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『スタンド・アローン』 川本三郎

積み読も今のうちに消化せねば



コメディ、映画、メジャーリーグ、音楽、文学と様々なジャンルで、「わが道をいく」23人の異端児の物語

タイトルに「スタンド・アローン」となっているが、ただ“自立”しているというだけではない。自分の世界を作り、自分にしか従わない、そんな孤高の狼たちの物語なのだ
23人のラインナップも知る人知る人物たちで、一般受けするメジャーな人はあまりいない。あえていえば、『ティファニーで朝食を』作家トルーマン・カポーティ映画監督エリア・カザン『ロッキー』の由来(モデルではない)となったプロボクサー、ロッキー・マルシアーノぐらいだろうか
あの時代にこんな男たちが生きていたのか。そんな驚きに満ちた23篇の人物評、エッセイなのである

国籍でいうとアメリカの人が多く、ヨーロッパはだいたい映画人なので、なんだかんだアメリカに絡んでくる
とりあえず、23人の名を書いてしまおう

W・C・フィールズ(チャップリン、キートンと並ぶ三大喜劇人)

ブランチ・リッチー(ブルックリン・ドジャーズの名会長、黒人メジャーリーガーのジャッキー・ロビンソンを採用)

リング・ラードナー(スポーツ記事の地位向上を促したスポーツライター・作家)

B・トレヴン(映画『黄金』の原作小説を書いた謎の作家。その正体は……)

ハリー・クロスビー(1920年代ジャズエイジの詩人。31歳で心中自殺)

ノエル・カワード(同じくジャズエイジのイギリスで活躍し、アカデミー脚本賞ももらった華麗なる作家)

フランク・キャプラ(ロードムービーの元祖『或る夜の出来事』の監督)

ジョージ・ラフト(マフィアとの交際を隠さない名脇役)

マイク・トッド(超大作『八十日間世界一周』を実現した“山師”プロデューサー)

エリア・カザン(マイノリティを題材にしながら、“赤狩り”で仲間を売った名監督)

マルカム・ラウリー(メキシコで名作『火山のもとで』を書き上げた作家)

ピーター・フィンチ(『日曜日は別れの時』で同性愛役を演じた俳優)

ロバート・ミッチェム(アカデミー賞に喧嘩を売り続けた“バッドボーイ“俳優)

ジャック・ケルアック(ヒッピーの聖典『路上』を書き上げた“ピート”作家)

トルーマン・カポーティ(『冷血』でノンフィクション・ノベルを確立した上流作家)

ゴア・ヴィダル(性転換した女優志望者を描いた『マイラ』を描きつつ、自称“貴族”作家)

サム・ペキンパー(『ワイルドパンチ』などで知られる妥協知らずの“ハリウッドのアウトロー”)

ロッキー・マルシアーノ(49戦49勝!イタリア系のヘビー級絶対王者)

ミッキー・マントル(全盛期のヤンキースを支えたオクラハマ出身の朴訥な強打者)

バディー・ホリー(プレスリーと同時代のメガネの元祖ロッカー)

エリック・バードン(黒人のR&Bに学んだアニマルズのボーカル)

ピエロ・パエロ・バゾリーニ(最底辺の血と暴力にこだわったイタリアの映画監督)

R・W・ファスビンダー(バイセクシャルでパートナーたちや自分すら追い込んだドイツの映画監督)


誰もが個性的過ぎて、何か共通点があるわけではない。あえていえば、家庭人としてまともなのが、ほとんどいないぐらいか。でもそれは、海外の有名人なら不思議なことでもない
自分の思うままに破滅へ突き進んで夭折した人もいれば、体制に順応しながら“王様”であり続けた人もいる。一つ言えるのは、とにかく自分を曲げないということだろう
著者のあとがきに小津安二郎の言葉が引用されていて、「自分の生活条件として、なんでもないことは流行に従う、重大なことは道徳に従う、芸術のことは自分に従う」。これを120%実行してしまったのが、彼らではないだろうか
ここに書かれていることは、WIKIPEDIAでも記述されていないことばかり解説の鹿島茂氏どこかのゴシップ誌までかき集めたのでは言っているが(苦笑)、知られざる噂を含めて、逆立ちしても真似できない人間模様が面白い

『渋沢栄一 下 論語篇』 鹿島茂

身体上の都合により暇になってので、これからは更新が増えそう



日本経済の建設に奔走する裏で、渋沢栄一が描いていたグランドデザインとは?

下巻では、主に実業以外の活動に焦点をあてていく
渋沢は経済人の教育水準を上げるための東京商業高校(後の一橋大学、東京に増える孤児を保護する養育院、そして、日米、日中の対立を回避するための民間外交で、特に晩年は福祉と外交に専念している
それらの活動と起業の発想に共通しているのは、フランスで知った近代社会のシステムを全体から把握して、日本に足りないものを建設していくというものだ
日本の社会と風俗まで洋式化していくことを想定して、「食」では北海道開発もかねて乳業ビール会社(札幌麦酒→大日本麦酒→サッポロ、アサヒ)「衣」では後の東洋紡となる紡績会社群に、製麻・毛織・製帽や皮革産業まで関わっていく
「銀行からリボンまで」渋沢の資本と意志が働いているのだ
「住」に関しては、東京の田園調布(大田区)に由来となる「田園都市」の構想を起こしていたが、周囲の無理解や関東大震災もあって挫折している
渋沢自身は利殖というより、社会の必要性において行動するが、他の人間がそれに同調するとは露ほども思っていない。福祉政策にも「儲け続けてたければ、損して得とれ」のリアリズムに訴えて、周囲を動かしていった

渋沢が取り組んだのは、ただ日本国内ことだけではなかった
日本とアメリカは日露戦争の裏側で「桂-タフト覚書」によって、日本の朝鮮半島とアメリカのフィリピンを相互に干渉しないことを確認するなど、協調を基本としていた
が、1905年にカリフォルニアで排日運動が火を噴いた。アメリカの移民排斥は伝統的に人手が余ったときに白人の雇用、賃金が抑制される原因としてやり玉が上がるためだが、排日運動に対してはメディアも加わって燃え上がっていく
桂内閣の外務大臣・小村寿太郎は渋沢へ、アメリカの世論を鎮静化するため日米財界人のパイプ役を依頼。渋沢は当時としては高齢の古希(70歳)でありながら、アメリカの政財界のみならず、排日運動家にも接触をはかった
その後、第一次大戦で改善されたかと思いきや、シベリア出兵や対華21ケ条要求で日本の帝国主義が警戒されたりと山あり谷あり。1926年にはアメリカ人の牧師が始めた、日米の子供の間で手製の人形を交換する「人形プロジェクトが、アメリカ国民に親日感情を大いに盛り上げた
日本側の人形受け入れでは88歳の渋沢がアメリカ大使と立ち会うこととなり、大正天皇の喪中ながら日本でも大変な注目を集めて、大成功を収めたのだった

フランスへの外遊で大きな影響を受けた渋沢だったが、その根っこにあるのは少年の頃に植え付けられた「論語」だった
だからこそ、妻妾同居をはかるなど前近代的な倫理観をもっていて、後妻の兼子からは「論語とは旨いものをみつけなさったよ。あれが聖書だったら、てんで教えを守れないものね」と嫌味を言われてもしている(苦笑)
もっとも、それで女性蔑視とみなすのは一面的で、最初は女性の教育は賢母のためのものと見なしていたものの、男勝りの能力を誇る者がいればそれを妨げるべきではないと、ある程度柔軟に考えていた
渋沢家の家族形成に関しても、明治の家系らしからぬ柔軟性により、権門へ娘を嫁がせるのではなく、あくまで青年の将来性を重視。自分の閨閥ではなく日本の社会経済に資することを見越して、婚姻関係を作っていく
四男・渋沢秀雄による伝記からの引用で、伊藤博文が渋沢夫人の兼子に悪ふざけをし、美しい芸者を連れて馬車で帰る場面を中学生のころは憤慨し、10年後に羨望(!)に到ったという記述がよくも悪くも渋沢の時代の余裕が感じられた

上下巻を総括すると、渋沢は単に日本経済の建設者ではなく、社会全体のグランドデザイナーである。太平洋戦争で明治の国家は瓦解したが、渋沢の残した遺産が戦後の日本を経済大国に押し上げたかのようだ
ただ現代だと渋沢のように、「無私」で経済運営に取り組む人はいないし、期待するのは現実的ではない。せめてその精神に学んでいくしかなさそうだ


前巻 『渋沢栄一 上 算盤篇』



『渋沢栄一 上 算盤篇』 鹿島茂

大河ドラマのハンドブック



日本型資本主義の源流は、19世紀のパリにあった! 近代日本経済の父といわれる渋沢栄一の淵源をその出生から遡る

大河をやっているうちに読むべきであった(苦笑)
渋沢栄一は一橋家の家来として徳川慶喜に仕えて、パリ万博の随員となり、維新後は大蔵省に出仕して、さらには下野して実業家として多くの事業に関わり、今の日本経済の基礎を築いた人物だ
江戸時代から続く同族経営ではなく、民間から資本を集めた「合本会社」(株式会社)による近代経営を定着に尽力し、私利の追求が公益に通じる経済の実現を目指した
本書では、『青淵百話』『雨夜譚』といった渋沢自身の証言を引きつつも、フランスにおける銀行家フリュリ・エラールとの交流に着目。エラールの子孫とも連絡を取り合って、サン・シモン主義者フランス資本主義の発展に関わったことに触れ、そのエッセンスが渋沢栄一を通して日本の経済システムを注がれたことを証明していくのだ

まず、サン・シモン主義が近代フランスで果たした役割とはなんだろうか
イギリスが産業革命を独走したのに対して、1830年代までフランスは後塵を拝し続けてきた。それを一気に挽回したのが、サン・シモン主義による金融制度の確立だった
それは渋沢がパリを訪れた1867年から遡ること、たった15年。ナポレオン3世によるクーデターの翌年、1852年にペレール兄弟がクレディ・モビリエ銀行を設立したことに始まる
クレディ・モビリエ銀行手形割引の市場整備に、産業育成、インフラ整備を株式購入や貸し付けによって助けることであり、ときには貸付先の経営にも介入。他の金融機関への融資を行って、今の中央銀行の役目も果たした
サン・シモン主義はマルキシズムとは違い資本家と労働者に壁を作らず、会社の経営者、技術者、労働者をまとめて「産業人」として社会の主役であるとする
そうした大小の「産業人」の資金をかき集めて、小川の流れを大河とするのが近代の銀行の役割であり、フランスにおいては鉄道、ガス会社、馬車会社、炭鉱、保険が一気に整備されていく。とくに鉄道においては、1851年から1870年の間に営業距離が5倍にまで拡大し、どの方面の他国にも鉄道で到達できるようになっていた
サン・シモン主義の流儀は後進国が一気にインフラ整備を成功させる絶好のモデルケースとなり、それを渋沢は日本に持ち帰ったのだ

渋沢は攘夷主義者としてスタートしながら、一たび日本を離れるや、すぐに欧米の習慣を理解した。パンとバターの朝食に、ブドウ酒、デザートのアイスクリーム……多くの日本人がとまどう洋食にも違和感なく適応してしまう
なかでもフランスで一番感銘を受けたのは、軍人や行政官と経済人が普通に交流しているところ。江戸時代の日本では、儒教的価値観から商人は卑しまれる存在であり、幕府の役人に商人が堂々と話し合うなど一般的なことではなかった
家業である藍玉の販売に精を出していた時代、役人に苦しめられた渋沢には、理想的な光景に映った。維新後にも、政府=「官」と五分で渡り合う経済人=「民」の確立こそが、渋沢のポリシー、目標となっていく
幕府瓦解を受けて帰国した渋沢は、最初は蟄居した慶喜の面倒を見るべく、一橋家の殖産に関わるが、大隈重信に丸めこまれる形で大蔵省へ出仕し、廃藩置県の実現のために「円」を単位とする貨幣制度を定め、米の流通を助けるために鉄道を整備、金を元手にした兌換紙幣を可能にする国立銀行の設立に尽力する
しかし、従来からの大商人の三井や、独占にこだわる三菱の岩崎弥太郎の手法に不満をもった渋沢は、理想の「民」を作るために自らが民間へと転じて、実業家の道を進むこととなる

三井の番頭・三野村利左衛門や岩崎弥太郎に比べて、経営者として優れているとはいえなかったが、フリュリ・エラールにレクチャーされたとはいえ、短期間にフランスを視察したのみで事物の関係性を見抜き、その背後にあるシステムを理解することに長けていた
フランスのクレディ・モビリエ銀行のように、渋沢は日本の近代化に必要であった保険事業(東京海上)、郵船会社、製紙事業、ガス、電力……を次々に展開していく
「民」の地位を引き上げる鍵となるのが株式会社。大小の民間人が「銀行」に貯蓄し、「銀行」が企業へ出資、あるいは株券を発行して資金調達して「株式会社」を作る。こうして生まれる「株式会社」こそ、民間人が束になった強い「民」。株式取引市場の整備も果たしていく
面白いのは、原則として自由競争を認めつつ、三菱の海運独占に経済戦争を仕掛けるなど渋沢個人はそれを規制するように動き、自らも利殖に励まなかった。本来は大蔵省や財閥に人脈があり、金融市場の創設者となれば、莫大な利益を上げることも可能だったが、渋沢はそうはしなかった
著者はそれを市場における‟せり人”に喩える
資本主義経済が回っていくためには、市場における‟せり人”のように自分の職務に忠実な人間も必要不可欠である。そもそも経済学がアダム・スミスの「神の見えざる手」が自然に現れるとせず、人為的に作り出そうとするものであり、渋沢の活動はその仕組みを日本経済に生み出そうとしていたのだ
下巻では、渋沢が作り出した日本の近代経済が動くなか、何が社会に足りないのか、問いかけられることとなる(はず……たぶん)


次巻 『渋沢栄一 下 論語篇』

『吉本隆明1968』 鹿島茂

再び、肉体労働者に復帰。帰宅後はぐったり



団塊世代が吉本隆明を支持したのは、なぜだったのか。初期の作品からその魅力を探る

「吉本隆明の偉さというのは、ある一つの世代、具体的にいうと1960年代から1970年代までの10年間に青春を送った世代でないと実感できない」
そんな会話から始まる本書は、著者が大学時代に遭遇した1968年の吉本体験から、その衝撃と真髄を語るものだ
自身が「吉本主義者」になった理由として、吉本隆明との共通点、下町の下層階級の子から「一族最初の大学生」となるという世代論から展開され、『高村光太郎』など吉本の論考にもそうした視点があって、大衆から知識人に到達したときにおこる問題が主要なテーマになってくる
大衆とはなんなのか。知識人はなぜ大衆を指導したがり、失敗するのか。そこには今における日本のリベラル(?)の敗北にも通じるものがあるのだ


1.スターリズムの利用主義・功利主義

吉本隆明の功績として、まず挙げられるのがスターリニズム批判。冷戦が終わっても、全体主義の妖怪は人間社会のなかで機をうかがっているという
吉本が小林多喜二『党生活者』などで批判するのは、革命のために身近な人間を利用する「技術主義」「利用主義。プロレタリア文学の主人公たちは、革命に従事する人間と世間の人間にを分けて考え、世間の人間を利用することを大義のためによしとした
吉本は世間の人間を馬鹿にする登場人物たちを「人間の屑」と断定し、「人を管理するコツ」といった‟わい本”にもみまがう低劣な人間認識と批判する
著者はこれを左翼運動だけに限らず、何が人間を「堕落」させ「屑」にしていくかといえば、それは人間を、「大義」のために利用する道具として見なさない「技術主義」「利用主義」にあり、人は弱さによって堕落するのではなく、利用しようという魂胆によって堕落する、とする
こうした発想は現代にも生き延びており、左翼政党やそれに同調するマスコミが「腐敗したブルジョア」を叩くために、「額に汗して働く、報われない労働者」を持ちだす構図で利用されている
マスコミたち自身が高給取りである欺瞞しかり、その発想が生み出す引きずり下ろし型民主主義は、抜け駆けを許さない相互監視、超低次元のユートピアを生み出しかねない。それは今の北朝鮮、戦時の日本型ファシズムにも通じるものなのだ


2.共産主義者の転向と封建意識の目覚め

大戦前後を巡る知識人の変転も大きなテーマとなる
なぜ戦前の共産主義者が「転向」したのか。吉本はそれを当局の弾圧・拷問に屈服したと見なさず、民族主義に染まった大衆との隔絶から来る徒労感をあげる。具体的には、佐野学と鍋山貞親の「転向」は、コミンテルンによる敗戦革命を命じられたことへの反発だった
日本の近代社会は、西欧近代の要素と土着の封建遺制が絡み合ったまま成立しており、知識人は「自己疎外(自分をはぶいた?)社会のヴィジョン」と「自己投入(自意識過剰?)した社会のヴィジョン」のギャップに苦しむ。そして自分のなかの封建遺制を発見して、「転向」していくのだ
吉本はこうした転向者を単に非難せず、自分のなかに封建意識が分かっただけ、意識しない人間よりマシとする

著者によると、日本社会の実態、封建意識を無視する知識人は「無日本人」。共産主義のみならずく、例えばジッドやサルトルなどの文学をフランスの風土で生まれたことを無視して万国共通な論理的記号として、日本社会を語ろうとする。この「万国共通な論理記号」を流行の用語に入れ替えていくと、現代にもこの手の知識人(というかコメンテーター)がはびこっていることが分かろうというものだ
吉本は獄中の共産主義者たちの「非転向」をむしろ批判し、現実に何が起ころうとイデオロギー内の論理を回したに過ぎず、日本の封建遺制との対決を回避したとする


長くなった
他にも政治的文脈に使われる芥川龍之介の自殺高村光太郎の『智恵子抄』から戦争協力、そして、「四季派の抒情詩人」たちの戦争詩天皇制とウルトラ・ナショナリズム誕生への論考と、考えさせられることばかりだ
吉本にとっての「大衆」とは、自分の身の回り、生活の範囲しか社会と関わらず、小さい幻想の領域でしか考えない反面、封建制の優性も併せ持つ
大半の人間にとって、大衆とインテリの葛藤など意味を持たないと思われるかもしれないが、大卒者が溢れ誰もがネット端末を手に持つ時代となれば、誰しもが陥る問題ではないだろうか。意識高い系の状態に陥っていれば、ど真ん中のストライクである
初期の論考にはマルキシズムの影響は抜けきれないが、吉本隆明は主義者ではない。インテリ信仰があった時代、自分の心のなかに「下町の親父を飼っており、倫理のバックボーンとしていたのだ


*23’4/5 加筆修正

『悪女入門』 鹿島茂

小説のタイトルは、だいたいファム・ファタル自身


悪女入門 ファム・ファタル恋愛論 (講談社現代新書)
鹿島 茂
講談社
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男を破滅させる究極の悪女、ファム・ファタル(=運命の女)」とは何者なのか。バルザック、デュマ・フィス、フロベール、ゾラ、プルーストといったフランスの文学作品から男女の機微を分析する
フランス文学を専攻する著者が女子大で教えていた関係から、講義内容から恋愛指南できないか考えていたところ、雑誌の連載向けにリライトされたのが本書。女子大生に対して、ファム・ファタルの誘惑術を授ける、悪女入門という体裁で書かれている
ファム・ファタルのやり口が実際の恋愛に役立つかは微妙なところ。ファム・ファタル自身が恋愛の地位が高いフランスの社会だからこそ、生まれでた存在であり、他の社会の価値観だと単なる悪女に映ってしまうのだ
往年のフランス文学を元にしているだけあって、「男はこう、女はこう」と規定する形で語られるので、今の若者には違和感を覚えるかもしれない。それでも男が女のどこに惹かれるのか、丹念に分析されているので男心への理解は深まるだろうし、何よりもフランス文学が読みたくなってくる

本書では十作の小説から、それぞれのファム・ファタルが紹介される。面白いもので、同じタイプの悪女は誰一人いない
悪女というと、色気むんむん、本音むきだしで男に迫るイメージがあるが、フランス文学に出てくるファム・ファタルは、積極性一辺倒でもない
『マノン・レスコー』に出てくるマノンなどは、むしろ健気さを装って男を釣り、清純なイメージを保つ。男に合わせてその幻想を守るのも、ファム・ファタルのやり口なのだ
『カルメン』のカルメンは、相手が口説きたいときに距離を置いて焦らし、諦めかかると近寄るプロの悪女。古代のカルタゴを舞台にした『サランボー』のサランボーは逆に天然のファム・ファタルで、処女で何も知らない“鈍感さ”が自然と男を誘惑する「カマトト娘」
まさに十人十色なので、創作で悪女キャラを考えるときの助けになるのではなかろうか

ファム・ファタルの中でも最強と思われるのが、ゾラの小説『ナナ』に出てくるナナ
ナナは両親(小説『居酒屋』の主人公夫婦)がアル中で早逝し、風俗の世界に身を落とす。暴力男のヒモになったり、レズビアンに走ったりと遍歴を繰り返しつつも、途中で世の男どもに復讐しようと「ファム・ファタル」へと生まれ変わる
ナナは数多くの客=愛人を抱え、その客の金を搾り取っては得た金を蕩尽し続ける。作者はその様を、経済学者ヴェルナー・ゾンバルトが唱えた「男女の欲望=贅沢」が近代資本主義の源となる説を実証するものとして、ナナこそ「近代資本主義」の象徴とする
労働によって富が生み出されたとしても、生活の必要以上に富が貯蓄されてしまうと、その富は行き場を失って人間を振り回してしまう。金持ちは余った金をナナに注ぎ込み、ナナはそれを使い倒すことで富が循環していく
「ファム・ファタル」の条件その1は男を破滅させることで、その2は意外にも金銭に執着しないこと。男から奪った金で店を持つ女などは、単なる悪女に過ぎない
しかし、ナナは勝利者とはいえない。近代資本主義の全てを消費されていく構造から逃れられるものはなく、ナナそのものは最後は消耗して病死する
男を破滅させるファム・ファタルには、自身の破滅も宿命づけられているのだ

『セックスレス亡国論』 鹿島茂

こういうネタは読むのも早い

セックスレス亡国論 (朝日新書)セックスレス亡国論 (朝日新書)
(2009/07/10)
鹿島 茂、斎藤 珠里 他

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出生率が激減する日本で、いったい何が起こっているのか。性の視点から今の世界を捉えなおす
性に関する著作が多い仏文学者・鹿島茂を、セックスレス問題を追いかけるジャーナリスト・斎藤珠里がインタビューする形で、性の現状、歴史が語られる
対談形式でありある程度は引用元が参照されるものの、すべてが統計的なデータで裏打ちされたものではなく、推測と仮説が部分は多い
しかし、仮説だからこそ、大胆に踏み込んだ世界像が導き出され、ひとつの真実に達しているように思えた
性を論じることは人間の本質を論じることであり、本書はあらゆる学問の前提を揺るがす力を持っている。まさに性典である

目から鱗だったのは、人間は「豊かさ」を欲望するのではなく、「面倒くささ」を無くそうとする欲望が強いという指摘
現在の資本主義は第三次産業=サービス業の比重が高いわけだが、その実質は「面倒くさいことの代行業」によって成り立っている
物不足が解消された状況では、豊かさより「便利」になることが社会のベクトルであり、面倒くさいことを省く方向で産業が発展していく
子育て、育児の産業化に続いて最後に残された領域は、セックスと恋愛であり、今の産業社会の構造そのものがセックスレス、少子化を助長しているというわけだ
なぜ、セックスが面倒くさいのか?
まず原理的に男と女では求めるエッチのポイントが違う「性の非対称性。男は出せばオーガズムを得るが、女はそうはいかない。男はあえて女のために奉仕せねばならない
もう一つは恋愛の自由化
自由であるがゆえに、エッチにこぎつけるまでの前段階が複雑になり恋愛のハードルが上がった。多くの男性が必然的に非モテ状態に陥り、エロ産業を利用するに到っているというわけだ
この問題は二次元に耽溺する人間に留まらず、エロサイトを利用する幅広い層に当てはまるだろう
複雑なのは、「面倒くささを無くす欲望」と今の資本主義が不可分に結びついていることで、誰かが怠けたいと思わないと産業が回らない構造になっている

本書では、共同体が健在だった時代の風習が再評価される
前近代の宗教社会が課す禁欲は、人が怠けたいと思う欲望、男性ならオナニーでもよしとする怠惰さを封殺する役目を果たしており、人を生殖に仕向け共同体を存続させる役割を果たしていた
日本において宗教の縛りは少ない代わり、「若衆宿」や「夜這い」で若者たちは性に対する流儀を学び、セックスへのネガティヴイメージを無くした。近代以後の「お見合い」は恋愛要素にも配慮した形態であり、女性が何十人と断っても問題にならなかったし、その構造は60年代の「ダンスパーティー」に引き継がれた
もっとも、この時代は欲望が素朴だったこともあり、結婚に対する動機が経済を除くと男女とも「セックス」だったという身も蓋もない事情があるのであって、そのまま処方箋になるわけでもない
本書においては、少子化=亡国という前提で話が進められている
セックスレスの割合が多いのは不健康かもしれないが、日本が人口過多であるとするならば少子化が悪とは言い切れず、「面倒くささ」を省く構造もある種の役割を果たしていると見なすこともできる
ここは意見の分かれるところだろう

『セーラー服とエッフェル塔』 鹿島茂

官能小説じゃありませんよ

セーラー服とエッフェル塔 (文春文庫)セーラー服とエッフェル塔 (文春文庫)
(2004/05)
鹿島 茂

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『オール讀物』で連載されていたコラムを加筆修正した、仏文学者鹿島茂のエッセイ
『セーラー服と機関銃』に模したタイトルなのだが、セーラー服とエッフェル塔を具体的に関連づけて語られているわけじゃない
扱っているネタは、食欲、性欲とその周辺の事々が中心で、非常にミニマムな部分へのこだわりから始まる
「亀甲縛りの由来は何なのか」「フランス人はなぜイギリス人を牛食いといい、イギリス人はフランス人を蛙食いと言うのか」「ヴェルサイユ宮殿にはなぜ便所がなかったのか」「人間はなぜおっぱいを愛するのか」、果ては「ナポレオンの肖像画はなぜ片手で腹をさすっているのか」なんてことにまで
神は細部に宿る、小さな事象から当時の社会事情、現代に通じる哲学が語られる・・・とは限らないのが本書のいいところで、本能のおもむくままに胃袋とエロ魂と知識欲を満たすことができる

いちばん振るっているのは、最初の亀甲縛りの項だろうか(笑)
まず、亀甲縛りは西洋のSMでは見られないことからはじまり、欧米系SM=革・鞭=動物系日本SM=縄・紐=植物系とより分け、家畜中心の欧米と農耕中心の日本と対比する
しかし、ここで終わっては、下部構造(物質)から上部構造(精神)を規定して唯物論すぎるとして、SMの精神性に注目
この点、欧米系のSMは分かりやすくて、S=御者、M=馬が当てはまる。しかし、日本のSMは支配・被支配の関係では捉えきれない
コラムニストの中野翠着物の着付けは女性のM感覚に通じるとしたところから、団鬼六にぶつけてみたところ

団 おっしゃるように日本のSMは帯。豆絞りの猿ぐつわをしたところに黒髪がはらりと流れるエロティシズムです。西洋の猿ぐつわはギャグといって、革でしかも玉がついているから声がでない。反対に声が出ないよう猿ぐつわをしたところで、何かの拍子でゆるんで『助けてーっ』と声が漏れるのが何ともいえん日本のエロティシズムやと思うんです(p16、プレイボーイの対談からの孫引き)

団鬼六によれば、日本には二つのSMの流れがあり、団が影響を受けた東京・ソフト緊縛派の美濃村晃一と、大阪・ハード緊縛派の辻村隆がいて、辻村は亀甲縛りの縄師として知られていた
著者は辻村隆が陸軍の輜重兵を経験していたことから、女性の縛り方にも兵役時代の技を生かしたとして、「亀甲縛り=米俵説」を唱える
しかし、この仮説は後日、覆される。発覚の経緯と類推の反省が加筆されているので、それは読んでのお楽しみ

本書に書かれていることは、ほとんど「仮説である
文献にこう載っていたで済ませているところもあるし、関係者に聞く人脈も時間もなく無理繰り立てているところも結構ある
それでも関心しながら読めてしまうのは、トリビアに対する飽くなき探求心であり、真実に対する誠実さがあるから。間違いは亀甲縛りの項のように即訂正するし、セーラー服普及の過程人間が男根の大きさを求める理由にも全力投球なのだ
そして、なおかつ文学者らしい、テンポのいい文章力。僕もこういう文章でブログを埋め尽くしてみたいが続きを読む

『妖人白山伯』 鹿島茂

本書には、ガチホモ成分を多数含んでおりますので、ノンケの方は用法・容量をよく確認のうえご覧下さい(笑)


妖人白山伯 (講談社文庫)妖人白山伯 (講談社文庫)
(2009/03/13)
鹿島 茂

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維新後のパリ日本大使館。後に総理大臣となる原敬の前に謎の紳士が現れた。男の名はモンブラン伯爵(漢名・白山伯)。幕末に日本とフランスを股にかけた伝説の大山師で、過去の経歴を生かして最後の大勝負に出ようとしていた。原敬はモンブランの手玉にとられながらも、その真意を探ろうとするが・・・

幕末の日本と諸外国で暗躍した実在の策士を描く歴史小説。冒頭に山田風太郎に捧ぐとあるように、風太郎の明治ものを意識した小説で、実在の人物、またその子弟を絡めて、史実と想像が違和感なく混ざり合っている。読んでいけばいくほど、どこまでが史実か虚構なのか分からなくなってくる構成なのだ
いわゆる史実の隙間を想像で埋めたという程度ではすまなくて、隙間の出来事が史実の解釈をひっくり返してしまう(!)ほどである
そんな馬鹿な、と思っても後で、モンブランが回顧録を書く話が出てくる段には、幕末の話はモンブランの法螺という解釈ができるようになっていて、さらに真実がなんだったのか分からなくなってくるから困る
娯楽小説としては、最後の対決が理性的過ぎて盛り上がりにかけたが、そこにたどり着くまでにモンブランの武勇伝と作者の博識に飽食気味なっているので、ちょうどいい締めに思えた
本当に上手い落語を聞くとオチがどうでもよくなってしまうのと似た感覚

冒頭にも注意書きを置いたが、この本はガチホモだけではなく、ありとあらゆるエロが横溢している
普通の作家だといかにも過激な演出を誇示したように描いたりするところ、本書は日常の延長でひょいと自然に非日常的な空間を作り出してしまうのが凄い。いきなり道端を歩いている人にイチモツを見せられたような勢いなのだ
棚からエロというノリなのだが、これはこれで当時の風俗の感覚に近いとも思う。今の我々から見て過激に感じることも、昔のある場所は敷居が低かったのだ
こういう時代の空気を自然に描いてしまうところは、さすがはフランス文学とエロの第一人者である
蘊蓄ばかりの歴史小説は頭でっかちで入りにくくなるが、エロの世界を踏まえたことで読み手の心身に直接に訴えてくるものになっている。いや、分かってらっしゃる

解説の人が指摘しているように、日仏の著名人が史実に沿って姿を現わすのが面白い
アナトール・フランスボードレールシーボルト高橋是清大久保利通黒岩清輝・・・と数え上げればキリがない。そういう人間たちが大胆にモンブランと絡ませるのだから、歴史小説好きとしてはもうたまらない
一番驚かされるのは、ふらんすお政」のお色気無双だろう。あれこれといろんな男性と関わりをもって、最後は井上馨夫人におさまる(!)
明治の元勲の夫人って、芸者上がりで出自が怪しい人が多いから、ありえなくもないんだよねえ

『平成ジャングル探検』 鹿島茂

最近はセックス関係の著作が多いようで

平成ジャングル探検 (講談社文庫)平成ジャングル探検 (講談社文庫)
(2007/05/15)
鹿島 茂

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雑誌「現代」(「週刊現代」ではない)で連載されていた盛り場ルポ銀座歌舞伎町渋谷といった東京中の盛り場という盛り場を巡りつつ、その成り立ちから今日までの栄枯盛衰を振り返える
ただ学術的に歴史を追いかけるだけでなく、大学教授たる著者が自ら盛り場に繰り出し、果ては編集員からなる“挺身隊”(笑)がピンサロ、デリヘル、ソープランド等の性風俗に突撃!
著者の実体験と精密な歴史考証、果敢なフィールドワークが歓楽街の正体を暴く

12の盛り場のルポから浮かび上がってくるのは、街とはその成り立ちにおいて根本的な気風が規定されるということ。その気風が時代の潮流と合った時には盛り場が興隆し、遠ざかれば衰退する
カメレオンのように年代ごとに対応する街もあれば、硬直して和やかに寂れる街もある
戦争や都市計画など構造そのものを大きく変わる出来事がなければ、こうした気風はなかなか変わらないようなのだ。著者は土地に引き継がれる気風を「地霊」と表現する
新橋の雑居性は闇市に由来があるし、六本木に外国人が多いのは進駐軍が陸軍の施設を接収したことに始まる
赤坂の特徴は「地方性」で、江戸っ子には二流の歓楽街でも地方人には一流に見えるからとか、まさに卓見。だからこそ政治家が暗闘する舞台になったり、TBSのビルが建ったりするわけだ

はっきり言って向こうの盛り場には行ったことがないので、なんともいえない(関西の方だってそう経験はない)
それでもその土地々々で起きた事件などを思い起こすと腑に落ちるところも多かった
ただ、これは1998年から2002年までのルポであって、その後石原都政による風俗取り締まりもあり、現在の様相とはかなり違うそうなのでご注意を(何の注意だ?w)

『SとM』 鹿島茂

週刊ゴラクのエロマンガではなくて

SとM (幻冬舎新書 か 6-1)SとM (幻冬舎新書 か 6-1)
(2008/03)
鹿島 茂

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フランス文学専門の鹿島茂の新書。『怪帝ナポレオン三世』の印象が強くて、こういうネタに触れるとは意外だ。でもよく著書を見てみると、この手の本もいくつか出していたよう

SMのルーツとして、著者はキリスト教文化を起源と見ている。いわばキリスト教の「荒ぶる神」がSで、信者はM。キリスト教がヨーロッパに広がる過程で、ケルト・ゲルマン人の宗教の影響を受け、この度合いが強くなったという
近代に入り「荒ぶる神」の影響が薄くなると、サド侯爵のように神に代わってSを演じようという人間が現われたとする。神に代わって人間が人間を指図するSは、近代の産物なのだ
時代を経るごとにSとMの補完関係が整えられ、『カルメン』『ユリシーズ』などのM小説が生まれるに到ったとする。SM文化の成熟は近代社会の成熟と期を一にしているというのだ

面白いのが、西洋のSMが「鞭」を振るうのに対し、日本のSMは「縄」で縛るというところ。西洋の「鞭」は牧畜文化からで、日本の「縄」は着物(米俵?)から来ていて、神との支配・被支配がない日本人は自らを縛ることで羞恥のエロチシズムを感じるという
西洋のアダルトショップには制服はなく、日本にありふれていることも自己拘束の願望が現われていると指摘している

第一章でSMは本来、双方向な人間関係だとアピールしたいあまり、エロマンガ、エロアニメを支配欲望のオナニーと断罪としているのはどうか。しかも、それを現実の猟奇事件とつなげている
色物メディアと実際の人間関係とは別の尺度で見るべきだ。SM小説の中にも作者のオナニーにしか見えない作品は多い。サド侯爵の作品だってどうだろう
他にもSとMの要素で歴史や国家を有り様を語ったり、脱線しているところがある。そのあたりは笑って済ませるところかな
少女マンガが『源氏物語』系と『枕草子』系に分かれるとか、ほんと大ざっぱw
全体としては面白い。次は、このテーマをじっくり詰め込んだ単行本を期待したい

*2012’5/27 再編集
 学問的なものでなく、自由に「仮説」を立てているので、カテゴリーを「エッセイ」に変更した
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