争を見ていると、割合アバウトなアタナシウス派が正統になったのも、穏当だと思える


*23’4/3 加筆修正

前巻 『ローマ帝国衰亡史 2』



『ローマ帝国衰亡史 2』 エドワード・ギボン

NHK『ニュース7』のお天気お姉さん、半井小絵が、3月で降板するらしい
巷ではゴシップも囁かれているが、むしろ7年も出続けたことが稀かと思う
NHKらしいと言えば、らしい幕切れかなあ

*自分でもお天気お姉さんの話に触れてたのに驚き(笑)。まさか、後任がもっと凄まじいスキャンダルで消えるとは、思いもよらず




30僭帝時代の大混乱から秩序を再建したクラウディウス帝、パルミュラ女王を倒して帝国を再統一したアウレリヌス帝、短期政権の連続に終止符を打ち、帝国分割統治を確立したディオクレティアヌス帝、その後継者争いを勝ちキリスト教公認して帝国の質を決定的に変えたコンスタンティヌス帝の登極までを扱う。後半には、帝政下のキリスト教会とその活動の実態を論じた有名な章があり、一八世紀のインテリ層を震撼させたという

短期政権の皇帝たちを、ついつい現実の政治になぞらえて過少評価してしまいがちなものだが、ギボン師匠はひと味違う。やや講談的なエピソードを盛り込みつつも、蛮族の手から身を挺して帝国を守った軍人皇帝たちを等しく評価するのだ
また、つかの間に復活した元老院を取り上げ、時代の大波に逆らう人々がいたことも強調している
カエサル基準から厳しい評価をしがちなナナミンに比べ、この時代の為政者たちをなんだかんだ帝国を守りきったのだと実にポジティヴな見方をしているのだ
が、そんな師匠には無情な訳注が降り注ぐ
後世の研究から、引用した文献は偽書と断定されまくり、それらしい詩的表現も他の似た事例から拝借したものと見抜かれてしまう
確かに資料性からは問題になる記述も多いだろう
しかし、賢帝、バカ殿、普通の子、といずれの人物にしろ、数々の怪しいエピソード(!)から人間味のある、あの時代のローマ人の姿が立ち上がってくるのだ


1.キリスト教迫害の実態

キリスト教を語る時のギボンの立場は、非常に複雑である
啓蒙主義の時代に入った一八世紀のイギリスであっても、キリスト教会史に手を突っ込むことはタブーだった
あとがきに詳しく載っているが、ギボンは直接キリストや聖人の秘蹟を触らず、“凡人”であるキリスト教徒たちから教会史へ挑戦していくのだ
こういう経緯が把握していないと、キリスト教の項は刺激的ながらも真意が分かりにくい内容だろう
ギボンがまず言いたかったのは、ローマ帝政のキリスト教徒は基本的に“寛容”の精神から保護されていたということだ
教会史の迫害の多くは誇張されたものであって、ネロ帝やドミナティウス帝などの間欠的な迫害を除いては平和の時代を過ごしていたという
ギボンが弁護しないガチの迫害はディオクレティアヌス帝のもので、これは狂気ともいえる惨状であったという。これもまた地方によっては、副帝の配慮で緩和されたらしい


2.多神教のジレンマ

ここから見えてくるのは、多神教のジレンマ
一神教の世界観は多神教を否定するもので相容れないのだが、かといって一神教を排除してしまうことは、多神教の“寛容”から離れてしまう
ゾロアスター教を奉じたペルシアはキリスト教の流布から逃れるのだが、そこまで行ってしまってはローマがローマでなくなってしまうのだ
また、組織力のなさがローマの神々の弱点で、聖職者階級がなく、ただ国家元首が国事行為を行うのみ
信者との接触が多い、キリスト教会とは、束縛力に雲泥の差があった
一時期、ローマの神々で組織化する運動も行われるが、付け焼刃の伝統ではどうにもならない
江戸時代の日本では、キリスト教が弾圧される一方で、仏教による檀家制度が整備された。ローマ帝国では、寛容過ぎたからこそ、自前の宗教組織が育たなかったのだろうか
明治維新の国学運動とかも連想して、時代は違えど国家と宗教の関係は考えさせられるところがあった


*23’4/3 加筆修正

次巻 『ローマ帝国衰亡史 3』
前巻 『ローマ帝国衰亡史 1』



『ローマ帝国衰亡史 1』 エドワード・ギボン

これからローマの話をしよう



ローマ帝国の滅亡までを追いかけた空前のローマ通史。一巻では、帝国の仕組みと哲人皇帝アウレリウスから、コモンドゥス、カラカラ、エラガバルスら暴君・愚帝、泡沫のごとく消えた諸帝たちをつづる

タイトルからして、さぞ難解な文章が続くと覚悟していたが、読みやすいこと読みやすいこと
原文もさることながら、中野好夫による訳文がまるで講談のような調子で読み手の心を楽しませてくれるのだ。文章の親しみやすさという点では、『ローマ人の物語』と差はない
ただ注意がいるのは、著者エドワード・ギボンが18世紀のイギリス人ということだ。当然、同時代の人に向けて書かれている
そのため、彼が現在としている地名は、18世紀のそれであって、その領有国もオーストリア帝国、オスマントルコだったりしてしまうのだ(もちろん、訳注はあるが)
18世紀のイギリスは、議会を中心とする立憲君主制が確立されていた
下院議員でもあった著者はその立場に忠実で、三権分立の立場からローマ帝政を非難する反面、帝位を巡る内戦については出自門地を重んじない無秩序を嘆いている
そのイギリス標準の視点は大変厳しく、初代皇帝アウグストゥスからして皮肉たっぷりの毒ガスを浴びせ、カエサルも形無し。ナナミンのタカビー調が良心的に思えてしまうぐらいである
だが、それがいい! 容赦ない近代主義無双が独特の味となっていて、ユーモア溢れる講談に仕立て上がっているのだ
200年以上前の本とあって、細かいところこそ最新の研究と乖離が激しいかもしれないが、大筋は『ローマ人の物語』と大差ない。むしろ、本書こそがローマ通史の不動の礎に思えるほどだ


1.五賢帝時代にローマの神々離れ

まず五賢帝時代のローマを紹介する部分に興味深い記述があった

・・・だが、到るところからアテナイやその他ローマ帝国内の学都に集まってきた純真な青年たちは、結局どの学派にしても、すべて大衆的宗教を拒否し、軽蔑するように教えられていたといえる。仮にも哲学者たるものが、くだらない詩人たちの讒言(たわごと)や、とりとめもない古伝承類を、どうして神聖な真理だなと受容れられようか! また、当然、人間として軽蔑したに相違いない不完全な存在など、どうして神として礼拝できようぞ! こうした埒もない論的相手に、キケロは理性と雄弁という武器をもって闘ったが、・・・(略)・・・。そこで確信をもって言えることは、もしもこのころすでにローマの神々が、上流知識階級の間で、ひそかな軽侮の対象になっていたということでもなければ、かりにも世情に深く通じていたはずの作家が、どうしてそれらを嘲笑の的にすることなどできたろうか、という一事である。(p79)

つまるところ、五賢帝時代の時点で、元老院議員含む上流階級はローマの素朴な神々を信じていなかったというのだ
それを穴埋めするためにギリシア哲学が流れ込んでくるが、合理的な問いならともかくも、神性にまつわる非合理に対して満足な解答を与えてくれなかった
そこに東方から様々な宗教が雪崩れ込み、紆余曲折を経て鍛えられたキリスト教が興隆する。一神教が台頭する余地は、この時代からすでにあったということである
高坂センセが指摘していた、超大国化したゆえに起きた「大衆化社会」の問題が、ローマを精神的な危機に陥れたといえそうだ


2.軍人のクーデター=古代の共和制

要所に面白い指摘がある
カエサルがガリア遠征を成功させたのには、遠征以前にガリア人にローマの神々が浸透していて、彼らにとってローマが憧れになっていたからという
ローマとガリア人はともに多神教で神々の役割も被るところが多かったため、自然に同一視してローマの一員となるのも抵抗がなかったというのだ
また、皇帝が兵士たちに擁立される事態を、専制というより共和制に近いとして、軍人皇帝とは「兵士たちの私利のため、暴力政府の手で選出された一行政官にすぎなかった」とするのも鋭い
(もっとも、ギボンのいう共和制には、清教徒革命から連想された否定的なニュアンスもあるだろう)
読んでいて思うのは、いかに『ローマ人の物語』が衰亡史を意識して書かれたかということ
細かい趣向は違っても、大まかな形式は変わらない。というか、通史である以上、衰亡史のスタイルから離れられないのだろうか
何が基本的な共通認識で、何がナナミン色だったのか、このシリーズを読み進むことでよりはっきりしてくるに違いない
ローマ人の読者には、一粒で二度おいしい名著なのだ


*23’4/3 加筆修正

次巻 『ローマ帝国衰亡史 2』



『ローマ人の物語 39・40 キリストの勝利(中)(下)』 塩野七生

「キリストの勝利」で最終章だと思っていた
まだ続くのですな





読んでから間が空いたので、2巻まとめて
中巻はわずか3年で終わったユリアヌスの治世


1.ユリアヌスの保守改革

3年ながら彼の政策は濃い。キリスト教から見れば“異教”であるギリシア・ローマの神々の復興=ローマ精神の再興がその根幹だが、理想主義者であっても原理主義者ではなかった
あくまでコンスタンティウス時代の行きすぎたキリスト教優遇から、大帝コンスタンティヌスの「ミラノ勅令」の時点に戻ろうというもの
とはいうものの、聖職者への非課税枠の縮小や、肥大化した官僚制度の見直し多くの既得権益者の反発を招いたのも事実
ラディカル過ぎて敵を作りすぎてしまったのだ。ペルシア遠征中の奇妙な変死で諸説が飛び交うのも分かる話だ
もし彼の治世が長ければ、ローマがどうなっていたかと確かに考えたくなる。変な喩えだが、「ローマのJFK」というイメージである

*ナナミンはペルシア遠征の失敗で、補給を水路に頼り切ったことを指摘しているが、やや推論に過ぎるところが多い
 シャープールが予想以上の戦力を温存していた時点で勝利は難しいと思う



2.司教アンブロシウス


下巻は皇帝でいうと、ユリアヌス敗死のあとに暫定的に皇位についたヨヴィヌス、“蛮族皇帝”ヴァレンティニアヌスヴァレアンスグラティアヌスの東西皇帝、テオドシウスの治世となる
しかし、章のタイトルとなっているのは、「司教アンブロシウス」!
とうとう皇帝よりキリスト教の聖職者が上に来てしまう時代がやってきたのだ
アンブロシウス洗礼前に司教になるという、現世利益優先というこの時代にありがちな聖職者。俗世に親しいという特性を生かして(!)、政治家として教会に貢献する
ミラノという東西帝国の間の地理を生かして、東西皇帝の伝書鳩を演じ、その影響力を拡大していくのである
そのクライマックスが、東の正帝テオドシウスがキリスト教徒への暴動に対する謝罪に応じる場面だろう。著者も書いたように、中世における“カノッサの屈辱”を彷彿とさせる光景だ

テオドシウスの土下座(!)と並んで、この時代を象徴すると思うのがヴァレンティニアヌス帝の憤死
帝国初というゲルマン出身の皇帝であるが、軍人だけあってドナウ戦線などで獅子奮迅の活躍を示した
しかし、彼は捕虜にした、(同じゲルマンである)ゴート族の首長に生意気な態度をとられ、赫怒してぶっ倒れてしまうのである
敵味方とも軍人は同じ顔。もはや人種的には帝国の内外の差はないのだ・・・


さて、この記事の次に「ローマ人の物語」のまとめとして、ナナミンのローマ観やローマ帝国滅亡についてコラムめいたものを書きたいと思っていたが、まだ次があるということで無期限延期(笑)
おそらく今年中には文庫で最終章『ローマ世界の終焉』が出てくると思うので、衰亡史などローマ関連を読みながら知識を充電させてもらおう


*23’4/3 加筆修正

次巻 『ローマ人の物語 41 ローマ世界の終焉(上)』
前巻 『ローマ人の物語 38 キリストの勝利(上)』



『ローマ人の物語 38 キリストの勝利(上)』 塩野七生

連休は法事であまり休めた気がしない




1.大帝の死とユリアヌスの台頭

大帝コンスタンティヌスは死の直前に帝国を親族で五つに分割することを言い残した
しかし、謎の虐殺事件によって先帝の甥二人が殺され、東の正帝には次男コンスタンティウスが座ることになる
上巻はこのコンスタンティウスの治世が中心で、殺された甥の息子で後に皇帝となるユリアヌスの台頭を後半に交える
指導者としてのコンスタンティウスは、大帝には及ばない。帝国の何分の一かを治める皇帝としてはつとまっても、全体を見切れる眼力がない
味方に取り込むべき親族をライバルと死に追いやり、その間隙を突いた蛮族出身の将軍マグネンティウスに反乱を起こされてしまう
この反乱で国境を守るべきローマ軍団同士が相討ちすることとなり、帝国西方の軍事力は再び低下してしまうのだ
それをカバーするようにのし上がったのがユリアヌスで、蛮族をライン河の向こうに押しやる
このコンスタンティウスとユリアヌスの絡みは、史劇のように面白い!


2.特権階級の改宗

リーダーとしてはパッとしないコンスタンティウスも、政策面ではコンスタンティヌスを立派に継承している
コンステタンティヌスはキリスト教徒の支持で帝権を強化しようとして公認した
息子は、それをさらに進めてキリスト教以外の祭祀を制限、後には禁止キリスト教の聖職に対する非課税の身分まで与えた
これを契機に起こったのが、有力者たちの改宗である。聖職を手に入れて、税優遇の対象になろうと殺到したのだ!
この事態にはキリスト教徒の歴史家も嘆いている・・・
いわば、国策としてのキリスト教の振興策がとられたに等しく、皇帝はキリスト教徒ときっても切れない関係となる
その流れに棹さそうとしたのが、コンスタティウスの跡を襲った“背教者”ユリアヌスなのであるが


*23’4/3 加筆修正

次巻 『ローマ人の物語 39・40 キリストの勝利(中)(下)』
前巻 『ローマ人の物語 37 最後の努力(下)』



『シーザーの晩餐 西洋古代飲食綺譚』 塚田孝雄

『全体主義の起源』を読み終えて、元の乱読モードに




古代ギリシア・ローマを中心に当時の人々が口にした食物、料理、贅沢三昧を描写した書
文庫でも結構分厚く、内容もローマだけではなくその原点の古代ギリシア、果ては中国日本にも及ぶ。権力者周辺の食生活だけでなく、古典をひもといて一般庶民の粗末な食事も紹介していて、それこそてんこ盛りな内容量なのだ
文量は多いが、食い物ネタだけあって小難しい話は何一つない。古典の引用も著者自身が読みやすいように訳しているから、面白いように読み進むことができた
時には講談師の語りような調子になっている箇所まであり、全編に渡って陽性に終始しているのだ。そのおかげで、躍動する古代の人々が目に浮かんでくるようだ
『ローマ人の物語』とは少し違った、生活感溢れるローマの光景が見えてくる


ローマ人と魚料理

意外だったのは、古代ローマの人が魚に深いこだわりをもっていたこと。地中海に突き出された半島にいたんだから、当然といえばそうだけど、牛や豚よりもここまで魚重視だと思わなかった
きっと、西欧=肉料理というイメージは、牧畜文化のゲルマン人を源流とするものだったのだろう
魚の占める割合が大きいので、食べる物も江戸時代の日本人とそう大差はない。ウナギは日本独特ものと思いがちだけど、ローマでも大事なご馳走。蒲焼きのように炙って特性のソースでつけて食したらしい
面白いのは、ウツボが珍重されていたことだ。カエサルは凱旋式の際に六千匹のウツボを調達して市民に振る舞ったという。正直、ウナギのように調理してもおいしいとは思えないけど、ローマ人は獰猛な動物を食べるのを好んだようなのだ
中には、ウツボを養殖した池に失敗した奴隷を突き落としたなんて話も。ローマ人、ぱねえ


最後の方に、グルメ狂や皇帝たちの贅沢がやや駆け足気味に語られている。アホというしかない食い意地の数々を披露する彼らに反省の色が少しもない
キリスト教以前の社会では、個人の蕩尽は全く責められるものではなかったのだ。地獄が怖くないから、かなりしょーもない理由で自殺したり死んだりする・・・
かなり濃い本だけど、これでも文庫化にあたってかなり削ったらしい。時事通信社版はどんだけの内容なんだ
いやはや、著者の博識と情熱には恐れ入ったなあ


*23’4/3 加筆修正



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