史実のイエス・キリストはどういう存在だったのか。「神の子」のイメージをから抜け落ちた革命家イエスを拾い上げる
なかなかショッキングなキリスト教誕生が描かれていた
著者はイスラム革命にともないアメリカに亡命したイラン系アメリカ人であり、イエスキリストに傾倒したものの、聖書の記述と史実のイエスの違いに悩み、イスラムに回帰したという複雑な経緯をもつ研究者である
本書では福音書のなかでも成立年代が一番古いとされる「マルコによる福音書」と、少し後代とされるマタイ、ルカ、ヨハネの福音書や「使徒行伝」などなどを比較していくことで、ローマ教会によって最終的に定められた「神の子」イメージを剥ぎ取り、史実のイエスをむき出しにしていく
キリスト教を信仰しない人にとっても、穏やかな聖人のイメージを抱きがちなイエスなのだが、実際にはユダヤ人社会の不正義に怒り、革命をも辞さない運動家の姿が立ち上がってくるのだ
冒頭で凄惨なユダヤ戦争の成行が描かれるのは、イエスの生きた時代が文字通り「革命」の時代を生きていたことを示したいのだろう
1.メシアの時代
イエスが生まれた頃のイスラエルは、ローマ帝国の統治下。ヘロデ王(在位BC37年~BC4年)が間接統治し、その後はその子や孫が分割して担当し、エルサレムではローマ帝国と結託した大祭司がユダヤ教の大本山として暴利をむさぼっていた
片田舎のナザレに生まれたイエスは「洗礼者ヨハネ」(使徒ヨハネと別人)の弟子となり、その影響を受ける。イエスが活動家として主張する内容は、洗礼者ヨハネを踏襲したものが多い
当時のユダヤ教主流派(ファリサイ派)は律法を遵守し、それを守ることができない貧民を低くみてきたが、ガラリヤやサマリアなどではエルサレム神殿から独立した独自の信仰をとってきた。イエスはそうしたイスラエルの周縁部を回って、信徒を広げていく
「洗礼者ヨハネ」やイエスのような存在は当時、珍しくなかったらしく、「メシア=ユダヤ人の王」を称する宗教家が、次々と反逆罪として十字架にかけられていた
イエスは信徒たちには「ユダヤ人の王」と自らを称さないようにと慎重に行動していた一方で、神殿での儀式にからんで盛り上がる広場の市場で、腐敗を弾劾する大騒動を起こすなど、「熱情」も持ち合わせていた
イエスはそうした行動が神殿に眼をつけられて捕えられ、反逆者の一人として処刑された。総督のピラトは特に注目せず、事務的に処刑を決めたそうだ(西暦30年前後)
2.革命家イエス・キリスト
史実におけるイエスは、ユダヤ人社会の改変を目指す革命家であり、その先にはローマ帝国からの独立があった。そして、そうした革命家は珍しくなかった
それが「神の子」とされ、より高次で純粋な存在に変貌したのは、イエスを失った信徒たちの復活信仰である。三日後の復活、死者としてでもなく神としでもなく蘇ったというのは、史上例を見ない思想だった
十字の磔に処されるのは反逆者の証であり、「ユダヤ人の王」として否定されたということなのだが、イエスを敗北者にしたくない信者の願いが違う存在に生まれ昇華させたということなのだろう。それでも、この思想は危険視されて殉教者を生んだが、さらなる信仰と結束につながった
イエスの死後、キリスト教団はイエスの弟「義人ヤコブ」に引き継がれて、ユダヤ人ともにローマ帝国各地に広がった。それにともない、パウロのようにユダヤの律法を一切否定し、イエスへの信仰のみを重要視するものが現れる
パウロはヤコブと仲たがいするが、新約聖書の大半はパウロが書いたとされ、重大な影響を残す。ここにおいて、ユダヤ教から生まれたキリスト教はローマ化し、普遍宗教となったのだ
「義人ヤコブ」のキリスト教団は、ユダヤの律法とイエスへの信仰を両立させ続けるが、西暦66年から7年続いたユダヤ戦争によりエルサレムはローマ軍に徹底破壊された
これにより、イエスの革命家像を完全に脱色する必要がなされ、イエスを処刑することを決めたローマの総督ピラトを戸惑う善人として描き、処刑を求めたユダヤ人上流階級を悪に描く脚色なされるようになった
「義人ヤコブ」は非ユダヤ人の信徒に対し、割礼などの律法を押し付けようとしなかった。こうしたキリスト教団の柔軟な生きのこり戦略が、ローマの知的階級を惹きつけて民族を超えた普遍宗教へ発展させたということなのである
*23’4/4 加筆修正
ナナミンの本だとこのあたり→ 『ローマ人の物語 22 危機と克服 (中)』